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2022-09-11 35:09

#40 「末那識(まなしき)」が自分を生み出すってどういうこと?

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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00:00
(音楽)
はい、ソレテツラジオ今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今日は前回の荒屋敷に続き、 和名敷というところについて教えてもらいたいと思います。
はい、ではやっていきましょう。
前回ですね、あの兄貴が言ってくれた通り、荒屋敷の話をしたんですけど、
すごいざっくり言うと、前世とかがあったとして、
前世とか過去のものも含む、あらゆる行動の情報とかがアーカイブされている、
クラというか、ハードディスクのようなものを人はみんな持っていて、
それが世界のすべてというものを直接的に認識することで、
世界というのが立ち上がっていくんだよ、という話をしました。
そうだね、この荒屋というのがそもそもクラみたいな意味だってことだったもんね。
そうそうそう。
ちょっと面白かったのが、なんかほら普通、五感で認識、まず目で見たものをこっちで認識するみたいな順番で思ってたのが、
この有意識とか荒屋敷でいうと、五感とかじゃなくて、この荒屋敷っていう大八感でそもそも人間は捉えていて、物事を。
荒屋敷で捉えたというか、荒屋敷に入ってきたものを五感で作り出すくらいの順番が全然違うなあっていう感じだったよね。
そういう理解で大丈夫?
うん、合ってる。
まあ、大八感とかって言っちゃうと、なんかさ、大六感的なすごい能力みたいに感じてしまうかもしれないけど、
要は意識の構造で捉えるのが有意識論だっていった時に、
その根底にある八個目の階層が荒屋敷だよっていう話なので。
厳密に言うとあれなの?八識とかっていうの?
うん、大八荒屋敷っていう。
別にその大八識とかじゃなくて、もう大八識荒屋敷みたいなのが正式名称みたいな。
大八、八識とは言わないね。
え、あ、そうなんだ。
えぇ。
そう、だから七識とかそんな言葉もなくて。
え、あ、そうなんだ。
マナ、マナ識とか、七番目のマナ識っていう風に言えるぐらい。
はいはい、なるほど。じゃあ大七感、大八感とかって言っちゃうと、ちょっと厳密に言うと違うんだ。
そうだね、そういう言葉は有意識の中にはないので。
はいはい、わかりました。
はい。
了解です。
そうそう、で、その中でね、今日話すマナ識と意識と、五識については五つの識だから五識っていう風にまとめて言うんだけど。
うんうんうん、そっかそっかそこで混同しちゃいけないんだ。
そうそうそう、見る聞く感じるとか味わうとか触るかなっていうのはいわゆる五感だとっていうのは別々なんだけれども、
03:03
まあすごい簡単に言うと、マナ識っていうのが、いわゆる僕らが持っている意識していない自己中心性っていう風に言われていて、
あと意識と五感的なものっていうのが、能力とか、あと個人個人の条件とか関心の有無みたいな、もっと言うと個性みたいなもんだよね。
はいはいはい。
うん、まあ、なので今日の話をすごいざっくり言うと、そのアラヤ識っていう前回説明したものに基づいて、いわゆる自我みたいな意識が芽生えて、そっからそれぞれの個性っていうのが出てきますよっていう。
はいはい、あくまでやっぱその順番なんだね、アラヤ識って言った後。
そうそうそうそう。
うんうん。
結局まあそういう3つの階層があるよっていう話があって、今日そのマナ識とその意識とかって何っていう話をちょっとしていこうと思ってるんですけど、
はいはい。
まあすごく簡単に言うと、マナ識っていうのはアラヤ識から生まれるんですよね。
うんうん。
そういうとこの全ては心、つまりアラヤ識から出てくるから、このマナ識っていうのもアラヤ識から生じるものなんだけれども、かつそのアラヤ識を認識対象としますと。
うーん、どういうことだ、えっと。
例えば目は見るものを対象として形のあるものとか色っていうものを対象とするじゃない。
うんうん。
それと同じ感じでマナ識っていうのはアラヤ識を意識し続けるっていうか、意識の対象としてアラヤ識だけを持っているっていう働きなのね。
はいはい、そっか。目がその光を捉えるセンサーであるように、マナ識っていうのはアラヤ識を捉えるセンサーだと。
うん、大体そんな感じ。
さっきアラヤ識っていうものが世界を捉えてそれが例えばマナ識とか五感みたいなもので捉えるんだって話をしたけれども、五感ではアラヤ識は捉えていなくて、このマナ識がアラヤ識を捉えているんだよみたいな認識で間違ってないかな。
うん、認識としては合ってる。言葉ってやっぱ難しくて捉えるって言っちゃうと、なんだ外部にあるものを受け取るみたいになっちゃうじゃない。
え、違うんだ。そう多分認識すると思う。
だって目はさ、別に外側にそもそも世界はなくて、アラヤ識が出た世界を分けた時に見たと感じるものが視覚というか、その目だから。
あー、この有意識的な話で言うということ?
