フィヒテの背景
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、前回からフィヒテということで、カントと同時代を生きたフィヒテがどんな人だったのかみたいなところを中心に見てきたというところでした。
はい、そうですね、前回ね、結構貧しい農家から生まれてね、そこで地主社は貴族の人にある種認められて大学に行けて、
今はね、早く若くして教授になるんだけど、そこからこういろいろ追放されちゃって、いろいろ波乱万丈の人生を送りましたみたいなところをお話したかなと思っております。
だいぶ尖りすり出たもんね、全然引かなかったもんね。
難しいよね、やっぱり自分の書いてることは間違ってないって思ってるだろうから。
でもあれだもんね、いわゆる即死刑とか即遺断みたいな感じじゃないってことは、
漫画とかアニメで今言ってる地の世界、天道説、地道説とか、
ああいう世界観よりはもうちょっとマイルドな世界観ってことなんだね。まあ命の危険はあったかもしれないけれども。
うんうんうん、まあそうだね。それこそガリレオの話とかもまさにそうだと思うんだけれども、
どうなんだろうなあ、時代的にそこまでじゃなかったらあるだろうし、
正面切って神を侮辱したとかいうことはないからっていうことはマイルドさもあるのかなあと思うけどね。
なるほど、まあそういう意味で即やられるわけじゃなかったら、まあだいぶ危ないけどね、描くの逃げてたもんね。
そうですそうです。
カントの認識論
いろんなところもあるような時代ではありましたよ。
今回からはね、そこの思想的なところで哲学化に入っていこうと思っているんですけれども、
やっぱり関東の問題、関東がやったことの土台に立ってやってる部分が大きいので、
今回は関東の振り返りもしながらですね、
じゃあフィヒレさんって関東のどういうところにある種これは問題だって思ったのかとか、
そうすると関東何やったんだっけって、前回ちょっと駆け足でやった部分もあるんですけれども、
今回ね、あたりでそういった話もしながら、フィヒレさんの導入編みたいな感じで、
今回はお話ししていこうと思っておりますという感じですね。
はいはい、わかりました。
だいぶね、関東ちょっとずつ思い出したとは言っても、詳細全然思い出せてないので、ぜひ補足しながらお願いします。
そうですよね、了解です。
前回もキーワードを出しましたけれども、関東さんの大きなキーワード、コペルニクス的展開っていうのがありましたよね。
これ何かっていうと、それまでイギリス経験論、ロックとかヒューエンみたいなところでいくと、
人間って外にあるもの、石であれパソコンであれ何でもいいんですけど、
そういうものをあらゆる感覚的にそのまま受け取っていますよねと。
なので、外から中っていうふうな動きが基本だったんだよね。
あれだよね、確かロックだったのか、その白紙?タブラらしさ?
はいはい、白紙ですね。
そこに、赤ちゃんのときはいわゆる白紙で、そこにいろんな経験が入っていくことで、時間がむしろそこから出てくるぐらいの感じだったみたいな。
そうですそうです。
そうやってどんどん経験というものが積んでいくことで、人間の認識というものは増えていくっていう話だよね。
というのがあったんですけれども、関東はドイツっていう形でもあるし、
デカルト的な概念とか観念、人間の理性っていうものをやっぱりどう扱うか、それをどう統合するかだよね。
っていうところを考えた中で、いわゆる外のものをそのまま受け取るんじゃなくて、やっぱり自分たちの中にいっている枠組みがあるんだと。
例えば時間とか空間とかって、別に空間そのものを見ているわけではないけれども、
僕らは何かを見るとか感じるときに、空間というもの、ものって言っていいのかな、空間という概念っていうものを抜きにしてはやっぱりものを見ることってできないよねと。
おそらく、これちょっと想像だけれども、例えば目が見えない人とか耳が聞こえない人がいたとしても、
やっぱり何らかのそのものそのものじゃなくて、それを包む空間とか自分とものというものが存在している場みたいなものは、おそらく想定していると思うんだよね。
そうしたときに、このまさに時間とか空間っていうものは、僕らはそのものを受け取る枠として僕らの側に存在、人間の側に存在していると。
つまり逆に言うと、僕らその空間とか時間というものを除いて、ものを見ることはできないっていう意味で、世界を見るとか世界を認識するっていうのは、
我々人間がどう見るかっていうことに、よくも悪くも影響されているんだと。
つまり純粋そのものみたいなものって、僕らは認識できないんだよっていうふうなことを言ったんですよね。
なるほどだし、その白紙になった頃に、そのままただ周りのものがただただ写されていくとか、
書き込まれるみたいな、そういう感覚とはちょっと違うんだよねっていうことをカントは言った。
全然違って感じかな。
書き込むにしても、こっちにちゃんとフィルターあるからみたいな話だよね。
そうね。イメージしてるかもんだけど、白紙っていうよりは工具箱みたいなものがあって、ちゃんと仕切りとかあってさ、
そういうものがあって、ここには長いものが入りますよねとか、ここには一番底のところには深くて大きいものが入るけど、
上の方には細かいもの入れますよねみたいな、そういうふうな構造とか枠組みが一定あるよねっていう感じ。
僕ら哲学者は、もともと世界をどう捉えるかとか、世界そのものをどういうふうに見えるかとかってことを考えていたんだけれども、
カントはもうそれはできないよっていうことをある程度証明しちゃうんだよね。
ああ、今の反省と誤省とかって話もカントだったよね。
そうです。
その辺りの話で言うと、無理だよっていう、そのまま、それを物自体か、それこそ。
そうですそうです。それが物自体。その捉えられないものを物自体というふうに言ったんだけれども、
それは要は僕らの認識を離れ、その枠組みを離れて物を捉えることができないということは、
その物自体、物そのもの、人間の認識を離れた物というものは、僕の動画まではたどり着けない。
ああ、なんかそういう話もした気がする。
なんかリンゴの、リンゴリンゴそのまま、いくらゆきるんだっけみたいな話だったっけか。
赤くて丸くてみたいな、そういう赤くてとか丸くてとかわかるけど、リンゴそのものってなんだっけねみたいな話になっちゃうよね。
近いんだっけか。
そういうこともあるし、要はリンゴというものを捉えたときに、リンゴがある空間とか、リンゴといる時間というものも絶対認識するじゃないですか。
そういうときに、それってもう空間の中にあるリンゴでしかないし、今ここにあるリンゴでしかないとしたときに、
それってリンゴそのものじゃないよねっていう。
要は僕らの認識の枠組みにある種汚染されてるリンゴでしかないっていうふうな感じなんだよね。
なるほど。それで言うと、ごめんね。ちょっと思い出すためにいろいろ言っちゃうけど。
大丈夫です。
今話してるそのリンゴの、リンゴそのもの自体的な感覚っていうのは、フラトンでいうイデア的なリンゴのイデア的なそのものっていう感覚なのか、
それとも、今この目の前にあるリンゴそのものとはっていう感覚どっちに近い?
