ヘーゲルと精神現象学の概観
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回でヘーゲル第7回ということで、ヘーゲルというよりは精神減少学7回ぐらいの気持ちで、今回はやってきたというようなところでした。
そうですね。前回まで意識というところから始まって、絶対値という最後のところまで行ったよという風な流れを見てきたんですけれども、
今回はちょっと大きなまとめで、ヘーゲルの精神減少学とはということよりは、
これまでドイツ観念論とか言って関東から始まるよとか、関東の場合にはデカルトの合理論とか、ブロックとかヒュームの経験論がありましょうっていうのを結構長くやってきたと思うんですよね。
そうね。そういうのまで遡れるよね、確かにね。
そうそうそう。たぶん今年の春ぐらいまで遡るんですけど、途中で江戸とか挟みながらだけど。
中で結局、これっていうのは近代哲学、デカルトがあるし、我思うゆえに我ありって始まった近代哲学っていうものが、
ヘーゲルで完成するみたいに言われることがありますよと。
もちろん完成って言っても別に究極的なものとかってわけではないんだけれども、
一応そこからデカルトからヘーゲル前という括りで語られることがある中の後半っていうものを見てきたっていう感じなんだよね。
なるほどなるほど。
なので、ヘーゲルの精神原則のまとめではあるんだけれども、
そのデカルトから始まった近代哲学ってどういうふうに捉えられるんだっけって、もちろん全部ではないんだけれども、
こんなふうに考えてみると、一個の筋が通るかもねみたいな。
そういうのをお伝えして、今回のヘーゲル界最後にしようと思ってます。
絶対者への言及
面白そうだね。
結構壮大な話なんだけれども、当然ね、自分の観点なんてちっぽけなんで、
今回その精神原則を読んだのが、平凡者ライブラリーという出版社のやつなんですけれども、
役者が菅山錦次郎先生という方らしくて、この方はもう亡くなってる方なんですけれども、
早稲田大学の教授で、結構ヘーゲルの権威みたいな方なんですよね。
だいたいこういう本って、精神原則の内容の後に、役者の解説みたいなものがあって、
結局ヘーゲルってこういうことをやろうとしてたんじゃないかとかっていうことが書いていたのがあったので、
それをちょっと手がかりにしながら、結局ヘーゲルって何をこの精神原則っていう本でやろうとしたのみたいな。
そういうところをお伝えしようと思ってますっていう感じなんですよね。
なるほど。だからこの菅山錦次郎先生が書いた本というか、
その方が訳した精神現象学の解説部分みたいな。
そうですそうです。
なるほど。なんかの本なのかなと思ったけど、精神現象学なのね。
そうそうそう。精神現象学の中に深まれる解説っていう感じ。
はいはいはい。
ただね、これもご丁寧に、この菅山先生自体が、ちょっと正直聞けんかったから、
もっと知りたい人は他の私の書いた本読んでねっていうのを書いてるぐらいなのよ。
なるほどね。そうなっちゃうんだ。
そうそうそう。ちょっとそっちまで覚えてなかったりとか、
当然、先生の解説を踏まえて自分が考えたこととかも書いてるから、
解説そのままではもちろんないんだけれども、
そこも含めて今日はぜひお話聞けばなと思ってますというふうな感じですね。
ふんふんふん。わかりました。
はい。で、もちろんね、今回もいろんな話をしてきたんだけれども、
大きなキーワードがいくつかあったかなと思ってて、
一つは絶対者みたいな話。
ふーん。
これフィフテでもさ、シェリンが絶対者ってところに至ったけど、
なんかよくわからなくなったみたいな話をしたと思うんですよね。
あれだよね。結局、なぜなぜ、それは何、それは何っていうのを繰り返していくと、
結局その絶対者みたいなものにたどり着いて、その後はもう泥沼だよねみたいな話だよね。
そうだね、そうそうそう。
フィフテだとその自我っていうものがさらに奥に絶対者っていうのがあるっていう、
いわゆる根源っていうのがあるっていうんだけど、
なんでそれが根源って言えるのかっていうと、
どんどんその根源の根源とかに行ってよくわからなくなるみたいな、
よくある話と、
シェリングで言うと、自然っていうかそういった方に絶対者がいるって言ったんだけど、
いわゆるなんでその絶対者から有限な我々が生まれてくるのかみたいな、
という区切りのない、区別のない絶対一つになっているそのものから、
なんで区別した我々が出てくるのかっていうのはやっぱりどうしてもわからない。
なんか言っててもね、物質的なものもだし、精神もそのエネルギー的なものから精神的なものも
あっちも出てくるんだっていうね。
そういうのがあって、やっぱりそこがなかなか難しいよねっていう中で、
ヘーゲルが出てきたっていう時に、
ヘーゲルってその絶対者をどう考えたんだっけっていうのが、
実は今回始まってたかなと思います。
前回の話を忘れちゃったけれども、絶対一だよね。
ヘーゲルが言った絶対一っていうものは、
今言った絶対者的なものとは一線を隠す、ちゃんと定義されたものみたいな、
そういう感覚があったはずだよね。
意識の経験と哲学の役割
そこで実は違うよっていう話もあったと思うし、
もう一個はね、この精神現象学っていう本を触れるにあたって、
実はもともとその意識の経験の学だよっていう話をしたと思うんですよね。
ああ、あったあった。意識さんの物語だったね。
こういう話の中で、意識の経験っていうところは結構イメージが湧いたと思うんですよ。
ああ、確かに確かに。いろいろ経験して絶対一までレベルアップ、
ジョブチェンジを経て、みたいな話だった。
そうそうそうそう。で、最後実は、
もともとその意識っていうものは本当は絶対一の一部っていうかね、
内側にあったんですよみたいな。
ああ、そうだったそうだった。はしご外す系のやつだった。
そうそうそうそう。経験はしてきたんだけど、実は最初から絶対一さんでしたみたいな。
青い鳥みたいだねって言ったと思うんだけれども。
そういうふうな、ある種の物語が精神技術小学ではあったと思うんだけれども、
この意識の経験の学って言ったときの学ってなんじゃって話なんだよね。
おお、なるほど。
学っていうのは学ぶ、学問の学。
もちろん学問とか哲学っていう意味なんだけれども、
この前の話は学問みたいな話はそんなにしてきてないというか、
あんまり学問っぽくなかったんじゃないかと思うんだよね。
ああ、まあ確かに物語って表現してたぐらいだから、
意識の経験だけでいいのか。
そう、例えば物語とか、経験なんとかでも、もしかしたらいいかもしれない。
はいはいはい。
で、ぶっちゃけ例えばそれって、例えば当時芸手もいたわけなんだけれども、
そういう、何かその、いわゆる意識が成長するとか、
そういった人間の認識力が高まるってことは別に、
芸手も小説で書いてるじゃんみたいなこと言われるんだよね。
へー、なるほど。はいはいはい。
でもやっぱりヘイゲルはそれを、要は哲学としてやってるっていうときの、
この学問ってなんじゃいっていう話もあるんだよね。
ふんふんふん。確かに確かに。
ちょっとそっちから言うと、実はもうある種の結論から言うと、
意味はこの意識の経験の学っていう精神現象学って、
その、ある意識さんというか、
そういう個別のものから始まってるじゃないですか。
ふんふんふん。で、その中でいろんな他者に出会うとかさ、
他の意識にも出会うとかっていう風に広がってきたんだけれども、
実はこれはある一人の意識さんの話をしたかったわけではなくて、
やっぱりこうある種全体とか普遍的なというか、
もっと言うと、途中で歴史がとか世界がとかって話をちょこちょこ言ってたじゃない?
