陽明学の振り返り
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、前回で陽明学終了ということで、今回は雑談やっていきたいと思います。
はい、お疲れ様でした。ま、朱子学から考えると、ちょうど1ヶ月ちょっとぐらいしたのかな?
う〜ん、ぐらいかな?
うん。結構ね、あのボリューミーにやらせていただいたかなぁと思うんですけれども、どうでした?
なんかね、僕も全然知らない中からね、朱子学と陽明学ってこんなんだよっていうのを話しながら、なんかいろんな発見もあったなって感じだったんですけど、
なんか兄貴とかどうでした?
いや〜そうだね、ちょこちょこ名前しか知らないみたいなさ。
うんうんうんうん。
それで、哲ラジオのテーマは基本そういうテーマを初めて知るような感じではあったんだけれども、
なんか、やっぱそれぞれの質が違いだよね。それぞれ良いところ、悪いところというかね、弱点みたいなものがあったけれども、
ちょっと整理というかさ、朱子学と陽明学の内容整理みたいな話なんだけど、
元々あれだろうな、孔子が作った儒教があって、そっからかなり時を経ての発展系としての朱子学みたいなものが出てきて、
そっからまた数百年、三百年くらい経って、この朱子学も発展というか、これを補強するような形で陽明学みたいなものが出てきたみたいな。
補強というか批判かな?やっぱり乗り越えるっていう意味合いが強かったと思う。
はいはいはい、なるほど。そこは批判して乗り越えて、ある意味陽明の晩年というかになって、ある意味ポジショントークみたいなものも含めて、
朱子学の作った主旗は、晩年は自分と同じようなことを言っていたんだかって、そうし始めたって。
そうですそうです。
そこの審議はともかくそんな感じだったみたいなイメージなんだよね。
そうだね、おきくつの流れですね。
学問的には、儒教と朱子学は兄弟みたいな感じで、朱子学と陽明学はベースみたいなものも実はあんまり共有してなかったりする?
学問の比較
ベースはかなり共有していて、やっぱり陽明学も儒教から取ってきてるし、朱子学的な考え方っていうのはめちゃめちゃやっぱり大事にしているんだけど、
やっぱり一番大きいのはあれだよね、朱子学はどっちも成人になる、儒教的な意味での成人、徳を積んだ人とか、そういう風になるんだけれども、朱子学はそれをめちゃめちゃ遠くに置いて、
いつかなれる。みんななれるけど、いつなれるかわからんみたいな。
ああ、はいはいはい。
朱子学で、陽明学はもうなってるみたいな。
そうだね、その辺をね、もう何週間も経ってるから、忘れたままあんまり感想も言えないというか、もう一回聞きたいなと思ってて、ちょっと思い出してきた気がする。
それから、そうだもんね、確か朱子学だと性そくりだっけか。
というか性そくりだね。
だから人間の理と大元の大局みたいなものは一緒ですよみたいな話をしてたときに、陽明学だと親族みたいな、そこは心だよみたいな話をしてるから、
なんとなく世界観は同じようなものというか、は使ってはいるみたいな話だね。
そうだね、そうだね。
はいはいはい、思い出してきた。
だし、朱子学でいう成人があれだよね、本編の中であった、例えば孔子とかがいうところの成人とかが、
金1,000トン分くらいの尊さだったとして、
儒教と朱子学はみんな頑張って徳を積んでというか勉強して、利に近づいてというのを知って、金1,000トンに達しましょうみたいな話になってるってことなんだよね。
そうだねそうだね、そっちは近いかな。
みんな例えば金ゼロだったとしてもとか、100キロ持ってたとしても、まずは1,000に向けてみんな頑張ろうみたいな。
そうだね、っていうぐらいのある種伝説的な成人、孔子とか孟子とか、それより昔のいわゆる賢者というか、
そういう人たちを目指しましょうっていうのがやっぱり朱子学だよね、当時の。
大嫁の方は、金が1グラムだろうとみんな持ってるのですから、あなたの持ってる金を大事にして、
1グラムでも1トンでもみんな成人ですよという話は、誤解を恐れずにというか、
曲解しちゃう人もいちゃったようだけれども、そういう話だよっていう。
オッケー、ごめんごめん。冒頭ちょっと時間もらったけれども、そこを整理しないと。
そうだよね。
自分でも結構忘れ始めてるから、的確に。
僕もキーワード的に生息理と新息理だとか、朱子学を批判させて発展させるのが陽明学だとかって、
何となくの対立構造みたいなのを読んだことがあったんだけど、
陽明学みたいな質の違いなのか、それとも量というか、本当にイニシエの成人を目指すのかみたいな違いだったりとか。
あと、置かれた立場では朱子学っていう、いわゆるお抱えの学問になっちゃって、
いわゆる受験勉強用の学問になってしまった。本当はそうじゃなかった。
本当はそれを乗り越えるために一生懸命頑張って、朱子さんは乗り越えたんだけど、
でもやっぱり時間の流れの中でそれがまた権威害になっちゃったっていうふうな朱子学と、
それをもう一回破壊しようとしたというか、乗り越えようとした、やっぱり大陽明さんとみたいな。
体系と個別性
結構ドラマがいっぱいあるなっていうのは面白かったんだよね。
はいはいはい、なるほど。そうだね。だから、やっぱり順番に聞くと朱子学の方が劣っていて、
陽明学最高みたいな感じになりかねなかったんだけれども、前回のところで朱子学と陽明学を比較してもらって、
やっぱそれぞれメリットでメリットだよなーみたいなところに落ち着いた?
