フィヒテの哲学の追求
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、前回でフィヒテ回終了ということで、今回は雑談やっていきたいと思います。
はい、お疲れ様でした。
お疲れ様でした。どうでしたか?
前回さ、最後の締めの時にも言ったけれども、関東からヘーゲルに至る踏み台としてのフィヒテみたいなね。
はいはいはい。
そういう感じだろうかな?
もちろんね、もともとはそういう風に捉えられたけれども、最近はそうじゃないよっていう話もあるけれども、
ちょっとどうしても今回構成上、ヘーゲルに至る道っていう風に作っちゃってるから、
ちょっとそうなっちゃったっていうのはあるかな。
ああ、そっかそっか。フィヒテについて、今回5回だったけれども、10回以上やりながら、
このフィヒテから何を本当に言いたかったのかを突き詰めるみたいな感じではなかったっていう。
そうだね。
前回までは東洋の、むしろ日本の江戸時代みたいなことだったと思うんだけれども、
フィヒテの第1回にも言った通り、僕の中でいわゆる根源を突き詰めるっていうことはちょっと逆しらであるみたいな。
それだけが思考の方ではないっていうところが前提にあるから、
フィヒテをちょっと逆しらの根源、権限みたいな感じで扱っちゃったところはあるんだよね。
ああ、あれか。もとおりのにらがモードに入っているっていう。
そうそうそう。ちょっとそこの今、視線がスッと入ってきてるから、
前回やったまさに自我っていうところで、第0法って言ってたけど、絶対一とか絶対者に行きましたみたいな話っていうところも、
まさにやっぱり、より根源根源を突き詰めていくと、結局言い方したいだけれども、分かったような分からないようになってしまう。
それはフィヒテが悪いのか、それを理解できない僕が悪いのかってもちろんあるんだけれども、
やっぱりそういうふうに捉えられてしまう部分ってあると思うんだよね。
なので、フィヒテの考えそのものを理解して役立てようとかっていうよりは、
一方の突き詰めたよりとして、自我とか知とかを突き詰めると、ああいうふうにフィヒテがいて、
次やるシェリングがいて、最後ヘーゲルがそれをどういうふうにまとめたというか形にしたのかみたいな。
これもね、面白いっていうか話があって、やっぱりヘーゲルこそがね、この近代哲学の近似党だとかさ、報道戦だみたいな話ってあるじゃない?
信仰と絶対者の関係
あるんですね。
あるんですけれども、それはやっぱり結構一変党の見方だというか、今の時代そうでもないよみたいな話もなんかこれらしいんだよね。
でもまあ、それでいうとそんなにヘーゲルすごいんだ。
ヘーゲルはすごい。ヘーゲルはやっぱりすごいと言われ続けてきた。
まあ続けてきたんだけど、それをっていうのはなんか読めば読むほどわからんってなってきて、
実はヘーゲルは大したこと言ってないってやっぱり言っちゃう人もいるし。
難しいなそれ。
読めば読むほどみたいな。
ああ、だってね、その、なんだ、ビートルズはすごいのだってさ。
ああ、そうね。
でも今にしてみると結構単調だよね。シンプルだよねみたいなさ。
いや、そうそうそう。
そんな上手いか?みたいなさ。
なんか、どっから、どうとでも突っ込めてしまうし、どうとでもすごいとも言えるしみたいな。難しさなんだろうね。
でもやっぱり、自分のこと言ってもわからんけど、やっぱりビートルズのことを言えば誰かが言ってくれるとかさ、
ビートルズ知ってる人が反応してくれるみたいな、そういうこともあったりするわけじゃない?
ああ、そういう意味のキャッチーさというか、あるんだ。
そうそう、入り込みやすい。
だからヘーゲルについて語るとやっぱり、なんだろうな、ヘーゲルはみんな知ってるから、哲学者はさ。
だから話を聞いてくれるみたいなこともあるんだろうとは思うんだよね。
なるほど、面白いね。
っていうのもあるんで、やっぱり僕に言うとそれだけ話題ではなるし、
誰もが一回学ばなきゃいけないと言われてる人ではあるから、すごいことと間違いないのがヘーゲルという感じなんだけど。
でも、前回もカウントリベンジして、ロックとかさ、そういうことをやった中で、
あ、そういうことをやったんだねってふうに伝えたと思うんだけど、
前回と言われるときって、やっぱり僕もヘーゲルわからんわからんって言いながら、
ハンバーガーの話をして、アグヘイベンだとかってワイワイってしかできなかったと。
そうなんだよね。
2年前くらいかな。
そういう感覚なんだ。
あとは言えないね。
今回はもうちょっと、まさにカウントリして、シェリング、これも一個の育てしかないけれども、
一応そういう流れがあるというものをたどることで、
もうちょっとヘーゲルのこと理解できるかなとか、
もうちょっとヘーゲルがやろうとしたことに近づけるんじゃないかっていう期待を持ちながら、
今、シェリングを勉強しようとしてみたいな感じなんだけれども、
そういうところもあるので、
踏み台とか叩き台っていうところはちょっと、
ふいひてさんにしてはスレだなとは思うけれども、
そういう流れを知ることで理解できるとか、
僕らが腹を打ち抜けることもあるのかなとは思ってるっていう感じかな。
なるほどね。
どうなの?
