1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #339 戦国時代から江戸時代へ..
2025-07-30 38:20

#339 戦国時代から江戸時代へ。当時の日本が求めた思想とは?

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

江戸時代の思想は、戦国時代の混乱を経て形成され、特に朱子学や国学が重要な役割を果たしています。130年以上にわたる安定した政治の中で、当時の人々は新しい価値観や思想を求めるようになります。このエピソードでは、戦国時代から江戸時代への移行に伴い、日本が求めた思想や価値観が探求されています。特に、朱子学や儒教の影響、宗教的な反乱の重要性が議論され、どのように社会が形成されていったのかが考察されています。戦国時代から江戸時代にかけて、日本は朱子学を導入し、社会秩序を構築するための思想を求めていました。このエピソードでは、藤原誠家と林羅山という二人の学者がその過程にどのように関与したのかが語られています。

江戸時代の思想の背景
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
このラジオは、身近なテーマをきっかけに、哲学について楽しく学んでみようという番組です。
哲学好きの弟と、哲学に馴染みのない兄の兄弟二人でお送りしていきたいと思います。
改めまして、兄の環野恭介です。
弟のハヤトです。よろしくお願いします。
はい、今回から江戸時代に入っていくというところでした。久々の日本ですね。
そうですね、そうですね。前は江戸よりも後ですよね。
明治とかの、本当に西洋哲学をどう受け入れたかみたいな話だったんですけれども、
その手前ですね、西洋の哲学が入ってくる前の時代の思想というところです。
さらに江戸の思想といっても、もちろん僕もピンときなかったし、皆さんもそんなに詳しくないと思うんですよね。
なんかあったんだ、みたいな。
残ってんだ、くらいの資料が。
そうそう、資料は全然残ってはいるんですよ。
江戸時代といっても、ひとつの時代、260年あるわけですよ。
なので、やっぱり一口には言えないんだけれども、逆に言うと、その260年の中でいろんな人が出てきて、
いろんな議論だったりとか、お互い批判し合うとかも含めて起きてる時代ではあるんですよね。
やっぱり、いわゆる歴史、例えば中学とか高校で学ぶやつでいくと、徳川家康が幕を開いてとか、参勤交代があってとか、
つながちさんが犬将軍と言われてとか、そういうのは多分、知識としては悪いと思うんですけど、
当時の人たちはどんな思想で生きていたのかとか、どんな学問として学んでいたのかってわかんない。
多分学んでないと思うんですよね。
いやー、そうね、確かに確かに。
ちょっと兄貴も録音した時に言ってたけれども、江戸って太平洋みたいな感覚だと思うんで、
いわゆる平和な時代だから、あんまり事件も起きないとそういう思想って深まらないんじゃないか、そういうのもあると思うんですよね。
要は哲学とかもそうだけど、やっぱり何か現実的な、例えば前やったロックとか言うとかもそうだけど、
やっぱりフランスの国国の政治が変わってとか、国王から民衆にっていう流れの中で新しい人が出てくるとあったと思うんですけど、
江戸時代、徳川政権が15代続くわけですけど、
逆に言ったらそこの時は政治的にも別に大きな変化とかないわけですよね。
なので、逆に言ったら変なこととか言うと、幕府からしたらそんな変なこと言いやがってるみたいな感じで弾圧されちゃうみたいな、
キリスト教とかはそうだったと思うんだけど、やっぱり徳川の秩序に合わないものは弾圧されるとかってあった時代なわけですよね。
そうなんだ、なんとなく大きな戦争というか戦いがない、もし太平洋的な感じだとすると、そういう時代の方は思想とかって発展するのかなみたいな。
そういう一面もあったんじゃないかなみたいなのを勝手に想像してたけど。
たぶん両方あって、やっぱり激動の時代に出てくる思想と、安定してるからこそ出てくる、
例えばこの江戸時代に国学とか古学、古いとか古の学みたいな、そういう学問が生まれてきてるんですよ。
何かっていうと、安定した時代にもっと日本の古代とか、当時やっぱ平安時代とかも全然古い時代なんだけど、
戦国時代からの移行
あるいはもっと昔の神話の時代とか、そういうものから日本というものを捉え直しましょうよみたいな、
やっぱりそういう、それまでなかったような思想ができたりはするんだよね。
なるほど、そっかそっか。
中国の春秋戦国時代とかの、諸子百家的などうしたら勝てるかみたいな、そういうのとはまたちょっと違うみたいな感じなんだね。
同じ思想を学問にしても。
確かにそういう時代の雰囲気の中でどういう学問が出てくるのかもあるのかなと、確かに今聞いてて思ったんだけれども、
そういう意味では思想的にもいろんなバラエティが増えていくんですよね。
例えば名前だけ言うと聞いたことある人がいればみたいな感じなんですけど、
ちょっと言っていくね。
中国時代に活躍した思想家、一覧みたいな感じなんですけど、藤原誠家さんとか林羅山さん、中江東樹さん、伊藤仁才さん、慶中さん、本織信長さんみたいな、そんな人たちがいますよと。
知ってる人いた?