後者がね、いわゆるリンゴの本質とかっていう話じゃなくて、この世界にあるリンゴという存在、このリンゴ、この特定のリンゴ。
この目の前にあるリンゴは空間的だったりとか、時間的とか、味的とかは認識できるけれども、
この目の前のリンゴをそのものとして認識することはできないんですよっていう話をカントはしてるっていう。
そうですそうです、その通り。
オーケーオーケーですオーケー。
はい。
いうようなところで説明しますと、これは非常に納得感は聞けばあるんだけれども、
でもやっぱり、フワッとカントはモノ自体っていう人間が認識できるものを建てましたとかって言われると、
それでいいの?みたいな、ちょっとそこだけ穴開いてないみたいな感じはなるじゃない?
まあ、ブラックホールというか、そうだね、ビットガンの前的な感じがするよね。
まあ、そうね、そうそうそう。もうね、それこそ通りつけない。
理性の限界を引くっていう意味ではそれはすごくいい行為なんだけれども、
やっぱりもう一方で見ると、でもそれって説明になってなくない?みたいな。
要は自分がわからないことを、とりあえずモノ自体って、もちろんそんなことはないんだけど、
モノ自体っていうふうに言っちゃったんじゃない?っていうふうにも捉えられるわけだよね。
まあ、好奇心は掻き立てられるよね。そこに何があるんだろうって。
そうそうそう。そうなんですよ。なので、やっぱりこれっていうのはちょっと物足りないよねっていうふうに言えることも言うこともできます。
じゃあ一個の話ね。で、もう一個が、これもちょっと前回お伝えしたんですけれども、
ファント自体は人間というものを純粋理性と実践理性と判断力っていう、
これ三つの能力を持つ存在だっていうふうに考えるんだよね。
それぞれ何かっていうと、今言ったような世の中をどう捉えるかとか、
外にあるものをどう認識するかっていうのはある種純粋理性の方なんだけれども、
これはつまり、人間にはそういう枠組みがあって、物事を捉える感性というかその互換があって、
世の中っていうものを処理しますっていうふうに、わりとここって何ていうのかな、
人の及ばないというか、認識を変えましょうとか枠組みを変えましょう、
要は時間と空間っていう枠組みに手放らずに世界を見ましょうとかっていうことは基本はあり得ないんだよね。
なので、人間っていうのはすでに用意された工具箱に外の素材を詰め込むだけの存在になっちゃうじゃないですか。
さっきの例で言うとね。
そうするとあれ、でも待てよと。人間ってそんな決められた機械みたいな、機械は当時ないかもしれないけど、
今の僕から言うと機械みたいな存在なんでしたっけと。
でも人間って本来は自由もあるし、それこそイギリスの市民革命とかも含めて、
もっと自分たちがやろうと思うことをやるとか、もっと良い社会がより良くなるとか、
良くなるように行動できるはずじゃないかと。
でもそういう何が正しいんだとか、何が道徳的なんだみたいな話って、
純粋理性というか、そういった枠組みとかだけだと出てこないんだよね。
確かに完全に受け身な存在っぽい感じになっちゃうよね。
実践理性と自由
そうそうそうそう。
そこで、いやいや実は人間とは実践理性ってもう一個の理性があってね。
これによって、前回もちょっと触れましたけれども、
人間とは定言明報っていうね、自分がやることが他の人がやってもOKっていうふうに考えれますかっていうものがあって、
彼に従うと、要は自分がこれをやるんだとか、このルールに従って生きるんだっていうふうな、
そういうルールを立てる自由は人間にはあると。
だから好き勝手とは違うって話だよね。
そう好き勝手とは違う。
自分以外の全員が、この世の中全員が同じルールを適用したとしても、
OKだよねって言えるぐらいのルールのことを定言明報だもんね、確かに。
定言明報ってわかりやすく言うと、
他の方には仮言明報っていう仮の話があるんですよ。
仮言って仮の言葉の明報って言われるんだけど、
要は仮なんで、もしないないならみたいな話なんですよね。
例えば、お金持ちになりたいなら嘘をつくなみたいなことがあったときに、
お金持ちになりたくないなら嘘をついてもいいみたいになっちゃうじゃない。
これは要はその時々で変わっちゃうんで、
人によっても状況によって変わるっていうものは、
要は道徳ではないんですよ、カントに言わせると。
カントの定言明報っていうのは、ある種どんな時でも適用される。
つまり、どんな時代でもどんな状況の人でも、
自分じゃなくてどんな相手でも、
その人がある種合意できるというか、
そういうふうな原理に従って行動しなさいねっていうのが定言明報っていう感じなんだよね。
はいはいはいはい。
だから、さっきの話で言うと、
あなたが不利にならないように嘘をつくなっていうのはダメで、
さらに不利になるような場面でも、どんな場面でも嘘をついてはいけませんっていうことが定言明報ってことかな。
ふんふんふんふん。
ところがあるんだけれども、それ以上はカントに言わせると自由の根拠になるんだよね。
へー、そうなの。自由なんだ。
そうそうそう。
だから、そのルールを立てるっていうのは自然にあるものじゃない。
別に、自然の人間のこととか、世の中のことを分析しても、
嘘をついてもいいとかついちゃダメっていうのはどこにもないじゃないですか。
現象というか、物としてというか。
そう、物としてというか。
自然の法則として、嘘をついてもいいとかダメとかっていうことは、
自然の中を見渡してもないですと。
自由と人間の主体性
でも人間の社会を見たときに、そういうことを僕らはルールとして立てることができて、
それに従うこともできるっていうのが、人間にとっての自由なんだっていうふうな発想なんだね。
あー、なるほどなるほど。はいはいはい。
その、重視犠牲が受け身だよねって言われるところの話で、
実践犠牲批判で、人間の意思じゃないけれども、
もうちょっと主体性だよね、そういうものを考えるとって話だね。
そうですそうです。
