ヘーゲルの再訪
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
このラジオは、身近なテーマを切ったけり、哲学について楽しく学んでみようという番組です。
哲学好きの弟と、哲学に馴染みのない兄の兄弟二人でお送りしていきたいと思います。
改めまして、兄の環野翔介です。
弟のハヤトです。よろしくお願いします。
はい、今回からだいぶ久々のヘーゲル回ということで、改めてやっていくというようなところでした。
はい、ヘーゲル前回いつやったかっていうと、2年前かな?
あ、うそ、3年前かこれ。3年前にやってます、これ。
ほんとにやり始めた最初の頃に、カントやってヘーゲルやってということをやってましたね。
ああ、はいはい。やっぱり流れはカントヘーゲルみたいな感じだったね。
そうそうそう。でもね、3年経って全然違いますね。
中間違いって皆さんわかんないと思うんですけど。
3年経つとヘーゲルも変わってた?やっぱり。
違う、ヘーゲルは変わってない。完全に僕ですね、変わってるのはね。
やっぱり今回ね、ドイツ関連論っていう流れの中で、
カントやって、フィヒって、シェリンやって、今回ヘーゲルですよっていうところをずっと名前としては言ってたと思うんですけれども、
やっぱりその蓄積もあるじゃないですか、僕らもね。
なんだかんだ兄貴も忘れてるとはいえさ、3年分のなんとなく聞いてきた蓄積があり、
皆さんもね、もちろんね、全部聞いてる方は少ないかもしれないですけれども、
なんとなくこうやって聞いていただいている中で、何か哲学ってこういうものなのかとか。
今回もね、フィヒってとかシェリンって減ってはなんとなく自我がとか絶対者がとか、
いろんなことがある中で、カントの宿題をみんな頑張って答えてようとしたんだなぁみたいな、
そういうところはね、ちょっと土台にあるかと思うんですよね。
という中で今回、いよいよヘーゲルをね、もう一回やりますよっていう感じなんですけど、
弁証法の再検討
ヘーゲルといえば弁償法みたいなイメージがあってさ、
テーゼとアンチテーゼがあって、ジンテーゼって3つがあるよとかさ、
なんかね、アフヘーベンというか、こういう言葉があるみたいな、
そんなぐらいの感じから多分スタートしたんですよ、前回って。
はいはい、まあそうだね。今のジンテーゼみたいなのはもはや忘れてるけれども、
意外と矛盾してるとか対立してるのが、対立してなかったりするみたいな、
その辺が何か時もだったような気もするみたいな。そういうのが覚えてる。
そうなんですよ。やっぱり多分3年前の僕の理解もそうだし、
当時の壮烈なラジオ的なところで言っても、まずはなんとなく知ってるところから入ろうみたいなね。
ヘーゲルというのは名前は知ってるよねとかさ、
弁償法っていうのもなんとなく教科書で見たことある気がするみたいな、
心から入ってたなと思うんですけど、今回改めて台本作ろうと思っていろいろやってたんだけれども、
弁償法の入る隙もなかったんだよね。
嘘?ヘーゲルなのに?今回弁償法ないの?
ない。でもないっていうか、あえて弁償法とは言わないんだけど、
やっぱりヘーゲルの哲学って動きというか、固定したものをバチッと証明しに行くっていうよりは、
そもそも世の中って揺れ動いてるよねとか、
そういう流れみたいなものがあるよねっていう風な話なんだよね。
それを形にすると、弁償法って言われたりするよっていう話なんだけど、
なんかね、これ面白い話というか、本があって、
これは去年出た本なのかな。
去年の12月に出た本で、ヘーゲル再入門っていう本があるんですけど、
これ新書に出てる。
僕も読ませていただいてめちゃめちゃ面白かったんですけど、
その本の言い取り方として、ヘーゲルの中に流動性って流れて動く。
流動性っていうものをキーワードに、ヘーゲルってものを理解していきましょうみたいな。
そういう本だったんだよね。
なるほど、大丈夫?その人は勝手に作った話題の、勝手な張訳ヘーゲルじゃなかった?大丈夫?
