1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
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2025-07-09 44:42

#333 朱子学から陽明学へ。朱子学は無理ゲーと悟った王陽明

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

このエピソードでは、朱子学から陽明学への移行についての考察が行われており、王陽明の思想が朱子学の限界をどのように克服するかが議論されています。王陽明の生涯や思想の背景、朱子学と陽明学の対比が詳しく紹介され、彼が朱子学の限界を理解し、陽明学に至るまでの経緯が語られています。王陽明は外部の知識を求めることに挫折し、自らの内面を通じて真理に至ることを悟ったことが述べられています。また、王陽明が朱子学から陽明学へ進化する過程や彼の人生や思想がどのように形成されたかについても触れられています。特に、王陽明が主義学者からの反論や批判を受けながら、自らの教えを広めていく姿が描かれています。さらに、朱子学から陽明学への転換において、王陽明が聖人になることの重要性とその実現可能性についても探求されています。

朱子学から陽明学への移行
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
このラジオは、身近なテーマをきっかけに、哲学について楽しく学んでみようという番組です。
哲学好きの弟と、哲学に馴染みのない兄の兄弟二人でお送りしていきたいと思います。
改めまして、兄の寛之驚介です。
弟のハヤトです。よろしくお願いします。
はい、お願いします。
さあ、前回まで朱子学ということで、ほぼ続きみたいな感じで、次は陽明学を見ていくというような話でした。
そうですね。
ざっくりですけれども、朱子学って儒教というものを停滞するところを発展させて、
改めて生き生きとしたものにしましょうという感じでお伝えしたいと思うんですけれども、
朱子学も実はですね、またその後、時間が経つと、それもまた形骸化しちゃって、
いわゆる思想としては力が失われていくみたいなのがあるんですよ。
そうなんだ。
これ、ちょっとあえて言ってなかったけど、僕も今回調べてて初めて知ったんじゃないかと思うんですけど、
大陽明さん、ずっと言ってるじゃないですか、名前として。
なんとなく朱子学、陽明学ってセットだよっていうふうに伝えてたんですけれども、
大陽明さんが生まれたのって1472年なんですよ。
ああ、じゃあ三百何十年後。
そうそうそう。
さっきからすると三百年後ぐらいなので、ちょっと時代としては下手だったんですよね。
まあ、ということは朱子学も頑張ったねっていう。
どっちかっていうと、体制代わりにいっちゃったねって感じなんですよ。
要は、さっきの時にも最初話したと思うんですけれども、
授業っていう教えがあったときに、それが社長っていう部件の制度、
今でいう国家公務員試験みたいなものと結びついて、
いわゆる勉強学問、要は何か思想的にすごい役立つっていうよりは、
ただ単純に暗記して覚えなきゃいけないものになっちゃってるって話をしたじゃないですか。
あったね。
で、それをある種反発を持って、儒教を生き返らせようというのが主旗だったんだけれども、
そこから三百年ぐらい経ったときに、朱子学が国家公務員制度に組み込まれちゃうんですよ。
そうなの?
そう。要は、主旗からやったことって、いわゆる儒教の解釈というか、注釈を書いたっていうお仕事なんだけれども、
その注釈自体が今度は、僕としては、これは良いものだから取り上げようって言って、
その注釈も含めて学んでくださいねっていうふうな話になっちゃうんだよね。
へー。あ、だから朱子学っていうものが、儒教の注釈だみたいな捉え方をされていると。
うん。
で、めっちゃ良い注釈ついたねっていう。
そうそうそうそう。テキストみたいになっちゃったんだよね。
へー、そうなんだ。はいはいはい。
なので、ざっくり言うと本当は、なんかすごい敵の本座みたいなものがバーンと出たんだけど、
それが9年に200年経つごとに、どんどん教科書になっちゃったみたいな、そんな感じ。
王陽明の生涯
へー。
うん。で、実はさっきおっしゃった通り、大陽明さんは主義から300年くらい後の人なんですけれども、
大陽明さんの時代って、明っていう時代なんだけれども、
その前に元帝はチンギスハンとかで有名な、モンゴルの人たちが作った国が中国を支配したんですよね。
はいはいはい。
で、そっからも官民族の明に変わったっていう時に、結構国の制度もガラッと変わるし、