いないね。
いないか。本織信長とか聞いたことない?
物の哀れとかっていうのを大事にした人みたいな感じなんです。
この人は国学の人なんだけど、結構日本の思想家でいうと名前が上がるぐらいの人たちなんですけど、
この人たちはどんな時代でどんなことを考えたのかっていうことを、今回江戸時代の思想っていうテーマでやっていこうと思っておりますよっていう感じなんですよ。
とはいえ、僕らも全然バックグラウンドないと思うんで、そもそも江戸時代ってなんじゃいみたいな話をですね、第1回で少しだけしようかなと思っておりますと。
はいはい、お願いします。
歴史的な背景というか。
頭の中にイメージがないもんね、江戸時代って、真っ白だよ。
江戸時代はいつ始まったかっていうと、1603年ですね。この時に幕府が開かれて始まったって言われてるんですけれども、
その前は何だったかっていうと、いわゆる日本の戦国時代なわけですよね。
さらにそのきっかけって何っていうと、1400年代後半に応仁の乱みたいなやつがあって、
あの江戸で室町、当時室町時代ですけれども、そこで四次争いみたいな感じなのかな。
で、江戸の町で10年間だらだら戦争するみたいなのがあったんですよね。
で、江戸の町が崩壊してとかってあって、かつその後に1493年かなに、
制変みたいな、いわゆるちょっと工夫出たじゃないですか、そういうのがあって、
当時の室町幕府っていうのが、結構広い範囲をそれまではちゃんと治めてたんですけど、
江戸の一部の地域にしか支配権が持てませんみたいな。
それが弱くなっちゃうんですよね。
で、そうすると東京、今でいう東京、東の方だと、
なんかもう俺がこの国を治めるぜとか、室町幕府何するものぞみたいなのがどんどん現れていって、
最後、軍有滑挙みたいな、そういう時代になっちゃっていきますと。
この辺りが多分みなさん大好き戦国時代で、それこそ北北には伊達がいてとかさ、
九州の方には島津がいてとかさ、そういう時代になっていくわけなんですよね。
そうなると本当に不安定な時期なんですけれども、
新しい価値観の形成
それを治めたのが、いわゆる小田信長、豊臣秀吉みたいな話ですよね。
豊臣秀吉が一応天下統一をして、そこから最終的には徳川家康が幕府を開けましたというのがおっきな流れですと。
はいはい、なるほどなるほど。戦国時代を経てここに至ったと。
100年くらい戦ってたんだよね、戦国時代でいうと。
うーん、あったね。
そうそうそう、っていう感じで結構激しい時代なんだけれども、
教科書的に歴史的に言うとそうなんだけれども、
当然100年続いた戦争、戦だよ、内乱があった時に、
1603年幕府ができました、天下統一ですってパシって、
人の生活とか考えが変わるわけないじゃないですか。
ほうほうほう、確かに。
ね、言われてみれば。
だから僕らは江戸幕府平和の時代だとかさ、大変だよってやっぱり言うんだけれども、
当時の人からすると、でもまっすぐまた戦争が起こるんじゃないとかさ、
