1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #331 人と世界の仕組みを説い..
2025-07-02 45:21

#331 人と世界の仕組みを説いた朱子学の、たった一つの痛恨のミスとは?

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

朱子学の核心的な概念である性即理について考察し、それが人間の本性と世界の秩序との関連を探ります。また、心についての理解が、理と気の関係を通じて人間存在の本質を明らかにする様子が語られます。朱子学における理と気の関係や、人間の善悪に関する考え方が紹介され、欲望や木の働きが人間の本質としてどのように表れるかが詳しく説明されます。さらに、朱子学の教育理念や学習方法が他の教えと比較されながら、成長に必要な知識の重要性が強調されます。理と気の関係を探求する中で、その限界や成人に至る道の難しさが描かれます。また、理想主義と相対主義の間での葛藤や、政治との関わりについても考察されます。朱子学の分析と批判を通じて、陽明学との関係性や歴史的背景が明らかにされます。

00:12
それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
朱子学の目的と人間の理
今回は朱子学4回目ということで、前回は朱子学の利と貴みたいなところで、世界観に迫っていったというところでした。
結構、兄貴も理解しても大変だったと思います。多分、聞いている方もわからんであったかもしれないんですけれども。
前回は宇宙論みたいな感じで、ある種、哲学の舞台設定とかを理解したという感じだったので、ちょっとわかりにくかったと思うんですけれども。
今回はそういう舞台の中で、人間、我々はどう生きるのかみたいな話をするので、聞いていただけるとイメージが分けやすくなる部分もあるんじゃないかなと思っています。
前回が基本設定とか説明書みたいなところだから、結構長かったし難しいなという感じで、今回やっとそれを使ってどうするのの話になっていくってことね。
そうです。
ずっと両方大事だったんだよね。前回のほうがやっぱり土台で大事であるからね。本当にありがたかったんだけれども、聞いていただいて。
今回は、学問として、主治学をやると人間どうなるんですか?何を目指すんですか?っていう話なんですけど。
すごい簡単に言うと、いわゆる仏教的な政治。要は徳を深く積んでとか、ある政治家としても優れていてとか、世の中を正しく導く人だよね。
君子になりますと。
そうそう、まさにまさに。っていうのが、やっぱり主治学の一定の目的ではあるんですよ。
これちょっと思い出してほしいんですけれども、孔子とかの話をしたときに、成人っていわゆる昔の優れた人たちだから、何も付け加えなくていいとか、ただそれを学ぶだけでいいって言って停滞したって話をしたじゃないですか。
ここにきてさらっと言ったんだけれども、今の時代の僕たちも、そういうことの成人たちみたいに優れた人間になれるんだっていう、そういうふうな発想があるんですよね。
要はただ学んで、なんとなくこう、だらだらこうやって、本当にね、いわゆる御用学問でやってるだけじゃなくて、まさに自分が成人となって生き生きとした、そういうふうな、やっぱり儒教の力を取り戻そうみたいな、そのための学問を自分が作ってるんだっていうふうな、やっぱり自覚があったんだよね。
そこはやっぱり、主旗がそういう君子みたいなものになりたいと思ったときに、儒教だと、やっぱりそれは満たさないよねっていう部分があったってことなんだね。
そうだね。今そのままの当時の儒教だぞって感じだね。
はいはいはいはい、オッケーオッケー。目指すものは基本同じみたいなイメージだね。
そうですそうです。そこのコンセプトというかゴールっていうのはそんなに変わってはいない。ただその、成人の教えをもらって世の中を良くするのか、自分が成人と同じように考えたりとか活動をして世の中を良くするのかっていうのが違うっていう感じかな。
あー、なるほど。ちょっと面白いかも、確かに。めちゃくちゃオシャレな人の格好をそのままコピーすればめちゃくちゃオシャレになれますかみたいな話に似てるかもね。
似てると思うな。