その時にまた科挙とかもやろうとなるんだけれども、その時に使われてるのが、いわゆる境外化した朱子学だったのね。
わー、そっか、300年経過したその。
そう、経過して、しかも王朝も変わってしまった時に、
元の前にあった、宗という時代の偉大な学者である、三民族の学者である四季さんの考えをもう一回持ってきましょうみたいな、そういったものが起きちゃうんだよね。
なるほど。
そういうのがあって、本来はもうちょっと元の時代からそういうのはあったんだけれども、ある種、朱子学が頑張って乗り越えた、儒教の契約を乗り越えた朱子学が、また境外化して、ある種、あれ使えねえよ、道具にな。
そんな感じになっちゃってましたと。
だから、そもそも使うっていう概念がないみたいな感じなのかな。
ああ、そうだね。
その、家教を通るご勉強としての方が多いみたいな、実践書というよりは。
うん、そうだね。前回、前々回から言った通り、やっぱり実践で使おうと思うと、どうしても政治に至れないってところがあるから、やっぱり粛略につけるんだよね。
で、その中で国として朱子学を政治家やテキストにするってやっぱりなっちゃったもんだから、もちろん当時、民の時代も朱子学者という人たちがいっぱいいて、朱子学こそが文字だとか正統だっていう人もいたんだけれども、
王陽明さんが生まれるちょっと一世代前ぐらい、それこそ1400年ぐらいかな、というところから、朱子学ちょっといけてないよねとか、新しい発想がないと、この民の時代やっていけないよねみたいな、そういう人たちがちょこちょこ出てたらしいんですよね。
なるほど、なるほど。パッと試そうとした人たちが、あ、無理って、あ、無理無理無理ってなってたってことはね。
まあそういうのもあるかな。
前回雑談の時にも、朱子さんがオリジナルだみたいな話があって、いや、そうじゃない、そうだみたいな話をしたと思うんですけれども、王陽明さんも時代にポッと天才とかっていう、もちろん天才ではあるんだけれども、
そういう時代の流れで、朱子学どないなんみたいな人たちがいろいろいた中で、やっぱり王陽明さん自身も考えたときに、朱子学ってやっぱりちょっといけてないんじゃないかとか、乗り越えられるんじゃないかっていうことをいろいろ考えた結果、
王陽明学っていうマットの時代の人が、王陽明先生の教えてすごいから、それを一つの学問にしようって言って、やっぱり残って継承されていったみたいな、そういう風な流れがあるんですよね。
なるほど。だからどっちも朱子学にせよ、王陽明学にせよ、自分で朱子学であるとか、王陽明学であるって言ったわけではないんじゃないのかな。
そうだね。
そう聞いた人たちは、いや、すげえすげえっていう。
そうそうそう。でもやっぱり自分でいろんな人に教えてとか、弟子をとってとか、そういうことはやっぱりしてたので、そういったものはどんどんちゃんと体系化されていったっていうような感じかな。
なるほど。
で、なかなか朱子学に比べると王陽明学って、それこそ聞いたことはあるけど、やっぱり全然わからない感じかなとも思うんですけれども。
言い訳的には、前回もちょっとだけ増えたんですけれども、知行合一って、知ることと行うことは一緒だみたいなものとか。
あと、朱子学で生即理っていう、人間の本性がすなわち理であるみたいなことを言ったじゃないですか。
うん。
実はこれは文字って、王陽明学では心即理、心って心ね。
うーん。
心すなわち理であるみたいな発想が出たりするんだよね。
あとは知良知、良知、良い知識に至るみたいな、結構こういうキーワードはいくつかあって。
それぞれ一個一個が、それまで朱子学に比べると新鮮味があるとか、すごい批判的であるみたいな、そういうふうなキーワードなんだよね。
へー、はいはいはい。
なので、こういったところを見ていくと、朱子学のどういう部分を批判して、心即理、性即理じゃなくて心即理だっていうふうに言ったのかとか、
そういう対比が見えてくるかなとは思うんで、
ちょっと今回、ある種セットでやっていけますよっていうのは、そういう繋がりがあるからっていうようなこともあったりしますよと感じたんですよね。
なので、今回そういったものを含めながら陽明学見ていこうと思うんですけれども、
第1回なんで、いつも通り大陽明さんとはみたいな話をしていこうと思っております。
はいはいはい。
大陽明さんの生涯なんですけれども、さっきもお伝えした通り、大陽明さんは明の時代の人でして、1472年に生まれておりますよと。
やっぱりすごいいい家柄の出身の人らしくてですね。
お父さんは政治家で、ちゃんと学級合格して政治家で、
いわゆる大臣職、日本でいうところのみたいなぐらいまで勤めたような、すごいある種身を培った人なんだよね。