そうだね。
あそこなかったらたぶん雑談会でも陽明信者になってたかもしれないね。
確かにね。前回もね、陽明学は果たしてじゃあ大陽明さん以外ができるのかみたいな、
結構そんな話をしたと思うんだけれども、やっぱりね、大陽明さんって自分が陽明学を作ったってもそうだし、
その前にもちろん各教にも合格をして、仏教とかそれ以外の学問もいろいろ勉強した上でやっぱり至った、
あるいは悟ったみたいな感じだったって話をしたと思うんですけれども、
やっぱりこれ、たぶんブッダとかもしかしたらイエス・キリストとかもそうかもしれないけど、
やっぱりそれを始めた人とか、そこに自分で至った人とその教えを聞いた人の違いってやっぱりめちゃめちゃやっぱり差があるじゃないですか。
難しいよね。
だからやっぱりその、なんていうのかな、いわゆる創始者みたいな話でいくと、主旗はもちろん朱子学を始めてはいるんだけれども、
自分が何かゼロから作ったっていうよりは、結構その、もともとあるその司書っていうその儒教の本の注釈書っていうところをやっているから、
あくまでも大元はやっぱりその儒教の経典なんだよね、経典っていうのかな、その本があって、
それの注釈を私はしましたっていう感じなので、やっぱり学べばちゃんと自分も理解できるというか、ちゃんとロジカルにやっぱりわかるんだよね。
だからある種広まったってもあるんだけど、洋明学の方はどっちかっていうと、お前の金も皇室の金も質は一緒だから、あなたの金を磨きなさいとかって言うときに、
なんでとか、その質って何ですかとかって本当多分あって、実際そういう多分対話もあるんだとは思うんだけど、
やっぱりあくまでもそういった対話でしかないんだよね。
いやーそうだよね。
だからあなたにはAを渡すけど、あなたにはBを渡すっていう意味で、やっぱり体系化されてなかったりとか、本当のとこどうなんっていうのがやっぱりちょっと欠けてしまっている。
そうだね。だから人によってゴール接点が自由になっちゃってるみたいなところができかねないっていうかね。
これすごい誤解を恐れて言うけど、恐れながら言うけど、ちょっとカウンセリングっぽいのかもしれない、ワントゥーワンの。
うーん、なるほど。
要は学問とかってその体系だっていうか、別に、例えばあなたにとっての理論とかってないんだよね、基本的に学問って。
まず先に、そうそう答えがあってとか理論があってそれを学びましょう、正しく理解してますかどうですかなんだけど、
いわゆるカウンセリングって逆に答えがあるとダメで、あなたにとっては例えば、より強い刺激が必要ですとか、あなたはもう十分やってるからもう抑えて大丈夫ですとかって、
人それぞれ違うじゃない。
ほいほいほい。
でもそれを何だろうな、絶対の答えとして絶対に十がいいんですとかって言っちゃうと、その十っていう捉え方も人によって違うから間違っちゃうとかっていうふうに、ある種答えを作っちゃダメなんだよね。
うーん、なるほどね。
だからもしかすると、今ちょっと話しながら思ったけど、やっぱ朱子学とか朱器は結構体系を置いて作った人たちで、やっぱ養命学っていうのは、ある種処方箋をちゃんと一人一人に渡そうとしたみたいな、結構そういう違いもあるかもなって思ったね、今。
なるほどね、はいはいはい。
なんかその、これは前回も話したけれども、その処方箋があまり使いやすすぎて、多分養命が、王養命が想定していたような人以外でもめっちゃ使えちゃったっていうか、手に入りやすかったみたいな感じなのかもしれないね。
まあそれはあるだろうね。なんか前回さ、多分ちょっと話しかけてやめちゃったかもしれないんだけれども、なんかその、あえてこれもちょっと比喩的に言うとさ、王養命がいわゆるカリスマ性が強すぎたらみたいな話を確か前回したと思うんですよ。
そうだね、カリスマだったんじゃないかっていうね。
だったんじゃないか、説。うんうんうん。で、やっぱりその、政治にも強くてとかね、戦もできてとかっていう意味で言うと、ビジネス感覚もあったんじゃないかみたいな話をしたと思うんですけど、なんかねその、最近ちょっと面白かったのがあって、
あの、とあるね本を買ったんですよ。うんうんうん。ちょっと濁すんですけど、ビジネス系の本で、ある種これをこういう考え方をすると、なんかもっとみんなこういろんな自分の発想を形にできますよみたいな、まあそういう本があって、面白そうだなと思って読んだんですよね。
読んでる途中で、あれ、なんか作者さんの名前知ってるなって思って。ほうほうほう。で、それがたまたま友人が、なんか一緒に働いたことがある人なのかな。そうだったんで、あ、なんかこの人、名前聞いたなって思って、その人に友人に連絡をして、今この一緒に働いたことある人の本を読んでて、こんなこと書いてるんだけど、
なんか率直に見て、これって、なんかそのまま受け取っていいと思う?って話を聞いたのね。なるほど。やっぱ結構、あの、やっぱり言葉がすごいうまいから、まっすぐ入ってくるんだよね。あ、こうする方がいいとか、はいはいはいはい。こういう風にやって、私はこういうことを考えたとかっていう風になってて。
まあ、どうもするとすごいスッと入ってくるんだけど、やっぱちょっと断定的じゃない?とか、それって本当に応用、いわゆる汎用性か、みんなに当てはまるのかな?みたいな。うん。あ、と思ったんで、これってそのまま受け取ってもいいかな?みたいなことを聞いたら、結構長文で返してくれて。おー。
陽明学と朱子学の違い
結論としては、あんまり参考にしすぎない方がいいと思います。はいはいはい。っていうのは、すごい、ある種こう、やっぱり良くも悪くも突き抜けた人、悪く言うとちょっと偏った人。はいはいはい。
で、やっぱりその人のエネルギーがすごいから、その人がいて初めてできたことはあるんだけど、逆に言うと、それで結構傷ついた周りの人とか、辛くなった人もいるよ?みたいな話があって。はいはいはいはい。