ふんふんふん。で、なんかさ、古代ギリシアのアテの民主性がとかさ、
宗教も原始的な自然宗教がとかって話をしたと思うんだけれども、
つまりこの意識さんの個人って言っていいのかなけれども、
その本の経験っていうのは実はこの世界の歴史と連動しているんだよ、みたいな。
ふんふんふん。
そういう一つのものを語ることで、実は世界そのものを語っていたんだよっていうことが、
平家でやりたかった学問みたいな話なんだよね。
ふーん、なるほどなるほど。
ふんふんふん。
今日はさ、例えばその、いわゆる僕らの学問でも、
例えば目の前のなんでもいいや、浮物、朝顔の咲き方を観察することによって、
朝顔全体のことがわかるっていうことってあったりするわけじゃない?
ふんふんふん。
つまり朝顔の観察日記をつけるのと、
一つの目の前の朝顔を追求探求して朝顔という種というか、
そのものを知るっていうことって実は二的なるものなんだよね。
ふーん、はいはいはい。
うん。
って言ったときに、この平家でやると仕事あるして校舎に近くって、
その意識っていうのを深く深く追求をしたときに、
それが絶対値に至るっていうことは、
世の中のあらゆること、それは歴史もそうだし、人類の人間もそうかもしれないし、
そういったものが全部物語に実は含まれてるんだっていうことをやろうとするんだよね。
はいはいはいはい。
だから、前回は宗教と絶対値だったと思うんですけれども、
やっぱり宗教ってどこまで言っても学問ではないんですよ。
ふーん、なるほど。
宗教を学っていう宗教を対象にして学問はあるんだけれども、
やっぱり何かを信仰してます。
例えばキリスト教を信仰してますとか仏教を信仰してますとかさ、
日本の神々をとかっていうのって学問にはなり得ない。
なぜ信仰するんですかっていうときに、それは個人の問題にしかならないんだよね。
なるほど、はいはいはい。
不変性が今の話で言うとないんだね。
そう。不変性をしようと思うと宗教学って言って、
キリスト教と仏教何が違うのか同じなのかとか、
そういう風になってくるんだけど、
でもそれは信仰とはまた別なんだよね。
そうね。だってさっきの朝顔で言うとさ、
私は白い朝顔しか認めないというか、好きじゃない、みたいな。
信じない。
俺は紫だ、みたいな。
分かったときに、とはいえ朝顔って同じ種だし、
あれって土のアルカリ成分の違いだっけか?
なんか色、花の色。
あるよね、そういう理由が。
確かね、御所によってだから、正直生まれるまでは同じというか。
なるほどね、確かにね。
さっき言ったようにちゃんと二番が出て、本番が出てみたいな、
多分一緒ははずなんだけど、
いや俺は紫だ、白だって言ってるっていうことに対して、
いや朝顔はね、みたいな話と似てるよね、さっきの宗教学の話が。
そうそう、まさに。
まさに今言った、いやいや朝顔はねっていうところが、
いやいや学問的に考えるとねっていう風な話になってくんだよね。
なので前回も宗教というところから絶対値っていう、
ちょっと抽象化というか概念化というか、
そういう風にしたよっていうのも結局やっぱり宗教はもちろん大事なんだけど、
それがやっぱり学論ではないという風な前提があって。
はいはいはい。
だからこそその経験の具としてまとめるためには、
それを一個進めなきゃいけなかったっていう風な動きもあって、
いう風な感じなんだよね。
うーん、なるほどなるほど。
だからさっきの芸術との対比で言っても、
いわゆる私は芸術作品を生み出しました。
で、自分にそれ全部込めたので、
解釈はどうぞお任せっていうよりは、
できれば自分が思ったように解釈してほしいけどねとかじゃなくて、
平原の方は、いやこれ学問だから解釈の譲りないからねっていう話のところが全然違う。
そうそうそう。
そうですね、正しく理解してねっていう風な。
ドイツ観念論の幕開け
干渉するものではないっていうね。
そう、っていうかやっぱ違いがある中で、
意識的に作ってますよっていう感じなんだよね。
そこは学って名付けてるのがこの平原の心意気というか、
その信念みたいなとこなんだね。
そうそう、やっぱり自分が哲学をしてるっていうところだし、
逆に言うとそれが本当に学として成り立ってるのかっていうところはやっぱり難しいらしくて、
その柏山先生の解説の中で成功してるか失敗してるかって言ったら、
失敗してますねみたいな。
それはいろんなものを込めようとしすぎてて、
やっぱりいろんな矛盾とかももちろんある。
ただやっぱりそれをやろうとしたっていう、
そういう風に個人のものを追求することで、
実は全体を語っていたみたいなことっていうのは、
やっぱりそれまでできる人がいなかったし、
やろうともしてなかったことだから、
それを平原がやったのはすごいねみたいな書き方だったんだよね。
なるほど。
だからそこが絶対者みたいなものにはまってないっていうところが、
成功した部分みたいな感じなのかな。
そうそうそうそう。
っていう風な話がある中で、
平原は精神解釈っていうものを意識的に書いたんでしょうというところなんだけれども、
もう一回戻ると、絶対者って話がね、
今日の本題でもあるんだけれども、
ここが平原はどういう風に語ってきたのって話なんだよね。
どんな風にそれまで哲学、感動とかセシリングとかやってきたけど、
何が違うのっていう風な話が、
多分一番面白いとこでしょうという風に思ってますと。
デカルトからカントまで
まあ確かに確かに。
ちょっとそれを振り返るのに、一回プラトンまで戻るんだけど、
だいぶ戻ったね。千年ぐらい戻った。
だいぶ戻るね、千年ぐらい戻る。
そうね、絶対者みたいなことを考えたときに、
もちろんね、こんな単純には言えないんだけれども、
一つの途切りとしてあるのが、
要はあっち側ですか、それともこっち側ですかって思うんだよね。
要はあっち側っていうのはプラトンのイデアで、
結局その真理とか絶対者って、
今日はほぼ真理と絶対者をニアリーイコールで使うんだけれども、
ある種ね、向こうの理想の世界に真理としてのイデアがあって、
哲学っていうのはそれを知るためにやるんだ。
要はあっち側にある正しいものを知りに行くためのものだっていうのが、
哲学だっていうのがプラトンからの流れなんだよね。
面白いね、そっか。
面白くなっちゃった、今のでもすでに。
まじか、今、道理だと思って、何が面白いなって感じだわ。
いやいや、確かにその前提自体が間違ってる可能性あんじゃんっていうね、
今回の話でいうと。
そうなんだよね。
できればサクラテスまで戻りたいよね、ぐらい思っちゃうみたいなさ。
本当に?っていうね、そんなんまさに問答口だと思うんだけど、
プラトンはイデアというのを立て回したと。
もちろんアリス・テレスはそれ批判したとかってもあるんだけれども、
より明確にやっぱり違うんじゃないかって言ったのはやっぱりデカレットなんだよね。
デカレットがその近代哲学の始まりっていうのはそれで、
要は我を思うゆえに我ありっていうところで、
やっぱ我から始まるっていうのは、
絶対したとか真理っていうものをこっち側に引き戻したっていうような働きなんだよね。