やっていくんだけれども、やっぱり当時いろんな政権とかがあって、失脚するとかいろんなこともあって、
やっぱり大陽明さんはめちゃめちゃ裕福贅沢に暮らしたかって、そんなこともない。
そうなんだ。
勤めたような人ですと。
ただ、幼い頃から聡明、賢くって、いろいろ歌を読むとか探しを読むとか、学ぶとかってやっていたんですけれども、
生涯わざって苛まれてたのが、いわゆる病気な、体がすごい弱い人だったらしいんですよ。
詳細なことは伝わってないみたいなんですけれども、結構幼い頃から血を吐いちゃって、
ちょっと汚い言葉ですけれども、いわゆるギリギリで、いわゆる消化器器が弱かったんじゃないかみたいな、そういうふうなことが言われてて、
それってどこかで治るとかじゃなくて、わりと晩年になってもずっと病気がちっていうのは変わらなかったらしいんですよね。
王陽明の哲学思想
まずは面白いのが、いわゆるデカルトだったかな、病弱でずっとベッドでほんでましたみたいな人とかいたじゃないですか、哲学者にも。
それじゃなくて、この後またちゃんとお伝えするんですけれども、いわゆる当時の中国の思想派っていわゆる政治家でもあるので、
その政治面って仕事としてめちゃめちゃ大事なんですけど、それでもすごい成果がしてるんですよ。
しかもその成果の出し方も学問を語りますとかじゃなくて、普通にいわゆる戦争とかに行って反乱を鎮めるとか、
大立している皇帝と大立している勢力を鎮壓するとか、そういうふうにいわゆる軍師みたいなことをやってるんだよね。
めっちゃ働いてるね。
そうそう。だからそんだけ病弱な人なんだけれども、戦いに立つといわゆる上将、将軍みたいな感じでめっちゃ成果あげますみたいな。
結構ね、そういう二面性とは言わないけれども、別に線が細い。
目を見ると線は細いんだけれども、すごい弾力とか自力があった人なんじゃないかみたいな、そういうふうな人物像なんだよね。
へー、そうなんだ。だから武力があるとかじゃなくて、やっぱり軍師的な才能が強かったとか。
そう、軍師だね。
で、なんかね、一個面白いエピソードがあって、なんかそういう両面性があるなと思うんだけれども、
子供自体にね、結構さっき聡明ですって言ったと思うんですけれども、
本人はね、勉強をすごい嫌いだったんだって。
へー。
で、なんで、塾とか当時あったみたいなんだけれども、それもほんとサボっちゃって、いわゆる戦争ごっことかそういうのを楽しんでましたみたいな。
へー、はいはいはい。
そういうのがやっぱりあったりとか。
あとはね、13歳の時にお母さんを亡くしてしまって、そういう意味でも結構不遇の子供時代を過ごしてるんだけれども、
新しいお母さんが来た時にいじめられちゃうんだって。
しんどいってなるんだけど、でもそこでなんか塞ぎ込まずにですね、
これどんぐらい本当のエピソードかわかんないんだけれども、
町で鳥を一匹買ってきて、その袋をそのママ母の布団の中に入れてたんだって。
はいはいはい。
そう。で、お母さん当然驚くじゃない。なんか袋出てきたみたいな。
そういうところで、なんだこれはって言って、占い師のところにそれの原因を教えてくるみたいなふうに言った時に、
それは子供、あなたの子供をいじめてる罰だみたいな。
だからそういうひどいことが起きるんだよとかって言われて、いじめをやめたらしいんだけれども、
もちろんこの占い師は王陽明さんが事前に話を通していて、
王陽明の学びの道
もし自分の母親が来たら、そういうふうに言ってくるみたいなことを伝えてましたみたいな、なんかそういうふうな逸話があった。
13歳にしてかなりあれだね。
そうそう、やり手というか。
賢いんだけれども、いわゆるずるがしさというか、なんていうのかな。
ただ単純にお勉強ができますとか、テストの点がいいですとかってことじゃなくて、
自分でこういろんな物事を考える人だよみたいな感じでもあったんだと思うんだよね。
そんな感じのね、王陽明さんなんですけれども、特に健康面の不安というか、やっぱり辛さはあったとは思うんで、
やっぱり前回の雑談の話じゃないですけれども、やっぱり自分の人生の苦しさというか、
やっぱり浮き沈みってことは感じてたと思うんですけど、いろんな学問を学んでいくわけなんですよね。
そこは積んだまっているんだね。
そうそう、そこには救いを求めるというところもあって、
それに儒教とか朱子学だけじゃなくて、仏教とか道教。
いわゆる老子早子の思想だよね。
あとはね、いわゆる兵法、いわゆる日本の武士とかもそう思うんだけど、
身体とかを心を鍛えて、人生を良くしていきましょうみたいな発想ってあるじゃないですか。
健全な生死に踊るみたいな感じで、いわゆる戦い方とか兵法とかそういうことを学ぶ中で、
自分の答えがないかとかっていうのを掘り下げたらしいんですよね。
