江戸思想の振り返り
それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
前回で江戸思想編終了ということで、今回は雑談をやっていきたいと思います。
お疲れ様でした。
お疲れ様でした。結構長かったね。
そうですね。思ったよりも大ボリュームになってしまって。
でもやっぱり、全然知らないことだったね、自分としても。それを学びながらが楽しかったなっていう感じではあったんですけど。
お兄さんとしてはどうですか?逆に兄貴も全然知らないところを、いろいろ話を聞いてきたと。
でもそれはいつも一緒なのか。
そうだね。こっちはいつも新しい話を聞いているので、一緒だったけれども。
長く感じたのが、たぶん、朱子学からずっと一つのシリーズみたいに捉えている。
そうですね。今回、あえてそういう構成にしたというか、朱子学をやった時に、そういえば朱子学って江戸時代にいろいろ広まってたよな、みたいな。
ふわっとした知識だけがあって。
前に日本の思想をやった時にも、ちょっと古代、奈良時代とか平安をやりつつ、一気に飛んで、前回の井上哲次郎さんみたいな明治期の哲学をやったから、その間がぽっかり空いてるなとかって自分では思ってたんですよ。
そう埋めれたら面白いなと思ってたんだけれども、予想以上に面白かったなって自分は思ってまして。
もちろん朱子学の話でもそうなんだけれども、個人的には本織りのりながさん、哲学との出会いがめちゃめちゃ面白くて、近いうちに本織りのりなが記念館とか行こうかなと思ってるぐらい今、本織りのりながさんブームが自分の中で来てるんだけど。
なるほど、そうなんだね。
何かっていうと、やっぱり彼って朱子学っていうものをある種批判して、空心であると。
要は、いわゆる物事の本質があるという前提で考えるとか、それを追求しようとするっていうこと自体がある種間違いで。
物の哀れみたいな、ある種、僕もちゃんと理解できるわけじゃないんですけれども、そういう感情的なものとか、その時々で起こり得ることも含めて捉えましょうみたいな。
そっちのほうが捉えましょう、そっちがむしろこの世の基本構造なんですよっていうふうに、新しい世界観を立ててるなと思ったのよ。
なるほど。
それって明確に西洋哲学への批判というか、西洋哲学を相対化する思想でもあるなと思ったんだよね。
なるほど、なるほど。その本織りのりながが意図したかどうかは別として、全然違う営みをしてるんだ。
そうそうそう。意図はしてるね、やっぱり。そもそも趣旨学の理とか機っていう、そういう抽象的なものを扱うことを否定してるから。
哲学的な、いわゆる啓示条約だよね。そもそもこの世にないものとは概念っていうところを考えるって、哲学的に言うとそれが大事だし、むしろ王道ではあるんだけど、
もしね、本織りのりながさんがイディアとかネプラトンとかで話したら、「何言ってんだお前、イディアなんてそんな知らんことのこと言ってないで、目の前にある花は芽出るんだ。」みたいにさ、
多分そんな感じになると思うんだよね。
なるほど。それと言うと洋名学との違いはどうなの?本織りのりながの国学。
はいはい。洋名学は言っても、理と機みたいな基本構造を受け継いだ上で、性即理っていう趣旨学を打ち立てた、いわゆる心っていうものを分割して、
感情じゃなくて、本性を扱うっていうところじゃなくて、その感情とかも含めて、むしろ成人に至るようなきっかけであるんだっていう発想だから、
普通に目の前のものを大事にしましょうとかってことじゃなくて、ある種、両方丸ごと使って成人になろうっていう、
手段が違うだけで、本質的なのりとか機っていう世界観がありますとか、それを使って成人になりましょうっていうことは、やっぱり変わんないんだよね。
ああ、そうか。だから、至高法律がなんとなくその、本織りのりながの言うところの哀れとかさ、そのものを感じるのだと近い感覚になっちゃうんだけれども、
今、ハヤトが言ってくれたような理由で、そもそもの学問的なというか、目的だったりとかが、由来が違うから、そこは近いかもしんないというか、近いように見えるかもしんないけど、実は今度おっしゃダメだよとか、違うんだよっていう感じなんだね、そこは。
そうだね、そう。なんか、うどんとチャーハンで近いよね。どっちも炭水化物だしね、みたいな。そのぐらいの感覚だと思う、その近さって。
本居宣長の思想
うどんそばぐらいだと思ったけど、全然違う。
いや、違う違う違う。
主旨学と余命学は、たぶんうどんとそばだよね、どっちも麺類だよねって言えるんだけど。
はいはいはいはい。
なんか、国学はそのぐらい違うと思っているな。
なるほどね。はいはいはい。
そう。で、あった時に、もちろん僕もそれをまだまだもっと学びたいなと思っているんだけれども、やっぱ哲学は僕好きでね、ずっとこうやってやってますけれども、
それはやっぱ哲学も、どこかに構造化できるものがあるとか、それができないにしてもそもそも構造化できないということを捉えた上で、世界をより語れるんだ、よく語れるんだ、みたいな。
やっぱりそういうふうなスタンスってあると思うんですよね。
はいはいはい。
プラグマティズムの時に言ったと思うんですけれども、哲学者もやっぱり自分がどの世界を捉えたいかとか、そういういわゆる自分の思考とかそういうものに、結局そういうものを表明してすぎないみたいな話があって、それは本当にそうだなと思うんですよ。