有意識的な話で言うとね。だからそういうふうな働きを持っているように感じるものっていうふうにしか本当は言えないんだよね。
うんうんうんうん。
ちょっとその辺りがね、まさにこのマナ識の働きで面白いところなんだけれども、ちょっと少し先に説明を進めていくね。
そうだね。ちょっとまだ、たぶんアラヤ識っていうものを熱とか光と同じような感じで捉えているんだと思う。
06:05
うんうんうん、そうだよね。だからこの辺りがね、仏教のやっぱ難しいところというか、理解がしがたいところではあるんだけれども、
さっき言った通り、マナ識はアラヤ識を認識対象としますと。
前回言った通り、アラヤ識っていうのは過去の行動情報とか、自分の肉体とか、事故というか環境というものをある種認識対象とするんだけれども、
そういった言ってしまったら結構世界すべてみたいな感じじゃない?
で、その世界すべてを認識しているアラヤ識をマナ識は認識しますと。
たださっき兄貴が言った通り、アラヤ識は実態じゃないんだね。無常だから、既に変化しているし、
一瞬一瞬、アラヤ識っていうものは、新しい情報を取り込んで新しくなってみたいなので、要はそういう働きっていうのはあるんだけど、
アラヤ識っていう、それこそクラとかハードディスクがボンって存在するわけではないので、この違いってわかるかな?
わかると思う。この前のカントでいうところのやっぱり物自体とか、あとイデアとはやっぱりそもそも違うよみたいなところまではなんとなく思っていて、
アラヤ識があるって言っちゃうとやっぱりおかしくなる。やっぱり常に無常で、ずっと常に違う状態になっていて、一瞬一瞬。
で、そのマナ識はその、一瞬捉えたつもりにはなれるみたいな、常に過去だけれどもそれは、捉えた瞬間から過去になるけれども、
それをマナ識では捉えられるというか、認識はできるみたいなイメージ。ただやっぱり、それで光とかも同じような感覚はあるから、
目で捉えても一瞬一瞬違うでしょ?右を向けば右の風景が見えるしとかさ。まだなんかその自分の理解としてはその域を出てない気がするかな。
なるほどね。例えばこれはそのイギリスの経験論的な感じなんだけれども、ちょっと脱線するけど、例えば今僕らは前を向いてるじゃない?
