朱子学の終焉
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、前回で一旦朱子学終わりということで、今回は雑談会やっていきたいと思います。
はい。朱子学終わりとは言ってもですね、実は次回の陽明学も含めて、まあなんだろうな、哲学と陽明学みたいな感じでやっていこうと思ってるので、
続きかなとは思ってるんですよと。
あとやっぱあれだよね、カウントがめちゃめちゃ長かったからさ、6分から、しかも流れでやった時に。
ちょっと4回だと少ないというかね、若干、もう終わったんだっていう感じもあったよね。
まあね、2週間分くらいかな、効く。
確かにね、確かに。
不思議なもんでさ、最初のうちはさ、4回くらいでもう十分というかさ、ずっとやってたんだけど。
最近その、なんだろうな、たぶん1年前くらいに僕が、なんか別に、なんだろうな、そんな回数にこだわらなくていいんじゃないかみたいな。
たぶん兄貴にも言われたんだけどさ。
最初ちょっと気にしてたもんね、4回くらいで全部まとめたらいいんじゃないかみたいなね。
じゃないと飽きちゃうというか、聞いてくださっている方も、同じ話ずっとされてもな、みたいな感じになっちゃうのかなって、普通に思ってたんだよね。
はいはい、まあ1ヶ月○○カウントみたいな、何回だっけ、4週間くらいか、8回だと。
実際ほぼなってたんじゃない、たぶん本当に言うと。
でもなんかそれも含めて、いいじゃん、やっちゃえよっていう感じで、やった結果、2週間4回分だとなんかちょっと物足りないみたいな。
はいはい、なるほどね、確かにね。
そうね、ちょっとね、やっぱ変わってきてるなと思うんですけど。
でもどうでした、趣旨学ね、それはそう、僕もね、ほとんどもちろん知らなかったし、だから兄貴もね、名前は知ってるけどみたいな感じだったと思うんですけど、なんか今回聞いててどうでした?
いやー、物足りなかったね、4回じゃん。
哲学の探求
結局やっぱりね。なんか何が足りないんだろう、それは。
まあ難しい話だよね。今回は陽明学までつながっているから、変にね、趣旨学の方を8回やっても、たぶんやりすぎで、っていうね、話はわかるんだけれども。
まあ陽明学がなかったとすると、みたいな話で言うと、例えばその、趣旨学、陽明学って聞いたときに、やっぱりなんとなくこう、陽明学の方のイメージなのかな?
明治維新ぐらいみたいな話をしたら、はいはいはい。
趣旨学は全然、江戸時代とかその前の鎌倉幕府、鎌倉時代ぐらいから、確か入ってきてたんだみたいな話があったんだけれども。
そういうのも全然知らなかったし、今回例えば、もしかしたらこれは次の話かもしれないけど、なんか趣旨学が、じゃあその日本でどんな感じだったのかな?とか。
あとはまあ、この趣旨学自体ではね、その李登輝っていう主機がたぶん、ある意味その独特な世界観を作ったというか、オリジナルの世界観みたいなものを作ってるんだけど、その土台を一旦受け入れた後、というか受け入れさえすれば、その上に立ってる世界観ってすごい面白いなと思ったんだけど。
そこをしっかりと踏み落ちる前に、一回終わっちゃったかな?みたいな。
なるほどね。
だから今回の雑談会でその辺ももう一回おさらいじゃないけどね。
はいはい。
ハヤトが実際、例えばこれ見てみて、どう感じたかとか、そういうところも含めて、忘れてる部分も含めて、ちょっとおさらいと深掘りみたいなのが少しできたらいいかな?みたいなのを個人的に思ってたね。
なるほどね。確かにね、インファニキの話を聞いて改めて思ったんだけれども、主機が作った物資学って、もちろんオリジナリティはあるんだけれども、もともと中国にある儒教、儒学っていうものをもちろん引っ張っているよね。
定局とか、陰陽五行説とかって言ったと思うんだけれども、中国にはある種根付いている、ある種常識的にあるような考え方を引っ張ってきて、ブレンドするような感覚もあるんだよね。
ああ、そうだったね。そういえばそうか。完全ならオリジナルでもないって話なのか。
そうなんだよね。そういったときに、確かに今回の話でいくと、そういう根っこにある、そもそも陰陽五行説ってなんだよみんな。
もちろん僕も詳しいわけじゃないんだけれども、いろいろやっぱり学んでると、そういうのって書かれたりするんだよね。実はこういう発想があってとか、中国じゃない発想とかでも、こういうものが影響していて、仏教にもね。
なんとなくそれが自分の中にあるから、あ、なるほど、理と気ってそういう感覚ねっていうのがあるんだけど、確かにその感覚がないところからいきなり、理と気というものがあってとか、定局というものが想定されているとかって言われても、
確かに土台がないから詰め上がっていかないっていうのってあるよなって思う。
だって土台って言ったらシャーマンキングぐらいに上がってるし。自分の中にあるその土台は。
確かにね。あれも輪廻転生の話やからね、めちゃめちゃね。確かにな。せみては次回大陽明行っちゃうんだけど、その後に一回中国のそういう、いわゆる五行説って何とか、陰と陽って何みたいな、そういう話を挟んでもいいのか挟むとか触れてもいいのかもね。
その後でも大丈夫?それ聞いてからの方が陽明学わかりやすいとか。
はいはい。なんかね、陽明学自体は理と気の話というよりはどっちかっていうと、理の話でもあるんだけど、