要は世界はなんかよりシンプルにできるとか、世界はよりちゃんと正しく理解できる、その方が良いみたいな、そういうぐらい無意識というか、前提にとらわれてるだろうなっていうのもやっぱり自覚はするんだよね。
なるほどね。だからその終末点なのかゴールなのかわかんないけど、とにかく例えば政治になりたいと同じように、世の中を解き明かしたいとか、これについて構造化したいっていうのは、すごい目的的であるっていう意味では同じなんだね。
一緒一緒。
はいはいはい。
そう。そういう目的で動くということ自体が、既にそれは逆しらであるとか、空心であるみたいなところが国学の発想なんだよね。
それもまた極端というか、なるほどね。
そうそう。でもその観点から否定しようとしてるから、やっぱり揺らがない。揺らぎにくいというか。それを否定しようとすると、何て言うかな。
それというのは、主治学とかの側から仮に国学を否定しようとすると、結局は、ある種神の道みたいなものはないとか、土台として置けるようなものなんてないっていう話から否定しなきゃいけないんだけど、でも古事記があるじゃないかと。
で、私は古事記を解読解釈してこんなふうに書いているが、それを全部否定できるのかって、今度はそっちになっていくんだよね。
いやー、そういう意味で強いんだね。うん、そうそうそうそう。
哲学チックではあるというか、何なの、それは。
哲学ね、神の道だよ、だから。
そうだね、哲学、なんとも言えない、確かに。
ある意味、正義と正義というか、土台部分でぶつかっちゃうから、ヘイデルさん、なんとかしてくださいよってなっちゃう。ヘイデルにもなんともしがたいかな。
確かに矛盾じゃない、わかんない、矛盾とは何かみたいな話になってくるんだけど。
そうだよね、対立構造を作れないのか。可能性があるから。
じゃあ、アマテラス大神の道こそが正しいっていう発想と、世界というのは、より追求することでより真実を表してくれるっていう発想があったときに、
つまり、もっと抽象化すると、世の中の真実はすでにあるっていう人と、真実はさらに奥にあるっていう人、対立できるのかね、それはって思うんだよね。
そっかそっか、ごめん。今の話を言うと、すでにあるが国学側で、奥にあるのだがプラトンとかみたいな話。
そうですそうですそうです、哲学側って話。
そうやって対立軸すらない、対話が始まらないと思うんだよね。
そうだね。
だから、そういう意味でそれを矛盾として解き明かせるのかっていうのは正直わかんないよね。
確かに確かに、そうだね。
へぇーって言っても帰っちゃうかもしれない。これは違うわ、私の仕事じゃないって言って帰っちゃうからね。
そうそうそう、それ矛盾じゃなくてただの別の世界観ですみたいな、になっちゃいそうな気がする。
でも、それをある意味で感じさせてくれた?やっぱり国学と元森成長を読むことでね。
仏教と思想の対比
だから、ある意味そのくらいの強度があるんだなってことが分かったというか、知ったというか。
うんうん、そうそうそう。
思想的には別に強くないというか、全世界で人に認めさせる力はないとは思うんだけれども、
批判する立ち位置として、そもそもそういう物事の奥に、むしろそれを追求することでより深い知識が得られるということも実は幻想じゃないですかとか、
それも一個のスタンスですよねっていうこと自体は、確かにその指摘って正しいよなっていうふうに思ったんだよね。
そうすると面白いよね。なんとなくそういう哲学上では西洋、東洋ぐらいで分けてるけれども、
いわゆる東洋の中でだよ。中国、日本、その他もあるけれども、全然違うじゃん。
違う。もちろん違う。
そういう意味で仏教とかはどうなるの?その中で立ち位置つけるとすると。
仏教も初期仏教と大乗仏教とかありましてみたいな仏教とも全然違いますよってなるけど。
初期でお願いします。仏陀でお願いします。
初期で言うとこれ面白いのが、いわゆる仏教って僕らで言うと宗教って言ってるじゃないですか。
言ってる。
仏様を拝みましょうなんだけど、初期仏教は別に仏陀は神ではないわけですよ。
同じ修行者の一人で、先にまさに仏陀、仏になった人っていうだけで。
だから同じ修行をすれば、めちゃめちゃハードだけど仏陀に自分もなれるってやっぱり発想なんだよね。
だから趣旨学には近いよね。
政治になるのか、悟りを開くというか仏陀的になるのかの違いみたいな。そうとも言える?
そうだね。そうとも言えるかな。
目的は全然違うんだけど、仏になるか国を治めるかってのは全然違うけれども、
ある種の実在したといわれる孔子とか仏陀とかっていう人になろうっていう意味では近い感覚なのかな。
儒教は孔子になりたいわけじゃないだろうけどね。聖人だからあくまでね。
まあそうね。でも理想的な聖人としての孔子がいるから、その教えを受け継ごうっていう。
あるとしたら、趣旨学とか十学のほうがその教えを学ぶ、いわゆる一時的な違わずに学ぶとか理解する。
要はやっぱり真理は過去にあるっていう話と、
今日はやっぱりそれを自分で身に出しにいくというか、その修行の果てに自分で身に出すっていう発想があるから、
仏陀の言葉だけを学んでもダメで同じ修行をしなきゃいけない。
っていうところが方法論としては結構違うよね。
なるほど。
でも根底にある世界観、要はそのね、
イニシエの聖人、孔子なり仏陀なりに近づこう。
その人たちをあやかって自分も聖人、仏の道を目指そうっていうところは近いかもしれないね。
確かに目的、悟るなり何なりの目的的であるっていう意味ではそうだな。
じゃあ国学というか、元祈りながらは何なんだ?
