1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #340 仏教じゃ足りない!?時..
2025-08-03 57:45

#340 仏教じゃ足りない!?時代が必要とした日本の朱子学のはじまり

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

江戸時代の思想の変遷について、仏教から朱子学への移行が語られています。藤原誠華と林羅山を通じて、新しい思想がどのように形成され、広がったのかを探ります。第340回のエピソードでは、日本における朱子学の始まりと、それに伴う仏教からの移行が考察されます。藤原聖華が日本で初めて儒学を教え、自身の名家の資源を活かしながら朱子学を広めていった過程が紹介されます。また、日本の朱子学の発展において、林羅山が注目されています。このエピソードでは、彼の師である藤原聖華との出会いや、徳川家康との重要な関わりを通じて、朱子学がどのように広がり、時代に必要とされたのかが探求されます。さらに、日本の朱子学の始まりにおいて、藤原聖華と林羅山の影響が語られます。特に、林羅山が自学の思想を広め、行政と結びつけたことが、江戸時代における思想史において重要な役割を果たしました。

江戸時代の思想のバックグラウンド
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。 よろしくお願いします。
よろしくお願いします。 はい、江戸時代の思想ということで、今回2回目入っていきたいと思います。
はい、前回ですね、その江戸時代の前が、いわゆる戦国時代っていうのがあって、本当にこうね、わちゃくちゃ、もうなんかこう、いつ死ぬかわからないみたいな時代があった上で、
まあそのね、いわゆる太平の世の中で、いわゆる江戸時代が始まりましたよと。それに対して、やっぱりね、そのいわゆる暮らしている人たちって、じゃあそんなすぐに江戸時代あったから、
思考も変わるかって言ったら、変わらなくて、そのタイミングで、まあそういう朱子学とか、儒学ですよね。
これまでやってきた朱器とか、まあ大曜日の余命学はちょっとまた後なんですけど、やっぱりそういう自学的な発想が日本に入ってきて、
やっぱり秩序とか安定ですよね、っていうものを国の政治体制とかだけじゃなくて、いわゆる自分たちの思想とか、
そして考え方とかに関しても、やっぱり求めてたんですよっていうふうな話をしたかなと思っておりますと。
はいはい、その辺だよね。前回はどっちかというと歴史の勉強的な感じだったけれども、
やっぱり時代が大きく変わるから、それは思想というか、そういうのも変わってくるよねっていう話だったってことだね。
そうですそうです。ただここ面白いのが、これまでの西洋哲学でいうと、その時代に合わせて新しい哲学とか思想が生まれてくる。
それこそロックとかヒューブの時だと、そういう国の体制が王政からガラッと変わった時に、やっぱりそれを支えるような考えが出てきますよとかって話をしたと思うんですけど、
日本の場合って、もちろんそういう新しい発想が出てくるってのもあるんだけれども、やっぱり中国から持ってくるというか、
それを日本に当てはめていくがいいかなっていう感覚が結構強いんですよね。特にこのS時代でいうと。
だから例えばジョン・ロックでいうと、例えばホップスのリヴァイアさんみたいな、ああいう昔というか、
当時からすると、前の学問とかちゃんと勉強した上で自分の学問をちゃんと作り上げるみたいな感じがあったと思うんだけれども、
日本の場合だとそれがもうちょっと、例えば、何だろうな、立行性とかじゃないけれども、やっぱり持ってきた、はめ込みました感がもうちょっと強い感じなのかな。
だいぶ強いね。本当かわかんないけれども、やっぱり中国とか朝鮮みたいな、やっぱり自分たちよりも進んでいるとか、発展している国があって、
やっぱりそこからある種持ってくる、そこを学べば解決するみたいな感覚。それは仏教からずっとそうなんだけれども。
仏教もか。
そうそう、仏教もそうだから。っていうのがやっぱり当時の学問、最先端の学問なんだよね。
なるほど、そっかそっか。じゃあそこを学んで取り入れるみたいな。
だからそこを、花からというか、自分がこういう思想を構築していく上で、やっぱり過去を学ばなきゃいけないのだとか、先進国から学ばなければならないのだっていうよりは、
もちろんもうちょっと具体的な、実務的なというかさ、もうこれ持ってきてこれ適用しようみたいな、そういう感覚に近いのかな。
そうだね。もちろん先進国イコール当時の中国だから、そこから学んでるっていう意味ではあるんだけれども、
やっぱりそれを自分たちで組み立てていくというよりは、いかに言ってくれたように、いかに当てはめていくかとか、日本に浸透させていくかみたいな、そういうところが結構土台になってくるような感じだったんですよね。
なるほどね。仏教とかも確かにと思ったけど、その向こうでガチで学んできて、そこそこね、確か最澄とか空海もそうだったもんね。密教とか、本場の最新のものを学んでくるみたいな。
それをそのまま適用したりとか、あとはもうその後日本独自のふうに徐々に発展してきましたみたいな、結果そうなってくるみたいな、そういう感じなのか。
鎌倉時代くらいになってくると、やっと日本独自のとか、そういうものが出てくるけど、それまでもちろん中国とかから戻ってきてはいるんだけれども、アレンジが加わっていくんだけど、この江戸時代の最初、もう今回と次回で扱う人の名前をちょっとお伝えすると、
今回は藤原誠華という人と林羅山の2人ですね。
かっこいいなぁ、2人とも。名前がかっこいい。
そう、漢字もかっこいいのでよかったらぜひ検索してみてほしいんですけど、この2人と、あと次回は山崎安西さんという人がいて、
この3人というのを1、2回取り上げていくんですけど、どっちかというと藤原誠華さんと林羅山さんという人が、本当に江戸幕府、その大政側に立って、
朱子学とか儒学っていうものを浸透させたとか、土台を作ったみたいな人たちで、
山崎安西さんはどっちかというと、一般民衆というのかな、大政側に立たずに、自分の学んだ朱子学とか儒学と、
あと神道、日本にあったもともとある神様だよね。そういうものをくっつけて、この江戸時代、新しい時代に適した思想を作っていこう、それを広げていこうみたいな、
そういうことをやった人なんですよね。
はいはい、みんなそう思うそうだね、なるほどね。