たぶん四季が思っている儒教の話。そのオシャレとかそこじゃないでしょみたいな。もっとその人の考え方部分までインストールしましょうみたいなぐらいの感じなのかな、イメージね。
そうね、まさにまさに。やっぱ時代も変わるからね。やっぱりそういう時代に合わせてっていうところもあったからね。
確かにね。
やっぱり1000年前の人のファッションがね、今でもオシャレかってやっぱ違ってするよねっていう。
なるほどなるほど。
っていう話があるんだけれども、そこに関してはやっぱり四季さんはキーワードという、もちろん後から藤原と学んでる人が作ったものであるんだけど、やっぱりキーワードがあって、
性即理の理解
それがですね、性即理って言うものなんですよ。性は性質の性。
で、即はよりすなわちね。理はまさにこれまでやってきた理科の理とかの理なんですけど、
その性即理っていうキーワードをもとにその人の言い方っていうものを考えていきましょうっていう感じなんですよね。
これちょっと説明してください。どういうことかっていうと、この性っていうのもいろんな問題があって、一時にいろんな意味があるから、
無理すると本当にこれだけで何十ページ分にもなるみたいな感じなんですけど、
すごいざっくり言うと、人間の性質、本性みたいなものとしてくださいと。
で、これをある種、前回さ人間にも人間の理がありますとかって言ったじゃない。
これを人間の場合は性とも言えますねっていうふうにちょっと言い換えてるんですよ。
なるほど。
つまりこれ前回兄貴も混乱したけど、でも人の理と大局の理って同じなのも違うのとかってあったじゃない。
どう生き生きするのっていうね。
そうそうそう。で、やっぱりその同じだと混乱しちゃうんで、人間の理というものをある種性としましょうと。
なるほどね。毎回人間の理って言わなくて、住むようになるってことね。
そうですそうです。分かりやすいもんね。
で、性ですと。で、それはそのまんま理ですよって。
要は同じものを言い換えてるだけだからっていうのは分かりやすいと思うんだよね。
で、なんでそれを言い換えが大事なのかとかっていう話なんだけれども、
要は性即理、人間の本質とはすなわち理である、ある種大局にもつながる根本的な理であるとすると、
要は人間のある種その内面というか、そういう根本を深掘りしていくと、
ある種その答えというか、そこにたどり着けるよねっていうふうな、そういう発想をこれ表現してるんですよね。
うーん、そうなんだ。
どういうことかっていうと、やっぱり主義に言わせると、
その理というものがある宇宙の根本原理なので、
その理というものをちゃんと理解すると、この世界の秩序も分かりますみたいな、そういう発想があるんだよね。
はいはいはいはい。
で、それが人間の理ってなったときに、いわゆるその理っていうものがイコール人としての在り方なんだけど、
これが儒教的に言うと、徳をちゃんと持っているとか、
あるいは儒教のときに言ったら、仁義礼智みたいな、
そういうものをきちんと発揮している状態が、ある種人間の性が表れている状態だというふうになってるんだよね。
うんうんうんうん。
つまり、これはちょっと言い切り的なところもあるんだけど、孟子の性善説やったじゃないですか。
うん。
なので、この性善説の性と、スキが言う性即利の性って同じで、
ほうほうほうほう。
要は人間の根本原理というのは、つまり善である。もっと言うと徳に向かっていくとか、
そういう徳を発揮しようとする、そういう根本原理を持つのが人間なんだっていうふうに言ってるんだよね。
はいはいはいはいはい。
ただこれ、ちょっと注意してほしいのは、これまだ利の話しかしてません。
うんうんうんうん。
うん。性即利だからね。
ここに、ただ、器っていうものが入ってくるんですよ。
うーん、なるほど。ついに。はいはいはい。
ついに。どういうことかっていうと、要は人間の根本原理は善です。
仁義礼智というものをやって、良くなっていくんだけど、
そこに器というものが入ると、当然いろんなグラデーションが出ます。
うんうんうんうん。
例えば、ちょっとわかりやすいけど、いわゆる犯罪を犯しちゃうとかさ、
親をさ、親不幸者がいますとかっていうのも、それは実は器の話なんだよね。
うんうんうんうん。
ここっていうのは、前回ちょっと混乱したと思うけど、イメージ湧く?
