1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #109 笑ってはいけない禅問答..
2023-05-10 42:39

#109 笑ってはいけない禅問答!?臨済録の奥深さを味わおう

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。

▼おたよりフォーム
ラジオのご感想やコメントなど、お待ちしております!
https://forms.gle/ThJocrLap77ELG7B7
臨済の教え
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
前回は、輪際すげーってなるエピソードというところで、悟った輪際がどういった説法をしたかとか、そういった話を聞いてきたんですけれども、
今回は一転して、ちょっとこう、輪際でもやり込められることがあったんですよみたいな、そういう話をしてくれるっていう感じでしたね。
そうですね、はい。なので、前回までは割と解説してね、複音性的になってわかったみたいな感じだったと思うんですけど、
今回はちょっとわからんみたいなところを、むしろ感じていただきたい回でございますと。
はいはい、そんなね、甘いもんじゃないぞと悟りは。
甘いもんじゃないっていうか、やっぱ、なんていうのかな、わからないこともあるよね、みたいな人間だもんみたいな、そんぐらいの気持ちでいいと思うんですよね。
まだわかるかわかんないだろうとかじゃなくて、そんな人たちもいるよねみたいな感じで聞いて欲しくて、
ちなみに僕の中ではね、これ悪党シリーズって呼んでるんですけど、
悪党強いじゃん。そんな人もいるよね、じゃないじゃん。結構強い言葉ね、悪党。
なんでそれを悪党シリーズっていうか、聞いていただければちゃんとわかると思うので。
はいはいはい。
今日は早速、臨済がやり込められるというか、そういう話からちょっと持ってきたのでお伝えしたいと思いますと。
はいはい、お願いします。
前回、臨済さんのところに教えを説いてくれって言った父さんがいたよ、みたいな話をしたじゃないですか。
うん、あったあった。
この人はまた訪ねてくるんですよ。定期的に通ってるんだよね、たぶん。
この人は前回お名前は伝えなかったんですけど、オウジョージさんっていう人でして、名前が伝わっててオウさんって呼ぶんですけど、
オウさんと臨済さんのやりとりなんですよね。前回は臨済さんがいろいろお坊さんと話をした結果、こんなこと無駄だからやめるって言ってやめちゃったんだけど、さて今回どうなりますかっていう話ですと。
今回はもう一対一なの?
うん、一対一。
はいはいはい。
オウさんが臨済さんのところを訪ねて訪ねるわけですよね。
で、突然ここのお坊さんはお経を読みますかって聞きますと。
これもちょっと嫌な質問で、前々回から第二回の時に、善の人たちが初対面で問う言葉っていうのは結構いろんな意味を持ってるみたいな話をしたじゃないですか。
で、これも実は深い質問で何かっていうと、要は前回それこそ来てるみたいにオウさんは別に初めて来たわけじゃないんですよね。
だから別にこの臨済さんのお坊さんたちは何やってるのかって当然知ってるし、善のお坊さんもお経の勉強ぐらいするわけだから、修行としてお経読むことはもちろん知ってるわけですよ。
それを知ってる上で、そういうお経を読みますかなんてわざわざするわけだから、ここにはちょっと善的なというか、ただの質問じゃないよっていうものがそもそも含まれるわけだよね。
なるほど。属性の人とはいえやっぱりそこまでの立場である人だから、そんな頭悪いわけないよねと。ちゃんと意味はあると。
っていうのを解説的な話としては、質問とかやり取りの後にそういう解説がある種言われたりしますっていう感じなんだよね。
臨済はそこで答えるわけですよ。いやいやお経なんて読みませんよと。
続けて王さんが尋ねますと。ではじゃあ座禅はしますかと。それも臨済はいやいや座禅もやりませんよと。
王さんがなるほど、お経も読まずに座禅もやらないとすれば一体何をしているのですかって聞くんだよね。
目に入る病気
そこで臨済さんが答えて、彼らをみんな仏や祖師などお釈迦様にならせるんですと。
そしたら王さんが臨済の痛恨のミスを見逃さずに、金のクズっていうのは尊いんだけど、目に入ると病気になるって言葉がありますよねと。
そのあたりはどうですかって聞くんだよね。そしたら臨済さんがはっと気づいて、いやいやあなたのことをてっきり俗物だと。
取るに足らない人だと思ってたんだけれども、なかなかやりますねっていうふうに認めますよっていうのはお話ですと。
どうだろう?触ったでしょうか。
えーわからない。ミス?