こっちが何も知らない状態で、
大学とヘーゲルに至る素晴らしい叩き台を作ったのかな?みたいなね。
ある意味ね、大学辞めてさ、
他のところに、街に逃げなきゃいけないぐらい立場早くなったわけじゃん。
こういう話をしてる。
そんぐらい、ちゃんとみんなに伝わった上で、
めっちゃ批判されてるというかさ。
多分あれでしょ、神の後悔も別の絶対者みたいな話を立てちゃったから、
後悔されたんでしょ、多分。
だってね、それでいくと、
ふいひての場合は絶対者を立てる前に、
世の中には道徳的な法則みたいなのがあって、
それが神だみたいなことを言ってるらしいんだよね。
だから神って一応下げちゃうみたいな感じだらしくは。
へー、そうなんだ。
ここをちゃんと読み切ってこないとあれなんだけど、
それはもうほぼ無神論じゃんって言われたみたいな感じがするんだよね。
そこから反省というか、いろいろ考えたときに、
やっぱり信仰、信じる、これも行為じゃないですか。
というものが大事で、それがあれから人間とは知的な活動ができるんだみたいな。
つまり信仰というものがより根源的なものにあって、
絶対者っていう、これを光って表現したらしいんだけど、
太陽をそのものを見るのって苦しいじゃないですか。
そのぐらい強烈な光を放っていて、
だから人間はそれを捉えられないんだけど、
その光によって我々は生きてるんだみたいな、
ちょっとそういう費用をしてるわけじゃないんだけれども、
光というものを絶対者のメタファーとして捉えて、
そういうものを解き明かしていくというか、
知識と本能の限界
そういうものから我々は知という営みをしてるんだみたいな。
そういうふうにどんどん考えていったらしいんだよね。
なるほどなるほど。じゃあむしろこの絶対者っていうものと、
あるいは信仰の対象である神みたいなものを、
フィフテが明言しないけれども、
とはいえちゃんと別のものを立てたじゃなくて、
同じものだぐらいにすることで、
どっか大学の教授にまた戻ってたもんね。
そうですベルリン大学に戻ってくるんだけど。
じゃあそうやって社会とうまく折り絵をつけていった面もあるのかもしれないね。
そうだね。それが本当にやりたくてやったのか、
周囲のいろんな、多分両方ではあると思うんだけど、
環境のいろんなこともあって、
そういうふうに変わっていったという流れもあると思う。
だから純粋に自分の思想を突き詰めて、それは難しいし、
よくニーチェが発狂したいと言われますけれども、
やっぱりそのぐらい自分の思考を突き詰めては難しいんだなって思うよね。
それ人生をかけた人だからね。
作者はみなさんそうだからね。
なるほど。それと、ハヤトは例えばこういうフィフテを読んだ時というか、
どう捉えたの?この人。やっぱり踏み台として捉えたのか、
いろんな要素はあると思うんだけど、その辺のバランスというかパラメーターというか、
どんな感じで思ったの?
最初は逆白なやつなはずだってところから入っていって、
今言って読んだというか、5回分やらせていただいたというところからすると、
やっぱり、地というものだけで近づけようと思うと、
地の限界にぶち当たって折れちゃうよねっていうことを思ったんだよね。
彼は折れずに絶対に立てた、そういう働きを立てたわけなんだけど、
昔これ、雑談でしたことあったかな。
僕、中学生の時に、感情とかって本能的なもので、動物的なものだから、
人間たれもの理性100パーで生きればならぬみたいな、よくわかんないこじらせ方をした時があって。
なんか本読んだんだっけ、それって。
読んでない、自分で。
そういう感じですね。
理性だけで生きようってするんだけど、そうなると結局、なぜ生きているのかっていうのに、
そこには理由がないとか、生きていても死んでいても同じであるみたいな、そういうところに引き詰めちゃうんだよね。
あー面白いね。
だから育っていくと結局、知識だけとか頭だけで世界を割り切ろうと思うと、
やっぱりどこまでぶち当たるという感覚は自分の中にあったのよ。
それをふいひてさんに勝手に共感しながら読んでたっていう感じかな。
あーなるほど。そのぶち当たる感覚が共感できるというか。
そうそうそうそう。
やっぱりどこまで行っても知というものだけで行こうとすると、
前回も言ったように、知を知るとは何かとか、そういう何かをどんどん根源に打つときに、
やっぱ分からんとか、これじゃ説明できないとかになっちゃう。
なるほどなるほど。そっかそっか。
だからどっちが正しいとかっていうのは、たぶん難しいというか、証明できないかもしれないけれども、
ある意味、ふいひてが批判したというか、違和感を持ったカントの感覚?