あー、なるほど。ちゃんとは湧いてないけれども、
なんかこの手記が、前々回の授業の話のときに出てきた、
正善説と正悪説を、これ今統合しようとしてるぞ、みたいな感覚がわすしてる。
なるほどね。すごい。
方法よりは正善説よりではあるんだけど、
正善説だけでいくと、なんで世の中に悪い人がいるんだとかさ、
なんで同じ善な人でも、日によってはすごくそれが出るときもあれば出ないときもあるんだっていう、
そういう変化は説明しにくいんだよね。
でもここに、理と気っていう、まさに宇宙とか世界の在り方っていうものを加えると、
人間の意イコール性は善です。
でも気によって、良い気のときは良いこともできるし、悪い気のときは悪くなっちゃうっていうふうな、
そういうふうな説明ができますっていうことを考えるんだよね。
それはね、わかる。
ただわかんないのが木のほう、林のほうは海のイメージで、
パリのカップに入れたのが人間の林です、みたいなさ、そこまで勝手にイメージできてるから、
木のほうがどういうイメージ作ればいいかなっていうのがわかんないっていう話。
確かに。
これが難しくて、
前回ととおり、あくまでも物学において木っていうのはあるものなんですよ。
なので、ちょっとずつ前回の最初は木って言ったらオーラとか、
ある種捉えどころないものってイメージをしていると思うんだけど、
確かにそういうイメージで思っちゃうんだけど、あくまでも本当に実体的なものなんだよね。
ただ、実体の捉え方が広くて、今何を言おうとしているかっていうと、
さっき言った人の中で、いわゆる理と木が結びつくんですとかって言ったじゃないですか。
要は、善なる理があるんだけど、性があるんだけど、それが木によってブレちゃいますって言った時に、
心と人間存在の本質
実はその理と木の働きが追っている場所を指して、朱子学では心っていうふうに言ってるんだよね。
えー、そうなの。
そう。なので僕らは心とかって言うと、何となく脳なのか心臓なのかとか、心があるとかって中小概念ではあるんだけど、
朱子学で言う心っていうのは、つまり理と木っていうのは人の中で混ざり合う、影響し合う場面っていうか状況のことを指して心だって言ってるんだよね。
あー、そうなんだね。だから前回までの木の話でいくと、そこが人間の肉体みたいなさ、話。そこが木みたいなさ。
それを動かしてるのが、そこに魂じゃないけどさ、それが理ぐらいの感じになっちゃうけれども、そんな単純なもんじゃないんだね、おそらく。
単純なもんじゃない。単純なもんじゃないし、体も心も朱子学で言うと物質的なものとか、どっちも同じ木が変化したものだから、
体も心も同じ素材からできてるんだよね。その素材が何?って言われるとすごく難しいよ。体にもなって、心にもなるものって僕らイメージできないじゃないですか。
そうね。でもそういうふうなものがあるとしたらそれが木だっていうふうに言ってるんだよね。はいはいはい。
つまり人間っていう存在は、理イコール性、性則理だから、理であり性としての善とかそういう原理原則っていうものと、木っていう素材がそれが因に触れたり要に触れたり。
もっと言うと、これもイメージだけど欲望とかに正直近い。木が高くなると何か欲しいとか動きたいってなるし、木がすごく因に触れるともうじっとしてたいとか何も欲しくないとかってなるみたいな、
そういう浄土的なものを司るっていう、心が合わさって人間というものできてますよっていうふうに主規、主治学では捉えるんだよね。なるほど。はい。
さっきの通り、心ってのは理と木がある種合わさっているものなので、木が晴れやかで心が澄んでいると理、つまり人間の善っていうものが自然に現れますと。
朱子学の理と気の関係
でも逆に木が濁ってしまうとかマイナスの方に触れてしまうと、理も濁ってしまって善っていうものが出なくなりますみたいな、そういうふうな発想で捉えていくんだよね。
うーん、なるほど。ここは何かイメージ分かるかな?
うん、そうだね。うん、大丈夫大丈夫。
そういうとさ、木って悪いものなの?みたいな。理が本当は善なんだけど、木によってそれってうまくいったり悪くなったりしちゃうから、やっぱり木って悪いものなのかね?みたいになっちゃうと思うんですよね。
要は木っていうのって普通にフラットなのよ。つまりそれがただマイナスに触れたらマイナスに触れるっていうのがあるだけで、別に木自体が悪いわけじゃない。
よくある包丁が悪いんですか?みたいな、包丁を手が動かせるように使うのが悪いんですみたいな、そんな話と一緒で。
あくまでも木っていうのは素材っていうフラットなものなんだよね。
たまたま澄んでるときもあれば、たまたま濁ってるときもあるよ、みたいな話をさっきしてくれたとおり。
ある種、良い木というか、ある種木がない方が理が現れるってことじゃなくて、
例えば木が0なら理が100ですかってそうじゃなくて、良い木とかさらにそれが済まされていくと理がもしかしたら150出ることもあるみたいな。
そういうふうに理と木が合わさって人間の善っていうものがより良くなるみたいな、そういうふうな発想もあるんですよ。
へー、なるほど、それは面白いね。
そうそう、なので単純に理という完璧なものを木というものが抑えちゃうじゃなくて、理との相互作用は常にあるっていうものが、やっぱり筋役の人間観の面白いところなんだよね。
ここでもちょっとわかりやすいかなと思って、少し仏教の話をするんですけど、
人は基本的に欲望とか言って捨て去るものじゃないですか。執着だからそれはダメみたいな。
心っていうものがいかに静かにして、ある種執着しないか、抑えつけてくるような感じなんだけど、
あくまでも朱子学において欲望とか木の働きっていうのも、やっぱり人間の原理原則であるもの、木って切り離せるものだからさ。
それを共に生きるものなんだよね。
本筋と関係なかったら無視していいけど、人間の理の側に悪い部分もあるじゃなくて、
さっき言ってくれた通り、理の方には基本正前接的な感じっていうイメージなの?
