1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #365 ヘーゲル『精神現象学』..
2025-10-29 48:51

#365 ヘーゲル『精神現象学』その4。カントの定言命法を実践して挫折する「精神」

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

ヘーゲルの『精神現象学』において、自己意識から理性に至る過程を経て、精神の概念へと進化する重要なポイントが描かれています。ここで強調されるのは、共同体の意識の重要性であり、個人の認識と他者や文化との関係性の中で新たな理解が生まれることです。このエピソードでは、ヘーゲルの『精神現象学』における精神の発展について考察し、カントの定言命法が個人と共同体の関係に与える影響について議論します。特に、古代ギリシの悲劇『アンティゴネー』を用いて、法律と倫理の対立から生じる挫折を探ります。ヘーゲルの『精神現象学』では、カントの定言命法に直面し、精神が挫折する過程が描かれます。挫折の後、精神は宗教に目を向け、共同体の善と個人の善の対立を理解しようとします。最終的にヘーゲルは、宗教が持つ力によって新たな視点を得る重要性を示しています。ヘーゲルの『精神現象学』の解説では、理性と文化、社会との関わりにおける葛藤や触れ合いが語られ、次のテーマである宗教に移ることが示唆されます。

意識から自己意識への旅
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回でヘーゲル第5回ということで、引き続き精神現象学の中を見ていくというところでした。
はい。これまでですね、その意識みたいなことから始まって、いろんな経験をして挫折をしたりしていくよと。
で、前回まで自己意識やりましたよね。
で、前回は理性をやりましたよね。
前回が理性なんだね。
うん、理性。
だから意識、大きな流れで言うと、意識さんが生まれて、自己意識になって、そこで理性になりました、対応までやったっていう話ね。
そうです、そうです。
その中でさらに細かい名前があったけれども、まずは理性まで。
そうそうそう、大きいところでね。
で、前回は結構、理性ってどういうことかっていうと、正しさを証明したいとか、理解したいみたいな感じがあって、
世の中の正しさだけを理解しようとすると、自分というのが置いていかれるし、
自分の正しさだけを世界に押し付けても、結局それってうまくいかないしみたいな、そういう挫折があるよっていう話をしたと思うんですよね。
順番で言うと、最初に外を、自分の外を学べば世界がわかるんじゃないかみたいな、どっちかというと修士学に近いんじゃないみたいな話があったんだけど、
それだとダメですよと。結局繋がりませんよ、わかりませんよって。
じゃあっていうので確か、結局それもあれだもんね。外を見てるつもりでも結局自分が作ってるというか、自分の感覚でしか見てない世界だから、
じゃあ逆に自分が世界なら自分から全部作っちゃえみたいなことをしたら、
いやそれはそれでおかしいでしょみたいな話で、じゃあどうするのみたいなところが結論だったんだよね、確かね。
そうですね。
その結論何だったっけ?
結論はそこで初めて我々っていうよりは、自分以外の存在というか、いわゆる失敗だったりとかそういうものが、
ちゃんとあるよねっていうものが見えてきましたっていうところが結論だったんだよね、前回の。
それをRPGみたいに例えたと思うんだけど、自分のテーマがレベルが仮に60ですと。
マップにレベル70の敵がいるんだけど、レベル60の自分には見えませんみたいな。
それがいわゆるこれまでは事故とか他の事故しか見てなかったから、
繋がりでは、前回か前々回か忘れたけど、主人と奴隷みたいな話をしてたじゃないですか。
うん、あったあった。
自己意識にとってかな。
例えば相手を殺すか殺されるかみたいな話をして、要は相手の自己意識を消すか消さないかみたいな。
つまりそれって、私たちとか我々っていう感覚がもうないんだよね。
俺かお前が生きるか死ぬかみたいな。
ここの理性とかの最後にきて初めて、私たちとか自分とあなたを繋ぐ、
より大きい空間とか場みたいなものがちゃんとあるってことに気づくよねみたいな。
そんな話をしたかなと思うんですよね。
理性の挫折と我々の発見
じゃあその我々みたいな感覚と、今生田さんが言った自分のレベルが60だと見えない世界があるんだってことに気づく。
そもそもそれが我々の感覚に近いみたいな。
そうそうそうそう。
じゃあ我々っていうのは、自分が60のレベルで見えてる世界のことを指して我々っていうんじゃなくて、
もうそのレベル70なり100なり1000とか1万とか多分どんぐらいあるか知らんけれども、
そういうちゃんと自分が見えない世界も存在あるだろうと。
その中で自分は今見えるものを見ている、理性を通じて見ているみたいな。
そういうことに気づいたのが前回の理性3みたいな話ってこと。
ごめんね。それでいくと、レベル1万の世界があることに気づくかどうかっていうのは必須なんだよね。
そうなんだ。
それって今回、意識の経験の学ですって言ってるじゃないですか。
精神現象学の元々のタイトルが意識の経験の学ですっていう。
意識の経験か。はいはい。
だからレベル1万の世界があるとかっていうのは経験できてないから、経験を超えてるじゃないですか。
これっていわゆる参考的に超越みたいな話なんだけれども、
要はそれを言っちゃうと結局経験を超えたものを語ろうとしてるから、