そう、痛恨のミスがあるんですよ。臨済さんが教も読まない、座禅もやらない、何するんですかって時に、彼らをみんな仏にならせるんですって言いますと。
あれなのかな?これは金のクズの方だよね。多分この王さんの方の回答に何かあるんだと思うけど。
臨済が自分のお弟子さんというかお坊さんたちを仏やお釈迦様にならせると、そこそこ立派な悟りを開いた人にならせるんだぞという話をしていると思うんだけど。
そういったこの臨済の考え方に悟った方が尊いとか、仏道の方が尊いみたいな属性と考えた時に、なんかそこ上じゃないですかみたいな感じを感じたってことなのかな?そこを突っ込んだのかな?
そうそうそう。でもね、本当そういう感じです。これもあくまでも解説というかね、そういう話でしかないんだけど。まさにその王さんが言った金のクズが尊いっていうのは、まさに仏性とか仏になろうとすることだよね。
それが目に入ると病気になるというのは、要はそのものさえ尊いけど、それを囚われてしまうとか、それを大事にしてしまうと結局その囚われとか執着につながりますよね。
そうやってどうですか?要はあなたは今、お経も読まない、座禅もやらないっていう、要は一般的なことを否定して仏にならせるみたいな、その仏になることが大事だっていうふうに言ってましたけど、それが大事だっていうことって、本来の禅の教えからすると素向いてませんか?っていうふうな話をチクッとさすんだよね。
なるほど。ある意味、お経読まない、座禅もしないと同列に悟るもあれべきなのに、なんでそこだけちょっとこういう感じなんですかね?みたいなところが見捨てたのか。
臨済に対する質問とその反応
そう。ここも臨済が本当にどう思ってたかわかんないけれども、そういう、要は俗仏だと思ってた人が、ああだこうだ言ってくるから、いやいやもううちはそういう俗のことやらずに仏になるっていう、そのことを大事にしてそこに専念してるんですって言った時に、
仏になることに専念するとか、ならせるっていうふうに、要はもう仏なのに、あなた自身が仏ってずっと言ってるのに、ならせるみたいな、仏を求めるようなことをしちゃうのって間違ってませんか?っていうふうなことを返されて、ちょっとこれは自分がうっかりしていたなと。
はいはいはいはい。
というような話のやり取りが残っていますという感じだね。残っていますというか、実はちょっとこれ種明かしすると、実はちょっと臨済の実際のやり取りじゃなくて、他のお坊さんの逸話がこの臨済力に取り込まれたものらしいんですよね。どうやらその学術的な交渉をやっていくと。
そうなんだね。臨済の話はないと。臨済にはなってるけど、登場人物として。
おそらくね。
そんな考察までされてるんだね。
そんな考察もされてる。これって本当?みたいなね。
だとしてもやっぱり前回やったみたいにさ、仏を殺せとか、こんなやり取りが目立たなくてパッと取れちゃうみたいな、そういう勢いがすごい臨済でも、時々はこうやって間違えちゃうとか、ふとした瞬間に仏とか悟りの視点をちょっと忘れちゃうみたいな。
やっぱりそういう話をあえて載せることで、やっぱり前回あったような臨済すげえって言って崇拝しちゃうとか、臨済をそれこそ深刻化しちゃうみたいな。
そうじゃなくてちゃんと自分に立ち返りなさいよみたいな、そういうメッセージになってるんじゃないかなっていうことも感じるんだよね。
はいはい、いやー面白いね。これは悟った人あるあるなのかもしれないね。ちょっとこう油断してるときとかにね。
そうそうそう。だからやっぱりこういう、ある種王様みたいな、普通の人というか仏じゃない人とやり取りの中でもそういうのが見えるみたいな、ちょっと人間らしさというか。