で、後ろの世界見えないでしょ?うん。で、後ろの世界ってあるのないの?みたいなことが例えば考えられますと。
素朴に言ったら絶対あるじゃない?振り返ったらあるし。でも本当にピュアな感覚から言うと、自分が見てないものはその存在って証明できないからその瞬間に。
今この瞬間だね。前を見ているこの瞬間に見ていない後ろのことを証明できるかという話だよね。今この一瞬一瞬に立った時にね。
09:02
で、この過去の経験は一旦無視して。そう、そして未来の振り返るって可能性を無視した時に。
そうだね、それはなんかわかる。どう頑張っても証明できないんじゃない?みたいなことに結構近くて。
要は、光とかも光があるって僕らは言うけど、あくまでも前もちょっと話したかもしれないけれども、そのいわゆる自然科学的に言うと、その光っていう波でもあり粒でもあるって言われるようなものが物体から跳ね返って、
その跳ね返った光を目とか網膜が捉えて神経細胞がこれは赤いとか青いとかっていう風に捉えた波長を脳が処理して、これは赤だとか青だとかっていう風に理解するみたいなことで言うと、
光は外にはなくて、その目から中に入って、まあ、有識的に言うと意識で捉えた時に初めてそれを光だとして認識するというか認識できるっていう感じなので、
あくまでも自分の外とか現実の世界に正しいものがあってそれを受け取るのが感覚機関だではなく、感覚機関の働きを通じて外にものがあるように思ってしまうっていうのが、
こう割と仏教的なというか有識的な考え方なんだよね。
なるほど、そっか、それが今思ったときは哲学って例えるとわかりやすい部分もあるけど、例えることでやっぱ厳密性が失われる部分ってかなりありそうだね。
うん、めっちゃある、めっちゃある。
今、光とか熱で例えたけれども、やっぱそうすると常に違うレイヤーで考え続けるというか、今光とか熱ですらこの同じ構造になってるよって話今してくれたもんね。
そうだねそうだね。
その捉えるとかじゃなくて、あるんだかないんだかっていうものをこちら勝手に認識している赤だとか黄色とか明るいくらいですらこっちの認識でしかないというか、
認識?あれだね、本当、言葉が出なくなるね。
面白いね、そう。
仏教はちょっとそうなるんだ、やっぱり普段僕らが生きている、なんだろうな、主客、人間というか、外に真実というかものがあって自分がいてっていう世界じゃない世界のことを話しているから、やっぱり使う言葉が全然違うんだよね。
うんうん。
とか、使う感覚?
確かに、認識とか捉えるですら違うよとかってね、なってくると。
まあでもなんとなく、うんうん。
12:02
ちょっとずつなんとなく味わえてきて、あくまでも自分っていうというか、その心とか意識、識っていうものが主体で、そこから世界が広がっていくっていう世界観を語ろうと思うとやっぱりそういう言葉遣いになるんだよね。
うんうんうん。
あくまでも自分っていうか、この我みたいなものが始まりになって世の中に影響していくっていう感じなんだけど、ただ今僕は我っていうものからって言ったんだけれども、そもそも仏教でいうと我もないっていう話をずっとしてるじゃないですか。
そうだよね、今その反対側から話をしてくれてるんだもんね、我と。まあ反対というとあれか、さっき言った主客、主覚、人間の大きな話になっちゃうから。
うん。
うん、違うけど、でもあれだよね、ただそこを前提に自分たちがもう捉えちゃってるとすると、我とが対極の部分から今ほぐしてくれてるんだよっていう感覚を持ってるっていうのは間違いじゃないかな。
うん、間違いじゃない。
まずはね、主と客が分離してるよっていうところの、まずは自分から捉えましょうっていうところが多分今僕が話すところで、この後話すのはそれを超えた主客一致のところから話しましょうっていう話なんだけど、
ちょっとその手前でもう少しマナーシキの説明をすると、さっき言った通り荒屋敷っていうのは実体ではないんだけれども、マナーシキはやっぱそれをさっき兄貴がまさに言ってくれた通り、変わらなくて実体がある。
具体的なものだよって認識しちゃうよっていうのね。で、これは具体的なものだっていうとそこに愛着が生じてそれがイコール執着になるのね。
はぁー。
だからマナーシキは荒屋敷っていうのは、荒屋敷は前言った通り人それぞれ持っているんだけれども、自分が見ているこの荒屋敷こそが自分だとか我だっていうのを常に思って執着し続けると。