それって正しいの正しくないのってそっちの抽象的な話になっちゃうんだよね。
なったりとか無理矢理な話に聞かれないからそこは気をつけてるっていう話なのか。
そうですそうです。
でも今自分が経験したのはレベル60の世界だよ。
でも自分がまた挫折をして学んでレベル70になったとしたら、
70の世界が見えてきたよっていうことまでは言えるんだけど。
はいはいはいはい。
これちょっと多分次回になるんだけど、
このヘイケルは最後に絶対値っていうある種究極の地点を置いてるんだけど、
一応そこがレベルマックスだよねみたいなところまで提示してるんだよね。
なるほど。
ただ例えば今理性になりましたっていう理性が絶対値っていうものを想像できるかっていうと、
おそらくできないはず。
なるほど。どこまで想像できてるのかな。
あとその我々っていう感覚と今の例えの感覚をどうつなげようかって今どこでちょっと質問してるんだけど。
それでいくと、今RPGの世界だとわかりにくいんで現実の話でいくと、
これまではあくまでも人単位だったんだよね。あるいは人と自然みたいな感じだったんだけど、
そこに社会とか文化とかそういうものがあるじゃないかと。
つまりそういった文化的なものとかに子っていうのも影響を受けてるよねとか、
個人っていう人たちが文化ってもう作っているよねとか、そういう仕組みが見えてきた段階っていうような感じかな。
なるほどなるほど。
じゃああれか。事故意識の時に出てきたさ、やっぱり自分っていうものを認識し続けるためには、
別の他者、別の事故が必要だっていう意味で奴隷と主人みたいに別れちゃって、それで自分を認識し続けるみたいな話があったんだけれども、
ここまできた意識君というか、今は理性君だけれども、としては外の自然だったり外の他者とかじゃなくて、
例えばそういった国とか共同体とか文化、そういったものを通じて、自分をちゃんと認識できる段階には全然なってますよみたいな。
いや、理性の最後でそこに気づいて、実は今回の精神っていうものに至るんですけど、精神君になって初めてそれができるっていう感じなんですよ。
精神と文化の理解
そうなの?先取りなんだこれ。
そう。
となると、やっぱりこの意識さんの旅は、自分を認識し続けるっていう意味では、
なんとなくこの事故意識、理性だよね、前回。
はいはいはい。
そこまで通ってもう達成できてたのかなみたいな風に感じちゃったんだけれども、まだだったんだ。
全然まだ全然まだ。
全然まだなの?
そう。
というと、この理性君まで来て、自分、まさにアンキーが言ってくれたように、自分を認識しよう、自分の意識が意識っていうものを認識するっていうことなのは本当にその通りなんだけれども、
それが自分だけだと行き詰まってしまって、結局自分とその他の存在を取り巻く我々っていうところに行かないとそれができないよねっていうところに気づいたっていう段階なんだよね。
なるほどなるほど。
その最後の挫折にぶち当たったとこが前回までで、
そうそうそうそう。
ぶち当たって乗り越えたのが今回からみたいな話になってくると。
おっしゃる通りです。
あーオッケーオッケー。だいぶ時間経ったけど。
ここね、ごめんね。
いや、難しいんだよね。
聞いてもね、たぶんふーんってなっちゃうから。
いやそうそうそう。すごくこの、やっぱりね、意識から自己意識とか理性から今回精神へっていうこのやっぱりターニングポイントが何かってめちゃめちゃ大事だし、
そこで何がスイッチしようかがわかると、たぶん今日の話を聞いてもわかりやすくなると思うから、すごく大事だと思うここ。
はいはいはい、なるほど。
なのでもうちょっとその説明というかね、繰り返しになっちゃうけど、その理性っていうのはあくまでもその世界に理性があるはず、理性とか何か正しいものがあるはずだとか、
あるいは自分の中の正しいものを世界に広げてやろうみたいな、もうなんかその2つしかないのよ、世界か自分かみたいな。
でも最後いろいろやった結果、いや違う、その間に我々っていう、要は国家とか文化とかそういった私たちっていう空間があって、
後ろはそこをやっぱり理解しなきゃダメだよね。そこに初めて気づきましたっていうところで、またジョブチェンジして精神になりますっていう。
あー、オッケーオッケー、そっか、そういうことか。今の状況をハヤトが説明するために、そのRPGの話だったわけか。
うん、あ、そうそうそう。
意識高レベルが上がったので我々っていう概念が見えてきましたよっていう話ね。今まであったんだけどね、意識さんみたいな。
もちろんあるんだけど、もちろんこの意識さんもおそらく、何だろうな、何らかの町とか村とかに生まれてるはずなんだけど、RPG的な意味で言うとね。
でもそれを認識できなかった、自分は一人で生まれて一人で生きてきたんだっていうふうに思い込んでいたみたいな。
はいはいはい。
そんなイメージかな、これは今RPGの例えで言ったんだけどね。
だからこのヘイゲルの精神現象学的な話で言う意識さんは人間でもないみたいな話だったもんね。
そうそうそう。
そこは間違っちゃいけないよっていうか、混同したらだめだよって話ね。
そこが難しいって思われるんだけども、いったん今日のとこ行ってみましょうというところなんですけれども。
さっきからね、なんとなく精神、精神って言ってるんですけど、これヤツリさんの精神現象学の精神にたどり着いたって話なんですよ。
でもあれでしょ、和訳でしょ、精神現象学って。
まあねまあね。これガイストかなっていう、多分同一語の訳なんですけど。
え、そうなの?ガイスト?
