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  2. #376 簡単?難しい?2つのテ..
2025-12-07 48:15

#376 簡単?難しい?2つのテクニックでマスターする荘子の道(タオ)

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

今回のエピソードでは、荘子の道において重要な「震災」と「座暴」という二つの概念が紹介され、それぞれが心の在り方や状態を整える方法として説明されています。特に、心を空にし、気を感じることで日常の理解が深まることを目指しています。このエピソードでは荘子の道(タオ)を理解するための2つの技術について議論し、心を空っぽにすることと座帽の概念を通じて他者との関係性を深める方法を探求しています。また、忘却や身体と心を解放することがタオへの道でどのように役立つかに焦点を当てています。さらに、荘子の道における幅の概念と死への向き合い方について語り、震災や座房の経験を通じて生きることの意味を探ります。

荘子の道の探求
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回で掃除第3回ということで、前回はあれですよね、万物正道の雰囲気というか、内容を見てきたというところでしたっけ?
そうですね、そうですね。あらゆるものが等しいとかって言った時に、あらゆるものってなんだよ、みたいな感じだったと思うんですけど、
それこそ全悪みたいなものとか、生きるとか死ぬ、生死みたいなものとかも、自続というか全然それって区別できないんだよ、みたいな、結構そういう話をしたかなと思うんですよね。
はいはいはい。
概念的にはわかったとしても、それって結局、僕らの日常からすると、とはいえ正しいことは正しいし、ダメなことはダメだしとか、僕も子供とかにそんなことやっちゃいけませんとかって言うけどさ、
じゃあお前万物正道じゃないじゃないかみたいな話とかって当然あると思うんですよね。
そういうことだっけ、前回ラーメンとカレーが万物正道のタオルの方から見るとラーメンもカレーも一緒だ、みたいな。
それを通ってない人が、いやラーメンとカレー違うでしょって言うとは違う意味で同じだし、違う意味で違うみたいな、そういう話になっちゃうよねと。
そうそう、結局言葉で言おうとすると難しいよねみたいな話を。
そうなっちゃうみたいな。
そうそう。
食べたら一緒とかってそんなことじゃないでしょみたいな、それもあるしみたいな、いうことをあったときに、もうちょっと現実に落としてというか、ある種それって頭だけで考えることじゃない、本当に体も通して理解することだったりするんで、
それをどんなふうにソウジが伝えてるのっていうのを、やっぱりロジックっていうのは例え話とかさ、そういうお話的に伝えてることが多いんですけど、
そういうものに触れながらですね、今回ある種の実践編というか、日常で言うとこういう感じだよねっていうところをお伝えしていこうと思っておりますよと。
はいはい。あれ、でも確か前回その狩猟方法、釣り合い回すみたいなこと言ったらそこまでじゃないみたいな話してたけど、
そうなんだよね。
何だろう漢字だろ、苦行の方法を教えてくれとかそういうのじゃないの?
じゃないね。なんか今回のキーワードが震災と座暴っていう二つの言葉があって、ちょっと漢字難しいんですけど、
二つがあるんですね、震災って言われるものと座暴って言われるものがあって、ちょっとそれはまた説明していくんだけど、
なんかそれは修行っていうよりは、その状態ってこういうものだよとか、こういうふうに変えていくとできるよみたいな、そういうことが伝えてくるんだよね。
ただそれって修行を通して身につけるとかっていうことじゃなくて、心がけとか、こういうことだからもうわかったでしょみたいな、結構そんな感じになっちゃうんだよね。
なるほど、それをソウジが伝えてるって話だよね。そういうふうに、震災というよりは震災と座暴ですよみたいな話を教えてくれてるんだ。
そうです、そうです。ソウジも結構いろんな登場人物を出して、なんなら孔子いるじゃないですか。孔子とかも出てくるんですよ、普通に。
創作なんだ、じゃあ。
創作、そうそう。孔子先生もこんなふうに言ってるよっていうのをあえて出して、牽引付けしてるみたいな。別に言ってないんだけどね、たぶんね。
本当に創作感がある。ただ登場人物としてその時代にはいないはずの孔子が出てくるんじゃなくて、語らせてる、だからセイントお兄さん的な感じだね。
そうだね、そうだね。そのブッダとキリストみたいなところを勝手にピュンって出させて、わちゃわちゃしてるのを勝手に作っちゃったみたいな、そんなイメージだね。