それは人間が作ってるというか、立てるよねっていう話ね。
それを両方持ってるのが人間だよと。
ただこれが分かれちゃうと、よく分かんなくなるんで、
判断力批判っていうものを書いて、
それに応じて統合するというか、
人間の必然によって受け身的に生きることと、
能動的に自分で自由を作っていく。
その間に美とか崇高さみたいな感覚があるんだよみたいな。
そういう橋を、要は1本の純粋理性というのは橋を立てて、
2本目の実践理性というのは橋を立てて、
それを判断力っていうのは橋で繋ぐみたいな、
そういうことをやったんだよね。
なるほどなるほど。
ある意味定義名法だったり定義名法的なもの、
道徳的なものの是非を判断するというか、
どう思うかみたいなところの話なのかな。
そこら辺覚えてるわけや。
そのあたりはよかったね。
ちゃんとかいまた聞いていきたいと思うんですけども。
すいません。
とりあえず今のところでは、
1個目はその物自体、要は人間が認識できない、
その境界の外にあるものを想定者という話と、
ちゃんとか人間というのはそういう、
純粋理性、実践理性、判断力という3つの能力を持つものとして書いたよ、
この2個をまず覚えていただきたいんですけども。
これがフィヒテから言わせると、
ある種ちゃんと理解してる人からすると、
課題だよねって思えてしまったってことなんですよね。
フィヒテの知識学
2つ目の話はもう出てる話で、
要は物自体っていうものがあったときに、
それ、認識できないけどありますって言われても、
正直わからんの。
その存在ってそのままにしておいていいのっていうのが1個目の問題なんだろうね。
それも定義できそうだよねっていうの?
したいよね?
したいよねっていう話かな。
どうしたらできるのかっていう話が1個と、
もう1個はさっき言った、
いわゆる人間は自然の法則とか、
あるいは人間の理解力、
枠組みに従って生きてるよねっていう話と、
でも人間は道徳とかそういうルールを自分につける自由な存在だよねっていうときに、
これっていうのは矛盾してるんですよね。
そうなの?
さっきも言った通り、
ただ単純に人間が受け身の状態だったら自由はないわけじゃん?
受け身だったら、まあそうだね。
いわゆる意思とかなさそうだよね。
そう、意思とかなさそう。
逆に人間は自由で意思があるって言うと、
そんな構造なんてないじゃん。
要はその構造って役立ってなくない?っていうふうになるわけなんだよね。
ああ、なるほど。
だからその意思があったとすると、
純粋理性批判的な受け身?
その構造があって、
そういうふうに理解させられてるみたいなところも、
要は意思的なものが関与してるんじゃない?みたいな話になっちゃう。
そうだね、そういうことも言うし、
それをある程度否定できないというか。
ああ、そうか。
そう言われたときにカント側は否定できなくなっちゃうみたいな。
そうそうそうそう。
カント側は、純粋理性と実践理性って別のものなんだと言ってはいるんだけれども、
なんで別なの?とか。
でも人間は一つの存在だよねと。
純粋理性さんと実践理性さんが一人の中に別々いるわけじゃないから、
なんで人間という一つの存在にそんなバラバラなものがあるの?っていうふうな、
そういうことを言えちゃうわけなんだよね。
いやー難しいなー。
カントの話をふわっと聞いて、
そこの2つに矛盾があるなんて思わないよね。
あ、2つ機能あるんだ、人間ってすごいねって思われるんだけど、
やっぱり今回言うとフィヒテとかがそれを見ちゃうと、
この2つの機能を矛盾してるけど、どう説明するの?っていうふうに、
違和感感じちゃったんだ、そこは。
そうです、そうです。
へー、はいはいはい。
なんか思ってると、これが前回の冒頭でちょっと言った、
いわゆるも遠い乗りながら的に柱だよねっていうのはこれで、
フィヒテからすると、この3つ綺麗に分かれてる、
要は説明できたって僕らは思うんだけれども、
いやでも3つに分かれてんじゃん、と。
もっとやっぱり根源とか根っこみたいなものって、
本当にあるんじゃないかっていうふうにやっぱり考えちゃうんだよね。
うわー、こわ。だから、
いいし、じゃないよね、みたいな話じゃなくて、
そもそも1つでいいじゃん、言えるじゃんっていう。
そうです、そうです。
カントと同じ土俵にいないんだね、ある意味で。
そういうことね、難しいな。
カントもどういう理性っていうものを使って読むのかを説明してるとも言えるから。
そういう意味では同じ土俵なのか。
そう、同じ土俵。
経験論と対抗理論をベルニクス的展開っていうか、
そうそうそう。
に統合するぐらいだから、問題意識としては同じ土俵にはいる。
そうです、そうです。
やっぱり統合したい根源を導きたいんだけれども、
カントの導いたという根源にはまだ分裂があるっていうことを見抜いちゃうんだよね。
はいはいはい。だから自分もやり直そうっていう話で。
そうそうそう。
じゃあどうしようか考えてみようってなるわけですと。
はぁはぁはぁ、オッケーです。
というところまでが、ある種カントの話とフィヒテが何を問題に思ったかっていうところなんですよね。
ここからがフィヒテの話なんですけど、
すごいざっくり言うと、じゃあフィヒテさん考えるわけですよと。
やっぱりこの中途半端な中で、カントは人間って確かに深くもらえたと。
でもやっぱり世界を知る、要は構造とか枠組みにおいて世界を捉えるっていう存在と、
自分らしいルールとかを作ってそれに従うっていうふうな、
自由とか創造性がある存在っていうところでやっぱり分かれちゃってると。
はいはいはい。
これはやっぱりなんとか統合したい、ひとつにしたいっていうふうに思ったときに、
何を考えるかっていうと、
実はこの知るとルールを作るとか、いわゆる何かをするだよね。
実践するぐらい実践する、行為するっていうことがあったときに、
実はこの知ることとかも、やること、要は行為の一部なんだっていうふうに考えだすんだよね。
うんうんうんうん。
納得する?