そうです、そうです。
人間の本質として、理として、良い面も悪い面もあるとかじゃなくて、基本正前接で、あとは木の側の状態によって150にもなるしマイナスにもなるしみたいな、
そういう感覚ってことなんだね。そこは関係性とは。
なので、これも乗っけていいと思って、少しこの後喋るんだけど、
関係って言われたら本当その通りで、申しの時にさ、職員の場みたいな感じで、例えば誰かが困ったら助けたいとか、
子供が井戸に落ちそうになったら恥じってて助けるでしょみたいな、そういう発想があった時に、それは人間の根本によるとっさに出る善だっていうふうな発想があるんだよね。
なので、どんなに正前接的と悪人だとか、本当に極悪軌道の人にも、理の方にはやっぱり善がある。
その善自体が悪いとか、善自体が悪に染まるっていう発想ではないんだよね。
あくまでも気の働きによって、それが出てないとか、悪い行動として現れちゃうっていうふうな参考になっちゃうんですね。
なるほどなるほど、オッケー。だから、井戸に落ちそうな子供を見かけて見殺しにする人は、めちゃくちゃそういう気を持っていて、あえて無視するっていう固い意志があるんだぐらいのイメージ。
欲望と人間の本質
そうそうそう、そういうこと。そういう気によって、濁らされちゃってるっていう。
はいはいはい、オッケーオッケー。この朱子学の概念ではってことね。
そうですね、人間観としてはそういう感じです。
なので、仏教の話とかに戻ると、ある種人間の心っていうのは、迷いとかを生む、ある種ちょっと弱いものだから、それを埋めましょうとか、
それをある種捨て去って、言っちゃうけど無視みたいな、そういう心というものを慣れましょうっていうふうなものが仏教だとするときに、
あくまでそこから離れないんだよね、やっぱり仏教は。心というものも理と気の働きだから、これはどこまで行っても逃げれない。
はいはいはい。
なのでそれを捨てるんじゃなくて、ちゃんと整えようと。その気が良いものであるようにとか、
理というものがちゃんと発揮できるように、心というものを育てていきましょう。ある種修練していきましょうみたいな。
そういうふうな発想の違いがやっぱり大きくあるんだよね。
なるほど。
なのでこれがね、実は面白いというか、もう一個進むんだけれども、さっき言った通り、修練とか学びなので、学習方法っていうのがあるわけですよ、朱子学にも。
っていうときに、仏教は修行でどんどん心を抑えて捨てていくとかじゃないですか。
でも朱子学はどういう風にそれを学んで捨てていくかっていうと、やっぱりそこにはいわゆる学問というか、学び続けるみたいな発想があるんだよね。
そうなんだ。
どういうことかっていうと、
さっきも言った通り、人間の性、イコール理。これが宇宙の根幹の理と一つですっていうふうな、ある種世界の仕組みがあります。
僕らはそれを知らずに普段、これは火だとかこれは水だとか言って生きてます。
っていうときに、やっぱりその根本にある理とか、その理と気というものが合わさって世界ができているんだとか、その世界と人間はつながっているんだとか、
そういうものを正しく捉えることっていうのが、いわゆる朱子学としての成長であり、成人につながる道だっていう風に考えるんだよね。
はいはいはい。
これを言葉で、これ歴史とかでもしかしたら、やったわーみたいな言葉がいるかもしれないんですけれども、
博物知知っていう言葉があって、博物知知。これちょっと難しいんですけど、物っていうのはものですね。
そのものっていうものを通じて、その知識とか本質に至るみたいな、そういうふうな言葉なんだけれども、
これ前回もおっしゃった通り、理そのものはやっぱり僕らはわかんないんですよ。見えない。
でもその理が表現されたものとして、水が流れるとか火が燃えるとか、人が良い行いをするとかっていうことがあらゆることにあるんで、
その観察とか分級を通じて、その奥にある理、まさに秩序だよね。そういうものをきちんと見抜きましょうよ。そういうふうな目を養いましょうよっていうふうな、そういうことを大事にするんだよね。
おー、はいはいはいはい。
そうすれば最終的には究極的な理にも至れるでしょうと。
学習方法と人間の成長
なので、結構面白いのが、単純にそのいわゆるお勉強、まあ要は先ほどの話でもおっしゃったけどさ、ただただ楽器で知識を詰めるんじゃなくて、
ちゃんと世の中のいろんな物事を見たときに、ここにもう理が働いているんじゃないかとか、これは今こういう木の状態であって、
理と木のバランスがこうなってるんじゃないかとか、そういうものをあらゆる物事にちゃんと見ていきましょうっていうふうな発想なんだよね。
わー、はいはいはい。
どう?これなんか、でもなんとなくさ、いわゆる交通のロジックとか手法としてはイメージできる気がしない?