神の道、神の道だけなんですよ。
そっかそっか、それで言うとね。
別に自分は天皇、天神の子孫ではないし、
でもそういう道があるからそれに従って過ごしていきましょうってことだよね。
なるほどなるほど。
そっか、だからどうするというよりはそれに従いましょうというのが目的というかあり方みたいな話になるわけだよね。
元祈り永田さんの時に見たと思うんですけど、
彼はやっぱりそれをいつか上の人が理解して自分の説を取ってくれれば良いって思ったわけじゃないですか。
別にそれを使って国家を反乱するとか、世の中を変えるぞってことじゃなくて、
常に正しい道があるのだから、それがいつか明らかになるというか、
今も正しい道なんだけど、より正しい道になっていくであろうっていう、そういう発想だよね。
はぁはぁはぁはぁ、なるほど。
それを何でもいいや、趣旨学でも何でもいいけども、
的に解釈すると、今は間違ってるって言っちゃうんだ。
だから元祈り永田君は今も正しいでしょ。
例えば、今例えば自分が考えている国学が採用されてないだったりとか、
趣旨学が今日本で広まってるっていう、
国学の作法と真理
元祈り永田君は別に良しとしている状況ではないんだけれども、
それも含めて、この世界のというか、
日本の在り方だよね、みたいな話です。
これを間違ってると理想があって、間違ってるというか正さえばならぬっていう感覚とは、
思ってる方向性とか、実はやってることというか、国学を広めたいとか広めようっていうのをやってたとしても、
なんとなくそういう辺の根底の感覚が違うみたいなことが起こってるんだ。
かなり違うんだよ、やっぱりそこが。
つまり、やっぱりより良い真理があるとか、
隠されたものを解き明かしに行こうとなると、
空海もそうだけど、いわゆる今明らかになっている兼業はもう足りなくて、
自分が取り付けた密教こそが本当の仏の教えであるとかっていう風に、
比較してやっぱり優劣をつけちゃうじゃないですか。
劣っているものは廃すべきだし、優れているもの、自分のものこそは取り上げるべきっていう風になってくるよね。
でも国学に関しては、もともとの中に関しては、もせ神の道はあると、
もせ示されていて、それを知らないだけなんだとか、
それが今少し趣旨学とかの方に乗っ取るんだけど、
それもいずれはより良い形で神の道がもっと広がっていくはずだみたいな。
だからいろいろ包み込めちゃうんだよね。
解除するというよりは。
神の道と社会秩序
だからその水は低きに流れるじゃないけれども、
あるべきところに落ち着くんだから、
とりあえずこの水を、神の道だっけか的な法則に抗って、
変な方に流す必要はないみたいな。流しちゃダメだからね。
そういうことできないんだね。
できない。あ、そかそか。流しちゃダメっていうか、
そういうことできないよっていう。
あ、ごめん。できないっていうのは、もとおりの田舎の発想から指定であって、
例えばだよ、今から言うことは別に非経済とかでなんでもないんですけど、
仮に、例えば天皇っていうものをすべて廃止して、
天皇という人がいない国を作りましょうっていうことは発想としてはできる?
もとおりの田舎的な観点からも?
たぶんそれは発想しないと思う。もし兄貴が言う通り、何か神の道を否定しようとするんだったら、
神の道の体現者である天皇というものを一切廃した日本という国を作るっていうことはそうなるんだけど。
なるほどね。ゼロベースな話。
でもそれは国学ではあり得ない。ゼロベースな話。
あとは術学というか、疫生革命的な観点から言うとそうなるってことだよね。
そうそう。でもそこが難しくって、要は天という発想がないから、日本に。
天が間違った人を落とすってこともないのよ。
だって天皇っていうのは神の道を体現者だから、間違うってことがないんだよね。
国学的に言うと。
でもだからそれが前回話したような、いわゆる戦争への突入であったりとか、
天皇の言うことは全て正しいっていうふうにある種盲目的に信じた人もいると思うんだけど、当時。
それをある種良しとするような世界観に繋がっちゃうっていう感じだよね。
なるほどなるほど。
確かに戦争に繋がるとかナショナリズムに繋がるっていう意味では、世界中でいろいろなロジックで成り立ってるわけなんだろうな。
起こってるわけだから。
それだけが否定されるわけではないし、それだけが変だったけどもないってことだよね、それに関しては。
そうですそうです。
なるほど。でもそうかそうか、そういう意味で相対化されるというか、一つの面白い立ち位置だよねっていうことがハヤト的には見えたっていう話なんだね。
そうですそうです。
ごめんね、だいぶ回り道して戻ってきたけど。
確かに。でもこの感覚って、自分でもちょっとびっくりしたというか、
僕らって普通に学校生活は問題を解きましょうとか、正しい100点に行くことが良いのですみたいな、別に100点は取らなくていいっていう人も、
100点満点であることが理想状態だみたいな、そういう感覚でどうしても生きちゃうじゃないですか、その学校のテストとか受けてるとね。
これは面白いね。あともう一点あるとすればというか、自分がどう思うと何と思うと、環境的にとか社会的にそうなってるっていう話だよね。
そうそうそうそう。別に自分はテストなら関係ねえやって言って、それは関係してると思ってる人がいる中での自分の立ち位置だから、どうしてもそこを意識したものになっちゃうんだよね。
だしそれに自分の行動がちゃんと左右される行動だったり評価されたりとか。
そうしたときに、やっぱりそういう感覚が突き詰めると、いわゆる世の中の正解を探しに行くとか、より良い何か、自分が見えていない正しいものがあって、
そこに通り着くっていうことが理解が広がることとか深まることなんだ、みたいな。結構そういう発想って無批判に自分の中にあったなって思うんだよね。
もうちょっとわかりやすく教えて。
わかりやすく言うと、自分哲学好きですって言ってますと。でもその哲学が好きっていう根本にまさに元森の枝が批判したような、何か物事をよりよく理解することがいいことだとか、