全然大丈夫。
私、川瀬さんっていう方なんだけれども、
その方は東大の文学科とか出てて、
今ヘーゲル学会に入ってらっしゃる方なので、ちゃんと哲学を学んでヘーゲルをやってますみたいな。
普通に恐れ多いんだけれども、そういうことを僕が言うのもね。
そういう学問的なアカデミック側の人だよっていうような裏詰めがあるのか。
すみません、張訳とか言っちゃダメだね。
ダメです。
ちゃんとそういう方が書いてる本です。
その方の流動性っていうキーワードを元にすると、ヘーゲルが理解しやすいんじゃないかというか。
一本塾が通るんじゃないかっていう話なんだけれども、
逆に言うと、何か筋を通さないと、やっぱりヘーゲルを説明することができなさそうだなっていうこともちょっと見えてきたのよ。
どういうことかっていうと、
ヘーゲルってあまりにもいろんなことをちゃんと体系化させて書いてるんだよね。
ほいほいほい。
その時に、ヘーゲル全部、しかもめちゃめちゃ分厚い本とかも、図書館行って僕は見たんだけど、
字典みたいなものがどんヘーゲル、論理学みたいなことが置いてあって。
それは原点の方ね。
原点の方、ヘーゲルが書いたものの翻訳だね。
それをわかりやすく説明せよみたいなのって、土台無理みたいな話があるみたいなんだよね。
それの解説書とか書いたら、その厚いのの何倍書かなきゃいけないのみたいな話になるんだね。
そうですそうです。
なっちゃうから、たぶんヘーゲルの中でもこの部分を切り取ろうとか、
それこそ流動性というキーワードを立てようとかっていうふうに、一定の編集が入ってくるんだよね。
そうじゃないと、あれもこれも取ると結局兄貴が言った通り何倍も厚いものを出すみたいな、
絶対者の探求
誰が読むんじゃいみたいになっちゃって、よくわからんとかってなっちゃうなと思うときに、
弁衛省法もある種の一つの軸というか、わかりやすい切り取り方なんだよね。
なるほど。
なので、やっぱりそれって切り取り方によっては出てきたり出てこなかったりするねっていうふうな話があったときに、
今回どういうふうにヘーゲルを切り取ろうかなって僭越ながら思ってたわけですよ。
そのときに一個思ったのが、絶対者っていうことだなと思って。
フィクションの時もあったけど、自我っていうものがあったけど、そこだと切りなくて、
もっと本本は何だ何だって言って絶対者みたいなものに行き着いたよとか。
シェリングも、やっぱり自然っていうものがあって、そっちの方の生産性っていうことを使ったと思うんだけど、
動きで説明できると思ったけど、さらにその奥に絶対者イコール極みだよね。
でもその神っていうものがヘーゲルに言わせると、全ての牛が黒くなる真っ暗な闇だみたいなさ。
なんで絶対者っていう区別のないものから、区別のある我々の現実世界が生まれるのかがわからんみたいな話があって批判されて、
やっぱり絶対者に行き着くんだけど、結局それが挫折するみたいなさ。
そういうふうな話として、フィヒテとかシェリングっていうものも捉えてたかなって思うんですよ。
確かに前回までそうだったもんね。カントが出した宿題に対して、フィヒテとシェリングがそれぞれ回答を出したけれどもね、みたいな感じだったもんね。
そうなんです、そうなんです。
それを乗り越えたというか、その先に行ったと言われるヘーゲルさんなんだけれども、
そういう意味では絶対者みたいなものだよね。
この世界の根本にあると言われているものとか、まさにそれを突き詰めて考えるとぶち当たるものっていうものを、
どんなふうに捉えたんだっけっていうことをお伝えするのか、
ドイツ関連のカントからやってきた流れの中でいくと、結構わかりやすいというか、
なるほど、ヘーゲルはその問題にこう答えたのね、みたいな感じが伝わるのかなーなんて思ったんですよね。
答えてるんだ、ちゃんとそのへん。
答えているというか、別の世界観を作ったってことらしいんだけど。
前回のシェリング後期みたいな話だね。
そうそう、ほんとそうです。
過去のやつを全部否定して、消極哲学と積極哲学になったみたいな話をしたと思うんですけど、
後期シェリングに合わせるとヘーゲルも乗り越えられるべき消極哲学なのかなとは思うんだけれども、
とはいえヘーゲルがやろうとしたことって、絶対者っていうものを立てたときにどうしても陥る、
それって何なの?とか、その絶対者と僕ら現実の世界ってどう結びつくの?っていう話。
これはプラトンのイデア論から続く大きな問題なんだけど、