そう。なので、結構その、なんだろう、そういう人の特徴だったりとか、特性っていうところと紐づいた言葉だと思うから、まあ何だろう、役立つとは思うけど、そのまま受け取らない方がいいかもね、とかっていうのをある種丁寧に言ってくれて。ほうほうほうほう。
あ、でもそうだよなって思ったんだよね。うんうんうんうん。っていうのは、ある種その人もカリスマ性があって、結構、なんだろうな、いろんな事業を作ったりとか、いろんな人に支えられて、自分はこんだけのことを苦しんでるから頑張ってきました、みたいなことを言ってるんだけれども。
たぶんそのストーリーの裏には、なんだろうな、描かれない、それこそ本当にこう、なんだろうな、あの、ししるいるいというか、一緒にやって潰れてしまった人とか、そういう人もいたみたいで。だからもしかすると大陽明とかも、やっぱりこうね、本に出てくる弟子とかってたぶんいい弟子というかさ、その優秀な弟子たちの話が出てくるはずだから。
えーと、あれだね、例えばその、今のハヤトのような話で言うと、創業期だよね。創業期からスケールするまでに、2、3回転してるんだよね、人材が。
あー、はいはいはい、そういうことね。最初の人たちはもうついてこれなくて。はいはいはい。
スケールした後に入ってきた、だいぶ優秀な人たち。そういう感じなんだよね。
あー、でもそれはあるかもね。うん。
まあ分かんないよね、当初からね、最初から本当に残ってる数人の人たちみたいなね、本当の子さんみたいな人もいるだろうけれども、やっぱりただそれってたぶんもう100分の1とか。
まあそうだね、割合で言うと、そうそう。
何回転もしてるだろうね、人材が、周りの人が。
そうなんだよね。だから面白いのは、その本を読んだって言った人も、いろんなコミュニティとかやっていて、たぶん数百人、数千人単位で、やっぱりその、なんだろうな、この人はすごいとか、この人から学ぼうっていう人をちゃんと獲得してるんだよね。
ほうほうほうほう。
そういう意味では、ちゃんとその人の思いとか熱はたぶん伝わっているんだけど、逆に言うと果たしてその千人くらいのうち、どのくらいの人が本当にその人になれるのかとか、その人の教えっていうものから、自分の本当に実現することができるのかっていうと、
はいはいはい。
逆にできないから、たぶん人が増えてくるんだろうなとも思ったわけなんだよね。
実践と本質のバランス
あー、まあそうだね、なるほどなるほど。
そう、これってビジネスってたぶんそう、だいたいそうと思うんだけども、やっぱり100効果があることって、やっぱりどんどん魅力ってたぶん減っていくじゃない?絶対に痩せますみたいなこととか、絶対に成功しますみたいな、それはそもそも怪しいとかってあるんだけども、
やっぱりその中で、誰かは成功してそれを見ては自分もできるかもしれないっていう時に一番人を引きつけるっていうのがあると思うんだよね。
うんうんうん。
うん。なので、やっぱりその、なんていうのかな、やっぱそのミソッドなり発信なりその人そのものがやっぱり自分に合うかどうかってめっちゃ大事だと思った時に、果たして大陽明さんってどうだったんだろうなっていうのはちょっと考えちゃったんだよね。
なるほど。それで、それはもう多分、発信する側からしても、多分永遠の課題なんだと思う、多分。
あー、なるほどね。
逆の目線で言うとね。
はいはいはい。
だから今言ったような、例えばそのビジネス成功しましたとか大陽明みたいな人が、自分がやってきたことを、しかも大陽明なんかさ、前回も話したけれども、自分が仮にカリスマあったとして、しかもそれをちゃんと陽明学っていう形に、
はいはい。
今の次元レベルとかじゃなくて、がっつりその論理的に、そのちゃんと説明しているっていう俯瞰した目も持っている。
はいはい、そうだね。
っていう人がいた時に、で発信してる人にも多分そういうタイプって結構いるはずなんだけれども、
はいはいはい。
でも結果出せる人ってその目線ないと基本的には難しいから、
うん。
あの、何だろうな、持続的な成功だったりとか何回も成功するっていうのは基本難しいから、
うんうん。
大眼科俯瞰的な目を持って、自分なりのそのメソッドとかロジックみたいなものがあるはずで、
はいはいはい。
それをちゃんと人に伝えようっていう思いがあった時に、バランスを調整して、
うんうん。
自分の稼ぎと相手の学びのバランスを調整して、
うんうんうん。
コミュニティを大きくする方向に持っていく。
はいはい。
これが多分さっきハヤットが言ったような感覚だと思うんだよね。
そうだねそうだね。
だから100は伝えない。
うんうんうん。
今の芯のところみたいなのは、
はいはい。
あえて伝えずに、何だろうな、サプリみたいな、
うんうんうんうん。
ダイエット法みたいなものを、キャッチーなものを伝えることで、
はいはい。
そのコミュニティを持続的に、から収益を得るみたいな。
それは悪く言ったわけじゃないんだよ。
うん。
じゃあだよ。じゃあ逆にっていう話で、
今の人タイプを悪く言わない理由が、
うん。
じゃあ本当に、例えば処方箋みたいなところ、
はいはい。
例えば毎日腕立てしたら痩せますみたいなとか、
うん。
プランクしたら痩せますとかっていうことじゃなくて、
うんうんうんうん。
もっと、例えば摂取カロリーだったりとか、
はいはい。
メンタル的なところ、睡眠だとかから見直して、
そういうトレーニングとかは後付けです、何でもいいですとか、
はいはい。
すごく本質的な方を、
うん。
例えば伝えたいとする。
はいはい。
でもそうすると伝わんないんだよね。
いやー本当にそうだね。本当にそうだよね。
あと伝わんないし、誰もそもそも聞いてくれない。
うんうんうんうん。
興味持たない。
うん。
っていうのがあると思うので、
うん。
発信する人の、
うん。
難しさでもあると思うんだよね。
あーそうだね。
うん。
本当にそう。
あのー、今話、兄貴の聞いてて思ったんだけど、
うん。
やっぱ哲学ってむしろ後者側じゃない?