まさに悟りっていうのが別に、すごく人を超えてすごい境地に至るとか、完璧長寿になるとかってことじゃなくて、ある種やっぱり生き方の話なんだよみたいな、この臨済の善の話でいうとね。
なるほどね。まあでもちゃんとその隙を突かれて、この金の屑は尊いけど、どうなんですかね、その辺みたいに聞かれたときに、わあそうだったみたいな、そこはちゃんと気づけるっていうとこはあるってことなんだね、そこは。
やっぱりそれはもちろんちょっと臨済がやっぱりわかっている人だよっていうオチというか、その話の終わりになってるんだよね。
そうじゃないとね、早くいかない、ここでめっちゃブチ切れたりとかしたらね、ここに里となるじゃん、みたいなね。
そう、そう、そう。そうなっちゃうとね、良くないので。
だからやっぱりこれ面白いよね。お経を読みますか読めません、座禅しますかしませんっていうのも、これもやっぱり当然やるんだよね。
お経も読んでるし、座禅もやってるんだけど、座禅をやってるんじゃなくって仏になるんだっていう、そっちが大事で、座禅っていうのは手段だよ、お経っていうのは手段だよっていうのが正しいというか、やりとる人たちは適切なんだけど。
そこにお経と座禅を捨てて、仏になるっていうのを取るって言っちゃうと、まさにそれは片方を捨てて片方を取るとか、あるものは良いとしてあるものは悪いとするみたいな、やっぱりそういう執着の話につながっちゃうから、やっぱりそれを越えないとダメですよねみたいな。
そういうような話がこのエピソードからは伝ってくるよなっていうふうに思ったりします。
いい話だね、やっぱ。
知事さんの等覚と禅の世界
知事さんっていうのが俗世の人だとして、きちんと勉強もして、ある意味中国の時代の権力構造の中でめちゃくちゃその等覚を表す、ちゃんとやっていくって多分すごいことだと思うんだよね。
頭も良くなきゃいけない、人間関係もちゃんとしなきゃいけないみたいなところ。ある意味この人が一流な人だとすると、そっちの一流の人から見えるこの禅の世界の一流だったりとか、そういう意外とパッとついてくる言葉ってあるんだろうね、これは。
すごいね。
やっぱりそこをちゃんと感じ取るとか、分かった上でやっぱり会話ができるっていうのは、まさにお互いに分かってるというか、そういう価値観とかやっぱり世界を共有してるからこそだよねみたいな。
ともに感じるすごい面白い話だなとは思うんですけど、ここまでは意味が分かる話、解説とかできる話、意味が分かる世界の話ですと。
はい、面白かったです。
ここから僕が勝手に言ってるだけなんですけど、悪党シリーズをご紹介していきましょうと。
ここからね。
ちょっと参考にした解説本、また参考文献のノートにも載せるんですけど、そこにもあえてこの話には解釈とか考察とかを一切やらずに、ともかく話を話として読んでみるだけにしたいっていうふうに書いて紹介されてるんですよ。
へー、そうなんだ。
探せばね、たぶんどんな意味ですかとかどういう解釈ですかっていうものもあるとは思うんだけれども、あえて意味を理解しない。
前回意味について話したじゃないですか、テーマとしてね。
その意味をあえて扱わないというか、大事にせずに話として紹介していきたいというふうに思いました。
はいはい、いったん副音声なしでってことだね。
うん、副音声なし。できないもん。ちょっと聞いていただきたいんですけど、まず一つ目ね。
ある年老いた、いわゆる老齢というかね、年取った和尚さんが臨済のところにやってきますと。
たぶんね、臨済さんがお寺とか開いて少し日が浅くて、ちょっと見極めてやろうかなというか、ちょっと力試ししてやろうかなみたいな感じなんだと思うんですけど、やってくるんだよね。