いやー、すごいと思う。仏教とは違う方法で、自分をちゃんと客観視しつつ、自分をちゃんとコントロールする。
主旨学の概念でいうところの、自分の気だったりとか、あと前回今回まで、ハイトがなんとなく言ってて触れてこなかったけれども、物事のことの方ではね、これにも気が働いてる、出来事の方にも働いてるっていうのはあんまり深掘りしなかったんだけど、
そう考えるとまずは自分の気も整えられるし、あとは自分も含めた人間関係だったりとか、事件が起こりました、そういう場みたいなのがあったときに、
そこの、そうすると多分どんどん気の流れとか、利と気の関係って複雑になっていくと思うんだけれども、それをきちんと捉えた上で、きちんとした流れを作っていく、コントロールするっていう風に、きちんと寄っていくっていう意味で、
個人としての人格もそうだし、あとその物事、あと人間関係、いろんなもの、あとは自然との関係も含めた、いろんなもののバランサーとして客観的に捉えて、それをちゃんとするっていう、
人間社会においても一人の人間としても、ものすごくバランサーを取れた存在になっていくであろうっていう道筋が見える気がするもんね。
さすが、さすがです。やっぱり兄貴の指示学がちょっと繋がった感じがしたね、今ね。
でも本当にその通りで、西洋的な感覚だと原理原則を知ろうと思う。例えば花とは何かとかさ、水とは何かみたいな、そういう守護に対していくじゃない?
だからお勉強地区になっちゃうんだよ、さっきの。
そうなんだよね。これでいくと、理だけを取り出して、理だけを追求できるっていう態度なんだよ、これって。
あー、わー、あの、同じようで違うね。
違うのよ、違う違う。
やってることは同じなんだけどね。
うん、そうなんだよね。
ただやっぱり指示学はどこまで行っても理と気は分けられません。セットで働きますっていう学問だから。
花の原理を知るんじゃなくて、花が咲くというときにどんな木とどんな理が働いてますかって、これをセットにしないとダメなんだよね。
わー、面白いね。
だから言ってくれたように、それこそ複雑になっていって、やっぱり人と自然の関係はとか、人と人の関係はとか、その主体とはとかっていうときに、そこにいろんな木取りが働いてるから、ある種どこまで行っても膨大なものになっていくっていうのは正直あるんだよね。
そうだよね。だって今日はこの人の木こうなってるな。この人の理は基本人間一緒だから、理はあったとして、木がこうなってるから今日はこんな感じなのかな。
今日の場所はこういう木になってるし、天気とかの気温もこうで、とかなってくると、あ、だから今日はこの人こんなことやっちゃったよなーみたいな、てことは、
てことは、こんぐらいの場地じゃないけれども、こんぐらいの落とし所に着地点にしとくと、やりすぎじゃないよね、みたいな。
だから今日この人が物を盗んだときに、この人をはい殺すとか、そうならないというか可能性が出てくるよね。
そうだね。
それだけ物事を見えるとね、理想論っぽくはなっちゃうけど見えると、そこまで。
そうすると僕らが普段使う木の言葉に近づく部分もあって、例えば機嫌が悪いとかさ、あるいは木の流れとかっていうものを使ったときに、なんとなくその、
なんだろうな、まあ空域的なものも含めて僕らは捉えてるんだけど、
空気を読むときのね。
空気を、そうそう、なんだけど、でも朱子薬の木はやっぱりもっと実体的なものなので、これね、本に書いてあったら面白かったんだけど、例えばそれって木のせいだよとかって言うじゃん。
ほうほうほう。