言っても何が起きるの、江戸幕府ってみたいな。
徳川さんって本当に信頼できるのかわかんないけれども、
そういうことを思って叱るべきなわけなんだよね。
確かに、はいはいはい。
思想的にはどうかみたいな話でいくと、当時、戦国時代とかでいくと、
イメージされると思うんだけど、いわゆる浄土信仰とかさ、いわゆる仏教だよね。
やっぱり死んだら浄土に生まれ変わる、だから会うんだみたいな話でもそうだし、
やっぱりそういう仏教的な輪廻転生とかさ、そういう清く正しく生きれば、
来世では平和になれるみたいな、やっぱりそういうふうな発想っていうのがある種精神的なスターになって、
潔く死ぬとか、ある種戦の世でも別に死ぬことが恐れないというか、
そういうふうなことができていくわけなんですよ。
なるほど。
でも、そういうある種なんていうのかな、やっぱりすべては落ち着かっていきますとか、
やっぱりこの世は無常だから、むしろその無常の中でいかに戦いの中で成果を出すかみたいな、
そういうところが仏教と繋がってたわけなんですよね。
でもさ、突然さ、いきなりこれから江戸幕府ですみたいな。
で、今後も江戸幕府でも続いていって、戦はもう起きませんとなった瞬間に、
じゃあどうするの?みたいな。
いつでも死んで、来世で清められるというかね、そういうふうに生きてきたのに、
でもこれから戦はダメですと言われた時に、
じゃあ現実どうやって生きていけばいいの?ってなるわけなんですよね。
そうだね。それは一般の民衆もそうだし、戦ってた人たちもそうだし、
やっぱり武士だね。
なんかあれだね、バカボンド的な世界観だね。
バカボンド知らない人も多いと思うけど。
宮本武蔵の話かな。
はいはいはい、そうですね。やっぱり県に生きていたら、やっぱりその戦うことが、
自分の生涯だった人たちが、いきなり武士で刀を刈られてさ、
大刀はできるけど抜いちゃダメみたいな感じで、
あんたたちは今から政治家だから、町を治めてくださいとかって言われたりするわけだよね。
そうするとやっぱり、なんか全然違うなみたいな、
どうやって生きていけばいいの、俺らとかって普通に思うわけなんですよ。
かつて幕府の方も、いわゆる無秩序の戦国時代というところから、
ちゃんと秩序とかを整えて、いわゆる体制を作らなきゃいけないという時に、
やっぱり仏教とかだと、結局秩序ってやっぱり作れないんですよ。
なるほどね。仏教の時代には、いわゆる大きなだよね。
なんかね、各藩ごととかさ、何とか家とかさ、
いわゆる家だよね。家を統治するみたいなさ、
そのレベルのシステムはできてたかもしれないけど、
家と家と家をつなぐみたいなさ、統一した上で広い範囲を収めるっていうのが、
もうすでに室町時代以来にやることだし、その時とはまたスケール感も違うから、
どうするこのシステム、この売上がさ、
1000万円の会社のシステムと10億円の会社のシステムって、
たぶん全然違うじゃん。何も把握できない売上みたいなさ。
原価も把握できんみたいな。そういう感じなのかな?