ガイストガイスト。
ごめん勝手に食いついちゃった。
なんでなんでなんでそこに。
ガイストってあれでしょ、ゴーストでしょ、英語で言うと多分。
そうすると攻殻機動隊のゴーストの精神、人間の本質みたいなところに繋がっちゃうから、ごめん今ちょっと興奮した。
でも多分ね、実際そうなんだよね、多分。
結局攻殻機動隊とかは多分それを絶対に踏まえてるはずだよなって思うんだよね。
ごめん見てないけどね、攻殻機動隊。
見て、早くね。
もう3年ぐらい言われてるけど見てないですね。
そのガイストっていうものを和訳したものが精神でございます。
お伝えしてきた通りその理性っていうものがジョブチェンジして精神になるんだけど、この精神にきてやっとヘーゲル的には、
ちゃんと自分を理解するっていうことの営みがちゃんと意味を持ち合っていくよねみたいな、そういうふうな感じなんだよね。
これまでの理性まではどっちかっていうと本当に偏ったというか、本当に自分こそが正しいみたいな感じだったから、
やっぱりちょっと窮屈な意識なんだよね。
でもヘーゲル的にはこの精神っていうところからやっとちゃんと世の中を理解できるというか、
より成熟したものになっていけないっていうふうな感じで語っていくんですよというようなところなんですけれども、
今回もちょっとその精神がなんぞやみたいな話をしていくんだけど、ちょっと先取り的に言うと、
次回は精神の次に宗教と絶対値っていうあと2つのポイントがあるんですよ。
次回はこの宗教と絶対値を両方やりますと。
その次に結局何だったの?精神現象学って結局何だったの?っていうのを一回挟もうと思って。
いいね。まとめてもらわないと確かに忘れちゃう。
そうしないと、絶対値で終わるとちょっとこれも先取りなんだけど、分かったような分からんようなみたいな、
僕に自分の中でやっとそういう感覚が出てきたんだけど、さっき言った通り絶対値ってある種の究極点なんだよね。
その究極点が示されたとて、ここが終わりですって言われて、でも私たちの人生は続いてるんですよみたいな感じになっちゃうんだよね結構。
なので次回までは精神現象学の説明として伝えるんだけど、絶対負に落ちないものが残るはずなので、
ヘーゲルの哲学の進展
その次に1回分で何だったのかとか、ヘイゲルが結局何をしようとしたのかっていうのを、これまでフィヒテとかシェリングとか散々やってきたわけじゃん。
そういう繋がりの中でやるっていうところを、向こう2回分ぐらいでやろうとしてます。というふうなことを思ってます。
はいはい、なるほど。ちょっと先取りかもしれないけど、それってヘイゲルもよくある哲学者が陥る絶対者的な無限ループに陥ったとかとはちょっと違うの?感覚は。
とは違う。あくまでもこれってヘイゲルの本当に諸著作みたいな感じだから、その後もめちゃめちゃ重要な本をいっぱい書いてるんですよ。
なるほど。
だからヘイゲルの哲学自体はもう全然進んでいくんだけれども、この精神現象学っていう地点でいくと、ヘイゲル自身もこれってある種序章だよみたいな。
これで何かを完結したっていうよりは、ここから議論が進むんだぜみたいな話で言ってるから。
しかもでもこれまだ前座なんだよね。アニメで言うと最初の3話ぐらいなんだよね。
なるほどだし、それで面白いときに言うとあれだね、仏教の悟りがスタートであるぐらいの感じ。オールじゃなくて。
そうそうそう。みたいなところがあるんで、ちょっとわかりにくい部分もあるんですが、ちょっとそれを向こう2回分でちゃんとやるんで安心してくださいねっていう意味も踏まえて、今回は精神の話をやっていきます。
はいはいはい。わかりました。
この精神っていうのも、やっぱりちょっとサブステップみたいなのがあって、何個か発展していくっていう感じで説明していくんだよね。
1個が精神になります。理性よりは上なんだけれども、一番シンプルな精神ですみたいな話があって。
これも平家は歴史的なものから取ってくるんですけれども、いわゆる哲学なんで、ギリシャだよね。ギリシャでポリスってのあったじゃないですか。アテネとかスパルタみたいな。
ポリスで生きている人たちの意識とか価値観みたいなものを取り上げて、最初の精神ですっていうふうに言うんですよ。
へー、そうなんだ。
さっき言ったとおり、我々じゃん、共同体とかポリスみたいな話。
