1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #205 社内運動会は必要?バタ..
2024-04-14 48:46

#205 社内運動会は必要?バタイユ的に判断するとこうなる

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。
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Summary

バタイユの哲学を一般化し、智と非智の関係について考察しています。経済の領域では値段がつけられないものは無価値になるか公のものになります。宗教も地の領域であり、神秘体験は非地の体験であり非知の領域に属します。バタイユ的には、非知の領域を言葉にすることや未知のものと出会うことの難しさ、そして生き方や人間の精神状態について考察しています。バタイユは否知と未知の領域について話し、異端な意見や異文化交流による新たな発見を重要視する姿勢を示しています。社内運動会は必要であるか、バタイユ的に判断するとこうなります。

智と非智の関係
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、前回はバタイユの盗人ということで、単なる熱中するとか、まあそういうレベルとはちょっと違う、次元が違う話を聞いてきたというところでした。
そうですね、ちょっとこれまでも言ってきた、バタイユって逆説的な哲学を練り上げるみたいなことを結構若いうちから言ってたよとかってあったと思うんですけど、
まさにこの西洋哲学って、ある種理性、人間の理性とか知性みたいな、そういうものを使って世の中をある種制御していくので、
発想があった中で、むしろそもそもその理性っていうもの自体が、まあ人間の手に負えないというか、制御できない、暴れてるものだぞって発想があって、
だからこそ、ただものをね、例えば消費するとか捨てるっていうことも、ただただ消費し尽くすとか捨てるために捨てるみたいなことってできるのかみたいな話を前回、
東人っていうテーマの頼りに伝えてきたかと思うんですけど、今回まではね、結構その経済っていうものの中でバタイユの考えをちょっと見てみようっていうところから話したと思うんですけど、
前も言った通りバタイユってそれ以外のこともいっぱい言ってるんですよね、社会とか歴史とかね。
幅広い中でその経済学ってものを取り上げたって感じだもんね。
そうですそうです。なのでちょっと今回はその復習とかもしながらも、もうちょっとそれを一般化して、よりちょっと哲学らしい話をしようかなと思っていますと。
なので、かなり抽象的な話も多いので、ちょっと難しいみたいな、久々に感じるかもしれないんですけれども、ちょっと楽しんでいただけるようにお話ができたらいいのかなと思っていますと。
で、ちょっとこれ前回まで以上に、いわゆる日常の役に立たない話をするんですよ。
まあいいんじゃない?哲学らしくって言うじゃない?
そう、哲学らしくって言ったらあれなんですけど。で、何でかっていうと、また後でちょっと話すんだけど、
これってそのロジックで全て考えたっていうよりも、バタイユのいわゆる神秘体験っていうか、いわゆる下達チックな、
こういう瞬間にこういうことを感じて私は考えたいってことが結構あるんですよね。
ああ、そうな。ちょっと宗教の方に足を踏み入れてるというか。
面白いのは、宗教なんだけど、宗教を超えた体験をするという感じなんだよね。
まあ確かにバタイユとか旅行の人だとカトリックがフランスだから。
そうね。
元々そういう精神というか価値観的なのはあるんだもんね、おそらくね。
そう、どっぷりハマってて、それを乗り越えとかしてるみたいなこともやっぱあったみたいなんだよね。
あ、そうなの?
そうそうそう。
へー。
なのでちょっとその辺りまた話をするんですけど、そういうちょっとロジックがやっぱ凍えているので、
まあ難しいと感じてもそれは当然というか、そういうふうな話をこれからするんだなっていうふうに思って聞いていただけるといいのかなと思っていますと。
はいはい、なるほどなるほど。結構は論理で何かを積み上げていくっていうよりは割とお閃き的な話も出てくる。
そうそうそう、ちょっとね直感的な部分もあるんで。
うん、わかりました。
はい。で、前回もね、普遍経済学とか東人っていうキーワードがあったと思うんですけれども、
えっと今回のキーワードは、非智。
智は何々あらずだね。非常時代とかの智に、智は知識の智ですと。
ほうほう、それで非智ね。
うん、智にあらずってことなんですけど、
うん。
いわゆる哲学ってやっぱりまさに智を、知識とか知見とかっていう智を積み上げていくとか、正しい智を得るみたいな営みだと思うんですよね、イメージとして。
うんうん、そうね。
値段がつけられないものの扱い
なのでやっぱそれに対して、非智っていう智にあらずみたいなことを言うのが、そもそも逆説的なんですみたいな話なんだけど。
うん、じゃあその智と非智の関係って何ですかっていう話をちょっと今日ね、述加していきたいんですよね。
はいはいはいはい。
はい、まあいきなりちょっと抽象だと思うんですけど。
まあそうね、しかも何の話、何に繋がるんだっていうと謎のね。