真のイデアみたいなものがあってさ、現実世界に姿があるのかって言われるんだけど、
なんでそれって関係してるの?みたいな。
確かに、それどこから来たの?っていうところも含めてね。
で、プラトンはデミューゴスっていう神様を作っちゃうんだけど、
モクトミーを神で説明するとか、なんかもうよくわからんみたいなさ。
イデアは神ではないんだけど、そういうふうになっちゃうんだよね。
そうだよね、はいはい。
っていうときに、それってどうすんの?っていう問題にある種切り込んだのがやっぱヘーゲルなんだよね。
おー、はいはいはい。
なんだよねっていうか、そういうふうにでも聞い取れるんだよね。
っていうところが。
すごい話はね、そう聞くと。
ヘーゲル、体系的にちゃんとまとめたって言ってたのに、
その聞い取り方で全然違うみたいな。
もしかしたら聞い取らざるを得ないみたいなさ。
すでに深みみたいなものを感じるよね、なんかね。
本当にそうだよね。
なんかこれ、もしかしたら3年前にも言ってるかもしれないんだけれども、
やっぱりそのね、読んだ本の福田さんとかでもやっぱり30年、
自分の白紙論文でもヘーゲルを書いて、
あそこからずっと研究しすぎて30年経ったけど、
ヘーゲルのこと分かんないとかって書いてるわけよ。
はいはいはいはい。
だから前回僕、雑談でさ、
ちゃんと理解できてないのにみたいなこと言ったと思うんだけど、
やっぱりそれもおこがましいよねっていう話に結局戻ってくるんですよね。
なるほどね。
そう、ただなんかね、2、3週間で頑張って読んだとはいえさ、
本の4、5冊ぐらいなわけですよ。
人がね、分かった分からないとか言ってるのはもう、
払いたいわみたいな感じをヘーゲルのね。
なるほど。
だから逆にあれだよね、一周回ってというか、
はやとが自分は哲学をちゃんと分かってもいないのに、
あとはこのラジオでそれを披露することがおこがましいと思っていること自体がめちゃくちゃおこがましいっていう話になったっていう話でしょ。
そうですそうです。
当たり前だろうっていうね。
当たり前だろうって、何言ってんだっていう。
そういうのを思って、なんか恥ずかしいって思いましたっていう感じなんですけど。
いいんじゃない、それはちょっといいんじゃない、
悟りというとちょっと大量だけれども、
あとはあの、前教えてもらった苦気収蔵の諦めみたいなさ、
そういう魅力が生まれてくるんじゃないの。
まあそうなったらいいなっていうことも含めてね、ちょっと日々勉強だなと思っているんですけれども、
なので今回ね、そのヘーゲルの思想というよりはヘーゲルが絶対者っていうものをどう捉えましたかっていう話を、
まさにそれをやってるのが実は、まさにって言って覚えてらっしゃるからなんですけど、
ヘーゲルの首長に精神減少学っていう本があるんですよ。
精神減少学。
なんか覚えてる?
ヘーゲルの絶対者概念
なんかお勉強した気はするよね。
そうね、ヘーゲルといえばみたいな本なんだけれども、
その話がやっぱりヘーゲルの中の絶対者感というか、
どういうふうに我々は絶対者とか世の中の根本原理的なものに向き合えるのかみたいな、
そういうものを説いた本ではあるんだよね。
なのでちょっと本質、本数的にはその精神減少学を読んでみるというか、
ちょっと頑張って周りだけでも理解してみるみたいなことを、
今回のヘーゲル編としてはやろうと思ってまして。
前回の弁償、前回って以前ね、3年前にやった弁償法のあたりは、
精神減少学とはまた違う部分だったり、
違う聞い取り方になってるの?ヘーゲルに対して。
そうだね、なんか精神減少学の後にいろんな体系だった本を書いていて、
大論理学とか小論理学とかいろんなものがあるんだけれども、
そっちを見通したときに、ヘーゲルって弁償法的な、いわゆる否定の力とか、
対立的なものを使ってるよねっていうふうに捉えられるのが弁償法なんだよね。
ああ、そうか。3年前もあった気がするな。
バシッとそれをやってるっていうよりは、後から見るとそういう手法を使ってたよねぐらいの感じみたいな。
そうそうそう。
そうなんです。もちろん今回やろうとしている精神減少学の中でもそういった発想はあるんだけれども、
別にヘーゲルが弁償法という方法を見つけて、世の中を言い取りましたとかってことではないから。
ああ、なるほど。
そういう意味で今回弁償法が入る余地がなかったっていうのはそういう感じ?