うんうんうん。
ある種、本質、要はなんとかそのエッセンスを、本質を伝えようとして、
うん。
隠すわけじゃない。むしろそれを解き尽くそうとして言葉を尽くすんだけど、
やっぱ届かないし、誰も聞いてくれないみたいなことが多い?
そうだね。今はそれよりも目の前の課題解決する方法を教えてくれよってやっぱなっちゃうよね。
あーそうそうそう。
うん。
やっぱそもそもその哲学ってやっぱ営み自体の難しさもそうだし、
やっぱり応用名さは哲学者ではないなって思うんだよね。こうやって話をしてる中で。
ほうほうほう。
学者かもしれないけれども、哲学ではなさそう。今学んだ限りではね。
うんうんうん。
うん。で、主義も、なんだろう、哲学ではないけれども、いわゆる学問、やっぱり一つの学問を確立させた人ではあるっていう感覚があって。
うん。
うん。やっぱ結構その違い、要はその実践編なのか、そのなんだろうな、本質、本質ってあれだな、
本質の方がいいっていうちょっと感覚になっちゃうんだけれども。
うん。
でも、やっぱり両方あってこそやっぱ広がっていくっていうのはもちろんあるよね。
やっぱ応用名がいたからこそ逆に、批判された側の主主役も広がるというかね、またリバイバルするとかってもあっただろうし。
うん。
うん。やっぱりその両方がいて、ちゃんと思想とか考え方っていうのが広がっていくんだなっていうのも思ったな。
なんか今話を聞いてて。
そうだね。
うん。
で、ただその応用名の読めがけが多くの人に届いたように、実は大事なのというか。
うんうんうん。
どっちも大事なんだけど、たぶん軸は本質の方にあるとは思うんだよね。
はいはいはい。
そこへ至るには、これも本編の中で話したんだけれども、本来用名学っていうものは、用名学を用名学的に理解しなきゃいけない。
はいはいはい。
けれども、普通の人、当時の人もだし、うちらみたいなのも、用名学をどっちかというと趣旨学的にだよね。
あーそうだね、そうそうそう。
で、いろんな理解をしてから実践をしてみる。で、あ、うまくいった、うまくいかなかったっていうトライアンブエラーの中で、
応用名って何を言ってたんだろう、用名学の本質って何なんだろうみたいなところを捉えにいくみたいな感覚でいると思うんだけれども、
たぶん用名にはするとそれは違うと。
そうだね、そうだね。
心で、心底にね、用名学を理解しなさいって言うと思うんだけど、実はそれって無理なんだよね。
基本的にね。
っていうところの、たぶんそれがハヤトの言うところの難しさというか、バランスの難しさで。
だからよく言うね、職人で10年修了した時にやっと本質を掴むみたいなところ。
はいはいはい。
結構近いんだけれども、ただ肩から、肩だけやるべしって言うと、本来寿司職人の話とかだったけど、
本来例えば半年とか1年で本当は本質の一カテラを掴めるぐらいのクリップぐらいを組むことができるはずなんだけれども、
それを、いや肩から入るのじゃみたいな、ある意味、ちょっと違うかもしれないけど、悪い意味で授業とかさ、
寿司屋って肩からしか入らないみたいな。
そこがすごい遅れちゃう可能性もある。
っていうところで、一般というか、うちらみたいなのからすると、もっと早く教えてくれよみたいなとか、
なんか違う、本質じゃないみたいな。
師弟関係の重要性
そこから、いやもう寿司は魂で握ればいいんだ、みたいな。
そこに食いつきかれない。寿司とは技術じゃなくて、魂なのだと。
これは思っていれば寿司なんじゃ、みたいな方に、みんな食いついて、みんなが美味しいか美味いか分からない、
美味しい寿司屋も不味い寿司屋もどんどんできちゃうみたいな。
それはそれで悲劇だと思うから、その辺の本質に至る三つ筋が、どう捉えるかみたいな。
で、その結果どうバランスするか、みたいなとこな気がするかな。
確かにそうだね。さっき創始者とみたいな話をしたと思うんだけれども、
創始者は本当に心からこれが必要だとか、自分にとってこれがぴったりだって思ったから、
ある種真創り、まさに自分の内側から出るもので勝負できるけど、
やっぱり大陽明さんの弟子は、一回陽明さんが言ったことを外から理解してやらなきゃいけないっていう時に、