もともとの人間にはこういう枠組みがあってっていうか。
そっちってもうちょっと本能的じゃん。理性。
もちろんそれを理性って表現したのかもしれないけれども、人間がもともと持ってる理性って表現したのかもしれないけれども、
全て地でやっていくよりは、もうちょっとこう、本来備わったものっていう?
まあそうだね。そういう構造の中で生きてるよっていう前提条件があるからね。
そっちの方が馴染むとか、意外となのかな?
放出に近い可能性もあるよねみたいな部分なのかな?
そうだね。だからこれたぶんまさに生きてる実感?やっぱり僕らは生きているとしたときに、
どこまで行っても、知識をある種磨いていったとしてもお腹は減るしとか眠くなるしとかって、やっぱりそういうのは避けられないわけじゃない?
で、もしかしたら東洋的に修行をしまくったらそれを乗り越えるとかってあるかもしれないけれども、
ごま一粒。
そうそう、お腹パンパンみたいな。
いちいちごま一粒だけか。
うん、かな?それなんだっけ?
ぶった。
あ、ぶったか。
でもそういうところで生きてる人もいるかもしれないけど、それとは超人的ですと。
僕ら普通の人間がどんだけ知識を働かせても、やっぱりどこかに知識を超えたものがあるとか、
何か人間の存在を超えた計らいだらけがあるとかっていうことは、どこかでぶつかっちゃうんだよね。
もちろん知識だけ言ってもさ、人間って所詮見えてる範囲はこの光の範囲で、聞こえてる範囲はこの波長の範囲でっていうところの限界もあるってことにも気づいたときに、
それを超えた世界ってのは物理的にもあるわけじゃない?
だから、やっぱり知識だけとか自我だけで預け進んだときに、やっぱり全てを語り尽くすっていうのは結構無理筋なんじゃないかなって思ったらやっぱりちょっと無理筋っぽかったみたいな。
そういうふうな捉え方をしたかな。
まあ確かにさっきそうだよね、本能的なものも交えた方が本質に近いみたいな表現しちゃったんだけど、その本質があると思っちゃってるのが、
たぶん元に飲みながら的に言う逆しらって話で。
フィヒテの哲学の考察
そうそうそうそう。で、そんなこと考えずに我々はね、おいしいものを食べるときにはおいしいと喜び、きれいなものを食べるときにはきれいなものをめでって、それだけでいいじゃないかっていうスタンスも分かるっていう。
そういう感じだよね。
難しいなあ。だからどっちの方が正しいのか、どっちの方が本質に近いのだっていう時点ですね、ちょっとこうずれてる可能性がある。
そうです。それは少し違いです。
なので、ちょっとこれいろいろ言っちゃったけれども、なのでキュウヒテ自身に関しては、そういう共感というか意志を突き詰めた人の凄みを感じたけれども、それに全面的に乗っかることはできないかなっていうふうなスタンスかな。
なるほど。だからこの先、それこそシェーディング、ヘイゲル見ながら、またね、その位置付けだよね、ポジションとか見えてくるかもね、みたいな感じですね、それこそ。
はい。
お兄さんはどうだった?なんかね、今回結構頑張って苦労して、衝動っていう第0地点とかって、音をなんか馴染ませようとしてくれたと思うんだけど。
いや無理だよね。
結局ね。
そうだね。世界観としては面白いけれども、どうしてもやっぱその、じゃあ自分はどう生かすの?みたいな。
まあ哲也くんってそういう話じゃないとは思うんだけれども、生かした時とか、自分に引き付けようとした時に、そこまで心からの納得感みたいなものは生まれづらかったよね。
世界観はわかるっちゃわかるけど、あんまりそこがリンクする感覚とか、そういう感覚はやっぱり少ないっていうのはさっきのカントみたいな表現の方が、しっくり人間にはストーリー理解としてというか、ストーリーとして理解しやすかったのかなというのは。
はいはいはい。
それはそうだよね。ある種、さっきも言ったけど、知識で全てを解き明かしたいとか、知るという行為によって理解できるんじゃないかっていうところまで共感できればたぶんすごいしっくりくるとは思うんだけれども。
ほうほうほうほう。
やっぱり、人生観とか人間観だったりすると時々言うと思うんですけど、それがなじむかどうかっていうのは結構、特にフィフティみたいな突き詰めた人とか、
かなり、他方に客さんに寄った人?今はやっぱり難しいってあるんだろうなぁとは思うんだよね。