へー、ほいほい。結構自由だね。
そうそうそう、っていうのもあるんで。
今日はそういった実際にソウジの中に書いてるお話とかも伝えながら、こんなことですよっていうところを皆さんにもなんとなく掴んでいただきたい。
なので今日の話を聞いても、震災とかザボーっていうすごく新しいスキルが身につきます、すごいとかっていうことにはならないんだけど、
でもなんだかこういうことなのねとか、やっぱり結構現代的なところにつながる部分もあったりするんで、その辺の概念とかも採取しつつ、なんか理解できたなっていうところまで行けたらいいなっていうような感じですね。
うーん、なるほど。あ、ダメなんだ。えとくできないんだ、今日の話聞いただけじゃ。
できる人はめちゃめちゃもうベースがある人かなって気分。すごいベースがある人はそういうことか、これが震災かって言ってガラッとできるかもしれないけど。
はい。リスターの方であればそういった方もいらっしゃるかもしれないんですけれども、それはちょっと僕は無理だね。掃除を呼んだとしてもそんなふうにはできないね。
はいはい、なるほどなるほど。じゃあそういった意味ではわかったけど、どうするのっていうのはまたあるよねっていう話ではあるな。
震災の概念
そうだね。その辺もちょっと聞いてみて、兄貴の感想とかも聞きたいなと思ってるんですけど。今回はそのあたりをやっていきますよというところでございます。
まずですね、震災と座望っていう2つがあるよってお伝えしたんですけれども、1個目の震災ですね。
震災っていうのが、震が心で、災が斉藤さんっていう名字があったときに、上が文章の文で、下が中が示すのやつの災っていう文字なんだけど、
この災っていう文字1つで、結構儀礼的なことをもともと示すような文字だったらしいんですよね。
備え物をするとか、宗教行事によって身を清めるみたいなことがあって、それがいわゆる心を清めるとか、心を整えていくという意味合いなんですよね。
そうなんだ、ほうほう。
すごい今風に言うと、心の断捨離みたいな感じなんだけど、断捨離ね。
どういうことかっていうと、これも例え話であるんですけど、行事がいろんなことを伝えていくときに、心っていうものはいろんなことで話してくるんだけど、
1個の例えとして、部屋に例えるっていうのがあるんですよね。
つまり、皆さんも部屋の中にいたら見渡していただきたいんですけれども、部屋って空間とか隙間があるからちゃんと光が通って明るくなるじゃないですか。
これからごちゃごちゃして、すごい物がいっぱいあったりとか詰まってると、結局暗くなっちゃって、あんまり居心地悪いよね、みたいなものがあったときに、それがいいっていう人もいるかもしれないけど、
そういうふうになっちゃうねというときに、ここも一緒だよねと。
要は、心にもいろんなものが詰まってると、結局風通しがどんどん悪くなっちゃいます。
なので、心を空っぽにしていきましょう、ある種断捨離していきましょうっていうようなことが、この震災っていう意味なんだよね。
なるほど、なるほど。
それが何かっていう話なんですけど、どういうふうなことができるかっていう話も実際あるんですけど、今、実際の内容をお伝えしようと思うんですけど。
これはまさにさっき言った講師と弟子の話なんですよね。
そういうふうに言われて、創事のことを創作してるんだけど、その弟子が震災について教えてくださいって言うんですよ。
架空の講師にね。
政治のこといろいろやりたいんだけど、うまくいかなくて、ニッチもサッチもいかなくなっちゃったと。
なので、ちょっと偉大な講師先生教えてくださいって言うんだよね。
そうすると、講師が分かった分かったと、教えてやろうって言うんだけど、お前は心の働きを統一する必要があると。
で、どうするかっていうと、耳で聞かないで心によって聞きなさいと。
でも、心で聞かないで気によって聞きなさいと。
気ね?
気。気配とかの、本当に気分とかの気ね。
で、耳っていうのは音を聞くだけだし、心っていうのは外から来たものに合わせて認識するだけなんだけど、
その気っていうものは、空虚でいてどんなものでも受け入れるんだと。
で、その真実の道っていうのは、この空虚の状態にだけ入ってくるものだから、
この空虚の状態になることこそが真才なんだよっていうふうに言うんだよね。
で、弟子が分かりました、ありがとうございますって言ってやってくって話なんだけど。
めっちゃ優秀な弟子だったってことだね。
座暴の理解
そこまでの問答もあるし、なんせ孔子の弟子だから。
っていう話で冒頭言った、どうだろう、この話を聞いて分かりましたかどうですかってことなんだよね。
なんで孔子にしたんだろうな。
なにそこ?