そうそうそう。なので、そういうところから、江戸時代初期、それまでは仏教というものが基本的には常識というか、当たり前だった時代から、
いかに儒学、朱子学に変わるかというところをお伝えしていこうと思っているんですけれども、
藤原誠華と林羅山の影響
まず早速なんだけれども、最初に出てくるのが藤原聖華さんという人です。この人は1561年生まれるので、江戸末ができる前ですね、いわゆる戦国時代に生まれております。
藤原さんなので、いわゆる藤原家道長さんとかいるじゃないですか、平安時代の。ああいうところに連なるような人たちなんですよ。
藤原っていうと基本そうなの?今分かるように言って分からなかったんだけど。
ああ、そっかそっか。当時でも多分違う藤原さんもいたかもしれないけれども、この藤原聖華さんはまさに藤原家、いわゆる平安から続くところの明家の出身です。
なるほど、こういう名を残っているような人は基本その可能性が高いみたいな感じだもんね。
可能性高いっていう、そうそうそう。ただ三男として生まれているので、家を継ぐっていうよりはですね、結構長男は家を継ぐけど、次男とか三男はよそに出されるみたいなところが多分当時あって、いわゆる僧侶、お坊さんにやっぱりなるんですよね。
へー、なるほど。
なので、名門の家の子が学問をやるために寺に入るみたいな感じっていうのが当時あったんですけど、それでは臨済宗の僧侶になろうとしますと。
へー、禅宗だね。
そうですそうです。禅の修行をもともとしている人なんだよね。
へー、そうなんだ。
いわゆるそれが当時のエリートというか学問的な感じなんですけれども、
これ面白いのが、さっき僕、仏教が優勢で、儒学とかって言ったと思うんですけど、
当時で言うと、三教合一っていう言葉があって、あの三つの教えね、これは一つに合わされている三教合一っていう言葉なんだけど、
要は仏教と儒学と道教ですね。老子とか宗師の。
これは最終的に同じ真理に至るんだ。根本は同じで、言ってることが違うだけだ、みたいな考え方が一般的だったみたいなんですよ。
一般的っていうのは日本においてかな?
日本の仏教界っていうのは学問界かな?
はいはい。だからそれは中国とかでは違うというか、わかんない。
実は中国もそういう発想はあったんだけれども、日本の方が強かったみたい。
日本の方が強い?
要は、当時ってまだちゃんとした教えとかが入ってきてなかったみたいなんで、もちろん本とかはあるんだけれども、
例えばこの儒学とか、朱子学の理とは何かとか、気とは何かみたいな、その前回のテーマでお話したようなこと。
あんまりちゃんと理解してなかったみたいなんですよね。
例えば大局で全て根本は一つだとかって言ったときに、
それってもしかしたら仏教の教えも道教の教えも、全部大局に行くんだったら、それって道も大局も一緒じゃない?みたいな。
そういう発想というか受け取られ方になりがちだったらしいんですよ。
でも自分もそうかも。このソイテッドラジオを通じてさ、結局似てんじゃんみたいな感覚になっちゃうもんね。
まあ突き詰めていくとね。
たぶんね、それぞれをちゃんとやってる人からすると叱られるんだろうけど、なんか似てね?って繋げたくなっちゃうよね。
そうそうそう。
たぶんそういう感覚で、もちろん一般人というよりは普通にお寺の中で学んでる人とかも、そういうふうな感覚を持っていって。
それぞれをちゃんと学んでる人が、なんか似てね?って思っちゃうんだ。
そうですそうです。というよりも当時、藤井聖我さんが生まれた1500年代ってまだ戦乱の時期で仏教が強いので、
仏教を軸にして主治学を理解するとか、仏教を軸にして道教を理解するとか、結構そういう感じなんですよね。
なるほど、そりゃなんか、そうか仏教っぽいねって全部言えちゃうっていう。
思想の変化と社会的背景
そうそうそう。
もっと当時の状況を言うと、いわゆる中国から入ってくるのって全部漢文ですと。
今みたいに書き下しとか読み下しとかっていうのもないので、
いわゆる外国語、今は僕らが英語を学ぶみたいに、当時のお坊さん達っていわゆる漢文を学んで、
その仏教の経典を読むために学んで知識を活かして、授学とか、そういうような本も読んでたっていう感じなんだよね。
なるほど、漢文でね、しかもね。
そうそう、漢文で。だからある種、そういう知識がないとそもそも学問はできないし、
もっと言うと、仏教を学ぶために覚えたそういう漢文的な知識を持って、
授学とか道教もある種摂取してたみたいな、そういうふうな感じなので、それは混ざるよね、みたいな。
なるほど。今回の話とずれるかもしれないけど、漢文で入ってきた本とかがあったときに、
それを翻訳すればいいじゃんって今の感覚だと思うんだけど、
やっぱりそれはもう、昔、ローマとかでラテン語読めないととか、そういう話と近くで、
やっぱり日本語で直したものじゃなくて、漢文をそのままやるのが学問であるみたいな、
そういう、ちょっとこう、学問のハードルを荒れてるというか、そういう感覚もあるのかな、どうだろうね。
あるね、絶対。だって当時は学問ができるって、特権階級のことだから、ある種それを広めようとかっていう発想ってほとんどなかったんじゃないかな。
わざわざ広めるメリットがないんだね。
そうそうそう。それこそ聖書はさ、まさにラテン語を読める人だけしか読めないとか、そもそも本にしないとかってあったと思うんだけど、
それと同じ感じで、本とかいっぱい入ってくるんだけど、やっぱり日本人では読めないとか、正しく理解できないとか、
ある種漢字の羅列だからさ、読み方とか、その漢字の意味一つって全然難しいとか、いろんな解釈があるんだけど、
この解釈が正当であるっていうのはやっぱりお寺に行かないとわかんない、お寺っていうかその、
実際に僧侶になって入ってみたらわかんないみたいな、そういうふうなやっぱり状況だったんだよね。
いやー、なるほどなるほど。
うん。なのでやっぱり今とも全然違うし、その、なんといえば僕らってその仏教があって朱子学があってとかって歴史的に学んでるから、そんな順番なんだけど、
当時だとそれも全部ごちゃ混ぜなんだよね。
ふーん。
うん。で、言っても朱子の朱子学も当時でいいけど400年前とかの、まあ、教えなので、
そこから400年前の教えと、まあ、仏教とかっていう、まあ、1000年前の教えもどっちもあるし、イニシエというか古い教えですと。
それがごちゃっと入ってきたときに、別になんか時代交渉とかも当時別にないから、
あー、はいはいはい。