はいはいはい。入る余地というか、普通に本の中で使ってるよねぐらいの感じってことかな。
そうそうそう。考えの中でっていう。
なるほど。
なので、臭いは感じるとは思うんだけども、あえて今回ヘーゲルが弁償法というものを使ってみたいな話ではなくて、
絶対者っていうものに対して精神減少学っていう本の内容を使いながらちょっと味わってみようとか、
これまでの関東、シリング、ヘーゲルとか、あるいは元々その前のロックとかやったじゃない?ヒュームとか。
人たちとの違いってどこにあるんだろうっていうところを、違いと繋がりでないとはいえ過去のものをもちろん引き継いでるから、
そういうものがどこにあるんだろうねっていうのをちょっと見ていきましょうよというふうな感じで思っております。
カントとフィヒテの影響
前回もどこかで話したんだけれども、僕2、3年前にこの本、精神減少学って挫折してるのよ。
はいはいはいはい。
何言ってるか全然わかんないし、序論って言ってるのに序論が永遠に終わらないみたいな。
そうなんだ。
でもあるんだけど、それも解説書とか読んでると、ヘーゲルはその序論を最後に書いて、
しかもそれがわりとヘーゲル自身のその当時の思想を全体を説明しようとしてるみたいな話があって、
だから本来序論ってその本に入る前の前書きというか、前提をお伝えしますよっていうふうな感じじゃない?
でもこの精神減少学の序論は、そもそも全部がわかって初めてわかるみたいな。
後書きがうまく書けたから最初に持ってきちゃったみたいなね。
そう、そんな感じもある。
その用紙だよね、いわゆるまとめみたいなものを最初に序論って掲げてるからわかりにくいんだよみたいな話もあって。
なるほどね。
そうそうそう。で、ちょっと腑に落ちたとかもある。
あれだっけ、昨日の旅のさ。
渋沢圭一さん?
だって後書き変なとこに書くの。
あれですね、電撃文庫っていう、全然違う現代の作家の人ですけれども、
この人は昨日の旅っていう本で後書きを変なとこに書いたりとか、
あとは逆転してるね、最初の方に結末を書いて、最後に導入を書くっていうお話の作り方をしがちだね。
そうだね、そうだね。
前書き後書き的なところで言うと。
そうそう、今それが浮かんだ。
そうだよね。しかし、昨日の旅を読んでる方がどのくらいいらっしゃるかわからないですけど、あれも面白い本なので良かったと思いますが。
今回、第2回目ヘーゲルっていうのもあるんだけども、ヘーゲルの一階とか経歴を一旦バッサリ切ろうと思って。
今回第1回ではですね、改めて絶対者みたいなところをくくりでいたときに、このカント・フィフテ・シェリングってどんなことをしたっけっていうのをちょっとおさらいをさせていただいて。
次回第2回以降から精神原初悪の内容に入っていって、そんなことを言おうとしてたんだろうなっていうのをみんなでちょっとずつつびをしていくみたいな。
つびって言ったのは、精神原初悪自体が、いしきっていう主人公がいるんだけど、いしき君がいるんだけど、彼の挫折と成長のたびだって言われてるんですよ。
本当そんな感じなので、僕らもそれを一緒に追体験してみようぜみたいな。そんなことを思ってますっていう感じだね。
おーわかりました。前回というか3年前のことはあんま覚えてないけれども、ヘーゲルの人となりはたぶんそのときにちょっとちらっとやってるはずだよね。
ちらっと触れてるはず。
了解了解。気になる人とか思い出したい人はそっちご参照くださいみたいな感じだね。
見ていただくか、もうWikipedia見ていただくかって全然違うと思います。
それでも十分っていうね。
大丈夫でございます。
わかりました。
では早速いってこうと思うんですけど、まずカントですよね。僕らのカントから始まってます、ドイツ関連論はね。
これも何度も話してるんで、さすがに耳にタコだよって感じもあるかもしれないんですけれども、
カントは何をしようとしたかっていうと、やっぱりいわゆる経験とかで、いわゆる外部の世界っていうものと人間の理性とか認識する力があったときに、
それってどういうふうに関係してんのっていうことを考え尽くしたというか、そこに一定の枠組みを作った人なんだよね。
あれだもんね、デカルトの合理論とロックとかヒウムとかの経験論とかイギリス経験論、それをまとめたというか、それを合わせて乗り越えたみたいな感覚ってことよね。
そうですそうです。
今の話が。
そう、まさにそれですね。
カント自体は、いわゆる外であるものをそのまま取り込んでるんじゃなくて、人間のほうに認識の枠組みっていうものがあって、時間とか空間とか、その中において僕らはその世界というのを経験してるんだよと。