より100点満点とか、より正しい理解につながるっていうこと自体に基地があるっていう、そういう価値観をすごい自然に持ってたなって思ったよ。
あー、なるほどなるほど。そうか。ハヤトがそういう価値観に対してアンチだから哲学をやってたんじゃなくて、真逆で100点を探すだったり、その100点の裏の正解とか本質まであるはずだっていう方にびっちり染まってたなっていう話。
そうそうそう、そういう話。ある種僕は哲学に馴染むのかって思っているんだけど、それをそういうあり方だけじゃないよとか、違う価値観の取り方もあるよっていうのを、哲学っていうものを見たときにはって思ったんだよね。
なるほどなるほど、はいはいはい。だからハヤトが多分、なんかいなかった感覚的なものがより言語化だったりとか、ちゃんと見える形であったんだっていう驚きと喜びみたいな話だね。
そうね、喜びだね。かもするとその日暮らしで風流って言われることもあるけれども、やっぱり僕からすると、でもそれって世は月のことを考えないっていうふうな言い方じゃないかとかさ。
でもそれって本当は自分のやり方に気づいてないだけで、自分の内面を向き合ったら本当にやりたいことが見えてくるんじゃないかとか、そういうことをいくらでも考えられたりするじゃないですか。
でも別に、お互いその日暮らしだったりとか風流みたいな言われるものが、それはそれでひとつの強力な価値観というか根底に、その殺損はもう逆しらなんだけど、そういうふうに説明することも例えばできるよねとか、
別にそういうふうに説明を拒むような生き方とかがあってもいいよねっていうふうな、そういうふうなことが結構腹落ちしたんだよね。
そういった意味で、それがやっぱり日本に発想としてあったっていうのが面白いなと思ったし、やっぱりその歌の話とかもしましたけど、やっぱりそういう参加とか俳句をめでるとか、日々の季節の移ろいにやっぱりそれを愛おしく思うとか、
そういう気持ちっていうものも、すごく哲学と同じ次元で大事なんだなみたいな。そういう感覚に慣れたっていう感じかな。
なるほど。ちょっと終わって喋っちゃったけど。
なるほど。今の話だと、あれだよね、さっきハヤトが出してくれた例で言うとさ、例えばテストの点数は100点に近い方が良いみたいな、例えば環境、価値観があったときに、
例えばハヤトの場合だと100点を目指すような感じだったってことだよね。
自分はそうだったね。
で、例えばその中で勉強しなくていいやっていう人がいて、実際点数が20点みたいな人がいたときに、ハヤトだとどう思う?例えば思ってたでもいいし、思うでもいいみたいな。
当時と今では全然違うけど、当時で言うと単純にやっぱり苦手なんだなとか、勉強嫌いなんだなっていう感覚だよね。
別にそれによって反骨心があるとか、反骨してるみたいなことじゃなくて単純に苦手なんだなって取り方をしてた。
分かんないしね、聞かないとね、本当の男は。聞いても本人がどう思ってるかとか、分かんないかもしれないし。
本当の人まで分かんないけど。
それで言うと、この元折長的な話ってめちゃくちゃ多分面白いし、もしかするとそういう感覚は、中央区で言う大局とかにときみたいな感じで、
生活と倫理の調和
もしかすると日本人って何か少しでもあるのかなーっていうのをふわっと感じたりもするんだけど、
ここはやっぱり取扱い注意なのが、陽明学とかのときにも話をしていた、それぞれになりやすい。人それぞれになりやすい。
あー、はいはいはい、そうねそうね。あなたは私は私で、それぞれ好きでいいよねっていう。
そう。の、という意味の取扱い注意があるんだけど、だなぁと思うんだけど。
俺は勉強なんてどうでもいいから20点でいいんだいみたいなさ。
20点でいいんだいみたいなのが、100点の方が良いとされる社会で、結局その社会だとその人が損をしてしまうよっていう文脈抜きで、
ゼロベースで別にその人にとって良くない可能性ってあるじゃん。そのスタンスが。
っていう意味で、その点については、いわゆる国学だったりとか、大学の元に乗りながって考えてるのかな。
ちょっとそこまでは正直わからないんだけれども。
難しいよね。そこに対して、
べき論だったりとか、こっちの方が良くて、こっちだと劣ってるというか、あんま良くないよねみたいなさ。
つけちゃうと、なんか逆しら的な方に行っちゃうでしょ、たぶん。
行っちゃう。うん。行っちゃうけど、でも、といって別に国学がバランスが整ってるって別にそんなことはなくって、
神の道があるからそれを学んで、そこに基づいて生きるべしだから、
別に全然バランスを取る思想でもなんでもないんだよね。
なるほどなし。とはいえ、その価値観だったりとか、この世のあり方、自分のあり方の根本みたいなものが、
ある程度、神の道っていう軸はあるんだ。
もちろんある、もちろんある。
だから、働きもしないで、当時は畑も耕さず、
稲の面倒も見ずで、食うや食わずやの生活をしている人がいたとして、
もしかするとそういう感じ?ほっといたら死ぬじゃんって。
はいはいはい、そうね。
それは、いわゆる神の道的な話から言うと、
たとえば本当はその人たぶん、古事記というか、そこはちゃんと読むべきというか知っているべきで、
その世界観の中でその人が普通に、神の道とか哀れ的な感じで生きるとしたら、
ある程度は普通に堅いて、普通に食って死なないようにはするよね、みたいな、
そういう意味の人間だったりとか道徳というか、
それはたぶんもう本来含まれているはずみたいな感覚なのかな?
そうね、最低限はあるでしょうと。
で、ちょっとここ僕もわかんないんだけれども、
一方でもともに飲みながらは、やっぱりその時の社会の秩序みたいなものにはいって、
やっぱりちゃんと馴染んでいたというか、
それを尊重しながら、一方で自分の国学という、神の道を大事にしているというスタンスを持っていた人なんだよね。
そのバランス感覚、だからあれか。
さっきのテストの話を言うと、100点の方が良いとされているこの社会も、
神の道の一部でという感覚があると、
そこをないがしろに、完全にないがしろにするとか、完全に反抗するという挙動にはならないのか?
ならない。だってそれも神が定めたものだから、
それに反抗するってことは神の道から外れることじゃない?