デカレットすごいね、そう考えると。
そうなんだよ。
つまり中世の進学の時代では君がいてとかさ、
無謀の世界にこそ真理があるって誰も疑ってなかったんだけれども、
それはちゃんと疑うっていう畑、
まさに我の懐疑論だよね。疑って疑って、
我は疑えなかったっていうところから、
まさに我イコール主体とか理性だよね。
そこにある種真理をつかむ、
まさに原動力というか、
絶対さに至る始まりっていうものをつかんだっていうところが、
やっぱりデカレットがすごいところではあります。
わー、なるほどね。
ロックぐらいからか、イギリス経験のあたりからさ、
ちょっと批判されてるというかさ、乗り越えられた感があるからさ、
デカレットをなめてたんだけど。
すごいね。
もちろんいろんな批判はできるんだけど、
やっぱり今そういった絶対者ってこっちなのかこっちなのかっていうそれを、
それこそ1500年ぐらいかな?続いてきたものを、
やっぱり切り替えたっていうことはやっぱりすごいんだよね。
その問いがね、その視点から。
うん、そうなんです。
さらに今そこから経験論、いろいろ言ってくれた兄貴のところを加えて、
いやいや、やっぱり理性とか誤性っていう働きが先にあって、
ここに外部のものを取り込むことで認識って正しく行われるんですよって言ったのが関東なわけなんだけれども、
そういえばデカレット関東流れっていうのは、まさに真理とか絶対者っていうものを、
こっち側、理性の働きから考えようとしたっていうところで、
やっぱりそれまでバチつらくとは全然違ったものがあったわけなんだよね。
で、普段っていうのがここからの同一関連論で話したんだけれども、
何度もお伝えしている通り、関東がそういうふうにやったんだけど、
結局、やっぱり認識できないもの、人間の理性の限界というのを引きましたと。
ずっと言ってるもの自体、もの自体って言うんだけど、それでいいんだっけって言ったのがフィヒテで、
そのフィヒテはある種こっち側だよね。自我っていうものをとにかく突き詰めて、
こっち側で何とか真理とか絶対者を処理しようとしたっていうふうなのがフィヒテで、
逆に自然ってあっち側だよね。
いやいや、自我じゃなくて、その客観というかそっちの方にやっぱり始まりがあって、
そこにこそ主観と客観の一致とかそういったものができるんだよっていうのがシェリングですと。
はいはい。ただそのシェリングのいわゆる自然っていう方も、
プラトン的なイデアではなくて、ちゃんとこっち側の世界だよっていう認識なんだよね。
そうそうそう。
ただ突き詰めた結果、絶対者みたいな方に行っちゃったけどねみたいな感じだよね。
そうそうそう。そうなんだよね。だからプラトンみたいに世界はスポッと分けて、
向こうのイデア界があってそっちの世界にとまでは行かないんだけど、
でもシェリングはやっぱり突き詰めると結局ギリギリ、
それってもうでもイデア界とほぼ一緒じゃない?みたいな。
ちなみにって言ってはいるけどみたいなね。
だから理性が、せっかくデカルトがこっち側、理性側から出発しようよって言っても、
どんな頭いい人が当時考えても、必ずそのイデア的な方に執着しちゃうねっていう課題があったんだね。
そうそうそう、そういうこと。
ヘーゲルの真理観
というところで、やっぱりどうしても行き詰まってた。
こっち側でもあっち側でも、説明できたような気がするんだけどなんか物足りないよねとか。
っていうところがやっぱりまさにこのドイツ関連論の時代だったんだよね。
すごいゲームやってるね。
まさにこのゲームっていうのは、今何ゲームやってますかっていうと、
結局はその真理はどこにありますか、絶対者ってどこにいますかっていうゲームなんだよね。
なるほど、そっかそっかそっか。
なんかプラトンが作ったのが、作ったりとかその前にやったのが万物はないゲームだったりとか、
プラトンが真理とは、イデアとは、本質とはなんだゲームがあって、
その次が本質はどこにあるゲームなのか。
うん、そうです、そういうことです。
何かじゃなくてどこかっていうふうになったんだよね。
で、だいたいあっち側かこっち側かっていう大きな揺れ動きの中で、
ああじゃないかこうじゃないかっていうふうにやってきましたよと。
あったんですよね。
それはやっぱりどっちも無理筋じゃよねっていうところでヘイゲルは考えるんですと。
そもそもね、またこのゲームが変わってくるんだけど、
そもそも真理とか絶対者ってどこかにそれとして固定的にあるんだってと。
うんうんうん。
要は真理が本当にあるんだったらそれを探したらいいじゃないかという感じなんだけど、
果たして探して見つかるようなもんなんだっけっていうところにある種疑問を持つわけなんですよね。
うんうんうん。
で、何でかっていうと、例えば真理がどこかに固定的にどんってあるとしましょうと。
そうすると世の中っていうのはその真理に反する真と疑みたいなものに分かれるわけじゃない?
うん。
で、それが対立してますよねと。
うんうんうん。
で、なるとさ、結局ゾロアスターとかで言ったかもしれないんですけど、
例えば光の神と闇の神がいて、もうそこは相入れませんみたいな、絶対に世界はどちらかに分かれてますみたいになったときに、
あれ?って思うわけなんだよね。絶対者とか真理ってある種全てに共通するとかさ、
全てを包むものなはずなのに、義に分かれちゃってるじゃんと。
確かに確かに。
で、そうなった瞬間にもうその真理とか絶対者って義っていうものを外に弾いちゃってるから、
本当の意味では絶対者じゃないよねっていうふうなことが言えるわけなんだよね。
うんうんうん、そうね。
つまり絶対者ってものが全てを包むとかあらゆるものを一つにする、主観と客観を統合するって言ったらもういいんだけど、
すると、義っていうものがある時点でその絶対者の真から義っていうものがはみ出されて、まさに統一の力がなくなってしまうっていうふうなところで、
それってそれは無理だよねっていうふうにヘーゲルは考えるんだよね。
うんうんうんうん。
どうするかっていうと、実はそれが今回やってきた精神検証の話なんだけれども、
真理とか絶対者っていうのはその内側にその義とか否定的なものを含んでるんだっていうふうに考えるんだよね。
そうしないとさっきの分かれちゃうものが解決しないからね。
そうそうそう。もっと言うと、それは嫌々包んでるんじゃなくて、むしろ否定的なものを包んでいるっていうことが、
むしろ真理とか絶対者っていうもののある種一つの定義というか、在り方なんだよっていうふうに考えるんですよ。
うんうんうん。
どういうことかっていうと、自己意識の時に話したと思うんですけど、意識がレベルアップ、ジョブチェンジして自己意識になったじゃないですか。
うんうんうん。
その時に、要は自己意識が事故を認識するために他者を否定するみたいな。
うん。
要は他をある種思いのままに操ることによって、事故というものをある種反射的にというか、他者を通して知るんだって話をしたと思うんですよね。
うん。
つまりこれってまさに、事故っていうものは事故以外のものを含んで事故であるっていうこと?