逆に言うと、自分が持ってる枠組みの外にあるものというか、それはそもそも認識もできないし考えることもできないよという感じで、人間の理性には限界があって、その認識できないものをもの自体とかって言ったわけだよね。
はいはいはい。
ものそのものみたいな話。
逆に言うと、人間の理性には認識できないものがありますっていうことをカントは認めちゃうわけよ。
だからその観点でいくと、絶対者みたいなものとかも言葉で言うこともできるかもしれないし、もしかしたらいるかもしれないけど、人間の理性の範囲外だから、それってやっぱり認識もできないし、することもできないよねと。
うんうんうん。
っていうところで、そこに線を引いちゃうんだよね。
ある種でもそれはそれでよしというか、認識できるものの中で僕らはやっていきましょうというのはカントだったんだけれども、やっぱりそれじゃ満足できないとか、でもそれだと結局世の中のことわかんないじゃんってやっぱり不安になっちゃうんだよね。
あー、そっかそっか。諦めんなよカントっていうね。まだまだいけるぞっていう人がいるわけだね。
いけるぞと。そうそうそう。物自体とか言って納得した気になってんじゃねーよっていうふうな話があって、それをやったのがフィヒテでしたと。
フィヒテさんは物自体っていうふうに分けちゃったものは、やっぱりそれをなんとかしたかった。要は、いわゆる自然、世の中のことと自我っていう自分たちのことっていうのが分かれちゃった、カントによって。
うんうんうん。
それと統一できないのっていうことでやっぱり取り組んだわけなんですよね。
はいはいはい。
いわゆる主観と客観ってことを分けると、物自体っていう、いわゆる自然とか客観の方に認識できるものが残っちゃうんだけど、
そうじゃなくて、全部自我から始めましょうと。これも何回も言ってると思うんだけど、フィヒテは自我が最初ですと。
自我が自己を定律します。そこに非我が生まれますって話をしたと思うんだけど、そういうふうにすることで、全部自我だから。
世の中も全部自分の主観というか、そういったもので取られるじゃんみたいなことを言って、そこに物自体なんてものはないんだっていうふうに言おうとした。
はいはいはい。
で、その自我っていうものがさらに絶対者みたいなものから生まれてきてるっていうか、その奥にあって、この絶対者っていうものがいわゆる世界っていうものを生み出していくんだよぐらいの話をする中で、
フィヒテっていうものはこの世界っていうものをまある種一つにまとめてみようとしたんだよね。
そんな怖いものないよっていうね。物自体みたいなものないよっていう。
そうそうそうそう。ですです。なので、フィヒテは自我の展開だよって言うんだけど、そうすると結局本当?ってなるわけだよね。
うん、確かに確かに。
で、あらゆる世界が事故って言われても綺麗な気もするけど、さすがに自分と全く見たこともない土地の一本の生えた木とかさ、宇宙に輝いてる星々とかがひとつ言ったらロマンチックだけど、ちょっとさすがに無理じゃね?みたいなものもあるわけだよね。
いやーそうだよね。そうは言われてもこの不安なんか消えないんですけどっていうのが繋がらないんですけど。
そうそうそう。別の不安が。そうそうそう。生まれちゃいまっせっていうところもある中で、シリンが出てきますね、今度は。
シリンが前回やったので覚えていただいてる方もあるかなと思うんですけれども、やっぱりその死体、自我の方だけじゃなくて自然だよね。
その世の中客観の方にも、むしろそっちの方に主観というものを生み出す力があって、自然のいわゆる生産性を生み出していくっていう力が果てに僕らの主観というものが生まれているから、
もちろん自然の方にこそ根源的なものがあるんだということを言って、主観と客観とか自我と自然が分かれているっていうものを統一しようとするわけだよね。
そうすると、物自体みたいなものを考える必要がないというか、そもそも自然と主観っていうのは一体だから、
自然の発展の中で主観がつかんだものっていうものがちゃんと見えている。要はその奥にさらによくわからない物自体とかっていうのを想定する必要はなくって、
ちゃんと僕ら自然なものと、僕らみたいな種の理性的なものっていうところはちゃんと同じ根っこを持っているんだというふうにして、物自体みたいなものの恐怖を乗り越えようとするんだよね。
シリングによる自然と主観の統一
そういう意味で同じだからねっていうのを自然側から言うとより納得感というか、感覚に近いよねみたいなふうに言えると思ってたってことね。
そうそう、思ってた。そこはそれで全然OKなんだけど、ただやっぱりじゃあなんでこれって一緒なの?要は自然と理性とかって一緒なの?とか。
でもじゃあもともとが一緒なのになんでこんなに僕らの世界ってごちゃごちゃしていろんなものが対立しているように見えて、こんなふうにある種、なんだろうな、矛盾だらけの穢れた世の中なの?みたいなさ。