そうだね、そうだね。そう。だからそういうのを、まさに豊臣秀吉がいわゆる検知とかやってさ、
いわゆる全部測量してそれを統一したみたいな、
揃えた範囲とか揃えていったとかって言われたと思うんだけれども、
かなり現実的な問題として、
制服じゃ国が違う、隣の藩に行くって、
いわゆる国境を超えて話だから、そのぐらい全然違うわけなんだけれども、
それをどういうふうにまとめていくかっていう時に、
仏教って自分の悟りだから、それは自分で頑張りやすいみたいなさ。
そういうふうな感覚が強いじゃないですか。
なので、やっぱりそれでまとめるって結構しんどいんだよね。
っていう時に役立ったのが、前回もやってた朱子学なんですよ。もちろん儒教かな。
なるほど、そこで出てくるんだ。
そうなんです。なんでかって言うと、儒教とか朱子学って、前々回いろいろやったと思うんですけれども、
ある種真卒位の理っていうものがありますっていう時に、
これって人間なら誰でも持っている普遍的な法則ですって感じだったじゃないですか。
なので別に、いわゆる東北にいる人だろうが、旧市にいる人だろうが、
同じ人間である以上はみんな持っている。
それがある種よく言ったような、子供が井戸に落ちた時に助けたいと思うとか、
親は親として敬うとか、
物資は物資として尊重されるとか、
それってどこでも一緒ですよねっていう風な話を、美っていうものと結びつけると、
すごい都合よく、だからみんな一緒って言えるんだよね。
おー、なるほど。そっかそっか。わー、難しいんだろうね。
基準を統一するのが難しいのか。
そうそうそうそう。
はいはい、いろいろとね。
それでいくと幕府っていうものがあって、それを敬いましょうとか、
それをある種、親子関係みたいに、幕府に使える家臣って言われた時に、
ちゃんと上下の関係で整えていきましょうねっていう風な、
そういう発想とすごく相性がいいんだよね。
おー、なるほど。
なので、もともと中国でも主主役っていわゆる支配者っていうか、
家居と結びついて、政治的なものと結びついたって言ってたと思うんですけれども、
それって主主役自体、もっと言うと儒教自体が、
違う人のものと結びつけるとか、
人っていうものを上下の関係でちゃんと固定化する?あるいは支配する?
そういう正当性って言うとすごく結びつきやすいんですよね。
なるほど。
ある種、江戸時代も1600年代なので、当然洋名学とかもあるんだけども、中国の方には。
でも、やっぱり江戸幕府はこの主主役ってものを孔子の学問として引っ張ってきて、
江戸幕府はこれでやりますと。
なのでこれをちゃんとみんな学んでねっていう風に、
そういう部首とか支配会計の人たちにちゃんと広めていくっていうのをやったんだよね。
なるほど、そっかそっか。
その辺の共通言語だったりとかから逸れていかないと話が通じないんだね、そもそもね。
そうそうそう。
朱子学の影響
やっぱり何を土台としてこの幕府を作っていくかとか、どういう価値観を大事にするかっていう時、
やっぱり儒教的なものっていうのがすごい役になったんだよね。
なるほど、なるほど。
だって怖いじゃん、仏教をさ、そのまま引き継いだったらさ、
それこそ来世に救われればいいから、自分の好きなことを現世にやるぜみたいな話もあるし、
全ては無常で、宇宙に変わっていくから、徳川幕府もいずれはなくなるぜみたいなさ、
そんな人たちばっかりで、やっぱり治められるものは治められないじゃん。
どうだね、ちゃんと上のことを聞けってね。
上のことは聞くもんだ、そうです、っていうふうにしないとダメなんだね。
そうそうそうそう。なので朱子学儒教ですっていうのは話だったんだよね。
はいはいはいはい。
さっき言った中にいたんだけれども、そういうのをお勧めしたのが林羅山という人で、
次回以降はこの羅山さんとのんびり話をまたしていくんだけれども、
結構そういう家康さんが、勇者の人は抜擢して、
お前が江戸幕府において朱子学を広めなさいみたいな、そういうことをやっていくんだよね。
うんうんうんうん。
そういう意味で、いわゆる江戸時代の中で朱子学がどんどん広まっていくんですけれども、
やっぱりそうすると当然朱子学だけでいいんだっけっていう人も出てくるわけなんですよね。