はい、ちょっと久々にね、そんな感じで言っていくんですけど、すごいね、ざっくり言うと、智の領域と非智の領域の両方がありますよね。
うんうんうん。
で、智の領域っていうのは、いわゆる予測とかね、計算ができるものだよねっていうふうな話があるんですよね。
うん。
で、例えば前回までの経済みたいな話で言うと、そういうことで100円払ったら100円の価値のものがもらえるっていうのがまあまあ予測ができるじゃないですか。
うんうんうん。
で、計算もできるし、当然で1000円のものが欲しかったら1000円用意したらいいじゃん。
逆に言うと、1000円のものを100円で買えないよっていうのが経済の領域ですよね。
うんうんうん。
っていうのはある種合理的だし、予測もできるし、そういった智の領域に属しています。
はいはい、そうだね。
で、思ったときに、ここでちょっと考えてほしいのが、値段がないものとか、もっと言うと値段がつけられないものでどう買いますかみたいな話をちょっと考えてみてほしいのね。
なるほど、本マグロとか。
普通の値段つけられないよ。
お寿司屋さんの本マグロ直みたいな。
直はさ、直っていう値段がついてるじゃん。今はそのときの値段で出しますよってことじゃん。
そういうレベルじゃないと。
そういうレベルじゃなくて、例えばよくあるのは空気とかね。いい空気には値段がついてるかもしれないけど、酸素ボンベとかあるからね。
空気に税をかけようとした人もいるけどね。
そうなんだ、そんな人もいるんだ。補給するだけ税金取られるんだ。
フランスでね。それこそフランスで。バタエーと同じ。
シルエットあってか、それこそね。有名な話であるよね。
知らなかった、それ。
昔、税金が足りないと、税制が厳しいと言うときに、王様が部下に何とかしろと、税金取ってこいと言うときに、いろんなものに税金かけて。
なるほどね。
少しでもね、王様命令に従おうと頑張ってたんだけど、もうついに空気にまで税金をかけようっていう話をしたときに、
いや、それないだろう。さすがにないだろう。
なるほどね。一線越えちゃったんだね、そこでね。
そうそう。何線も越えてるだけよね、その時点で。
確かに。そういうのもある。
まさに空気みたいな、生存にとって当たり前のものを、経済の領域とか地の領域に入れ込むみたいな話だと思うんですよね、この文脈で言うと。
だからさっきの話で言うと、そもそも値段がつけられないっていうものはさ、いわゆる買うとか売るとかっていう、システムの中に入ってこないですって話なんだよね。
はいはいはいはい。
なので、経済っていうシステムの中から見ると、値段がつけられないものっていうのは、それこそ無価値になるか、あるいはね、それこそ空気みたいに公のものになる。
要はみんなのものだから別に値段がつくとかつかないとかじゃないよっていう風になるのはどっちかしかないと思うんだよね。
はいはいはい。
つまり、経済っていうシステムを考えたときに、値段がつけられないものっていうのは、いわゆる経済の地の領域では扱えないものになっちゃうんですよね。
宗教と神秘体験
これが地の領域から離れていくっていうのが、非地になるっていうようなイメージです。
うんうんうん。
経済の領域でいうと、空気とかっていうのが非地の方に入るというか、そもそも値段をつけるということから離れているという感じなんですね。
なるほどなるほど。はいはい。
それよりも扱えるものと扱えないものみたいな感じで作られるんだ。
そうなんです。
で、なったときに、非地ってもっと大きく言うと何なのって話なんだけど、
バタイオ自身は非地っていうものを、未知なるものっていうものとの関係で語ってるんですよ。
非地と未知ってすごい言葉的に近いから難しいと思うんですけど。
言い換えではないの?単なる。
言い換えではない、そう。
ちょっとこれもパッとはわかんないと思うんですけど、
一旦バタイオがどんな風に言ってるかっていうのをお伝えすると、
私は神を見たとはっきり言うならば、私が見るものは変化してしまうだろうとかって言ってます。
どういうことかっていうと、
そういえば、私は神を見たって言った瞬間に、
神っていう自分の知識の中にあるものとか、
これまでの人間の歴史の中で神と呼ばれてきたもののイメージっていうものが何かに付与されちゃうわけですよね。
なるほど。
本当はバタイオは神を見たっていう前に何かすごいものとか、
何か自分の経験とか想像を超えるようなものに出会ったっていう風な話が経験としてはあるはずですと。
つまりそういうちょっと言語化できないとか、
なんか言葉で表現できないものに対して、
それを神だって名付けた瞬間に、
それを知の領域に引きずり込んじゃうってことが起きるよねっていう風な話なんだよね。
すごいね。
ちょっと当人の話聞いたからこそ理解できる話かも。
本当。
ちょっと繋がるってこと。
繋がる繋がる。
嬉しい嬉しい。
だってね、ちょっと当人的じゃん。
常識を超えるような存在で出会うって。
森世をこういった体験な感じがして。
ただこれ、今でも名付けとか言葉とかあったけれども、
何か言葉とか感覚、言葉を超えたものに対して何か意味付けとか、
言葉を名付けるっていうその瞬間に、
やっぱり何か扱えるものになるとかさ。
認識できるもの、何か聞いとっちゃうみたいなさ。