はいはいはい。
そんなふうになっていくわけなんだよね。
そうだね、もっと生きやすい世の中でいいんじゃないんだよね。その自然が一つだからっていうね。
あえてなんでこんなバラバラにしちゃったの?っていう話があって、やっぱりそこに答えられなかったんだよねっていうのが前回のシェリングの話だったと思うんだよね。
はいはいはい。
シェリング自身は後期シェリングっていうところで、そうじゃなくてそもそものあり方とかね、存在するとはどういうことかっていうふうな問い立てることでそれを乗り越えとするんだけれども、やっぱり神だったりとか絶対者みたいなものがあると。
自分たちとは違う存在としてあるってやっぱり言った瞬間に、やっぱりじゃあなんでその絶対者から僕らみたいなものが生まれたのよっていう。
さっき言ったそのね、イディアから僕らの世界ができるのはなんで?みたいなそういう繋がりをやっぱり証明する、説明する。
ここの難しさっていうのがやっぱり陥っちゃうんだよね。
はいはいはい。なるほど。こんなに頭良くてもぶつかっちゃうんだね、そこにはね。
そう、どうしてもこれはぶつかってしまう問題で、その絶対者とかそのある種、自分たちの及ばない何かすごいものを想定しようと思うと、
なんでそんなすごいものがこんな乱れた世の中を生むんですかとか、そんなすごいものから生まれた我々って一体何なんですかっていう、そこの問題にやっぱりぶち当たっちゃうんだよね。
はいはいはいはい。
そこから話がありますよっていう混乱の中において、ヘーゲルっていうものが出てきますよと。
出てきますって言っても、前回このシェリング界でもおっしゃった通り、ヘーゲルのほうがシェリングより年上なんだよね。
いやーそうだったよね。しかも大学同じ部屋で過ごしたっていうね、シェリングと。
そうそうそうそう。そうなんです。
ヘーゲルも大学ちゃんと行って勉強するぐらいなので優秀なんだけれども、飛び急したシェリングみたいなことに比べれば全然普通というか、一般的な学生ではあったし。
はいはいはい。
もちろん哲学へのすごく深い理解はあったけれども、別に我が国としてめちゃめちゃ優秀な教授になりましたとかっていう感じではないんですよ。
逆に言うと、フィッシュとかシェリングっていう同時代にめちゃめちゃすごい哲学者というかそういった発想が生まれる中で、それを吸収しながら自分の考えをまとめていったみたいな人でもあるんですよね。
彼は生まれたのが1770年というところで、シェリングからすると5年先なのか。5歳年齢という感じなんですけど、彼はフィッシュテのことも理解しつつ、シェリングも理解しつつ、シェリングに乗っかってフィッシュテを批判するっていうことだったんだよね。最初は。
ただやっぱりシェリングも違うっていうふうになって、ヘーゲルは自分なりの考えを作っていくんだけれども。何かっていうと、やっぱりヘーゲルに言わせるとっていうふうに書いてるのもあるけど、本当とかわかんないんだけども。
やっぱりヘーゲルの考えからすると、フィッシュテとかシェリングも、あるいはカントもそうなんだけれども、頭で考えすぎやしませんかと。
要は完全論でそういうものなんだけれども、僕らがいわゆる理性であったりとか、頭で考えたものを使って世界を説明しようとするよねとか、いわゆる啓蒙思想と言われるものも、一旦僕らがどんな状況にあるかは置いといて、理想的なものをまず想像しましょう。
そういう理想の100%の完全な世界みたいなものを、それこそ自我っていうものが全部生まれてくるとか、自然っていうものはその奥にある絶対者ってどころか分かれて出てくるとかっていうのって、現実がどうあるかは知らんけれども、おそらく世界って完全な状況ならこうなってるはずであるっていう、一種の仮説であり妄想なんだよね。
それに確からしい、そうそうといえばそこに集まってくるんだけれども、本当に現実そうなってますかっていうところと比較したときに、あれ?でも自我に落とし込めない神のひらめきみたいなものとか、芸術家の美みたいなものもあるしとか、
絶対者っていうものにまとまらない、分かれた世界ではあるけどっていう、比較をしたときに、なんか違くない?ずれてない?思ってると説明できてなくない?っていうふうなことにぶち当たるんだよね。
はいはいはい、なるほど。そこにある意味逃げなかったみたいな感じだね。
そうそうそう。逃げなかったし、やっぱりそれってあくまでも理想であって、現実とは離れてるよねっていうことを定義で感じるんですよ。
これはちょっとだけ現実世界の話をすると、フランスとかのときに触れたと思うんですけども、フランス革命みたいなものがあったときに、自由だよね。