臨済さんもそういう雰囲気をちょっとさして、やり取りをしますというのが残ってて。
和尚の礼拝についての問答
どんなお話かというと、その年取った和尚さんがやってきて、挨拶もせずにいきなり尋ねるんですよね。
あなたに礼拝した方がいいかな、それともしない方がいいかな、と言います。
礼拝というのは尊敬というか礼儀を見せるというか、どうもお世話になっておりますみたいな、ある種こういう礼儀の話だから、それを示した方がいい、示さない方がいいみたいな、なんとも失礼な話なんだよね。
それに対して臨済が一括するとか、やると和尚さんは礼拝しますと。
そしたら臨済が、なかなかの悪党ぶりだなって言うんだよね。
そしたら和尚さんが、悪党、悪党って言って出ていきます。
それを見て、臨済が一言、これで済んだと思うなよって言って終わるっていう話。
終わり。
ちょっと実は続いて、他の弟子との話とかがあって、今のはどっちが良かったと思うみたいな話をして、その弟子も出てくるみたいな、何も言わず出てくるみたいな話があるんだけど。
そんな感じ。
次ね、もう一個いきます。
次はですね、臨済さんの弟子で、フケさんっていう人がいて。
フケさんが出てくるエピソードもいくつかあるんだけど、この人がね、結構な変わり者で、言葉が良くないんですけど、割と狂っちゃってんなみたいなぐらいのエピソードが残ってるんですよね。
ヤバさも結構段違いなんだけど、その中に悪党エピソードっていうのがあって、ある日フケさんがお寺の前で生の野菜を食べてます。
野菜ステーキとかならいいんだけど、掘った人参とかそのまま食ってるんじゃないかって思うんだよね。
で、それを見た臨済が、まるでロバそっくりだなって言いますと。
お寺の前で生野菜食ってて、ロバみたいだなと。
さすがの臨済さんもスルーできなかったんだろうね。
ちょっと行儀が悪すぎるんだね。
多分ね。
そしたらフケさんがですね、ロバの鳴き真似をしますと。
YouTubeで見たんだけど、ロバってモーモーとか牛とか分かりやすいじゃんか。
じゃなくて、オホホホみたいなすごい野生味がある鳴き声なんだよね。
はいはい、ロバのね。確かあんまり聞いたことない。
ないよね。YouTubeでロバの鳴き真似って出てくるんで、よかったら聞いてほしいなって聞いたんですけど。
そんなフケさんに対して臨済がまた、この悪党めって言うんだよね。
そしたらフケさんがまた、悪党、悪党って言ってその場を去ります。
はい、おしまい。
悪党シリーズについてのコメントと解釈
流行ってんの?当時。
僕思った、絶対このエピソードとか小学校の国語の教科書とかに載ったら流行ると思うんだよね。
悪党、悪党って言って逃げていくスタイル。
そうだね。
以上。
以上なんだね。悪党シリーズ。
悪党シリーズ。他にもいくつかあるんだけど、3つか4つくらいあるのかな。
悪党、悪党みたいな話。
これ臨済がただいじられてるだけじゃなくて。
分かんないのよ。
僕はこれ読んだ時に一人で爆笑してて、ほんと分かんないなって思いながら。
分からなさっぷりにね。
分からなさすぎて。
ちなみにこれは日本語で言うと悪党なんだけど、中国語で言うと賊?三賊と海賊の賊っていう言葉で、賊賊って言って出てくるみたいな言葉なんだよね。
それでも全然分かんないんだけどさ。
そうだね。何を持ってそういうふうに思ったかみたいな。
一応その臨済の方から、なかなかの悪党ぶりだなとか、この悪党めっていうふうに言ってるから。
毎度それに反応して、悪党は悪党って言ってんだろうなとかっていう、考察っていうかさ、推測はできるけど、でも全然分かんないんだよね。
いやー、面白いね。なんとなくだけど、ハヤトの解釈とかってある?先に感想を言ったほうがいい?