木のせいっていうのは僕らは、ある種なんか原因わかんない、ある種ちょっとこう、なんだろうな、個人的じゃないとかも含めて、やっぱり原因がないことだよっていうふうに、木のせいっていう意味ってあると思うんだけど。
そうだね、うん。
朱子学の原理とその理解
でもこの朱子薬の木で言うと、木のせいっていうのは木がこういう状態にあるからとか、陰に触れたから、陽に触れたから、濃いから、薄いからっていう、そういう状態があるから起きてるんだよっていう、ある種原理がちゃんとそこにあるんだっていう要素ってなるんだよね。
そうだね、うんうんうん。
同じ木なんだけど、その捉える解像度とか、木というものを実体化するかしないかで、こんだけイメージが違うっていう感じなんだよね。
わー、すごいね。犯人はこの中にいるって言ったときにさ、絶対ちゃんとわかってるって言ってんのか、誰か本当にわかんないけど、行っちゃってるのかぐらいの差がありそうだね。
差があるね、そうそうそう。
とりあえず行っとけみたいなさ。
そうそうそう、まあそりゃいるだろうみたいな。
もし、わかんない、僕はちょっとそれはわかんないけど、そういう木がオーラが見えますと、木の流れが見えますという人がいたとしたら、まさに木の性っていうのはその人にとっては原理原則があるとか、技術に基づいているっていうような話だよね。
そうだね、そこをちゃんと捉えてるって話だね。
そうそう。そういうふうなところがある種、私学の学問としてはやっぱり求められます。木だけ、理だけじゃなくて、理と木を統合した在り方として世の中を捉えて理解していきましょうっていう。
そういうふうな営みになっていくんだよね。
そうすると、そういうふうにいろんなものを突き詰めればいいかというと、そうだけじゃなくて、やっぱり人の在り方、成人としての在り方っていう話なので、それはただ知識を追求するってわけじゃないんですよ。
もう一個の、これ結構ドリル校でこれも有名なのがあるんですけど、時計給理って言う、時計給理って言葉があって、これ時計と給理っていう2つの言葉が合わさってるんだけど、
すっごい平たく言うと、この体って要は人間の通りの働きだよね。これっていうのはある種穏やかに正しくして、その上で理を極めましょう。給理っていうのは理を極めるっていう意味なんだけど、
ある種ガツガツと、とにかく真理を知るぞとかってガツガツやるみたいな、それも気が荒ぶっていうか、人間の気としてはちょっとハードなんだよね。
そうじゃなくて、ちゃんと人間の理が発揮できるように出前も正してとか、自分の在り方も変えり見ながら、でも外にも向いてますっていう、そういうスタンスで学問をしていくのが大事だよみたいな、そういうことを伝えていくんだよね。
わーすごいね。これはすごい。
ただ知識だけに触れるのもダメだし、ただ修行をして、これ多分仏教批判も含むと思うんだけど、ただ座って座って自分の内側に向いてるのもダメみたいな、そういうふうな感覚っていうものが思想学には出てきます。
そうすると、やっぱり自分の心、心ってさっきも言った通り、理と気の出会いの場だから。理と気についてちゃんと理解を深めて、それを正しく扱える、おだやかにしたりできると心も変わっていく。
そうするとやっぱり人と人の在り方も変わっていって、それは結果成人に至れるでしょうっていうふうな。そういうふうに理と気の話とか、宇宙観と人間の修行っていうものをつなげちゃうんだよね。
わーすごいね。全部つながるね、確かに。
そうそうそう。つながるとやっぱりちょっと生計的な感じとかさ、やっぱりすごく、もちろん信じる信じないは別だけど、理解ができるみたいな、まさに西洋哲学でよく僕が言うさ、「共感できないかもしれないけどなんとなく理解できるでしょ?」みたいなところまで来た気がしない?