まあそうだよね。
うん、当然ね。そんな上から押し付けられたやつ、嫌ですみたいな人もいるし。
そうね、どこから来たってね。
そうそうそう。なんで中国の教え舌様を知らなきゃいけないの?ここは日本だぞみたいな。
当然そういう人もいたりとか。
ああそうなんだ。そこはありがたいとかじゃないんだ。先進国からありがたいとかっていう感覚だけじゃないのか。
だけじゃない、そう。
やっぱりそうね、これはさっき言った元森伸長さんとかそうなんだけれども、
むしろ日本の方が、いわゆるずっと続いてる万世一継の天皇というものがいて、
所詮中国なんてコロコロ王権変わって皇帝も変わって、そういう死んだ者国じゃないかみたいな逆にね。
そういうふうに捉える人も、そうそう当時がいるわけですよ。
そういうのがあるんで、やっぱり先進国の中国の話じゃなくって、日本にはもっと優れたものがあるんじゃないかという人も当然いるし。
あとは朱子学ってものを見て、そんなさ、人間って理論整然として上下って勝ちと決まってるもんなんでしたっけとか。
あとはそれだと都合が悪いっていう、例えば農家とか私農公所であったときに商業やってて、
お金はいっぱいあって権利も持ち始めてるんだけど地位低いなみたいな。
このまま朱子学やってもダメだなみたいな、そういう人も出てくるわけなんですよね。
そういうときに、社会が260年もある中で、朱子学ってものをベースにしながら、いろんな江戸時代の中でも時々の思想とか発想って出てくるわけなんですよね。
なので、江戸時代って表面的には当然争いがないとか戦乱がなかったという意味では平和の時代なんだけれども、
その中でもいろんな時代の流れの中で何を信じていくのかとか、どう生きるのがいいのかとか、
やっぱりその上から押し付けられる朱子学ってもので本当に生きていいのかみたいな、そういうことがやっぱり人それぞれの中であった時代ではあったんですよね。
そう聞くと別に今の僕らも全然無関係じゃないなというかさ、
ある種世の中の常識とかこうあれべきだとかあったときに、やっぱりそれで本当にいいんだっけとか、
やっぱり社会的にはこうだけど自分的にはこうしたいとかってときにどっちを大事にするんだっけとかさ、
そうやって全然共感できたりするじゃないですか、今の僕らでも。
そういう観点から江戸時代の思想というか、
ある種思想化か、思想そのもので言うとちょっと今からすると古いというか、ちょっと飾ってる感じはどうしてもあるんだよね。
なので思想そのものを深めていくよりはちょっと人に焦点を当てて、江戸時代にこういう人が現れてこういうことをしたというときに、
確かにその時代ならこういうこと考えるかもねとか、こういうことを通じて今の僕らの、やっぱり江戸時代って言ってもね、
本当に1個2個前の時代だからさ、今のね、令和からしても。
っていう意味で言うと、僕らの200年前くらいの先祖ってこんなこと考えてたんだなとか。
そんなことを見ていけると面白いんじゃないかと思ってますっていうような感じなんですよね。
はいはい、なるほど。
でもどう、今みたいな話を聞いてさ、江戸時代ちょっと真っ白な髪だったと思うんだけど、なんかちょっと輪郭見えてきた部分もあるかな。
いやーそうはね、だからやっぱりどっちかというと、一般民衆っていうよりは幕府側で、取りまとめていく方のニーズとして強かったんだねっていうのが分かったね。
そうだね、主役に関してはそうだね。
だから本当の意味では民衆、いわゆる百姓というのは農家も農民もしてとかさ、年号を収めてとかっていう人はやっぱりちょっと学問からは少し遠ざかっている。
もちろんそういう人たちにテレコイヤ的に教えていくとかもあるんだけども、やっぱり中心になっているのは武士の階級だったりとか、
あとはまさにお坊さんだった人が主役とかを学んだら、こっちの方が今大事だわって言って変わっていくとか。
へー、そういうのもあるんだ。
そう、そういうのが多かったみたいだね。
まあそうだもんね、だって年号どうするとか。あとは幕府からすると一般民衆よりも他の藩からの反乱みたいな方が怖いだろうから、まずはそこをちゃんと統治してこっとみたいな話で言うと納得というか、そうだね。