商標権的なのも大丈夫だったのかな。
うーん、まあまあ当時だからね。
孔子って言ったほうがみんなが読んでくれるとか、そういうマーケティング的な、ブランディング的な観点なのかな。
ものもあるだろうし、あとは一応その手前の物語でいくと、
やっぱり政治でもうちょっとうまくこの皇帝とかに提案したいですとか、
自分の言いたいこと伝えたいです、役立ちたいですとかっていう、そういうところの話なんだよね。
その後の時に、前々回からお伝えした無用の用とかってあったじゃないですか。
なので、そもそも役に立つみたいな話って、
そうじからするとちょっとなんだろうな、そもそも違うんですよね。
でも役立ちたいっていう気持ちからじゃないとできない話があるから、
多分そういう時に孔子とか儒教の人を引っ張ってきて。
なるほど。そこに自分を置くとおかしいから、今だとスタートアップの社長とか呼んできてるじゃないか。
そういう人を格に据えて、ビジネスとかみたいな話をさせてるみたいな。
まあまあ、そういうことですけど、ビジネスなんてくだらんとかって言いたい人が、
あえてスタートアップの社長とかに寄ってきて、
こんなこと言ってるけど違うぞみたいにあえて言うみたいな、
ちょっとそういう八本木に立たせてる感じかもね。
だったりとか、まあわかりやすい例みたいな話なのか、
いきなり抽象的な話をしないで具体的な話をすると、
孔子みたいな人がみんな理解しやすいよねというか、イメージしやすいよねぐらいの感じでいいのか。
ごめんごめん、なんかそこに引っかかっちゃってる。
なるほどね。でも言ってるのも孔子が言いましたって話だから、
ある種、やっぱり権威を借りてるというか、そういうところもあるとは思うけどね。
内容の方はどう?耳で聞かずに心で聞けと。
実は心でも聞くんじゃなくて、気で聞くんだっていう、まあそういう三段論法的な感じなんだけど。
そうだね。いや、なんかそう言われるともちろんできないけれども、
確かに心まではなんとなく想像できるというか、気をつけてるつもりはあるんだけども、
その気って言われると、確かにそんぐらいの理解度を持ってる人も確かにいるかもぐらいの感じで、
自分はないけど、そういう人は確かにいるかもっていう意味では、
その観点入ってくると納得みたいな感じはするんだけど、
ただ、この掃除でいうとこの気、たぶん初めて今回出てきたから、
そこはなんか、前気が出てきたのはあれだよね、朱子学とかだと思うから、
そことを混同していいのかなっていうのはちょっと思った。
おお、なんかすごいめちゃめちゃ学んでいる人の観点だね、すごい。
ありがとうございます。
ありがとうございます、覚えていただいて。
おつかれのとおり、朱子学とかの気っていうのも同じ気配とかの気なんだけど、
僕らはそこまで根本的なエネルギーとかっていうことじゃなくって、
本当にその場所の雰囲気とか、なんていうのかな、まさに空気だよね。
そういうものをちゃんと感じましょうっていうぐらいでいいかなと思ってますよ。
で、思っていると別にその気みたいな、いわゆる根源的なエネルギーとかって考えずとも、
ある種、虚心探解っていうこともあるとおり、やっぱり心をしなっぽにする、虚にする。
もう、ちゃんといろんなことが自然に流れ込んできますよねっていうふうな発想なんだよね。
ああ、はいはいはいはい。
だから、例えば耳で聞くって言うと、要はただ言葉を聞いてるだけ。
例えば、もう辛いんですとかって言われたら、そんなのやめちまえとかって言うのって何も考えてないけど、
結構あったりするじゃない?
やっぱそれって耳だけで聞いてると思うんだよね。
で、例えば心で聞くって言うと、辛いんですって言うときに、
いわゆる解決しようとするとか、なんとかしてやろうみたいな。
やっちゃうと、それはそれでもちろん大事だけど、
本当にそれって、相手のことを受け止めてますかって言ったら、受け止めてなかったりする。
はいはいはいはい。
うん。
で、例えば本当に辛いんですって言うんだけど、でもなんか本当は頑張りたさそうだなとかさ、
なんか励ましてほしそうだなっていうのを感じたら、
なんかちょっと背中を押してあげるように少し整えてあげるみたいなさ。
うんうんうんうん。
っていう風に、やっぱ対応の仕方って変わるじゃないですか。
なるほど。
うん。
そういう風なことを、今のはすごく具体的な事例なんだけれども、
やっぱりちゃんと相手のこととか世の中のことっていうものを、
心を空っぽにすること
自分っていうものが理解したように理解するんじゃなくって、
そのまま入ってくるまま受け止めようねっていう風な、
それが心を空っぽにする、心の段差利用するっていう風な話なんだよね。
なるほど、すごい話だね。確かに確かに。
うんうんうん。
それとさっきのハヤトの例だよね。
例えば、その相手の奥まで分かればみたいな話も、
多分それもここで心のとこに入りそうだよね、なんとなく。
この例で言うと。
えっと、どんなイメージだろう?
うんと、例えばその耳で聞くっていうのが辛いねっていうのは、
あ、はいはい辛いねとかさ、やめちまえみたいな話で、
その次が心っていう時に解決してあげようとか、
あとはその相手の奥底まであらゆるとこを理解して、
逆に励まそうみたいな、そこが心の気がして。
次のステップスの気っていうところは、そこすらもない。
うんうんうんうん。
あの、これだから難しいと思うんだけど、
本当にありのままのそのものを理解というか、
はいはいはい。
取り込むぐらいの感じ。
だからそこには自分の判断とか、
あーそうだね。
察覚とかも全てもなんもない、完全フラットなその状況だよね。
その人が辛いって言ってるその状況と、
なぜかっていうのも、あとその周りの状況だったりとか、
もう全部含めてフラットにただその状況のみが、
入ってくる状態がなんか気な気がして、
そこに対して解決するなり、背中を押すなり、同情するなりっていうのは、
その後の判断みたいな。
そのステップの違いみたいなところで、まず気で取り込めみたいな。
うんうん。
なんかそういうフラットな感じがしたね、なんか。
あ、そうそうそう。まさにその通りだね。
あの確かにさっきのはね、僕の言い方だと、
なんか前提何かしてあげようっていうふうな発想だったかもしれないけど、
もし相手が頑張りたさそうがあるとか、
その相手の中にそういう辛いっていう言葉の奥に、
実は頑張りたいという気持ちがあるとした時に、
それを受け取って、
もう一つ励ましてほしそうだというのも受け取って、
その後に始めてやるっていう感じだね。
そうよね。なんかやってもやらなくてもいいけど、
それを踏まえてやるかどうかは、
自分がまた別の話だよね。
この気とはっていう感じがしたね。
そこも別に自分の自発的なものって多分なくって。
へー、こっちの対応についても?