その展開は納得。
はいはい、そうなんです。
つまりカントがわけた知るとするっていうことを、するの方に一本化しようと考えるんだ。
あー、なるほど。
だからあれだもんね、たぶんフィステがカントの、
無人数犠牲批判的な感覚と、
実践犠牲批判的な感覚の違和感が、
いわゆる人間って自由だよね、主体的な存在だよねっていう方からすると、
さっきの人間はね、もともと工房学校みたいにいろいろあって、
そこに入ってきたことで理解させてもらえてるんだよねっていうところに関して、
たぶんそこに対してもアクセス可能だっていうふうに考えると、
自分で工房学校みたいなの作ってるんだよ、実は。
人それぞれで、いろんなものを自分で作った、それにハマるように理解してるんだよね、
させられてるんじゃなくしてるんだよね、みたいな。
自我と自己の関係
そうすると、展開自体はわかるっていう意味で。
面白い。半分正解で半分間違ってるって感じなんだけど、
何かいうとおり、人間は工具箱を作り出すことができますと。
その工具箱が人それぞれ違うということはまだわかりませんというか、
これは言ってませんって感じかもしれない。
その辺はちょっと言っていくんだけれども、
いろんなキーワードがこの後出てくるんだけれども、
1個あるのが、フィヒテさんって自分の学問のことを哲学よりも根源的な意味っていう形で、
知識学っていうふうに呼んでるんですよ。
止まってるね。
日本語で訳すとね。
自分はもっとすごいことやってんだぞって言いたい。
哲学よりももっと根本的なことをやっているんだぞと。
どういうことかっていうと、
当然ちゃんと哲学を踏まえてフィヒテさんを考えてるわけなんだけれども、
別に自分は、当時そういう言葉があったわけじゃないけれども、
ちゃんと哲学をやってるんだっていうことじゃなくて、
哲学全体を乗り越えていくというか、生き続けるような、
そういうものを考えている。
要は知というものとか、さっき言った知るとするっていうことを分けたじゃない。
その知るっていうものがこれまで哲学の主流だったんだけれども、
その知るということをより深く追求しているんだぞっていうふうな。
ただそれが行き過ぎた結果、実は知るもするだったっていうふうにいくんだぞみたいな。
そういうふうなところまで行き着くんだよね。
フィヒテの知識学っていうものがあったときに、
それの根幹って何ですかっていうと、
これが前回少しお伝えしたんだけれども、
言葉で言うと、ちょっと分かりにくい、絶対分かんないんだけれども、
自我が自己を定立すると。
自我、自らの我っていうものが自己、己というものを立てるっていうことを言うんですよね。
立てるね。全く分かんない。
なんでしょうか。
全部分かんないよ。
全然分かんない。
自我は、Aは自己でしょ、Bを。定立するCでしょ、AはBをCする。もう分かんないよね。
しかもAとBがさ、自我と自己も自我の同じなのみたいな。
そうそうそうそう。混同しそうな言葉を使ってるし。
勘弁してくれって。
これじゃあ何って言うと、これはすごいざっくり言うとなんだけれども、
普段さ、僕らって、自我が例えばありますと。
僕らがあるし、私という人間がいます。
勘の早さという人間がいて、勘の強さという人間がいますってまず思うじゃない。
それぞれの人が、例えば何かを食べるとか、話すとか、何かを見るとかっていう、
そういう行為をするって考えるじゃないですか。
つまり、存在が先で、行為が後なんだよね。
はいはいはい、そうね。
これは当たり前じゃないですか。
でも、意識は逆なんですよ。
つまり、行為をするから存在する。
つまり、行いが先で、存在が後っていうふうに考えるんだよね。
おー、はいはいはい。
ここはなんとなく、そう言われてみればっていう感じはあるかな。
うん。あれと、なんだっけ。
花の話と似てるなーって思う。
存在が花するのなのやつね。
そうそうそうそう。
花が存在するのではなく、存在が話しているのだ的な感覚と近いかなーって。
その言葉大好き。
それともね、やっぱり別名に違うところもあるんで、それもね、理解深めできればっていう感じなんですけれども、
これどういうことかっていうと、
自我は自己を定義するっていうのは、
A、B、Cっていうふうに分けていくものというよりは、
立てるっていう、これは行い、行為じゃないですか。
この行為があって、初めて自己というものが現れるよっていうふうな、
そういう動きを表現してるんだよね。
ほうほうほう。はいはいはい。
自我が立てるから事故があるって言ってもいいと思うんだけど、
自我が何かって今この瞬間は一旦わかんなくてもいいんだけど、
そういうものがあったとしたときに、
それが、何か自分っていうものを作り出す、
生み出すっていう行為があって初めて、
自分、事故というものがあるよっていうふうな、
そういうことをフィクターは考えるんだよね。
ほうほうほう。なるほど。
ここで言うと、事故っていうものが私の存在っていう話で、
自我っていうのが、さっきの行動というか行為的な話に近いって感じだよね。
そうなんです。
場所で言うと。
はい。
というところがあるので、まず何か自我というものがあると、
それを根本に置くんだよね、ヴィキセさんは。
そこから出発しましょうと。
はいはいはい。
自我と事故の関係
ただ、これ当然ね、自我が事故、私を作りますって言うんだけども、
ちなみにこれ、一旦真っ暗というか、
本当は空間とかもないんだから想像は難しいんだけども、
そういうゼロから世界を作り出すみたいな話をまず考えてほしいです、イメージとしてはね。
ああ、そうなんだ。
ほうほうほう。
一般的な空間の中に僕らがいるよってことじゃなくて、
そこのスイッチを立ち上げて真っ暗というか、
そういう何もない状態から世界を作っていきますっていう発想をまず持ってほしいんだけど。
OKです、はい。真っ暗になりました。
なりました、はい。
よくわかんないけど、自我というものが何か働き、
持てる働きをして事故が生まれましたと。
うん。
OK?