ないんだよ、僕。分かんないもん。なんでさ、臨済はこの悪党めっていう、悪党とか賊っていう言葉を使ったのかも分かんないし、悪党悪党って出てくるのも分かんない。無言で出てくるのならまだ分かるんだけどさ。
悪党悪党って面白すぎるじゃん。
まあね、本当っていうかね、普通のやり取りじゃないもんね。
普通のやり取りじゃない。だから、分かんないなっていうところで、あえてそれでいいかって思ってる節はある。
無理矢理感想を言っていい?これ。
解釈、どうぞ。
これどっちも相談と思うんだけど、たぶんどっちも、このオショウさんも、このフケも、常識から言うとちょっとずれた行為をしてしまってると。
臨済はその常識から外れた行為に対して、コメントしてるんだよね、ちゃんとどちらに対してもね。
そちらもこの悪党めと、悪党っぽいねみたいな話をしちゃったと。
それに対してたぶん、そこがすでに罠で、そういった常識から外れた行為をした時に、悪いことですよねみたいな。
評価をしちゃった臨済に対して、やいと。
そんな一般常識で判断してやがって、もうちょっと悟ったんだったら気の利いた?
もうちょっとユーモアのある回答してみろよ、みたいな。
そこを試されてるんじゃない?2人に。
悪党って普通のこと言ってる?いやいやいや、みたいな。
もう普通だ、面白くねえし、みたいな。
話をどっちも思っちゃって出てった、みたいな。ある意味無茶ぶりだよね、でもね。
みたいな感じだろうかな。
だからスピンザは試しに来てる人たちだよねっていう感じの解釈だよね。
それ分かってんだったら、もうちょっと変なことやってるのは分かってんだから、もうちょっとユーモアの効いたら面白いこと言ってよね、みたいな。
つまんないなあ、お前、みたいな。
それ悟りの、悟りチェックなのかね、ただの奥義チェックなのか知らんけど。
どっちなのか知らん。どっちの意味で面白いのか知らんけど。
そうね、ここまで来るとね。
分からなすぎる。やろうとする意味も分かんないし。
深い意味を持つ禅問答
それで何か悟ってるかどうかが分かるのかも分かんないしね。
そういう意味で狂ってる感はあるけど。
そもそも振りがおかしいっていうね、お嬢さんもこの助も振りが本当に意味不明すぎる。
そうね、ちょっと斜め上すぎるみたいなところもあるし、果たしてそれで何を仕事してるのか、意図が分かんないね、やっぱりね。
出てっちゃってるしね、そこらに。
確かに兄貴の解釈に寄せて話すのであれば、やっぱり前回も言った通り、人はやっぱり人材は一つのお寺というか、そういう人たちのトップとして、もちろん世の中で生きていかなきゃいけないと。
でもこういう年を取ったお嬢さんとか父家さんみたいなそういう人たちは本当に自由というか一人で生きてると思うから、好き勝手もっとできるみたいな話があるのかもしれないと。
はいはいはい。
前ちょっと言ったかもしれないけど、チベット仏教とかそっちの方の悟った人で、まさにその辺の頭蓋骨とかをほっぷりして水飲んでるみたいな人の話したの覚えてる?
なんかあれ、卓発の元みたいな感じだっけ?
そこまでは言ってない気がするんだけど。
でもそういう要は世の中の常識とか自分の価値観で生きるっていう究極の姿がそれだみたいな話で出てきた話があって、それはちょっと人の道外れすぎじゃんみたいな感覚はそれはそれであると思うんだよね。
もし兄貴のそういう、ちょっと常識にとらわれやがってとか、自由に生きるわみたいな話だとするなら、でもそれってやりすぎると結局世の中からはじかれてるしみたいなところとどうしても攻め合い?
