1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #132 似ているようで違う、荘..
2023-07-30 44:22

#132 似ているようで違う、荘子と老子の「道(タオ)」

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

荘子の思想は老子とは異なり、道を構造的に捉えるのではなく、広く浸透している存在として捉えられています。エピソードを通じて、道に対する掃除の視点との違いが明らかにされます。荘子の道はあらゆるものに浸透しており、道に通じる人はその働きを通じて他の人に影響を与えることができます。道に通じることは第一人者として称賛されることを意味し、例えば牛をさばく道や泳ぐ道に通じた人を指します。その人は道に備わっている働きを熟知し、自分の体と一体化してその道を極めることができます。道とは何かに悩む先頭を走る人と後を追う人の違いや、道と自分が一体化し、道に通じることで成し遂げることができることについて話されています。また、道は世界と調和することで理解できる存在であり、道を追求することで自分自身も変わっていくのではないかという深い視点が示唆されています。今回の話では、『道』に関する疑問や道を極めることが自己の存在とどう関係しているのかについて話しました。また、掃除特有の言葉として『物価』と『制度』があることも指摘されました。

荘子の道と掃除の対話
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回、荘子第2回ということで、前回は前の老子と同じように、結局荘子って何者なのかわからんみたいな、そんな感じだったんですけど、今回からちょっと具体的な思想とかその中に入っていくというところでした。
そうですね。荘子もいろんなテーマがあるので、一言で、荘子はこんな思想家だとか、こんなことを主張したぞって言いにくい部分はあるんですけど、
今後、今日含めて3回分ぐらいで、なんとなく全体として、荘子ってこんなことをやったんだみたいなことをお伝えできるように話していきたいと思うんですけど、
その第1回としては、まずはこの荘子の道、タオですね。これを見ていきたいと思います。
老子の時にも、道とかタオってすごい中心的な思想だったし、道に従って生きるのが人生とか人間の成功の生き方だ、みたいなのってあったじゃないですか。
荘子も同じこと、道っていうものについて語ってはいるんですけど、意味が結構違うらしいんですよね。
そこは老僧思想でまとめられがちなポイントだったりするのかな、そこが。
そうそうそう。道は大事だって言ってるから、老僧思想とか道家、道の家って書いて、そういう流れがあったよって言われるんだけど、あとは道教って宗教になってくるんだけど、
実はよく見てみると、この道の捉え方とか、付き合い方というかスタンスが結構違うね、みたいな話があるみたいなんですよね。
はいはいはい、そうなんだね。
結構ね、そこがわかると、確かに荘子って特徴のことを考えていたので、道っていうことも見えてくるんじゃないかなと思って今日は持ってきたんですけど、
おさらい的にね、前回やった老子の道っていうのは、いわゆる万物のポンポンってかさ、世界がそこから始まって、1が生まれ2が生まれ、3として世界が生まれるみたいな話をしたと思うんですよね。
1のさらに前の部分みたいな感じだったよね。
そうそうそうそう、本当に根源というか、全てが始まる場所みたいな、そういう感じのイメージでしたと。
さあね、荘子では道ってどんなものかっていうと、あらゆるものに影響を出しに与えてるんですよ。
あそこにも道が影響するし、こっちにも道が影響してるんだけど、根源だとか、全てがそこから始まったみたいな感じでは特に話しないんですよね。
そうなんだ、そこから違うんだね。
イメージとして、老子の道はお鍋がグツグツして、そこから全部出てくるみたいな、お鍋そのものみたいな、ちょっとカオスな感じなんだけど、
荘子の道は世の中があって、その中に広く浸透してるみたいな、そういうちょっと違いがあるよっていう前提で、ちょっと今日話をしていこうかなと思います。
なるほど、はいはいはい、まぁちょっとわからんけど、なるほどね。
ちょっとそこをね、言っていくんですけど、
結構その、老子は道に従うべしみたいな、そういう感じだったと思うんですけど。
あー、あったね、確かに確かに。結構あるべき論みたいな、結構理想が強かったよね、なんかね。