いろんなものをざったり読んだときに、あ、なんとなくこれって似てるよねーとか、
だいたい同じこと言ってんじゃない?みたいな感じになっちゃうっていうのは、まあ、そういうふうな時代があったからです。
うんうん、なるほど。あー、わかりました。
はいはいはい。
ちょっと聖家さんの話に戻ると、さっき言ったように彼ももともと仏教の僧侶なので、普通に仏教を学んでいましたと。
でも今みたいな状況があったんで、まあ、儒学とかも普通に勉強はしてたんですよね。
うん、なるほどね。はいはいはい。
で、言うときに、これが面白いんだけれども、その前回もおっしゃった通り、その時代がね、変わったときに、やっぱり仏教の勢力がちょっと弱まって、
儒学っていうのが少しずつ高まっていくっていうふうな時代だったんですよね。
うん。っていうときに、やっぱり基本的にはとはいえ、仏教の方がまだまだ世の中的には大型化されてるから、
基本的には仏教やっていくんだけれども、この聖家さんは、いや、俺は儒学だって言って、仏教やめちゃうんですよ。
えー、あ、そうなんだ。そこを、時代をながら読んだんだね。
まあ、読んだのか何なのかちょっとわからないけれども。結果、結果論だけど。
藤原聖華の仏教から儒学への移行
そうそう。まあでもやっぱり、自分はこっちだって書けたんだろうね。
はいはいはい。
そう。で、それがある種、日本全体としても、当時奈良時代とかでやっぱ仏教続いてるから、もう1000年くらい続いている仏教が独立でもあるし、
聖家さん個人としても、自分がやってきた仏教っていうものをある種捨てて、その儒学っていうのにかけていく。そういうふうなやっぱ生活に入っていきますと。
わー、そんなに、あれなんだ。どっちも野郎じゃなくて、趣旨学というか儒教に完全別途するの。
あ、そうそうそうなのよ。だから一回出見して、仏教ってなるんだけど、もう属性に戻っちゃうんだよね。
はいはいはいはい。
で、これって、まあ多分今で言うと、大手企業とか公務員とか辞めて、一人でベンチャー企業立ち上げますみたいな感じだよね。
ほうほうほう。
要は仏教徒だと、当然社会的知恵もちゃんとあるし、一言で言うと食うに困らないわけですよ。いろんなお仕事があるから。
なるほど。
でもそれをやめて、じゃあ私は今日は儒学徒です。儒学をやってます。まあ儒者か。って言ったときに、何ができるか誰もわかんないんだよね。
あー、なるほど。そっかそっか。法的な仕事というか、師匠がないから。
そう、師匠がないし、授業もないし、誰もわかんないから、え、儒者って言ってるけど何なの?みたいな感じで。
しかも三教合一って言ってる通り、それ仏教と何が違うの?とか、あえてそのことをやる意味ある?みたいな、本当にそういう感じなんだよね。
なるほど。そして何なら仏教の方が上ですけどぐらいの感じってことだね。
そうそうそう、当然そう。
っていう風な感じなので、さっき言った通り、ほんの裸一貫でベンチャー立ち上げましたみたいな、結構そんな感じなんですよ。
彼は日本で初めて、京都かな?に儒学を教える塾を開いたりするんだけど、
そういう風に自分を尖らせるというか、特化させることで、自分は儒者であるとか、そういう儒教、儒学っていうものを日本に広めるんだっていうのも、ある種、もう大路を立ったんだと思うんだよね。
儒学の普及とその影響
はいはい、あーそうなんだね。
ただね、面白いのが、さっきも言った通り藤原聖華さんはめちゃめちゃ名家なので、いわゆるセレブなんですよ。
なので、逆に言うといろんな繋がりはあるんだよね、当時の偉い人たちとの。
なるほど、太いんだね、軸がね。
太い、そう。軸が太くてパイプも太いんで。
例えば、たまたまって言われてるんだけど、実際そういう地位もあったからか、なんか朝鮮のね、いわゆる偉い人が、なんか日本に捕虜にされたのかな?捕虜にされて。
日本にある種、連れてこられちゃうんだけれども、朝鮮も趣旨枠が結構盛んだったので、
自分はそういう朝鮮とか中国には行けなかったんだけれども、日本に来た人と筆談で漢文はわかるから、漢字を書いて交流をして、当時最新の趣旨枠を教えてもらうとかっていうのをやってたんだって。
なるほど、ほうほうほう。
で、そうなるとさ、やっぱり周囲の人は放っておかないわけよ。なんか藤原聖華さんが、なんかそういう朝鮮のことを聞いて、最先端の知識を持ってるらしいぞとか。
ちょっと最近、授学ってなんか話題になってるけど、ちょっとあの人なんだろ、イケてることを知ってるらしいぞみたいなことがちょっとずつ話題になっていって。
そうそうそう。で、噂を聞いた大名がちょっと教えてよっていう風に来たりとか。
なんかちょっと面白いことやってるから支援してあげるよっていう風なパトロンが出てきたりとか。
そんな感じで徐々に徐々に教えが広まっていくっていう風な感じだったらしいんだよね。
えーすごいね。だから、日本でね、支持広を開いてるけれども、こうやってあの孔子だよね。儒教の孔子のムーブと一緒だけども、その辺ももう追い込み済みなのかな、どうなんだろうね。
でもなんかその孔子は祭りやっぱりなんだろうな、儀礼とかも持ってきてるみたいだから、やっぱり日本で自分がそういう、どこまで意識したかわかんないけれども、
やっぱり正当な儒者であるとか、それを広めていくんだっていうような自覚はあったんじゃないかな。
だからその辺の、やっぱり孔子がどういう風にして広めたかとか、そういうのもちろん儒教の内容だけじゃなくて、
その辺もあれだと勉強はしてみたいな感じなんだよね。だからやっぱり一人で突っ込んでいくんじゃなくて、
やっぱり軸を開いて、先生、物を教える立場だぞっていうことを社会的にも知らしめられるし、
あとは弟子だよね。その思想を広めるっていう、多分その一石二鳥的なというか、もっとあるかと。
結構そういう動きだもんね、これはね。
そうだね。だからやっぱりかなり戦略的に、やっぱりきっちりやってるなっていう感じなので、
そういうことをやった結果、いわゆる日本で初めて自覚一本で食べれますみたいなプロ受賞になるわけだよね。
ああ、すごいね。
で、そこまで行くとめちゃめちゃ尖ってるんで、
尖らせ切った結果、最終的に徳川家康に会えるみたいな。
当時のトップだよね、日本で言うと。総理大臣に、ちょっと儒学のこと教えてくれよって言われるみたいな。
林ラザンと儒学の未来
そんな感じになっていくんですと。
面白いのがね、この時に会いに行く時にも演出を大事にしていて、
いわゆる格好だよね、服装とかも、当時、当然仏教徒であればそういう装服みたいなのがあったと思うんだけれども、