そうだね。
これがどういうふうに平家が考えてるかっていうと、いわゆる法律が起こる前、もちろん共同体的にこれをやろうみたいな選挙的なものはあるんだけれども、
別にカッチリ法が決まってるっていうよりは、みんなが決めたことで集団の生き方とか進む方向が決まっていくみたいな、
どっちかと言うと、ちょっと習慣的なもの?法律とかっていうよりは。
だよねっていうふうに平家が考えるんだよね。
そうしたときに2つあって、いわゆるポリスが決めた習慣というか、こっちに行くぞっていうものと、
当然一人一人がこういうふうに生きていくぞとか、これを大事にしたいぞっていう、ある種自分の中での倫理みたいなものがあるわけだよね。
そうしたときに、もうちょっとこれを広げて考えると、ポリスの法っていうのは、今で言う国家とか人間が作った法律というか方向性ですよね。
個人がどうあるかみたいなところは、傷つけるとかじゃなければ、例えば家族の愛情とか、親しい人を大切にしたいという気持ちっていうのは、別に誰かに強制されたものじゃなくて、
ある種の神の教えというか、そうするのは家族っていうのは大事であるっていう。今の価値観で言ったら別にそうじゃない家族もあるよとかってあるかもしれないけれども、
古代のギリシとかポリスの価値観で言うと、やっぱり家族とか血縁っていうのは大事だみたいな。そういうものがあるわけだよね。
当時の韓国の話ね。
ポリスとか国が決めた人間の法律と、個人が従うべき家族の絆みたいな、ある種の神から与えられたおきてみたいな、この2つがあるよっていうふうにヘーゲルは言うんだよね。
この両方に従っていくのは聖人ですっていう感じなんだけれども、これって両方に従おうと思うと矛盾が生じます。
ここでもやっぱり挫折をするんだよね。
どういうことかっていうと、ここでヘーゲルが古代ギリシの悲劇でアンティゴネーっていうのがあるらしくて、これを引っ張ってくるんですけど、どういう話かっていうと、
アンティゴネーは女性なんですけど、お兄さんがいるんですよ。例えばカンナ、ハイドがいて、きょうすけと兄がいるじゃない。
きょうすけさんは、国家に背いた罪で処刑されちゃうんですよね。
アンティゴネーの兄でいいと思うけどね。なんでそこを称えるのか知らんけど。
ちょうど兄弟らしい。
きょうすけさんが処刑されたと。
はい、きょうすけさんが処刑されちゃいましたと。
この国は、犯逆者はもちろん犯罪者じゃないですか。なので埋葬しちゃダメですっていう決まりがあったらしいですよね。
でも、ハイドさんはお兄さんが亡くなったからやっぱり弔いたいって言って、ちょっと埋葬っぽいことをしちゃうんだって。
なるほど。多分あれでしょ。よくあるよね。埋葬しないと魂が浄化されずに彷徨っちゃうとか、天国行けないみたいな。多分そういう感覚なんだろうね。
多分前提としてそうあって、それが根本的にあるべきというか、家族が打ち刺されて魂が整ってしまうとか、神の国に帰れないとかっていうのはすごく良くないことだみたいな。
そういう価値観ではあったと思うんだよね。
かわいそうとかそういうレベルじゃないよって話だよね。
そうそう。より根源的なものとしてあるんだけれども。
でもそれは、要は反逆者の兄を埋葬するということも含めて法律で話してるんですよ。
今度はアンティゴネ・カンノ・ハヤトさんが罰せられちゃうんだよね。
えー、バレちゃうんだね、それ。
普通に民衆の前でやってたみたい。
あー、そうなんだ。
いてもたってもいられるんですね。
で、あいつも反逆者だみたいになって捕らえられて、生きたまま地下に放り投げられちゃうみたいな感じになっちゃうんですよ。
これって要は、まさに挫折なんですよね。
神から与えられた家族を大事にしようとか、兄を死を弔いたいっていうふうな気持ち。
でも自分が生きるポリスというところの法律にも従わなきゃいけないっていうときに、
アンティゴネさんも従わなかったわけなんだけれども、果たしてどっちが正しいんですかって、やっぱりそんな簡単には言えないわけだよね。
もっと言うとここには分裂があって、
いわゆる人間といった普遍的な法律、いわゆる我々の正しさと私の正しさっていうところがすごく緊張関係になってしまうと。
これって現代でもあるよね。やっぱり自分の正しさでやりたいんだけど、会社がとか組織がとかってあると思うんだけど。
