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はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
シェリングの自然哲学の限界
はい、今回シェリング第4回ということで、自然哲学に続いて、同一哲学という話に入っていくというところでした。
引き続きシェリングではあるんですけれども、前回まで、シェリングというところが、それまで機械的とか、ボタンを押したらただ動くみたいな自然というふうに捉えられていたものを、
むしろそこにも、何だろうな、意思ではないけれども、何かを生み出そうとする力があって、
その力が発展していくと、それは精神とか自我みたいな、人間的なものも出てくるんだという話をしたと思うんですよね。
ただ単純に哲学的なものだけじゃなくて、科学だったりとか芸術みたいな、当時の最先端の知識みたいなものを引っ張ってきていたことで、
そういった形にも受け入れられていったんですよ、みたいな話を前回したかなと思っております。
はい。ちょっと兄貴も言ってくれていたんだけれども、何かちょっと物足りないなというか、
自然哲学が自然と精神とかを一つにつなげたということはよしとしても、
だいたいなんでそんなことができるのとか、その根源みたいなものに捉われちゃうんじゃないっていう話を前回してくれたと思うんですよね。
そうですね。昔、ハヤトの説明に満足しなかったのか、シェリングの自然哲学に満足しなかったのかわかんないんだけどねっていう話を前回の後半で教えてもらったみたいな感じだったね。
そうですそうです。実際シェリング自身も自分の自然哲学に満足しないわけですよ。
哲学者としてもっと体系的なものを作らねばならぬ。もっと言っても根源とかで、そもそものなんでそういった自然と精神っていうものがつながっていくのか。
発展していって最終的に精神とかが見えてくるっていうことはまあいいよねと、そういう哲学があるっていうことはなんとなく伝わったよねと思いつつも、
どこに根源があるって話はやっぱり欠けてるなってことは自覚はしてたわけなんですよね。
まあそうだよね。仮説とかアイデアは素晴らしくても、それをある程度証明というか、ちゃんと証明でしたいよねみたいな話だよね。
そうですそうです。もっとシェリメーカーで解き明かしたい、解き尽くしたいっていうものがあると思うんだよ、哲学者として。
ところからやっぱり次の同一哲学。これがある種、中期っていうよりは初期、自然哲学の完成形っていうふうに言われてる言葉があったから、
自然哲学の発展ではあるんだけれども、自然哲学そのものではないみたいな感じらしいんですよね。
その中で同一哲学っていうものと絶対者ですね。やっぱりそういった人種を超えた存在みたいなものが出てくるんですよ、
よくも悪くもね、みたいな話っていうのを今日はしていこうと思っております。
同一哲学の新たな視点
もうXは絶対出てくるね。
そうなの、根源Xみたいなやつね。
それもやっぱり人によっていろいろなんですよ。同じ絶対者っていう言葉を使ったとしても、
それっていわゆるプラトンで言えばイディアみたいな、前のイディアみたいなものだし、
あるいは例えすると不動の道者っていうものがあったりするんだけど、
そういうことは全然違うような発想ではあったりするんで、
いわゆる同じような意味とか絶対者っていう言葉を使ったとしても、
グラデーションがあるなとか、すごい違いがあるなとか、
そういうものを今回味わっていただけるといいのかなと思っておりますという感じですね。
はいはいはい、わかりました。
それでは早速なんですけれども、自然哲学の限界みたいな話をもう1回お伝えするんですけれども、
これも何度もお伝えしてしまってるんですけれども、
自然っていうものは、いわゆる発展する力、生産性とかですと思うんですけれども、
これを持っていて、自力から電気とか電気から科学、科学から生命みたいな、
そういうものが順次発展していくよってことをお伝えしてきたかなと思います。
はいはいはい。
そういうところから自然と精神っていうものは地続きであって、
大きな目で見ると統一されていくんだっていうところが、
カントが残した自然と理性とか精神の分断っていうものをつなげていきますっていうふうなところへの
シェリングのひとまずの回答ではあったんだよね。
はいはいはい。
でも、つながっているという事実は、
大沢さんに伝えられるとしても、
そのつながっているところに働いている力とか根源とか、
そういうものってなんじゃいっていうものがやっぱりあるわけなんですよと。
まあそうだよね。
っていうところに繰り返し立っちゃうんだけど、それがすごく大事な問題点で、
それをある種乗り越えようとした、要は自然と精神っていうものを、
よりくっつけた、もっと言うと一つのものにした、
っていうことがこの同一製作の同一っていうふうな意味なんですよ。
やっぱり、これまでのシェリングは、
自然っていうものが発展すると精神になるよっていう、
そういうグラデーションを考えていたんだけれども、
いやいやそもそも自然と精神っていうのは一つだっていうふうに言っちゃうんだよね。
これ結構暴論で、暴論っていうか、もともとカントンの宿題は、
自然と精神が分かれていますじゃないですか。
分かれているものを一つにしよう、くっつけようというふうに頑張ってきたのに、
いやいや実はもともと一つだからって言っちゃうんだよね。