やっぱり自分ごとにする、自分のものにするっていうのはやっぱり大事なんだろうね。
そうだね。
やっぱそれが難しい。
難しいと思う。
それは、たぶん仏教の悟りとか禅問答とかでも、たぶんそれをわからない奴に教えるっていうのが禅問答な気がするんだけど。
まあ教えるというよりは導くだよね、その気づかせる想像。
だからたぶんそういう営みに近いんだと思う。
確かにね。
朱子学側の人間が大陽明的な法室って何なんだろうっていうところを、
法室をつかむんじゃなくて、法室の存在に気づく、それだけでいいんだよ、まずは。
なるほどね。
その意味で法室ってあるんだなって。
法室が何かは結構どうでもいいというか、
それこそ法室じゃなくてというか、
法室の存在にちゃんと気づくこと。
そこがスタートな気がするよね。
まあね。難しいよな。
ちょっと話戻るんだけれども、
やっぱり世の中に広めるにあたって、
仮に大陽明さんが実践派で、朱子さんが少し体系、本質派だとしたときに、
やっぱり実践派の方が広まるって話もあったじゃないですか。
意味の本質の探求
実践派だからどっちだ。
大陽明さん。
はいはい、あれか、寿司は魂田の方ね。
そうそう、魂田の方が広がりやすいっていう。
これさ、ちょっとすごい個人的な、最近の悩みというかさ、考えたことなんだけど、
僕ずっと意味っていうものにテーマとして持ってますって話を時々するじゃないですか。
意味とは何かとか、意味っていうものが大事なんですって言ったときに、
最近、やっぱりいろんな勉強をしてきた中で、
ある種、どうしても自分って、よくも悪くも本質側に行きたいっていう傾向がある人なので、
意味の世界みたいなのがあったときに、
それを言葉とか図にして、本質的なものをちょっと明らかにしていこうみたいなことを思ったのね。
はいはいはい。
で、それが分かるととか、それが何かしら形にできると、
ほら、ここに意味の本質があるよって言って渡したときに見た人も、
あ、これが意味の本質なんだっていうところから、
じゃあ自分の人生の意味って何だろうとかって考えられるんじゃないかみたいな、
うんうんうんうん。
ってことを思ったのね。
へー、はいはい。
でも今の話でいくと、本質を見せられても困るよね、多分相手の人も。
どんな人に見せるかにもあるんだけど、っていうときに、
でも一方で、例えばね、いろんな、世の中に本があったからさ、
生きる意味を見つけましょうとかさ、
なんかそういう、何だ、いろんな質問に答えれば、
あなたの人生を生きる意味が見つかりますみたいな、
そういう本はたくさんあるわけで、本というか話はね。
そっちはやっぱり自分の中で、ちょっと近づきにくいというか、
これをやりたいわけじゃないんだよな、みたいな変な気持ちがあるのね。
あー、なるほど、それはあれだね、ちょっと、
だから今、ハヨットが言ってることは、あれだよね、
今言ったような、一対一の全問答方式みたいになっちゃうと、
それはハヨットが想定してることと違くて、
もうちょっとこう、多分難しい話なんだけれども、
その本質的なものの、
イデアっていうとちょっとまた変になっちゃうから違うんだけど、
みんながたどり着ける本質、みんながちゃんとわかる本質ってあるはずだよね、みたいなさ、
あなたの本質はこれです、っていうカウンセリング方式じゃなくて、
そういう方式じゃなくてもみんなが捉えられる本質みたいなものが、
本当はあるんじゃないか、みたいな。
そうね、まさに土台みたいなものがあって、
それから出発した方がその土台の上で、
あなたはこの辺かもね、とか、
あなたはこっちかもね、っていうことがやりやすいんじゃないか、
と思っている感覚。
なるほど、なるほど。
それで言うと、今、ハエットが想定してるその本質って、
どういうイメージ?
今、自分がイデアは違うって言ったんだけれども、
イデア的なものなのか、
なんかもうちょっと言語化できるイメージある?
そうね、イデアとかよりもむしろ法則とかに近いかな。
例えば、リンゴが木から落ちますっていうときに、
その裏側にはこういう物理現象とか、
こういう数学が隠れてますみたいなものも発見してきたわけじゃない?