その主役が作った、あるいは主旗が考えた理っていうものが、大陽明からするとうまく一斉に繋がらない。前回言った政治になるって言ってるけど、現実的になれないじゃんみたいな話あったじゃないですか。
そうね、無理っていうね。もうやっぱり理想すぎますよねっていう。
これは前回も少し触れたんだけれども、やっぱり大陽明ってその主旨学をいろいろやった結果、やっぱり政治になれないじゃんみたいな。自分はなりたいんだけど、なれる道がないじゃんっていうところから自分の悪夢を作っていくんだよね。
はいはい。なんか若干ブッダっぽいよね。めっちゃ苦行したけど悟れないんですって。
確かにね、確かに。それはあるかも。やっぱり理想とか原理原則はあるけど、うまくいかないみたいな、現実で自分はどうしても凡人のままだみたいなね。
中国哲学の影響
うんうんうん。
確かにそこは似てるかもしれない。
当時のね、こうすれば悟れるとか、こうすれば大局に至れるみたいなさ。しかも自分が頭ではめっちゃ納得してて、それをやればいける感覚があるんだけど、めっちゃそれやってめっちゃできてるのに、あれ、至ってないみたいな感覚。
なんかそのすごい人、それをやれちゃうすごい人ならではの感覚っていう感じではありそうだもんね、全然ね。
そうだね、あると思う。だと思うし、やっぱ仏教ってすごいなって今確かに思ったんだけど、そのブッダっぽいっていうのもあるし、その仏陀の後に定座部仏教と大乗部仏教とっていう風に分かれていくじゃない。
で、定座部仏教は自分がある種悟りに至るというか、ブッダにはなれないけど、その手前ぐらいの空間とかかな、なるんじゃないかみたいなところで頑張ってたっていう人たちはと思うんだけれども、
ある種、その大陽明とかは、一種式がブッダというか本人が悟ってないけれども、その悟る道を示したとしたときに、それを悟っても自分はやっぱりブッダにはなれない、聖人にはなれないみたいな、
そういうところからある種発想をして、どうすれば新しい、本当の意味でみんなが聖人になれるとか、その道に至れるようなことってできるんだろうみたいな、そっちのより実践的な方を考えた人もあるんだよね。
だから今の流れで言うと大乗仏教的なのかな、大陽明の方が。
そうだね、向いてる方向は違うんだけれども、発展の広がり方っていう意味ではそうかな。
みんなが、自分がっていうよりはみんながみたいな。
そうそうそう、みんながっていう。
はいはいはい。
なので、余命学の話をもちろんやってくるときに、理とか気っていう発想はあるんだけれども、どっちかって言ったら理が多分大事で、
尊厳を深めていくっていうよりは、その上に立ってどうやってより聖人になっていくかとか、そのためにどんな行動が必要かみたいな、そっちの発展が強いんだよね。
へー、なるほど、生滅ぼつって言えばいいみたいなね。
そうそうそう、本当それもそんな感じで踊り念仏やればいいみたいな。
確かに確かに、そういう風な発想があるから、いわゆる中国のより本質的な五行説と何かとかっていう話よりも、いろんな実践を経てた上で、
ちなみにその根源にあった考え方ってなんだっけとか、ちなみにその発想の大元にあった中国独特の立場ってなんだっけみたいな、
そういうところで理解してほうが全体感がわかりやすいかなっていうのがあらためて。
はー、なるほどなるほど。そういう意味では陽明学まで至ると、ずっと本体にあった五行なんとか、みたいなさ。
はいはい。
的なのはそこまで直接的には関係してこないというか、感じなんだね、別に。そこ知らなくてもまず理解できるぐらいの。
そうだね。もちろんね、大陽明もそういうのを語ってるとは思うんだけれども、それを何か体系立ててすごい緻密にやっていきましたとかっていうよりは、
いわゆる五六がやっぱり残ってて、その弟子にこういうことの話をしてたよとか、こういう対話の中で大陽明さんとこういうことを考えたって言われてるんだよみたいな、そういう風な性質だったりするんだよね。
あー、なるほど。だから大乗仏教をマジでやろうとする人が必ずしも、たとえば荒屋敷とか、マナ敷とか、空みたいな。
有意識の観念を完全に、対得すべき稼働関係の話に近いのかな。
イメージ、そうね。そもそも言えるんですけど、これも先取りになっちゃうんだけれども、当然、大陽明さんも学校はちゃんと合格して、授業も朱子学もめっちゃ学んでるんだよね。
まあまあ、そういう人だろうね。話を聞くとね。
そうそうそう。
朱子学を真面目にやってこれじゃ無理だって思うっていうのは、どっちかだもんね。ちょっとやろうとしてダメか、マジで突き抜けた人が本当にやろうとしたけどダメだったかのどっちかで、歴史に残ってるから後者だろうなって。
そうそうそう、後者。
日本語を仏教的に言うと、仙台市で最澄が作った、いわゆる最高機関があるじゃないですか、仏教を学ぶ。
はいはい、仏教の学問としての。
そうそうそう。ちゃんとそこで学んで、鎌倉仏教が広がっていきますよ、みたいな流れとして。
たぶんそんな感じで、ちゃんと本筋本丸を学んだ上で、でもやっぱり時代に合わないよねとか、今の自分のものに合わないよねっていう風に発展させていきましたみたいな。
はいはいはい。
そういう風な感じなんだよね。
なるほど、そっかそっか。天然宗で最澄のもとへ学ぶときには、それだけじゃなくて、ちゃんと他の宗派というか、一通りにちゃんと学びますよね、みたいな。
たぶんそのぐらいの学問的な仏教の中でね、そういう広がりがあった上で、土台があった上でみたいな感じだったってことだよね。