まあまあ、もともこもないというか、確かに暴論だね。
俺がそうと言ったらそうなんだ、みたいな話ですね。
もちろん問題は解決してはいるんだけれども、
マジで?っていう感じで、やっぱりどうしてもなっちゃう部分もあるんですよ。
本当にそこまで言っちゃっていいの?っていう。
ピコ太郎のPPAPみたいな話。
本当にそう、本当にそう。
パイナップルとペンは違うんだけどね、みたいな話ですね。
うーんって言っちゃった。
ほら一つみたいになっちゃった。
パイナップルとペンになっちゃうじゃん、みたいな。
その強引さ、うーんの強引さがあるわけよ、ここには。
そうだね。
こっちも、一つってなるよね。
一つになったけど刺さったけどさ、みたいなね。
そうそうそう。でも面白いね、まさにそこだ。
やっぱ兄貴面白いね、本当にそうだわ。
同意哲学はピコ太郎です。
でも、もうちょっと言葉で説明してるのがあるのでやっていきますっていう感じなんですけど。
ちょっと前回も少し触れたんだけれども、
シェリングの自然哲学は、当然フィフテっていう文字のある種反対ですよっていうところで言うと思うんですけれども、
もともとは、でも実はシェリングは、大学で言った通りフィフテの哲学っていうものをめちゃめちゃ勉強して、
それを自分の出発点にしてるんですよね。
はいはいはい。
自我から始める、もっというと精神の方から始めて自然を説明するっていうフィフテと、
自然の方から始めて精神を説明するシェリングっていうのは、
基本的に同じような共通項から本当は出ているんですよ。
なので、シェリング自身も、実はこれって、
ちゃんと一つにできるというか、
自然から始めるか精神から始めるかって分かれちゃってるんだけど、
これはむしろ統合するような思想とか哲学があるんじゃないかっていうことを考えるんだよね。
おお、はいはいはい。
フィフテの自我の哲学と、自分が作った自然哲学っていうものをさらに統合していくみたいな視点がここに出てきます。
まあそうだよね、確かに確かに。
絶対者の存在とその意義
フィフテの哲学っていうテーブルの上での二言論的な話に過ぎないみたいなところがあるんだね。
そうなんだよね。自我か自然かってなっちゃうとやっぱり分かれちゃうから、
それをより一個にしていきましょうと。
そうするとどうなるかっていうと、自我も自然も一つだよねとか、
主観と客観、フィフテでいうと自我と非我だよね。
というものも実はもともと一つなんじゃないか。
これ面白くて、要は自然から発展して精神が生まれるんだったら、やっぱり自然が先で精神が後だし、
自我があって非我が生まれると、やっぱり自我が先で非我、自然は後っていう前後関係があるんだけど、
そうじゃなくて、そもそも大元では自我も非我もとか、自然も精神も一つなんだっていうことを打ち出していくんだよね。
この自我も非我も、自然も精神も一つだってものをまとめて絶対者っていうふうに呼んでいきますと。
これはその絶対者のシェーディング的な定義なんだけれども、
これが面白いのが実は絶対者って存在なんだよね。
ちゃんと存在なんだ。
そう、絶対者という存在とか、絶対者という在り方っていうものを語れるようになりますと。
うわー、探しに行かなきゃダメになっちゃうじゃん。
いや、ほんとそうなんだよ、そうなんだよね。
ここがミソで、我々の同一観念論っていう観念というのは、つまり理性とか自我の働きによって世の中を捉えていくっていう話だから、
別に存在の話はしないんだよね。
つまり自我はどこにありますかとかっていう話って別にあんまり関係なくって、
そのピクテの場合はね、自我というものが働いて、そこから非我とかが生まれて存在になっていくって話だから、
別に自我って何ですかとか、究極的なものってどこにあるんですかっていう問いは別になくてよかったんだよ。
だから、経時上であることがみんな納得済みだったみたいな。
そうそう、そういうふうな論だから。
そこを問うってことは別にそもそも問題ではないっていうふうな立場にいられたんだよね。
自然もあるし、自然とは何かっていうとめちゃめちゃ難しいんだけれども、
普段の僕らの感覚からしても自然って僕らを取り囲んでいるものがあって、
それが歴史的なものも含めて発展してきたときに、磁力とか電気とかっていうふうになっていくよねみたいな、
そういうふうな形で、別に自然っていうものはそこにあるものというか、
そういうものとしてある種担保しておけたんだよね。
ここにいってシェリングは絶対者っていう存在を立てますと。
そうするとその絶対者っていうものは主観も客観も統合されているとか、
自然と自然と精神でも一つであるっていうふうな、そういうふうな領域としてある存在だっていうふうに言うんだけれども、
それを立てると何がいいか、メリットとしては当然、
精神と自然っていうものは別にもともと一つであったから分かれていなかったんだとか、
ある種、僕らはそれをこれまで分かれたもの、分断されたものとして感度から引き継いだけれども、
そもそもそんな問題なんてなかったんだっていうふうに言えるのはすごいメリットなんだよね。
つまりフィヒテと自分の自然哲学ってもう実は分かれてなくて同じように説明できるんだっていうふうに言えるんだけど、
デメリットはさっき兄から言った、でその絶対者どこにいるのっていうふうな問題が出てきちゃうっていう。
はいはいはいはい。
こういうところにシェリングは突っ込んでいくんだよね。
シェリングの哲学の探求