そうだね。だからちゃんとした土台を、ちゃんとしたというか、まあでもちゃんとした土台を作って、その上にちゃんとしたものを立ててる感じがするね、この趣旨が。
そうそうそう。そうなんです。っていう意味で、やっぱり主旗すげえとかね、天才だった主旗って話をしたのはまさにここなんですけど、ただね、これめちゃめちゃ面白いというか、僕も調べてて、あ、そうかと思ったんだけど、
前回趣旨学は今回で終わりにして、次、大陽明、陽明学院に行きました、諸説じゃないですか。なんでそんなめちゃめちゃすごい儒教のさ、千年何年のある種の停滞を乗り越えた趣旨学、またさらに批判して陽明学って上手いことって書いてあるのかみたいな話っていうのがあるわけなんだよね。
まあ確かにね、現状はあんまり知りなさそうだけどね。
そうそうそう。ちなみになんかじゃあこの趣旨学に問題があるとしたら何だと思う?ってちょっといきなり聞いてみちゃったけど。
いやー、なんなんだろうね。もしかするとはけど、この里の川だよね。里の川とか、木の状態も含めてなんだけれども、変に理想主義になったりとか、逆に相対主義になる可能性があって、みたいな、そういう感じはするかな。
理想主義っていうのはその通りで、これしか、これこそが正しいのだっていうふうにもなりかねないし。
なるほどね。
リートがこれだみたいなさ。あと、この木の状態にした方がいいみたいなさ。この木の状態じゃあってはダメだとかさ。この木の状態はダメだみたいなふうに、ガチガチになる可能性もあるし。
はいはいはい。
逆にその相対主義的というか、自分の木はこうですし、みたいな。人によって正解が変わっちゃう。どっちを触れそうだなっていう感じがちょっとした。
それは本当にその通りでは、やっぱり何が正解かっていうバランスを取るのが難しくて。
一つだけ言うと、じゃあこれ本当に政治になれるんですか?主義さんって政治になったんですか?って言うんですよね。
つまり仏教では下脱をして悟りを開いた人がたくさんいますよね。
で、主義さん、あるいは主義さんの教えを学んだ、書士学を学んだ人って、政治になったんですか?っていう結果の方が問われちゃうんですよ。
恐ろしい。そっかそっか、ちゃんと空思量産しました?みたいなところが見えちゃうのか。
見えちゃう。それでいくと、実は主義は政治にはなってないんですよ。
それもかわいそうだけどね。十分すごいと思うけど。
それでも言わないし、別にそういうふうに、私は政治になったとも言わないし。
産学としては多分、これは主義が言ってるわけじゃないと思うんですけど、政治になるのはもちろん可能だと。
ただやっぱりそれは簡単ではない。高生の人からすると無理だっていう話だったよね。
主義学では。
どうだろう。仏教の悟りと同じような感じはするけどね。
でもね、悟りは一応、悟ったっていう人とか、悟ったというコミュニティがあるわけですよ。コミュニティとの繋がりが。
そういう基準があるわけよね、ちゃんとね。
しかもそれが続く場合、原理的に難しいっていうことが批判できちゃうんだよ。どういうことかっていうとね。
さっき言った通り、理は基本的に善ですと。人間の性としてもね。
ただそれが気によって変動して濁ったり済んだりするんだけれども、さっき言った通り気っていうのは常に変化してるじゃないですか。
止まらない。それはもう本当に対極の状態ならまだあるかもしれないけど、分かれたらもう止まらないので、
常に読んだままにしておきましょうとか、常に理というものを最大限把握しましょうっていうこととか、
あるいは世の中の理と気のバランスって常に把握しておきましょうとか、
それってやっぱりちょっと非常の空論なんだよね。
うーん、なるほど。悟りと同じくらいかなと思うけどね。
あー、なるほどね。
悟りは、ある種心の、自分の問題だから悟り。
あー、なるほど。そっか、そこに朱子学の批判の隙があるわけか。
そうなんだよ、そうなんだよ。
自分だけコントロールすればいいわけじゃないんだ。
そう。
なるほど。
ただ、自分と世界が繋がってるといった瞬間に、やっぱり自分だけじゃなくて世界との繋がりとか関係性っていうものも問われるんだけど、
そこにおいても、理と気を全部ちゃんと務められてますかとか、
はいはいはいはい。
そういうことがやっぱり問われちゃうんだよね。
そういう時に、もちろん学問を通じて政治になりましょう、で、突き詰めたらなれますよっていうことは言えるんだけど、
成人への道とその限界
本当に自分が気を整えましたとか、本当に世の中の気というものを理解、水の気というとか、水の理科というものを本当に理解しましたって誰が言えんのよってなっちゃうんだよね。
判断して合格かどうかやってくれる人はいないんだね。
そう。
時も成人時代からではできないです。
古代から孔子とか、中央とか引っ張ってきたらやってくれるかもしれないけど、それはもちろんできませんっていう話の中で、