しかもこれは途切れることがなくて、寝ても覚めても。要は意識とかって寝たらさ、一回こうフッて落ちたりするけど、寝ててもマナーシキはずっと荒屋敷を意識し続けているから、常に自分がいる自分がいる自分がいるって思ってる感じだよね。
はぁー、そうなんだ。そこはもう常時発動してるんだ。マナーシキ。
常にパッシブ。だからそこに初めてその執着というか、いわゆる煩悩的なものが生じてくるんだけれども、これは4つあるっていうふうに言われていて、
1つ目が「我知」っていう、我と愚かっていうような言葉を組み合わせたものなんだけれども、これは要は自分の姿、本来の姿っていうのを知らない。
15:03
要は自分は無常であって我っていうのないんだけど、我っていうことを実体なのかと思ってしまうと。そういうふうに我っていうものに対する愚かさっていうのが1つ目の煩悩だって言われていて、
2つ目が「我見」。我を見る。これはまさに自分を実体のあるものとして見てしまうこと。
次が「我慢」っていう、日常的な我慢ではなく、我に慢心するとか、そういう慢なんだけど、自分っていうのがあるよねとか、自分が世界の中心であるって思っちゃって、自分を高めて他人を侮るっていう働き。
あとは「我愛」っていう、我を愛する。まさに実体視した自分というのに愛着するとか執着する。
この「我知」「我見」「我慢」「我愛」っていうのが4つの煩悩で、これは「まなしき」の働きから生じるよっていうふうに言ってるのね。
はやはや、この時点で煩悩が。
そう、徹底的に「我」はないよっていうことを言い続けるのが結構優意識であったり仏教であったりします。
これが面白いというか、何がすごかったかっていうと、結局その意識の下で、いわゆる自己中心性というか、さっきの会話もそうだけど、でも自分っているじゃんとか、自分が世界を見てるってしかどうしても思えないよねみたいなのって、普通そうじゃん。
そうだね、たぶんさっき言った経験論的にもそう思っちゃってるから。
それを疑うことも基本ないし、別に疑う必要性もないじゃない。
そうだね、必要ないね、確かに。
普通に生きてるとね。
自分の後ろないかなーって思いながら暮らすのって超怖いしね。
超怖い。
非公立というか。
僕はそういう経験が実体験としてあるから、こうやって仏教もある程度理解できてると思っているんだけど。
あるのか。
あるんだよ。ちょっと病気みたいな時が一瞬あったから。
うーん、なるほどね。
ちょっとね、またそれとつなげることは話しますけど。
そうだね、それは知りたいわ、どんな感覚なのか。
そうそうそう。
なので、本来ならそこって別に疑う必要ないんだけれども、
仏教って要は我もない、あらゆるものがない空だとかって言ってるから、疑い出すと自分の意識できないところにそういうあらやしきとかまなしきという働きがあって、これが自己中心性の起こり得る構造なんだよっていうのをきちんと指摘したとか、取り出したのが有意識の思想なのね。
うーん、すごいね。空って虚無主義じゃねって言ってる人たちに対して、こんなに説明をするんだね。空とはこんな感じだみたいな。
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そう、だから空だから、何もないとか儚いとか言ってる人たちに、ちょっと違う違う違うと。もっと正しく世界認識しなよって言ってるのがこういう感じだね。
うーん、そういうこと言っちゃうと虚無主義じゃないよっていうことを10時間くらい説明されちゃうんだね、これ。
コンコンとね、そう。10時間どころじゃないっていうのをまた次の回でも話すんだけど、それも面白いんだけど。ただね、まなしきがあるから煩悩が出るみたいな感じで、まなしきが悪だって言うと別にそんなことはないですよと。
はいはい。
なぜかっていうと、まなしき自体は善でも悪でもないよっていうことと、さっき4つの煩悩って話もしたんだけれども、結局それって僕らからすると、ある種意識できないっちゃできないし、別に自分の個性をガッと変えるほど強いものじゃない?
はい、あ、そうなんだ。
うん。あらゆる人間の根底にはあるんだけれども、別にそれだけで人間が仏のイメージから外れるみたいなものではなくて、ただそれが濁りはありますと。そういう清らかさじゃなくて濁ったものはあって。
あとそれがさっき言ったみたいに、死緑で寝ても覚めても何しててもずっと働いてますと。そうすると、やっぱりそれがその上の意識とか五識に影響していくんだよね。
うん。あ~、そうか、これまだ意識の話してないから、この4つの煩悩っていうのも、このうちらみたいな我に執着してるような煩人からすると、無意識かの煩悩みたいな話なんだ。意識できてないんだ、これ。