人類って。
っていうときに、
例えば僕は意味っていうものを扱うときに、
例えばこれには意味を感じやすいとか感じにくいとかって、
いろんな事象があったときに、
意味をそもそも感じるというのはこういうことが起きていますとか、
こういう世界観として世の中を捉えると、
意味というものをこういうふうに理解しやすくなりますみたいな、
そういう法則とまでは言わないけれども、
そういった原理原則みたいなものを何か作ってみたいっていう感じかな。
なるほど、なるほど。
これちょっと、なんだろうな、
こっちも十分言語が出てない上でなんだけど。
ごめんね、突然ね。
いや、でも面白いなと思うのが、
法室だとかさっきは、
ハヤトが言う意味ってなんだみたいなものを掴みに行くときに、
やっぱりその意味の意味とか、
法室の法室みたいな形を取りに行こうとしちゃう気がするんだけど、
実はそこがやっぱりクリティカルというか、
法室じゃなくて、
さっき自分のイメージで伝えてた話で言うと、
ちゃんと法室の存在に気づくこと、まずは。
なるほどね、そもそもね。
ハヤトの話を言うと、まず意味の存在に気づくよね。
確かにね、確かに確かに。
意味とは何か、定義とか、
趣旨学的な意味とは何かっていうレベルじゃなくて、
応用名的な、
至高合一的な意味で、
意味ってあるんだ、意味の存在気づくとか、
法室の存在気づく。
だからその時点では、
意味とは何かとは知らなくてもいいんだよね。
あと、法室とは何かは知らなくていい。
物事の法室自体は知らなくていい。
ただ、法室って本当にあったんだとか、
確かにこの世の中って意味であふれてるんだっていう、
なるほどね。
その意味自体のことは知らんけどね。
はいはいはい。
そのスタート地点に立つこと。
なるほどね。
な気がするんだよね。
だからハヤトがもしかしたら、体系的に、
みんなに意味を感じてもらいたいとか、
意味の存在を知ってもらいたいっていう場合は、
意味の意味をハヤトは伝えようとしてると思うんだよね。
ほら、みんなに、
意味って面白いでしょ、意味ってすごいんだよ、意味って法室なんだよって多分、
思っちゃってるし伝えたいと思うんだけど、
そうじゃなくて、
まず、意味ってあるんですよって。
なるほどね。
だけ気づけば、後から勝手にそれぞれの人が自分の意味を、
本当の意味で。
だから、大嫁の言うとこの、
あなたにも菌があります、私にも菌があります、
っていうのは、
実は治候法一席には菌の存在みたいなのが気づいてない状態だと思うんだよね。
はいはいはいはい。
本当の意味で自分に、
1ぐらいの菌がありそうだ、
何グラムか分からないけど菌ってあるんだって気づいたりすると、
それは本当の意味で、
ちゃんと菌を磨くっていう、
大嫁の想定する、
妖明学的なスタンスに多分立ち入った瞬間だと思うんだよね。
だからこそ、
その菌の量は実はどうでもよくて、
その菌の存在にちゃんと気づく、
自分はないんだ、自分はあるんだ、
伝達の難しさ
あの人はありそうだ、なさそうだ、
そこだけだ気がする。
すごいね。
中国思想を元にしたコンサルテーションも今しだしてるね。
突然。
でもなんかそれは感じるよ。
確かにそうだよね。
今言われて思ったのだけれども、
そもそも意味が、
菌というものを単体で取り扱いますとか、
意味の世界がありますって言った瞬間に、
普通もハテナじゃん。
普通はっていうか、
何言ってんのみたいな。
だからその意味を教えてよってなっちゃう時点で、
ちょっともうずれてるというか、
道筋が閉ざされてるんだよね、ハエトが望む。
確かにね。
でもそもそもそういう、
そもそもというか、
意味っていうものが取り扱うとこんな風に面白いですとか、
そもそも意味の世界っていうものが、
僕らのものの世界と実は隣り合わせにあってね、
みたいなことからちゃんと話をした時に、
あ、そんなのがあったんだとか、
まさにその気付く、
みたいなところからすると、
確かに物語が始まるというか、
よくあるじゃん、映画とかでもさ、
この世界のちょっと隣に、
隣に不思議な世界があって、
ファンタジー的なものもそうだし、
僕らが日常だと思っていたものは実は、
薄皮一枚めくるとこんな危険が潜んでいました、
みたいなさ、
そこから始まる物語っていろいろあると思うんだけど、
なんかそんな感覚なのかなって思った。
たぶんそれを意識した瞬間に見える世界って、
全然違うと思うんだな。
確かにな。
今すごい参考になったわ。
ありがとうございます。
お互いにね。
そうだと思う。だからそれが、
ハヤトが前半話した、
自分なりの成功論とか、
それをある程度汎用化させてるつもりの人?
つもりというか、たぶんできると思ってる人が、
たぶん難しいと思うポイントなのかもしれない。
それを分からずに、
俺はすごいんだ、俺はこんなことやったからみんな真似ろって言ってる人は、
ちょっとダメだなと思うんだけども、
そこを俯瞰した上でどこから伝えようどう伝えようって悩んでる人は、
結構その部分で悩んでると思う。
本質をズバッと伝えても伝わらないから。
ある意味、出資の修行を、
10年なのを3年に短くするような形で、
そのノウハウを伝えていくことで、
それを肩から真似ることで、
自分が思ってるこの本質の存在に気づいてくれたらいいな、
みたいな感覚で、
陽明学と朱子学の考察
何かを伝えてる人もいるのではないかと思ってる。
なるほどね。面白いね。
面白いっていうか、
やっぱりそこは神人だと思うんだよ。
それに気づいてやってる人と気づかずに垂れ流していって、
神人だと思う時に。
そっちはちゃんと識別できる目を持っておきたいけど、
でもそれも難しい。
それは難しい。
存在を気づいてない時点でそれを識別できるかって言われると、
直感的なものになっちゃうかもしれないけど、
そこは何とも言えないかな。
そうだね。
面白いですね。
毎回雑談してて思うんだけど、
共通の土台があるじゃん。
僕たち兄貴なんかになんとなく主旨学とか要命学的な感覚があって、
これって主旨学っぽいよねとか、
これって要命学的に言うとさ、
そういうことが今できるんじゃない?