そうだね。
だとすると、100点は別に取らなくても、そこまで頑張らなくても、
60点、70点くらいの、いわゆる言われないところまでは取ろう、みたいな。
例えば仮に60点が平均だとして、
そういうふうな発想になっていくんだよね。
なるほど、なるほど。せめてそうだよね。ないがしろ失敗っていうのはそういうことだよね。
ある程度、普通に授業は受けて、普通に宿題はやって、
普通にテストを受けたら、例えば平均点は取れるでしょうっていうぐらいの関わり方にはなるはずだよね。
で、他の人が例えばそこを申し出して、
江戸思想の重要性
100点だったりとか、その先へ自分で勉強してる人がいるかもしれないけれども、
俺はその空き時間みたいなものは別の方に使うよ、みたいな。
そっちがもしかすると、これまでの神の道のことを考えると、
今の現れ方はちょっと歪んでる、バランスが崩れてる気がするから、
反対側の天秤の方に自分はかけておくよ、みたいなのがバランスの取り方なのか。
そこは本当にそうだね。
例えば、テストなんて廃止だ、何もない国を作るぞ、とかっていうのは、
それは神の道とはまた違う道を自分で作っちゃってるから、
それはダメです、みたいな感じなんだよね。
面白いね。これは妖精学の極端な人とは違うね。
違う。さっき言った通り、思想としてはやっぱり弱いというか、
これが日本を超えて世界に広まりますかって言ったら多分ないんだけど、
でもそういう端数だったりとか、今の世界がある中で、
自分たちの世界を作っていくかっていう意味でいくと、
すごい参考になるものだなとも思うんだよね。
なるほどね。だいぶずっと、今回は道に乗りながらの話になっちゃってるけれども、
確かにこの感覚って、日本の感覚なのに、
もしかしたら、下手したらさ、さっき自分も言っちゃったけど、
自分たちも何となく持ってるんじゃないかとか、
ヘンギンでもなるかもしれないけど、持ってないのかもしれないし、
もしくはこうやってちゃんと言語化じゃないけれども、
ちゃんと理解しておくっていうのは面白いかもしれないね、本当に。
いやーすごい大事だと、逆に僕は趣旨学的なというか、
そういう何か究極のものがあって、そう理解すれば幸せになれるって思い込んでた人だから、
そうじゃない世界があるとか、そこをちゃんと捉えて批判した人がいたんだっていう時点でやっぱりすごい面白いし、
宗教と哲学の違い
そういう意味では、もちろん今回趣旨学から繋がってのが江戸時代の思想史っていう思想界だったけど、
やっぱり元になれなかった人は結構思想界、哲学界じゃないけど思想界の中では結構特殊だなっていうのが思ったんだよね。
なるほどね。
でもこれ難しいけどね、その思想と哲学とか、
アマテラス大神を信じていることは宗教ではないのかみたいなことがいろいろあると思うんだけど。
まあそうだよね。
法事記を読んで神の道に従いましょうって宗教じゃん。教宣を読んでそれに従って生きていきましょうって宗教だからね。
確かにね。ここが確かに難しいとか面白くて、さっき仏教の話をしたじゃないですか。
結構ね、僕がよく読むところがあったのは、日本テイラワーダ仏教教会っていうのがありまして。
テイラワード。
テイラワーダ仏教。いわゆるアビダルマ的な初期仏教のことなんだけど、
ここで結構いろんなコラムとかがあるんだけど、「宗教ってなんですか?」みたいな話が書いてるんだよね。
おお、そもそもね。
仏教って普通宗教って言われますよね。
一般的に宗教って言うと信じるものは救われるというのが基本の立場ですよね。
救われると。はいはいはい。
信じるものは救われる。
でもその初期仏教は、あなたの知恵とか優しさ、レベルアップすることで苦しみを乗り越えましょうっていう話なので。
そこまでは書いてないんだけれども、いわゆる仏教はそのまま宗教、いわゆる盲信する、盲信って言うと言葉が悪いけど、
いわゆる信じれば救われるとは初期仏教は違うんですよっていうことを結構初めにみたいなページで言ってるんだよね。
はいはいはい。
神奈川仏教は違うじゃん。
阿弥陀仏で唱えて、阿弥陀様にすがれば信じれば救われるだから、あれはもう完全宗教なのよ。
でもこの初期仏教は違いますってことを言ってるんだけど、
その時に、国学が宗教かって多分難しくて、
アマテラス大神の言ったことを信じましょうとは言ってない。
あー、はいはいはい。
ただその道があるし、それが既に体現されているから、それに基づいて今の時代を生きていきましょうって言った時に、
すごい片足突っ込んでる気はするけど、そのまんま宗教でやっぱないよねっていう感覚があるんだよね。
あー、なるほどね。
うん。
もちろん宗教の定義とかいっぱいあるだろうから、これだけで言えるわけじゃないんだけれども、
仮に信じるものは救われるが宗教とすると、
哲学はなんだろうね。誰が救われるんだろう、哲学は。
救われたかったら考えなさい、というか理性を働かせなさいが哲学なのかな。
理性信仰?
間にも近い。理性を信じなさいは確かあるかもね。
理性を疑う哲学はもちろんあるけどね、最近で言うと。
でも理性イコール神の光みたいな時代もあったから、そういう意味では理性信仰とも言えるかもね。
難しいよね。でもそうなのか、それはもうソクラテスのあたりからそうなのかな。
ソクラテスも言うてもね、神のお告げによってさ、あなたは知者だ、みたいなことを言われて、
それをある種疑って、あなたが知者だというのを疑って報道した結果、
確かに他の人よりは無知の地で知らないということで知ってたわ、みたいな。
だから神を信じてるとも信じないとも言えるよね。
わー、むずい。そこまで持っちゃうとむずいね、確かに。
そうね。もっと言うとね、それこそ西洋であっても、宗教と哲学ってそんなに分かれてない時代もあったわけじゃないですか。
そうなんですね。
そうなんです。
西洋のほうでも大学とかができて、学問的に分かれた時代だから、
デカルトも神の存在証明を哲学的にしてるわけで、
分かれてない?