そうそうそうそう、なんかね、別に言うと、あるがままに道に従えばオッケーみたいな感じだったんだけれども、
荘子に関してはその、いわゆる道ってそういうね、荒いものに浸透してる仕組みなんだけど、そこからどう逃れるか、
もっと言うとその、自由とか自在に生きるには、その道のはさだきからも、逃れるというか、
そこから、ちょっとなんだろうな、それに囚われちゃってもダメだよねみたいな考え方もなんか解釈としてあるらしいよね。
へー、あーそうなんだ。
そうそうそう、だから、荘子みたいに純粋に道に従えば万事オッケーみたいな感じでもないっていう、結構その辺の微妙な違いがあるので。
へー、なんかちょっと冷静な感じがするね。
そうそうそうそう。
まずそんな道というものがあって、そこから逃れてもいいというか、へー面白いね。
その辺のエピソードをいくつか紹介しながらお伝えしていきたいというふうに思っています。
荘子の、論理的にいろんなことを語ってるというよりは、結構いろんな物語とかストーリーとか、いろんな人の対話だったり、おとぎ話的な感じでいろんなことを伝えているので、それをいくつか持ってきたんですけど。
そうなんだ、はいはい。
一つ目がね、これはちょっとおとぎ話的なお話かな。皇帝って黄色い帝って書いて、中国の伝説上の王様がいるんですけど、そういう伝説上の王様が千人が住むという山に遊びに行ったんだって。
道の象徴としての宝物
そこで行って帰ってきてから、玄珠って要は宝物なんだけど、これがね、いわゆる道の象徴、要は道とか山を象徴している、そういうものを忘れてきちゃいましたよ、ということに気づきました。
で、自分でちょっと行くの大変だから、使いの物をやって持ってこさせようとするんだって。最初に物知りの人、いろんな知識を持っている人に探しに行かせたんだけど、見つからなくて。
そしたら次は目のいい人、物がよく見える人に探させたんだけど、それも見つからなくて。最後に話すのが、要は弁論術に長けた人に探させても見つからなくて。困ったこの皇帝って王様は最後に、ちょっと薄まっしりしてる、冴えない人、小毛さんって言われてるんだけど。
その人は名前があるんだ。
全員あるんだけど、名前がね。この小毛さんに、ちょっと探しに行ってきてくれよって言ったら、見つけて帰ってきました、みたいな。そんなお話があるらしいんですよね。
要はこれってすごく比喩的というか、象徴的なんだけど、道っていうものに対してソウジはどう考えたかっていうと、いわゆる知識とか、あとはめちゃめちゃ高い認識力とか、あとは弁論、言葉が要は上手いっていうことはロジカルで、すごく表現に溶けているってことだと思うんだけど、
そういう力とかでは、道っていうのは見つけられないんだよ。
で、最後なんでそんなちょっと薄ぼんやりしてる人が見つけられたんだって話なんですけど、
この小毛さんっていう人はね、漢字で言うと象が象徴とかの形?
はいはいはいはい。
象だよね。
毛は網とかの右側らしいんだけど、要は中古語的には無いとか無っていう意味らしいんだよね。
そうなんだ、はいはいはい。
これもいわゆる人名っていうよりは、そういう文字に着してそのイメージを伝えてるんじゃないかっていうふうに言われてるんだけど、
擬人化してるってことだね、そういったイメージをね。
そうそう、擬人化してる。形がない、あるいはそれに囚われてないとか、思ったと無心だみたいなね。
そういう人とかそういうような在り方で初めてその道っていうのはあるし見つかるんだというか、
そこを道に対して働きかけることができるんだみたいな、そんなお話があったりします。
逆に言うと、要は知識があってとか、そういう認知度が高くてって人が見つからなかったっていうことは、
道の広がりと見え方
そういう人たちが別に努力して頑張ったりしても道っていうのは見えるものじゃない?
だから結局老後種のように追い求めて追い求めて、最終的に触れつきましたとかってものじゃなくて、
自分自身が敷かれるべき、そういう形に捉えられない状態になると、自然と見つかるものみたいな、
究極の原理として追い求めていくぞみたいな感じじゃなくて、その辺にある、要は王様が忘れてきちゃうぐらいだから、
あ、忘れてきちゃったみたいなね、っていうぐらい身近というか、あらゆるところにあるんだけど、
やっぱり自分の状態によっては見えないみたいな、結構そういう働きなんだよみたいな感じでエピソードとされたりしますと。
はいはいはい、それも道ってこういうものだよのエピソードとして紹介されてるみたいな感じなのかもしれない。