へー、なるほどなるほど。
そういうのをやったんだけれども、どこの道をたどっても、
やっぱり真相が納得できる、この道が正しいんだとか、
これを極めればいいんだと言えば、やっぱり出会えなかったみたいなんですよね。
へー、そうなんだ。うわーすごいね。全部しっくりこなかったんだ。仏教とかもダメだったんだ。
そうそうそう、やったんだけどダメだったらしくて。
っていう意味で、やっぱりその、なんていうのかな、
やっぱりまさに一種の絶望、哲学的な絶望だよね。これはもう救われないんだね、君らさ。
僕にも自分を救ってくれる教えはないんだ、みたいな。
ところがあったときに、でも改めて、やっぱりこれが自分の道なんじゃないかと思って、
学んでいくっていうのをやるんですよ。
まあ仕方ない、これかなーみたいなね。
そうそう、これかなーっていう。で、やっていくし、
当然ね、大山英さんも政治家になっていくっていうのは、家計に合格しているので、
必然的に主治学を学んでいたっていうのもあると思うんだけれども、
そういうところまで、やっぱりこれはもうちょっと極めていこうというふうに頑張っていくわけなんですよね。
そうなの。ていうか、さらっと言ったけど、家計合格してるんだね。
そう、28歳で合格しております。天才でございます。
なので、そういう意味では本当になんていうのかな、いわゆるエリート一家に生まれて、
ちゃんと自分も勉強して、政治家になりましたというような人なんだけれども、
さっきも言った通り、学んだ主治学っていうのは、いわゆるお勉強というか、
受験知識にやっぱりなり下がっちゃってるわけなんですよね、その300年くらい経って。
なので、もちろん政治家としてやるために必要ではあるんだけれども、
やっぱり応用名産もきっと人としてどう生きるべきかとか、どうしたら自分の人生がより良くなるのか、もっと言ったら成人になるところに対して、
どうしたら自分は成人になれるのかっていう、そういうところをやっぱり突き詰めてきたわけなんですよね。
ていうときに、やっぱりこの当時の主治学、主旗が生きた時代の主治学だったらまだわかんないんだけれども、
やっぱりこの300年経っちゃった主治学っていうのは、やっぱりそれには答えてくれなかった。
どうしたらか違和感を持って、当然自分だけじゃなくて、他の一方の世代の人たちも、
やっぱり主治学どんなものかって言ってる中で、やっぱり自分もそこに違和感を持ってしまう。
挫折と新たな気づき
っていうところから、やっぱりどうしようどうしようって悩んでいくわけなんだよね。
実際にちょっとお伝えしたいんだけども、主治学をやりすぎて挫折した経験があるんですよ。
これが大陽明さんの手帳っていうか大臣の本というか、電修録っていう本がありまして、
これがいわゆる、もういろいろ学び尽くした大陽明さんが弟子にいろいろ伝えていきますっていう、いわゆる問答書みたいな感じなんだけれども、
そこに実際に、私が若い頃にこんなふうに挫折をしたんですってエピソードが残ってるんですよ。
ちょっとそれをお伝えしてみたいんだけれども、ちょっと長くなるかもしれないけど読んでいいかな。
今の本があるんですけど、大陽明先生が言うところには、
世界主義の採釈によって、博物知知ってやったじゃないですか。
つまり外にあるものをどんどん深掘りしていくと、その理に至れますよみたいな。
本当の知識に至れますよっていうのがあったと思うんですよ。
そういうのあるんだけど、誰かそれを実践した人っているんだっけと。
要は、お勉強として学ぶだけで、それを本当の意味で捉えた人っていないんじゃないのっていった上で、
実は自分は本当に実践したんだよって話をするんだよね。
そこに友達と一緒に政治になるためには、やっぱり主治学から言うところの理を極めなきゃいけない。
でも、若い自分たちにそれをやりきるだけの力もないんで、どうやってやってみようと。
まずは試してみようっていうところで、庭にあった竹を指差して、竹の理を極めようとして、竹に向き合い続けたんだって。
で、竹のポンポンとか原理原則とか何かっていうことをその友達は3日間やったんだけど、3日目でやっぱり神経すり減らしちゃって病気になっちゃったんだって。
竹に向き合い続けた結果ね。
で、お嫁さんはふむ、なるほどと。
3日で諦めるぐらいだったらちょっと弾力弱いから、俺がやるわって言って。
自分もやったんだけど、7日目で自分も病気になっちゃったんだって。
同時にやったんじゃなかったんだ。
先に友達がやって、次俺がやるわっていう感じの結果、7日でダウンしましたと。
それはそうだよね。ずっと朝から竹に向かってさ、竹とは何か、竹とは何かみたいなこと言ってたらさ、それはちょっとおかしくなるんじゃない?