分かれてないと思う。
神というものを理性というか、知性で明らかにしようとしたってわけだから。
まあ別に、デカルトはキリスト教徒のはずだけど、
考えたものが哲学と言われているんだよね。
面白いね、そっか。
勝手にさ、哲学と宗教って対立するような概念で捉えてたんだけど、
全然違うね。同居してるもんね。
同居はできるね。人間の中では同居できると思うな。
まさにどっちかを信じなさい、信頼とか、どっちかを選びなさいっていう時には対立するかもね。
どういうことかっていうと、やっぱりこれは僕の感覚なんだけれども、
宗教って疑いを基本的には取り除きますと。
信じるの反対というか、疑うとした時にね。
哲学ってやっぱり健全に疑うっていうことが大事だから、
それを同じ瞬間に両立するのってやっぱり難しいんだよね。
信じながら疑うとか、疑いながら信じるみたいなのって、
それこそ仏教っぽくなっちゃうじゃん。
まあまあそうだね。
だから一人の人間が日曜日礼拝に行くときは神を信じるけれども、
平日お仕事をしているときはいろんなものを疑いながら過ごしている、
は全然成り立つと思ってるんだけど、
一人の人間のスタンスとしてね。
でもある瞬間に信じることと疑うことを両方やりなさいは、
ちょっとやっぱり難しいんじゃないかなって思ってる。
なるほどなるほどだし、それで考えていくと、
哲学って実学じゃねっていう感じがしてくるよね。
え、どういうこと?
哲学って多分普通に今考えると実学じゃない方だよね。
まあ役立たないと言われるやすいよね。
なんか今のハエトの観点でいくと、
例えばソクラテスとかプラトンとかの時にしても、
普通に神様を信仰して生きていますと。
普段生活をしています。
その上で哲学もやっております。
その時の哲学の立ち位置って、
よりよく考えるとか、よりよく世界を捉えるとか、
あとはよりよく共同体を運営していく的な、
やっぱり目的的だよね。
もっとこのことをしろ。
そうするともっと、
その上でよりよく生きるってのが出てくるかもしれないんだけども、
なんかすごい具体的な目的があるな。
さっきの日曜日はミサに行きます。
自分の信仰とかそういったものを確認します。
ひめは哲学的に物事を疑うっていうのは、
それは仕事とかビジネスとか、
社会生活を営む話で、
それが例えば古代リーチャーだと、
仕事もあっただろうけれども、
政治に参加しますみたいなものの仕事の一部だとすると、義務だとすると、
それを哲学的な観点からちゃんと考えてちゃんと話す。
ちゃんと意見を回していく。
話でいうとめちゃくちゃ立学的だなって思った。
なるほどね。
その感覚で面白いし嬉しいなと思うし、
あとやっぱり前提であるのは、
兄貴はさっき哲学を、
より良い社会を作るとかさ、そういうこと言ってくれたけど、
前提であるのは、いろんな考えがある人がいる中でっていう前提があるんだよね。
つまり、宗教国家だったら哲学たぶんいらないんですよ。
だって全員が同じ宗教的な価値観を共有できているから。
別に疑う必要もないし、新しいことを考える必要もないんだけど、
いろんな考えがいる。
いろんな考えを持っている人がいるよね。
その共同体をより良くしようっていう時には、
やっぱり哲学的な発想っていうのが役立つはず。
なるほどだけど、宗教国家でもさ、
そこの宗教の教会を運営するとか、
その中でいろいろ教育をするとか、
その中でももちろん経済を回さなきゃいけないわけで、
産業をちゃんと管理していこう、貿易をしようっていう時には、
絶対さ、いろんな意見って出るじゃん。
具体的にそのレイヤーでは。
その宗教的な宗教レイヤーじゃなくて、
具体的な判断だよね。
あっちを先に教会作ります?こっちを地区に作ります?的なさ。
誰をそこのリーダーにします?みたいなさ。
絶対そこでは意見の総意とか、いろんな意見の多様性が出てくるから、
必要じゃない?哲学。
僕もっと原理的な宗教を持ってた。
要はそれも神に聞きましょう。
で、お告げをくださいっていう。
もう知らないよ、その世界。なるほどね。
そのぐらい本当に宗教っていうものだけで成り立ってる。
国があるとしたらの話だね。
試行実験でした、今。
それ国なのか?それは。
それは集落なのか?