そういう意味はね、例えば今回聞いた漢字だと、他者のところとか、あの辺の世界観をもっと深く知ることで、もうちょっと自分のこの世界の在り方みたいなものがありありと想像できたとすると、
このフィフティの世界観の中でね、それがしっくりくるものはあるかもしれないなっていう可能性は感じるけどね。
ああ、なるほどね。
そういう意味ではね、そういうところの柔軟性も含めて見てくれたら嬉しいなとは思うし、
次のシェリングとかヘイゲルまで続くので、そこも含めながらもう一回フィフティってどうだったんだっけっていうふうにやり取りできると面白いかなとは思ってる感じかな。
実学としての哲学
はいはい、なるほど。
それで言うと、さっきちらっとこの感想、でも自分の感想的なところで引きつけたんだけど、
哲学の使い方的な話で聞きたいというかさ、思うことがあって。
もともとそういう哲ラジオ始まった時とかもそうなんだけど、哲学ってなじみがないのはその通りなんだけれども、
なじみがない上に、いわゆる学問としてというか、哲学という営み自体が、
実生活とあんま関係ないんじゃないかみたいな感覚を持っていたんだけれども、
これどこの回か忘れたんだけど、哲学って実は実学なんじゃない?みたいな話を多分自分したと思うんだけど、
ちょっと忘れちゃったんだけどね。
忘れちゃった。僕も忘れちゃったけど、一旦それでいきましょう。
ちょっとそういう感覚も少し出てきてて。
うれしいね。
で、ただその、なんでだろう?みたいなことを考えた時に、
例えばその、カントがどう?とか、ニーチェがどう?ニーチェ哲学者か知らんけど、ニーチェがどう?みたいな。
はいはい、哲学者は大丈夫です。哲学者です。
個別の話じゃなくて、その、哲学的に物事を考えるということ。
だからその哲学そのものというよりは、哲学的に物事を考える、哲学的に物事と接する、人と接するみたいな、
その的にっていうのが入るんだけど、それに関しては割と実学なんじゃないのかな?みたいな。
で、実学ってどういう意味で使ってるかというと、
数学だよね。ちゃんと計算ができたら、いいよね。便利だよね。とか、文字が書けたら、文章を書けたらいいよね。
っていうのと同じような話で、哲学的に物事を捉える、考えられたらいいよねっていう、
なるほどね。
意味でも実学なんじゃないのか?みたいな。
そういうスキーって、あれ?意外とあった方がいいのか?みたいな。
そして、意外と習ってないし、そういうスキーがあるとも思えないよね?みたいな。
ここで、あれ?実学じゃね?みたいな。で、いいんじゃない?みたいな感覚になってきてて。
で、そう思ってるのと同時に、
同時に、ハヤトが今、もとおりの伊永ウォールで、「哲学は逆しらだ!」みたいな話をしてるから、
その辺の感覚で同じなのか違うのか?その辺なんかあるのかな?みたいな。
うん。なるほどね。
ハヤト、今すごくいい問いをもらったなと思って考えたんだけれども、
もともとは哲学っていわゆる、まさにさっき言った人間観である世界の捉え方だよねって思ってましたと。
で、今の兄貴の話を聞いて思ったのは、まさに哲学を生き方として扱う人と、
生きるためのスキルとして扱うことの両方ができるなと思ったのね。
うわー、難しいね。哲学的だね。
思ったのよ。
もう一回、もう一回。
哲学というものの扱い方を、いわゆる生き方として扱うか、生きるためのスキルとして扱うかっていう、
要は武器として扱うのか、自分の心の中にある信念みたいなものにするのかによって違うなと思いましたと。
で、実学的な哲学で言うと、要は数学みたいに使えるもの、要はこういうときは、たとえば感度的に考えるといいんだとか、
こういうときは、あまり感度とか特性によらずとも、こういうふうに考えると、たとえばいろんな物事をスムーズに進むんだっていう使い方?
そうだね。あと、想定してるのは、土俵を揃えるっていう。
あー、はいはいはい。
そこがめっちゃ使えるんじゃないかなと思って。
はいはいはい。
それが学術性の哲学というよりは、哲学というのは営みそのものだよね。やっぱりお互いに同じテーブルで議論ができるとか、まさに対話だから哲学って。
そういうものを大事にしましょうという発想を使うっていう意味での実学っていうのもあるなと思うんだよね。
一方で、まさにこれはフィクションの流れでいうと、知るっていう働きと、知るという働きを見つめることによって、より物事を正しく知りましょうっていうふうに使うこともできるじゃない?