いやもうあの、OKじゃない。全然OKじゃないよ。
OKじゃなかった。
ちょっと待って、ちょっと待ってね。
何か自我があってねって、自我をどう想像すればいいかわかんないからさ。
何か自我があってね、事故が生まれましたって。
何もさ、暗い画面のままなんだけど。
でもね、それは正しい、正しいのよ。
なぜかというと、自我があるって言っちゃダメで、
そういうのさ、存在が先になっちゃうじゃん。
ああ、まあまあまあ。
さっきふぇひてさんは行為が先って言ったので、
自我が事故を立てるという行為がある。
あるというか、一番最初なんだよね。
あ、だから、そっかそっか。
だから、自我が事故を立てましたって言われた時に、
暗い画面に事故がパッて何か出てきたぐらいの想像が実は正しいっていう。
そう、正しい、正しい。
OK、OK。なるほどね。
はい、事故さんが生まれました。はい、OKです。
事故さんが生まれましたと。
で、そうするとその瞬間にというか、
その事故さんだけで当然世界ってやっぱ成り立たないわけなんですよ。
もっと言うと、今の兄貴の想像は実はもう先に進んじゃってて、
暗い空間に事故が生まれたといった瞬間に、
事故の他に暗い空間があるじゃないですか。
あ、意地悪だね。うん、暗い空間があったよ、最初から。
あったでしょ。それって事故じゃないじゃないですか。
あ、そうだね、確かに。
ね。
あ〜。
つまり、まず本当にゼロベースの、
だから、空間とも言えないといけません、そうなんだけど、
はいはいはい。
ゼロベースのところから自我が事故を立てますとすると、事故だけがあります。
でも事故だけがあるってことを僕らは想像できなくて、
その瞬間に、自我っていう、その、
自分ではないものも立てますっていうことをピキティさんは言うんですよ。
お〜、なるほど。うんうんうんうん。
それが、そこまでいくと、さっき兄貴が言った事故があって、
暗い空間がありますっていう世界をされるようになるんだよね、やっぱ。
なるほど。だから最初、暗い画面を想定したのは、実は罠だったんだね、ハヤトの。
罠です。
はいはいはい。
あの、罠っていうか、そのせたらき全体を自我と呼ぶならば、それはOKなんだけど、
うん。
暗い空間の中にどこかに自我がいると思ってしまうと、それはアウトなんだよね。
ははははは。難しいよ、それは。
難しいでしょ。
だから最初、パソコン画面みたいなものを暗いね、想像してください。
それが、ここまで聞いた後々、もう何もない、それも多分人間には想像って難しいから、
ここからいわゆる刑事上の話なんだけど、何もない空間だとしますと。
うんうん。
で、そこで自我が、事故を定義しました。ポンって時に。
あ、ごめんね、ちょっと待って、それでいくと、空間とかそこって言葉も使えないのよ、この瞬間においては。
うわー、厳密。
空間って、カントで言うところの枠組みの話じゃない?
うん。
そう、枠組みがあるって言うと、できてからすると、その枠組みに囚われるとこからスタートしなきゃいけないから、
もうその時点で制限されちゃうのよ。
待って待って待って、そうすると、面白いね、このめちゃくちゃ単純そうなゲームというか、このイメージする。
自我が事故を定義するゲームのイメージなんだけど、これめちゃくちゃすごい話だね。
そうなんだよ。
というのが、この空間じゃない何かを想像します。
自我が事故を定義しましたって時の構造が、確かに自分の場合は真っ暗な画面の中に一部にポンって事故が生まれたのを想像したんだけど、
これって人によっては、自我が事故を定義しましたって言った瞬間、一人称視点になる可能性もあるんだろうね。
あるある、そうそう。自分が自我という視点で事故というものが生まれたっていう、
まさに一人称の目線で何か増えたなとか、生まれたなっていうふうに見る人もいるだろうね。
さっきのハヤトの話を言うと、もし空間みたいなものをある程度区切りがあるものとして、
もしくは無くてもいいんだけど、想定した時に、第三者視点で空間的なものをいっぱいに事故が生まれましたっていうのが、
たぶん、さっきハヤトが言うところの第三者視点だったら、せめてそれを想像しないと、
自我というものが生まれちゃってるから、まずは事故だけを想定するんだったら、画面いっぱいに事故を想定していないと間違ってますよっていう話だよね。
おっしゃる通りです。
これ、すごいゲームだね。
でも、アネキの認識力は本当にすごいなと常々思っているけれども、この概念をお互いに同じように思い描くのはめちゃめちゃ難しいじゃない?
今やっててもわかると思うけど。
わなって表現したけど、そう表現して間違わせるしか、なんとなく想像させる手段って確かにないよね、と思うよ。
絶対に間違える伝言絵描きゲームみたいな感じなんだよね。
自我は事故を定義するところを絵に描いてくださいとかって言ったらさ、
普通、何か空間、四角を描いて、自我というものがいて、事故がポンって生まれましたみたいな、そういう枠組みがないと僕らは語れない。
これはもう関東なんだよ、だから。枠組みがあるっていうのは。
非我の存在と認識
そうだね。
まさにさっき言った非我の概念と近いと思うんだけど、そのものを伝えるのって結構難しくて、すごく難しくて。
そうだね。
そうじゃないものっていうところから周りを固めていかないと、やっぱ難しいのかなって思ったよね。
やっぱりそれは人間の認識が詰まってる。要は1個の脳だけを純粋に見るのって難しくて、
それではないもの、それ以外のものっていうと関連で捉えてるかと思うんだけれども、そこをちゃんと引いて認識をした上で、
まずは自我が事故を立てますっていう行為があるっていうことから始めるんだよね。
これがめちゃめちゃイメージしにくい。
イメージしにくいし、化け物がこういう作品を見ることができる。
そうね。でもちょっと西洋の感覚取り戻してきた?