受賞にも受賞の服装とかがあったらしくって、
それをわざわざ作って、知識とかいろいろ仕入れてね、
作って、そういう受賞、これが受賞の格好ですよっていうのを着て、
徳川家康に会いに行って、アピールするんだよね。
わー、なるほど。それも孔子っぽいね。孔子もやってたんだよね、それ。
あれ、小説で読んだやつなんだけど、やってたみたい。
わざと帽子、そういう昔の格好をして、目立つ格好をして、
帽子に羽飾りみたいなのをつけて、結構それを、むしろ当時の偉い人がちょっと貸し舐められるくらい、
むしろちょっと目立つんじゃない?みたいな。
でもアイコンとして使っていくわけだよね。
うまいね、なんか。
そうそう。というところが、やっぱり徹底していくことで、ある種、日本が受賞の第一人者です、みたいな。
そういうふうな立ち位置を作っていくんだよね。
えー、すごいな。優秀さが伝わってくるね。
ね、面白いでしょ。
自己プロデュース力も含め。
そうそうそうそう。
なので当時の主治学がまだ何者でもないというか、まあ仏教の本当に下だよね。
というところからどういうふうに変えていったのかっていうのは、やっぱり藤原聖歌さんがきっかけなんだけれども、
この藤原聖歌さんが44歳の時、結構当時第一人者と言われている時代なんですけれども、
この時に弟子になったのが林ラザンさん、当時22歳っていう感じなんですよ。
ああ、そういう関係なんだ。
本当に自家弟子みたいな感じで、結構二回りくらいから22歳だから結構年も離れているんですけれども、
やっぱりこれめちゃめちゃ優秀だって言っていろいろと教えて、
将来的には、さっき言った聖歌さんのつながりで徳川家康に林ラザンさんも認められて、
そこから四代ですね。家康、秀田田、家光、家綱、という徳川は四代にわたって使えるっていうふうな、
ものすごい幕府にとって欠かせない人になってくるんですよね、このラザンさんが。
四代すごいね。
すごいでしょ。時代が変わっても、やっぱりある種重地みたいになってたんだけれども。
しかもこれが面白いのが、さっき聖歌さんはいわゆる名家の出身って言ったじゃないですか、
こっちはラザンさんは全然普通に町人なんで、本当に一般民衆というか、そういうところの出身なんですよ。
わー、なんか熱いね。なるほど。
物語があるでしょ。
やっぱり私塾を開いてるのの意味だよね。社会的にもこういう意味ってやっぱりあるはずね。
うんうんうん。
すごいな。
やっぱ広く、さっき兄貴も言ってくれたけど、学問って閉ざしているとやっぱり絶対出ないんだけれども、
やっぱり私塾を開いて広く、優秀な人に教えようとか、面白い人には伝えていこうってやっぱり言ったときに、
こういう出会いがあるわけなんだよね。
その分の母数だよね。貴族、名家の子供だけとかじゃなくて、開くことですごい天才というか、
人が入ってくる可能性が高まるじゃないけれども。
あー、そうですそうです。
いやー、この話聞きながらさ、
上にちょっと今回、
なになに?
孔子の小説をちょっと思い出し始めてて、なんか勝手に熱くなってるんだけど。
どんな小説?なんて小説なの?
えっとね、孔九っていう孔子の孔二の岡。
孔九って宮城谷正道さんの。
はいはいはい。
やっぱその歴史を調べてちゃんと書くみたいなのが定評がある小説家だから、
内容は結構信頼してるというか、まあ面白いんだけど。
うんうん。
で、孔子も最初私塾開いたときに、
入ってきた人っていうのが、
結構もうその辺のならず者だったりとか、
仕事もないような若者みたいなのばっかりで、
なるほどね。
周りから見たときに、なんて危ない場所なんだみたいな。
確かそうだよね。
アレクレモンというか外れた人たちがどんどん集まってるわけでしょ?
そうそうそう。むしろそういう人を引っ張ってきて、
お前も学問があればなんか食べれるかもしれないしみたいな。
って感じで結構引っ張ってきたりとか、
あと孔子が目立つ格好をしてて、
ちょっとやっぱ変なオーラがあるから、
そういう人もこうついてきちゃうみたいな。
そっか引かれちゃうんだね。
この人ありかもみたいな感じで入ってきちゃって、
なんか物騒な人が出入りしてる怪しい場所だみたいな。
確かに。ちょっと治安悪いなみたいな。
でもあそこでやってるのは本物だみたいな感じで、
その名家の人も学び始めてみたいな。
はいはいはい。
ちょっとそういうのを思い出した。
でもやっぱ近いと思う。
その藤原聖歌さんも、
やっぱり池塾とか開いても人も来ないし、
さっき大名があったと言ったけど、
それも多分ちょっとお忍び的にというか、
若干ちょっとコソコソやっぱ最初やってた感じらしいんだよね。
まあなるほどね。
藤原聖歌が元々貴族だっていうところでの信頼感はね。
元々のね。
家柄的なね。
ただのさ、ただの儒家の子とはまた差としては違うんだろうけども。
そうです。
というのがあってっていう話だけども、
今の話でめちゃめちゃ面白いなと思ったのが、
まさにこの林選山さん弟子の方も、
一時フリーターとかやってるんだよね。
まあ今で言うね。
どんな大励かというと、
ちっちゃい頃のことはあんまりわかんないんですけど、
一応その、最初やっぱ僧侶になるんですよね。
で、お坊さんになるんだけれども、
なんかやっぱ当時で言うと、仏教が少しずつ弱まってる時代なんで、
結構ね、逆にラザンさんを早めに見切りをつけちゃうんですよ。
へー、そうなのか。
で、もう俺は儒学、儒者だって言って、
もう見切りをつけてお寺入ったけど辞めちゃって、
辞めちゃって、でもやることないから5年ぐらい、
なんとか自分で朱子学を学んで、
なんかフリーターだけど頑張って独学してますみたいな。
そんな風に過ごしてたらしいんですよね。
もうあれだね、
林さん家のラザン君はどうしちゃったの?みたいな感じ。
せっかくいいところ入ったのにね、
3年で辞めちゃったよみたいな、ほんとそんな感じ。
何やってんだろうね、みたいなね、家族も。
ね、たぶんね。
人ね、親からするともうあいつはもうダメなみたいな感じになった。
でもね、なんか面白いのが、親からすると仏教もやっぱり良くない。
要は仏教って結婚できないじゃないですか。
なので子供を産めないんで、いわゆるお家断絶みたいな感じになっちゃうねと。
なので家のことを考えたら仏教って良くないんじゃないとかって思いも母親とかはあったらしいんだよね。
へー、その話も残ってるんだ。
あって本人も仏教にあまり未練がなかったんで辞めちゃって、
で独学で主治医学やっていくんですけれども、
天気になるから21歳の時で、