そうそうそうそう。だからやっぱりオリジナルってやっぱり難しいっていうかね、ほとんどやっぱりないって言われているし、西洋でもね、やっぱりいろんなものを受け継いで発展していくっていう感じではあるんだけれども、
やっぱり朱器はね、儒学っていうものをもとにして朱子学を作った。ある朱子学の人はこれは朱子学だ、朱先生が作った学問だっていう風に言ったし、
朱子学と陽明学の相互作用
王陽明の陽明学も、後の弟子たちが、これはもう王先生が作った、独自性は高いというか、朱子学を超えるようなものはあって、やっぱり権威づけしていくっていうのはあったりするから、
そういう意味でやっぱり過去を乗り越えてはいるけど、いろんな土台っていうものはちゃんとあるっていう感じだよね。
やっぱり今回ね、朱子学で4回でちょっと切っちゃったけれども、どっちかっていうと、朱子学を土台にして陽明学っていうものを学んだときに、その土台となった朱子学を実践として乗り越えようとした陽明学っていう、全体感で学んだほうが役立つというかなんだろうな。
そういうふうなことをやろうとしたら考えようとしたわねみたいな。そんな感じであるんじゃないかなっていうのは思っていて。
確かにそうだよね。例えば仮に朱子学を8回でも12回でもいいけどさ、めっちゃやって、もしくは自分でめっちゃ朱子学を勉強したとして、これこそが自分の求めてる学問だったみたいなさ。
で、陽明学を知らずにね。そのまま朱子学に突っ込む。自分割と気を退屈して退屈に至るのだっていうことをやると、大陽明と同じ過ちを犯すことになるんだね、おそらくね。
そうだね。それだけの哲学的というか思想的な力がある人ほど、そこに落ち着いちゃうっていう感じだね。
そうだよね。ある意味半端な人はというか、当時も多分結構いたんだろうけど、「俺は朱子学を極めたんだ!」みたいなね。むしろ。なっちゃうか。
いずれにせよ、せっかく大陽明がさ、総理の大臣が朱子学のある意味限界みたいなものを気づいたのに、もったいないよねって話にはなっちゃうんだね。
朱子学だけしか知らないと。
そうなんです。もちろん朱子学はめちゃめちゃ面白いなって僕も思ってて、それこそ言葉として難しかったけど、「理通文集」みたいな言葉があったじゃないですか。
理っていう、宇宙の根本とか働きの一つなんだけれども、それがそれぞれの物事に差し掛けて、それぞれの不別なものが生まれてるみたいな発想って、
すごい西洋的な、いわゆる普遍と種とか古物との三形成っていうものを、ある種上手く言い表してる概念だなって思うんだよね。
あー、だからちょっと言い過ぎかもしれないけれども、ちょっとこう、イデアを下手した飲み込むぐらいの、包み込んじゃうぐらいの概念になり得るみたいなイメージってことかな。
そうだね。イデアとある種ちゃんとバトルできるというか。
そういう、普通にここまではいかないかもしれないけれども、そのイデア論者に対してこういう理通文集論者がいたとしたら、ちゃんと議論になるっていう感じかな。議論ができるであろうっていう感じかな。
なんかあったもんだよなって、もううろ覚えだけど、イデアがあって、デミウルゴスがあって、そっからものが、実際うちらが見えるものが出てくるみたいな感じだったっていうか、なんか順番的にさ。
だから今回の、そういうと似てる気もするけど、ただイデアはそれぞれのイデアがあるよって言われちゃうと、ちょっとわかんない部分も出てくるし、
今回の理通文集だと、ハヤトが前回言ってくれた海のイメージみたいな、湖みたいな、そっから例えば、コップで救うと何になって、
海のコップで救うと人間の利だよみたいな話を前回したけど、そのコップの形がデミウルゴスか?みたいなさ、ちょっと繋がる部分もあれば、若干やっぱりとはいえこっちは一つ、趣旨学は一つで、
プラトンの方は言うて、いろんなイデアがあるよみたいな、既にあるよみたいな、そのレイヤーの違いみたいなものが、確かに面白いし、議論になるかもしれないね、確かに。
西洋哲学と東洋思想の違い
そうね、実はめちゃめちゃ哲学的に重要な部分で今のって、何度言っても楽しいから多分また話しちゃうんだけど、やっぱり西洋哲学のイデアって別世界にあるんだよね。
別世界? そう、だから、一応プラトンとかアレステルスで言うと、その哲学的な、いわゆるこれを参照とかアナムネイスって言うんだけど、そういうふうに知見を磨いていくと、そのイデアっていうのはある程度垣間見ることができるというか、
そういうふうに捉えることができるとは言われてはいるんだけれども、やっぱりイデアの世界、イデア界と現実界って全然違う世界なのよ。 あーそうなんだ。
デミーヌゴスは神的な働きで、違う世界の両方に干渉できるっていう意味で、全然人間とは違う、本当に異世界の存在なんだよね、それはそれで。
はいはいはいはい。 っていう時に、これがある種、やっぱり後のキリスト教とかと結びついて、神の世界と人間の世界、まさに二分された世界っていう疎通に繋がっていくんだよね。
うーん、なるほど。 世界は完全にパキッと分かれてます。本当の世界と現実の世界というのがあって、それは基本的には交流しません。
だからこそ、その構成になって、いわゆるキリスト教信学とかで言うと、やっぱり罪と人の関係はとか、神の教えというのはどうやって人間が知るのかみたいな、そういうことがやっぱり問題になっていくんだよね。