はいはいはい。
一方で、我々人間というものは、こういう営みで知るということの中で生きている。
対話の重要性
絶対値とか絶対種という働きの中で、我々は生きている。
物事を知ると、それが生き方になるはずなんだよね。
おー。
そうなると実学とか要は、うまく使ってやろうとかじゃなくて、自分はこういう哲学的な思想のもとに生きているとか、
自分が世の中に存在しているとは、こういう哲学的な基盤に乗っているのだっていう、そういうふうな捉われ方もあるかなと思います。
自分の価値観みたいな話に近いよね。
まさにそうだね。価値観、人生観。
そっちに行くと、実学とかうまく使えるというよりは、自分の根本にあるとか、そういう捉え方になるかと思ったから、
同じ哲学の使われ方でもちょっと違うのかなと思ったんだよね。
そうだね。確かに哲学的って表現したとしても、その2つにはあり得るし、
自分的には価値観として使っていくっていう方は、
それはちょっとありだけど難しいみたいな。
はいはいはい。
難しいというか、今回はもうちょっと実学の方だよね。スキルとしての方の話を想定したいかな、みたいな感じかな。
はいはいはい。そうだよね。
多分、前者、価値観としてっていうのは一定の人がやってるよね、多分ね。
うーんとね。
どっちもやってるか。どっちもやってるけれども。
うーんとね。なんていうのかな。
これは僕が多分、価値観としての哲学とか、自分が哲学的なものを持って生きていたいっていう欲求があるからなんだけど、
なんていうのかな。
やっぱり常に自分はこの哲学で生きているとか、それを打ち立てるために日々を過ごそうってしてる人は、やっぱそんな多くないなとは思うんだよね。
まあまあまあ、そうだね、確かに。
確かに。でもやっぱり道徳って意味でこういうふうに生きていこうとか、自分というものはこういう価値観を持っているとまでは言える人は多いと思うんだけど、
でもじゃあなぜその道徳を自分は持っているのかとか、なぜその道徳を自分は正しいとか適切と踏まえているのか。
それは自分だけじゃなくて、世の中のどういうふうな要請、いわゆる問いかけから行われているのかみたいなことまで考えるっていうことを哲学とするならば、
それはあんまりやらないだろうなとは思う。
それは難しいね、確かに。
今、ハヤトが言ってるのは、誰かの哲学書を読んで、その表面上いいねって言って、なんとなく自信にしてるっていうレベルとは違うって話だよね。
そうだね。
それだと道徳レベルだよね、ハヤトの言うところ、今の。
道徳とか、いわゆる実学レベル、何か使ってやろうとか活かしてやろうって考えてるよね。
だから完全に共感するとか、そこを突き詰めるとか、そこに至ってやろうみたいなものが、どっちかっていうと後者という、さっきの話を言うと、哲学を突き詰めるみたいな。
そうだね、自分の本体、価値観、本体に置くみたいな意味合いだね。
それやってると、そこに立脚はしているけれども、そこに縛られないっていう自由さは生まれてるはずだよね、そういう人は。
どう?
盲目的になっちゃうかな、こともある。
これは難しくて、紙一人だと思うんですけど、盲信と一体化ってほぼ紙一人じゃないですか。
だから、盲信かもしれない。要は自分はこの哲学で生きていくんだとか、自分という存在はこの価値観が一番なじむっていうことは、やっぱりどこかに信じるとか、何だろうな、委ねるっていう感覚が入ってくるから。
そこも自分としては分けたいね、そこはね。
だから、もちろん健全な疑いを持ちながら、自分にとって常に何がいいのかっていうことを考えることができると思うんだけどね。
というか、哲学自体がそういう営みになりつつあって、固定化されたAっていう価値観をインストールしますよりは、やっぱりそれって移り変わるよねとか、コンプラフィクションもそうじゃない、絶対者っていう固定した存在があるんじゃなくて、それは働きだみたいなふうにいくと、
哲学を信じるっていうことで、イコールそういう動きを信じるってことでも言えるから、一個の哲学を信じたからといって妄信してるっていうわけでもないんだけど、でもこの世はすべて移ろって変わっていくということを信じているとも言えるみたいな、やっぱりちょっとそこが難しくなってくるよね。
うんうん、なるほどなるほど。
だからごめん、ちょっと今あえて話そうとしたときにややこしく言っちゃったかもしれないけれども、この哲学との関わり方ってすごく僕は面白い。それ自体がその人の人間感とか人生感だなと思っているから。
はいはいはいはい。
やっぱりその哲学で、それこそ全然興味ない、知らないよっていうところも、その人の価値観、哲学だし。
哲学めちゃめちゃ面白いよね。どんな哲学が自分に合うのか、いろいろ学びたいっていう僕みたいなのも哲学だしっていうふうに言えちゃう、不得の広さ兼適当さもあるよねって思う。
はいはいはい、なるほど。
とすると、最初自分が言った哲学的だよね。だから、そういう土俵を同じにするとか、対話をするみたいなとこ、そこだけを抽出したものは何ていうの?ディベート?何なの?
それこそ、でもやっぱ対話なんじゃない?ダイアログ。
対話のスキルってこと?
対話のスタンスじゃないかな、スキルというよりは。
スタンス?