いやーそうだよね、その絶対者から、じゃあその自然、じゃあそこら辺の草花ができる様子を見せて?とかね。
そうそうそう。
人が生まれる様子見せて?みたいな話になっちゃうよね。
うん、いや本当にそういうことなんだよね。
これも先ほど言ったんだけども、実はシェリングはそれをやったと言うんだけども、
どう考えてもやりきれてないんだっていう感じが定義によって批判されちゃうんだよね。
はぁはぁはぁはぁ、どうやったんだろう、そうなんだ。
はい、なのでちょっと同一哲学の話をまずはしていくんだけれども、
根っこにあるのは今言ってくれたストーリーで、主観と客観とか自然と精神っていうものが分からない。
思っていると、分かれるっていう発想自体が後付けのものだから、
根源一体となっている純粋な一つみたいな、そういったものをまずシェリングは考えるんだよね。
へー、はいはいはい。
うん、そういった無分別とかそういったような状態と考えます。
はいはいはい。
で、そうなるとさっき言ったストーリーで、
カントのね、立てた主観と客観とか自然と精神の分裂っていうものはそもそもなかったというか、
そうやって分かれた後の世界の話だから、分かれる前の世界のことを考えていくと、
別にその分なんてなかったよねっていうふうに無に捨てちゃうんだよね。
うんうんうんうん。
なので、まずそれで一つ解けるよね、解けたよねっていうふうな話をするんだけれども、
それっていうのは別にただ思いつきっていうよりは、
じゃあなんでフィヒテの自我の哲学と自分の自然哲学っていうのは分かれちゃったんだろうとか、
なんでその精神と自我っていうのは分かれちゃったんだろうとか、
その一つにできないんだろうってことはやっぱり突き詰めて考えたときに、
いや、これはそもそもそういう分かれてるって認識しているそのあり方に問題があるのであって、
世の中っていうのは本来分かれていないんだっていう、
これがさっき言った認識とか観念っていうことを問題にするんじゃなくって、
そもそもの世界のあり方っていう存在の仕方、
こっちに目線をずらしましたよっていうところが大きな飛躍なんだよね。
難しいね。でもね、せっかくカントが言ってくれたものをどうしてくれるみたいなところもありそうだよね。
でも逆に言うと、それぐらいに認識とか観念とか理性っていう立場で考えている限りは、
その問題は解けないんだっていうふうに、問題の理由をずらすってことはすごく大事なんだよね。
よくアインシュタインの問いを見つけた時点で解けたものだみたいな話があると思うんだけれども、
つまりこの自我と精神をどうくっつけるかっていう問題に向き合っている時点で、
それは問いの仕方が間違っていると。
そうじゃなくて、僕らはなんで精神と自我っていうのを分かれたものとして捉えてしまうのか。
なぜ分かれているのかじゃなくて、なんでそう捉えてしまうのかっていうふうに問うと、
僕らそういった認識を持っているからだっていうふうな話になって、
その認識のレベルじゃなくて存在のレベル?
そうやって分かれてなかったよねっていうところまで引き上げていかないと、
この問題って解けないよねっていうふうに、
その問いの質をずらしたっていうこと自体はやっぱりめちゃめちゃ重要な転換なんだよね。
なるほど。それはズルじゃなくてちゃんと転換なんだね、これは。
そうそうそう。ズルじゃないんですよ。
そういった意味では間違いなく自分の自然哲学っていうものを発展させているし、
より深くその自我と、
より深くその精神と自然っていうものが一つであるっていうことを突き詰めようとした、
その結果では間違いなくあるんだよね。
認識の転換
なるほど。ほうほうほう。
そこのズラシーみたいなところはイメージわっかだな。
えーと、だから、
これは、いわゆるそのデカルトが、
我思うゆえに我ありっていった時点からの、
この哲学回りというか、の宿題みたいな宿題というか、
問いみたいなものを、このシェリングが
一個、ズラして深めたというか、
ルールちょっと変えたよ、みたいなイメージなんだね、これは。
そう。それをちょっとのズレに超えるんだけど、実はそれがめちゃめちゃ大きいよっていう感じかな。
うんうんうんうんうん。
そうすると、それはやっぱり、どういうふうに自然と精神の統合をもっと言うと、
デカルトは自我とか精神の方が主で、
自然は重、みたいな感じで考えてたんだけれども、
分かれてるの気持ち悪いよね、やだよねっていうのはずっと関東イコン真っ逆で、
そこに対してそれをなんとかしてくっつけようっていう、
壊れたものを直そうっていうふうな発想をしてたわけだよね。
あー、うわ、ちょっとずつ思い出してきた。
そうだ、デカルトがいって、我々は思うように我々があってからのイリース経験論があったよね。
そうそうそう。
そうだそうだ。
うん。そっちは経験っていうより、現実系のものとか、直接体験できるものっていうところをいかに活かすかっていう発想でやってたよね。
そうだよね。でも、そんな完全白紙じゃないでしょっていうところで関東がそれを統合して、デカルトの経験を。
で、ここに至ってるんだけれども、その問いを一個ずらしたというかね、
そもそもね、みたいな話をしちゃってるから、
だいぶやばいことやってるんだね。
そうね、シェリング自体が。
そっかそっか。だから、ひとつにさ、二元論を一元論的にしました、みたいな感じだとさ、
なんかこう、あるあるっぽい感じがするんだけど、