台湾の王権で王様とかの貴族っていうものが全部権力を持ってるところから、民衆というか人たちに権力が移っていって、我々は自由になっていくんだと。
そういう流れの中で、哲学とかっていうものも影響を受けてたって話をしたと思うんですよね。
はいはい、それこそ理想とかだよね。
そうそうそうそう。そこまで理想に燃えていくんだけれども、現実だったときに、当時ヘーゲルが1770年に生まれるんですけれども、
1790年代になると、実際その王政が倒れて政変が行われるんだけれども、フランスで。ロベスピエールとかって聞いたことないかな、歴史の授業で。
あるある。
ある?いわゆる独裁者、独裁政治を生んだとかって言われてるんだけれども、そういうふうに政治の体制が変わったのにもかかわらず、めちゃめちゃ独裁者が出てきて、めっちゃ粛清するんだよね。
まあそうだよね。民主党自由を掲げて王様を処刑したというか、倒したのに、その自由を凶暴してた人のリーダーがなんかみんな粛清始めちゃったんだけどみたいなね。
そうそうそうそう。なんか僕もちゃんと知らなかったし、ちょっと付き合い基本の知識なんだけど、裁判とかの時に被告人っていうのは、起訴された側に弁護を認めませんみたいな法律を作って、起訴されたら終わりみたいな。
はいはい、怖いね。
で、1ヶ月ぐらいで1000人以上を処刑するみたいな。
そんな人数が。
そうそうそう。
というのが1794年であると、ヘーゲル24歳の時なんですよ。
若くしてフランス革命とか自由みたいなの燃えてた。ヘーゲルもそうだらしいんだけれども、その20歳ぐらいの時に、いやなんかおかしいぞとめちゃめちゃ処刑されて、めっちゃ不自由じゃんみたいな。
なんでこんなことになっちゃったんだっけ。理想を求めて自由っていうものを求めて革命を起こしたはずなのに、現実すげえなんかもう独裁者にやられてんじゃんみたいな感じになってるわけなんだよね。
そうだね、こんなはずではっていうね。
そうそうそう。やっぱり矛盾があって、なんかおかしいなと。例えば哲学とか見ても、理想を追求して頭の中で考えた、こんな世界は素晴らしいって言ってるんだけど、現実はやっぱりちょっと違うよねっていうことに、やっぱりヘーゲルさん気づくわけなんですよね。
なるほどなるほど。
哲学はあくまでも刑事状学的なこととは、やっぱり現実を説明しなきゃいけない。現実に何か貢献するものであるってなったときに、ここをどう捉えるか。
まさにここに矛盾があるわけだよね。自由を目指した革命の理想と、処刑が行われてる現実っていうものの矛盾があったときに、これをどういうふうに捉えるかっていうことに、ヘーゲルさんって問題意識を持つんですよ。
うわー、めちゃくちゃリアルな問題だよね。隣の国でね、そんなことがあると。
そうそうそうそう。これも自然の、歴史の必然というか、実際そのヘーゲルやっぱり歴史っていうものをそこですごく捉え直すんだよね。
実際、哲学っていわゆる普遍的なもので、どの時代にもどういうふうな世界にも適応するものだっていうふうな発想もあるんだけれども、そうじゃなくてヘーゲルは何個も哲学があるとは言えないんだけど、歴史の発展とともに哲学というか、もっと言うと絶対者みたいなものも変化していくんだと。
つまり世界の根底に理想の絶対者があって、それに至るみたいなことが素敵なんじゃなくて、絶対者的なものもその歴史の中において変化して動いていって、成長していくというか展開していく。
自分自身というものを世界に表していくようなものなんだっていうふうに捉えるんだよね。
ここが絶対者さんの大きな違いというのがあって、それまでは絶対者っていわゆる変わらないもので、ある種この世を越えた絶対的な節理みたいなものだったんだけれども、
そうじゃなくて絶対者っていうものもこの世界、この歴史の中において現れているんだと。むしろそれのことの関わりなくして、ある種悲願というか、全く関係ないところにあるようなものじゃないんだよっていうふうにヘーゲルは捉えるんだよね。
ここに絶対者っていうものは、つまり動いていくものが変わっていくものなんだっていうふうなものがあって、なんかおかしいじゃん。絶対者って言われたら変わらない普遍、まさに永遠的なものって感じがするんだけれども、そうじゃないんだよっていうことをヘーゲルはここで打ち出していくんですよ。
理想と現実の矛盾
まあそうはね。さっきハイトがあらわれみたいに言ってくれたからかもしれないけれども、そういうふうに捉えると矛盾はしないよね。絶対者であることと絶対者が変化していくことって、意外と矛盾しないかもっていう感覚はある。