苦行だよね、これね。
本当に苦行だよね。
悟っても良さそうよね、下手したらね。仏教の方の悟り開けそう。
そうなんですよ。悟れなかったっていうので、これは無理だと。
僕らは政治になりたいよねって思ってるけど、やっぱりそれをやる力がない、我々は無理なんだと思ったんです、僕の時に。
すごいね、でもね。
やっぱり政治になりたい、でもなれない自分というところでそこに向き合うわけですよ。
でもこれって、やっぱり史書学の教えからすると、そういう外の竹にも竹の理があって、それを通じて本当の人に至れるはずだから、やってれば本当に至れるはずなのに何も得られない。
この実体験こそがやっぱりそれじゃダメだっていう強い史書学批判というか乗り越えの力になっていくんだよね。
その時はそれで一旦終わるんですけれども、28歳で合格して、36歳だったし、8年後とか。
8年間ぐらいはそういういろんなことを試しながらも普通に政治家として働いてたんですけれども、
内面の探求
この36歳の時、当時の権力者に劉勤という人がいたらしいんだけれども、
こういう人はいわゆる応募だというか、自分の意のままにしたらしいのね、その権力をひけらかして。
もちろん肯定は言えるから肯定には逆らわないんだけれども、その肯定のもとを自分が権力を握って仕切ってしてましたと。
で、それを批判、その大嫁さんの仲間は批判するんだけれども、逆にあいつらが無本場みたいな感じでやられちゃって、
罰してられて、何だろうな、左遷されちゃうのよ、仲間がね。それで大嫁さんがちょっと怒って、
そんな勝手なことをしたらダメだよと。仲間を左遷とかから戻して、ちゃんとよく政治していこうとかって言ったんだけど、
それもある種反感を受けてしまって、大嫁さんも刑罰を受けて左遷されちゃうんだよね。
おー、なかなか命知らずというか、正義感強いね。
そう、だからやっぱり自分の人でもあったと思います。それぐらい目に余る、リュウキンさんという人の応募者があったんだと思うんだけれども、
というところで、竜城って、僕も場所はちゃんとわからないんだけど、すごい敵地の方に移されちゃうんだって。
この竜城っていう場所がですね、当時の民の都みたいなところからすると、2000キロぐらい遠いのかな?
2000キロってめちゃめちゃ、場所として文化がそもそも違う。それこそ現状人の言葉も通じないとか、
本当に暮らし方も違うぐらい敵地だったんですよね。
だいぶ飛ばされたね。だいぶ怒られたね。
そうだね。だから逆に言って、そのぐらい権力者に意思を持って言ったことあるんだと思うんですけど。
ただ大嫁さん、病弱っていうか病気がちだとは言いながらも、やっぱり全然弾力あるんで、
ほんと腐らずにですね、そこに来たんだったら、むしろ現地の人たちを教育してやるわって。
本当にそういうこと言葉も教えながらとか、自分の考えてる趣旨学とか洋明学的なことを伝えながら、どんどん地域を率性化していったんだって。
へー、はいはいはい。
そういうところで、敵地でも頑張ったんですけれども、一方で敵地は敵地なんでやっぱりやることがあんまりないですよというときに、
やっぱりこう、自分のもともと持ってる課題だよね。人としてどう生きていくのかとか、もとよりどうやったら政治になれるのか。
そこにやっぱり向き合い続けてですね。
そこの龍城っていう地に、石の部屋?洞窟かなんかわかんないんだけど、そういう自分の修行場所みたいなのを作って、
詳細わからなかったんですけど、命がけの修行をしたみたいに書かれたんだよね。
そうなんですか。
多分本当に苦行だよね、本当に。そういうふうに自分をすり減らしてでも、どうやったら自分は政治になれるのか。
地形に向き合ったけどなれなかった自分が、そういうことをどうやったらできるんだっていうことに向き合い続けたらしいんですよ。
はいはいはいはい。
そこで、いわゆる悟りが降りてきて。
龍明さん思ったらしいんですけど、その理、やっぱり物事の本質とか原理原則っていうものを、外の事物に求めたのがそもそも間違いなんだと。
そうじゃなくて、その聖人の道っていうのは、自分の性、いわゆる人間としての本質の中にあったんだっていうことだったらしいんだよね。
いやー、これ悟ってるね、これね。
悟ってます。これ、流浄大語って言われらしいです、これ。
大語って大いに悟るので、言葉だけ聞くとちょっと仏教っぽいよね。
ねー、なんか、もう仏教としても悟ったんじゃない?これ、苦行だもんね、これね。
そうそうそうそう。やっぱりでも、もしやられたら仏教じゃないのよ。やっぱり目指すのは仏じゃなくて聖人だから、悟るの。