臨済録の深さと魅力
確かにそうだね。前半のあれと似てるかもね。知事さんとのやりとりでさ。いい悪いの反対側に振っちゃった結果みたいなのとか、普通でもいいし普通じゃないでもいいんだったら、じゃあ全然普通じゃなくてもいいでしょってそのドクロを使うとか。
今回で言うといきなり変なことをしちゃうみたいなのは、それはそれでフリスニーでしょ?みたいな目もあるってことか。それは確かにね。
やっぱりね、そこは難しいすごく。もちろんありのままでいいし、自分自身がおどけなんだけど、なんか別に助さんも臨済から認められているというか、ちゃんと弟子として大事な存在なんだけど、やっぱりちょっとトリックスター的なというか。
なるほどね。今回ちょっとお笑いの話みたいな話しちゃってるからなんだけどさ、確かにね、すごい面白いと言われてる人がいたとして、誰でもいいよ松本一史とかでもそういう人でも誰でもいいんだけど、そこにいきなり映画史じゃ2時50分が登場してきて、もう大爆笑かっさらえるかみたいな話だよね。
それを受けた上で、みたいな。
やっぱり難しいね。江頭さんはやっぱりすごい人だと思うけど、江頭さんとピンの番組ができるかっていうと、難しいよねみたいな。
江頭と2人で番組をめちゃくちゃ面白く作っていけるかみたいなね。
そうね。
やっぱりそういう関係性とか、こっちがいるからもう片方が引き立つみたいな、そういわゆるコンビというか、それこそ漫才的な話もあるだろうし。
やっぱりそういう意味でのストーリーだからさ、この臨在力というかその全問答みたいなものも、やっぱりものが含まれてるのかなと思うんですけど、もうちょっと広い意味で解釈、よく解釈しようとすると、
やっぱりこれ普通ではよくわかんないというか、その臨在がやり込められるとかもそうだし、やっぱり何言ってるんだろうって全然わかんないっていうことがある種織り込まれてるっていうこと自体が、
臨在という人とかその臨在力って読むのがやっぱ深さ?
分かった分かったじゃなくて何言ってるか分かんないからこそ考えたくなるとか、何かそこに意味を見出そうとするみたいな。
ところがこの1200年越えても、あんまり一般的な本ではないかもしれないし、別に誰も読んでますってほどではないけれども、ちゃんと飾り継がれてとか、その時々で読まれながら残ってきたっていう。
やっぱりそういう魅力にもつながってるんじゃないかなとは思うんだよね。
禅の語録からの豊かな解釈
なるほど、はいはいはい。
やっぱり全部が分かった分かったみたいな話だと、逆に歴史に残んないというか、あんまりこうやって構成に語り継がれる人とか本にはなってなかったと思うんですけど。
これは小説とかも一緒だと思うんだけど、やっぱりこういうわからなさとか、容易ではない、簡単には理解できないからこそ人を引きつけるみたいな。やっぱりそういう魅力があるんじゃないかなと。
なるほど。
うん。
まあ確かにそうだね、全然分かっちゃいないけど、仏教とか禅とか悟るみたいな話からいくと、確かに一冊の本、確かにすごくわかりやすい言葉を並べれるよりも、一冊の本として悟るみたいなものとか、
そういう道みたいなものを表現した時には、そういったエピソードも必要不可欠みたいなところがあったのかなみたいなのを、確かにハヤトの話を聞くと思うね、確かに。
一冊が作品みたいなね。この一つの言葉がいいとかじゃなくて。
だからこれは臨済の言葉でもありつつ変者というか、後世の人たちがいろんなエピソードをつけたり足したりしながら作ったものだから、そういう意味では編集者というかね、そういう人たちの意図もあるよねっていう感じですね。
なるほど。
そういう意味で言うと、前回意味の話をして、今回禅の話をして、それこそ構造とか実存とかいろんな話をしたけれども、
わからないからこそ豊かな意味があるとか、意味がないからこそ意味が強調されるみたいな、そういう世界観があるなと思った時に、
やっぱり禅の語録というか、そういうやりとりストーリーっていうのはその方向だなと思ってて、
わからないからこそ意味がある気がするとか、自分の解釈を豊かにさせてくれるみたいな、やっぱりそんなところはあるんじゃないかなと思ったりします。
確かにね。いろんな人が面白いって感じることが目的の本じゃないもんね。
そうそうそうそう。
すごい感じた。
臨済録 読むことの難しさ
やっぱり何か理解を促すとか、一つの正解を伝える本みたいなことではないから、
やっぱり兄貴がリアルタイム性とか、そのライブ性か、みたいに言ってくれたけど、まさに読んでる自分と臨済との対話とかっていう、ちょっと言い過ぎかもしれないけど、
やっぱりそういうところが本というかね、言葉にはあるし。
それを一部にしようとしたっていう。
そうそう、なんかいいんじゃないのかなーみたいなことは最近自分自身も思って。
逆にさ、わからない時はさ、何かわかりたいとか、外に近づきたいとか、それがわかるんじゃないかと思って読んでるわけだよね。