たぶん一年復帰したんだろうね、このままじゃまずいって言って、
勝手に論語、いわゆる講師の論語ですけど、
当然、受賞のバイブルというか根本的な本なわけですよ。
林羅山と公開講義
これの公開講義をやっちゃうんだよね。
へー、はいはいはい。
当時めちゃめちゃ活気的で、
さっきも言った通り、学問というかお寺の中とか、
言うても塾みたいな感じで、
ちゃんと一定な、
開かれてるとは言っても、一定な学識があるとか見識があるとか、そういう人に対してやるものだったんだよね。
はいはいはい。
それを本当に一般公開な感じで、どういう感じだったかわかんないんだけれども、
本当に誰でもどうぞ論語を教えますよみたいな感じでやったんだって。
これってある種、学者に喧嘩を売ってみたいな感じなのよ。
あー、そうなっちゃうんだ。
当時で言うと、勝手に論語とか教えちゃダメだよみたいな、そういうお触れもあったぐらいなんで。
え、そうなの?
そう、ある。
ともすると、これ捕まるんだよね、これ。
結構当時ってやばくて、実際通報とかもされて、
こんなことやってる奴いるけどいいのかみたいな。
はいはいはいはい。
でも一応なんかまあまあ別にいいんじゃないとかっていう感じで、
やむことなきを得てたらしいんだけれども。
よっぽど珍しかったんだろうね。やる人いなかったな。
まあね、かもしれない、そう。
そういう意味でも結構ツレツレの、ほぼ黒みたいな。
黒寄りのグレーみたいなことをやりながら、
やっぱそんなことやってると目立つわけなんですよ。
なんかあいつなんか面白いなとか、論語って知らなかったけどこうやって学べるんだとかっていうのであって、
京都の街でどんどんどんどんやっぱ知名度がどんどんちょっとずつ上がってくるんですよね。
なるほどか、それは公開講義に参加したりとか、噂を聞いた人の反応が割と悪くなかったって話なんだね。
そうそうそう、だからちゃんと学んでたから、しっかりなんだろうな、
言うても3年ぐらいだけどお寺にも入ってたんで、一定そういう素養もあるし、
やっぱめちゃめちゃ聡明だったらしいんですよね。
やっぱり言ってることはいいらしいぞみたいな感じで結構感銘を受ける人も出てきて、
そこでそういう活動をしている中で聖火と出会うんですよ。
徳川家康との関係
出会うというのは藤原聖火さんの弟子が林羅山のことを知って、
藤原さんも聖火さんに会うために、やっぱり当時聖火は第一人者だから、
そこに会うためにいろいろ手紙を書いたりとか、自分はこんなことを知ってますとかっていうことをいろいろと弟子の人経緯で伝えていって、
でもそこまでなら一回やってみようかみたいな感じで、藤原聖火さんと林羅山さんが出会って、
実際この人優秀だってなって入門を許すみたいな、そういうふうな感じだったらしいんだよね。
だから藤原聖火側からコンタクトを取ったってこと?
いや、コンタクトは林羅山側から取ってる。
手紙を出したりとか、藤原聖火の弟子に対して、自分こんなことできるんだよみたいな感じでアピールするみたいな。
え、ていうことはなんだけど、藤原聖火が始軸を開いたっていう話をしてて、
そうしました。
あらためて実社会での立ち位置も出てきましたと、聖火の方がね。
っていう話があったんだけども、
それからこの林羅山が同じ京都にいて、その林羅山が藤原聖火の塾のことを知らないわけがないんだよね。
だって入れなかったってことなのかな?入る資格がなかったのかな?
そういうことだろうね。今話で確かに思ったけど、たぶん普通の方法では入れなかったんだろうね。
なんかそんな感じだよね。だってね、そんなに好きでさ、5年間も独学やってるんだったらさ、
行けばいいじゃん。そんな有名人が近くにいるんだから。
確かに。
それがやっぱりこの自分から、林羅山側からそうやって公開交流をやって、
なんとなく自分の名前を、存在を知らしめてから、そのコンタクトを取らないと弟子入りできないみたいな。
まあちょっとそこは、さっきの孔子のならず者が集まるというよりは、もうちょっとハードルみたいなものは最初は高かったのかもしれないね、もしかするとね。
あったんだろうね。
やっぱりその当時の自学って誰のものかっていうと、いわゆる徳川政権の行政を担う武士のためのものっていう感じだったから、
町人の生まれである林羅山とかで言うと、やっぱり身分が違うとか、まさに資格を満たさないとかっていうことがあったのかもしれないね。
えー、もしかするとね。
ちょっとね、その辺とか調べきれてなくてあれなんですけど、
そういうところもあって、無事入門して、再度見込まれて、そのまま皇様というか徳川家康に配謁してみたいな。
そこにもいろんな問答があったらしくて、
ただ会うだけじゃなくて、この青年はどんだけ自学のことを知ってんだみたいな感じで、いわゆるテストをするわけだよね。
まあまあされるよね。
そうそう。この時の皇帝は誰ですか、何代目ですかとか、この時の着てた服の色は何色ですかみたいな、そういう細かいところを聞かれて。
あの家康みたいな話だね。
多分本当にそうそうそう、伝誌みたいな感じで聞かれて、ちゃんとさらっと答えて、
こいつ本物だわって言って、すぐに使えるわけじゃないんだけれども、
バッグ困ったことあったら本とか読んでいいよとか、そういうふうな感じで近づいていって、最終的にはバッグに使えていくみたいな。
そういうふうな感じになっていって、林良さんは自学者として地位をどんどんどんどん高めていくわけですよね。
本当の本物だったって話なんだね。
そうそうそうそう、本当に勇者だったって感じなんだけど、面白いのが、もちろんここでバッグで働いていくわけなんですけれども、
主旨学のこの時代のところでいくと、やっぱり林良さんが主旨学をめちゃめちゃ発展させたとかっていうよりはそこじゃなくて、
どっちかっていうと、江戸時代にいかに主旨学を浸透させたかみたいな、そっちの手腕がすごいんですよ。
よく政治苦悶みたいな感じなんだけれども、当然バッグっていろんな知識人、今で言うご意見版みたいな人たちだと思うんだけれども、
がたくさんいて、いろんな仏教の偉大な僧侶さんとか、そういう人たちにもいろいろ意見を聞いていくわけなんだけれども、
その中の一人には林良さんっていう人がいて、「林良さん、お前はどう思う?」みたいなことを聞いていくわけなんだよね、徳川家康本人が。
はいはい、本人なんだね、これが。
そうそう、本人が。
有名な話だと思うんですけど、豊臣家が滅んだ大阪夏の神ってあるじゃないですか。
うん、あるんだね。
あれ知らない?