だいぶこう、なんだろうな、100円、200円単位でやばいことをやってそうな感じなんだね、シェリングは。
そうなんです、そうなんです。
だから、イメージで言うと、例えばその瓶が割れていると。
どうやってくっつけますかっていうときに、なんかボンドがいいんじゃないか、テープがいいんじゃないかとか、
そういうことを言っていたのが、まさにそういう、
精神と自然はどうやったらひとつにできるかって話なんだよね。
そうじゃなくて、そもそもその度に本当に割れてますかっていう、
私が見たら割れてないんですけどっていうことを持ち込んでいくんだよね。
はいはいはい。
だから他の人から言うと、え、何言ってんの、どう考えても割れてるじゃん、なんだけど、
シェリングは、いやいや私には割れていないように見えますとかってことを言い出すわけよ。
ちょっとやばい奴じゃん、やっぱり。
いや、相当やばいね、うん、確かに。
うん、うん、ね。
前回もさ、その火と水っていうものをくっつけた火水を作りましたみたいな、ちょっとよくわかんない例を出しちゃったんだけれども、
おそらく当時の感覚で言うと、そのぐらい何言ってんのあいつみたいな、
でもなんか話を聞いてると、確かにすごい真っ当なこと言ってる気がするみたいな、
そういう感じなんだよね。
なるほどね、簡単に切って捨てられないような、そもそも展開してるんだよね。
そうそうそうそう。
やっぱり何言ってんだ、なんだけど、でもよく聞くと、確かに割れてなかった、この花瓶。
割れてると思ったけど割れてなかったかも、みたいな。
そういうことをやっぱり考えていくんだよね。
わー、なるほど、確かにそれはわかりづらいわ、確かに。
そうそうそう。
何がすごいのかとか、さっきのピコ太郎で言うと、そもそもペンパイナッポンペンなんで、ペンとリンゴなんてなかったですから、みたいな。
そんな話?
なるほど、なんでみんな笑ってんのかわかんないと。
そうそうそうそう。戻しただけ、戻したというか、あるべきものを、ちょっとだけですけど、みたいな。
あー、あるべき形に戻しただけなんですけどね。
そうそうそうそう。
そもそも私からすると、リンゴがリンゴとしてあって、ペンがペンとしてある状態の方が、もうめっちゃ笑えるんですけどね、みたいなことを、真顔で言ってるみたいな。
皆さんは何をおっしゃるかわかってなかったんですか、ぶつかりな。ぐらいの話だよね。
あー、こわっ。
ねー。
はい、なのでシェリング・ピコ太郎説がまた一歩進んでいくわけなんですけれども、
まあでもそのぐらいのことをね、シェリングがやってた。
というかこの同一策っていうものは、そのぐらい実は発想転換っていうのがあるものではあるんですよね。
へー、はいはいはい。
で、まあやっぱりその大きな問題があって、さっきも言ったやりきれなかったって話なんですけども、
やっぱりその絶対者っていう存在がありますと。
で、その存在はある種その、まあ無分別、無差別、
そういったその自然と精神とか主観と客観っていうものすらも分かられてない、
まあそういったまあある種もう絶対の一列みたいなものになっちゃうんだよね。
そうすると、まさにやっぱり言ってくれた通りなんだけれども、
それの草とか花とか、電柱とか空とかってまあいろんなものがあったときに、
やっぱもう明らかに差別の世界じゃないですか。
分かれてる世界じゃないですか。
っていうふうに、じゃあなんでその無差別な絶対者から、
そういったいろんな違いがあるこの世界っていうのはできてるんですかっていう、
そこがやっぱり大きな問題になるんだよね。
ね。
で、セリンがこれをどう説明するかっていうと、
絶対者と世界の関係
いわゆるこう、
いわゆるその、じゃあ例えばその草とか空、山みたいなものも、
実はその絶対者を反転化すると分かれていないんだと。
だから質的な違いはないんだけれども、その量の違いっていうのがあって、
例えば主観と客観っていうものが仮にあったときに、
そのどんなに客観的なものに見える花みたいなものも、
そこには0.000何パーかもしんないけど、主観的なものが入っていると。
そういうバランスの中のその量っていうもので違いがあるんだよっていうふうに考えるんだよね。
うん。
だからまあちょっとこれは趣旨学っぽいというかさ、
あのね、なんだっけ、
リとキが出さそうってそのバランスで出てるんだみたいな、
根源にはそのリしかないんだみたいなさ、
そういう話にちょっと近い感じがする。
まあそうだね、そのリっていう大きな海から、
やったのに確かプリンの型で取るとこれだみたいな、
バケツで取るとこれだみたいなね。
面白いのがリとかはさ言ってもちょっと抽象的なものだったじゃない、
エネルギー的な。
でも絶対者って存在だから、
人救いのプリンとかってできないんですよ。
そうなんだ。
うん、だって存在だからそんなことしていたいじゃん、絶対者。
傷ついちゃうじゃん。
まあまあまあ。
絶対者の概念とその問題
もっと言うと絶対者って無差別でしょ。
うん。
だから何かを救うってことは、
差別を作る、違いを作るってことじゃん。
それで生まれてんじゃないの、世の中のもの。
違う違う違う違う違うの。
逆って、あくまでも絶対者っていうものは変わらない普遍のもので、
それが量的に違うと、
99対1の花になったり、
1対99の人間になったりっていう風に、
それは絶対者が分かれているものじゃなくて、
だからこれもう無理があるじゃん。
あなたも私も草も木も花も全部絶対者だよって言ってること?