まあちょっとこれ解釈部分ではあるから、原住が道だみたいなのも一つの解釈だし、
でも一応そういうこととして言ってるんじゃないかっていうのは通説として出てるっていう感じかな。
なるほど、もうすでにここは道との違いみたいなものがあるんだね、ある意味その理想とかそのイデアみたいなものとは違う、
道のありふれた空気みたいな存在で、実はすごく見ようと思ってもなかなか存在も匂いもしないし見えもしないしみたいな、
どう感じるかみたいな話をここでしてくれてるんだね。
そうそうそう、なんとなくその老子の道との違いというか、同じ道なんだけどちょっと違いそうっていうのってなんとなく感じたかな。
そうだね、なんか老子の道っていうのは世のことわりみたいなさ、そういう感じだとしたらやっぱりこっちの掃除の方は、
もうちょっとやっぱりその前回の老子でもさ、道をどっちかというと構造的に捉えた、やっぱり友達としてはすごく有名無名みたいな感じで、
実存主義的っていうよりはどっちかというと構造主義的みたいなさ、そういう俯瞰した目で捉えてるのはすごいよねみたいな話があったと思うんだけれども、
ただやっぱり最後その老子のさ、考え方が結構やっぱり理想論的だったりとか、具体的な戦術がちょっとなんかイマイチっぽく今だと感じちゃったみたいなさ、
あったんだけれども、掃除のこの道、今の道の方がもうちょっとこうなんだろうな、世の中の構造というか、すごいアプローチしてる感じはするよね。
うんうんうん。
それでいうとというか、構造とかその仕組みみたいな視点から言うと。
そうだねそうだね。やっぱりこの老子の道はどっちかというと根源みたいな、原理みたいな感じだから、あんまりそれがこうなんだろうな、どう働くかみたいな話っていうよりは、とにかくそこに従うのだみたいなところもあると思うんだよね。
うんうんうん。
やっぱ掃除の道は結構その、いろんなものに広がってるみたいな感じなので、今はねちょっと一番ふわっとしたエピソードをお伝えしたんだけど、ちょっと次にまたねもう一個お伝えするエピソードを聞いていただくと、
あ、なるほどと、なんか結構いろんなこと考えてたんじゃないか、掃除みたいに。
はいはいはいはい。
と思ってもらえないかなと思うんで、ちょっと次のねまたエピソードをもう一個ご紹介したいと思うんですけど、次はですね実際掃除自身が話してるよっていうようなお話で、会話相手がですね、東角志さんっていう人、東さんっていう人がいて、その人と掃除の会話ですよっていうのが残ってます。
で、もしかしたらねこのラジオのポッドキャストを聞いていただいてる方にも、道は信用にありっていう言葉、結構有名な言葉があって、これをどこかで聞いたことがあるかもしれない人もいるかもしれないんですけど、そういった方はぜひ改めてちょっと、あ、そんなお話あったなっていうふうに聞いてみていただきたいというふうに思います。
ちょっとねそのことはまたこの後説明していくんで、で、シチュエーションとしてはその掃除と東さんっていう人がまだその道についてやり取りしてるよというか、東さんっていう方が掃除に尋ねるよってどこから始まるんですけど、普通に尋ねるんだよね。
で、そこに対して掃除は答えて、どこにでもあるよって言うんだよね。
で、もちろんそれじゃわかんないから、東さんもはっきり教えくださいよと、どこにあるんですかってもう一回聞くんだよね。
そしたら掃除は、アリとかオケラ?そういうちっちゃい虫にもあるんだよと。そしたら、なんとも奇想なものですねと。道っていうのは全てに通じている働きとかっていう崇高なもののはずなのに、そんな虫とかアリとかにもあるんですねっていうことで言うんだよね。
うん、なるほど。
言ったら掃除は、ヒエとか雑草とかにもあるよって言うんだよね。もっと過剰じゃないですか、要は生き物ですらないじゃないですかみたいな。植物なんですねって言ったら次の掃除が河原にもあるのさっていうね。屋根の河原とか。そしたらもう植物とか、要は生き物ですよ。生き物っていうかなんだ?
まあ、無機物というか下手したらね。
そうそうそう、無機物じゃんって。なんてこった、ますますひどいって言うんだよね。
うんうんうん。
そしたら掃除が重ねて、死尿、これがいわゆるうんちとかおしっこだよね。
はいはいはいはい。
ソウジの道への浸透
だから、糞便にもあるよという話をして、ついに父さんは明け果てで黙っちゃいましたよっていう、そんなお話がありますと。
うーん、なるほどね。はいはい。
どう、どんな感じがしました?