思っちゃう。やっぱ正解知りたいとかって思っちゃうもんね。
ここで臨済は何を言ってるんだみたいな。
でも解説本とか読んで、なんとなく分かった風になったからこそ、別にそっちにこだわらなくていいかなというか。
別に一個の正解を辿るよりは、ここではもしかしたらこんなこと言ってるのかもしれないとか、なんとなく自分はこんな風に感じたっていうのを大事にして。
読めるようになったら、それはそれでまた一個の成長じゃないかなっていうふうに思ってる感じなんですよね。
はいはい、なるほどね。確かに確かに。すごい世界だな。
確かに、正解してても結局、悟りの道にはいけないっていうこともめっちゃあるからね。
いや、罠だな、それは。
そうそうそう。やっぱりこの分からなさを楽しむみたいなのは結局哲学ではっていうか、考え続ける。
だから分かったって言って終わっちゃったらすごくもったいないし、
一回分かったと思ってまさに兄貴も言ってくれたけど、やっぱり悟ったからゴールじゃなくて、そこから始まるんだみたいな感じで。
やっぱり一個のことが分かったら、そこから先の世界が見えてくるみたいな。
物ってやっぱりすごい楽しいなと思うので、それをちょっと今日感じていただけたら嬉しいなっていう感じですね。
いやー、面白い。ありがたいね。
自分なんかそこ、分かったり止まっちゃう方の人間だから、それがない人間にとって、
じゃあその一つ分かったことで次の知らないことが見えてくる感覚って、実はそれを体感するとか、
本当に理解するって多分結構難しいことなんじゃないかなって思ってて。
なるほどね。
だからそこの感覚がないからこそ、こうやってその感覚だよね。
一つの道をきちんと極められないけど向かっていく、真摯に向かっていく感覚っていう。
何か好きを突き詰めるとかでもいい、何でもいいんだけど、その感覚が本当にない人はない、自分なんかそう。
ずっと言ってるもんないけどね。
そこはありがたいね。そこを意識してこういう風にやれば突き詰めていくんだよっていうのを。
自分はちょっと具体的すぎるけどね。
はいはいはい。
そういうとこは良かったかな。
やっぱり前も道だから続いていくというかそれを辿っていくみたいな。
隣在録の奥深さ
やっぱりある種イメージも湧くし、それをどこまでもある種進んでいきましょうみたいな感覚で言うと、
今回全部で実は7つもお話をしてまして、この1回2回3回4回で。
7つのお話を紹介しながら、隣在さんのある種禅の考え方とか、あるいは隣在を通じたその禅自体の奥行きみたいなところを少しでもまたお伝えできたんじゃないかなっていう風に思ったりしてます。
隣在録にはもっといろんなエピソードがあるので、もしよかったらそういったのもぜひ読んでいただきたいなと思うんですけど、
最初にもお伝えした通り隣在さんの主張自体はすごいシンプルなんですよね。
これは本当にあなた自身が仏だと、それを信じきりなさいと。
本当に言葉にしたらこれだけなんだけど、やっぱりそれを理解する、理解っていうか、それこそ信じるとか、そういうふうに生きるっていうことはやっぱりすごく難しい。
はいはいはい、なるほどね。深みが確かに増した気がするね、今回の話でね。
長い間こういうことをなんとなく聞いていただくと、悟って言ってもそんな単純なことじゃないんだなとか、禅って言ってもただ座っているだけじゃないんだなみたいなところも感じていただけたんじゃないかなと思うんですけど、
禅自体は今後引き続き僕も好きっていうのもあるし、面白い考え方だなと取り入れたいなと思っていて、
まさに前に兄貴が生を出してくれた道元とか、あとは日本の禅をどうやって授業されたかみたいな話とかも、いつになるかちょっとわからないけど、今後ソイテッドラジオが2年3年続いていく中では多分取り上げるだろうなと思ったりしています。
はいはいはい、いやー早くやってほしいね、2年3年というやつ早くやってほしいね。
そう言っていただけるだけでありがたいけど、今やりたい人が渋滞しているからさ。
それもすごい話だね。
あとはね、テーマとしてね、一テーマドーンってやらずとも、いろんな面白いエピソード、禅のエピソードっていうのはあるので、それはそれでちょこちょこ取り上げていくとかもやりたいなというふうに思ったりしております。
はいはい、ぜひぜひ。
で、今回リンザイさんのお話っていうのは一旦終了でして、次回はね、やっとこのフッサール。
あー名前ばっかりずっと出てきてたね。
そう、名前だけずっと言ってて、フッサール原初学すごいみたいなことだけずっと言ってたと思うんですけど、やっと取り上げられるなって思ってます。
はいはいはいはい。
で、そっからハイレガーね。
ふーん。
ハイレガーどうだって言ってたけど、そういう感じだよね、そりゃそうだよね。
ハイレガーはやっぱり20世紀最大の哲学者と呼ばれる人なんですよ、ハイレガーさんは。
なんでスタンスも人までやってないんだ?