うんうん。
だしたら相手がそういう助けてほしそうだなという気を発するって言うとちょっとあれだけども、
そういうものを受け取ったとしたらそのなりに答えるっていうだけだから、
それで何か自分も何かをしてやろうとかってないんだよね。
あー、そっか。この多応の概念から言うと、
そっか、自分と他も同じというか、同じであり違うから。
そこでお互いそういう自分の意思みたいなものって、
正直それもあるかもしれないしないかもしれないみたいな話になってくるのか、そこも含めて。
そうそうそう。
基本、前回も言ったけどさ、僕らが認識できる世界においては多分あるんだけど、その違いは。
それを超えた、なんて例えたっけ、大きな丸がそどかにあるみたいな話をしたと思うんだけど、
その世界においてやっぱ違いがないから、
その違いがないっていう状態の中で聞いて、
ともに違うっていう世界において相手が言いたい、そういう気を発しているものを受け取ったままに乗るというか。
傾聴のレベル
答えるのも違うんだよね。答えちゃうと自分の自発性が出ちゃうから、ただ流れに乗るとか、そういうふうな感じだと思うんだよね。
なるほどなるほど。はいはい。
わかりました。
これね、面白いのが、いわゆるコーチングとかってあるじゃないですか。
とかさ、傾聴するみたいな話ってね、よくそういう本とかも最近出てると思うんだけど、
なんか会社の人がコーチング、キャリアアドバイザーとかやってるとそういうの、近い領域だったりするので学んだりするんだけど、
コーチングはいろんなレベルがあるらしいんだよね。
その中でCTIって言われるのがあるんだけど、それで傾聴の3つのレベルっていうのが言われてて、
これがね、マスクにね、耳と心と気にめちゃめちゃなんかフィットするから、ちょっとそれも話していいかな。
そう、ある種現在で行われてるコーチングもすごい近いだと思ったんだけど、
その3つのレベルっていうのが、1個目が内的傾聴、内側だね。
レベル2が集中的傾聴、本当に集中するっていう話ね。
レベル3が全方位的傾聴っていう風になってるんだけど、
内的傾聴っていうのは、傾聴とはついてるんだけど、いわゆる自分に意識が向いてる状態?
要は相手のことを聞くんじゃなくて、こんなことを言ってやろうとか、こういう状態にしてやろうっていう、
もう聞いてるようで自分のことしか考えたい状態なんだよね。
これ結構あれ実は、相手の話を聞いてやろうとかさ、聞いてなんとかしてやろうってやっぱスタンス結構多いから、無意識的にね。
あー、なるほど。無意識でもね。はいはいはい。
意外とこのレベル1っていうのが聞く、これはまさに耳で聞いているというか、聞いてるようで聞いてないっていう状態だよね。
っていう話なんだけど、レベル2の集中的傾聴っていうのが、いわゆる相手の言葉だけじゃなくて、奥にある感情とかさ、願いみたいな、
そういうポンポン的なところまでちゃんと理解しよう、理解したいってなっていく。そういう状態がレベル2なんだよね。
これってさ、まだ理解したいっていう自発がやっぱあるじゃない?
うん、なるほど。
レベル3は全方位的って言ったんだけど、つまり自分と相手を分けずに、自分の気持ちも相手の気持ちも、その場の空気とかも全部を聞くみたいな、そういう状態らしいんだよね。
なるほど。
つまり、まさにさっき言ったとおり、自分と相手が全方位的って言うと分かれなくなってくる。
これって、要は心を空っぽにして気を入れるみたいな話とかなり近いと思うんだよね。
なるほど。
わかんない、ちょっとCTIの本家の人にしたら、そんなこと言うなって言われちゃうかもしれないけれども。
そんな怪しいものと勝手に接続するなんて。
掃除も怪しくない。ひとり掃除の本家だから怒られるから。どっちも的に回しちゃうけど。
どっちも一緒なのですってね。一緒だけど違うのですって言っとけばいいんだよね。
まあね、そうしてもちょっとね。
面白いね。でも今のを聞いて、CTIっていうのは知らなかったけど、コーチング分野でいうと好きな本があって、ちょっと前の本なんだけど、元野球選手でさ、今も書いてるかな?
吉井正人党首、元党首の本で、多分その後もいろいろ出てるっぽいんだけど、自分が読んで面白かったのがね、最高のコーチは教えないっていう本があって、読んだことあるかな?もしくは誰か聞いたことあるかな?