あー、いやー、なんか全問答っぽいよね、なんかね。
うん、すごく。弟子と師匠というかさ、なんかそういうやりとりっぽいね。
悟った人とそれに、今回も道っていうものが知りたいみたいなさ。
うん。
そういうと似てるなと思った。
そうそう。結構ね、本当に言う通りで、他の全問答っぽいなって思ったし、全自体はここからまたね、何百年何千年も先に出てくるものなんだけど。
はいはいはい。
うん。やっぱりそういうね、答えてるんだけど聞いてる側からすると分からないみたいな。
うんうんうんうん。
そう。というところで、果たしてここで掃除は何を言おうとしてるんですかっていうのがまあまあやっぱり大事かなと思ってますと。
うんうんうんうん。
で、いくつかの解釈があって、一つはね、これは掃除のユーモアなんだみたいな話があるんだよね。
はいはいはい。
要は道がね、至る所やる、さっき言った通りあらゆる所に浸透してるみたいな話を言うのに、わざわざそのうんつとかおしっこみたいなさ、そんなことさなくてもいいじゃないかと。
まあ下ネタ言わなくてもいいじゃないと。
そうそうそう、あえてね。
はいはい。
さっきまで伝説の肯定がさ、忘れるものとはいえ使い終わって探して求めたものだみたいなさ、ちょっとこうね、尊い感じで言ってたんだから、わざわざそんな風に脅しめなくてもいいじゃんっていう形で言うと、
でも、これって掃除の一つの言葉遊びであって、対話相手のその父さんっていう、ちょうどさ道とかどこにありますかみたいな、そういう人をちょっとからかってやりこめてるんだよみたいな、そんな風に言ってる人とかそういう解釈もあったりしますと。
うんうんうん。
こっちはこっちでもちろんね、そのいや掃除って面白いわねっていう話ではいいんだけど、まあちょっと思想的には違う解釈もあって、実はこの父さんが最後ね、呆れて黙っちゃったっていう後にもお話が続いてるんですよね。
あ、そうな、この二人のやりとりの続き。
そうそうそう、やりとりが続いてて、そこを見るとちょっと見えてくるんでまたそれはもうご紹介するんですけど、掃除がね、そのあけれ果てで黙ってしまった父さんに対して追加で言うんだよね。
うんうんうん。
なんていうかっていうと、そのあなたの質問は的外れなんだと。
うんうん。
ちょっとこんな話があるから聞いてくれって言うんだけど、
うん。
これ豚、あのいわゆる畜の豚ね、肉になる豚っていうのを飼い付けする人が、その豚の太り具合っていうのを調べるときに、
うんうん。
お腹周りよりも股の間を踏むんだと。
うんうんうん。
でもその分だけ取ってて、要は良い豚かっていうのを調べるのに、股の間で踏んだ方がわかるらしいぜっていう話を聞いたことがあるんだって、掃除は。
うんうんうん。
で、道っていうのもそれと同じで、限定しちゃいけないんだと。
うんうん。
道からはどんなものも流れることができないんだっていう風に話が続くんだよね。
そう。で、ここまで読むと単純にね、ユーモアで出したわけじゃなそうだっていうのもよく感じられてて、
うんうんうん。
つまり道っていうのはそれぐらい、常に人間がちょっと避けたくなるとか、
うん。
それなりに下ネタとかって、そんな別にわざわざね、道とかこの世の本質とかを話してるときに、そんなこと言わなくていいじゃないですかって思っちゃうことにも、
うん。
当たり前に道の働きっていうのはあるんだっていうか、
うん。
思っていると別にそういう尊い皇帝みたいなものであれ、ちょっと避けたいうんちとかおしっこみたいな下ネタっぽいことであれ、
道に通じる人の称賛
うんうんうん。
道っていうのは関係なく区別なく浸透してるんだぞみたいなことなんだよね。
はいはいはいはいはい。
だからそもそも道っていうのは尊いもので、そういう上等なものに紐づいてるはずだってこと自体が一つの思い込みだし、
うんうんうんうんうん。
その区別っていうのが、まあよくないものなんだぜみたいな。
はいはいはい。
まあそういうことを言おうとしてるんじゃなかろうかみたいな解釈もあります。
なるほどなるほど。そうだね。ここまで来るとそうだよね。
ただ単に下ネタを言ってごまかしたというか煙に巻くみたいな、そういうのとはちょっと違う感じするね。
そうそうそうそう。
ちゃんと説明してる感じするし。
だからやっぱり、もちろん他のところとか聞くとすごく煙に巻くような標準とか、
うんうんうん。
大ぼら吹きみたいな感じのすごい壮大な比喩とかを言ったりするから、
うんうん、なるほど。
まあそういう点ももちろんあるんだろうなと思うんだけど、
はいはいはい。
やっぱりただ単純に言ってるっていうよりは、
うん。
そうやって道っていうものを限定するような考え方自体がダメなんだよとか、
道ってのはそんな話し物じゃねえぜみたいな。
そういう理解の方も結構ソウジの特徴としては面白いんじゃないかなっていう感じですね。
なるほどね。でも面白いよね。
やっぱり人と話すときに相手に自分たぶん思いを伝えるみたいな話で言うと、
最初のね、たぶんその、たとえ下ネタはさ、
たぶんまず相手を聞く姿勢にさせるというかさ、
うんうんうん。
だったりとか、さっきハエとか言ってたけど道ってそんな崇高なもの?