なるほどなるほど。 うん。
でも今のリーツ文種とか、追局みたいな中国とか東洋的な考え方って、同じ世界、ちゃんと一つの世界の中に海はあるし、それを救うコップもあるしっていう感じで言うと、世界を分けなくて済むんだよね。
うーん、そうなんだ。構成信学はそれを、利とか対局のある場所って、別に分けてないんだ。そちらがいるこの世界と。
そうです。だから異世界とかなんか全然別の遠いところにあって、なんかこの世界に影響を与えてるんじゃなくって、あくまでもこの世界、この僕らが生きてる世界と地続きのところに、ちゃんとそういう利みたいなものとか、そういうキみたいなものっていうか素材があるよっていうのが想像なんだよね。
へー、なるほど。
だから、ちょっとこれ自信ないんだけど、いわゆる天とかっていうことをさ、中国ではよく言うじゃないですか。天の天命とかって言うと思うんだけど、その天っていうものもやっぱりいわゆる神みたいに別世界にいるものって言うよりは、
この宇宙の設立とか、その世界のなんていうのかな、全体をスネークしている存在みたいな、そういう感覚が強いはずなんだよね。
なるほど。
っていくと、いわゆる別の世界とか、理想の世界とかってやっぱり語る必要がなくなって、どっちかっていうと、なんていうのかな、やっぱりこの世界をどうするかって言えません?性的な部分とか、そういうところにやっぱり目が向いていくんだよね。
だから、やっぱりこのイディアとして別世界っていうものを想定するのか、趣旨学で言うと理みたいな感じで、この世界の働きみたいなものを追い求めるかによっても、やっぱりその人の思考が向かう先とか、なんていうのかな、そこから生まれてくる発想とか価値観ってやっぱり全然違うんだよなっていうのを最近そうやって感じるんだよね。
うーん、なるほど。
そういう、なんだろうな、それがどっちが良い悪いっていうよりは、だからこそその西洋のほうの、いわゆる経時定学みたいなものが発展していて、その概念が多分少ない。そこがあんまり分けない東洋からすると、
なんかすごいって思っちゃう部分、なんか面白いって思っちゃう部分があるみたいな感じなのかな。
だからそれが、なんとなくね、西洋のほうがすごいみたいに感じちゃうんだけれども、今のハヤトの話を踏まえると、
実は、そういう経時定学、経時定とかさ、イデアみたいな、この世界じゃないものって分けちゃったりとかするのって、フィクションだから勝手に作っちゃってるよね、みたいな感じ。
逆に、この趣旨学だったりとかの、全部この世界にあるんですよ、のほうがある意味合理的というかさ、作ってないじゃん、みたいな、変に。
なんだろうな、どっちも作ってるのかもしれないけれども、そういう意味でどっちがすごい悪いとかじゃないなっていうのを、ふわっと思った、今。
そうだね、ほんとにそうで、やっぱり僕らからすると、やっぱりどうしてもね、西洋すごいとかさ、経時定学、南海で日本人はなんかね、日本語忘れてきてないとかって言われることもあったりすると思うんだけど、
あの空気読んでみたいなね。
そうそうそうそう。逆に、よくある東洋の発見とかだったりするけど、例えば禅っていうものがやっぱりこう、東洋から西洋に広まっていったときに、
やっぱり西洋人はめちゃめちゃ驚いて、なんだこの発想は、みたいなこととか。
我々がその世界を分けて、どうしたらじゃあ、イデアとこの現実のものが結びつくのかみたいな、そういうことをけんけんがががって議論してるわけだよね、彼らは。
さっき兄貴言ったより、それってもしかしたらフィクションかもしれない。結局世界っていうのは、自分と世界も一つで、別に分ける必要なんてないじゃんとかっていうときに、
逆に西洋の人からすると、それが目から鱗で、なんかこの発想法あってなって、東洋とか禅ブームが起きたみたいな、そういう時代もあったわけだよね。
なるほど。
だから、さらにどっちが良い悪いじゃなくって、そのぐらい違う価値観とか世界の前提って、やっぱり持って僕らは今でもなんとなく生きてしまってる。
その違いが分からない中で、異文化交流だとか、やっぱり相手を理解しようと言っても、そりゃ理解できんよなみたいな。
そうだね。
そういう発想はあると思うんだよね。これは僕が言ってるというよりは、学ばせてもらってる大学の元教授の方が、フランスに行ったのかな、留学で。
やっぱり言った時に、いかに日本人の学生がフランスにいて哲学をするっていうことが難しいかというか、
しかもフランス語を使って、フランス語で考えるっていうことをするわけだったときに、いかに大変だったかっていう話をこの前教えていただいたことがあって。
なるほど。
やっぱりそういう言葉とか思考だけじゃないその根底にある価値観とか、その世界っていうものがどうあると僕らは思っているのか。
ということで全然違うんだよなって、ちょっと今改めて思ったんで。いろいろ話しちゃったんだけど。
いやーでも面白いね。面白いかも。フランスの、たとえばね、もちろん一般化はできないんだけれども、
フランスの人たちが、たとえば哲学が歴史も古い場所っていうところで、そういう人たちのアイデンティティ、自分とは何か、社会とは何かという捉え方と、
たぶんうちらの自分とは何か、社会とは何かという捉え方って、たぶん全然違そうだなーみたいな。
そういうのも面白そうだよね。それはさっき言った、文化のお互いの理解というかね。そこ知らないままお互いの常識の同士で話し合うとね、たぶん話がかみ合わないだろうなみたいなね。