うん。
の説明だったんですよ。
うん。
で、もちろん日常的に考えればいいよ、そんな否定なんかじゃなくて別に他者を受け入れたらいいじゃないですかとかって言うんだけど、
うん。
これあくまでも意識の成り立ちの話だから、やっぱり他者というものを通じてそれ事故ではないとか、
うんうんうん。
そういう認識を経ないとっていうふうな意味での否定っていう感じなんだけれども、
うんうんうん。
それは別に真理とか絶対性も同じで、要は絶対者だけでは存在できなくて、
うん。
その絶対者以外のもの、その義とか、そういったものをある種否定する、排除する、その動きの中にその真理自体を含むみたいな、
むしろその動きこそが真理であるみたいな、そういうことをやっぱりヘーゲルは考えたんだよね。
なるほど。だから前回ちょっとあれだもんね、なんか素粒子じゃないけどさ、
ヘーゲルの哲学の核心
常に物体って固定したものが物質であるんじゃなくて、
うんうんうん。
常に動き続けてたりとか、あとシュレディンガーの猫的な話で、
観察されることで初めてその瞬間固定されたものとして一瞬認識されてるのも実は常に有動的だみたいな、
うん。
感覚と似てるよねーみたいな話をしたのを今思い出した。
あーそうだねそうだね、そう。
うん。
間違いは可能的には近くって、もちろんヘーゲルの方が100年以上、今1800年ぐらいの話だからさ、
うん。
もちろんね、素粒子なんか見つかったほうがいないんだけれども、
うん。
まさにそういう真理とか、えっと、義、その謝ってるみたいな悪みたいなものみたいなけど、そういうものも固定的にやっぱり分かれてるんじゃなくて、
行き来する中である種両方がどっちかが出るかっていうだけの話なんだよと。
うんうんうんうん。
うん。
それはある種ね、この精神現象学は最後はしごを外したけど、要は絶対値っていうものが本当は全部なんだけど、
うん。
それがそのレベルが低い場合は意識として出てくるよとか、
うんうんうん。
でちょっと上がったらね、自己意識として出てくるよとかっていう風な感じで、
うん。
それ本当は一つなんだけど、その時々で出てくるものが違うみたいな、そういう風な感覚なんだよね。
はいはい。レベルによってだったりとか、観測するタイミングによってって話と。
そうそうそうそう、そういうことそういうこと。
うん。
イメージとしてはそういう風になってきますよと。
うん。
うん。
そう。
なので、えっと、そう考えるとやっぱりその真理とはどこにあるのか、あっちがこっちかじゃなくて、
いや、そもそもそういう風には捉えられないのが真理なんだと。
おおー。
うん。
はいはいはい。
っていう風にその真理からやっぱりアップデートした絶対者っていうもののあり方を書き換えたっていうのがやっぱりヘーゲルがやったことなんだよね。
わーおもしろい。だから最後その精神の現象の学。
うんうんうん。
いったっけ?
精神現象学?意識の経験の学?
意識か?意識は全然違うね。
うん。
精神の現象の学ってそのまま訳す必要ないじゃんね。
このまあ、精神の現象の学の話だけれども。
はいはいはい。
そっか、そう考えると面白いよね。最後、やっぱりパーって物語が進んだ上で最後はしごを外すっていうのは。
うん。
その、うちらはやっぱりそれを物語だったりとかその。
うんうんうん。
なんだろうな。うちらがこうそれを捉えたというか認識した段階でちゃんと切らないとそもそも認識したりとか言語化もできないしイメージ化もできないから。
うん。
そうやってその常に流動的な絶対値みたいなものをこの段階で聞いとるとこうだよ。意識だよ。
まさにまさに。
うん。
この段階で聞いとると自己意識だよみたいな話をヘイゲルはしてくれてて。
うん。
それでうちらはなんとなくこの全体、こうやって聞いとったものをバーってイメージさせられた上で、
いやそれは実は全部同じもので、ヘイゲルが断片的にというか、その一部を聞いとったものを説明したものに過ぎなかったんだよ。実は全部混ざってるんだよ。
うん。
っていう順番にしたっていうのはそういう話なんだ。同じ話してるけどやっぱり面白いね。このヘイゲルの感覚。
時代背景とナポレオン
そうそうそうそう。そうなんだよね。やっぱりこれまで一個一個登ってきたからちょっと掴みにくかったと思うんだけども、改めてその意識から絶対値まで登った後にこういう話をされるとちょっとイメージ湧きやすいと思うんだよね。
うんうんうん。
うん。だから兄貴が言ってくれた通りなんだけども、やっぱりその絶対値みたいなものは固定的にあるんじゃなくって、やっぱりその特定の認識とか、これまで言ったところでレベルだよね。
RPGでさ、フィールドにいるけど見えないとか認識できない。そういうふうなことが本当にあって、
柴山先生は、これをっていうのかわかんないんだけども、いわゆる自然的意識って言われたときに、それにとってはその真とか絶対者っていうのは、そこにあってしかもないことになるんだっていうふうに書いてるんだよね。
うんうんうん。
あるけどない、見えないけどあるみたいな、やっぱりそういうふうにしか言えないものが絶対者とか真理なんだっていうふうなことが、やっぱりこう、間違ってないというか懐かしい取り方だなっていうふうには思ってます。
そうね。さっきのイメージを真剣に言うと、今の矛盾したような表現するしかないよねっていうね。
そうそうそう、そういうこと。だから、そして真理はどっかにある、絶対あるはずっていう人からすると、あるのにないとか、あってもないことになるとかって何言ってんだ、なんだけど。
いきなり全問答始まったみたいなね、ヘイケルの話してるのにね。
何言ってんだってなんだけど、意識にとってみたいな話をされるとこまで来ると、確かに意識のレベルというかその状態によって、真理があるとも言えるしないとも言えるとか、見えるとも言えるし見えないとも言えるみたいなことってあり得るよねっていう、そういうところまでは行けるんじゃないかって思うんだよね。
そうね。わー面白い面白い。そうすると確かに、イデアとは何かとかさ、イメージもできないと思うんだけど、こっちは確かにイメージできるよね。その状態。
そういうふうな真理観ってあるよねっていうところは、それを共感するかどうか置いといても、一定理解はできるんじゃないかと思います。
じゃあなんでこんなふうに言うのかって話なんだけれども、やっぱりここはちょっと途中でも触れたんだけれども、ヘイケルの生きた時代っていうのがあるなと思いますと。