いやー、だってね、自分らしくありたいとか、ワークライフバランスみたいなのってまさにそれでしょ。
ああ、そうそうそうそう。だからそれは精神の第一段階の挫折というか滑走なんだよね。
っていうところになって、でも逆に言うと、我々、みんなが作ったものに自分も従うっていう意味では、これまで理性まではなかった考え方なんだよね。
ああ、確かに確かに。そうだね。
世界化、自分化だったわけだから、どっちが正しいかってずっと闘争してたわけじゃない?戦ってたんだけど。
そうじゃなくて、あるいはみんなが作ったものに従いたいんだけど、それはできないみたいな。
やっぱりこの方が強いっていうところで、こういったいわゆるジレンマというかカットが起きますっていうのは第一段階です。
なるほど、そうか。我々っていうことを想定するとこういう話になってくるんだね。
そうなんですよね。そこで挫折をして次に行くんだけれども、今度はもうちょっと弱めて、世界の方に、もっと言うと我々の方に寄せましょう。
つまりこれはある種、僕らの時代も本当にそうなんだけれども、まさに国の法律とか、世の中の本当に空気みたいなものだよね。
そういうものに従っていきましょうっていう話になっていきます。
さっきは神の規定っていうものに従ったけど、今度は我々っていう方にある種に従いましょうっていうんだけれども、
これも結局、よくある話なんですけど、自分とは何かみたいな。
要は、外に合わせちゃって結局自分の正しさがなくなるみたいな。
結構そういう話になっちゃうわけだよね。
そうだよね。ある意味、個人差はあれでも、その抑圧が溢れる瞬間がありそうだよね。
カントの定言命法
そうそうそうそう。ついカットになってなんかしちゃうみたいなことって、これも現代にもあると思うんだけれども、
要は、つまり我々と自分っていうところで分けたときに、どっちに行っても結構無理があるよねみたいな。そういうふうになっちゃうんだよね。
そうだね。
それはイメージ枠じゃない?っていうときに、これどうしたらいいと思ったら結構難しいと思わないですか?
難しいよ、これは。
ね。
わからない。
そうそうそうそう。なので、結構これも現代的なテーマでもあるんだけれども、
これがあるでしょ、第1段階は自分のほうに寄せる、第2段階は我々のほうに寄せるとなったときに、
精神の第3段階として、ヘゲルはこういうふうに考えるんですけれども、
こっち行ってもダメ、こっち行ってもダメ、フラフラしてるのよくないねって思うわけだよね。
っていうときに、とはいえ正しいことをしたいとか、やっぱりより良いことをしたいという気持ちはずっとあるじゃないですか、この精神というものに対して。
そうね。
ある種それが、より世界を正しく認識するとか、より良い方向に行けば、それこそはより良い意識であるって発想ここにもあるんだよね。
っていうときに、これもちょっと理性の細分っぽいんだけれども、要は正しい善を実現しようと。
それはただ自分が思う善を実現するんじゃなくて、自分も正しいと思えるし、世界も正しいと思える、そんな善というものを実現しようというふうに考えるんだよね。
いやー、それが難しいから困ってるんじゃないかっていうね。
そうそうそう。私、それを思い浮かぶ人がいないですかって話で。
ヘーゲル。
カント。
カント。
カントです、これ。
カント、定言明報?
定言明報ってまさにさ、誰もが正しい。どんな瞬間でも誰もが正しいと思うっていうものに自分が従おうっていうことじゃないですか。
そうだね。しかもこの瞬間だけじゃなくて、未来永遠後を正しいと思えるみたいなね。そのぐらいのレベルの話だったよね、確かね。
そうですそうです。それがまさにカントの確立なんだけれども、つまりこれは、個人の善と世界の善、要は我々の善っていうものを乗り越えた善なんだよね。
だからヘーゲルがここでそれを取り上げるのも分かるよねっていう話で、つまりカント的な善、いかなるときも嘘をついてはならぬみたいなさ。
それがあったとして、それに従えば、個人のほうにも我々のほうにもひたりきりせずに、本当に正しいものだけに集中できるじゃないかみたいな。
そういうふうに考えるんだよね。
おー、そうなんだ。実際ヘーゲルはカントのこの話を引いてるの?