崇高なだけなものではないよみたいなさ。
うんうんうん。
たぶん聞く人からするとさ、たぶん悟りとかああいうのもそうだと思うんだけどさ、
うん。
なんかすごくこう、なんだろうな、尊いもの。
そうだね。
で、信じるべきものみたいなさ。
やっぱり理想みたいな、さっき老子で言うね。
やっぱそういうこう、なんかその、なんだろうな、偶像化というかさ、
すごい期待を持ってやっぱ思っちゃってる人たちがいると。
うんうん。
それに対してそれを一旦フラットに持っていくみたいなさ。
で、そこから自分の伝えたいことを伝えるみたいな、そういう感じがするよね、なんかね。
そうだね、そうだね。
うんうんうん。
だから、やっぱりそのね、さっき禅問答という話をしたけれども、
その相次の思想自体が逆にこう、中国の仏教の理解にどんどん受け継がれていくわけだよね。
ああ、そうなんだ。
そう、あの、仏教が入ってくるのはもっと後、
多分、紀元後1世紀とか2世紀とかだったかと思うんだけど。
うんうん。
もうちょっと早いのかな、これちょっと詳細な年代割れなんだけど、
その時にやっぱどう理解するかっていうと、
老子とか相次の思想っていうのをやっぱり元にしてというか、
それを参考にして理解してくるんだよね。
ああ、そうなんだね。
そこはたまたま神話性があったから、
そういう視点から仏教というものを融合させていったみたいな感じなのかな、中国的に。
そうだね。
それまでさっきもっと積極的に、
道の極め方
プーってなんだみたいなことを考えるときに、
要はその概念がないと理解できなくなるよね。
そのプーっていう概念とか、
その印度紀元のものをどう理解しようとするかっていうときに、
プーっていうのは老子がやってる道じゃないかとか、
無じゃないかとかっていうふうなことを考え出す人がいるんだよね。
ああ、あれ近いんじゃないかと。
なるほど、イメージするために。
なるほど、はいはいはいはい。
そういう意味でいうと、ただ単に授業をするというのは積極的に中国的なものに仏教が変わっていくみたいな、
そういう流れもどこかにあるみたいなんだよね。
ああ、そこはやっぱり難しいところというか、
人によるとだろうけれども、
例えば、インドから入ってきた仏教を、
できる限りその原点のそのまま理解していこうとかじゃなくて、
多分それってやっぱり難しいと思うから、
中国っていう文化だったりとか、
いろんなもの、気候とか環境とか、
そういったものに強くインストールするみたいな意味合いでいうと、
そうやって翻訳というか、
変えながら、混ぜながらか。
そうか、積極的に。
そうやって広げていった、広まっていったみたいな、
そこがあるんだね、そこは。
そうだね、そうだね。
結構ね、その辺りの歴史的な話とかもね、やっぱり面白かったりはするんですけど、
ちょっとね、このソウジの道の話に戻ると、
こういうソウジの道っていうのは、
本当にあらゆるものに浸透してますよという中で、
もう一個違うイメージとして、
このソウジの道っていうのは、
いわゆる日本の柔道とか柔道とかっていう道ってあるじゃないですか、
華道でも僧道でもなんでもいいんですけど、
そういう意味での道とか道に結構近い部分があって、
技とか芸を極めるみたいな、
もっと言うと体の使い方とかを熟達していくみたいな、
そういう意味合いもあるんだよね。
そうなんだ、ほうほう。
これどういうことかっていうと、
道っていうのは世界のあらゆるものに浸透してる働きなわけじゃない?
だから道に通じるっていうことは、その働きに通じるっていうことだから、
この世のいろんなものに対して、
よりよく働きかけることができるとか、
道の働きを通してダイレクトに働きかけられるみたいな、
そういう考え方が出てくるらしいんですよ。
そうなんだ、はいはい。
これは老子も道に従うとか道に通じるとかってあったんだけど、
ありのままであればうまくいくよとかっていうこととはちょっと違っていて、
あくまでもそのものとうまくというか、
いわゆる他の人が見つけるときに、あの人すごいねとか、
いわゆる道に通じてるっていうのは第一人者っていうことじゃないですか。
はいはいはい。
そういう意味で、いわゆる称賛されるようなレベルで成し遂げられるみたいなことを、
そういう想像の中では道に通じてる人みたいな感じで言ったりするんだよね。
なるほど、道に通じるっていう表現を、なるほどね。
はいはいはい。
そうそうそう。
養う、道を養う、養生するみたいなことを言ったりするんだけど、想像の中でいうと。
はいはいはい。
そういえばね、結構どんな人が出てくるかっていうと、
汚い一本で牛を綺麗に巻く人とか、
だくりを悠々と泳ぐ泳ぎの名人とかって話が出てくるんだけど。
はいはいはい。
これは、老舗的な道って赤坂へ言うと絶対出てこないんだけど、
掃除の道で言うと、要は牛をさばくことの道とか、
水の中を泳ぐことの道とか、そういうものがあって、そこに通じた人たちのことなんだよね。
はいはいはい。
これはただ牛をいっぱいさばいてきましたとかではなく、
牛に備わっている道っていうものがあって、
それを知ると、そこに自分の体が働きかけて、
牛の体を熟知した自分が刀を使って、というか刀と一体化して、
それをサクサクと切り分けられるみたいな、
さばくことができるみたいな、
そういう世界観なんだよね。
うーん、なるほど。
道を追求する人と後を追う人
面白いのが、牛の名人が何でそんなことできるんですかって人に聞かれたときに、
牛には関節があるじゃろうと。
でも刃っていうのは厚みがないじゃろうと。
だからその牛の隙間を通っていけば自然と切り分けられるのじゃ、みたいに言ってて。
おー、なんか名人っぽいね。
達人かな。
達人だよね。まさに道を極めた人みたいな感じ?