そういうと、やっぱりその真理がどこかにあって、それはたどり着けるはずだっていうのは、いわゆる近代の啓蒙思想なんだけど、要は人間の理性の力で世界はもっと良くなる、どんどん良くなるっていうふうな前提とすごくかみ合ってるんだよね。
つまりそれがロックとかの時に言った、王政から民政みたいな感じで自由が広がっていくとか、権力っていうものがどんどん切り替わっていく。
もっと言うと、その権力って神と結びついた王権だからさ。神がある程度支配してる時代から、われわれ人間の時代だっていうふうになってきてるわけですよと。
それを作っていくのが理性だって話なんだけれども、それで順風満帆かと思いきや、前回も言ったように、ナポレオンをやった後に革命が起きて、結果すごい粛清とか虐殺とか、ギロチンの死刑とかが起きてるわけよね。
理性でめっちゃいい世界になると思ったけど、全然違うじゃんみたいな。そういうことが現実に起きてしまっていますと。
せっかくね、王政打倒したのになんじゃこれっていうね。
そう。そうなっちゃって、うーんとなった時に新しい原理が潜んだよね。
そういう時にやっぱり真理はどこかにあって、それをまだ達成できないだけだっていうのは、やっぱりもうちょっとピュアには信じられません。
だからこそやっぱりヘーギルっていうのはやっぱりそのね、フィルヒテガイっていうのは自我が全てだとかさ、そうやって要は自我っていうものを発展させていけば世界が良くなるっていうのもやっぱり違うし、
シェリングみたいに直感で真理を見出せるっていうのも、でもその直感もなんでそれが正しいのかってどこに行っても説明できない。
要はもう絶対性を見たから正しいとだっていう、要はもうある種の循環論法になっちゃうから正しいから正しいみたいな。
そうね。
ということもやっぱりそれはダメだっていうところで、やっぱりその両方とも乗り越えなきゃいけなかったんだよね。
わー面白いね。確かに確かに。
どう考えても本質はどこだゲームだよね。それやっちゃうと、そのどっちの立場から考えても、どの視点から見ても、結局同じとこにたどり着いちゃうじゃんっていうその閉塞感じゃないけども。
そうだね。あっちに行ってもこっちに行ってもやっぱりダメだよねっていう。
ところがやっぱりヘーゲルはすごく単純な学問的な感覚だけじゃなくて現実的な世の中の動きっていうところから感じてたんだと思うんだよね。
しかもそれが隣の国っていうのがまたいいんだろうね。家中じゃないっていう。
そうなんだよね。客観視するシリーズでナポレオンがイエナっていうところに、要はドイツにも来てるから、実際ヘーゲルはナポレオンを見てるらしいんだよね。
うーん、そうなんだ。ほうほうほう。
実はこれもちょっと余談なんだけど、その精神現象学がナポレオンがイエナっていうヘーゲルのところに来る1日前に書き上げて、
私は翌日にナポレオンが来て、ヘーゲルが自在精神を見たみたいな。要は精神っていう、今回やってきた精神現象学があるじゃないですか。
その精神っていう働きが人の形をまとってやってきたのがナポレオンだぐらい。要はナポレオンが世界を変えるんだぐらいのことを言ってるんだよね。
へー、すごい。そんなカリスマ性があったんだね。
そうそうそう。
っていうふうなことも含めて、やっぱり時代とかヘーゲルの世の中の捉え方っていうところがあったんだろうねっていう話なんだけども。
そうするとやっぱりいきなり絶対者とかそういう絶対的なものが始めることは無理で、やっぱり意識とか自我っていうそういったものから始まるんだけど、
それが是説とか否定とかを繰り返して自分以外のものが出会っていく。
そういう中で見えなかった真理っていうものが見えるようになっていくっていうふうな、そういうふうな働きっていうものを考えていく。
そういった営みこそが真理の在り方なんだっていう。
精神現象学の意義
だから真理はどこにあるのかではなく、どういう在り方をしてるのかっていうことを解き明かしていこうとしたんだよね。
ちょっとヘーゲルの頭見てみたよね。これ思いついた時びっくりしただろうね、ヘーゲル自身が。
いやーそう思う。なんかうわーやっちゃったってなったんじゃないかな。
だってね、そこからそれをどう伝えようという作業じゃん。
うちらが聞いたのって。その前にやっぱ思いついたイメージがあるわけで。
そうだね。
ヘーゲルびっくりしただろうなー。
いやー本当にそう思う。なんか実際ね、これまた余談だけど、ノーベル賞という科学者の方とか、それこそ朝永さんとかだったかな、有名なノーベル物理学者の一人と思うんだけど、
その人の言葉でも、それに気づいた瞬間に、やっぱこの世界で今過ごしているのは自分だけだみたいな。
学問的には当然ないものがノーベル賞になっていくわけだから、やっぱりその孤独とか恐怖とか、世界はもしかして違ったのかもしれないみたいな、
やっぱりその放り出された感覚があったっていう話を読んだことがあって、結局やっぱり異人ってそういうことなんだと思うんだよね。
ヘーゲルも多分やっちまったって思っちゃったんじゃないかな。みんな気づいてないけど、実は心理ってこういうふうになってるんだよみたいな。
そうだよね。でも伝える術がないっていうのは面白い。
あとはそれを人に同意してもらうにはどうしたらいいんだみたいな、これを説明して。
そうなんだよね。
普通にそのまま説明してもわかってもらえるわけないってことも多分わかってるだろうから。
だからその中で書いたのが精神結晶学なんだけれども、やっぱりこれは絶対者と何かとかってことじゃなくて、意識の経験の学とすることで、
この営みこそが絶対者なのだというか、そういう在り方なのだっていう、そういうことが書いていると。
だからその絶対者って遠くにある、あっちにいるわけでもないし、こっちから始まる、こっちと離れてるわけでもない。
あくまでもこっち意識とか自分の側の一部、その絶対者の一部なんだよっていう、そういうことを何とか伝えようとしたものが精神結晶学という本であろうというふうな捉え方なんだよね。
わー恐ろしい本だね、そう考えると。
弁証法の基本概念
ねー、そうそう。それはわからんよねって話ね、パッと読んでもわからんよねって話なんだけれども。
柏山先生の解説で面白いところがあって、弁償法って話を最初に触れたけど今回ほとんど触れなかったじゃないですか。
前回弁償法、弁償法っていうのはハンバーガー云々とかだったんだけれども、
これに対して柏山先生がおっしゃってたのが面白くて、弁償法って、いわゆる矛盾させる、AとBが矛盾しててCになるみたいなさ、それを治療する、アフ平弁するんだみたいな話をよく言うじゃないですか。
でも先生の説明で言うと、矛盾っていうことじゃなくて、今回は否定っていう話をしたと思うんだけれども、