取り戻すっていうか、なんとかハヤトの話を聞いて、なんとか想像させてもらってるっていう話だよね。
僕も持ってないからそういう感覚。
取り戻すの何もね。
ところを厳密にちゃんと考えていくんですよ。
本当に単純な話なのにここまで話さなきゃいけないっていうね。
単純すぎるじゃん。自我は事故を定義するなんて、言葉で言ったら何文字?10文字くらいですよ、これ。
この10文字を想像するのがいかに僕らの普段の思考の枠組みと違うかって話だよね。
普通にマイクラの世界をジェネレートしてそこにスポーンしましたぐらいの感じにしか思わないよ。
そうなんだよ。
それと間違いなんだもんね。
その瞬間に世界があって被害があった空間があるからね。
それは事故じゃないっていう話がありますよ。
今コミュニケーションしたんですけれども、この中で言うと事故が出られました。
その時に続けて自我は非我を立てます。
自我が立てるんだ。
これは自我なんだよね。
あくまでも主体は自我と非我です。
事故は自我によって立てられたものだから、
それは後から出てくる存在なんだよね。
というふうな形で、ざっくりと自分ではないもの、事故ではないものを立てるんだよね。
それって後なの?同時じゃなくて後なの?
難しいが、後だね。瞬間的に後って感じかな。
時間軸で言うと、自我が与えた上で事故ができているから、
自我が先か。
もちろん自我が先。
事故の定律と非我の定律に関しては、
自我が先という順番で言うと明確な順番はありそうだね。
ほぼ同時だけど、ステップ的には後っていう感じかな。
これも、さっきの黒い画面みたいなイメージ。
ああ、黒い画面だと分かりにくいか。
なんとか皆さんとお会いしようと思うと、
一旦一般的な話に引き戻すと、
例えば皆さんが外に立っていて、
山があります、川があります、空があります、という風景があったときに、
私がこの自然の中にいるとか、
もっと言うと、私がここにいるという認識を仮に持つためには、
私以外のもの、山であり川であり、
空間という概念であり、ここという位置であり、
そういうものが必要じゃないですか。
つまり事故だけだと、私という概念すら持てないんだよね。
なるほど。そっかそっか。
相対的に定義しないと、
ここにいる私っていうのが否定できないんだよね。
そうですね。否定できない。
なので、非我というものを立てて、
事故というものがちゃんと重要に認識できるようにしますっていうのが、
ザラキとしてあるんだよね。
で、その次のステップ、3番目として、
自我と非我っていうのは、お互いに制限し合う。
つまり、自我は非我ではないし、非我は自我ではない。
事故、自我が立てた事故っていうのも非我ではないしっていう風な、
そういう領域っていうのができていくよっていう風な話をするんだね。
ほうほうほうほう。
ここはどうだろう?そんなに違和感ないかな。
領域ができていく。
なんかここはやっぱ難しいなと思うんだけど、
事故か。自我が事故を立てて、同時に非我が立てるか?
っていう段階で、そこまで多分イメージしちゃってるんだと思う。
なるほどね、そっかそっか。
だから、何を言いまさらぐらいの話に近いんだと思う。
なるほどね、オッケー。
じゃあね、これちょっと難しいからやってみたいのが、
さっき3人きりがさ、仮に黒い空間がありましたと。
で、もしかして事故を立てるって、この黒い空間全部が事故になる?
黒が仮に赤とにかくぱって塗り替えられて、
これが事故ですとかっていう話だとしようと。
そこでは今非我がないよね。
ないね。
非我を立てるってなると、
仮に黒い空間のようなものが世界の全体だとする、自我の全体だとすると、
そのどこかに非我を立てなきゃいけないじゃないですか。
どこに立てる?
どこに立てるってなるよね。
仮にじゃあどっかこの空間を別の青い色に塗って、
赤の空間とその中に青い丸があるとするよね。
えー、どこにあんの?
だってもう全部事故だからもうないよ、あのスペースは。
仮に立てました、自我が立てました。
そうでね、事故の中に、事故の中にというか、
今の兄貴が言う通りで、立てられないのよ。
ないよ、そのスペースないっす。
でも、立てないと私ってものがいませんねってあんたさっきしたじゃないですか。
まあそうだね、いないよ。
だから非我をどっかに立てなきゃいけないのよ。
つまり、事故の一部が非我になるんだよね。
あー面白い、はいはいはい。
なるほど、しなきゃいけないのか。
しなきゃいけないんです。
事故というものを認識しようと思うと、
非我というものをどっかに立てなきゃいけない。
あーオッケー、うんうんうん。
であると、最初は黒い四角だったものが赤い四角になって、
その中に青い丸ができましたと。
待てよと、これってもともと事故だったよねと。
なんで非我できちゃったの?ってなるよね。
なる、なる。
いや、そこ俺なんですけど、みたいな、勝手にやめてよってなる。
そうそうそう。
でも、非我の側からすると、
でもこれ私ですよ、あなたじゃないですよね、だってっていう風にして、
非我が私というものを、じゃああなたではないってことを主張しやすんだよね。
はいはいはいはい。
存在の枠組みの探求
これがさっき言った、自我と非我が互いに制限し合うとか制約し合うって話で。
わー、なんかジントリゲームみたいに、なんかどんどんね。
そうそうそうそう。
うんうんうん。
これまさに動いてるんだよね。
はいはい。
だから、自我と事故、あ違う、
自我と非我って一回分けたらそれで終わりじゃなくって、
お互いに攻め合ってる。
要は本当はそれ事故なんですけどって言いながら、
いやいや、これは非我ですよ、あなたじゃないですよっていうことを、
常にこう、何だろうな、やり取りしてるっていう風な、
そういう風な感覚になっていくんだよね。
なる。なるね、それは。
なるでしょ。
うん。
なる。やめてよってなる。
例えば、これ僕らは、日中の科学もそう思うんだけれども、
僕らたとえば仮に岩手出身の人がいて、岩手県しか知りませんと。
僕らのアイデンティティは岩手にしかたとえばありませんっていうときに、
これを岩手は事故だけれども、それ以外の地域は非我だっていう風に仮に言えるとするよね。