宗教的反乱の脅威
あとね、これちょっと面白かった。僕も江戸時代の本とか読んでて、なるほどって思ったんだけども、やっぱり当時一番怖かった、幕府側から見て怖かったのって、やっぱりいわゆる宗教的な反乱とか、宗教のいわゆる一揆ってあったじゃないですか、一行一揆みたいな。
やっぱりああいうのがかなり怖かったんだって。
へー、そうなんだ。
なんでかって言うと、さっきの仏教の話はそうなんだけど、いわゆる戦いで死んだらまさに仏になれるとか浄土に行けるみたいな感覚で、やっぱり仏教的なところにもあったらしいんですよ。
やっぱりそれでこられるとどうしようもないというか、ほんとにこっちがやり尽くすか向こうにやられるかみたいな、それしかないみたいな感じで、めちゃめちゃ大変だったんだって、その宗教的なやっぱり反乱とかを抑えるのって。
そっか、対象首取ったからおしまいにはならない怖さがあるんだね。
だからやっぱり結構、徳川の幕府ってやっぱり平和でしたよ、戦乱はなかったですよって言われるんだけれども、やっぱりまず初期の段階ではかなりそういう宗教的な弾圧とか、それをほんとに殺し尽くすところがあってやっとできた平和でもあったみたいなんだよね。
へー、そうなんだ。ほんといろんな勢力というか、あったんだね。他の反乱だけじゃなくて。
そうそうそうそう。でもそれこそもちろん浄土宗とかもそうだし、一向宗とかもそうだろうし、ほんとにいろんな人たちが一挙を越しちゃう。ちょっとなんでそういうことをするのかっていうのはちょっとわからなかったというか、調べなきゃなと思ったんだけど。
いわゆる当時の仏教とか宗兵とかってあるくらい、いわゆる武力を持っている人たち、集団だったっていうのはあると思うんだけども、やっぱり都合が悪かったんだよね。
やっぱり混乱してる方が、さっきも言った通り、戦国時代の方が仏教を持つ力が強かった。
あー、なるほど。はいはい。
いわゆる戦国大名とかも、やっぱりそういう仏教的な勢力と結びついて、自分たちの領土を守るとか、自分たちの権威を高めるとかってやってたから、それが江戸時代になった瞬間に自分たちの権力がなくなるとか、権威が弱まるっていう危機感もあったんだろうね。
あー、なるほど。はいはい。あとは防衛反応というか、そこら辺はもう分かんないけど、織田信長とかもね、有名な。
そうそうそう。
ヤキウチとか、そうそう。ヤキウチしてるよね。
なんかそういう空気感みたいなのもあったんだろうね。お互いのピリピリしたね。
あーそうそう。やらなきゃやられるってお互い思ってたからね。
いやー、そうね、そう。これ面白いのが、そういう意味で例えば、織田信長主管理、豊臣主管理、家康主管理なんだけれども、死んだ後に自分を神にしてるんだよね。
へー。
あ、そうそうそう。徳川家康さんはですね、死んだ後に当省大御元になって、いわゆる自分を神にして、それが日光に祀られてるんだよね。
へー、はいはいはい。
これも、ただやっぱり偉かったからとか、まさに神みたいな人だったからとかってことじゃなくって、
そういう対抗勢力、それぞれ仏教とか、そういうのに対抗するために、自分が神になることで、
いわゆる宗教的な権威というか、そういうものをちゃんと作っていく。
あー、なるほど。はいはいはい。
だから自分が死んだ後も、徳川さんがどこまで考えたかちょっとわからないんだけども、そういう徳川家康さんが亡くなった後も、
そういう意向とか、まさに神格化されたものの中で、徳川幕が守られてるんだよとか、ちゃんとついてるんだよとか、
そういうことをすることで、宗教的な対抗力を持つみたいな、そういう意味合いもあったみたいなんだよね。
わー、大変だね。だから僕からすると、いろんな勢力がいるから、そういった思想的にもだし、
あと武力でいうといろんな藩との関係もあるし、そういう宗教的な、信仰的な意味での、ちゃんと取り込んでおかないとダメなんだ。
ブッダに勝たなきゃいけないわけよ、その2000年前とかで死んだ。
いうところで、やっぱり本当になんとか練り上げたのが、この徳川幕っていう感じみたいなんだよね。
だから、これにとって歴史のことは僕もちゃんとわかんないのと、多分詳しい方はいらっしゃると思うんですけれども、