そこは当人と関係すごい似てるなと思った。
そう、まさにまさに。
実はこの当人とかっていうことも結局は知と否知っていう風なコンセプトというか、
大きなテーマがあって、
それを経済の領域で考えるとそういうことが出るよねみたいな感じだったりするんだよね。
なるほどなるほど。面白いね。
そうなんですそうなんです。
さっき兄貴が神秘体験とかっていうときに宗教的なって言ってくれたと思うんだけど、
バタイユに言わせるといわゆる宗教も地の領域なんだよね。
なるほど。うん、わかった。
そうなんです。さっき無理は無理に言っちゃったんだけれども、
例えばだからさっき言ったバタイユがそういう神秘体験と呼ばれるようなものをしましたっていうときに、
それは結局バタイユにしかやっぱり変わらないものというか、バタイユにしか理解できないものなんだよね。
しかもあれだよね、くどいかもしれないけれども、
この神秘体験っていう名前にすらある意味そのイメージついちゃってるから、
そうなんだよ。
ほんとさっきハヤタが言ったような、自分の想像や常識を超えるような何かすごい経験をした。
そうですそうです。
まあそれでも言葉だけどね、そこであやふれにしておかないと、神秘って言っちゃうと宗教って色がついちゃって、
そうなんだよね。
自分的にはね、気がするから、何かすごいと思ったみたいな。
そうそうそうそう。
体に電撃、雷が走ったみたいな。
そうねそうね。
以上みたいなね。
だから現象とかそういうことに出会ったとは言えないような感じで、
それをね、内的体験っていう本があるんだけど、ここにバダエル自身が書いてるんですよ。
あ、そうなの?
うん。
じゃあどんな風に彼が書いてるかっていうのちょっと長いんだけど言ってみたいんですけど、
私はこの虚無の中で突如として未知なるものになった。
私は自分を閉じ込めている灰色の壁を否定し、
ある種の法悦、法則の法に悦ってなんか、
悠悦とか喜ぶみたいな。
うんうんうん。
っていう言葉なんだけど、その法悦に流れ込んだと。
で、私はかつて誰も笑ったことのないようなやり方で笑い、
事物は各々その奥底を開き裸にされ、
私はあたかも死者であるかのようだった。
っていうのが書いてるんだよね。
はー、なんか悟った瞬間的な話だね、まさに。
結構そんな感じがするじゃないですか。
へー、はいはいはい。
で、やっぱり突然こんなことを言われたり読んだりしたらさ、
こいつ正気かみたいな、思っちゃうと思うんですけど、
やっぱりまさに正気ではないというか、
何言ってるかわかんないっていうことが、
この非知の領域なんだよね。
はいはい、正気っていうしてですね、犠牲の。
そうそうそう。
なんか知の販中って話はね、今回の話ですよね。
まさに、まさに。
それはもう知の領域なので。
うんうんうん。
だから、この内的体験って、僕もちょっと読んでなくて、
読みたいなって思ってるんだけれども、
やっぱりその言葉にするっていうこと自体がさ、
やっぱりそれを区別するとかさ、
意味づけるとかっていうことだっていうのは、
これまでも何回か話したと思うんですけど、
非知の領域と言葉化の難しさ
そういう、要は、非知の領域を言葉にするっていうのを、
バタイオがすごい頑張って取り組んだような本らしくて、
へー、そうだね。
めちゃめちゃ読みにくいというか、やっぱり理解しにくいんだって。
うんうんうん。
でも、だからこそ、非知っていうバタイオが経験したとか、
何か解き明かそうとしたものが、
すごい出てるよみたいな本らしいんですけど。
うんうんうん。
だから、そういう意味で言うと、
この予測ができないとか、合理的ではないっていうことを、
ロジックってさ、要は合理だからさ、
ロジックではここにたどり着けないんですよね。
うーん、そうだね。
バタイオとしては、出会っちゃったからとか、
自分が法越になっちゃったとか、
灰色の壁を壊しちゃったから、しょうがないんだみたいな。
結構ね、そんな感じらしいんですよ。
まあ、そうだね。
確かに無理やり言語化するならばみたいな話ってことだもんね。
そうそうそうそう。
そうなんです。
だからやっぱり、前回までの東人とかも結構難しかったと思うんですけど、
やっぱりそれって言語化できないとか、
まさに理性を超えたとか、言葉を超えたものを、
なんとか言葉でやろうとしてる。
そんな難しさがあるなって思うんですよね。
順番が逆なんだもんね。
順番ね、そうね。
そういうものを表現する手段として、
言葉が生まれたみたいな側面を考えると、
逆だから、言葉からそっちを理解するのって結構難しいもんね。
難しい、難しいけどね。
リバースエンジニアリングというか。
そうね。
それならまだしもね。
面白いのは、言葉がないとそもそも人間は何かを認識できるのかって話も逆にあって、
言葉が後とも言い切れないところがあるんだよね。
そこは言語学の話で面白いと思うんですけど、
そんな感じでね。
バタイはそういう未知なるものというか、
そういうふうなものに出会ったっていう話をして、
それを神みたいに名付けてしまうと、
地の領域に入っちゃうとかっていう話なんですけど、
それってもうちょっと言うと、
自分が経験してることとか、
そもそも現実に生きているっていうことと、
いわゆる認識するっていうこと?
