哲学の雑談と日本哲学会
この番組は、哲学を知りたい3人が知らない中でも知ろうとは書く番組です。
みそです。
もーです。
ともきです。
いやいやいやいやいやいや、なんか前回ね、雑談でね、公開収録みたいなものをしたというところでね、僕はいけなくてとても残念だったんですけれども、
万博の話をね、していてね、結構面白い話やなぁと思って、最後まで聞いて、次回また撮ります、みたいな感じで言ってるのに、実は撮ってないっていうね。
撮ってないかね。
撮ってないんかい、みたいな、そんな感じでしたね。
ほんとごめんね。タイパーとコスパが悪くて。
あるあるみんないろんなとこから来たのに、4人で言いはしか取れないという、今どきっぽいですよね。タイパーとコスパに反抗してるという。
逆に今どきっぽいけど。
今どきっぽいです。
抗うっていうスタイルでね。
抗ってみました。
でもあれですよね。そのオフレコのときもずっと話してたわけですよ。
だからやっぱり放送に載せられない話をたくさんできた分、タイパーは良かったんじゃないかっていうところも個人的にはある。
それはじゃあ代々的に私たちに伝えていただかないと、私たちはすごいわからないんですね。
報酬が出てるわけではないので。
そうですね。
それはどのぐらいの気持ちがあったのか。気持ちだけじゃ困るのか。
なんか物で変えていただくとか、そういう風にしていただくと。
物理的にコストが回収できるか。
分かんない。どうしたらいいんだろう。
面白かったし、とも岸のいろんな雑な部分みたいなのもまた垣間見えて面白かった。
子供にはスルメ噛ませときゃいい。
とりあえず名言だなと思ったね。
そうですね。黙らせるっていうね。
面白かったですね。
面白かったです。
今日はそれとは関係なく、
ガラッと変わってね。
ガラッと変わって、日本哲学会の続きと。
そうね。
とも岸先生最近ハマってるみたいですね、そこら辺にね。
そこまで深く知ってるわけでもないし、あれなんですけど。
やっぱり昨今の社会常勢とかいろいろ考えると、
すげえ戦前のあの頃の感じを思い起こさせるなみたいなのもありつつ。
そうなの?
分かんないけど、あいに言い過ぎかもしれないけど。
日本哲学会の本格的に続きをやるつもりはないんですけど、
ほんと雑談程度に。
田辺はじめの哲学
だから前にやったのが西田喜太郎っていうね、
京都学派に日本哲学の師祖みたいな人を取り上げてやったわけですけど、
直接の弟子であった田辺はじめという人がいますと。
前回の放送のときは、この人がかなり西田喜太郎に食ってかかって、
シンプラトン主義とかから批判を加えたりとか。
シンプラトン主義と変わんねえじゃないかみたいな批判をしたりとかしてたみたいなことを言ってた感じで紹介した人なんですけど。
この人が表した著作が、タイトルで言った種の論理っていう本なんですよ。
種の論理って何かっていうと、僕もわかってはいないんですけど。
結局西田喜太郎も、いろいろ絶対無とか、有じゃなくて無なんだとか言ったりしてましたが、
あれって存在論をやってたわけですよね。
要はパルメニデス的なあるはあるの問いに対して、
存在って何なんだろうって、どういうふうにこの世界が成り立っているんだろうみたいなことを考えて考えていったら、
西田喜太郎の中では全体がすべて溶け合っていて、純粋経験みたいな。
溶け合う中で存在というものが確認できるというか、それが存在なんだみたいなふうに言っていたということなので、
だというふうに僕は解釈してるんですけど。
ちょっとよくわからなすぎるんだけど。
僕も全然わかってないけど。
存在するということは、存在とは何かっていうのを突き詰めて、
普通言えないじゃないですか。存在って何だろうって。
存在なんで、私のお腹の贅肉の肉だよ。肉は存在しているんだよ。だって、入ってたパンツがわからなくなって。
それはお腹の肉について言っている存在じゃないですか。