今それ兄貴がジェスチャーでね、伝えようとしてるけど、全然こっときは接触らんと思うんだけども。
まあでも本当そうで、ちょっと前さ、日本の思想みたいな感じで、あのね、西田喜太郎さんとかさ、渋沢さんとかもやったじゃないですか。
やっぱり彼らはまさにそういうね、西洋から入ってきた哲学と、日本人とか自分としてのやっぱりあり方とかって、いかに対決させるかということをやってた人だよねっていうのを改めて思うと、
僕らはね、普段生きてそこに悩みを持つことは少ないとは思うんだけれども、やっぱりこういろいろ考えてきたら、結局自分のアイデンティティーとか価値観の根底ってどこにあるんだっけ。
人間関係と理想の世界
そういう世界って2つに分かれていて、やっぱり理想の世界に行きたいんだっていう話なのか、世界っていうのは、自分と宇宙っていうのはこの全体としたもので、むしろね、どう解き合うかって、それは2つだけし、別にどっちが正解とかでもないんだけれども、
でもね、仮にそういうことを思った時に、あれなんか自分ってどっちなんだろうとか、他の人ってどんなふうに考えてるんだろうみたいな、そういうことを感じる瞬間は結構僕としてはあるなって思うんですよね。
そうだし、今、早稲田さんが言ってたけどさ、自分がどう生きるか悩むとか、自分がどう考えてるか悩むことが少ないみたいな表現を今してたんだけど、意外とそうじゃないのかもみたいな。
そこじゃなくて、悩む人は多分多いんだよね。だけどそれに対するアプローチが分からないんじゃないだろうかみたいな。
ああ、なるほどね。
感覚の方がもしかしたら実体に近いんじゃないかなって今の話を聞いてふっと思った。
はいはいはい。ああ、面白い、そっか。だから手段が分かんないというわけじゃないですね。三味伸びたら常谷さんに行けばいいけれども、人生は悩みでぶち当たった時にどこに行けばいいのか分からんみたいな、そういう話なのかな。
そうそうそうそう。で、そこでそのアプローチを、じゃあどうしようって考える時の特化管理が今なさすぎて、学校でも別に教わんないじゃん、そういう。
まあ確かにね。
倫理哲学みたいなのは、勉強としては習うかもしれないけれども、あとは自分がこういうことに困った時だったりとか、人がこういうことに困った時にどう考えるべきかみたいなものっていうのは習わないから、あまり特化管理とか知識とかなさすぎて、
さっきハヤトが言ったさ、西洋的に行くのか東洋的に行くのかみたいなアプローチすらもないから、それを探す、それを考えるカロリーとか手間とかが大きすぎて、なんかそのままこう、まあいっかみたいになっちゃうの方が多いんじゃないかみたいなのを。
はいはいはい。確かにね。いやでもありそう。
まあでもなんか、あれじゃない、やっぱり生きててぶち当たる、こういうみたいなものっていろいろあるとは思うんだけども、それをね、ある種こう、まとめてこういう時はこうしたらいいですよみたいな本とかいっぱいあるとは思うんだけども、
確かになんかそのいわゆる、なんていうのかな、お手当て的な、なんかその、なんていうのかな、まさに実践としてなんとなくこういうふうにすればいいとか、こういうふうに球を切り替えてみようとかだけじゃなくって、
本気で考えるとしたらこんなものがありますよみたいな、もう一段そこを深めてくれるみたいなものは確かにあんまないよなと思った時に、なんかそういうガイドブックとかを作れそうだな、むしろ作りたいなとか思うんだよね。
やっていいと思うけどね、ちょっと難易度、自分であれと思った時にそれを捉えにいく難易度は正直わかんないんだけど、例えばその、パッと思いつくのが漢方とか、あと薬の処方箋。
それから、今もいろんなさ、そういう本って出てると思うんだけど、心が苦しくなった時に読む本とかさ、人生に悩んだら読む本だったりとか、14歳のハローワークとかいろんな本があると思うんだけど、それってもう薬の形になってるんだよね。
うんうんうんうん。
市販薬かな、どっちかっていうと。市販薬。風邪薬コーナー、鼻水コーナー、咳コーナーみたいなさ、音服通コーナーみたいなのあって、そっからなんとなく選んできて、それを飲む。
で、そうするとなんかいいことがあった気がするぐらいの感じで、その大元の作用だったりとか、あと例えばその、自分でじゃあその、漢方薬の方がわかりやすいから漢方薬にするけど、なんか今日こう、調子が悪い、喉がなんか意外がする時に、自分で意外がするってことはじゃああれとあれを飲もうか、みたいな、飲んだらいいのだろうか、みたいな風に思うのか、
とりあえず病院に行って、すいません、これに合う漢方薬くださいっていうのの意外。これ結構大きいとは思うんだけど、とはいえ、なんかやってる人はやってるじゃん。漢方薬の本なんてあるし、あと薬の本もあるから、自分でなんとなく、あ、この成分入ってるってことはこうで、
でも自分はこの成分ちょっと合わなそうだからやっぱりこっちの方が同じ頭痛にしてもこっちがいいかなとかっていう人も多分いるわけじゃん。ただそれって多くないじゃん。結構面倒でした、そういう時点変わってきて自分で読んで。
そうね、本当にそう。 それぐらいの感じでいけるんじゃないかなって思った。し、そのぐらいの感じであってもいいのかなって思ったね。
そのぐらいってどっち? その、なんだろう、えっと…。 あ、ごめんごめん。そのぐらいっていうのは、例えば漢方薬自転とか。