っていうふうなことをぼっちゃけにしちゃってるよねっていう話なんだよね。
例えばさ、僕って今こうやって姉貴とZoom話してて、
目の前にマイクがある、パソコンがあるっていう話なんだけど、
目の前にあるものは本当にマイクなんです。
マイクはマイクなんだけど、
自分はマイクとどんなふうに出会ってますかとかっていうのは、
普段生きるときには全然考えないわけなんだよね。
どう使うかみたいな話だからね。
道具としてこれはマイクだとしかないんだけれども、
どこかに人間が世界と出会うっていうのはそんなことなんだっけみたいな、
ちょっとこれ実存主義っぽいんだけどね、この辺りは。
そうだね、その感覚は。
実存主義は誰だっけ、サルトル。
サルトル、サルトル。
サルトルだね、サルトル界でやった話だね。
サルトルとバタイオはお互いに批判し合うみたいな仲もあるので、
そうなんだ。
時代的にも一緒だし。
一緒なんだ。
みたいなところもあって、一概に一緒とは言えないんだけれども、
やっぱりそういう未知なるものか、
やっぱり普段僕らが生きている世界って、
果たして本当の意味でそこに触れてるんだっけみたいなことっていうのが、
やっぱりこういうバタイオの考えてることにもすごく影響してるなって思うんだよね。
未知なるものへの出会いと破壊
うんうんうん。
で、あとはね、果たして本当にそんなこと、
要は未知なるものに、
未知なるものとして出会えるのかみたいな話なんだけど、
うんうんうん。
それはね、バタイオに言わせると結構それは無理なんだみたいな話なんですよね、やっぱり。
自分がやっときながら。
やっときながら。
うん。
はいはい。
で、なんでかっていうと、前回は当人の話をしたと思うんですけど、
要は当人ってただ例えば100円玉があったときにさ、
それを捨てるために捨てるとか、
未来のこととかね、目的を何にも考えずに捨てるとかってできますかって話をしたときに、
それって普通の状態じゃ無理だよねみたいな話でしたじゃないですか。
そうね。
うん。
何らかの目的だったりとかね、そういうこと意識しちゃう。
そうそう。
そうですよね。
で、だからそれってできるの?とかできないんだっけ?とかって考えてる時点で、
もう理性が働いてるから、これで地の領域の態度なんだよね。
そうだね。
しかも捨てなさいって言われてる時点で、当人とほど遠い経験でもやらされてるからね。
そうそうそうそう。
主導的だから。
主導的だから。
それを積極的に、あれでもね、自主的にやれるかって話だよね。
100円捨てたよってある日、突然思えて捨てられるかって話だもんね。
誰にも言われずに。
だし、100円捨ててよも、本当になんだろうな、
もう自分は100円を捨てるために生きているぐらいの感覚で存在してるんだっていう風に思えるかどうかなんだよね。
そうだよね。捨ててよじゃなくてあれか。
捨てた後に、ああーって捨てた後に、ああーって捨てた後に、これは100円を捨てたことだって意味付けをする順番だもんね。
そうそう。
ああ捨てたんだみたいなね。
捨てていたんだ、俺はーみたいな。
そういう話だもんね。
そうですそうです。
全然違うよね、だからね。
やっぱり普通の態度ではないんだよね。普通の人生の態度ではないんだよね、これは。
おかしいよね。
前歩いてる人いきなりね、お金投げ捨て始めたらちょっとビビるもんね。
ビビるね。
おっとしましたよって話じゃん。
そう。で言ったら、え、そんなことはないですとか言われたら、え、え、病院?ってなるじゃん。
そうだね、病院ってなるね。
もうそのぐらいの話だもんね、病院って。
そうです。
これが前回とか前々回の話か、
いわゆる一定のルール下では、どっちかっていうと異常値として位置づけられる、
カイロが言ってたあれか、快楽殺人犯的なね。
そうです。
同じカテゴリーになっちゃうもんね。
なっちゃうと思う。
罪ではない、重罪ではないかもしれないけど。
そうね、罪ではないけど、たぶん、やっぱり今の日本社会とかすると、やっぱりちょっとこうフリしてとか、やっぱり病院でってなっちゃうと思うよね。
なるほど、そうかそうかそうか。
そんぐらいの当時になったり、今回の死に触れるっていうのは、そんぐらいの話だってことね。
そうです、そうです。
だからバタイユも、もともとバタイユって精神病的なものがあってとか、精神病院に入った時期もあったらしいんですけど、
精神科を受けてた時もあったらしいんですけど、
そういうふうに、普通の状態とか、普通に世の中のルールの中で生きている時には、やっぱりこういう否知みたいなものになりづらいんだけど、
ある種そういうふうな、さっき言ったような、言葉にできないものと触れ合うとか、そういうものと出会うっていう瞬間に、やっぱり未知なるものが未知なるもののままであり続けるとか、
ある種自分自身も未知なるものであるとか、そういうふうにしか言えないような状況になることはあるよねっていうふうな話なんだよね。
普通の態度と異常値、文化圏の違い
あるよね。
あるよね。
かっこは極一部に限るっていうね。
そう、私はそうだけど、それを証明することもできないし、共感したいことも多分難しい。
確かにな。さっき出てきたサルトルとかは共感しちゃうから仲悪いんじゃないの?似たもの同士なんじゃないの?