ちゃんと知らない。
徳川バッグができて安泰なんだけれども、やっぱり豊臣の子供が残っていると。
うんうんうん。
そうするとやっぱりいつ豊臣家を担いで、また無謀を起こすとか、劇場をやっぱりしようっていうふうに考える人が出てくるかわかんないわけだよね。
なのでやっぱり徳川家康からすると、この豊臣家を打ちたい、ある種の討伐したいですと。
でも、儒学の観点からすると、いわゆるその、徳川家康って豊臣秀吉の嫌いだったことがあるわけで、
つまりその君主か、自分の君主、使われていた人の家族を、要は殺していいのかどうかみたいな問題になってくるわけですよ。
あーなるほど、そっかそっか。ここまで徹底的にやっちゃっていいんすかね、と元上司というかね、元主君のね。
元主君。だから君臣の宙ってのがあったときに、そうやって宙に戻る行為だと。
そうすると、自分が平めたい儒学とか史詩学を、徳川家康自体が否定することになっちゃうじゃん。
そうだね、今後の統治に傷がついちゃうよね。
そうそうそう。もっと言うと、それやっちゃうと、じゃあ徳川家康も殺していいんだって言って、嫌いが殺してくるかもしれないみたいな。
そうだね、それをやってきたのが戦国時代というか。
逆戻りしちゃうんで、結局、良くないじゃんとかっていう風な悩みを持ってるわけなんだよね。
あー、難しいね。その連鎖をどう断ち切るのかっていうね。
そうそうそう。いうときに聞くわけよ、ラザンさんに、じゃあお前どう思う?と。
あのー、ちょっと僕豊臣滅ぼしたいんだけど、ちょっと良くないよねみたいなことを言うわけなんだよね。
で、この時に面白いのが、両打決的にこれも知られてるエピソードかなと思うんですけれども、釣り金の事件の話って聞いたことないかな?
なんかあの、豊臣家が作ったお寺の釣り金、金があるじゃないですか。
それになんか秘文が書いてあって、そこに国家安公か、要は徳川家康の家と、やす健康の公っていう言葉を分けて、その間に文字を入れて、
これは徳川家康の失脚を狙ってるんだとか、名前を分けることで呪いをかけてるんだみたいな、
そういう風な言いがかりっぽいんだけど、をつけて攻め入ったみたいな話って聞いたことないかな?
あー、なんか聞いたことあるかも、うんうんうん。
そうそうそう。で、実はそういう解釈をしたのは、実はこの林ラザン、この人なんだけれども。
制度と教育の確立
えー、そうなんだ。
そう。っていう風に、そういうこともあるし、きっかけにしながら、僕豊臣を討つっていうことを進めていくんだけれども、
当然ね、そういったことだけじゃなくて、思想的な背景もちゃんとあるんですよ。
どういうことかっていうと、儒学においても、君子を討っちゃダメっていう風に言ってないんですよね。
へー。
うん。なぜかっていうと、要は某君とか、民の信頼を失った人、ましゅ君だと、それはもう君子じゃなくてただの人になってるんだと。
わー、はいはいはい。
そう。っていう風なロジックがあって。
うんうんうんうん。
なので、過去中国の王朝でも、いわゆる武帝とかっていう、ちょっと暴君的なやつなのかな?
うんうんうん。
いった時に、次は打ち倒した新しい王朝を建てたじゃん、みたいな。
うんうんうん。
それは全然オッケーなんだよ、みたいなことを、なんとあの孟子が言ってるんですよ。
わー、生前説を唱えていた孟子さんが。
そう、生前説を唱えていた孟子さんが、それオッケーって言ってるんですよ。
おー、だいぶ良さそうだね、それはもう。
孟子さん言ってんならいいでしょ、と。
そうそうそう。もちろんね、あるで賛否両論あるんだけど、
向こうの時のラザワンさんは、え、孟子も言ってるんで大丈夫っす。
あの豊臣さんもちろん君子だったっすけど、もう今全然一般人なんで殺しオッケーっす、みたいな感じのことを、もちろんそんな軽くはないだろうけど。
って話をして、じゃあこれって自学的、史学的にもオッケーだよねって言って、大阪夏の陣が起きました、みたいな。
そんな風なこともあるんだよね。
へー、永久革命だっけか。
そうだね、永久革命は、天の意思によって王朝が交代することだから、
今の話の文脈で合ってるね、その禅帳って本当は平和的に王朝を変えてくださいっていうのが一般的なんだけど、
それをしたくない、要はもうそんなこともできない某君がいた時に、天の命によって次の王朝が出ますみたいな、そういう発想が永久革命だね。
なのでそれをある種日本でもやるんだ、徳川さんもやるんだっていう風にも言えちゃったよっていう感じですと。
はー、なるほど。
うん。結構危ういんだけど、そういう理論を提供したのも自学だったし、それによって徳川家康はある種、大義名を得るわけだよね。
自分は自学に基づいて、そういう戦いを起こしてもオッケーなんだと。
なるほどー。
そこにいたのが林羅山さんですっていう風な、そういう風な関係性なんだよね。
今でもね、そういうエピソードがあったよって話なんだけれども、実際その制度作りとか、やっぱり栗と土台を作る時にこの林羅山さんめちゃめちゃ役貢献してるんですよ。
例えばさ、江戸が爆破できまして、大名の行動を規制するとかっていう時に、歴史やったと思うんですけど、武警署ハットってあるじゃないですか。
あー、なんかあったね。
たぶん覚えさせられた方も多いんじゃないかと思うんですけど、これを整えた、作ったのは先人がいたらしいんだけれども、整えて実用的にしたのが林羅山の仕事だったらしいんだよね。
えー、あ、そうなの?