意識できてない。
あ~、そもそももうみんなあれでしょ、レベルの話なんだ。
そう。だから、ややと見えない構造みたいなところの話をまだしていて。
はいはい、そっかそっか。
その人間っていうのは、そもそも世の中を見る聞く感じるとかっていう土台にこういう構造があるよっていうのを説明してくれてるのね。
はいはいはいはい。
で、いわゆる低い音、それこそ冷蔵庫のブーンみたいな音で、要は鳴ってるけど聞こえないとか慣れちゃうじゃない。
うんうんうん。
そんな感じでずっと「自分はいるよ、自分はいるよ」ってこう囁いてるのが、話し気で。
そうすると、やっぱ僕らって「そう、自分はいるよね」みたいなのを無意識に意識しちゃうみたいな。
う~ん、はいはい、なるほどね。
そっか、無意識って言うとあれだから、意識せず意識しちゃうっていうのが、この第8のあらや式と第7のまなしきでは起きますよっていうのがここまでの話。
そっかそっか、今こうやって言語化してくれてるから、なんとなくある気がしてるけど、そっか、どっちも無意識かの、常時発動の無意識の話をしてくれてる。
21:05
あ、そうそう。
そっかそっか。そこ間違えるとさっきみたいに光が。
あ~、確かにね。
確かに確かに。だから、僕らが見えてないというか、この世界にないものの話をまだしてますっていう。
そっか、だからさっきハヤトに言われたのか、その光とか熱だとまだ外部にある気がするよねっていうのは、そういうとこ踏まえてみたいな話なのか。
そうだね、そうそうそう。
難しいね、その前提をちゃんと理解しとくっていうのは難しいね。
いや、確かにね。でもね、これはやっぱり理解できないというか、結構知識じゃないんだよね、そこって。
なんか身体的なものっていうか、感覚として、確かに自分の奥底にそういうものあるかもねって思えるかどうかだし、
はいはいはい。
僕もなんか思えた瞬間でやっちまったみたいな感じがあったから、前もリュージョンの時に言ったかもしれないけど、
うんうんうん。
世界というか生きる根底が結構ガラッと変わっちゃうから、みたいな話をしてましたと。
で、こっからが意識の話になって、やっと現実世界の話になってくるんだけれども、
はいはいはい。
じゃあその、アレらしきとマナしきっていうものの上にある、第6にある意識っていうものに関しては、実はこれ、すごく認識の対象が広いんですよって言われるよね。
うんうんうん。
どういうことかっていうと、僕らが人間として何かを考えた時って、要は過去のことも考えられるし、未来のことも考えられるよねと。
はいはいはい。
例えば地獄も人間の世界も仏の世界も考えられるし、要は仏の世界をもっと超えた物質がない精神だけの世界とかも考えようと思ったら考えられますと。
だからある種意識っていうのは一切のものを認識対象にできるっていう風に言われていて、
それからするとさっき言ったマナしきっていうのはアレらしきしか見えないし、アレらしきっていうのはあくまでも自分を取り巻く環境しか見えないから、
僕らが人間界に生まれたら当然仏の世界のこともアレらしきはわからないし、バッタの世界のこともわからないですと。
はいはいはい。そっかそこの限界はアレらしきにもあるんだ。
そう。
宇宙の根源とかそういうのじゃなくて、あくまで自分が存在する周囲を認識するものがアレらしきみたいな。
うん。
面白いねそれ。
そうそうそう。だからあくまでもアレらしきは自分が生きている世界とか土台っていうものに、
まあ縛られてるって言ったらあれだけど、制限されてるんだよね。
そっかそっか。だからそれぞれ固有のものではあるんだね。
そう。
個人個人の。
そうそうそう。じゃないとさ、いきなり人間として生まれてきたのに、馬みたいな生活をすることはできるけど、馬として生きることはできないじゃない。
24:03
まあそうだね。だしなんかすごい格例解釈すると全員が神であるとも言えちゃうみたいなね。
そこを縛っておかないとというか。
そうそうそう。
その前提があると。
アレらしきがね全世界に広がって、全世界というか本当になんだろあらゆるものに広がっちゃうと。
そうそう。世界と我は同一であるみたいなさ。宇宙と我は同一だみたいな。
うん。
そうとは言ってないんだね。面白い。
うん。そうそう。なのであくまでやっぱりあらやしきっていうのは人それぞれにあると考えられてしまっても、人それぞれというか存在それぞれの根底を成すものであるから別にあらやしきが全てであるとも言ってはいないのね。