なんだけど、道というあらゆるものにつながって、
働きに通じることによって、
そのぐらい常人には考えられないことが成し遂げられるみたいな。
そういうのが、掃除の道というものにはつながってます。
うーん、なるほど。
道っていうものがあらゆるところに浸透しているよっていうイメージしか今のところなかったんだけれども、
今で少し道とは何なのかみたいなものが見えてきた感じもするね、今の話で。
そうだね。
道そのものの話って今してないでしょ、ちゃんと。
道そのものはしてない。
世の中に全てに浸透しているだけさ。
そうだね。道に人が通じるとどうなるかっていう話を言いましたよ。
確かに。
道そのものはすごく表現しにくいんだよね。
そこはそうなんだ。ズバに行こうとはなかなか言われてはいないのかな。
そうだね。
日本で言うとあれだよね、
なんとなく道を極めるっていうと、
何かに、ただただ積み上げるイメージがある。
何か熟達していく、上手くなっていくみたいなイメージがあるんだけども、
ただ多分こうやって武道とか、いわゆるさっき言った稼働とかそういうゲインごとだったりとかさ、
やってる人はもしかしたらスポーツでも同じだと思うけど、
持ってる感覚かもしれないけど、
ゼロからただ自分が何かを積み上げていってとかって感覚じゃなくて、
たぶんこう言っちゃうとおかしいんだけど、
理想?理想ではないよね。
たぶんその、あるべき姿というか、
こういう風に言う道だよね。
道がバーっといろんなところにあるっていう、道っていうものがあって、
だからそこに通じていく?そこにたどり着いていく感覚?もしかすると。
だから自分でゼロから身に着けていくとかじゃなくて、
その道に近づいていく感覚みたいな、
そういう感じなのかな、今回出てきた牛を捌く人とかの例とかもね。
そういう意味で道があるみたいな雰囲気で考えると、
少し道の存在っていうものが何なのかがイメージできる気がしたかな。
そうだね。よくある、見つけたら相手が倒れていたとか、
柔道とかでも技をかけ、自分が繋げたのか引かれたのかわからなくて相手が転がっていたみたいな、
そういう表現があると思うんだよね。
そうなってくると、自分が相手を倒してやったぜとかじゃなくて、
道と自分の一体化
道に従って体を動かした結果、自然と自分が優れた技を披露してしまっていたみたいな、
そういう武道的というか、道の方が好きにまさにあって、
人間はそれをある種取り入れているとか、そこに預かっているだけだみたいな、
やっぱりそういう関係性っていうのは多分あるんだよね。
はいはいはいはいはい。
だからそうか、達人だったりとか、一番上の人とかでもその道を追求し続けるみたいな、
大山真須が拳の握り方がみたいな話だよね。ずっとわかんないみたいな、空手の。
かつさ、兄貴が今ずっと追い求めるって言ってくれたんだけど、
僕の教科書とかで出てたかな、中島敦の名人伝っていう、
弓を取る人の話とかってなんとなく覚えたりする?
うーん、わかんない。
多分ね、教科書で見たこともある人もいると思うんですけど、弓の名人みたいな人がいるんだよね。
その人に挑む弟子というか、俺の方が名人だみたいな人がいて、
はいはいはい。
で、弓の勝負をするんだよ。
で、弓ってさ、普通に言うと的にどんだけ当てるかとかさ、
そういうことを競ってくるんだけど、その名人は常に一歩先を行ってるんだよね。
なんか、すごい弟子とか挑戦者が、俺もこんだけ当てるようになったぜって言って名人のとこに行ったら、
なんか見ておれって言って、弓を持たずに、ひょっとやったら空の鳥が落ちてくるとか。
弓、撃ってないように?