タイトル見たことあるな。
うん、これめっちゃいい本で。やっぱりコーチだから教えなきゃいけないんだけれども、やっぱりそれを相手によってどう変えるとか、さっきの傾聴みたいなところ。
3流、2流、1流、超1流みたいなのがいて、で、いわゆるその1流まではある程度コーチ側が介在しないといけないというか、
そういう部分も出てくるんだけど、超1流、例えばダルビッシュとかレベルしかいないみたいな話してたんだけど、そういう人はもう何もこっちから言っちゃダメなんだみたいな。
なるほどね。
そこを含めて、さっきのCTI的な感じに近いのかなと思って。たぶんアメリカでそういうのを勉強してきてるはずだから、コーチングの技術を。
たぶんそういうのも入れてるのかなーって勝手に想像してた。
そうだね、やっぱり原理はそっちだと思うし、また現場でもちろん磨いたものもあると思うんだけれども、まさに聞くっていうことに関しては、
座帽の概念
たぶんこの掃除の発想っていうのはかなり役立つんだと、やっぱり近いと思うね。
だから押し付けにならないんだね。完全なる1対1というか、相手のレベルにも従ってだったりとかね、話になってくるもんね、自然と。
なってくるし、もっと言うと目的とかも掃除の場合はもうなくなっていくからさ、別に何かをしようとかしたいとか、もちろんそういうレベルでは話はするんだけど、
さっきも言った通り、あくまでも講師がこんなこと言ってたよっていう話で、別に掃除の主張とはちょっとやっぱり線を引いてるのはたぶんそこなんだよね。
なるほど、そうすると一気に、こうする方が良いみたいな変な価値観が生まれちゃうんってことか。
そうなんだよね。役立ちたいとかさ、もっと上手くなりたいとかって、もちろんそれもいいんだけど、でも本来掃除が言いたいのはそれを超えようよとか、
役立たないとか、上手い下手とか、そういうことも本来ないよねっていうふうなものがあるから、たぶんそこの距離感ってやっぱり出してるんじゃないかなと思うね。
なるほどなるほど。そういう意味でちょっと皮肉も入ってるのかもね。
あると思う。
若干のね、なるほどなるほど。ちょっと見えてきたわ、講師がキャスティングされてるってとこも含めて、納得してきた。
そうね、ちょっとこれまた面白い話があって、そのキャスティングとか皮肉っていうところなんだけれども、今その震災の話をしたじゃないですか、心を空っぽにしますって話ね。
次が座帽っていう話なんだけど、これは座って座るの間慣れがないやつに忘れる、帽は忘れるなんだけど、座って忘れましょうなんだよね。
はいはいはい。
ただこれかなり善とかにつながってくるのが発想らしいんだけれども、ある種いろんなものをそぎ落としていきます。だから心だけじゃなくて体も空っぽにほきほぐしていきますみたいな、そういうふうなイメージなんだよね。
えー、あ、そうなんだ。
うんうん。これもまた講師と弟子のちょっと面白い話があるからちょっとだけ読むんですけれども、弟子が講師のとこに来て言うんですよ。
私ちょっと上手くなったかもしれない、進展がありましたみたいな。ちょっと上手くなったかもしれませんみたいな。で、喜んで報告しに来るんだよね。
で、講師がどういうこと?みたいに聞くんだけど、そうすると弟子が、私は神器のことを忘れましたと。神とか義って儒教の一番大事なことじゃないですか。
で、要はそれを忘れました。要はその忘れるぐらいに馴染みましたというか、要は達人になると弓とは何かを忘れるみたいな話を以前したと思うんですけど、要はそういう境地に行きましたみたいな、そういうことを言ってくるわけだよね。
そしたら講師が、いいねいいねと。でもまだ十分じゃないねって言うんだよね。そしたら弟子が、また上手くなりました、進展がありましたとかって言って、で、どういうこと?って言ったら、私はその礼儀とか音楽、
昔、音楽が公式な場での礼儀とか宗教的なときに大事なものだったから、またこれも儒教の大事なものを忘れましたって言うんだよね。
ああ、なるほど。仁義だけじゃなくて他のものも忘れましたよと。
そうそうそう。よりもっと大事なものとか、他のものも忘れていって、より進んでますよと。で、講師が、いいねいいね。でもまだ十分じゃないねと言ってて、次3回目ね、また来るんだよ。
で、また進展がありましたと。で、どうしたの?って聞いたら、私は座帽ができるようになりましたって言うんだよね。
へー、ほうほうほうほう。
座帽。うん。今回は最初はこうなんだけど、で、なるほどと。で、ここで初めて講師は、ちょっと出しを正して聞くんだよね。
へー。
お、なんかちょっとこれ大事だぞってなって、で、座帽ってどういうことですかって聞くんだよね。
うんうんうんうん。
そしたら、弟子が答えるのよ。あの、手足や体の存在を忘れて、耳とか目の働きを打ち消して、この肉体から離れて、心の知るっていう働きも追いやって、
で、あの大きく行き渡るその自然の働きと一つになるということですと。
うんうんうんうんうん。
っていうふうに言うんだよね。そう。で、そしたら、そう、お前すごいねと。で、私もお前の後についていこうって講師が言うんだよね。
ははははははははは。なるほど。
すごくない?これ。
うわー。掃除すごいね。
ね、ちょっとドリークみたいじゃない。
うんうん。そうだね。思った結末が違う。合格じゃなくて、掃除を越えちゃったんだ。
越えたから、よし、私もお前についていくぞって言って終わるんだよね。
えー面白いね。
めっちゃ面白いでしょ、これ。
うん、すごいすごい。
そうそうそう。さっき兄方、皮肉みたいに言ったけど、まさにたぶん皮肉なんだよね。
うん、そうだね。
荘子の道の理解
そう、神器も忘れた、霊と音楽も忘れたっていう儒教の大事なものを否定しておいて、雑法っていう新しい概念を持ち出して、
そりゃすげーわ、俺もそっち行くわって言って、講師も行かせちゃうみたいな。
はいはいはいはい。
うん。まあ、ていうような話なんだけど、内容でいくと、要はさっき言った通り、身体も忘れましたと。で、心も忘れて、目とか耳の働きも忘れて。
で、さっきさ、耳で聞くんじゃなくて心で聞くんだ、で、刻んだみたいな話をしたけど、もう目とか心っていうのも、もうやっぱり捨て去る対象なんだよね。
うんうんうんうん。
うん。だから、やっぱりそのなんていうのかな、あらゆるものをやっぱり、まあもっと言うと自分っていう、まあエゴだよね。
うん。
っていうものをどこまで捨てれるかっていう話で。
はいはいはいはい。
で、やっぱりよくさ、そのね、スポーツとかでもゾーンに入るとかさ、身体が勝手に動きますみたいな話ってあるじゃない?