そうだね。
イディアって言うとちょっとずれちゃうんだけどみたいな、
そういう方式的なものだよね。
上での共通言語だったりとか、
そうだね。
そこをいじくれるのは面白いかもしれない。
確かに。
もちろんどんどん忘れていくし、
僕ですら2年前にやったこの人と、
例えばこのウィトゲンシュサインが言うには、
みたいなことを言った時に、
全然覚えてない部分もあるから、
もちろんあるんだけれども、
なんとなく話したから、
そういえばそんなこと言ってたよねって思い出しながら、
話すこと自体の尊さというか、
ありがたさっていうのも今感じたな。
そうだね。
これ哲学を学ぶみたいなところにも共通すると思うけどね。
そもそも哲学というものに触れるみたいな。
そうそう。
哲学に詳しくなっていくのっていう話なのか、
自分はこういうことを考えたいとか、
こういうものについて深めたいから、
この人を読むみたいな順番だったりとかね。
はいはいはい。
そこをまた同じように繋がっているような気もするよね。
確かに。
僕は哲学を語る尺はないですけれども、
哲学というのは、
過去をどんどん乗り越えていくって話もあるし、
やっぱり定義したと思いきや、
実はその定義を壊して、
むしろ定義なんかできないみたいなことも
哲学の中で行われたりするから、
やっぱりそこも含めて、
自由でいたいよね、
せめてこういう話をしているときは。
やっぱりね、
自分はもうこの人しか、
もちろんそれもすごい素敵だと思うし、
逆に憧れるのは、自分はもうニーチェしか読みませんとか、
ニーチェの考えに
インストールして生きていきますみたいな人は、
逆に憧れるんだよね。
かっこいいよね。
でもやっぱり自分の賛成的には、
そこはちょっと陽明さんっぽいのかもしれないんだけど、
やっぱり色んなのに手を出した中で、
結局やっぱり自分で作らないと、
自分の本当に欲しいものってわかんないよね、みたいな。
そういう感覚にはちょっと、
共感を感じるかもしれない。
なるほど。
先ほどニーチェで行くんだにも、
いろんなスタンスがあるじゃん。
ある程度通った上で、
ただ単に、
たまたま1冊目で拾ったニーチェにドハマりして、
ニーチェ信者になっているのかでもまだ違うからね。
確かにね。一口では言えないか。
それで言うと、
ニーチェ信者だよね。それしか知らないニーチェ信者のことを、
その人は本当にニーチェにハマっているんですか?
だから、陽明学というところの、
ガチ陽明学サハみたいなさ、
全部ぶっ壊してやれみたいな人が、本当に陽明学にちゃんと、
本当に知ってんの?って、
知恵の語彙的に、陽明学をあなた達知ってんの?って言われたときに、
うるせえ!ってなると、
そういう怖さを感じちゃうから、
まあ、確かにね。
だから、同じだよね。
意味で笑えというところの。
いや、本当にそう。
やっぱり、これを聞いてくださっている方々はね、
ニーチェの中で、多分、一口にどっぷりハマるっていうより、
いろいろつまみ食いしたいって思っている方が多いと思うから、
もちろんね、ハマりたいっていう人もいらっしゃるかもしれないし、
それが見つかれば、むしろそれもいいと思うんだけど、
やっぱり今言ってる感覚って、
共感いただけるんじゃないか?
僕の兄貴の中には、
たぶん根底に、
無批判にとか、
無反省にハマることの怖さっていうのが、
たぶんあると思うんだよね、僕らの中に。
そうだね。
チャットGPTとかで話してても、それ指摘されたことあるな。
あ、そうなの?
あなたは静かなアナーキストですって。
何その占いみたいな。
そんなこと言われるの?
面白い。
そういう感じってあるの?自分でも。
言われたら確かになとかってあるの?