なので、ちゃんとその仏教、史詩学っていう世界観の中で、まあでもやっぱり悟ってる、覚醒してるんだよね。
なので、史詩学で言うとさ、いわゆる理っていうものはいろんな物事にあって、
その人間じゃない、その外のものを見ていくと、いわゆる本を知りにいけるって感じだったんだけども、
大陽明さんは外のものなんか見てもわかんねーよ。聖人になる道は人間の中にしかない、むしろ自分の中にしかないって言って、
自分を突き詰めていく、そういうふうな発想っていうふうに切り替わっていくんだよね。
っていうのが、その史詩学と大陽明さんの違いです。
王陽明の思想の形成
詳細とかはまたね、次回以降ちゃんとお伝えしていくんですけれども、生涯で話していくと、この時37歳とかかな。
へー、あ、そうなの。わりと飛ばされてすぐ。
そうそう、1年ぐらいかけてたぶんね、やってるんですけど。
というところで、ある種、誇りを開いてですね。
そこから冒頭で言ったのが、心即利とか、知恐合一みたいな、そういう思想がそこから始まっていくんですよ。
はいはいはいはい。
なのである種、それまでは、あとまでも、史詩学に批判的な哲学者っていうかね、学徒みたいな感じだったんだけれども、
ここから明確に、やっぱり史詩学を批判してとか、史詩学とは違う自分なりの発想というか思想っていうものを、やっぱり掴めていくようになるんだよね。
そこから40代に入って、また政治の世界に戻っていくんですよ。
あ、そうなんだ。
たぶん肯定が変わったのかな。そういうふうにちょっと許されてというか、なんかいろいろあって、また戻っていって。
さっきも言った通り、戦がめちゃめちゃ上手だったんで、最終的にはね、いわゆる陸軍大臣みたいな、そういう立場になっていくんですよね。
うん、そうだね。
学問も極めながら、戦もできるみたいな、まずは軍部領導ってこれ言うのかな、わかんないけれども、
いろんな方面に才能があった人、それを発揮した人っていうような感じなんですよ。
うん、なので、ただやっぱり結構面白いのが、面白いというか、なんかね、今話して思ったんだけれども、戦とかしてるじゃないですか、
その一方で、主治学者からいろんなその反論とか批判を受けるのよ。
主治学がそんなこと言ってねえとか、
お前竹見て、政治でないとか言ってたけど、別に主治学がそのこと言ってねえからみたいな。
そういうふうな批判をいろいろ受けるんですよね。
それに対してもちろん反論もしていくっていう意味では、学問の世界でも政治の世界で戦ってる人だなって感じなんですよね、大陽明さんって。
そっかそっか、だから主治学が形骸化してるみたいな話ではあっても、ちゃんと主治学者みたいな人たちはいたんだ、ちゃんと。
そうそう、もちろんいるし、やっぱり主治学こそが大事だって言ってる人はもちろん多いので。
王陽明の政治と戦の能力
うん。ある種大陽明さんを大陽化すると、よくわかんないこと言ってるとか、主治学をちゃんと理解したいからあいつあんなこと言ってるんだみたいな。
結構そんな感じ。
でもそうか、過去に採用されてるぐらいだからかなり権威のある学問ではあるんだね。
もちろんもちろん。権威しかないって感じ。
ああ、大変そうだな、それは。それを相手にしたくなさそうな人たちだね、主治学者。
そう、そんな感じ。ただやっぱり反応されたっていうことは、大陽明の言ってることでも一理あるというか、やっぱり目達はできなかったみたいなんだよね。
やっぱりその弟子もどんどん増えていくし、力がどんどん増していくから、いわゆる勝手に言ってることは言えないぐらい力を持ち始めちゃった。
っていうのもやっぱりあったみたいなんだよね。ちーなんか講演会とかもしちゃうしみたいな。そんな感じだったらしいんだよね。
確かにこれ見る限り、2000キロ離れた言葉も伝わらないようなところに行って、あるいはそこでちゃんとうまくやったわけでしょ。
そうなんだよ、そうそう。
コミュ力とかもそもそも。
そもそもないと思う。コミュ力はやっぱり政治力が高いし、政治家としてもすごい人だったんだよね。
それから40年を過ごしていくんですけれども、体が弱いのは変わってないんですよ。
やっぱりそういう、まだ戦も強いしとか、とはいえいろんな人に教えを伝えているという意味では名声も高まっているという中で言うと、
やっぱりいろんな仕事が飛んでくるわけなんですよね。その有名勢じゃないけれども。
何があったかっていうと、大嫁さんが56歳の時ですね。当時の56歳って言っても結構高齢だと思うんですけれども、
それまでは穏やかな日々だったらしいんだけれども、急に反乱の鎮圧をしなさいと。
そういうふうなことを中央から命じられるんだよね。