存在一般を言ってるわけですよ。すべてのあるについて問いかけてるわけですよね。
パルメニデス風に言うと、頭の中で思い浮かんだものはすべてあるってことでしょ。
パルメニデスはそういうふうに定義したんですけど。
西田貴太郎は、そんなふうなあり方ではなく、目の前にあるすべてのこの経験みたいなのが、存在の基盤なんだ、みたいなことを言ったわけですよね。
だから、その基盤みたいなのを言い出すわけですよ。
絶対無とか言ってるから、相対的な感じにも思えるんだけど、
実はすごく普遍のことを言ってるというか、存在について語ってるということは。
そこに対して、田辺はツッコミを入れて、「それってプロティノスと変わんなくね?」みたいなことを言ってたって話なんですけど。
田辺の感覚としては、
普遍的な存在っていうのと、自分自身とか古物。アリストテルスの古物みたいな。
イデアと古物みたいな感じかもしれないけど、その二つだけで、やっぱり西田も語ろうとしていて。
古物と古物の関係がイデアなんだ、みたいなことを言ってるんじゃないの?みたいなふうに解釈してるわけですけど。
それじゃ多分足りなくて、その間にもう一個概念が必要なんだ、みたいなことを言っていたんですよ、田辺がね。
それが種の論理っていう、種っていうのを持ってくるんですね。種ですね、種。
要は、個があって、普遍の方を田辺は類っていうふうに呼んだりしてるんですよ、人類の類ですね。
その間に種があるんだと。
その種っていうのが、個人と普遍とか存在みたいなものを、種が媒介するんだみたいな言い方をしていて。
ちょっと抽象的すぎてわかんないんですけど。
要は、簡単に言うと種って、その間にあるもの。
社会とか、家族とか、国家もそうだし、そういう概念みたいな。
社会みたいなものがない限り、そもそも個は存在として入れないし、そういう感じの論理を展開していくんですよ。
存在と、個をつなぐための種みたいな、接着剤というか、その間にあるもの。
種って何なの?
それは、なんだろう。
種って書く?
そう、種種種。
種って言うんだから、人間という種みたいな、そういう話?
それとあんまり直接的には関係なさそうなんですよね。
もちろん、この当時だから種の起源とかから、影響を受けてこういうタイトルにしてたりとか、言葉選びはしてるんでしょうけど。
そういうとこから種って取ってるとは思いますが、サピエンスみたいなことで言ってるわけじゃなくて。
なんかの集団とかそういう意味合い?
集団的な、そうそうそうそう。
なるほど。
でもそれはなんか普遍的じゃない気がするんだけど、なんか社会学的な感じが。
そうそう、だからただ、
なんかその、個がいきなり普遍に、こうなんていうか、存在につながることができないみたいな感覚を持っていて、
その、なんていうのかな。
なんていうのかな。
全然まとまってなくてごめんなさい。
要はだから、プロティノスみたいなさ、プロティノスとかさ、個が、個の中にも神的要素があるんだよみたいなことを言っていて、
それを思い出して、神の方を見つめることで、感想することで、普遍に近づくことができるとかって言ってたけど、
多分まあ、感覚的にはそんなことできんやろみたいな感覚もあって、
そんななんか、個ってそんなにすげえもんじゃないよみたいな感覚も多分、
いやこれ僕の解釈なんで、全然違う可能性あるんですけど、
持っていて、そこの間にはやっぱりその、個だけじゃなくて集団みたいな概念が必要だよね、みたいなことを言っていた。
トモキの頭の中全部こう見せてもらいたいよね。
今見せて、早く何かどうにかしたい感じ。
もっとわけわかんないですよ。
いや、わけがわからないのはわけがわかんないし、たぶん脳みそ見せられてもわけわかんないと思うんだけど、
そもそもトモキ先生はこれの何が面白くて言いましたっけね。
そうね、そこをちょっと言ったほうがいいかもしれないですね。