そうだったのかなぁ。そこは共感してたのか、理解してないのかちょっと分かんないけれど、そこまでは。
サルトルもなんかめっちゃ怖がってなかったっけ?現実に。
怖い。そうそうそうそう。怖がってた。
ねーなんだこれはみたいな。
木が緑するとか言って。
あーそうそうそうそう。
木というものの生々しさに触れて楽しいみたいな話をしてたけど。
似たものは多いよね。
似てるし、あとやっぱり面白いのは、次回ちょっと東洋の話に戻ろうかと思ってるんですけど、東洋的な文化だと意外とそういうのって普通にあるんだよね。
未知なるものというか、なんかよく分かんないドロッとしたものはそのまま日常にあるみたいな。
あーそういう感覚としては馴染みがあるんだ。
いわゆる西洋で理性を制御していくんだっていうよりは馴染みがあるのか東洋の方が。
そうそうそう。
それこそさ、いわゆる妖怪とか妖精みたいな話近いと思うんだけど、西洋だと妖精とかって街とは離れた山とかに行って、そこに行くと妖怪の世界だよみたいな話になるのが多いらしいんですけど。
日本とかだと普通に妖怪とかって街の中にいたりとか家の中にいたりとかするっていう風に結構ここは境界が曖昧だみたいな話があって。
はいはいはい。
そういうところもこのまさに未知なるものとか、否知みたいな領域と知識の領域っていうところも区別されてるかされてないかみたいな。
そういうところにも影響するんじゃないみたいな話もあったりするんだよね。
はいはいそうなんだ。面白いね。
そうそうそう。だから結構僕ら何か起きてもお化けの仕業じゃないっていうのは、地の領域と捉えるかどうかは難しいけど。
でもそういうことは普通に言えたりする?
まあそうね、確かに。
もちろん神と何が違うのかって結構難しいんだと思うんですけど。
そういう意味では、未知なるものに対してそれに出会った瞬間自分が破壊されるみたいな風まで捉えるか、
まあそういうものもあるよねみたいに捉えるかみたいなことが文化圏とかカルチャーとかと違うんじゃないかなとは思ったりする。
はいはい、その出会い方、自分の破壊のされ方みたいなのは違うだろうねって話だよね。
そうですそうです。ただやっぱり普通僕らが生きている資本主義経済とか民主主義的な境からすると、
やっぱり何らかのシステム、経済がとかさ、いわゆる民主主義という選挙というシステムがとかって中で生きてるし、
その中で一定その目的に沿いながら生きるということがやっぱり大事だし、そのためには理性を働かせるとか予測するとか合理的に生きるみたいな。
やっぱりそういうことが大事だよねっていう風な時代かなとは思うんですよね。
まあそうだね、だいぶこの便利な、便利なというかさ、水が出るとか、トイレの水が流れていくとか、電気があるみたいな。
そこの当たり前を享受しないで生きていくって難しいもんね。
資本主義というかそういうところから抜け出そうとしてもなかなか現実的に難しいから、本当に当人的な精神状態じゃないとそこまで抜け出せないよね。
出家するじゃないけれどもね。
そうだね、だからやっぱりいわゆるね、例えば山の中で一人で暮らすぜみたいなことがあったときに、
パンキーが今言ってくれたような当人的な感じであるのか、それをいわゆる暗示提示みたいな、現代社会への暗示提示として自分はそういう生き方を選ぶんだっていうこともやっぱり全然違うようなことになるし、
こっちは良い悪いとかじゃなくて、行動としては同じだけど、その原理とか背景って違うとかっていうことも言えるわけなんだよね。
そうだね。
一つやっぱりバサヒルの話を見たりとかすると、そもそもやっぱり人間ってそんな合理的なんでしたっけって話が根底にあるわけなんだよね。
理性もないし、合理的ではないし。
ないというかね、制御できないし。
第1巻の時に言ったように、お父さんがその病気で目も見えない、苦痛に埋めいて、そもそも人間とは思えないというか、
そういうような中で生きてきた部隊だからこそって思うと思うんだけど、やっぱり人間って理性も制御できないし、合理的じゃないし、感情に制御されるしみたいなさ。
そんな時に、やっぱり人間ってそんな綺麗なもんじゃないでしょ。
思ってると理性を働かせるとかって言ってるけど、そもそもその理性って別に止められないからただ使ってるだけじゃないかみたいな話もあるんだよね。
ほぼ過剰なものですよと。
過剰なものですよと、そうそう。使えないでしょと。
だからこそ、場体外の逆説的な哲学みたいなのって、普段僕らが当たり前に考えている、未来を予測して良くするのが良いとか、
システムの中でこれに対して目的に沿ったような形で動くことが賢いとか、そういうところを逆から光を当ててくれるみたいなね。
恐ろしいな、でも。
今日も出たけどさ、今回言うと地だよね。そういうのに出会った瞬間が非地。
異端な意見のリスク
そのコミュニティというか、その共同体の中では異端と見なされる可能性が高いっていうすごいリスクだよね。
リスクだね。
でも結構いると思うんだよね。やっぱり気づいちゃう人とかいるじゃん。
例えばさ、仕事、最近4月だからちょうどそういう時期かもしれないけど、
侵入社員とか会社に入ってさ、無邪気にこの会社の仕組みおかしくないですかとか言ったらみんなはって口をつぐんで、
そんなこと言っちゃダメだよとか言い出すみたいな。