うんうんうん。
で、その意味で言うと、だからまなしきとかは勝手に悟りの世界とかを認識することはないんですよと。
だからこそ僕らの日常世界とか日常生活っていうのは有意識的に言うとこうなりますよという話をするんだけど、まずはそのあらやしきにある意識できない過去すべての情報っていうものが蓄積されますよと。
で、それを自己として認識するまなしきっていうのがあって、そのまなしきの上に社会とか他人とかと実際につながっていく意識とか互感、互識っていうのがありますと。
はいはいはい。
だから意識においてはある意識的に自己中心性を薄めるとか、社会に合わせてこうやってコミュニケーションを取るっていうのができるんだけど、その根底にはどうにもできない自己中心性としてのまなしきがあるよ。
さらにその下には自分が今生きている自分だけじゃなくて過去から連綿と続く、要は演技として一瞬一瞬作られていくっていう仕組みの根底にあるあらやしきがあるよっていうような世界観なのね。
うーん、これはそっか。
例えるのがもう怖くなってきたんだけど。
いいよ、一回例えてみて。
さっきのあらやしきとまなしきの関係がまず、あらやしきを認識するものがまなしきっていう話で考えると、なんかカメラみたいなものを想像したんだよね。
世界を常に色も光も色のほうが移ろう世界をその一瞬を切り取るカメラみたいなものをまなしきとして想定すると、その一瞬を切り取ったまなしき、その写真を見て「あ、これはこうなんだね」っていうのを判断してしまう。
常に移ろうっている世界自体は認識できなくて、その写真からしか物事を判断できない。しかもそれは過去のもの。
そうするとやっぱりただ自分が認識、このカメラで写真でいうと視覚的に認識できるのは写真しか存在しないから、多分それに対する執着とか思い入れって多分めちゃくちゃ湧くんだろうなという意味で、なんかちょっとそういう世界を想像した。
27:11
で、そうするとやっぱりそのあらやしきってものが世界だとすると、それを撮る、その切り取る、写真で切り取るまなしきっていうものがいろんな人に搭載されている、そのカメラは。
で、その人の中にはいろんな世界があるとすると、やっぱりその人が撮った写真っていうのは、同じ写真を撮ったつもりでも多分少しずれてたりとか、視点が違ったりとか色が違ったりとか、っていう、なんかそういう子の集まりだったりとか、そういう自己愛の集まりみたいな、そういう自分を実体化したものの集まりみたいな、なんかね、ちょっとこうそういうイメージが湧いてきて、個人的にはね、なんかそういうふうに納得した。
なるほどね。でもね、なんかすごい良い線いってるなと思っていて。
上からだね、相変わらず。ありがとうございます。
良い線いってる。
カメラの例でもし僕が例えるとしたら、カメラが膨大なクラウド上にあるビッグデータと繋がっていて、そこの繋がりをつくというのがまなしきですと。
カメラ自体は意識とか互換なんだけど、撮った写真がすぐにビッグデータと称号されて、これは何であるとか、これはリンゴであるとか、これはカエルであるとか、っていうふうに一瞬一瞬判断されますと。
まなしきというか、繋がっているネットワークからすると、どっちが本体かって言ったら圧倒的にビッグデータの方じゃん。
要はそのビッグデータに照らして、今撮った写真が何かっていうのを判断してるから。
だから、大量にアーカイブされている過去に撮った写真とか情報っていうのがあらやしきで、撮った写真っていうのは語式とか意識で、そこを繋ぐ、橋渡しをするのがまなしき?みたいなイメージの方が近いかもしれない。
伝わるかしら。
なんかちょっと複雑になったけど伝わる。厳密に言うとそうなってくるってことだよね。
そうだね。
なるほどね。そっかそっか。写真を見て判断するって言っちゃうと、たぶんこのあらやしきのクラとしてのアーカイブとしての機能がたぶん十分に説明されていなくて。
撮った写真を自分が判断してるって思っちゃうと、やっぱりこの有識からずれてしまって。
撮った写真にあらやしきがわかるからこれはリンゴだよ、みたいな情報も一緒についてくる。
それを意識に対して飛ばしてやるのがまなしきみたいな。
ちょっとね、たぶん今のたとえでも違うんだけどね。
うんうんうん。でもたとえてほしいな。厳密になると難しいし、ちょっと西洋哲学っぽさが出てちょっと難しくてね。
30:06
たとえてね、分かったつもりにならない方がいいんですよ、仏教とかは。