持ってない、持ってないように。
その矢を使えて弓を撃つ真似というか、その動きをしただけで鳥が落ちてきたりとか。
で、やべえって挑戦者が練習して必死に特訓して、自分もできるようになりましたって行くんだよね。
で、実際に撃として、どうだったかって言ったら、待って弓とはなんじゃったかのみたいな。
おー。
あー、すごくいいエピソードだね、それ。
いいエピソードだと思う。
いや、それって、やっぱりあらゆる分野、宮本武蔵とかもさ、
五輪の章とかさ、やっぱり刀とは何かとか、そもそも刀とは無刀みたいなさ。
これは宮本武蔵だったかちょっと忘れちゃったけど。
無刀っていうのがあるんだね。
そうそう、剣の道も極めていくと、もう持たなくていい無刀っていう概念があるみたいなさ。
バカボンドとかかな、わかんないけど中で出てるとあると思うんだけど。
やっぱり今のってさ、その道、先駆者だよね。
自分で道を開いていく人、いわゆる01の人と、
やっぱりそれを見て、その技術を得得できる、対得できる人っていう二人の人がいた時に、
ほらこれ前もどっか雑談会で話したかもしれないけど、
いわゆる01とただできる人の違いっていうのが、やっぱり全然違うじゃん。
やっぱり自分でさ、既にあるものを得得できるのは、
とてもスキルが高い、能力が高いからめちゃくちゃすごいことなんだけれども、
やっぱりその発想力、もしくは常に自分が追い求める道とは何かに悩んでるじゃん、
その先頭を開く人って。
どういう風にその技術を得得しようかじゃなくて、
そもそも何を得得しようかとか、そもそも俺は何をやってるんだっけみたいな話を、
常に考え続ける辛さがあるじゃん、道を開いてる人には。
だからやっぱりそこが一生たどり着けない。
これって面白いのは後を追ってる人。
今まで言うとさ、自分も後を当たるようになりました。
自分も名も持たずに打つ前が決して鳥が落とせるようになりましたって言ってる人って、
道と世界の調和
そっちの視点からすると先頭を走ってる人と自分が、
同じ延長線上にいると思ってるんだけども、
実は次元が全く違う次元、3次元と4次元くらい違う場所にいるってことに実は気づいてない。
それ気づいてるのは先頭を行く方だけだったりとか、
逆にそれに追いかける方もそこに気づいたとすれば、
何かまた新しい道が開けるというか、
その師匠と同じような目線で何かを、
いわゆる技術を得得するじゃなくて、
その道とは何かっていう方に頭がシフトする。
自分は何のためにやってるんだっけ?
もしかするとその師匠が言ってることも、もっと深いレベルで話が分かるようになるかもしれないとか、
そういうのがエピソードとしてすごくいいなと思った。
あの好きなエピソード。
面白いよね。この明治時代すごく素敵なお話だなと思って、
高校生の時から読んでたんですけど、
自分もキュートでやってたし。
そうだよね。
道を極めるっていうことと、
弓が上手くなるってことは全然違うって言ってくれた?
レイヤーが違うって話だと思うんだよね。
はいはいはい。
そういうところの道っていうのは、
まさに道と自分が一体化したとか、
自分が道の働きに本当に通じたときには、
自分の体を合わせるとか、認識を離れるとか、
冒頭のちょっとエピソードでも言ったけど、
知識とか認識するとか、何かを有弁に語るとか、そんなことじゃないんだと。
もっとそういう自分の存在を手放したようなある種、
そういうような理想的な存在になって、
初めて道と調和するんだみたいな考え方があるんだよね。
はいはいはい。
これは老子のいう政治に近くは感じるんだけれども、
道が何かとか、本源なのか、働きなのかっていうことは全然違うので、
その性質、理想とする人間度とか、
そこに至った教師と変わってくるんだよね。
そうだね。ここは確かに難しいところかもね。
さっき牛を捌く道みたいなのがあったとすると、
やっぱりある意味達人みたいな、その道にはいろんな人がいるわけで、
その達人とか見ちゃうと、そこが理想とかさ。
そうだね。
思っちゃうと、ずれる感じがするよね。
本来はそういうものじゃないのにみたいなね。
その危うさというか、その難しさみたいなものは感じたね。
だからやっぱり、僕が面白いと思ったのは評価されるんだよね。
要は牛をうまく捌ける人は、やっぱり牛界隈でスペシャリストになり、
弓を持たずに鳥を撃てる人は、やっぱり弓界隈で捜査されると思うんだけど、
そっちにばっかり目が行っちゃうと、結局その人は本当にやろうとしている、
道そのものを責めようとしているとか、
弓というのも一つのそこに通じる手段であって、
要は人生レベルでその道が変わっているというところが見えなくなっちゃう。
そういうことは分からないよね。
要は頭で理解することは多分できないから、
やっぱり体を使ってちゃんと自分がそこに至れるかどうかということをやらなきゃいけない。
それがまさに一番最初のエピソードで出してくれた、