そう。ある種、200年続く安泰の時代の武士とか朝廷の、いわゆる行動規範、それの原型を作ったのも林羅山だし、その原型は自学があるっていう感じなんですよ。
わー、こういう感じなんだ。その自学的な感覚を広めるっていうのは。
そうそうそう。まず制度として、武警署ハットとしてそれを打ち出します。
さらに教育機関を作るんだよね。公的な学校みたいなのを作って、自分もそこで先生をするし、弟子も育てるし、それで自学の人材をまず増やすんですよ。
日本における自学の影響
そうなんだ。だから藤原聖家が私塾として始めた日本における儒教みたいなものを、林羅山に至って公的な教育機関になってるってことなんだ。
そう、掲揚げしていくっていう感じだね。そうすると当然それまで仏教じゃないとたくっていけないとか、やっていけないという人が、自学学んでも食べていけるぞとか、先生の仕事があるぞとかって言ったらそっちに流れてくるじゃないですか。
そういうふうにして、人材もどんどん増やしていくんだよね。さらに外交文書とかバックの公文書、公的な書類も自学風の形にして、
そういうふうにして、いわゆる自学の思想と行政の実務っていうものを結びつけていくんだよね。
わーすごいすごい。
そういうふうにして、国がどんどん自学化していく。
わーなるほど。そうか、やっぱりこうしないとなかなか、ただこの思想をいいねとか、監修でとか、そんなんじゃ広まんないんだね。
絶対広まんないんだよね。
無理か。
無理でしょ。だって誰かが、もちろん今で言うとメディアがあるから、メディアでこれはいいぞとか、このコンテンツがとか、本がとかっていうのもあるかもしれないけど、
当然当時メディアなんてないわけで、そういう時代に一個の思想とか考えを広めようと思うと、やっぱりこういう制度に乗っけて浸透させていくってやっぱり一番なんだよね。
もう動かざるを得ないっていう話だね。思想動向じゃなくてね。
そう、そうせざるを得なくするっていう。
ただ今メディアって言ったんだけど、実はそういうこともちゃんと考えていて、さっき兄貴がさ、なんか翻訳とかしなかったのって言ったじゃん。
それは学問を閉じ込めておきたい、権威化しておきたいって話をしたんだけど、
実はこの林ラザンさんはですね、自分で本とかいろいろ書いて、いわゆる解説本だね、自学とかの。
とか注釈本っていうのをどんどん出していって、いわゆる自分の出身階級である聴人階級とか、もちろん武士とか、そういう人にも読めるようなものっていうのをどんどん広げていくんだよね。
わー、なるほど。これはもうあれか、聴民出身というか。
そうそうそう、そこに関わりがない、やっぱりラザンさんだからこそできたことじゃないかなと思うんだけど。
例えばさ、いわゆる今って漢文、今というか学校で習う漢文って、読み下し文とか、あとレテンとか、そういう訓点がついて読みをやってるじゃないですか。
あれとかを全部自学の本にやったのがラザンさんなんだって。
めっちゃすごいね。
そう、めっちゃすごい。一個一個丁寧にやってくるんだけど、例えば温古知新とかってあるじゃないですか。
温古知新、古きを尋ねて新しきを知る。
それをこういうふうに読もうって言ったのもラザンさんらしくって。
えー、そうなんだ。
っていうぐらい現代では残ってる、彼の仕事が。
そっかー、すごいね。つながったね、今、自分たちと。
自分たちとね。
やっぱり今から200年、いや、もっと前だ、400年前くらい来たんだけれども、
やっぱり彼がやったそういう仕事、訓点をつけましょうとか、自学ってものを一般に広げましょうとか、
そういうものが行政的な、まさにその仕組み的なものと、
そういう本とかっていう知識的なものと、あとはその文書とかだから本実務だよね。
っていうものを全部一体化して、自学で固めていった。
はいはいはい。
そういうふうに仕事をしたのが、この林ラザンさん、藤原誠家さんの弟子っていう感じなんだよね。
あー、もったい上にというか、全然知らなかったんだけど、かなりの重要人物なんだね。
いや、そうなのよ。僕もあんまちゃんと知らなかったんだけれども、
いろいろ読んでて、やっぱりこの林ラザンなくして江戸思想なしみたいな。
なんか、すでにそのくらいのオーラを醸し出してるよね、こういう人に。
いや、そうなんです、そうなんです。
たぶんそれは面白いのが、たぶん2個あって、1個は、やっぱりその明治維新。
要は江戸から明治に変わるときに、自学的なものがやっぱりごっそり取り除かれて、
やっぱり一気に西洋化したっていうふうな話と、
あとやっぱりこういうことをやっているラザンさんに対して、
やっぱり所詮あいつは御用学者だみたいな、やっぱりそういう批判って当時からやっぱりあったんですよね。
当時からあったんだ。
当時からあった。
要は、本来学問って、ちょっと権力から離れているというか、
それを監視するような意味合いも本来あるはずなのに、
もうがっつり権力に染まっているんじゃないか、みたいな。
江戸の思想史とその影響
むしろその思想をそういうふうに使っているんじゃないか、みたいな。
っていうぐらい感じは、同じ学者仲間とかからすると、当然厄仮名誉感もあるかもしれないけど、
当然言われるんだよね。
へー、まあそれはしょうがないよね。
そんだけ目立ってすごいことをやっていると。
いやそう、一方でその仕事を、やっぱりラザンさんの仕事があったからこそ、
ある種その共通言語として、やっぱり朱子学とか字学というのが江戸時代に広まっていくわけなんだよね。
つまりその後の思想って、
やっぱり良くも悪くも、ラザンの言った朱子学というものを批判するとか、
ラザンの作った土台の朱子学というものを乗り越えるとか、
そういうふうな営みになっていくんだよね。
わー、だから学問面でも結局影響を与えてるんじゃ、みたいなね。
あーそう、結局そうそうそう。
日本のその字学といえば林ラザンみたいなぐらいのとこになっちゃってる。
そうだね、字学をやっぱり広めたっていうとそうなるって感じだね。
だから彼自身が新しい、まあそもそも字学ってそんなに発展するものではないんだけれども、