哲学と対話スキル
うん。やっぱりお互いに言言を出し合うことで、より良い共通理解に至れるはずですよね。そういうスタンスを持ちながら私たちがコミュニケーションを取っていますよねっていう、共通理解を生み出すってことじゃないかな。
なるほど、なるほど。土俵を合わせるとか、相手がどういう世界観で喋ってるかを想像してするとか、また自分がどういう世界観で喋ってるかもちゃんと意識しとくみたいな話は、
それを、ある意味単純に哲学的に考えることとか、哲学的な振る舞いが実学だよねって表現しちゃうと、場合によってさっきハヤトが言ったような混同が生まれるからっていう話ね、ハヤトが感じたのはね。
僕が思うにはね。
それは対話スキル、対話スタンスっていうね。
なるほど、なるほど。
なーと思ったりする。
じゃあそういう意味では、哲学がすごいんじゃなくて、対話スキルみたいなものをちゃんと抽出したものが、案外と感じるとか学ぶとか、発揮するというか、ないから発揮しようはないけれども、意識する機会が少ないよね、みたいなイメージとか、自分が感じてるのはね。
たぶんそう思うし、それは結構一つのイデオロギーであるとは思ってて、西洋の感覚でいうと、個々人は自由であって、お互いその自由を尊重するとか、高め合うっていうことがいいよねと。
そのためにはお互いの立場の違いを超えて、落とし所を見つけるとか、より共通のよりより会を見出すことが大事だねっていうふうな、多分原理的な感覚もあると思うから。
それは一つのイデオロギーで、例えば仏教とからしたら、いやいや仏の道で仏なるのが最高だから、対話なんて必要ありません。
そうは言わないよ、仏教とは言わないけど、そういう意見があることも同時に大事だとは思うよね。
はいはい、そっかそっか。自分はもうこの世界観に立脚してるから、わざわざと表を合わせる必要も別にないしね、みたいな部分も全然あるよねって話ね。
そういうことそういうこと。
やっぱり開かれている、ちゃんと議論ができること自体は尊いと思うけど、その尊さも結局、
僕が日本という国で言って、民主的な国の中で、そういうお互いに尊重しながら理解しましょうっていう世界に生きているからでしかないのかなっていうことも同時に思っておいたほうがいいよねっていう。
この理解がね。
なるほど、はいはい。面白いね。これ早いと聞く話じゃないかもしれないけどさ、悟った人いるでしょ?
いると言うよね。
例えばね、仏教か、悟った人がいたときに、どうなんだろう、その悟った人が相手と話をするときって、自分はその、いわゆるその悟ったとこを土台として、土俵として喋ってるとは思うんだけれども、
めっちゃあの、全然土俵違う人との対話があったときに、絶対上手くやるじゃん。
うん、やる。
それは何スキルなの?土俵を合わせてないけど、ちゃんと対話をしてっていうそのスキルって多分発揮されると思うんだけど、悟った人。
はいはいはい。
何なんだろうね、それは。
なんかね、これも面白くて、王冠っていう考え方があって、行って行きたい、ちゃんとできるっていう。
なんかあるんだ、王冠。
あるある。
行く、要はその、これは、大切にナガルジナの中間派とかの考え方だけれども、この世界の中には、やっぱりその現実の世界、僕らの世界と、その仏の世界が重なっているというか、分かれてないっていう発想があるんだよね。
はいはいはい。
それもいろんな派によって違うんだけど、っていうときに、悟った人は別に別世界に行くわけじゃなくって、この世界で仏の世界の理を見ながら生きていくっていうふうになったときに、
ちゃんとそれを使い分けられるというか、両方とも、この世は仏の世界でもあり、世俗の我々の人間世界でもあるよねっていう、そういう認識の下に生きていくらしいんです、どうやら。
だから別に、自分が何か、全く別の世界に行っちゃうわけじゃなくって、その悟った中で、その悟りの法則に基づいて、ちゃんと他の人も議論ができるとか、触れ合えるとか。
別に過去のね、普通に悟る前の記憶は別になくなるとかっていうわけでもないから、それも使いながら、でも自分が悟った状態というものを遂げられないように生きていくみたいな、そういうふうなスタンスになると聞いたことというか読んだことはある。
はいはいはい、なるほど。無理に自分の土俵に引っ張ってくるでもなく、言い方はあれだけれども、相手の方に降りてるというよりは斧れるというか、完全に相手の土俵に乗るわけでもなく、ということは多分悟った人は容易にできるって話だね、おそらく。
そうだね。行ったり来たりする境地の人もいれば、ちゃんとそこに留まる人もいてっていうふうな段階付けもあるみたいなんだけど。
そこはいろいろなんだ、じゃあ。
そうそうそうそう。なんか一回悟ったって言ったけど、そうすると悟りの法則から離れちゃって、また世俗の人間の法則に戻っちゃうっていうふうな段階もあるらしくて。
結構そういうのがちゃんと定義されてるっていうのが正しいかも。いわゆる悟りってゼロが結果じゃないらしいから。
哲学カフェの実践
ああ、そっかそっか。段階があるみたいな話をしてたね。
そうそうそうそう。