やっぱり本当の意味でなんで徳川幕がこんだけ続いたのかとか、どういうふうに立ち上げ初期に大変なことがあったのかみたいなことは学んでみたら多分めちゃめちゃ面白いんだろうね。
あー、そうだね。確かに確かに。全然こっちは想像する以上にね、趣旨書き入れときゃいいとかそんな単純なもんじゃなさそうなんだ。
たぶんやっぱり入れるときにもね、本当に主役なんですかとか、いろんな議論とかもあっただろうから、本当にそれはいいのかとかね。
そういうことも含めて、当時の知識人というかね、徳川家康を含めた人たちが、ちゃんとこれで国をつくっていこう、幕をつくっていこう。
その中にやっぱりその儒教的な上下関係とか、やっぱり人の根本にある理っていうもの、それが万人に共通にあるはずだから、それを使えばまさに統一する国家っていうものがつくれるんじゃないかって、やっぱりそういうふうな理解まではあったってことなんだと思うんだよね。
だから面白いよね。逆に言うとさ、やっぱり日本人みたいな民族とかってあると思うけど、やっぱりすごいふわっとしたじゃん、本来日本人とは何かって。
ああ、まあまあ、そうだね、日本人とは何かっていう話だよね。
でもなんというか僕らは領土とか日本という国で生まれたとかっていうものを持って、なんというか僕らは日本人だっていう統一感を持ってるわけだけれども、それもやっぱり言ったら支配するというか、国を維持する側の多分発想として、僕らは日本人である。
だから日本という国において連帯、ある種つながっているのであるみたいな、そういう有無を言わせるプレッシャーとか圧力もあるよね、同時に。
ナショナリズムの形成
はいはい、だからここから先の話だよね。鎖国が終わって海外からプレイヤーが増えた時に、やっぱり日本としてまとめておかないとっていう、そこもまたあっただろうからね、ナショナリズム的な話が出てくるってことだよね。
そうですそうです。やっぱりそれによっては明治とか、やっぱり戦争に突っ込んでいくってあると思うんだけども、やっぱりないものに名前をつけて共感を持たせるって、すごく大事だけどやっぱり怖いこと。
それがまさに朱子学とか儒教でリーだよね。この一文字で、これが人だけじゃなくて世界とつながってるって話だからさ、朱学って。それをやっぱり突き詰めた朱学、朱器やっぱりすごかったなと思うし、やっぱり朱器は1200年くらいですけれども、
本当に400年くらいか、あとの全然違う国。日本だけじゃなくて韓国とかでも広がったらしいんだけれども、やっぱりそういう成り立ちも歴史も全然違う国にも受け入れられて使われるっていうところがやっぱりすごさ。っていうのが朱学はあったんだよね、っていうふうにも改めて思うんだよね。
そんだけ強みがあったし、あとは大国である中国だよね。それこそ日本が戦国時代を経て統一しなきゃ、みたいなことを、もっと1000年以上前からやってるような国が使ってきたシステムだとも言えるよね。
そうだねそうだね。ちょっと江戸時代ってそんな感じだったんだとか、確かに思ったよりも昆明の時代ではな、初期はね特に。これとも雰囲気として感じていただけたんじゃないかと思うんですけれども、
次回ですね、江戸の思想の中でも本当に初期の方でどうやって朱学ってものを導入していったのか、それを使って秩序ってものを作っていったのかっていうところを、それをやったのが藤原誠家さんと林羅山さんっていうふうな2人なんだよね。
なので、この2人のことをお伝えしながら、まず初期の思想というか朱子学の需要というところをまずお伝えしようと思ってますというふうな感じですね。
うーん、なるほど。そんな感じだったんだね。そっか、なんとなくね、朱子学と洋衛学はなんとなく日本に入ってきましたぐらいの感じだったけれども、こうやって入ってきたんだね、そもそもね、まず。
こういう背景があって取り込んだって感じだね。
しかもあれなんだね、さっきハイト言ってたけど、その洋衛学がすでにこの時にはあったんだね。
あったあった、そう。中国の方には洋衛学もあった。
けれども朱子学だけを入れたっていうね。
朱子学を優先的に取った感じかな。
この視点では。
日本の中にも洋衛学者はずっとはいて、たぶん一番有名な洋衛学者は王将平八郎ですね。
へー、そうなの?