王様が道を忘れてきた時に、目がいい人でも頭がいい人でも口がたしな人でも見つけられなかったというのは、
まさにそのことを言っているんだなというのがここでちょっとつながった気がする。
そう思う。
だからやっぱりその掃除の道の特徴として、
やっぱりどこを世界と調和して生きるかみたいな。
要は根源に至るとか、世界を超越するみたいなものよりは、
世界とどこを馴染んでいくかみたいな。
結構そういう印象を僕は持ったんですよね。
世界に馴染んでいくと、要は牛の働きが分かるから、
牛について詳しくなり、弓について詳しくなるから、
弓がなくても、要は弓の働きの結果としての鳥が落ちるということが偉いようになるみたいな。
そういう、これはやっぱりちょっと難しいというか、
抽象的なんだけど、面白い世界観なんじゃないかなというふうに感じたんですよね。
そうだね、似て非なるものって感じがして面白いね。
でもそこは伝わって嬉しいな。
なんかすごくちょっと不適切な例えかもしれないけれども、
老子の方が一神教みたいなイメージ。
僧侶の方が多神教、八百頭の神みたいな。
絶対的な真偽が神様がいて、そこを信じるべしっていうのと、
あといろんなところに、川にも山にも、
それこそは雲地にも神様がいて、
それぞれの役割があってみたいな。
それぞれもまた極めるというかさ、
ちゃんとそれぞれの意味とか、それぞれの偽装。
偽装っていうとやっぱりおかしくなっちゃうんだけど、
あるべき姿があるみたいなね。
だから一個から派生しているわけではない。
それぞれにいろんな山の長所があるよみたいなね。
そういう似てるけれども、その感覚がちょっと違うみたいな雰囲気。
また、うん、なるほどっていうね。
そこがローソーしそうじゃないよっていうと神にもつながってくるんで、
ちょっと伝わって嬉しいんですけど。
道っていうのが世界と調和することだとかってなったときに、
『道』と自己の存在
どうやってそういう境地にたどり着きますか?みたいなことを考えると思うんですけど、
僕らはそういうふうにシンプルに考えたわけでもなさそうなんだよね。
今日の冒頭でもお伝えした通り、道の働き方、働きからどう逃れるかとか、
道の働きにある種縛られちゃっていいんだっけ?みたいな、
やっぱりそういう疑問も出てくるんだよね。
確かにね。後半の武道とかそういう意味の道で言うと、
崇高な、そっちに行った方がいいって思わされちゃってるけど、
確かにそうだね。逃れるって話もあったね。
仮に道の方が主体で、道を極めようと思っている自分が受け手側だとすると、
やっぱり自分の存在ってなんだっけ?とか、
結局道を体現するだけが自分だったら、
それって自分じゃなくてもよくないみたいな、そういうことも思いつくと思うんだよね。
そういう、本当に道が主で自分が受るみたいな関係でいいのかって言うと、
そうじゃなくて、やっぱり自分自身も変化していくとか、
その道の働きを超えていくとか、
そういうような発想とか可能性がないものかっていうものを、
掃除は考えているんじゃないかっていう解釈もあるんですよ。
おー、すごいね。
今日の話だけ聞くと、老心みたいな感じで、
この掃除の言う道素晴らしいっていう、そっちを信じちゃいそうになるもんね。
なるほど。
そうじゃなくて、掃除自体ももっと自由自的にとか、
悠々自的に生きるみたいなことを言ってたりするから、
はいはいはい。
掃除特有の言葉
そうした考えの、いいというか、特徴的な概念として、
前回も言ったかな、物価と制度っていうこの2つのキーワードがあるんですよ。
何と制度?
物価と制度。
これは掃除ワードなんで、一旦ここでは音というか言葉だけなんですけど、
これは次回説明していきたい。
この道っていうのが何となく掴んでいただいた上で、
掃除特有ワードである物価と制度っていう2つの言葉を理解いただけると、
また掃除独特の世界観っていうのが伝わるんじゃないかと思うので、
はいはいはい。
これはぜひ次回楽しみにしていただけないというふうに思っております。
はい、なるほど。ちょっと掃除の世界にハマってきたね。
はいはいはい。
ありがたいね、今日は。
どんどんハマってくるからね。
いいよね、いくつか謎が解けたと思ったら次の謎が出てくるみたいな感じでさ。
そうね、だしここで終わってないっていうのがやっぱりここまでの長残っている人というかね、
人なのかなっていうのもやっぱり思うし。
はいはい、了解です。
じゃあちょっと、ここで道採行と掃除採行とまだなっちゃダメだよというところで、
そうです。
次回、物価と制度というところを見ていきたいと思います。
ということで、じゃあ次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
44:22

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