何か目新しいものを付け替えましたとか、独自の発想で字学をアップデートしましたとかってことはやっぱないんだよね。
ないんだけど、そもそもそれをちゃんと浸透させたとか、
どういう国づくりをちゃんとやったっていうところにやっぱり彼の凄さがある。
だから哲学的にはあんまり多分話題にならないんだけれども、
これ思想史とか、やっぱり江戸の思想とはみたいなとこで言うと、
すごい有名人物だっていうのはそういうことなんだろうと思うんだよね。
わー、はいはいはい。
みたいな感じで、くじらせいかさんと林ラザンさんと、
もちろん当時いろんな有名な弟子筋というかそういう人がいたから、
彼ら二人だけってわけじゃないんだけれども、
やっぱりもし名前を挙げるとしたら、この二人が江戸社会ができたときに、
教育であれ政治であれ、あるいは職業とか本当にいろんなところ、
生活の隅々のところに、本当に主治学っていうものが影響を与えるようになった。
もちろん農家とがまた違ったかもしれないけれども、
逆に言うと、そういった物資とか聴人階級というところまでは、
広がっていきましょうっていうふうな、そういうふうな感じなんだよね。
うーん、なんか全然詳しくは知らないから、
今回聞いた話の印象なんだけど、
幸いだったのはというか、
結果が証明しているのはというのか、
この林羅さんが、ある意味すごく重要なんだよね。
江戸幕府の初期の、そういったベースを固めていたっていうところの重要な役割を担ってたっていうのが、
この立場の人ってさ、やろうとしたらズルできるじゃん。
ああ、そうね。
なんというか、自分に利があるように動くっていうムーブもできるだろうし、
あとは自分が使えてる幕府側とか徳川、家康とか、
その人たちにひたすら思えるというか、
ひたすら有利になるような、ある意味バランスを欠いた制度設計も可能ではあるはずなんだけど。
そうだね、立場的に。
ただ、さっきはじめ言ってた4代にわたってちゃんと使えたとか、
あと結果、江戸幕府が、江戸時代が長い間続いたみたいなことを考えると、
そういうのバランス感覚だったりとか、
はいはい。
なんだろうな、本当に公的な仕事をしている感覚というか、
その辺が多分本当の意味でも授業とか、そういうものにちゃんとのっとって、
そこ目線で、自分の知りしよく目線じゃなくて、
江戸幕府と知りしよく目線でもなくて、
きちんと学問目線で、あとは現実をバランス感覚を持ちながら、
ちゃんと設計したのかな、みたいな。
ちょっと課題評価とか、持ち上げすぎかもしれないけど、
そんぐらいのインパクトがあるのかなって思ってしまったね。
まあでもそうだね。
おそらく最初はかなり幕府美意気というか、
まず広めるって意味では、とにかく幕府の役立つようにってあったと思うんだけども、
だからと言って次、お伝える山崎安西さんという人はいるんだけど、
この人は別に呪悪を幕府のためとかっていうふうには使ってないんだよね。
えー、そうなんだ。
そういう人が同時代にいたんだけれども、
別にそれを弾圧するとか、禁止するとかってことは別にやってなくって、
そういう意味では、ちゃんと活発な社会を作っているときに、
土台は作るけど、その上でいろんな意見がある、
多様性、今で言うところの多様性はある程度認められたっていうのもあるんだろうね。
そういう意味で、ちゃんと場合を作った上で、
別にそれを脅かすとか、破壊しようとしないのであれば、
そういういろいろ考えるのとか、いろいろ勉強するのは自由だよみたいな、
ちょっとその辺が今の学問の自由ほどは自由ではなかったとはもちろん思うんだけれども、
ところが確かに相手にとってはバランス感覚っていうのもあったんだろうね。
いやー、なんかちょっと興味持ったね、林羅さんのインパクトがね、この人は。
そうなんです。
なので、なんとなく僕らが、江戸幕府200年続いて安泰だ、みたいな感じもあるんだけれども、
やっぱりその建国とか、建幕府かというときに、やっぱりこういう人が活躍をして、
やっぱり人材の育成から、本当に制度設計までやったからこそ、
もちろんその周囲にもいろんな優秀な人がいたからこそ、やっぱりこれ成り立った。
というところが面白いし、いろいろ学ぶ価値があるんだろうなーなんて思ったんだよね。
いやー、そうだね。だから、江戸の思想史として、大きな流れで、藤原誠家、林羅さんというのも面白かったけれども、
この辺の小説とかあるのかな?ちょっと読んでみてくれれば。
あるんじゃないかな?
エピソードが面白そうだよね。
面白いと思う。
関係とかも、本当に自家弟子の関係だから、いろんな会話というかやり取りもあっただろうし、
そういうところも、全体的に面白いかなと思うんですけど、今回はまさに聖火さんと藤原さんで2人取り上げながら、
ちょっと思想的な話よりは、歴史的な話として、どういうふうに自学とか史実学を江戸幕府が受け入れたかというふうな、
浸透していたかという話をしました。
次はもう1個の受け入れ方という感じで、まさに今兄貴とも言ってくれた通りで、幕府とか大政側ではこういうふうな感じなんだけれども、
山崎安西さんといったら、またちょっと別のやり方で、自学というものを日本に浸透させた人というふうに言われてるんですよ。
これがちょっとさっき言った、いわゆる日本の浸透とかと絡んでくるんだけれども、
この辺の話をすることで、江戸初期のどういう時代思想ってこんな感じだったんだとか、
そういうものはより立体的にイメージでくるかなと思うので、
今回と次回、若干続いている感覚もあるんですけれども、
次回ですね、山崎安西さんという人を取り上げてお話ししていきたいと思ってますというふうな感じですね。
分かりました。では次回ですね、山崎安西さんについて見ていくというところで楽しんでいきたいと思います。
では、木津由ティーよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
57:45

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