他を否定して事故になるみたいな。
実はこの弁償法っていうのは、否定と肯定の真似合わせだよみたいな。
そういうふうなことを言ってるんだよね。
実際どう変えてるかっていうと、
真理を見出そうとか、何か本質を見出そうっていうのは、自分以外の対象、自分も対象と見たときに、
そういう対象を理性の力で理解しようとすることじゃないですか。
それを判断とかって言うんだけど、判断ってそれだけじゃ十分じゃなくて、
それがさらに進んで、推理っていうのに展開するときに、初めて肯定の力が働くんだってれども、
これこそが弁償法なんだって書いてあるよね。
どういうことかって言うと、理性で理解するっていうのは、相手を避けたり否定するとか、抽象化するとか、
部分化する、要はこれはリンゴだって言った瞬間に、これっていう存在がリンゴっていうものに抽象化されるじゃないですか。
本当はこれとしか言えないのに、勝手にリンゴっていう名前をつけちゃうとか、
これ目の前のリンゴなんだけど、これにしかないものを全部削ぎ落としてリンゴっていうのがやっぱり育ってる。
だから今回の話で言うと、今はやっぱりこれって表現したけれども、絶対値だよね。
絶対値を自分勝手な都合でバッと切り出してリンゴっていうふうに、相手に見えてるかもわかんないのに、自分はその一瞬を捉えてリンゴってその絶対値を勝手に呼んでるに過ぎないぐらいの話だよね。
そうだね、そうだね。でもそれはしょうがないな。僕はリンゴとしか見えてないからリンゴって言うし、
でもそれから逆に言うと、これまさに絶対値というものをリンゴというものに自分で勝手に名付けてるとか、リクライしちゃってるって話にしか過ぎないんだよね。
そうだね、だったら世の中の常識に従って理解させられてるという話じゃないですか。
そうなんです。それは理性の働きでしょうがない。理性ってそういうもんだ、なんだけど。
でもそこに実はそれだけじゃないよねとか、今自分はそれをリンゴとしてある種否定して限界にしちゃったよねと、区別しちゃったよねと。
その区別しちゃったものをさらに正しく理解するにはっていうふうに、そこからもう一歩進むことができて、これがこういう推理とか肯定的な働きだって話なんだよね。
つまり、僕らは理性を捉えるときに必ず否定から入るんだけど、一歩進んで肯定の運動を始めるっていうところが伝承法なんだと。
で、否定、肯定、否定、肯定ってずっと運動が続くんだけど、それが止まる瞬間があって、その地点こそが絶対値。
これは絶対値である、絶対値は絶対値だってなった瞬間に運動が止まるんだと。
ここが究極の一点なんだよね。
ヘーゲルの絶対値
点って表現するとあれか、あれだけども、絶対値だよねって。
そうそう絶対値。それは実は結構難しいというか、批判にもなり、その後やっぱり平家がめっちゃ批判されるところでもあって。
でも途中までは、真理は運動である絶対値とは固定的ではないって話をするじゃないですか。
そのイメージで今動いてる。
でもやっぱり平家ではどうしても絶対値っていうその運動が止まる地点、要は究極の地点ってやっぱりつけちゃったんだよね。
えーそうなんだ。
つまり絶対値と絶対値はまた違うっていう感じなんだけど、要は絶対値って理性が世の中を捉えた時に正しく捉えた在り方じゃないですか。
絶対値?
絶対値。
どういうことだ、ごめんごめん。
絶対値ってのは時々の真理なわけじゃない?
例えば神とかあれでもね、そういう話。
神とか、彼らしゅう何も区別されてないそういう状態、すべてを包み込む存在としての絶対値だってなった時に、
それもあくまでもどのレベルかはわかんないけど、絶対値の何らかのレベルで捉えた時の絶対値なんだよね。
あーなるほど、そうだね。
そうそう、つまり絶対値と絶対値は違うんだけれども、絶対値っていうあらゆるものが一つしか理解できない瞬間、そういうふうな精神とか、
絶対値っていうある種究極の認識のステージっていうものはあるっていうふうにヘイギロが言うんだよ。
あー、だから絶対値があるんじゃなくて、絶対値という認識の地点はあるっていう話でしょ?
そう、そういうこと。
それはあるんじゃないの、別に。
そう、で、あるとした時に、要はもうその地点が究極なんだよね。
究極、まあそうだね。今ヘイギロがそこまでしか教えてくれてないから、そこまでしか想像できてないっていう意味で、そう思わされてる。
で、それはどういうことかっていうと、さっき言った否定と肯定の運動こそが弁証法ですって言ったじゃないですか。
で、この運動を続けていくんだけど、その絶対値っていう地点に行くとこの運動が止まるんだよね。
あー、なるほど。わかったわかった。確かにそうだね。
意識と対象の関係
要は否定も肯定もする必要がなくなる。要は何かを理解するときに否定する必要がない。
要はもうそれって事故と一緒で別れてないものだから、そもそも全てが事故であり他者であるっていう地点に行くと、別に否定をする必要がなくなるじゃないですか。
そうね。
そう、なのでそこの地点でこの運動が終わるんだよね。
いや、終わっていいんじゃないの、その運動は。
そう。で言ったときに、それって本当に終わっていいの?その究極のところって本当に究極なの?っていうところが、ある種一気に悲観にめちゃめちゃさらされるんですよと。
うわー意地悪だなー。そっか、結局その絶対値を乗り越えたつもりだけれども、その絶対値の罠にはまってるよねっていう話ね。
言えるし、もう一個言うと、前回シュリングで最後に後期シュリングって話をしたと思うんですよね。
そうだったね、シュリング。前期シュリングを批判したヘーゲルの後にシュリング20年生きてるんだよね、確かね。
そうなんです。で、積極哲学ってものを自分はやって、それ以前のヘーゲルも含めたものは消極哲学だって言ったと思うんですけど、
それは今、どういうふうに存在するかじゃなくて、なぜあるものが存在するのかって、そこも問いを変えてよって言ったじゃないですか。
つまりこれって、要はその、物がどういうふうに存在するのかっていうのは、まさに主観と客観ってどういうふうに位置させるのかとか、そこの関係ってどうなってるのっていう問いなんだよね。
そうなんだ。ごめんね。ついてきてなかった。
例えば目の前のリンゴがどうあるのかって話って、要はリンゴってものがあります。それを認識する主観があります。
その主観と客観の関係ってどうなってますかっていうことがどう存在するのかっていうふうな問いなんだよね。
主観と客観っていうのは、自分がリンゴをこう思うっていうことと、他の人がそのリンゴをそう思うっていうことってこと?