大嫁さんからしてもちょっとしんどいなと。それも結構壁地らしくて、気候も悪いみたいな、暑くて大変だったらしいんだけれども、
まあでも命令だし、やっぱり従わなきゃいかんということで言って、見事にやっぱり鎮圧するんだよね。
そういう意味ではすごいいい仕事をしているし、鎮圧したものを戦後処理みたいなものを含めてちゃんとやってたんだけれども、
やっぱり病状はどんどん悪化していくんですよ。
ちょっともういかんともしがたいから自粛させてくれと、ちょっともうお家借りたいと言うんだけれども、
それも中央から認められませんと。
なので日知もさっちゃんもいかなくなっちゃって、もう帰っちゃえって言って、帰っちゃうんだよね、先に。
なるほど。
そう、命令とか出てないんだけれども、一回帰りますって言って帰っちゃいますと。
その旅路の中で力つけちゃって、もう17歳かな?で、大嫁さん亡くなっちゃいますというふうな感じなんですよね。
なるほど、そっか。それで命令違反だとかじゃなくて、本人的にももうわかってたぐらいの感じなんだ。
陽明学の広がり
もうダメだよ、ここみたいな。
もう無理だし、ちょっとこれはもういかんともしがたいから帰っちゃおうって言って帰っちゃうんだよね。
で、帰れずに死んでしまったって話だったね、途中で。
そう、帰れずに亡くなってしまいます。
というような感じなんだけど、これがね、ちょっとバーストを怪我したって感じもあって、
本来これだけの、それこそ陸軍大臣とかめちゃめちゃ国の偉い人たちなわけじゃない?
反乱とかも鎮圧して、めちゃめちゃその時の皇帝というか、そこには貢献しているんだけれども、
本来であれば、死後も体調に扱われて、その一族労働をみんな取り立ててやろうみたいな感じなはずなんだけれども、やっぱりケチをつけられちゃうんですよ。
でもあいつ、最後命令ないのに帰ってきてるなとか。
そう思っていると、たぶんね、やっぱりネタミヒガミがあって、やっぱりそんだけ肯定を上げたからこそ、ちょっとあいつ、自分の悪問とか言ってたけど、
あれって、ちょっとあいつの悪問って偽物っぽいみたいな感じで、偽の悪問で疑惑とかって言われちゃったりするんだよね。
つまり、王陽明さんすごいっていう人がいるのも事実なんだけれども、政治権力側側すると、あんまり力をもたれても困るんで、やっぱりちょっと落としてやれみたいな感じになっちゃうんだよね。
なるほどね。そっちのポジション争い的にはあんまり良くなかったんだね。隙を作っちゃったのか。
そうなんです。やっぱり彼らは趣旨学を大事にしたい。もちろんそれで、世の中をうまくやっていきたい人たちだから。
やっぱりそれを乗り越えようとする。もっと言うと、自分が持っていれば政治になれるみたいな、そういう人って危険しそうなんですよ、当時からすると。
そういうこともあって、やっぱり家族が得られたような地位とか報酬みたいなものは一切得られず、結構雑な扱いになっちゃうんだよね。
へー、なるほどね。
それはちょっと残念ではあるんだけれども、逆にそういう不遇さが良かったのか、弟子たちはもちろんそれで奮起しちゃうわけですよ。
自分の偉大な大陽明先生がこんな風に無理に扱われていると。
でも我々はその行動を継いで教えを広めていくぞみたいな感じで、めちゃめちゃ活動してるんだよね。
なるほどね。なんとも言えないね、そっか。結束するんだね。
そうそうそう。逆にこれ難しいよね。もちろん放置はできないから締め付けるんだけど、その締め付けによってすらに結束が強まるみたいなさ、これってあるじゃないですか。
っていう感じで、やっぱり大陽明の人たちっていうのが、あちこちで活躍していって、陽明学というものが広がっていきますみたいな。そういう風なストーリーになってくるんだよね。
これは熱いね。なるほどね。
そうなんです。
なので今日は大陽明さんの生涯をお伝えしたんですけれども、やっぱりこれも元々主旗、大陽明さんから300年前の人だし、主旗さんからいわゆる2000年前くらい、2600年前とかの孔子、孟子の時代から従来というものがあって、
やっぱりそれが時代とともに形骸化して、いわゆる思想の生き生きとした感じがなくなって、それを主旗がまた復活させたんだけれども、またその主旗学もまた形骸化しちゃってっていう、そういう風な流れ。
そういう風なダイナミズムの中で、300年後大陽明さんがこれじゃダメだって言ってまた復活させるというか、復活せっかく乗り越えるだね、主旗学を批判してるから。
っていう感じで、改めてまた思想界に新しい息吹を吹き込みましたみたいな。そういう風な大きな流れっていうのがありますっていう感じなんだよね。