はい。
乱の人?
そう、乱の人。
へー。
で、あの人は洋衛学者って言われてるんだけれども、やっぱりちょっとこれはもう江戸の後半の時だけれども、やっぱり貴金が起きて米がないみたいな時に、いわゆる有力な商人とかが米を囲って、いわゆる亡龍を貪ってるみたいな。
ほうほうほう。
そういう時にはやっぱりそれはならぬ。
そんなことはやっぱりしたらダメだって言って、まずは自分の中の善というか、ある種心に従ってそういう乱を起こすわけなんだよね。
はいはいはい。
つまりそれも、ある種、彼なりの知恵合一って言っちゃえばそうなんだよね、実は。
うーん、なるほど。
やっぱり世直しなんだけど。
うーん。
でもやっぱり前回の洋衛学者の話でいくと、やっぱりそれって本当に洋衛学者の知恵合一なんだっけとか、で、王子の平一郎がどこまでそれをやってたんだっけっていうのはまた別の話ではあるんだけれども。
まあまあそうだよね、時代的にね、ただそれに賛同する人が多かっただけとも言えるという。
それかもしれない。でも多分彼が主主学家だったらそれやれてないんだよね。なぜならやっぱり上下ってのは絶対だから。
あー、ほうほうほう。
やっぱり洋衛学的な考えがあったからこそ、やっぱりそれを正しいとする自分の判断とか、こういう仲間がやっぱりできたっていうこともあったんじゃないかなってやっぱ思うんだよね。
なるほど、そっかそっか。洋衛学の方って前回の感じからすると、いわゆる合意形成みたいな意味はあまり向かないというか、そういう意味では主主学の方が割と理論的に周りと合意が得られやすい、理解が得られ、共通認識が得られやすいのかなと思ったんだけど、感情ベースで集まる場合は結構強いのかもしれないね。
そうね、王道みたいなところで言うと主主学なんだけれども、やっぱりそこからちょっと違うことをやろうとか、やっぱり王道に対してある種ちょっとアンチ的な立場になるときは、やっぱり洋衛学はすごく使いやすいんだと思うんだよね。
あー、なるほど。
そういう意味で、なぜそういったその人の行動とか思想に、価値観に、どんな思想を学んでいたのかとか、どういう学問ではベースにしていたのかってめちゃめちゃ繋がってたりするから、そういう意味でも学んでいただけると面白いんじゃないかなと思いますね。
いやー、なるほど。だから次回から具体的な話だと思うけれども、まずは日本のベースってところは主主学に入ってきたね。
思想の受容と影響
そうね、エドバックのベースだね。
というところで今回、導入編なので軽めにお伝えしたんですけれども、歴史的なところからお伝えしていきましょう。
先ほどお伝えした通り、次回以降は思想の深いところに行くみたいなのは主主学編でやってるので、どっちかっていうと歴史的なとか時代において、この主主学っていうものがどう受けられたのか、そっちはフォーカスしようと思うので、ある種気楽に聞いていただけるんじゃないかと思います。
いつもみたいにわからんとか、思想的にこれがちょっと苦しいとかっていうことではないかなと思うんで。
良かったらこのエドの思想編はちょっと気楽に聞いていただけるとうれしいなと思っておりますというふうな感じですね。
分かりました。というわけで次回、日本にどういう形で主主学が入ってきて浸透していくのかというところを見ていくと。どこで楽しんでいきたいと思います。では次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
38:20

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