あー、そういうことね。 市販薬というかお薬自転みたいなさ、成分があるみたいなさ。それも結構なハードルではあるけれども、ちょっと悩んだ時にそれがあるとないでないとは全然違うじゃん。
それは確かにね。 で、今哲学領域だと多分それがなくて、いきなり、このラジオ、多分ハヤトが作った家もそうだと思うんだけど、いきなり医学のさ、もう薬学の専門書しかないみたいな状態。
哲学と実践
確かにね、確かに確かに。 で、漢方薬のもう代々伝わってきた巻物しかないみたいな状態と、あと言うて市販でその漢方薬自転とか売ってる状態って全然違うじゃん。
そうね、それはそう。 みたいな。で言うと哲学はいきなりその専門書しかないよねみたいな。
間のやつがなくて、あるとすれば市販薬、だから一応対象療法的なものしかなくて、紅葉効能の原理がわからんみたいな。知りながらちょっとわからんとするといきなり、いきなり漢方のこの本読んでくださいみたいになっちゃう。
はい、そうね、確かに確かに。 のはちょっと思ったかな。
今のはなんかヒントになりそうだな。なんかやっぱ自分が言いたいことも結構そっちで、やっぱ哲学って面白いってやっぱ思ってるからこんだけやってるわけだけど。
ハイトはそこに多分カロリーを投じた方なんだろうね、その前の時に。
めちゃめちゃ投じるよね、時間とかお金とか。
確かに。
だからさ、この薬の成分ってなんで効くんだよみたいなとか、あと自分ここの痛いんだけど、これ飲んでもあんま効かなかったし、市販薬とかじゃなさそうだし、なんか疑っちゃうし、こういうのみたいなね。
でもやっぱりこの、ここ調べると確かに糖分もあったみたいなさ。結構そこをやっぱり、自分で専門書みたいなの開いてきた感覚みたいなのが多分ありそうだなとは思うからね。
まあね、そこまでってこがましいかもしれないけれども、やっぱり相応のいい自力がなかったのは確かにそうで。
例えばね、一回大学院に行けばとかって思ったけれども、大学院に行っても別に哲学を使ってどうやって人生を生きやすくするか教えてくれないわけだよね。
もちろん関東なら関東とかね、ヘーゲルならヘーゲルの詳細なこととかさ、哲学師とはみたいなことはすごくたぶん教えてくれるんだけれども。
それを学んだ病院に行ってさ、それこそ薬を出してもらう。すごく効く薬を出してくれるかもしれないけれども、やっぱり自分が知りたいのはなぜこの薬が効くかなどですって言われたら、でもお医者さんもわかんないと思うんだよね。
効くものは効くんですよみたいな。だから関東とかも、まず関東はやっぱり勉強するもんなんですってことはたぶんやれるんだけど、その関東をやることで漢の生えたという人間がどうなるかっていうことまでは、もちろん面倒は見てくれない。話は聞いてくれるかもしれないけれどもね。
っていう時に確かにそういう手引きになる人だったり物だったり本だったりっていうのがなかったから、もうしゃーない自分で何かやれるどこまでやるかみたいな。そういう部分は大きいかもね。
そうはね。だから逆引き時点みたいなのがないんだよね。この症状の時にどうすればいいですか。だからその哲学者烈伝みたいなのはあるかもしれないけど、やっぱそれですら自分にじゃあどういかするっていうのは無理だから。無理というかとても難しいから。
確かに。それはやっぱり作りたいと思っているものでもあるんだよな、自分がやっぱり。
そうするとね、さっき漢方薬とか薬の例えしちゃったからちょっとずれる。生き方に対するのとはずれるんだけど、生き方悩んだ時にどうするっていう時の、せめて自分で飲む薬を選ぶだったりとか。
多分今後、自分で調合できるはずなんだよね、本来っていう。そこはもう一段階レベル高いというか、カロリーは必要かもしれないけれども、その2段階ぐらい、せめて自分で合う薬、漢方薬を選びましょう。
そのもう一段階、次の段階として、自分で調合しましょう。で、自分で調合しましょうまでいけると、ある意味思想的には自分の真がある状態だから。
そうすると、それに縛られるんじゃなくて、それを基準として自分の中のズレ、周囲のズレみたいなものが、やっとそれで見えるようになって、じゃあ自分ってなんだろうっていうものを最低にするっていうスタート地点に立てる気がするんだよね。
なるほどね。なかなかハードなことを求めるね、お兄さんは。
まあ言ったでしょ、だからハードなの。とはいえ、今はそれをやるための環境があまりに整ってなさすぎるっていう話。
だからそこに対して2段階ぐらい、せめて処方箋。だから本屋さんに売ってるさっき言ったようなものが果たして処方箋なのかどうかっていう部分から、市販薬レベルかもしれないから、せめてもう1段階病院の処方薬レベルぐらいのものがあって、何段階かあるけど。
ちょっとまともだけど、バーッとしゃべっちゃった。
本当に聞いてみたいんだけどさ、いわゆる自分の人生のスタートラインに立つみたいな話ってよくあるじゃないですか。要はちゃんと自分で決めていくとか考えていくとかってあるとは思うんだけれども、ずっと不思議というか疑問なのは、そういうふうに思ってる人ってどのくらいいるんだろうって常に思ってるんだろうね。
僕自身が別に痛くてやってるわけじゃなくて、本当はもっと楽に生きていきたいだけなのにみたいな、もっと普通にお薬出してくれるならその薬飲んでどんどん生きていきたいのに、それ見つかんないからやってるっていう、ある種しゃあなしでやってる感覚がするんだけど。