違う違う。リンゴという存在があるっていう話と、それを理解しようとする自分がいるって話。
そういうときに、これは要はリンゴのほうにその存在の意義があるって考え通すと、こっち側に絶対者がありますって話だし、
自分のほうにリンゴというものを認識する機能が全部ありますって言うと、これはこっち側に絶対者がありますって話なんだよね。
絶対者の話ね。
絶対者の話は、目の前のリンゴを理解するっていうところにも含まれてるんだよね。
ここまでOK?
全然OKじゃない。
ダメか。
今何が起こってるんだ、今。
ひねげる以前の話で言うと、もともと何のゲームをしてましたかっていうと、
真理はどこにありますかゲームだったじゃないですか。
真理はどこにあるのっていうのを考え通すときに要は、真理があるという話と、
これを真理であるとある種判断するっていう2つの手続きが必要だよね。
確かに。
っていうときに、まずそもそも真理がどこにあるのかっていうのはある場所の話をするし、
それが真理であると判断するっていうのは、僕らの認識能力の話なんだよね。
そうだね。確かに2つの問題が入ってるね。そもそも真理があるのかないのかも含まれちゃってるもんね、そこにはね。
そうそう。
ここでいくと、要は真理があるっていうことが、いわゆる客観というか、どこにありますか。
いわゆる客観っていう話で、
それを真理だと判断する、それを真理だと判断するっていうのは、いわゆる理性の話なんだよね。
理性で持ってそれを真理だと判断するっていうふうに今手続きは捉えているから。
捉えてきたから。
要は、ある理性がある対象を真理だと判断するっていう、その理性と対象の関係っていうのはどこなのかっていうことが、
この真理とはどこにあるのかっていうゲームの、それを解くための一つのある種王道の手段なんだよね。
真理の場所か。はいはい。
真理はどこにあるっていう問いに答えようとすると、
真理がどこかにあるとして、それを認識する理性っていう働きを、ちゃんと吟味しましょうと。
まあそうか、はいはい。
それがある種関東からずっとやってきたことって感じなんだよね。
はいはいはい、OKOK。
ヘーゲルの話じゃなくてね。
まずね、まずそう。
大丈夫です。
よかったよかった。
ヘーゲルは真理って本当にどこかにあるの?っていう問いを変えたって言うんじゃないですか。
うん。
その問い自体は変えたんだけれども、実はその手続きとして、その中間、意識だよね、ヘーゲルの言う。
意識と他者、対象だよね。
物の関係っていうものを考えてるってこと自体は変わってないんだよね。
そうか、そうやって便利的に使ってるんじゃなくて。
えっとね。
今日の話で言うとさ、絶対地下。
それを説明するための方便じゃないの?
はいはい。
えっとね、それは正直わからんのだが、
せなくてもこの精神現象学を読む限りとか、ヘーゲルを学んだ人が言う限り、
その、要は意識と対象っていうものの関係について語ってるよねっていうこと自体はある種なんだろうな。
そうだよねと。
そうだね、はいはいはい。
逆に言うと意識と対象の関係、さっきの話で言うと理性と客観の関係でどうなってますかっていうところの構造自体は一緒で、
むしろヘーゲルはそれをある種やり切った、その関係を突き詰めると、
結局あっちにあるとかこっちにあるとかじゃなくて、その意識、否定と肯定の運の中に真理がありますよっていうことをある種やり切ったって感じなんだよね。
あー、オッケー。ちょっとやっと追いついたかも。
そっかそっかそっか。だから本当にそうだよね、カントが理性との限界を作った。
でフィヒテが今まで言うと自我だよね、理性側にあるんじゃないかって話をした。
シェリングが外側、客観の方にあるんじゃないかってしたけど、結局分かんなかったよねっていう話で、ヘーゲルはその運動であるっていうところに着目したよねっていう話だよね。
そうですそうですそうです、その通り。
オッケー、そこまではオッケー。
オッケーよかったよかった。で、それに対してヘーゲルはやっぱり一個やり切りますと。
だからよく言えば、そういった意味で、理性とか意識とか自我っていうものと客観とか対象っていうもの、産経っていうものを一つ解き明かして、
完成に至るんだよね、この10対1っていう発想は。
シェリングとヘーゲルの哲学
でも悪く言うとこれどん座割りにいっちゃって、結局その方向でいってもあんまり実りがないよね、もう全部収穫しちゃったよねって感じがあるんだよね。
まあそうだね、確かに確かに。そのどの問いだ?だからデカールとか今日の話だと、その問いに相手の他の誰か、他の哲学者とかがつける隙がなくなっちゃったっていう話だよね。
そうなんです。もうここのお宝はだいたい掘り尽くされちゃったよねみたいな。
だった時に、前期シェリングは客観の方にあるって言って、主観と客観の対象っていうところで考えたんだけど、後期シェリングはそうじゃなくて、なぜあるものが存在するのかっていう。
要は主観と客観の関係じゃなくて、そもそもその土台にある存在って何?みたいな。デカールステージに行くことで、ヘーゲルを乗り越えようとして、ヘーゲルがそっちのお宝全部取っちゃったから、俺は別のお宝の地図を持って探しに出るぜっていうふうにしたよって感じなんだよね。
なるほどね。いいじゃんね、もう終われば。
なかなか終わんないんですよ、それが。
でもそうでもね、それがわかるっていうとこが欲しいというか、わかってるのかわかんないけど、じゃあそのヘーゲルの話だよね。絶対地っていう概念を、たぶんシェリングみたいな人はバッチリ理解するはずだよね。
そうだねそうだね。
たぶんヘーゲルの驚きと同じ地点に到達するはずなんだけれども、じゃあどうすんのっていう、そこにやっぱ行っちゃうよね、確かに。
そうなんだよね。
分かったけど、朝顔がこう育ってこういうふうに身を残していくのは分かったと。
うん。
で?っていうのはあるよね、確かに。
そうそうそう。じゃあ俺ひまわり育てるわみたいになっていくわけなんだよね。朝顔のことはもうだいたいわかったから。
まあでもそういう話だよね。本来絶対地ってもっと広いものだから、ある意味横に行く必要もないかもしれないんだけど、ただ一人の一人というか、人間だったり社会とか我々みたいなことを考えたときに、
で、それで何かが完全に判明したとも思わないし、それでフランス革命後の大混乱みたいなものが、じゃあどうすんのっていう回答は与えてくれないというか、そこを元に考えても、ようなこの仕組みは分かったけど、ベクトルがないもんね。
そうなんだよね。やっぱりじゃあどうすんのは、やっぱりなかなか見えてこない。
っていう中で、やっぱりヘーゲルがある種取りこぼしたというか、ヘーゲルが答えを出さなかった、なぜあるものが存在するのかっていう、ちゃんと問いを見つけて、これもすごいことだよ。だってこの問いはなかったわけだから、それまで哲学に。
あ、なかったんだ。一瞬さ、どこだっけ、精神現象学の最初の方、意識の最初の方なんだけど、これは仕様であるとかさ、色であるとか、なんかその辺を欲しくてる感じがするよね。意味の方の話になってくるんだよな。
あ、でもそう、意味に近いし、もっと言うとね、要は意識はなぜ、さっきお話で言ったんだよね、これが仕様であるというふうな意識から始まる?これがね、って言ったんだけど、その土台自体には、私と仕様というものが存在するという前提が含まれてるじゃないですか。
絶対値的な話から今日無限にちょっとやっていくけど、絶対値のとこは聞いとると、その結果だよ、結果。結果として仕様と呼ばれるものがあった。結果として私というものもいた、みたいな話。
でもそれはなぜっていう、なんでそう決められたの?みたいなさ、そう区切られちゃったの?みたいな疑問は残るみたいな。
ねえ、区切られたっていうのは認識の話なんだよね。
なぜそもそも、仕様と呼ばれるものと、私意識と呼ばれるものがここにあるの?