それはね、もしかしたら僕らと現代的な関係に近いからかもしれないね。やっぱりどこかに完璧なものがあるっていうものよりは、変化の中で良くなっていくとか、それこそプラグマティズムの時に真理っていうものはその時々で変わっていくものだみたいな話をしたと思うんですけど、そういう真理感にちょっと近いんだよね。近いというか、ヘーゲルの方が先だから。
そこにやっぱあるんだよね。
なるほど、そうだね。だから絶対的なものがあってもいいけれども、それを今回のヘーゲルの聞い取り方と似てるというか、話と同じだと思うんだけど、
その絶対者をどう聞い取るかとか、絶対者がどう現れるか、どの時代にどう現れるかによって、うちらの捉え方としての絶対者は変わるよねっていう風に捉えると、その絶対者は絶対者であるっていうことと、絶対者が変化し続けるみたいなことは矛盾しないなっていうね。
今のはめちゃめちゃいいポイントで、絶対者があるっていう話と、僕ら人間がそれをどう認識するかっていう話なんだよ、まさに。
あ、そうなんだ。
で、これが面白くて、要は人間が認識力が足りないから絶対者っていうものを理解できないんだっていうことが、いわゆるプラトンとか古代ギリシアからのテーマなんだよ。要は人間の認識力を上げて、実学力を上げて、それが高まれば高まるほどイディアに近づくみたいなさ。
はい、あの理解力増すみたいなね。
そうそうそうそう。それを感想っていうふうに言うんだけども、本当にそうなのかと。要は人間の理解力が高まれば、果たして絶対者では見えるのかとか、絶対者って人間、要は我々理性を持っている存在との関係って何なのっていうところが、
まさにこのヘイゲルに向き合った問題なんだけれども、これ面白いのが、次回から精神現象学っていうものを通じてそれをやっていくんだけれども、精神現象学においてはヘイゲルは絶対者っていうものを分析するんじゃなくて、
この絶対者、最終的に絶対値って言うんだけれども、ヘイゲルは。それの初期段階、要はレベルゼロの段階っていうものが意識ですって言うのよ。意識。この意識が何かっていうのをまた次回ちゃんと言うんだけど、
意識と絶対値の分析
その意識さんの、意識さんという主人公が、さっき旅って言ったんだけど、いろんな経験を経てその絶対値っていうものに至るその物語っていうものを書いてますっていう感じなんだよね。
今いきなり意識出てきたなって思ったけど、今日出てきてたね、精神現象学の主人公だったね、意識君。
そうです、意識君。意識とは何かって言わないんだよね、ヘイゲルは。意識とは何かではなく、意識というものをレベルゼロの状態で書いたときに、最初のスライムっていうモンスターに出会うときっと戦うであろうっていう話をするから、あくまでもレベルゼロの意識はねっていう話をするんだよね。
だから、僕らが意識とは何かとか、絶対値とは何かっていうものを期待して読んでしまうとすればずれがあって、もうすでに。
それは実は兄貴が言ってくれた、僕らが絶対値を認識しようっていうふうにすると、もうその時点ですごい入れ子構造になってるわけなんだよね。
つまり、僕らの存在というのは絶対値があるとしたら絶対値から生まれてきているはずじゃない?僕らという存在も。
生まれてきた存在が絶対値を理解するという営みって、もうどっちが先なのみたいな話になっちゃうわけよ。
っていうことがあって、それってすでに後の話なんだよね。僕らが生み出された後の話だから。
その手前として、レベルゼロの意識さん、意識君っていうものから考えましょうよっていうのが、ペーゲルがやったことなんだよね。
なるほどね。その世界観はまだわかんないけど、生まれ前の意識君って言われたら、想像が無参しちゃったんだけど。できないイメージがなくなっちゃったんだけど。そこは次回だね、おそらく。
そういった絶対値との違いは、カント、フィヒテ、ペーゲル、カントはそれを理解できないもの、認識は外だって置いたものを取り戻そうとしたフィヒテ・シェリングという人がいたんだけど、
それはペーゲルからすると、固定的な絶対者、要は永遠不変で人間とは全然違う次元にいる絶対者っていう、そういうふうな枠組み自体が間違ってるんだっていうことを言いましたよっていうのが、今回お伝えしたかったことなんだよね。
そういうふうな中でペーゲルは何を言おうとしてるのか。しかもその絶対者を説明するんじゃなくて、レベルゼロの意識さんから出発するって何なのみたいな。
本当に何なのだよ。
そういうことでペーゲルの話っていうものをしていきたい。ペーゲルは絶対者っていうものを何と表現したのか説明でもないんだよね。やっぱ表現なのかなっていうことを次回以降見ていこうと思ってますっていう感じでね。
はいはいわかりました。次回以降その意識の話を楽しんでいくというところを楽しみにしていきたいと思います。では次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。