なるほど、そっか。
ちょっとなんとなく例えて悟りの話みたいのはしちゃったけれども、いわゆる西洋哲学的な話でも、自分の哲学みたいなのをめっちゃ持ってる哲学者の人とかがいたときにも、同じようなことは起こりそうだよね。
必ずしも全部自分の世界観で話すんじゃなくて、相手によってちゃんと、みたいなね。
なるほど。
そうそうそう。
だし、まあデフィニットもそこも自由というか、って話だね。
そうだね。難しいと思うね。
やっぱりフィクションは後期になってくると、やっぱりシェリングとかに批判されて、やっぱりそっちがシェリングのほうがすごそうってなったときに、やっぱり自分の説はもっと下られて出さなきゃ、みたいなことになってくるわけなんだけど、
やっぱりそれは、私の考えが間違ってましたと、やっぱりなかなか言えないわけだよね。
はいはいはいはい。
やっぱり自分のほうが正しい、というところにやっぱりこだわる部分はどうしてもあって、
それが哲学的にオープンで、本当は対話で自分の考えもずらっと入ればいいじゃないかとは言いやすいけど、
それが一人の人間としてとか、学者としてできるかっていうと、まあ難しいとかっていうのはやっぱりあるよね。
なるほどだし、確かにそうなると哲学的に物事を考える、捉えるみたいなスタンス、定義もなかなか難しいね、確かに。
必ずしも、お互い妥協するとか調和するってわけでもなく、ちゃんと自分の世界観を説明した上で、ちゃんとぶつけるみたいなものも一つの挙動かもしれないし。
そうだね。
だから、当然、ただの哲学好きなので、哲学とは何に決めることは難しいし、
やっぱり読んだとしてもいろんな人のいろんな考え方があるから、やっぱりこれだっていうのはできないけれども、
まあ、そういういろんな営みが行われる土台をまさに提供してって兄貴が言ってくれたね、土台を作って、共通の土台を作って、そこで理解し合うとか、会話し合うとか、
っていうことが哲学的な営みだよね、っていうこと自体は間違ってないと思う。
なるほど、そっか、軽々しく言ってすいませんでしたって感じだけど、
じゃあそれで言うと、やっぱりハヤト的には哲学は実学となり得るのかみたいな話をすると、ちょっとやっぱり違うのかな、どうなんだろうな。
まあ、うちに使えるものがあるなら使っていただいたらいいんじゃないですか、みたいな。
なるほどね。
だってほとんどの人が知らない、興味がない頃だと思うから、そもそも前提として。
そこに興味を持って自分の人生役立つなとか、この人のこの言葉が元気になるなとかってあるんだったら、別にそれを使っていただけたらいいんじゃないかと思うし。
もうすいませんでした。
哲学的なものが実学になるのかじゃなくて、勝手に哲学を実学的に使ってくださいどうぞっていう話ってことだね。
実学的っていう、そっちに敵をつけろって話だったってことだね。
確かにそうかもしれない。
失礼しました。
とんでもない。でも面白いのは、哲学との向き合い方とか関わり方って、それを考えられるってこと自体が楽しいと思うし、何気も3年半ぐらい経って関わり方が変わってきてるのかなとか今聞いてても思ったから。
そうだね。取り敢えみたいなものは変わってきてる気がする。
それ自体が面白いなと思いましたけどね。
そんな感じでね、兄貴も今いい質問を投げかけてくれたと思ってるんですけど、
これは、もしかしたら兄貴の中でそっちに寄せようっていう話があったかもしれないんだけれども、
そっちって何かっていうと、前回最後にシェリンくん行く前に1個企画を挟んでっていう話をお伝えしてたんですよね。
覚えてない人の方が多いと思うんですけれども。
それが実は、劣悪って、もちろん兄貴が一人で話したりとかもそうなんだけれども、いろんな人と話すことで、もっといろんな人の価値観だったりとか、思いを取り込まれるとか、その場に出てくるというふうな面白さもあるなと思ってるんですよ。
1年前くらいにそれ鉄フォーラムというのをオープンして、ラジオを聴いている方に参加いただいて、1回それ鉄カフェっていうのをやって、みんなで1時間くらいワイワイ集まって話すっていう、
ちょっと劣悪対話みたいな雰囲気で、普段は考えないことを話そうっていうのをやってるんですよね。
兄貴も参加してくれると思うんだけど。次回それを、基本的にはクローズでやってるんですけれども、1回ちょっと皆さんに許可いただいて、公開版で撮ろうっていうのを実はやったんですよね、この前。
ちょっとなぜやったかっていうと、兄貴と僕の話だけじゃなくて、他の人が入ったときにどんな雰囲気で話すんだろうとか、それ鉄カフェやってますよとかっていうことはなんとなくおっしゃったと思うんだけれども、それってどんな話とか、何を行ってるのみたいな話って当然わかんないよなと思ってて。
あれでもね、散々さ、鉄学カフェ怪しいよねっていう発信をしてたから、意外とやってみるとこういう感じなんだみたいなね。
でも兄さんも最初は怪しんでたけれども、参加したら面白いって言ってくれたりするじゃないですか。そういうのもあるので、みんなで話してるところを実はこの前収録して、それを次回公開して、公開それ鉄カフェっていう感じで、ちょっと皆さんに聞いていただきたいなと思ったんですよね。