はいはいはい。
そこで、例えば僕は京都に行きましたと。京都も事故になりましたと。
そうなると、岩手と京都は事故で、それ以外のところは非我だっていう風に、
いわゆる人取りが変わりましたっていうことを言えるじゃないですか。
うんうんうん。
そういうような形で、つまり人間っていうのは、今の話でいくと、
非我の中に事故を立てることができるんだけど、
というふうに説明できるんだけど、
そういう人に言わせると、本来全ては自我であり事故なんだよね。
わー、はいはいはい。
でも、その中に非我っていうものが大きくあって、
客観的に見ると、非我、自分じゃない領域の方が大きくって、
その中に事故を広げていくっていう風に見えている。
うんうんうん。
これは非我っていうことよりも、説明のために言ってる話なんだけども、
そういう感覚って、僕ら生きてもあったりするじゃないですか。
自分っていう領域が広がっていくとか、
世界の中で事故というものが、
例えば、それまでは他人だと思っていた人が自分事にしか思えなくなるみたいな、
そういうことってのはあり得るよね。
うんうんうん。
っていうふうに、自我と非我っていうのは、
お互いにそのテリトリーを広げたり狭めたりし合うんですよ。
フィヒテの哲学的提案
っていう風な感覚。
うわー、すごい感覚だね、これは。
ね。
いや、でもあれだもんね。今、早藤が言ってくれたけれども、
厳密には多分違う感覚だもんね、さっきの。
厳密には違う。
うんうんうん。
もっと結構危機迫るというか、
本当、将棋とか囲碁で戦ってるぐらいの気持ちになってる気がする。
そうです。
なぜなら、本当は事故だったものが、非我に侵食されるっていう多分感覚だからね。
早藤のさっきの感覚だと、もうちょっとマイルドというか、
こっちにもうちょっと第二の故郷が増えたよね、みたいな感覚だけども、
もうちょっとやり合ってる感じがするもんね。
そうだね。結構そういう意味では緊迫したというか、
割と切実なやっぱり動きなんですよ。
で、こういう発想をね、今言った自我は事故を立てます。
で、自我は非我を立てます。
で、自我と非我はお互いに制限者います。
ということを考えたら何がいいか。
この関東においてって、
菊池が関東の手だけを乗り越えにおいてって話でいくと、
まずこれを考えると、
さっきまで言ってた関東の物自体っていうものを捕らわれなくてよくなるんですよ。
へー、そうなんだ。
どういうことかっていうと、
つまりその物自体って、
関東の理性が及ばないものなので、
完全なる非我じゃないですか。
でも、そうしてからすると、
そもそも世界っていうのは自我が事故を立てるっていう行為から生まれているので、
その世界に物自体、要は自我の及ばないものっていうのってなくなるんですよね。
おー、確かに確かに。
ただ兄貴が言ってくれた通り、
本当は自我だったんだけれども、
非我になっちゃって、自分とは規範されてますっていうものはあります。
それは別に物自体みたいな認識の及ばないものとか、
人間がアクセスできないものではないんだよね。
あくまでも元々は自我の一部だったから。
っていう風に考えると、
関東の物自体っていうものを消去することができるんだよね。
そうはね、非我で包み込むことが可能になったね。
そうそう、非我っていう概念にして、
でもその非我も自我が立てましたっていうふうにすると、
自我に吸収できちゃう。
おー、なるほど。
はいはいはい、確かに確かに。
分裂を一つに戻せた。
そうですそうですそうです。
っていう風な話で、まず物自体を消去できますと。
あともう一個さ、知るとするっていうのが分かれてるって話をしたじゃないですか、関東においてね。
認識と行為の統一
純粋理性と実践理性ね。
そうそうそう。でもこれも、今の話でいうと、
そもそも事故を立てるとか非我を立てるっていう行為が先で、
それによって事故とか非我っていう存在が生まれるとか出てくるよっていう話をすると、
その、自我が事故を立てるとか、
自我が非我を立てる、
その行為そのものが事故とか、それ以外、自分以外っていう存在があるということだし、
その存在を知るということだと。
おー、知るね。はいはいはい。
知る。
つまりその行為の後に認識が生まれるという風に考えると、
関東とかの実践理性ではね、行いっていう方が先だから、
わざわざ行為と知識、知るっていうことを分けなくていいっていう風に考えるんだよね。
うんうんうん。なるほどね。確かに確かに。一連の流れの一つだよね、みたいなね。
そうそうそうそう。
っていう風になるので、
でも人間っていうのはそういう行為をするっていうところが根本にあって、
そこからいろんな認識とか思考とかが出てくる存在だっていう風に一本化できるんだよね。
はいはいはい。なるほど。スタート地点ができたね。はいはい。
そうそうそう。っていうところがあるので、
ちょっとそこの厳密さとか説得力っていうところはまた次回以降お伝えしていきたいと思うんだけれども、
今日のお話で関東が言った、物事体ってなんだよみたいな話とか、
実践理性、純粋理性分かれてんじゃんっていうところを、
フィヒテがどう乗り越えようとしたのか。
つまり、行為っていうものをより根っこに置くことによって、
その知るとかっていう働きも全部行為が先なんだ。行為に根源的なものがあるんだっていう風に言えましたっていうのが一つと。
うんうんうんうん。
まずその行為っていうのの一番根本は何かっていうと、
それが自我が自己を立てる。
うんうんうん。
つまり、自我っていう、ちょっとそれは何かっていうのが自己欲があるんだけれども。
そうだよね。ビッグマンと同じだよね。その前何?みたいな話になっちゃうよね。
面白いのがフィヒテもこれ、時代によって自我というものをどう捉えるかとか、どう説明するかって結構変わってるらしいんですよね。
本人の中でね。
本人の中でもそう。
はいはいはいはい。
だから自我は自己を立てるって、この出発点は変わんないんだけれども、
じゃあこの自我って何よとか、立てられた自己ってどこまでやねんみたいな話っていうのは、
時々やっぱり変わってたり深まってたりする?