それって、その会社の中での非地になっちゃったみたいな感じだと思うんだよね。
ほうほうほうほう。
本当はその会社というシステムの中では上手くいってるよとか上手くいってるように見えるものが、
その侵入社員からすると、明らかにこれおかしくないですかみたいな。
っていう時に、やっぱりそれは多分、え、なんでこれやってんのって、
その侵入社員の側からさ、それこそ言葉にできないとか説明がつかないものに出会ったから、
そういう未知なるものに出会って、そういう発言をするみたいな。
あー面白い、それはミニ当人みたいな感じだね。
それは当人じゃないけど、ただの異文化交流みたいな話だとは思うんだけれども、
それは面白いね、確かに。
お互い、一応その、分かんないのにお互い出会ってるみたいなね。
そうそうそうそう。
何かが起こるっていうね。
ちょっと話が戻るかもしれないけど、
否知と未知の違い
他の否知と未知って結局何が違うの?
えっとね、何が違うって言ったら難しいんだけど、
なんだろうな。
でもイメージ安いのは、そもそも言葉にできるとか、
そこの知識、知見から意味付けられるものっていうのは全部知の領域ですと。
そこに収まらないものが否知の領域ですって感じなんですね。
だから言葉を超えているとか、
それこそこういう時に言ったら無であるとか、
そういうものが否知って感じだね。
伝わる?
伝わる。で、未知は?
これ未知か、否知と未知の違いね。
違う、うん。
否知はね、地と対応するものとしての否知だよね。
地っていう丸があったら、それ以外の場所が全部否知っていう話、
教会の話で。
で、未知っていうのは?
未知っていうのはどっちかっていうと、
否知っていう態度によって接しているものとか対象のことを、
未知なるものって言ってるんだよね。
なるほど、なるほど。
否知と未知があるというよりは、
否知の態度でいくと、あらゆるものが未知なるものになるっていう感じかな。
なるほど、なるほど。
習慣だよね。自分から見た時に、
未知の領域にあるものは未知なるものってことだね。
そうだね、そうです。
とか、自分が否知の感覚で生きていると、
未知なるものに出会えるとか、
未知なるものに出会った時に私は否知の領域で生きているとかっていう風な関係かな。
そうか、バタユー的に言わせると、
そういう経験をできるような人は、
否知の領域に住んでいるというか、
そっちの領域にも住んでいるとも言えるってことか。
おそらくバタユーがそこまで言ってるかはちょっと今わからないんだけれども、
そうだと思う。
でも前回、当人に至った瞬間に、
そういう世界が開けるというか、
そっちの世界でも生きるみたいな話があったから、
多分そこの知と否知の境界線を突破した人は、
その否知の領域も感じられるみたいな話になるんだろうね。
そうです、そうです。
どうなんだろうな、これ一般的な、
例えばその、
否知の領域に至れない人の方が多いと思うんだけれども、
例えばバタユーだったりとか、
知り抜けちゃう人が出会ったものを、
こうやって、
例えばさっきの今回で言うと、
いろんな本とかでも紹介してくれてるわけじゃん。
例えば内的体験家っていう本とか。
それは突破できない一般の人にとっては、
いわゆる否知の領域にあったものを、
そういう人たちが知の領域の方に紹介してくれてるよ、
みたいな感覚。
そういう未知が、
一応知っぽいものになった、
みたいな感覚のものっていうのはあるんだね、多分。
そうだね、そうだと思う。
それがいわゆる、
多分まさに文学とか詩みたいなもの。
要は詩人が捉えた神秘みたいなものを言葉にして、
でもいわゆるロジックじゃなくて、
感覚的に理解できるものとして、
天才が僕らに届けてくれてるんだ、みたいな。
ただそういう感覚だと思うんだよね。
地の領域と地域の領域
はいはいはい。
例えば、いわゆる自然科学的な話で言うと、
例えば遺伝子とは何かとか、
水って何でできてるんだろうとか、
宇宙の神秘が明らかになるとかさ、
分かんないものは、
ブラックホールがちゃんと撮影されたとかっていうのは、
地だからすると、
地から地へ来てるような感覚なんだけれども、
このバタユ的な話で言うと、
どっちも地の中の話なんだよっていう感じだよね。
理性の中の話だからね。
その通り、その通り。
面白いね、このバタユの感覚。
そうそうそう、そうなんです。
だからさっき神秘体験って言っちゃったから、
宗教的なものが、
ヒチとかミチっぽくなるんだけど、
バタユからすると世界はどうできましたかっていうことで、
例えばそれがね、
ビッグバンが起きてウンヌンっていうのも、
神様が作ったっていうのも、
どっちもそれを人間が理性で理解しようとするっていう意味では、
同じ地の領域なんだよね。
そうじゃなくって、
そもそも世界があるということに驚くとか、
世界の大きさに圧倒されるみたいな瞬間に、
たぶん何かしら未知なるものに出会っている。
みたいなことのほうが近いと思う。
はいはいはい、なるほど。
これどうなんだ、やっぱ。
バタユがこれを通じて、
当時のほうもね、
当時のほうがおすすめだよ、
みたいな話はしてたはずなんだけど、
やっぱりそこは通じてるのは、
地と地域に関して、
バタユがどう勝ちづけてるというか、
そういうのもあるの?