端的に言うと、たなべはこのシュッていうのがすごくここに重きを置いて、
これ大事だよねと。
その子でも類でもない、その間にあるシュッていうのをもっと大事にしていこう、みたいなことを言っていた。
で、それは共同体であり社会であり家族であり、あとは歴史とかも含まれてる。
そこには。そういう文脈とかね。
そういうのも含んだシュッという概念が人間の個人の上に乗っかってるよね、みたいな。
じゃないと人間って存在できないよね、みたいなことを言っていて。
それが大事だって言っていたのが、やっぱりその戦争中に国家主義とか、そういうのが利用されていくんですよ。
そこの文脈にいくんですけど。
たしかに田辺さんが言うとおり、国家大事だよね、みたいな。
その国家のために子は尽くすべきだよね、みたいな。
それはもう特効して当然だよね、みたいな。そんな感じの論理に使われていってしまって。
たしかに田辺自身も、戦争中はそれもそうかもしれないみたいなことを言っていたりとか、
結構戦争にコミットするようなことを発言したりとかもしていたんですよ。
そうやって、ある意味戦争に飲み込まれちゃったみたいなところだったんですけど、
それで日本が負けました。田辺は西田と違ってその後も生き延びたんで、すごく反省するんですよ、それを。
めちゃくちゃ反省して、うわーみたいな。
その種の論理とかも別に、もともとはそんなことを考えてやろうとしてたわけじゃなかった。
存在の話をしたかっただけだ。
なのに、そういうふうに利用されてしまって、自分もそっちに流れてしまったみたいなところがあって、
そこから田辺は新しい哲学をやるというか、懺悔堂としての哲学っていうのを初めてですね、懺悔してるんですよ。
本当は懺悔堂って書いてある。
国家主義と懺悔堂
懺悔堂としての哲学っていう本があるのかな。読んだことないんでわかんないんですけど、
哲学とは懺悔の道である、みたいなことを言い出す。
本当にそこで戦争に関わっちゃったみたいなこともすごく反省していたとは思いますし。
かわいそうなんか。
かわいそうではありますけどね。
彼は若い頃ドイツに留学してハイデガーにあったりとかフッサルにあったりとかして、
いろいろ教わったりとかもしていて、西洋の普遍の論理とか存在の議論とかは十分吸収をしていて、
やっぱり理性みたいなものをすごく大事にしようとして、
それを日本流にオリジナリティを出してできないかみたいなことを追い求めた結果、そうなってしまった。
やっぱりすごく理性を重んじてやってたんだけど、
ある意味理性というか、これが正しいみたいな理想というか、そういうのが崩れてしまって、
反省に至るっていうような感じなんですけど、
哲学は理性の誇りを捨て懺悔する道であるとかっていうふうに語ってたりとかして、
そこのちゃんと反省してるこの人っていうのが、
うわー面白いなって思ったっていう話なんですけど。
反省するのが面白いのか。
そうね。哲学っていうのが理性を追い求めるものじゃないんだみたいなことをこの頃の田辺は言っていて、
それこそ定説する力みたいなのに近いかもしれないけど、
反省して懺悔するんだと。
人間はもう誤り続けるんだと。間違い続けるんだと。
それを懺悔し続けて、そういう心理というものを別に諦めてるわけじゃないんだけど、
それに向かい続ける運動そのものが哲学なんだみたいなことを、万年とかを言っていて、
わーすげーみたいな。
何がすごいの?反省文になっちゃってるから、
それは何か科学としての哲学じゃなくなっちゃって感じはするよね。
何か普遍じゃないような気がするよね。
そうね。本来目指してたね。ただそれが何か良くない方向に発露しちゃったから、
哲学ってこうじゃないんじゃね?みたいな。
確かにソクラテスの時代からずっと疑い続けるみたいなことはやっていたわけで、
あれ?やっぱりこっちなんじゃね?哲学みたいなことになっていくというか。
うん。分かんねえな。哲学っていう言葉の定義というか、