フッサールの重要性と深さ
いやいや、やっぱりね、こうあるんですよ、いろいろね、その、ハイレガーさんやっぱりやるにはフッサールさんやらないとダメだなとか、
フッサールさんも本当はサルトルさんの前にやらなきゃダメなんだけど、ちょっとフッサールさんいきなりやるとちょっとねわからないよなとか、やっぱそういう人っている、一応自分の中でね、こう段取りとかあれはあるんですよ。
あとね、順番がね。
出し惜しみしてたわけではなくてね。
とかちょっと西洋続きすぎるとちょっと荒れるかなとか、ニーチェ、フッサール、ハイレガー、サルトル、リビストローサがやっちゃうってちょっと重たいよねとかさ。
はいはい、そこは抜いても縦軸は意味通るしみたいなね、あるんだね。
そうそうそうそう、ギリいけるかなみたいな。
あとですね、やっぱ実存主義をやってからサルトルに戻ると、これは僕がやってたかと思ったんだけど、なぜそういう考え方が必要か。
フッサールは現象枠って、これちょっとちゃんとフッサールの時に言うんですけど、いきなり現象枠いってもわけわかんないとか、なんでやっぱそれが必要かがわかんなかったのよ僕は。
はいはいはいはい。
その結果生まれては実存主義とかサルトルとかを読んだ後に、方法論としての現象枠に戻った時に、だからこんなことを考えるのねみたいな。
はいはいはいはい。
そういうご理解につながって、ちょっと自分の中では腑に落ちた部分もあったので、ちょっとその順番をソイテッドラジオンにたどらせてもらってるっていうのはあるんですよね。
あーなるほど、わかった、今だって熱かったね今ね。
もう今日終わりに向かってるのに始まりそうな勢いだったもんね。
フッサール第一回。
フッサール第一回かみたいなね。
そうそうそうそう。
はい、なるほどなるほど。
かつやっぱりこのリンザイさんとか善的な自分からの世界を立ち上げていくかとか、
なんていうのかな、いわゆる、ちょっとこれフッサールの時にちゃんと言うんですけど、そういう現象枠の深みみたいなものが絶対あるので、
そこもちょっとこう、善だったりとか、そういった行動主義とか実音主義的な考え方があることでやっぱりわかりやすくなるんじゃないかなっていう思いもあって、
ちょっと今満を持してフッサールさんを取り上げたいなというような感じですね。
次回の話題準備と挨拶
はいはい、なるほど。
そうはね、ちょっとまたやっぱりこうやって問いを聞くとまた声援を聞いてもいいかなっていうね、ちょっと準備ができるんで。
そうですね、ちょっと余裕がやっぱりできるじゃないか、ポロッとさ、頭のね、やっぱり余裕ができるからさ。
はいはい、わかりました。じゃあちょっとまたね、次回こうフッサールということで、
うん、確かにずっと名前出てきてたんでついにっていうね、ちょっと感じはするね。
うん、ね。
じゃあちょっとまた、ただ次回は雑談とかまた挟みながらね。
そうですね、お便りとかもね、紹介させていただいて。
やっていきたいと思いますので、じゃあまた次回。
じゃあまた次回引き続きよろしくお願いします。
はいお願いします。今回もありがとうございました。
42:39

コメント

スクロール