分かる、分かるというか。
だから本当は別に楽してお医者さん行って薬もらってそれで生きていければいいんだが、それを超えてでもやろうとか頑張ろうみたいな人ってどのくらいいるんだろうなと。
わかんないよねそれはね。この話のとっかかりというか、最初なんだけど、早藤がそもそもそう思う人が悩む人が少ないっていうところに最初引っかかったんだけど、それで言うと多分悩むのは全員悩んでると思うんだよね。
まあそういうことか確かにね。
そのうち100悩んでます。そのうち例えば市販の本を読む人が例えば半分。そのうち本当にもうちょっと深く掘りたい人が100分の10みたいな。
例えばね、なるほどね。
掘れる人が、掘れない人が100分の7、掘れる人が100分の3みたいな感じで、多分適当だよ今の。
わかりやすいわかりやすい。
そういう意味では、そういう悩みがあることが交渉だとか、その引っかかりのあるセンサーがあることがすごいんじゃなくて、多分全員思ってるはずなんだよね。
悩みの本質
あとはそこに対する話で、今ハヤトが言った悩みが生じたとき、だから頭痛いとか風邪引いたときにさ、いちいち医学とか薬学勉強してらんないししたくもないじゃん。黙って薬くれよっていう話が本当にね。
今本当にそれがなかったりとか、あるつもりにさせられてるんだろうなっていうのはわかんないよね。
なるほどね。でも確かにね、今すごい確かになるほどって思ったのは、生きててやっぱ悩まない人はそりゃいないよねと。どんな人であれ、何らか悩むよねってなったときに。
確かに、じゃあその自分の悩みに向き合うとか、それを掘り下げていくっていうところの本当に難しさというか、何ていうのかな?手がかりの無さ?
そう、とっかかりの無さ。
そういうことだよね。それが確かに課題になるとしたら、薬学ってそこに実は答えられるものだよなっていうのは確かに思うよね。
例えば言うと、前にそれ鉄カフェ、コミュニティの方でメンバーの方とお話しさせてもらったときに、例えば自分の感覚みたいな話で、例えば役場に応じて演じる。
会社は会社の自分がいて、プライベートではプライベートな自分がいる。あとは例えば家族というときは家族としての自分がいるみたいな、そういう場合と。
あとは自分の場合は、もうそういうのが嫌だから、どの場面でも自分でありたいみたいなさ。自分自身であるようにするみたいな例えがあったときに、そうやってどっちも正解だと思うし、人によってその心地良さと自分へのしっくりする具合って、多分人によってどっちかだったりとかそのバランスだったりとか、場面場面で違うはずで。
例えばそういうこと一つとっても、わかんないじゃん。例えば学校にいるときに、なんか言い心地悪いんだよなっていうのが、ただただ人間関係の問題なんですかと。先生と会う会わないの問題だけなんでしたって、みたいな。なんかそうじゃないじゃんみたいな。
そこはもうちょっと多様な視点でというか、本来お医者さんでさ、「いや、あの、風邪だったらこのウイルスですね。細菌性ですね。ウイルス性ですね。」とかさ。ただ単になんか悪いもの食っちゃいましたねみたいなさ、いろいろあるじゃん。それがやっぱりないんだろうなって思ったね。
確かにね、確かに。いわゆるその原因の方では、結果として例えばなんか息づらいとか、なんか居心地が悪いとかっていう、まず症状だよね。
そう、なんか無理してるとかね。
でも自分の原因ってここだよねって確かに見つからないと、なんかただ息づらさを抱えていくだけみたいな。
そういう点、何個かのトカカには準備できるはずなんだよ。
そうだね、確かにね。だから僕の場合は、どこかにやっぱ真実があるとか、唯一の答えがあるっていうことがやっぱり原因だった。そこに縋ってたのが原因だった。気づいて、それ払えたっていうのは2年前ぐらいなんだよね。
価値観の再考
それは面白いよね。でも二重にこじらせはまってるよね、それ。息づらいなって思って、そこからハヤトは掘っちゃう方の人で、原因で。そしたらその掘り方が多分ちょっと間違ってたみたいな話に近いじゃん、それ。
まあそうだね、前提の価値観がもう、だからそれ自体が問題だったって話だよね。
うーんと価値観、まあそうだね、悩みを持ちましたっていうところはOKなんだけど、それを解消する手段として、ハヤトは多分万能薬があるんじゃないかみたいな、エリクサーがあるんじゃないかみたいな。
っていう方に、やっぱとかかりがなさすぎて、真の始皇帝と一緒だよね、不老不死の薬あるでしょ、みたいな。方に望みを持っちゃって、とかかりがなさすぎて自分でさ、勝手にというかね。
確かにね、確かに。 うんうん、やっちゃってるから、そういうことが起こる。それはひとつの悲劇だよね、ある意味ね。
まあね、確かにね。そしたらそこにちゃんと適切な手引きがあって、それはもしかしたらこういうことを思い込んでいませんか、という発想もありますよとかっていう風に、
うまく、なんていうのかな、ちゃんと柔らかくしてくれるものが確かにあれば、もうちょっと変わっただろうね。その始皇帝にもさ、不老不死目指していると思いますけれども、不老不死がないという世界も考えてみませんか、みたいなさ。
まあそれで言ったら殺されちゃうかもしれないけど、そういうふうなことをちゃんとやっぱり見せてあげようっていう話だよね。