部族とかじゃないのか?それは。
確かに。
江戸時代の思想の分析
まあね、確かにね。
でもそのぐらいやっぱり違いはあるし、
やっぱり哲学が役立つというか、
役立つから学ぶわけじゃないけれども、
哲学を学ぶと、
より豊かに生きられるんじゃないかとか、
より広い目線で物事は見れるんじゃないかっていうのは、
まさに今、兄貴が言ったことだよね。
そうだったよ。神の道的にはさ、
今、世界はいろんな意見であふれてるからさ、
哲学は必要なんじゃないでしょうか。
でも共存したね、今、哲学と哲学がね。
そうそう。
確かに。
今の環境を否定しちゃいけないからね。
まあでもそれはあるかもね、あるかもというか。
だってこれを壊そうとしたら早いというような、
部族レベルに生きていかないといけなくなるでしょ。
そうだね。全てを神に聞く、
死ぬ世界になっちゃうからね。
いやー、なるほどね。
はい。
面白いね、でも。
うん。
ちょっと今日もすごいバーッと喋ってしまったけれども、
僕の中で面白かったのは、
江戸っていう、ある種の近くて遠い日本みたいな、
そういう時代に、やっぱりこんだけ考えてる人がいてとか、
でもそのときに、まさにお通りの間、
哲学に今日はちょっとフォーカスはちちゃったけれども、
やっぱりそういう、なんだろうな、
すごく真っ直ぐにそういった根本をつかみ取って、
やっぱりその理とか気とか言っているね、
それをもてあそんだらしい、複雑なことをやっているのが良い。
そういうことで世界が回っているという時代において、
哲学と思想の違い
それってむしろ、なんだろうな、
良くない価値観じゃないとか、
そのスタンスだと全然ハッピーじゃなくないって言った人がいる。
ということが驚きだったというか、衝撃だった。
というのが今回の僕の一番の感想なんですよね。
はいはい、なるほどね。
あとごめん、ここまで来て、
1個思ってしまったんだけれども、
実際にこの元森永は、
哲学かそれとも思想か宗教かみたいな話をしているけれども、
やっぱり神の道があるから、
宗教地区ではない、哲学ではないよね、みたいなさ、
感覚になるんだけれども、
待てよっていうさ、
さっきのソクラテスだったり、
それこそデカルトだったりとか、
その世界をどう規定するかみたいな話で行った時に、
この神が世界を作ったのだ、それを豊かすのだ、みたいな、
いわゆる西洋哲学だったとして、
元森永が、この世の中は神の道なのだ、
それに従って生きるのが自然なのだ、みたいな話って、
同じじゃないって今思っちゃった。
作り方が、世界観の作り方が。
だから、それで言うと哲学たり得るんじゃね?っていう。
はいはい。
多分ね、そこが、分かんない。これはもう本当に僕個人の感覚だけども、
彼は古事記を解釈して古事記というものを世に広めましたと。
でもその古事記の世界観とはこうだとか、
その奥にはこういう風な構造的なものが含まれているっていうところまでは、
哲学は言ってないはずなんですよ。
だから、全然ずれてたりとかしたら申し訳ないけど、
聖書とは違うんだ、古事記は。
そう、なんだろうね。
ごめん、ちょっとそこは否定できないな、僕は。
古事記も聖書も知らなさすぎて。
こっちはね、何も知らなすぎるから言える話でもかもしれないね。
本当は言っちゃダメかな。
ちょっと何とも言えない。
かなりダメな話でもかな。センシブな話でもしてるのかな、もしかすると。
ちょっと、比較できるものかすらもちょっと分かんないんだけど。
素人が花火を作ろうとしてるぐらい危ない話を言われてるのかな、もしかして。
危険な香りがするよね。
一言、もっと言うと、さっき僕は古事記の奥にある構造を解き明かせないと言ったけど、
それを元に乗りながらする必要がない、そもそも。
それは逆しら心だからだって。
世の中の奥の構造っていうのはそもそも逆しらでしょ。
だから、手伝う必要がないんだよね。
すでに今目の前にあるものだけで満足できるから。
あえて挙げ足取りじゃないけど、
いじわるな質問を言うと、
元に乗りながら古事記を読んで、
いろいろ感じてるわけじゃん。
それと、それを深読みしたり解釈するのの違いってどこにあるんだろうね。
ちょっと思うように。
もちろん厳密な話はできないと思っています。
厳密な話をすると、そもそも東洋、西洋以外に哲学があるのかって話になっちゃうから、
そのレイヤーになっちゃうんだけど、
今日のこの話でいくと、
僕の理解だと、
元に乗りながらやってるのはあくまでも神の道を示すことであって、
別に示すことであって、
元に乗りながら自身が何か考えたこととか、掴んだこととか、
そういうものを披露してるわけではありません。
つまり、彼の哲学というものを出してるんじゃなくて、
もともとあった神の道というものを改めて、
みんなに届けてるっていう感覚なはずなんだよね。
はい、OKです。
なので今言った通り、もちろんそこには解釈が含まれるだろうし、
彼自身の何か個人的なものとか特徴とかも入り込んでいるとは思うけど、
彼はそれを出すことを目的にしないはずだから、
そこに哲学はないだろうっていうふうに思ってる。
それなら理解です。OK。
古事記の解釈
なるほど、なんかちょっと孔子に近い営みとしては。
そうだね、そうだね。自分は何も付け足してないよって言っている意味では近いと思うな。
昔にあったでしょ、正解が。
それをみんなもう知らないよね。
もうなんも知らないよね。一緒だね、構造がね。
そうだね、そうだね。近い。
それを思い出せというか。
もう一回そこに立ち帰ろうという話は確かに近いね。
それを知れば後はあるべき姿になるでしょうっていう話だね。
そうそうそうそう。
どう、なんか整理できたの?自分の中で。
そうだね、確かに世界観の作り方がみたいな話をしたけれども、
その土台の上で独自の理論を構築して披露しているではないから、
確かにそうだよね、孔子的な話でいうと、
儒教だったりとか北学みたいな、そういう学問だよね。
哲学というよりは。
それは刑事上の話をしていないね、どちらも。
そうだね、そうそう。
こうなってて、歴史的にはこうなってて、今こうなってます。
で、あたたちもこうしましょうっていう。
ひたすら刑事家の話をしているっていう意味で、
哲学じゃないんだと思っているとも言える。
あー、オッケーオッケー。面白いね。
だからこの辺の哲学、思想、宗教、信仰みたいなところを、