そう。
絶対者がいっぱいいるよってこと?みんな絶対者だよっていう。
そうです。あなたも私も絶対者。
あなたも絶対者的な要素を持っているってこと。
的な要素?絶対者は絶対者でいるの?別に。
絶対者は絶対者でいます。
いるの?分かんないな。
分かんないでしょ。
これが難しくって、要は絶対者が、
なんだろうな、
それこそこれはインド的なものだけど、
要はいわゆるブラックマン的なものがあって、
そこからそれぞれのアートマンっていうものが生まれていきますとか、
ならイメージなんとなく湧くじゃない?
まあ、その話忘れちゃったけど、
まあ、利と利と似たような話だよね。
そうそう。要は絶対者の一部分が、
花ですよとか、アートですよとかっていうように、
ちょっとこう、絶対者から生まれてくるみたいな話?
そうだね。
そうそう。作り出されるとかって話は分かるんだけれども、
これ作り出されるって言っちゃうと、
絶対者と花とか自分っていうものが分かれちゃうじゃん。
まあね。
これやっちゃうと、要は、
え?でも絶対者って無差別絶対の一なんだよねと。
でも花とか自分っていう別のものを生み出しちゃったら、
絶対者が無差別絶対の一じゃなくなるじゃんっていう風な、
どうしようもない問題がここに出ちゃうんだよね。
だから苦しくて、
テーリングは量的差別っていうことを言って、
あかまでも、僕とか花も絶対者的な存在でもあると。
でもその割合、割合っていうか量みたいなものは違うんだっていう風にして、
なんとか絶対者とそれぞれの存在っていうものが違くないよっていう風に言おうとするんだけど、
やっぱりどうしても無理があるんだよね。
なんか惜しい感じがするなあ。
あなたも私も絶対者ならいい気がするけど、
そうじゃなくて別に絶対者がいますみたいな話されちゃうとわかんなくなっちゃうんだよなあ。
そうそうそう。だから、
世界というものがあって、
その世界と我々っていうのが一つであって、
いわゆる移り変わりがあるかもしれないけれども、
私とあなたも世界の一部でそこでは根源につながってるんです。
それはそれでまたイメージが湧くと思うのよ。
でも違うんだもんね。
あくまでも別に絶対者という存在もいて、
自分もその絶対者と量的には違うんだけど質的には一緒ですみたいな。
だから構成要素一緒だけどその比率が違うっていう話だよね。
まあ難しいか。でも確かにあなたも私も絶対者で、
その別の絶対的な絶対者はいませんってなっちゃうと、
じゃあその個別の絶対者どっから来たのに結局なっちゃうもんね。
結局そうなんだよね。そう。
そこはやっぱりその違いっていうものがやっぱりどうしても出てしまう。
ただ、量的差別で量的とは言ってるけれども、
芸術と知的直感の関係
それも違いじゃんってどうしても思ってしまうからね。
そもそもね。
そもそもね。
質は同じで絶対者と私も構成要素同じじゃんとはいえ、
なんで量の違いが生まれてくるんですかっていうところが突っ込まれたときに、
それはどうにも答えにくいよねっていう風な、そういう風になっちゃうんだよね。
まあそうだよね。
そこにおいては、さっき言った認識?
デカイトから続く理性っていうものを出発点にして、
なんでこの瓶は割れているのか、どうやったらくっつけるのかっていうところから、
そもそも割れてないんじゃないかっていう風に発想を転換させたってこと自体はすごく面白いというか、
ステージを変えるっていう風な発想でもあるんだけれども、
そこに絶対者みたいなことを置いてしまった瞬間に、
でもどう考えても割れるように見えるっていう人は、
それはおかしいからとしか言えなくなるんだよ、シェリングの立場からすると。
でもなぜおかしいのかとか、
でもどうしても見えてしまうっていう、この見え方を説明してほしいっていうところに、
うまく答えられなくなっちゃったんだよね。
そうだよね。シェリング祭を信じたいけれども、
ちゃんと信じさせてよっていうかね、ちゃんと分からせてよっていう。
そうなんだよね。
これが実は第一回に言うと、平儀の批判で、
精神乳食っていう本で、シェリングっていうものを批判して、
全ての牛が黒くなる夜だみたいな話をしたと思うんですよ。
なんか覚えてるかな。
うん、出た出た。
で、当時なんで牛が黒いのかっていう話はしなかったんだけれども、
実はシェリング自体がね、自分自身の絶対者っていうものを指して、
例えばその認識、ある種その認識っていう立場から立つと、
どうしてもその絶対者的なものっていうのは見えない、夜だみたいな。
要は捉えられない。認識では絶対捉えられないんだけれども、
私はそれを、なんでその夜が昼に変わるのか、
要は絶対者っていうその根源一体のものが、
今僕らが生きているそのいろんな違いとかがある世の中に変わるのかっていうことを、
明確に示そうと思うっていうふうに自分が言っちゃってるんだよね、シェリングが。
どういうことだ、絶対者の存在をちゃんと証明するぞって言っちゃったってこと?