そうね、勝ちづけるというよりは、
哲学なので、
ある種光が当たってないものがあるぜとか、
これまでの哲学って、
この地域の領域見落としてませんか?
っていうふうな感じなんだよね。
なるほど、あくまでも略説的に、
ちゃんとこういうのもありますぜ、
いわゆる事実として、
存在しますぜ、
みなさん知らなかったでしょ、
みたいな話ね。
そうそうそう。
それが良い、
みんな地域の領域に行こうぜ、
というよりは、
この地域の領域、
みんなアロンジすぎてはいないかい?
みたいな。
そういうふうに思ったりする。
もちろん前回お伝えしたような、
いわゆるお祭り的なものとか、
打ち上げ的な、
とにかく健康のために食べる食事とかじゃなくて、
パーティーのために盛り上げる食事とかがあったときに、
やっぱりそういうものしか満たせない、
欲求とか人間の本質はあるよね、
っていうのはもちろんあるんだよね。
言ったら別にそれだけが大事とか、
別にそれだけで生きていけってことでもないから、
でもそういう欲求もあるし、
そういうことを捉えないと、
経済とか社会とか人間というものは、
正しく捉えられないよね、みたいな。
そんなふうに考えていただけると、
結構最初、
日常で使いにくいですとかって言ったと思うんですけど、
そのぐらいまで、
日々合理性だけじゃ生きていけないよね、
っていうところまで降りてくると、
すごく確かになって思いやすいし、
日常的にも使いやすい話かなとは思うんですよね。
なるほど。
確かに、
知能領域だけで理解しようと思うと、
気持ち悪いとか、意味不明、
異端、犯罪とかで、
犯罪はちょっと危ないものが多いからしょうがないけれども、
そうやって切って捨ててしまいそうなものに、
場体はちゃんと光を当ててくれてるんだね。
そうです、そうです。
ある場合も多いだろうし、
そっちの方が逆に尊い場合、
それが逆にあなたたちを地にとって、
豊かになるものをもたらしてくれる可能性もあるし、
あなた自身もそういう経験をする可能性もあるし、
ということを場体はこうやってゲーム化してくれてるわけなのか。
そうです、そうです。
最近もそう思うんだけど、
例えば合理性とか利益率重視とかになると、
よくわからん飲み会はやめようとか雑談は、
仕事の領域においてね、
雑談とか無駄だとか、
社内の運動会、何それ、いらないじゃんとかってなるんだけど、
やっぱりいわゆるシステムの中には、
そういう基地のものというか、
そういう当人的なものが大事だとかって言われると、
普段とは違う場で運動会とかしたときに、
仲良くなるのも意外と大事だよねみたいな。
それはもう地の領域に入っちゃってるけど、
でもそういうことでも光が当てやすくなるとは思うんだよね。
そうだね、だし、
自分がそれに思わされてるのか本当に思ったのかっていうところの違いも大事だし、
例えば、これは逆に社員の側からすると面白いよね。
例えば上層部がさ、
今年から社内運動会やりますみたいな話をしたときに、
この上司は地の方面からやろうとしてるのか、
それとも、ちょっとこのあふれ出方は当人っぽいぞ、
マジっぽいぞ、きもいけど、
ちょっと乗っかってやろうかなみたいな、
あるいは人を見分ける目みたいなね。
それはあるよね。
さっきのさ、文明から離れて暮らしてる人が何人かいたときに、
この人はマジだなとか、
この人はちょっとアーティスティックだな、
アンチテーゼを発信してるんだなとか、
そこにもやっぱり同じ現象、
同じ行為にもいろんな情熱だったり動機があるわけで、
それが極端な話、
お金をただ捨ててる人がいたときにも
いろんな動機があるかもしれないとか、
そういう話だね。
そこも確かにフラットに、
その場体のおかげで、
地位とか価値観とか、
そういうところからちょっと自由にしててる感じがするね。
そうそうそうそう。
ちょっとごめんなさい、
雑談っぽくなっちゃうかもなんだけど、
僕の不思議なのがさ、
社内運動をやるっていう事実とか現象は同じじゃない?