そうそうそう。
へー、そうなんだ。
うん。なのでやっぱりカント的なところに、この精神って言ったら至るよねって言ってるんだけれども、これはカントのときも言ったけれども、そうは言ってどもねっていう話があるわけじゃないですか。
今、至るって言ったけど、至れないっていう話してたじゃないですか、この前のカントのときも。
そうなんだよ。だから精神、もっと言うとこれまで意識の旅っていうのは、頑張ってなんとか乗り越えようとして脱出をするっていう話じゃないですか。
つまりここまで来て精神は、要するにカントの善だって言って、そこまで迷惑に言ってるかはあれなんだけど、
いわゆる低減迷惑に従えば、我々と個人っていうものを乗り越えて、全体の善に至るんだっていうふうに思って頑張るんだけど、
でも当然やっぱりそこも挫折するんですよね。
あー、ちゃんと無理だってなるんだ。
そうそう、無理だってなるなる。
要はこれも繰り返しになるんですけれども、いかないときも嘘をついてはいけませんっていう一言ですら、
やっぱり本当にって言ったことももちろんできるし、より社会から、そんなのは無理だよっていろんな抜信が来るわけですよ。
まあ、だし自分も傷つきそうだよね、どっかの段階でね。全部正直に伝えたっていう。
それは理性の段階であればいいんだよね。
精神の挫折
要は自分の大切さを巻き散らそう、世界に大切さを押し付けてやろう、であればいけるかもしれないんだけれども、
でもそれはやっぱりもう挫折してきたわけじゃないですか。
そうね、そこはもう分かってるし、この感動的な振る舞いをしてもやっぱり、あ、違うってなったんだよね。
そうそう、精神の段階に至ってやっぱりそれをやろうと思ってもやっぱり無理だよね。
だから、思ったよりやっぱり共同体にとっても自分にとっても最高のものみたいな話をやろうとしたときに、やっぱりそれは無理がある。
どうしてもそこの繋がりが切れてしまうというか、ちゃんと自分と世界、自分と我々と繋がったまま、
より良い方向に行こうとするっていうのはすごく難しいなというふうになっていくんだよね。
はいはいはい。でもあれだね、このヘイゲルの精神現象の途中で、
すでにもううちらがぶつかっている関東の定言名法とか確立みたいな話を聞いたときに、
やっぱり無理じゃんと、せめてそこに近づくような努力しましょうねぐらいしか言えなかったところを、
ヘイゲルはこの次から多分そこについて語っていくって話なんでしょ?
そうそうそうそう。
ちょっと楽しみだね。どういう話になっていくか。
そうなんだよね。だからちゃんとそこを、挫折の後を語ってくれるんだよね。
ただめちゃめちゃここからちょっと抽象高くなるんだけれども。
そうなんです。
ただ一応ね、じゃあここでと、関東の確立とか定言名法とか禅っていうものに挫折した精神がどうなるかっていうと、
最初ちょっと内側に引きこもっちゃうんだよね、一回。
要は頑張って外に実現して、我々と自分を接続しよう、接続しようってやってたわけじゃない?
でも例えば絶対にいつか嘘をついたらいけませんっていう時にそうやろうとすると、
これは嘘を本当についてないのかとか、嘘をつきそうになる瞬間とか出てくるわけじゃないですか。
まあまあ出るよね。
ね。っていう風に要は行動をすると妥協しちゃうねと。
結局何もしない方がいいんじゃないかみたいな。
内面的な探求
急に悟ったぞ。
うん。っていう風にちょっと引きこもっちゃうんだよね。
おー、そうなんだ。
そうするとどうなるかっていうと、あいつは悪いとか、この風習はおかしいとかって言いながら、
言うというか思いながらも何もしないみたいな。
はいはいはい。
そういう風にある種、心は美しいというか、理想は高いんだけど結果何もしないみたいな。
いやーなんかね、突然山に修行に行っちゃった感じがするよね。
そうそうそうそう。でもそれによって私は俗世から離れて清らかな存在であるみたいな。
はいはいはい。
そういう風にはある種精神、意識になっちゃうんだよね。
わー、なんか面白くなってきたね。だいぶね。
そうなんだ。結局さっきみたいに、関東的なことを実現しようとしてめっちゃ頑張った人が、
本気で挫折せない頑張った人が行き着くのはここなんだ。
ヘイギルは考えている。
でも言われればイメージは湧くでしょ。
たしかにどこまでね、例えばさ、世界から飢餓をなくそう、貧困をなくそうって言ってめちゃめちゃめちゃめちゃ頑張ったんだけど、
やっぱり亡くならなかった時の絶望ってやっぱり想像はできるじゃない。
そうだよね。そこに対する諦めみたいな。
もちろんそれでも続けるのが尊いんだっていうのは簡単だけれども、
やっぱりもう俺には無理なんだって言って引きこもっちゃうっていうのも、別にそれはもうなんか、
そりゃそうだよ、お前頑張ったよって言わざるを得ないみたいなさ。
どこまで頑張った後の話だもんね。
そうそうそう。絶望して挫折した時の話だから。
それはどうしても、でもそれって結局、世界って自分ってものの分断がなくなってないよね。
結局何もしないっていうことは、やっぱり精神からするとその度におごりになっちゃうわけなんだよね。
そうだよね。
なのでここで終わらせるわけにはいかないんです。
ここで何を精神が築くかというか、挫折をした後に何を得るかっていう話なんだけれども、
なるほどと、要は我々の善と私の善っていうものをいくにぶっつけるかっていう話をこの精神でしてきたわけじゃない?