はいはいはい。どういう話してんの?みたいなね。
そうそうそうそう。テーマとしてはね、あなたの正しさはどこかなって。これもちょっと不思議なテーマなんだけど。正しいとは何かではなくて、あなたが正しいとか間違ってるって思ってる、それって何が影響してるんだろうね、みたいな。
そういうことをテーマとして僕は投げかけさせてもらったんだよね。
はいはい。自分あれだもんね。途中までそのテーマわかってなかったからね。途中まで正しいとは何かだと思って参加してたからね。
そうそうそう。そのぐらいで緩くていいんですけど。さっきの哲学みたいなことも含めてだけども、やっぱりそれをどう使うか、正しいとか間違ってるって何だろうね、じゃなくて、
それの根源って言っちゃうとまたあれだけど、そういう考えてる自分ってどこから来てるのかなとか、何に影響を受けてるのかって考える方がより根本的だと僕は思ってるんだよね。
そういうのも味わえるんじゃないかなとか、みんなの話を聞くことで、それが自分とかみんなにとっても気づきになったらいいなと思って、ちょっとそういうテーマにしたんですけど。でも普通に考えたら嫌じゃん。そんなテーマで話しますよって言われて、嫌いって思う人いないと思うんだよね。
何話すのみたいな。でも実際それについて話してる。別に次回で聞いていただければと思うんですけど、別に皆さんすごく哲学やってますとかってことじゃなくて、普通に普段で働いて過ごしてっていう方々が今集まってきてくださってるから、
そういう人がそういうテーマ、あなたの哲学とはどこからみたいな、ちょっと普段は考えないような話からいろんなことを詰め上げていく。どんな会議になるのかとか、どんな会話が生まれてるのかっていうところを見ていただけると、今僕とか兄貴が言ってる哲学らしさとか、哲学カフェでやろうという仕事ってこういうことなのかっていうのも伝わるんじゃないかなと思って。
それも楽しんでいただきたいっていうのもそうだし、自分もそこで話してみたいとか、他の人の話を聞いてみたいっていう人がいらっしゃったら、ぜひそういうカフェとかそういうスポーラーも参加いただければって思いも最近あったりするので。
参加者の増加と哲学の場
ちなみに今の状況で言うと、たぶん最初に登録いただいた方がメイン参加者みたいになってるんですけれども、数ヶ月でまた何人か登録していただいたりもしてて、ひとつ増えていくかなとか広がっていくかなとか。やっぱり人が増えればそっち側も増えていくから、いろんな掛け合わせが生まれそうだなとかっていうのも、ちょっと今自分の中ではワクワクしてるんですよ。
だし、もともとね、ハヤトが作ったきっかけも、なかなかそういうことを話したいとか、もしくは人になんとなくそう思ってるみたいな時に、そういう日々の考えてることとか、思ったことを喋る場ってほんとないよね、みたいな話をハヤトしてたもんね。
だってないじゃん、いきなり飲んでてさ。ちなみにさ、お兄さんのトライスターってどっから来てるの?とか言われてもさ、なんか無理じゃんってずっと話してるけど、その飲み会に誘われなくなる問題があるから。そういうことを話す場だよとか、そういうことを話していただいたよっていうところの集まりって結構貴重だと思ってて。
だし場合によっては聞くだけでもいいみたいな感じでしょ?
そうそうそう。何か聞いてる中で立ち上がってくると思うから。そういうところも含めて、確かにそういう場っていいかもなーとか、ちょっと気になるなーっていう方がいらっしゃったら、
全然なんか、一応ね月200円いただいてるんですけど、別にいつ辞めてもいいみたいな感じでもあるので、よくあるじゃん、半年縛りで絶対いてくださいみたいな。
200均5万みたいな。
そんなに一切ないので、気軽にちょっとね、カフェ参加してみたいなとかっていうことも思いやすいかなってことも含めてですね。
ありがたいことにね、日々の早稲田の宿席代とかにさせていただいてますっていうね。
そうそう、本当にね、ありがたい。
ありがとうございますね。
そういうとこもあるので、ちょうどこの雑談会の次かなに、それで通知で公開版っていうのを出していきたいなと思っているので、よかったらそちらも聞いていただいて、興味があればそちらも参加いただきたいなと思ってますという感じですね。
はい、ぜひそうはね。
はい。というわけで、すいません、今日はちょっと雑談と最後にちょっと次こういうことをお届けしますよというような話をしたんですけれども、それを考えて次またシェリングってのをやっていきますんで、
ぜひね、今回のフィフティっていうとこもちょっと頭の霞みを起きながら、引き続きドイツ関連のですね、楽しんでいただければなと思っております。
というような形でございました。
はい、わかりました。今日もありがとうございました。では次回ですね、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。