絶対者からなんでこの世の中が生まれるのかっていう、
その違いが生まれることを証明するぞって言っちゃったんだよね。
絶対者がいるぞだけじゃなくて、
なんでその絶対者から僕らの世界が生まれるのか、
違いが生まれるのかっていうことを説明するぞ。
もちろんそれを証明したぞっていうふうに言ってるんだけど、
どう読んでもヘーゲルからすると、いやいや夜のままじゃんと、
全然説明できてないよねっていうふうに、
ある種の表現をもじって批判するんだよね。
なるほど、そういうシェリングの話のもとに、
この同一説学ってものを打ち出しちゃったってことなのか。
そうそうそう、そういうこと。
そうか、自分も意思表明したんじゃなくて、
別に出しちゃったんだね、答えまで。
そう、出しちゃったの。
で、それに対して全然納得できねえんだけどっていうヘーゲルの批判ね。
そういうことです。
なるほどなるほど、まあしょうがないよね。
はい、出し方ない。正直出し方ないと思う。
避けた量的差別っていうところもちょっとヘッドブログにつける。
それも差別じゃんっていうふうにやっぱりなっちゃうし、
シェリングからするとね、前回芸術って話をしたと思うんですけれども、
やっぱりシェリングからすると芸術っていうのは、
人間の理性とか意識っていうものが、
より上位にある無意識とか自然とか、
そういうものと繋がる瞬間だっていう話だったと思うんですよね。
あったね、はいはいはい。
つまりそういうふうに、人間の精神的なものと自然的なものと繋がることができる。
それを芸術に見出すんだけれども、
そういうふうな働きっていうものをシェリングは知的直感、
知は普通に知識の知ね。
つまりそういう直感的なもの、要は理性を超えた働きにおいて、
実は捉えられるんだってことを言っちゃうのよ。
あーはいはいはい。
つまり絶対者っていうものは存在をしていて、
それは知的直感によって見ることができる、捉えることができるっていうふうに言っちゃうんだよね。
あーなるほど、まあまあその話はわからなくないよね、そっかそっか。
そう説明すると、いわゆる個々の存在が、
個々のその存在を超えたものを生み出すとか、
降りてくるという感覚は、そういう話だよね。
理性じゃなくて直感的にその意味の絶対者を見たから、
そこからなんか引っ張ってきたんだよねって言えるって話。
そうですそうです、だから理性では捉えられない。
要は理性っていうふうに分かれた後のものだから、理性っていうものは。
だからそれで本当に絶対者を捉えることはできない。
あくまでも自然は捉えられるけどって話なんだけど、
理性を超えたその知的直感を使うと、その自然と精神、理性っていうものが
混ぜ合わさっている絶対者っていうものも捉えられるじゃないか。
だって芸術家はそうやってるでしょっていうふうな、
そういうふうなロジックを、一応ロジックというか説明をしていくんだけれども、
なるほどなるほど。
でもやっぱりそれは、何だろうな、
それって本当とか知的直感って結局何なのよって、
そこにどうしてもまた問題が吸収されちゃうんだよね。
いやー難しいなー、これがね、
自然哲学とその限界
小説とかコミックだったらめちゃくちゃ面白い世界観になるかもしれないけど、
たぶんシェリングもちゃんと考えた上でこの世界観を、
自分が考えた世界観だよね。
その中ではたぶんめちゃくちゃ戦後性取れてるんだよね、これ。
そうなんだよね、うんうん。
だけど無理だよね、だってハンター×ハンターのさ、
例えば念を感じろって言ってるのと同じような話だよね。
そうなんだよね、そうそうそう。
やっぱり念能力ない人が念を感じろって言ったら無理だしとか、
そんなものあるわけないじゃんってなっちゃうのと本当に同じ?
なっちゃうよね。
だからこれはすごく難しくて、
言葉にできないものとか理性を超えたものみたいなやっぱりどうしてもそこに行ってしまうと、
やっぱり扱い方が急に無理が生じてくる。
そうなんだよね、万人には分からなくなっちゃうし、
あとそういうことをエイリアンに批判されたように、
だいぶ隙が埋まれちゃってるもんね。
そうなんだよね、そうそうそう。
だからやっぱり自然哲学はまだ、
根源には至ってなかったかもしれないけれども、
フィクションの自我論、自我の哲学っていうものを踏まえた上で、
最先端の物理学芸術論っていうところも踏まえた、
やっぱり一つの整合性のある哲学ではあったんだよね。
なるほど、そこまではね。
そこまでは、そう。
でもやっぱりそれを一歩踏み越えて、
シェリングの哲学的課題
より根源とか、より根っこといこうとした瞬間に、
やっぱりまさに罠にはまるというか、
ただそれはシェリングがするとやらなきゃいけないことなんだよね。
難しいよね。
みんなに花瓶をどうくっつけるかみたいなところまでは納得させられたんだけど、
さっきのハエトンの話を言うと、
この割れた状態のものを見て、
これ実は割れてなかったんですまでは、
なかなか納得させられなかったって話だよね。
そうだね、そう。
しかし、やっぱりその哲学的な説明の仕方としては、
やっぱり物足りなかった。
というふうに受け取られてしまうっていう感じなんだよね。
存在の問い
へぇー。
そういうと、ヘイギルはそれやったの?
これ割れてないんですか?
ヘイギルは、いや、またね、ちょっと違うところで、
別の問いを?