やっぱ中国すごいよね。歴史がやっぱり膨大な中国4,000年5,000年の歴史があるっていう中でさ、やっぱりそういうものが歴史とか教科書が残ってるぐらいのことって、そういうスパンの出来事があるんだなって感じるよね。
そうね。これはちょっと歴史とこの系譜みたいなのを感じざるを得ないよね。すごいね。
という風なわけでね、今日ちょっとお伝えしてきたんですけれども、さっきも言った通り大陽明さん、陽明学の中心って、よくやっぱり心即理、心すなわち理だって言われてるんですよ。
心っていうのはそういうテーマになっていくんだけれども、これもさっき言った通り、結構悟りというか直感的な感じでもあるんだよね。
だからやっぱり体系的に、こういう理由で心がすなわち理なんだとかっていうよりは、そもそも心は理だからみたいな、結構そういう部分もあって。
はいはい。そこがちょっともう決めつけ部分というか、感じろ部分になっちゃうってことだね。
もちろんそこに対する異論の言葉もあるんだけれども、やっぱりこれは結構ちゃんと理解してくれたというか、なんていうのかな。
あくに言うと、やっぱり人間の心がすなわち理だ、世界の本質だって言われちゃうとさ、結構危ないことでやりそうな気がしてこない。本当にそんな言い切っちゃっていいの?みたいな。
そうだね。捉え方によってはね、危なそうだよね。なんでもありになっちゃいそうな。
まさにまさにそう。っていうのがあって、やっぱりそういう問題も抱えてはいるんですよね。
だから、そんなにダイナミズムのことを言えたからこそ、乗り越えられたってのはもちろんあるから、ここって結構難しい話なんだけれども。
そういう大嫁さんのダイナミズムみたいな話と、それに伴う難しさとか、落ちちゃった問題っていうところを次回以降お伝えしていく中で、
趣旨学と大嫁、嫁学ってどう違うのかとか、近いのかとか、何が問題なのかっていうところをお伝えしていければ、より全体的な理解に伝わるかなと思うので。
その次回以降ね、大嫁さんの嫁学にも本筋に入っていこうと思っていますという感じですね。
はいはいはい。この大嫁、面白いね。
面白かった?
まあ儒教で言ったら孔子とか、趣旨学の主旗とはまた雰囲気が違う、めちゃくちゃ実務家の側面があったりとか、
かと思えばね、左遷された時にね、不良みたいなことして悟ってるみたいなさ。
本人が聖人?レベルにどのくらい近づいたか、もしくは聖人になったかレベルで言うと一番高そうな感じはしたね。
面白いのが、大嫁は聖人になってるんだよね。
なってるんだ。
主旗はなってないんだよね。でもそれは、陽明学という構造の中でなってるって話なんだよね。
わー、なるほど。でも面白い。そうか。だからこそ誰でもなれる可能性があると。
主旗に関しては自分も聖人にはなってないって主旗自身もわかってたって感じだもんね。
あー、どっちも高等いね。なるほどね。そういう意味では。
朱子学と陽明学の対比
そういう意味ではそうなんだよね。
主旗学で言った通り、主旗学の原理原作として、やっぱり政治にはなれない。
ここまでいっても理想の存在だっていう、工夫することが大事だっていうところを組み替えちゃって、
誰でも聖人になれる。なぜなら自分もなってるところから始まっている。
そういうことをやり遂げた応用名と、主旗学って言ったら、やっぱり全然違うというか、目立たりがすごいあるんだよね。
でもどっちもわかるじゃん。理想として掲げ続けたい主旗と、自分がなってこそだっていう応用名と。
どっちもわかるなっていう気はするんだよね。
そうだね。これは確かに仏教とかにも近い気もするけど、確かに悟るのは大事。
主旗学で言うと、主旗学的な大局のところに至って聖人になるのは大事だけれども、
それやってたら社会との接続基本なくなるよねみたいな感じありそうだもんね。
そうなんだよね。そうなんだけど、逆に言うと、ちょころ先だになっちゃうけど、
全員が聖人になれる、聖人であるという時代における聖人の価値とはみたいな。
はいはいはいはい。
ってことは問題になってくるよね。
なるほどね。聖人一級とかつくないとダメかもね。一段二段みたいなね。
そうそう。それぞれ分けちゃっていいのかってそういうのが出てくるんで。
という話も含めて次回、応用の養命学をやっていきますというところですね。
分かりました。次回はこの養命学の中身を楽しんでいきたいと思います。
では、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
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