っていう時に、我々から出発しても私から出発しても無理なんだと。
つまり出発点が間違えていたので、要は我々でもない、私でもない、そういうものを見出すしかないんだっていう風に考えるんだよね。
それは何ですかっていうと、ここに宗教が出てきます。
だからさ、すごいね。めっちゃ現世で頑張って頑張って頑張り尽くしてダメで、山に引きこもって目覚めちゃったっていう話じゃない?
そうそう。涙あってくれちゃうっていう。
なるほどね。
でもそう考えると、宗教にいたら、要はなんとなく困って神を信じましたじゃなくって、本当に本当に考えた結果、
もしかしたら神とか宗教というものは救いになるのかもしれないみたいなさ、その切実さはちょっと伝わる気がしない?
伝わる。
この意識さんが生まれてから、さっき入った意識の経験の旅、旅だっけ?
はい、旅になっちゃってる。
学科、ごめん。経験学科だね。
それだとただの物語になっちゃうか。
確かにそう。でも本当物語なんだよね。
それから、やっぱり経験してるし実践してるっていう凄みを感じ始めたね、今回で。
お話として聞いてたのが、この意識目線に立つとすごい人生だなって感じるもんね。
そうなんだよね、本当に。
人じゃないけどさ。
意識性なんだよね、波乱万丈で。
やっぱり努力もしてるし、もちろんチャレンジもしてるんだけどやっぱりくじけてしまうっていうところだよね。
それはなぜかっていうと目標としているものが、やっぱり世界を理解するんだけど、世界ってももちろん事故というか意識自身も含まれている。
意識自身も含んだ中での世界を正しく理解しようとしたときに、こんなに難しいことが起きてるんだっていう話なんだよね。
待ってよ、これって世界を良くしようとかじゃなくて、世界ってどうなってんのっていう話?
そうです、ポンポンはね。
あーそっか、じゃあちょっと待って、世界はどうなってんのが目的だとして、なんでカントみたいなことをやったんだ?
はいはい、これはね、面白いんだけど、要はセイシンさんの話は、結構その善とかさ、より良いみたいな話をしたじゃない?
今日の一番最初の話に戻ると、アンティゴネーっていう、兄が参逆してって話をしたじゃないですか。
つまり、自分と我々とか、ことを、社会みたいなものを繋げようとしたときに、結局どっちの正しさが優先されますかっていう話にやっぱり行き着いちゃったわけだよね。
そっかそっか、そこをちゃんと理解しないことにはねっていう視点で見ていくとって話ね。
そうですそうです。つまり、より自分と世界を正しく理解しようとしたときに、結局その正しさでぶつかります。
だって元々は自分しかいなかったから、別にそこのぶつかりもなかったし、他者がいても奴隷か主人かって読みで、
別に正しいか正しくないかじゃなくて、生きるか死ぬかっていう、その基準は別にないみたいなものだったんだよね。否定されるか否定する側かみたいな。
そこが理性を経て、我々っていうものは治り着いた精神に来たときに、やっぱりより正しいとかより善である、その方がより尊重されるっていう領域に来たようなネットになったんだよね。
だから今日の精神の場では、結構正しさとか善とかそういうものがテーマになったんだけど、その根本には結局何がこの世界なんですか。
それを理解したいというものが根底にはずっと続いてるんだよね。
それで共同体的な正義というか、良しとされるものと個人の良しとされるものはぶつかるし、かといって関東的な低減名法的な良しとされるものが存在するのかっていう意味で頑張ったんだけど、
いや、これもないじゃんっていう挫折にぶつかって、山にこもって今開眼したっていう話ね。
自分がこうしてやろうというよりは、その視点で善とは何なんだろう。この世というか、この世界の。
そういったときに、あっ、そうかっていう、共同体側の善でもないし、自分の善でもない、じゃあ誰の善なんだ、神だみたいな、そういう閃きがあったっていう話なんだね。
そうですそうです、そういうこと。
あーオッケーです。面白いね。
でもだいぶ前歴も見えてきた感じがするね、そこの繋がりが。
そうね、この回で初めて石木さんの目線に近づいたかもしれない。
はいはいはい、そうだよね。
我々っていうところがわかりやすいのは、やっぱり僕らもその葛藤を何らか感じてるはずなんだよね。
まさに子の正しさと社会の正しさとみたいな。
理性までの話でいくと、やっぱりその世界を理解しつくしたいとか、正しく把握したいみたいな欲求って、別に持ってる人って少ないと思うんですよ。
普段生きてる人って、それこそ哲学者ぐらいだと思うんだけども。
そこがやっぱり、ある種、一人で引きこもってる間はそこに純粋にあえるんだけど、我々っていう関係になった瞬間に、やっぱりそれだけじゃなくなってきますよね。
ここで脱出した精神は、次は宗教っていう、新しい宗教を作るんじゃなくて、そもそもこの社会に宗教っていうものがあったじゃないかって、また新しい視点を発見するんだよね。
これは理性のときに社会とか、そういう集団が見えてなかったのと同じで、この精神には宗教っていうのが見えてなかったんですよ、これまで。