そうそう、別の問いを。
なるほど、なるほど。
そう。
あのね、ちょっとこれ僕もまだ自信がないというか、
ちょっとヘイギルをちゃんと勉強するのはこれからなんだけど、
ヘイギルは、なんていうのかな、
割れた花瓶っていうものに対して、
それは割れたりくっついたりしていくのだと。
うん。
うん。
で、しかもその瞬間に、
割れる前の花瓶とくっついた後の花瓶っていうものは、
実は別のものになっていって、
ほうほうほう。
それがどんどん発展的に世界というものを生み出していくのだみたいな、
だからもっと言うと、
花瓶っていう比例にも収まらないような感じにどんどんなっていくんだよね。
やっぱ全然世界観違うんだけど。
そう。
すごいな。
そう。
なんかでも、可能性を感じたよね、さっきの小説とかさ。
あー、そうね。
うんうん。
世界観として考えると、
うん。
なんか、すごい可能性感じるね。
いや、そうなんだよね。
だからお前らまだその次元に居るのか、みたいな。
花瓶とはくっつけたり、離れたりするものなのだ、みたいな。
なんかよくわかんないこと言い出しましたけど、みたいな。
しかもそこから新しいものがどんどん生まれていくのが。
生まれていく。
そうそうそう。
そもそも割れてないんだとは、ちょっとまた違う世界観というか。
また違う。
物語が展開されそう。
いや、そうなんだよね。
その意味でやっぱり、ヘーゲルの、なんだろうな。
やっぱり、極暗点ってのはやっぱりすごい独特だし。
はいはいはい。
しかもそれを一定、隙のないように語り尽くしたと。
隙はあるんだよ、ヘーゲルも。
隙はあるし。
うん。
なんか、言う人からすると、これまたちゃんとヘーゲル界でお伝えするんだけれども。
うん。
あいつ全然実話家じゃなくて、なんか訳はわかんない。
ご神託言ってるもんだよ、みたいな。
へー。
はいはいはい。
そういう風に言われることも実はあるらしくて。
そうなんだね。本当に小説というかね、創作だみたいなね。
そうそうそうそう。
おー。
そういうこともあるんだけれども、でもやっぱりなんかそこに、見尽くさないものがあるみたいな。
うーん。
そういうところの捉え方もされているのが、やっぱヘーゲルだみたいな感じらしいんだよね。
はいはいはいはい。
はい。なので、ちょっとね、そういうことも踏まえると、よりヘーゲル界を楽しんでいただけるんじゃないかと思いながらなんですけれども。
うん。
今回シェリングの話でいくと、やっぱりその、今回自然哲学から同一哲学をやっていくときに、やっぱりその、資産を変えた。
ね、さっきの割れた花瓶から、そもそもくっついてるんじゃないかとか。
うん。
ピコ太郎のペンと、リンゴから、いやもう違う、パイナップルっぽいペンだっていう風。
うーん。
そういう存在があったんだっていう風なことの転換をやっぱしたっていう意味で、やっぱすごく面白いというか。
ちゃんと飛躍があることではあるんだよね。
はいはいはいはい。
はい。で、じゃあここからさえ、シェリングどうありますかっていうね、その後継哲学とか、積極哲学って言うと思うんですけれども。
うん。
やっぱりシェリングはここから、さらにその、神というか、そういった宗教的なことにどんどんどんどん入り込んでいくんだよね。
おー、はいはいはいはい。
これやっぱり哲学、今でもそうかもしれないし、当時で言うと、哲学だけどうしても解き明かせたいものがあるとか、問題にできないものがあるっていうことに多分気づいたんだよね。
へー、ほうほうほう。
もっと言うと、さっきさっき花瓶の話をしたじゃん。
うん。
割れた花瓶がどうやったらくっつくんですかとか、そもそも花瓶はくっついてますとかなんだけど。
うん。
ちょっと違う、これはまたごめん、僕はもうちょっとちゃんと勉強するからなんだけど、今の僕のされ方で言うと、なんでここに花瓶があるんだろうねって言うと、それを解いていくみたいな感じなんだよね。
ほうほうほう。
おめえたちさ、花瓶がくっつくとか割れるとか、もともと割れてなかったとか割れてたとか言ってるけど、そもそも花瓶があることってなんでなの?みたいな。
うんうんうんうんうん。
ということに、しりんぐは問題主を変えていくんだよね。
いやー、子供が花瓶割ってさ、そんなこと言い始めたらもう困るよね。
花瓶ってそもそもなんで。
ここに花瓶があったのが悪いんだよ、みたいなね。
違う違う違う違う違う。そもそも花瓶ってなんなんでしょうね、みたいな。
違うんだよ。
え?違う?そういう話?
違うの。これ面白くって、花瓶とは何かって本質の話なんだよね。
おー。
花瓶がなぜあるのかってのは存在の話なんだよね。
はいはいはいはい。どっちの話?
やっぱり、存在の話。
あ、存在の方の話をしてたの、はやとは。
そうです、はい。
なぜこれが花瓶なのかではなく、
いや、そもそも君たち割れたとか、
らしい形割れてないとか言ってるけど、
そもそも花瓶というものがあるっていうことについて、
驚かないのかい、みたいな。
ほうほうほうほうほうほう。
そういう感じ?
わかんないけど、問いというか、
雰囲気の違いだけはわかった。
そうねそうね。今のところ雰囲気は大丈夫。
次回ちゃんと伝えていこうと思うんで。
どんどんさ、すごいルールが生まれてるなと思って。
ルール?ゲーム?