理論としてはできたけど、念頭にあと一歩は着地できなかったんだよね。
わー、なるほど。惜しいね。
惜しい。
ただね、主義は、心理みたいな話で、要は成人っていうのは目指すんだけど、至れるものじゃないと。
そこに至るプロセスで進むし続けるとか、目指し続けて自分を修練し続けるとか、それが大事だよっていうことを言うんだよね。
そうなんだけど、普通の人間にはそれは耐えきれないのよ。
あー、面白いなー。ここで繋がるのか。関東の人格とね。
あー、なるほどね。はいはい。ごめん、ちょっとそこも言ってもらっていい?どんな風に繋がった?人間の中で。
前、関東の時にやった人格になるべしみたいな。で、人格なれねえじゃんみたいな話をしたんだけど、
自分の立場でしょ?その法律というかね、決まりに必ず自分がそこに守るとか、それをもとに生きていくみたいな、そういう話だよね。
そうそう。定言明法をちゃんと作った上でそれを守りきるやつみたいな。どっちもむずいじゃんみたいな、無理じゃんみたいな話だったけども、
それを目指すとか、定言明法的なものを作って、それを何かあった時に改善していいっていう条件付きみたいな。
人格にはなれないんだけれども、それを目指すことには一定の意義があるんじゃないかぐらいの感覚を持ったのね。
それと同じ感覚なら分かるな、みたいな。そこに繋がるなと思った。絶対無理っていう、理論的には無理っていう。
関東の時はね、いわゆる嘘を絶対ついてはダメだっていう副律があった時に、例えば友達を死ぬかもしれない状態でも本音を言うのがいいかっていう時に、
関東はそうだと、嘘はついてはダメだって言ったっていう可能性があると思うんだけど。それと同じような感じだね。
主旗も成人になった方が良い、なれるって言ったんだけど、でもその成人というものが、どこまで行っても分からないというか、
やっぱり目指し続ける、無限に遠ざかっていくものだよね、やっぱり感覚。
そうだよね。だって、それ到達したら全知全能だもんね。
そうそうそう。宇宙、大極に至るってわけだからね。
そうだよね。
宇宙の理を知るって意味だから。それはやっぱり人の身を超えてるであろうと。
そうそうそう。
という感じなので、今回その前回の理と機能、宇宙論みたいなところから、人間の成人を目指してやるんだけど、
動物知知とか、女性の経験とか言ったんだけど、それはあくまでも人間ができる範囲の努力のところで、
工夫のところで、どこまで行ってもゴールにやっぱりたりついたとか言えない。
そういう風なロジックになってしまった主主役の悲しさみたいな。
朱子学の限界と陽明学の誕生
うわー、さっき好きがなく見えるって言ったんだけど、好きになさすぎて無理っていうところが批判対象だったんだね。
そうなんだよね。それ言ってることはわかるけど、結局目的達成できないじゃんみたいな。
はいはいはい。
っていうのが、まじで天才主義の天才だったがゆべんでもあると思うんだよね。やっぱりやり尽くしちゃった結果、どうしてもその一歩が埋められなかった。
いやー、いいね。哲学っぽいね。哲学者っぽいよ。
逆に言うとそうなんだよ。やっぱり目的に合わせて、やっぱり政治にならないと困るから、ちょっと理論の方を変えようとかってしないんだよね。
ちゃんと積み上げた結果、でもやっぱり求めることに意味があるっていうふうに実施するっていうね。
難しいね。本人もそこはわかってたのにね、どうしても実践するうえで批判の対象になったりとか、まだまだアップデートの余地はあるよっていうふうに後の人は思うわけだね。
そうなんですよ。これは面白いのが、ある種その主治学を信じきってやりきって、やったでしょって思ったのが陽明学の大陽明さんなんだよね。
へー、そうなんだ。頑張ったんだ。
王さんは頑張って頑張って、主治学の実践を極めて、理に至ろうとしたんだけど、そこらへんは壊れちゃうんだよね。
わー、なんかかっこいいね。そこはちゃんとやった頃こそ生み出せるものだったんだ。
そうなのよ。これじゃダメだって言って、自分の主治学を踏まえた陽明学を作りますっていう話がありまして。
なので、やっぱり主治学・陽明学っていうのはそうそう続けてやりたかったっていう。僕も改めてそういうドラマがあるんだなってことがわかったんだよね。
なので、ちょっと雑談一回挟んじゃうんですけれども、次陽明学・大陽明さんってやることで、この主治学から陽明学の流れっていうところをぜひお伝えしていきたいと思ってますという感じですね。
はいはい、わかりました。次回は陽明学を楽しみにしていきたいと思います。では、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
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