うん。
で、それもちろんすごく素敵な境地なんだけど、さらにそこもやっぱり越えていくんだよね。いや、もう身体があるっていう認識すらやっぱ溶かしていくみたいな。
うんうんうんうんうん。
っていうふうに、どんどんどんどんやっぱこう、なんていうのかな、絵巻風に言うとまあアンラーニンというか、手放していく感覚?
はいはい。
うん。で、前回、前々回から話した人やっぱり、儒教ってどんどんやっぱり覚えていくじゃないですか。
うん。
で、その後のさ、何だ、えっと、佳境か?とかもそうなんだけども、過去の膨大な評点とかもとにかく覚えますみたいな。
そうね。
とにかく暗記暗記で詰め込んでいくんだけど、それに対するやっぱめちゃめちゃ強烈なアンチテーズなんだよね。
うん。
いうところで、しかもそれがいいよねって孔子に言わせちゃうみたいな、まじでその存在さ?
そうね。
ところが、そう、面白みでもあり、ただやっぱりそれが大事って言われたらなんとなくわかるというか。
うん。
ね。あれ、草地の世界観っていうものをね、一定こう理解いただいていると、確かにその忘れていくとかどんどん手放していく感覚?
うんうんうん。
それによって自然と一体なるっていうことが大事だよねみたいな。
はいはいはい。
そういう雰囲気はなんとなくこう、理解いただけるんじゃないかなと思うんだよね。
いやー、そうだね。そっかー。でもここまでの話を聞いて思うのは、その草地が、例えばその座帽でもう自分の存在さを忘れるというか、
はいはい。
あるいはこう、完全なるアンラーニングみたいな話をしたときに、アンラーニングするためにはさ、忘れるべきものってあるじゃん。
おー面白いね。うん。
いわゆるその、まあ自分のさ、意識とかさ、手足についてはまあ生まれたときからあるから、
はいはい。
まあそれを忘れるのはまあ学ぶまでもないというか、取り込むまでもないんだけれども、
うん。
その、まあ現実の話をすると、赤ちゃんがラーニングせずにアンラーニングだけしたときに、
はいはい。
この草地の感覚に至れるのかな?みたいなところで言うと、
うん。
この座帽だったりとか、あとなんだっけ、さっきのやつ。
震災かな?
震災か。
うん。
ねえ、だから赤ちゃんに何も教えなければさ、本当に空っぽのままさ、あの、生きてるかもしれないけど、
うん。
なんかその、何をラーニングしとけばいいの?みたいなものは何か逆説的にまたね、
うん。
こう、出てきちゃうんじゃないかな?みたいなね。
あー面白いね。
あの、そこには本当にすごい良いポイントで、
うん。
実はこれ第5回もちょっとちゃんとやろうと思っているんだけれども、
うん。
その、やっぱり草地の中でも、ニーチャーの超人みたいな、ある種理想化された人間ってのはいるんだよね。
うーん、そうなの。大丈夫か、草地の中。すごいそこに隙が生まれそうだな、うん。
うん。
あのね、それがね、その真人、真実の真に人で、真なる人って言われたりするんだけど、
もう超人でいいよ、もう、超人にしようもん。
いや違う違う、真人、これね、あの、いろんな言い方あるんだけど、そう、真なる人っていうのがまあ、ある種理想的な人としてあって、
これまたちゃんと後で説明するんだけど、
うん。
例えばその身体的な特徴も変わってきますと。
へー。
要は座帽とかちゃんとやれるとどうなるかっていうと、
うん。
あの、真人の息、呼吸ね。
うーん。
っていうのは、かかとでするんだと。
ほうほうほうほう。
もちろん物理的には違うんだけれども、
うふふ、そ、大丈夫。
うん、もちろんね。
勘違いしてないから大丈夫。
はははは。
大丈夫かな、兄貴はかかとに口が出てくるみたいに思ってないかなと思って。
あの、まあ、凡人、普通の人はさ、もちろん喉で呼吸しますよねと。
まあ、やっぱり口だよね。
うーん。
っていうところで、まあ息を吸って議論しますよねと。
うーん。
やっぱりそれって言えば、自分のパワーしか使えてないってことなんだよね。
へー、ほいほいほい。
でも、新人がかかとで息をする何かっていうと、要は大地と繋がって、
その自然っていうものと一体化した中で自分が呼吸している、生きているっていう、そういう感覚になるんだってことなんだよね。
ほうほうほうほう。
よくさ、たぶん兄貴もさ、柔術か、やってるかなと思って、やっぱり下半身に重心を落とすとかさ。
うーん。
やっぱりそういうのってあったりするじゃない。
まあ、初心者なんで、その域に至ってないけどね、全然ね。
なるほどね。
まあ、なんか知識的にはそういうの弱いと思った時に、やっぱりそういう、なんだろうな、体の使い方が変わるとか。
うーん。
やっぱり呼吸一つ取っても、やっぱりその、なんていうのかな、その深みが変わるってことはありますねと。
そういうのを、新人の息はかかとにするとかって言ってるんだけれども、
要は、なんていうのかな、本当にその、なんて言うだろう、ゆったりとしたとか、自然と結びついたってなると、
ただ意識のものだけじゃなくって、体も本当にその使い方が変わってくる。
うーん。
そういうふうなことを言うんだよね。