そうはね、見せてあげようとかっていうのはあれだけど、そうだね、そういう特化解がある世界は良さそうだなと思った。
なるほどね、確かにね。ちょっと探してみよう。でも知らないだけであるとは思うね、たぶんどこかには。でもそのあるものがうまく活用されてないとか、知られてないってことだと思うし、使われてないんだったらそれがなぜかっていうのがわかれば、例とすればいいから、ちょっとそれは普通にやってみたいな。ちょっと調べてみます。
面白そうだよね。でも良かったわ。やっぱりそういう悩みを持つ人の方がセンシティブだみたいなさ、だったりとか、ちょっとセンサー鋭そうみたいなさ、どうしてもこういう話をしてると、表現としてしてしまう場合もあったなって思うんだけど。
今日この話の中から、その違和感が出てきて良かったなって思った。
確かにね、確かに。でもありがとう。確かにどうすると、自分もさ、やっぱりもともと下に構えた人間だからさ、実悪してる俺かっこいいみたいなさ、逆にそういうところに興味を持たない奴らは、遅れてるみたいなことをさ、思わないこともないのよ。
浅いやつらめみたいなね。 俺の話も分からぬ奴らみたいなさ。例えばそういうことを思ったとした時に、やっぱそうやってそういう傲慢ね、さっきも言ったときは思い上がりじゃない? そうそう。多分ね、思った中でもう唇噛み締めながら生きてるんだよ、みんな多分。
結局ね。 そしてやっぱその人それぞれがやっぱりやり方とか、いなし方でさ、ストレスが上がってもやっぱり解消して、なんとか頑張ってやったりするわけじゃない? それはどっちが言い悪いとかってことじゃなくて、それこそさ、趣旨学と多分病名学もそうなんだけど、別に体系立てて本質に近づいた方が偉いとか、実践論でそういう道を作った人が偉いとかってやっぱり、それ量なんだよね、本当に。
どっちも大事。
そうそうそう。ある意味、アサインとかって言ってた人たちは実はめちゃくちゃね、健康の話で言うとさ、ちゃんとご飯食べて、ちゃんと運動して、ちゃんと寒風摩擦して、みたいな。お風呂でリラックスしてみたいな。
そうね、おばあちゃんの知恵袋的なね。
そうそうそう、ちゃんとやってるから、健康というか、なんとか元気に生きてるんですよみたいな話かもしれないですね、薬に頼らずみたいなね。
そうね、それは確かに。やっぱり両方ですわ。でもそれはね、本当、実は、なんだろうな、実はなんだろう、やっぱり陽明君に紐付けちゃうんだけれども、あの、大陽明のキーワードで、知恵合一っていうのがあるんですよ。知恵合一。
あ、そうなの?聞いたことある。
それ、知ることと行うことが一つであるみたいなのがあって、これって大陽明のスタンスなんだよね。
へー、あ、そうなんだ。
で、もちろん意味合いはちょっと多分ね、この言葉からそうするまでにはもうちょっといろんな意味が含まれてるんで、それはまた次回以降ちゃんとお伝えしていくんですけれども、
まさにそういう、なんだろうな、やっぱり知ることだけじゃなくて行うこと。
で、もちろんどっちかだけでもいいっちゃいいんだけど、やっぱり本当に、やっぱり大陽明さんみたいにやっぱり成人になろうとか、自分なりの理想を追求しようってなると、それ両方大事。
次回への期待
多分それがスタートラインに立つこと、今日の話で言うと。なんだろうなっていうのはやっぱり最近すごい思うよね。
なるほど、なるほど。
なので、やっぱりそういう意味ではね、今日もね、ちょっと色だらだらと話してしまったんですけれども、自分の中でやっぱりね、
なんとなくタイミング的にこの人やってるとそういう問題が見えやすいとかもあるし、逆にそういう問題が見えてきてる時期だからこそ、今回って主旨役取り上げたいとかって、やっぱりそういうことと繋がってるなぁとは思うので、
ちょっとね、こういうみんなで学びながら、今回ってやっぱりね、雑談を挟むと、そういう意味でやっぱり自分が今何にやっぱり気になってるから、主旨役やりたいと思ってるんだっけとか、
大陽明さんどこが面白いと思ってるんだっけとかが見えてくるなぁと思うので、なんかね、ちょっと今回少しもう足りなかったっていう兄さんのクレームもありましたけれども、
ちょっとそこはね、次回の大陽明さん編と含めて、主旨役、陽明役編っていう感じで、ちょっと皆さんもね、ぜひなんか自分がそこからちょっと感じるところがあるかなぁとか、なんか自分の日々感じることに繋がることがあるかなぁみたいな風にもし聞いていただけるとすると、すごい嬉しいなぁなんて改めて思いましたね。
はいはい、まあそうはね、だからもう足りないとは言ったものの、今日の前半でも言ったけれども、この時点で主旨役にハマってしまうと危ないからっていうことは大陽明が証明してるということなので、次回ね、その次回に陽明役か、これを聞いた上でね、またね、思ったこととかね、また話せればなぁと思いました。
そうですね、ぜひというところで、ちょっと今回はね、終わった雑談というよりはちょっと間に挟むみたいな感じでしたけれども、次回ですね、陽明役やっていこうというところで、また第一回は大陽明さんとは何ぞやみたいなね、生涯とかも含めてまたお伝えしていこうと思っておりますので、ぜひお楽しみにしていただければと思っております。
はい、わかりました。では次回ですね、陽明役こちら入っていきたいというところで楽しんでいきたいと思います。では、引き続きよろしくお願いします。
おだしょー お願いします。今回もありがとうございました。