ハヤトの言うところだと思う。
割と小さい頃から、
高速とか、その場の同調圧力みたいなのは、
結構強く反発してきたかもしれない。
言ってたもんね。
学級崩壊ってまだ言わないけどさ、
静かの言葉あったじゃん、たまにきって。
違うよ。どっちでもないんだよね。
静かだ、確かに。
邪魔したい先生は邪魔するというか、
そこを選ぶんだよ。
面白いよね、学級崩壊っていうと、
例えばいろんな生徒がいて、
マジな生徒が悪いというか、
騒いじゃう人がいたときに、
いろいろあって、
どの先生でも、
どの相手でも文革反抗をしたりとか、
騒いじゃう人もいるわけで、
自分はそれは違うと思うんだよね。
意図ある反抗をしないと意味がない。
この先生の場合は授業つまらないから、
別にこの授業受けなくてもいいからいなくなっちゃおう。
でもこの先生は面白いからいいよとか、
そういう選択がない上で、
逆もしかしたら、
こんなつまんない先生とか、
こんなわけわかんない先生なのに、
何人真面目に従ってんだよってのも同じだし、
こんな良い先生なのに何やお前反抗した授業邪魔してんだよ、
同じだわ自分からしたら。
そういうハイトのところをね、
批判に受け入れないというところ。
近いのかなとは思うよね。
面白い。確かに兄貴はそういう、
先生側からしたら一番厄介な生徒だったんじゃないかと思うんだけど、
僕は逆にとにかく権威に仕合わせたから、
授業は正しく受けるべき。
授業中に志向をする奴は敵。
そういう感じの、
いつ小学生とか中学生ぐらいだよね。
大学とかならまだわかるけどさ。
全然考えもしなかったね、自分は。
それでめっちゃ怒られたりとか、
めっちゃ先生嫌われたりもしたけれども、
それは自分が決めたことだからっていう感覚はある。
面白いなあ。
こじらせだけどね。
まあ確かに。
いわゆるキャリアデザインというか、
過去の話を聞くことが、
有益なことっていっぱいあるんだけれども、
今の話と一緒で、
同じように今ある種、
無義犯にどっぷりはまれ込むのは怖いよねっていうことを、
例えば僕たちが同じ言葉で言ったとしても、
至る経緯とか、
そもそもどんな性格だったのかとか、
そもそも反抗してたのか、
従事になったのかとか、
そういうことによっては意味合いが全然違ってくるじゃないですか。
そうだね。
はやとの方がアナーキズムとかじゃなくてさ、
爆発したら怖いテロリストみたいな感じの、
今に見てるって思いながら黙って従ってるみたいなさ、
そんな感じでしょうね。
文句があったとして。
文句がないのよ。信じてる。
体制に属してるから、
授業とはこういうものである、学校とはこういうものであるって思ってるから、
別に文句も出ないのよ。
そうなんだ。
例えばあるとき、
学校の体制っておかしいよねとか、
不登校になって、
不登校の友達のことをあたかもいなかったことに話す、
このクラスを間違っているとかって思った瞬間に、
逆に振り切れるんだよね。
このクラスを立たさねばならぬみたいな。
そこまでやんなかったし、
当時行動力もなかったからあれだけども、
思想的には、いわゆる白か黒か、ゼロか百科みたいな方に、
もともとは行きやすい立ちなんだと思う。
なるほどね。
そういう怖さはやっぱり自覚するよね、ちょっと。
そこは違うんだね、たぶんね。
なるほどね。
皆さん、聞いてる方どうだったんだろうね。
ある種、体制派、反体制派、
いや、どっちでも相手、兄貴みたいなね。
ちゃんと状況を見て決めるみたいなね。
たぶんいろんなことがあると思うけど。
そういう意味ではね、今回は趣旨学・陽明学やってきましたけれども、
やっぱり、何だろうな、
もちろん大陽明の陽明学自体が
趣旨学をちょっと批判的にしてたからっていうのもあるけれども、
やっぱり両方を見ることで
見えてくることとか、やっぱり兄貴も冒頭言ってくれたけど、
どっちだけがいいっていうこともないから、
趣旨学の良さもあり、
哲学と自己探求
でもやっぱり弱点もあり、陽明の良さもあり、
弱点もあり、もっと言うとたぶん使われ方が違う。
学問として、
たぶん誰が学んでもある程度同じようにいけるって、
やっぱり趣旨学と、
自分がどうしたい、親即利だから、
あなたの心、あなたの持ってる金っていうものに対して
どうするっていう風にする、
やっぱり陽明学とでは、
そもそもの辿り方が全然違う。
最高の寿司は握れないけど、
1.5流ぐらいの、
もしくはほぼ1流の寿司までには
たどり着きますよっていう趣旨学と、
寿司職人の技術
あとは僕が考えた最強の寿司を握れる陽明学だよね。
はいはい、そうね。
尖ったところには刺さるかもみたいなね。
そうそう。
そういう意味ではどっちが合いますか、
両方試してみて、
っていうのが一番いいんだろうなと思ったりするけれども、
今回ね、
中国の当時というかね、
周期さん、大陽明さんという人がありましたけれども、
次回、江戸時代というのをやりますと、
江戸時代は、
趣旨学がすごい広がっていくんだよね。
江戸時代の思想の展開
広がっていくんだけど、
思想的に発展したかっていうと、
多分そこまでじゃなくて、
いかにそれを需要するかとか、
いかにそれを社会の中で結びつけるかとか、
逆にその結びつけられた趣旨学に対して反発する人とか出てきて、
もっと日本独自のものにあったらいいじゃないかとかって、
そういうのが起きた時代が、
江戸時代260年みたいな感じがあるらしいんですよね。
へー、はいはい。
やっぱりこれももちろん僕もそうなんだけど、
江戸時代の思想かとか言ったら分かんないじゃん。
分かんないね。
なのでちょっと歴史的っぽくなっちゃうかもしれないんだけれども、
次回その江戸時代、その中でも、
趣旨学をどう受け入れたかっていう話と、
あとは国学っていう日本独自みたいな学問、
って言われてるものの、
2つをちょっと取り上げて、
1個の江戸時代の思想みたいな感じで、
まとめて扱っていきたいと思っているので、
それもぜひこの趣旨学、
陽明学の流れで楽しんでいただけると嬉しいんじゃないかなと思っております。
というふうな感じですね。
はいはい、いやー面白そうだね。
中国ではある意味、
農機器に使われた趣旨学が、
日本でどうインストールできるのだろうかみたいな、
そうなんです。
はい、じゃあ今回はこんな感じで、次回ですね、
その江戸、日本の江戸時代ですね、
その辺りの思想を見ていくというところで、
楽しんでいきたいと思います。
では次回も引き続きよろしくお願いします。
よろしくお願いします。今回もありがとうございました。