なので、兄貴が言った通り、じゃあ赤ちゃんがそのまま新人ですかって言うとやっぱり違うんですよと。
はいはいはい。
やっぱりその、ちゃんと自然と一体化していくとか、もっと言うとタオルだよね、道と一体化していくっていうことは、
やっぱりある程度のその、まあ修行というか、やっぱり修練というのがやっぱり必要ですと。
ほうほうほうほう。
うん。なので、これやっぱりすごい大事なんだけど、ただ空っぽになればいいとか、
その、ただすべてを投げ捨てて、なんか無垢な状態になればいいっていうことじゃなくって、
それはたぶんあくまでも、僕らが生きているこの認識世界の中でのラッパなんだよね。
まあ確かに前回もやったもんね。確かに全部、何もやらなきゃいいのかみたいなことでもないよみたいなね。
そうそうそうそう。そういうことですよ。ただ役立たなくていいからグダグダすればいいってことじゃなくって、
それによって、ちゃんとその外側にある道の世界というか、すべてが一体となる世界と繋がれるっていう、
それが大事だから。
身体と心の解放
あーはいはいはい。ちょっと見えてきた。
そう。だから何もしなくていいとか、ただアンラーニングってことは何もまだまだないっていう、
それがいいのかっていうことではないって話だよね。
うんうんうんうんうん。なるほど。
あ、今ね、はいとか次回ちゃんとやるって言ってたんだけれども、今の話ちょっと見えてきたそのイメージがあって。
はいはいはい。
今日の前半の話だって、無にしようとか、我を忘れるだけで聞くと、さっきみたいな、じゃあ赤ちゃんどうするんだよとか、
アンラーニングする前に、ラーニングするのなんだよみたいな話になっちゃうと思ったんだけど、
今の話聞くと、この心細と座帽の感覚を得ることで、これは多分理想論的な話になっちゃうと思うんだけど、
それがあることで、何をラーニングすればいいのかが自ずと見えてくるっていう状態になるんだと思った。
はいはいはい。
それだと思う。その状態にいると、例えば赤ちゃんって、何も教わらないのに、息するでしょ、例えば。
そうだねそうだね。
手を動かす、足を動かすことも覚える、ご飯もちゃんと食べれるみたいな話と一緒で、そこは多分一緒の感覚にできるわ。
で、そうすると、さっきの心細で気を感じるとか、座帽みたいな感じで我を忘れる感覚で生きてると、
それで、いわゆる、自と他もないんだけど、自分と他人もないんだけど、他人だったりとか、その周りの自然というか、環境と交わる中で、
自然と自分があるべき姿みたいなものがあるから、これは必要だ、みたいな。
さっきの赤ちゃんが歩き始めるように、例えば、人と話すときはこういう感じで喋らなきゃいけないとか、
この今の環境で、例えばこの周りの役に立つとか、自分があれと交わって生きていくには、この辺のスキルだったりとか、こういう立ち振る舞い、
見つけていかなきゃいけないんだとか、自分が楽しいっていうのはこういうことなんだ、じゃあ、こういう音楽を聴こうとか、こういうスポーツをしようというふうな、
ラーニングすべきものが見えてくる、みたいな。これ理想論ね。だから、それが難しいから、そうでもないものをラーニングしちゃうから、
このラーニングがまた重要になってくるよね、みたいな順番なのかなと。
そうだね。今の話は本当にその通りで、以前かな、兄貴は幅の話をしてくれたじゃないですか、雑談のときだっけ。
ああ、宮城谷正光の暗視の中で出てきたって。
そうそうそうそう。幅っていうのは、あれすごく僕いいなと思って、今でも覚えてるんだけど。
つまり、草薙が言ってるのは、やっぱり全部が一緒だ、だからそこに溶けてしまえばよくて、何事も忘れればOKってことじゃなくて、
現実世界でそれぞれの幅がちゃんとあるんだよね。人間には人間の幅があり、もっと言うと、カンナ・ハヤトにはカンナ・ハヤトという人間の幅があり、
前回、古蝶の夢の話をしたけど、蝶々には蝶々の幅があり、面白いのは、その人間であるカンナ・ハヤトと蝶々っていうものは交換可能というか、移り変わることができるっていうのが多分草薙の面白いところなんだよね。
移り変わる、はいはいはい。
そう。人間のときはその人間としての幅で過ごしていくし、蝶々のときには蝶々としての幅で過ごしていきますね。
ああ、はあはあはあ。
なので、兄貴が言った学ぶっていうのは、自分の幅をちゃんと知りに行きましょうってやっぱり話なんだよね。
ああ、そうね。もしかするとそうなのかも。神祭と座帽をやることで自ずとそこが見えるというか定まるというか。
そう、定まってくる。基本的にはその幅以外のものをやっぱり身につけていたりとか、幅が足りなかったりするから、それをやっぱりちゃんと築いていきましょう。
ただその幅っていうのは、実固定的なものじゃなくて、全部解き合ってるから、蝶々のときには蝶々の幅になるかもしれない。
だからそのときは、人間のときに学んだ言葉とか、そういうものはいらないよねとか。
そういうことまで話せるような世界観なんだよね。
ああ、なるほど。それは夢があるね。なんていうか、これは自分の感想なんだけど。
はいはいはい。
なんかその自分の幅みたいな、だからそれは多分座帽が出てない状態?