そもそもね。
なぜそこからスタートしていいと思ったのか?っていう感じなんだよね。
つまり、今話して思ったけど、シェリングは絶対値までたどり着いたことの絶対値的な部分を批判するんじゃなくて、そもそもステージの意識がさ、レベル1で始まりました。主人公の村から始まります。
この主人公の村ってなんであるの?どこから出てきたの、この主人公の村は?みたいな。そういうところを解いていこうとするんだよね。
確かに、この物語に沿わなくても、まず絶対値みたいなところからスパッと一瞬聞い取ったときに見えるその村とか、意識さん。どこから来たのそれ、そもそも。
まあ、気になるか。確かに。
気になるし、ある種平気の批判書とすると、やっぱりそこを突き崩さないと。
だけどそれを突き崩せれば、この精神現象学の話は全部崩せるから。
崩さなくていいじゃんね、別に。
まあでも、そっかそっか。世の中、確かに。哲学をどう使うかとかどう捉えるか。あと、シェリングとヘゲルのゲームだよね。
哲学という中でのね。
ルールが多分違うんだろうなっていうところだね。
みたいな感じでね。結構、実は今、僕自身も話しながらとかね、この台本作りながら、だからやっぱりシェリングの後期っていうのはね、ある種また違う問いに至ったんだとか、
特にそれを突き詰めざるを得ないぐらい、やっぱりヘゲルっていうものが、それまでやってきた哲学っていうものを一旦突き進めたんだなっていうところを改めて感じたんですよね。
そういった部分がね、今日のお話を踏まえて、ちょっと皆さんとかね、兄貴にも伝わったら嬉しいなと思うんですけれども、
一旦ですね、ここまででドイツ関連論の流れでやってきたヘゲル界は終わりかなと思ってますと。
またね、数年後にヘゲル扱うこともあるかもしれないですけれども、一旦は終わりで、
絶対地の問い
次回はちょっと端休め的にですね、一個の本を紹介しながら、また今回とは全然違うキリッシュヨコ哲学っていうものを扱ってみたいなと思ってるんですよ。
結構重たかったじゃん。やっぱドイツの哲学って重たいって言われてて、
そう、そう。重たいしね、結構肩に力が入る感じだったと思うんですけど、次回取り上げたいのが、2010年まで生きてたフランスの哲学者なんですけれども、
全然多分有名じゃないんだけど、Pierre Addosさんという人がいて、この人はね、生き方としての哲学っていう本があるんですよね。
わー、楽しそう。そっちの方がいいや。
そうそう、対談的な感じで語ってくれてるんだけど、この場でも哲学って人生に役立たないよねとか、絶対値っていう仕組みはわかったかもしれないけど、で、俺はどうしたらいいのみたいなさ。
そうはね、どうしても自分みたいなやつは知識力とかそっちよりも、結局自分の人生にどう役立てるのみたいなさ、どうしてもちょっとその実学的な部分を拾いたくなっちゃうから。
そうそうそう。もちろんね、この本を読んだからすごく哲学が役立つでとかってことはないんだけど、こういうふうに捉えたりとかすると、哲学ってもっと身近かもみたいなところを含めて結構面白い本だったんで、
これをお伝えしたから、たぶんね、2、3回分くらいになると思うんだけど、ちょっと走らせ目的にそういう回を挟みまして。
その次はもう一回東洋に行こうかなーなんて思ってるんですけど、もしね、ちょっと方の力を抜いて楽しんでいただけるように準備しようと思ってますので。
雑談挟んでからというところも楽しみいただければと思っております。
はいはい、わかりました。あとごめん、一応今回せっかくここまでしっかり統一管内のヘーゲルまでやったから、このヘーゲルの後、さっきのシェリングもあったんだけども、どういう流れになっていくっていうところだけちょっと。
あ、オッケーオッケー。流れって難しくて、先ほど辰山先生の書いてるところで言うと、この後の現代哲学、要は近代から現代っていうときに、現代哲学でヘーゲルの影響を受けてないものはないぜ、ぐらいに言ってるんだよね。
あれ、ハイデガーとかってこの後なの?
ハイデガーとかはもちろん後。現象学も、実存主義ももちろん後。現象学も後。プラグマティズムももちろん後。
だけど全部、いわゆる過去哲学は全部通ってるだろうけど、ヘーゲルから直接そっちに伸びてるよねぐらいの感じって話ね。
ヘーゲルは何らかの形で踏まえてるよねっていう感じかな。それを受け入れるのであれ否定するのであれっていう感じ。
なるほどなるほど。じゃあこの後が実存主義ですよとか、そんな単純な話じゃないんだね。
ではない。むしろそこからバッと広がっちゃうっていうのがあるから、その辺りの話とかまたすると面白いかもね。
別にヘーゲルもずっと盛り上がってたわけじゃなくて、やっぱり19世紀後半ぐらいにはヘーゲル終わったよねみたいな話があったらしいんですよね。
でもその後にまたヘーゲル研究が盛り上がって、やっぱあいつすげーわみたいな感じで現代に至るみたいな。
だから改めて今読んでるんだけど、マルクス主義、実存主義、プラグマティズム、これらは皆大岡レスながらヘーゲルの影響を受けている。
大きく言えば現代哲学の原理はヘーゲルにあるといってもいいほどであるっていうふうにおっしゃってるね。
わーそうなんだ。
でもそれを否定するのは結構難しいんだと思う。
なるほどなるほど。それからさっきハイトワン言った別のところ掘るしかなくなっちゃってるみたいな話なんだね。
あーそうそうそうそう。
ヘーゲルの影響
で、だからやっぱりヘーゲルの影響っていうのはやっぱ大きいものだったんですよっていう感じだね。
あーわかりましたわかりました。
はい。その流れもぜひまたやっていけばなと思うんですけども、一旦ちょっと例えば西洋少し僕もお腹いっぱいになってきたから、
ちょっと違うものも挟みながらやっていければなと思っておりました。
わかりました。では次回ですね、雑談挟みながらピエール・アドさんですね、この哲学を見ていくというところで楽しみにしていきたいと思います。
では引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。