このね、もちろん厳密に当てるとすべてできないとは思うんだけども、絶対的なね。
この辺の扱い、取り扱い、今自分は何のことを考えていて、
今相手は何のことを話していて、どこをベースに話していて、
今この場はどういった土台で話しているのか、
宗教の話をしているのか、哲学の話をしているのか、思想の話をしているのか、みたいなことが。
なんかね、分かんないと危ないなみたいなのをこの前思ったから。
あー、そうね、そうね。
無意識的にマウント取ってるとか、無意識的に相手を批判しているのではないかみたいな。
そこがね、ずれちゃうと怒りえるなと思う。
リスペクトを持っているつもりが、実はめちゃくちゃ批判しているみたいなね。
そうしたら怒りえるなと思って。
日常的に言ったらさ、例えば僕ミスタードーナツ好きなんですけど、
例えばミスタードーナツに進行してるとしたらさ、
例えばなんか、いやドーナツなんてコンビニでも売ってるじゃんって言われた瞬間に、
うるせえ、あれドーナツが出るんだ、みたいな。
もうなんかそこに多分ね、秘密が走るわけですよ。
恐ろしい時代だね、それはね。
そうそうそう。
でもそれ難しいじゃん。こっちはさ、こっちは相手は、
いやドーナツが好きなんだと思って、
あ、食べれていいよね、コンビニもあって最近食べられそうになったよねとかって対応をしたいだけなのに、
俺はミスタードーナツが好きなんだ、みたいな。
こうなっちゃうと、もうずれちゃうみたいな。
いや確かにそうだよね、あの相手は良かったと思ってドーナツ話を広げたのに、
そうそうそうそう。
めちゃくちゃその、相手の地雷踏んじゃってるみたいなね。
そうそうそう、勝手になんかね、うっきりなっちゃったみたいな。
はいはいはい、同じだね。
そう同じだと思う。
確かに確かに。
ドーナツの話をしてるのかミスドの話をしてるのかっていうね。
全然違うんだよね。
うわー。
意外とこういうのは日常に潜んでるんじゃないかなって思いますね。
はいはいはい、なるほどね。
そこがね、より抽象的だから分かり、まあでも同じだわ、どっちも分かりづらいわ。
それで消えられても何とも言えないわ、でも。
そう、具体的でも難しいやっぱり。
難しいね。消えられた時にそうだね、対話できるように備えておくっていうかね。
消えるような人とはちょっといい距離を保っておくね、どっちか分かんないけど。
そうだね、平和できなさそうだね、そこで消える人とはね。
そうね、うん。
消える前に対話してほしいもんね。
そうそうそうそう。
僕がやってるのはドーナツの話をしてるわけじゃなくて、ちょっとめんどくさいけど、でも対話ができればせめて共感はできるからさ、
ごめんごめんミスドの話なんだねってなるけど。
そうだね、それは理想だね。
消えられたらもうおしまいだもんね。
ちょっと厳しいんじゃないかな。
厳しいですもんね。
それはね、宗教の話とかっていうよりは、その人のスタンスと問題だからだけど、
でもやっぱり対話とかそういう概念をいろいろ持っておいて、もしかしたらここがずれてるのかもとかっていうふうに思えるのは役立ちますねっていう、ちょっと無理やりだけど。
あーそこはもうお互い様だね。お互いの気遣いだね。
こっちは相手の地雷を踏んでいないかっていうことだけは想定しておく。
まあそうだね。
だから良かれと思って伝えるのはいいんだけど、地雷かもってことは知っておくみたいな。
で、受けるときも受けるときで、相手はきっとそのドーナツの話なんかしやがってるけれども、
きっとそこのとこは分かんないで、良かれと思ってる気持ちはなんか見えるからちょっと聞いてみようみたいな。
お互い様のその…。今の説明だとめっちゃ殺伐としてるけど、そんなことはないんだよね、ちゃんとね。
そうだね。そんな感じで今日もいろいろ話してきましたけれども。
すみませんでした。いろいろなんか。
あれでもなんだろうな、やっぱりその、まとめの話だったけれども、今回江戸時代の本当にいろんな人の話、林羅山とかね、
伊藤仁載、尾牛空井、元井のみながいろいろやってきましたよという中で、やっぱりそうやって比較するから見えてくることもあるし、やっぱり流れだよね。
中期から始めたので、やっぱり流れに辿ることによってはこんなことまで考えられるのか、こんな風にずらす、応用名も含めてだけど、
いるんだっていうことがやっぱり広がる部分もあるなと思うので、次回ですね、ちょっと前回も触れたんですけれども、
三島というところから繋がると言われているフィヒテ、シェリング、ヘーゲルというところを流れでやることで、これって本来であればロックとかデカイトから繋がっていることなので、
その中でヘーゲルってやっぱり近代哲学の頂点と言われるような人なので、そこはやっぱり僕ももう一回ちゃんと理解したい。
逆に言うと、今回だいたい元老の上永が僕の中にちょっとずつ入ってきているので、哲学なんぼのもんじゃいって逆にそういう気持ちに初めてなってきてるよね。
そんな逆白心でやってるなみたいな。
西洋哲学の視点
すばらしいことはね、それは。
ある程度、ヘーゲルがもし仮に西洋哲学の近代の頂点とするならば、お通りのエネガ的な僕からすると、そんな逆白心で何やってんだって、今だと言えそうな気がするのよ。
なるほど。そういったちょっと批判的な視点からも読めるわけだね。
じゃないかと期待してる。
分かんない。やったらもう手の平にして、「いや、そんなことありませんでした。」みたいになってはもしれないけど。
逆でしたというか、全然ダメでしたみたいな。
ダメでした。僕が欲しかったSっていうのはそうなんだけど、それも含めてちょっと楽しめるかなと思うんで。
次回、西洋哲学編なんだけども、西洋にただ戻るというよりは、今回ちょっと味わったような、
ちょっと哲学って言ってもやっぱり、無意識的な本質にたどり着くのが西洋だよねとか、平地上的なことっていうのがいいことだっていう発想があるよねっていう疑いも持ちながらやっていくことで見えてくるものがあるんじゃないかなと思うんで。
そのところもちょっと意識しながらぜひ一緒に楽しんでいただけると嬉しいなと思っておりますという感じですね。
わかりました。では次回ですね、久々の西洋ということで楽しんでいきたいと思います。では、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。