例えば自分の幅に喜ぶとか、自分の幅に失望するみたいなタイミングってあると思うんだけど。
ああ、はいはいはい。
それ、そういうことじゃないんだっていう夢がある気がするよね。
そうね、救いがあるなと思ってて。やっぱりその、時々話すけどさ、これは朱子学のときかな。
法要明か、みんなは金を持っている。ただその金のサイズが違うだけだ、大きさが違うだけだって話があったじゃないですか。
ああ、はいはいはい。
これも、金は持ってるけど、でもやっぱり自分のが少ないなとかってちょっとしょんぼりしちゃったりすると思うんだよね。
そうだよね。それがわかっちゃって。本当にわかってる人は寂しくはないかもしれないけど、
まあそうだよなーってちょっと切なくなるのは、その一瞬は絶対経てるはずだよね。
いや、そうなんだよね。
悟る前に。
そうなんですよ。だったときに、掃除はそれすらもない。要は善悪もないしって言ってる通りで、
多い方がいいとか少ない方が悪いっていうことも言わないんですよ。
幅の重要性
ただあなたの幅があり、その幅で生きるということしかない、っていう話なんだよね。
だから、それに良し悪しはない。幅が広い方がいいとか狭い方が悪いとかってことも言わないし。
ただその幅、その幅の話は宮城太院さんの話から持ってきてるけど、その幅っていうもので生きる。これが大事だよっていう話なんだよね。
面白いね。確かにそれで、さっき夢があるみたいな話をしたけれども、
確かに確かに、夢があるって話をしたのは、確かに自分がその幅めっちゃ広い人にはなれないけれども、
なんかさっきの超と逆の、逆というか超と同じ話で、そっちを自分で幅広い人にもなり得るみたいなさ。
あー、そういうことね。
そう。のも想像としてだよ。
はいはいはい。
でも何か想像として楽しむのはできるけど、そっちにはなれないから、現実としてはね。
頭としては分かるかもしれないけど、自分の幅として自分で生きていくみたいなところを、多分そのフラットに感じられるというか、受け入れられるみたいな感じかな。
そうだね。やっぱり幅が広い方がいいよねって思ってる時点で、やっぱりそれと区別しちゃってるし、やっぱり目的を置いちゃってるから。
確かに確かに。その切なさに対する話か。
死との向き合い
そうそうそう。なので、これね、でも今の話すごくありがたい。次にも繋がっていくんですけれども、
まさに震災できました、座房できましたね、心を空っぽにして体もなくしことができましたってなったら、じゃあどうなりますかっていう話なんだけど、
ここにきて初めて僕らは一番、やっぱり生きていて怖いもの、向き合えないものに向き合うことができるんですよ。それが要は死っていう話なんだけど、
つまり死ぬっていうことっすら、万物生の時に、生死も分けませんって言ったじゃない。
やっぱりどう考えても分かれてるじゃん、僕らの発想からすると。
分かれてる。
死にたくない、生きていたいとかって時に、それってさ、より魅力的な人になりたいって言うと同じくらい、やっぱり死ぬって嫌だしという状態になりたくないって言うのってあると思うんですよ。
でも、この震災とか座房っていうところをやっていくと、その気持ちはなくなるよねってことをソウジは言うんだよね。
だから前回か前々回の、ソウジの奥さんが亡くなった時にめっちゃ賑やかになりましたみたいな、そこの意味が分かるかもねって話か。
そうです。なので次回まさにその話を取り上げながら、この震災とか座房をやった時に、僕らはどんな風に生きていくんだろうねっていう、
もっと言うとどんな風に生きるとか死ぬとかに向き合うんだろうねっていう、そこをお伝えしようと思ってます。
分かりました。では次回ですね、このソウジにおける死とは何か、その辺も見ていくというところで楽しみにしていきたいと思います。
では次回もよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
48:15

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