でもここに至って脱出を繰り返して、あれ?実は宗教とか神っていう力があるじゃん、みたいな。
それを、ある種、次は意識の場として、その精神というか宗教っていうものに移り変わって、宗教っていう目線から考えてみようと。
宗教の意義
というのが次のステップっていう感じなんだよね。
おー、なるほどね。今回の挫折もわかったし、だから宗教っていう話に移っていくんだっていうのが見えた気がするね。
次回ももしかして言っちゃうかもしれないんですけど、これがすごいのが、当時は1800年ぐらいかのドイツでいくと、当然まだまだ宗教的な権威ってのが強いわけだけども、
いわゆる中世みたいな、宗教と神学っていうのは一緒だとか、神の方が強くて哲学は下だみたいな時代からだいぶ変わってきてはいるんだよね。
それこそフランス革命で人の人権と自由みたいな話してるぐらいだしね。
でもここにヘイビュラはもう一回、哲学の文脈の中に宗教をちゃんと入れ込んで、その自然性っていうのを語ってるわけなんだよね。
あー、そっかそっか。
周りと同じようにというか、時代の雰囲気的にはそこは結構ないがしろにして良いというか、なんとなく軽視されてたけれども無視しなかったっていう話なんだね、ちゃんと。
なんと言うと、自覚的に哲学って中に宗教を入れ込んでいるというか、無理がないって言うと言い過ぎかもしれないけれども、
いっぺん挫折した精神が宗教的なとか神的な力に至るっていうのは、なんとなくイメージが湧いたわけじゃない?
湧いた湧いた。うん、確かに違和感なかった。
そうそうそう。っていうふうに要は、もともと宗教と哲学は一緒であるとも言わないし、
別にそれはバラバラになっているとも言わないし、要は必然的に宗教と哲学っていうのはくっついているんだということをちゃんと言ってるんだよね。
なるほど。そっかそっか。なんか突然神出てきたとかじゃないもんね、確かにね。
そうそうそうそう。そういったことも含めて、すごい良い修道というか、上手いなあっていう感じがするし、
でも彼は宗教を次に絶対値っていう、自分が考えたより次のステップを考えてるのよ。
そっか。だからここまで、宗教までは、ハヤトが言ってた空海がやった他の宗派を説明しつつも乗り越えていくみたいな。だから途中なんだ、この宗教も。
そう、途中途中。
つまりヘイゲルは、宗教はもちろんすごいよと。自分の中でも上から二段階なんだけど、でもさらにその上の絶対値っていう段階があって、自分はそこを考えたんだよっていうふうに言ってるわけなんだよね。
おー、なるほど。はいはいはい。
なんか結構意欲作じゃない?やっぱこれは。
あーすごいね。すごいし、ちゃんとこれがやっぱり、ちゃんと残ってるってところは破壊力があるって話なんだね。
理性と文化の葛藤
そうだね、そう。よくも悪くも批判され対象としてはすごく扱われてるっていうのは、そこから何か引き出せるものとか、インスピレーションが湧くものがあるっていう話なんだよね。
確かにそこまで、そうだよね。あらゆるものを説明してくれてる、言語化してくれてるとも言えるんだもんね。
そうそうそうそう。
こんな感じなので、今回ちょっと精神の話自体は結構増やしちゃったんですけれども、まさにこの理性っていう、まずちょっとひとり弱い世界か自分か、生きるか死ぬかみたいなところから、
もうちょっと僕らの感覚にも近い、いや、そもそもどうそういった文化とか集団の中で生きていくんだ。世の中、社会が大事か子が大事かみたいな。
そういうふうな話の中で、その葛藤とはなかなか吻食できなくって、次は宗教に行きますっていう。やっぱりこの、すごく転換点というか、ガラッと雰囲気が変わるところっていうのは悲しいだけなのかなって思うんですよね。
そうね。
しっかりとさっきおっしゃった通り、宗教と絶対的に2つを一気にまとめていきますと。
なぜならちょっと抽象高いから、これはもう勢いでいかないと多分ね、もううーんってなるかなって思ってるんだけど。
勢いっぽいなんだ。
勢い。ちょっと勢いです。
ただ勢いっていった部分を、次の次の回でちょっと立ち止まって考えてみましょうかっていうふうにするので。
そこはちょっと皆さん、あんまり心配せずにというか、どうなんだろうな。今そういった話を聞いてくださる方が何を心配するのかちょっとわかんないですけど。
でもちょっと引き続き、ヘーゲル会、これまでやってきたドイツ関連論会というところはちゃんと一緒にまとめて、まとめてというかね、こういうところまで来たね、我々はというところまでやろうと思ってるので。
そこをぜひ引き続き一緒に見ていただけると嬉しいなと思っておりますというふうなところですね。
はいはいわかりました。では次回ですね、宗教のほうの話に移っていくというところで楽しんでいきたいと思います。では引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
48:51

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