それを例えば社長がさ、
それによってこいつらのやる気を出させて
もっと売り上げてやろうとかって思って言ってるのか、
単純にそれってすごく楽しそうだし、
ワクワクするからみんなでやりたいって思って言ってるのかによって、
なんか受け手の感覚とかさ、
そこに対するのっかり感って変わるじゃない?
あれが不思議だよね。
不思議だって、やることは同じなわけじゃない?
でもそこに気持ちが乗るか乗らないかっていうのは、
言葉じゃそれこそ言い表せないというか、
そういう部分があるし、
それって人間ってすごい敏感に感じる?
うん。
そこってすごく面白いなって思うんだよね。
そうだね。
これに関しても、
例えば本気で運動会をやろうと思える社長がいる会社がいいのかって言われると、
そういうわけじゃないよね。
今例えば会社で言うと、
カルチャーっていうところが多分すごく出てきてると思うけれども、
その会社ごとの社風、文化っていうものがあるわけで、
うちは運動会も社員旅行も本気でやりますと、
仕事ももちろん頑張りますっていう社風だと、
それに合う人が来て、合わない人は自然に淘汰されるというか、
そもそも入ってこない。
逆もしっかりだよね。
もううちは、社内の会話一切なし。
会話なしで全部仕事は回るようになってない、
そんな仕組みのなってない会社は不効率でダメだっていう社長が、
それを徹底した会社を作ったとしたら、
そういう人が集まってそれでうまく回るだろうしっていう、
多分それぞれのカルチャーがあるみたいな話だし、
逆に言うと、仕組み市場主義みたいな社長は社長で、
ちょっとそれの当人的かもしれないしね。
そこに来すぎているとしたら。
それぞれの良さみたいなものをうまく表現できるかもね。
それは本当にそう思う。
社内運動会の必要性
やっぱりこういう話とか二元論的にAとBがあると、
どっちが良いんだとか悪いんだとか、
AはダメでBが良いんだとかってなりがちなんだけど、
両方ありますよと。
運動会しない会社はダメだってなりがちになる。
例えばね、トレンドでその時の。
ってなるんだけど、そうじゃないのって、
やっぱりそれっていうのは、
よしよしは価値の話で、
システムに適合しているかどうかとか、
目的に沿っているかどうかの話でしかないから、
それはやっぱり時々によるんだけど、
やっぱりこの二つがそもそもあるし、
その中で人間って生きているよねっていう、
現実があるよねっていう。
ただ僕らは地の領域とか予測できるとか合理っていう方に
すごく寄ってるから。
それだと人生の本当に大事なもう半分が見えなくなっちゃうよね。
バッテリー的にはそこって大事というか目が向いてないよね。
それを逆説的な哲学として提示したんだぜみたいな。
そんな風に捉えていただけると、
すごく親しみも湧いてくるんじゃないかなって思うんだよね。
そうはね。
ただのめちゃくちゃいろんなことをやってよく分かんない人みたいな感じだったけど、
なんとなくすごい人って感じだったけど、
本当にすごいね。
面白い人だな。
面白いんですよ。
なのでそんな感じで、
ぜひバタイルの知と否知とかね、
そういう話もまた見ていただけたらと思うんですけれども、
次回ですね、バタイ会最後になりますと。
はいはい。
バタイユの小説の紹介
前にタイトルとして紹介したの、
太陽孝文って本あったじゃないですか。
本というか小説、文章があるんだけど、
それをちょっと味わってみたいなと思ってるんですよ。
へー、はいはいはい。
20ページぐらいの短い文章なんで、
あんまり読んじゃうと多分書作権的にアウトみたいになっちゃうと思うんで、
本当に一部をちょっとつまみ食いしながら、
では良ければ買ってくださいみたいなところも含めてちょっと次回ですね、
それをお伝えしていきたいなと。
なので哲学よりもそういうバタイの文学的なというか、
そういう表現のところをちょっとみんなで見ていきたいと思っているという風な感じですね。
はい、なるほど。
まあ確かにな、今日紹介してくれた本の表現もなかなかだったしね。
そうなんだよね。
そういうのが続くとなると結構難解な素人からすると、
慣れていない人からするとね。
本当にちょっとだから解説するというよりは、
本当に気になったのは、
次回はちゃんと話せるといい本なので、
解説がね、本文20ページの後に30ページくらいの解説がついてて、
ちゃんとしているといい本があるので、またそれをご紹介します。
分かりました。
いいですね、ここまでそうはね、
バタイってだいぶ親しみが湧いてきたので、
最初ね、何者だよって感じだったけど、
だいぶ親しみが湧いてきたんで、
一体どんな小説というかね、
表現をしたのだろうかとは、ちょっと面白そう。
良かった、2年ぶりにちゃんとここをお届けできたんで、
良かったと思っておりますが。
今年の第0回からね、やっと200何回にして。
というわけで、次回はバタイユの小説ですね。
そっちの方を楽しんでいきたいと思いますので、
引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
48:46

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