そうだよね。その根本の土台、土台の根本のところってどうしてもそうなっちゃいそうだよね。
そうそうそうそう。
やっぱり1個考えたけどちょっと違ったとか、もっとこっちのニュアンスは正しいとかさ、いろいろあるんで。
そういうところを自我以降話すんだけれども、少なくともその行為の根源には自我が自己を立てるってものがあって、
そこからしか人間の世界って説明できませんよっていうところを行っちゃうんだよね。
うんうんうん。だしそっちの方がカントの言っていたことよりも、それっぽいよねっていうね。納得性高いよねっていう。
そうだね。カントの矛盾を乗り越えれるよねって感じかな。
あーそうかそうか。若い人たちから矛盾してるから。間違ってるから。
そうそうそう。間違ってるから。カント間違ってるから。俺が正しいことを考えたよっていう風に言うんだけど。
でもこれが要は、何回も言うと極端な話だなと思っていて、
フィフティは全ては自我の行為だっていう風に言えちゃうんだよね。フィフティの考えからすると。
自我とは何かとか行為とは何かっていうのはまだ謎だと思うんだけれども、
あれよりものは自我から始まって、しかもそれが行為として起きるっていう風に言ったときに、
キレ味は鋭いんだけれども、それって本当なの?とか、あるいは自我っていうものに全部根源にしちゃっていいの?っていう風に考えたのが、
次のシェリングっていうまた次の人だったりする。
そっかそっか。だしそうだね。考えていくとだいぶ、カントの方がある意味、
一個人じゃなくて、人間全体の同じ挙動みたいなところから捉えると納得感がある気がして。
まだね、フィーチャーの話ちゃんと聞いてないからかもしれないけど、その自我スタートの自我って、
共通なの?それとも個別なの?みたいな、そこら辺が気になってくる。
いいですねいいですね。
これで前回も言った通り、そういう人が、お隣フランスでフランスワークベルトがあったときに、
そういった自由の精神とか、そういうものをいいねって言ったって話をしたじゃないですか。
でもなんかこの、自我は自己を立てるとかっていうところからすると、なんかすごい個人主義的なというかさ、
別にそんな、国がとか自由がとかってなさそうな気もするじゃない?
する。だったらカントの言う低減面法的な話?
そっちから言った方がなんかいろいろ丸く収まりそうというか。
はいはいはい。
実はね、まさに疑問を持ってくれたらめちゃめちゃ嬉しいんだけれども、
そういう中でこのフィーチャーの世界観からすると、どんなことが自由とかさ、
世論の中に対して言えるのかとか。
もっと言うと、そもそもこの自我ってやっぱ何なんだっけっていうところをもうちょっと理解していくと、
果たしてフィーチャーが言ってるところがすごく良いこと、カントを乗り越えた良いことなのか、
ちょっとなんか突き詰めすぎてよくわからんってあったのか。
はいはいはい。
っていうことがわかっていくんじゃないかなと思うので。
あーなるほど。そうか、まあそうだよね。今回はフィーチャーの世界観の根幹の根幹的な話で、
これを元にフィーチャーが何を話したかっていうのがもちろんあるわけだもんね。
そうですそうです。
今まだゲームのスイッチをブインって入れて立ち上がりましたっていうぐらいの段階だから。
いやーそうだよねー。
うん。
今回だってなんか黒い画面が赤くなってみたいな話しかしてないもんね。
そうそうそうそう。
その画面の中で何が起きますかみたいなところはまだまだこれからなんですよね。
はいはいはいはい。
ただまあやっぱりそのいわゆる原理というか出発点をつかむのがやっぱりめちゃめちゃ難しい。
うーん。し大事だってことだよね。そこわかんないとその次の話もわかんないもんね。
そうそうそうそう。
でもあるんで、それを言うためだけでね、1時間ぐらい喋っちゃってるんですって感じなんですけど。
多分ね、大まか間違ってないと思う。間違ってたらぜひ指摘いただきたいと常々思ってるんですけども。
はいはいはい。
なるほど。
あー面白いね。こういう直感に反するというか、考えたこともない感覚っていうのはやっぱり面白いよね。
西洋というか、哲学ならではというかね。
さっき途中でも言ったけどさ、やっぱりどうしようも僕らは世界の枠っていうものを抜きにして存在を語ることができないから、
カントが言ってることはやっぱり正しいって言ったら正しいんだと思うんだよね。
やっぱりそれにとらわれてるとやっぱり違う発想が出ないよねっていうのはまさにそうなので、
フィヒテはちゃんとそこを捉えて自我っていう、なんかよくわからんとしか今僕らは思えないけど、
ここから出発するとカントを乗り越えれるよっていうことをちゃんと言ったっていうのがやっぱりすごいなと思うんだよね。
このレベルでね、確かに違和感感じて批判するだけじゃなくて、だったらこうしようって言えることのすごさだよね。
そうそう、本当にそう。
っていうようなところを面白みとして感じていただけたら、今回大成功かなと思っております。
面白かったです。
この上で何が、本当わかんないもんね。
今思い出の話だけでさ、例えばWindowsってすごいよって言われてさ、何できるかわかんないじゃん。
わかんないわかんない。
昔言うとトスがすごくてみたいなさ、で何ができんの?みたいな話で、
ブラウザがあってインターネットができてとか、こういうソフトがあってみたいな話しないとわかんないから、たぶん次はそういう辺の話みたいなイメージだよね。
そうですね。
フィヒテの思想探求
ところで、今回言ったのはその3つの原理ですね。
自我は自己を立てるって話と、自我は非我を立てるって話と、自我は非我をお互いに制限し合うか。
だったときに、それって結局どういうお互いなのか、それって結局何につながっていくか、
僕らの生活の世の中にいくところを少しずつお伝えしていくことで、
フィヒテさんの考えが見えてくると思うんで、そういった部分は次回以降またみんなで楽しんでいければと思っていますという感じですね。
はいはい。わかりました。
次回以降ですね、フィヒテの世界観に基づくと何が言えるのかというところを見ていくというところで楽しんでいきたいと思います。
では、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。