いや、そうなんだよね。だから、もっと言うと、
精神と自然って分かれてるコマとコマだってやってるんだけど、
いや、そもそも精神とか自然とかっていうふうなものを問題にできることが問題じゃないかみたいな。
はいはいはいはい。
なんでそんなものを我々は問題で捉えちゃうんだろうね、みたいな。
そのものを含めて、シェリングっていうものは、
なんだろうな、自分の自作的な対象というのを広げていくんだよね。
うんうんうんうん。
これがまさに存在の問いみたいな、これちょっとハイデガーにつながっていくんだけれども、
同一哲学とヘーゲル
そういう、どうあるのかじゃなくてなぜあるのか、あるとはどういうことかみたいな、
そういうところに踏み込んでいくのがこの後期シェリングですと言われてるんだよね。
そうなんだね。
もう、すごすぎてわかんないね。
その問いの設定合戦みたいなね。
いや、そうなんだよ。これがでも実は滅争主義にもつながってきてて、
さっき言ったなぜ花瓶があるのか、
花瓶とは何なのかってことは本質の問いで、
これは、我々とは何かとかさ、人間の生とは何かみたいな、
生きることの本質を捉えるっていう意味では、実存的な問いとか本質にまつわる問いなんだよね。
これをされとれば、1900年代とかに、実存は本質に突き出すみたいなことを言うので、
本質と存在とか、それとも関係性っていうものを変えていくんだけれども、
その走りがシェリングの後期にあったんじゃないかみたいな話になってくるんだよね。
そうなんだ、なるほど。
本質とか実存とか、その定義あったね、確かに。
そうそうそう。
っていうところにもつながる話だったりするので、
実はこれは同一関連論を超えているっていうふうに思えるんですよ。
だからこの同一哲学とはそのぐらいで、
まさにヘーゲルが精神原初学を作って、ヘーゲルの哲学っていうのが種類になっていくっていう感じがあるので、
関連論的なものを超えてはいるんだけれども、
それをシェリングっていう一人の人が、
フィッツを踏まえて関連論的なところを自分の中で乗り越えて、
ちょっと存在論の方に行ったみたいな、
そういう一人の人生のダイナミズムがあるんで、
それを先取りして、それはヘーゲル批判も含んでるから、
シェリングがヘーゲルをどう捉えたかっていうことを踏まえて伝えた後で、
次回ヘーゲル界として、
その批判されたヘーゲルってこんな感じだったんだよっていう、
時代は戻っちゃったけど、そういうエリコ構造で今回お伝えしていこうと思ったなって感じだったよね。
なるほど。そうだもんね。ヘーゲル死んだ後20年ぐらいに、
シェリングに時間がなったっていう話だったもんね。
そうなんです。
っていう感じで、今回同一哲学を言っていて、
ちょっとでもイメージ湧いたかな。問題の軸ずらしましたみたいなところ。
っていうところが伝わってれば嬉しいなっていう感じですね。
深いね。もう分かんなくなってきちゃった。
内容が生んでるんじゃなくて、さっきのハヤトのアインシュタインの問いに分かればみたいな話でさ、
いかに上質な問いを生み出すかゲームみたいなさ。
本当にそう。哲学はまさにそれだからね。
それの上で、問いを立てた上でちゃんとそれを解き切るというか、伝え切るって両方ではあるんだけど。
確かにそこセットじゃないと、さっきの念の話じゃないけどさ、
本当に念の存在が分かんない人には伝わるわけがないもんね。
そうなんだよね、本当に。
ありまーすって言ったら、ないじゃんって思っちゃうからね。
数学とかであれば、その問いに対して本当かどうかっていうのはみんなが解いて、
正しいことを証明するかっていうのは同じ哲学でできるけど、
やっぱり哲学ではそれができない。
絶対者というものがいます。そこには主観と客観は混然一体なんですって言うときに、
どうアプローチするかって人によって様々すぎて、
シェリングの前期哲学の探求
やっぱり同じようにできないからこそ、自分はこういうアプローチでそれを証明しましたよとか、
それを説明ちゃんとできるんですよっていうふうに言うのが大事なんだけれども、
シェリンの量的差別とか知的直感っていうものでは、やっぱりどうしてもそれを決め尽くせなかった。
っていうふうなところがやっぱり生まれているっていう感じなんだよね。
ということはね、そんなことをするうちになんかもっと深い問いを気づいちゃったみたいな話なんだね。
そうだね。役線を通した結果、そこにはやっぱりスッとはいかなかった流れもあるみたいなんだけど、
シェリン軍の中にもね。
そういうものを、いろんなヘーゲルのものを吸収して批判してとかっていろんなことを含めて、
最後そういった積極哲学っていうものに行ってみましたよっていう話があるんで、
それも積極哲学の細かい中身っていうよりは、どういうものを問題にしたのかとか、
何をこうとして、さっき言ったような割れてる花瓶と割れてない花瓶と、そもそも花瓶があるとは何かみたいな、
そういう目線の違いができたのかみたいな、そういうところまでお伝えしていくことで、
シェリング界、次回で最後かなと思ってるんですけれども、
シェリングの哲学を大掴めてみてよねという感じにしたいと思ってますという感じですね。
はい、わかりました。
次回そんなシェリングの後期の哲学を見ていくというところで楽しんでいきたいと思います。
では次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。