逆にね。それで、分かったってなると結局、やっぱり仏教ってそもそも前も言った通り仏になるのが正しいっていう世界観だから、
分かんなくて正解なのね。
はいはいはい。
だって別に僕ら仏になろうと思ってないじゃない。仏教徒でない、いわゆるちゃんとした仏教徒でない限り。
まあそうだね。
だからこそそれをなんとなく僕らの方に引きつけちゃって、これ使えるって思っちゃうと、それこそマインドフルネス的な。
要は人生のちょっと今のこの苦しみがなくなればいいみたいな、すごい自分本位の思想に切り替わっちゃうんだよね。
ああ、はいはい。
うん。それは結構仏教の怖いところで。
そうか、そういう風にも使えてしまうみたいなね。
うん。
まあ別に使うのは悪くないと思うんだけど。
うん。でもやっぱり突き詰めていくと結局自分がその世界の中心というか、自分にしか世界はないからって虚無主義、それこそ空腹的な虚無主義とか、
自分だけが救われればいいっていう、それこそ説一切無敵なスタンスにもやっぱりなっちゃうから。
はいはいはい。
そうならないためにはちゃんとこう、なんだろうな、分かんないっていうことも大事にしていただきたい。
うん。ああいうふうに例えて分かろうとするんじゃなくて、なるべくそのこのもの自体を今回で言うと有識自体をちゃんとそのまま理解する努力も忘れちゃダメだよって話だね。
そうそうそう。うん。だって世界観だから理解はやっぱりできないんだよね。
うん。そう、理解することしかできないから。うんうん。そうだから頭で分かろうとすると間違っちゃうよっていうのはまさに結構仏教的なところかなと思います。
はいはいはい。
うん。
まあただ、うん、めげずに例えていくからね。でも。
そうね、それはね、ありがたいむしろ。だってね、考えるのは感情とか言われても、どうしたらいいのってやっぱりなっちゃうから。
うん、ほんと眠くなるから。まあ面白いけどね。
いやでも、ありがたいです。そうやって受け止めてもらえて。
うん、そう。なんか自分の理解レベルっていうのをそうだね、早くにぶつけてちょっと測ってもらうっていう意味で。
ぜひぜひ引き続きお願いしたいんですけど。
なので、さっきね、日常生活における僕らがどう世界を見ているかっていう話をしたんですけど、あくまでもだからこそ僕らの生活の中心っていうのはあくまでも意識であり、五識、五感なんだよね。
だから普通に生きている分にはそういった意識とか五識っていう世の中を、ある種こうやって自分がいて、外に物があってっていうふうに捉えてる世界でいいんだけど、
33:08
やっぱり仏の世界に行こうとか、修行しようと思うと、その下にあるマナ式とかアラヤ式っていうのを知らなきゃいけないんですよ、っていうのを構造として説明したっていうのが、ここまでの唯識三十十の話でしたと。また言えなかったけど。
三十十年。
じゃあここまでで構造は一旦洗い出しましたと。実は当然ここで終わりじゃなくて、構造が分かったら、じゃあそこから僕らって何を学ぶのとか、どうやって修行につなげていくのっていう話をしなきゃいけないんですよ。
そっかまだそうだよね、構造、そっか、その中で無理矢理例えようとしててすいませんでしたって感じだけど、そこからもうちょっと具体的な、そこで悟ろうとするその梵譜たちに、これをどうやって理解していくのかっていうのを教えてくれるって感じか、さらに。
そう、持っているとこれを理解してよね、じゃあ実際の修行に移っていくんだけど、そもそも世界ってどういうもんなんだっけっていう話がここから始まりますよ。
なのでちょっと今回までで有意識の8つの構造が、5意識についてはご勘と思っていただいていたら大丈夫なので、その8つが分かったということで、じゃあ有意識っていうのは実際世の中をどういう風に捉えていくのかとか、どういう風に世の中と関わっていく考え方なのかっていうのを次でまたお伝えしていきたいなという風に思いますので。
了解。じゃあちょっとカメラよりも、いい例えだったりとかちゃんと理解しよう。
そうですね、ちょっと頑張っていく。
頑張ります。
でもね、例えるのすごい難しいと思うけど、ちょっと僕も考えるわ。
了解です。
ではやっていきましょうということで、今回は以上でございます。
はい、じゃあ次回もよろしくお願いします。
はい、お願いします。
ご視聴ありがとうございました。
♪~
35:09

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