なんか哲学って別に、ともき先生も、哲学って自然哲学があるだ、何とか哲学があるだみたいな話してた気がするけどさ、
別にだってジャンルがいろいろあるし、そもそもがね、地を愛することが哲学なわけだからさ、
考えることをしてる人は哲学者なんじゃねえの?っていうふうに素人考えながら思うわけだけどさ。
彼の実存というか、その時代背景的にね、やっぱり戦争に加担してしまったみたいな後ろめたさみたいなのもあり、
そこで、なんとなく自分が言ってた主張みたいなのも、どこか負けざるを得ない部分も出てきたりする。
となると、やっぱりこれこそが正しいんだって言って突っ走ったっていうところを反省しなきゃなっていう思いで、
そう言ってるんだろうけど。
なるほどね。
まあなんか、そこが悲しみでもあるけど、すごいなと思うというか、素直に懺悔堂の道とか行って、
兄弟はその後はもう辞めちゃって、軽井沢かなんかに引きこもって、本を書いて、愛についてとか書いてたりとかね。
思想の利用と展開
そんな感じだったみたいですね。
なるほどね。
忍者だね。
そうね。
でもさ、彼の考え方を利用されたってことはめちゃくちゃ優秀で、
やっぱり思想的にみんなが聞く耳を持っていたというか、なんか変な話だけど、そういう人だったわけじゃんだけど、
そういうふうになりたくて彼はさ、その道進んだわけじゃないんでしょ?
あんまり今日は彼の老いたちみたいなお話してくれてないけど、
バックグラウンドとしてはさ、
本当はなんか普遍的な何かを突き詰めようとしてた途中だったんじゃないのかしら。
まあそうなんだろうね。詳しくは知らないけど、やっぱり彼も数学が好きだったんだよね。
もともと数学を志向してたんだけど、どっかで哲学に転校する、西田と同じようなパターンだけど、
やっぱり普遍的なそういうのが好きなんでしょうね。
なんか数学が好き、突き詰めると美しさを、美を求めている感じの人たちが多いっていうのだけはちょっと。
多分そうだと思う。本当なんか、存在に関する美しい公式みたいなのをずっと探していて、
西田に支持したときはきっとそれに対して感銘を受けたりもしたとは思いますけど、
その後ドイツに留学してるんですよね。
で、フッサールとかにも会っていて、ハイデガーにも会っていて、
いろいろ教わったり、教え合うみたいな感じだったと思いますけど、議論したりとか。
その中でいろいろ思うところがあって、日本の存在論としてはまだちょっと不十分なんじゃないか、
みたいなことを思ったっていうような感じだと思うんですけど。
これだ、みたいな。美しい公式見つけたわ、種の論理だわ、みたいな感じでバンって打ち出した。
したらそれが利用されちゃったみたいなね。
子は認めないみたいなことをちょっと言っちゃったから。
まあそうね。
子だけでは存在力がないみたいなことを言っちゃったから。
そっちの方向になっちゃうっていうかね。
なるほどね。
単純化されちゃうよね、そこがね。
え、だって難しいんだもん。
種の方が大事だよ、になっちゃうみたいなね。
難しいんだもん。
そういうことでもないんだけど、みたいなさ、多分本当はね。
いやまあでもね、まあ今みたいなさ、平和でさ、
対応か対応か言うてね、みんながみんな違っていいやん、みたいなそんな感じのノリの時はさ、
あれだけど、別にそんな思想一つのことに対してさ、深くみんなが見たりはしないけれどもね、
そういう乱世の時代みたいなところだと、
やっぱこういう思想っていうのがね、
もてはやされたりだとか利用されたりだとかみたいなのがあるっていうような事情の一つやなっていうのは。
哲学の価値と学び
いや本当そうだよね。
別にその乱世だって、多様化の時代だって、種の論理は成り立つはずで、
多様な種もあるわけで、
いろんなバックグラウンドを持った人たちが入ってきている、
そういう歴史とかを、そういう人が隣にいるみたいなのを受け入れる、
そういう種もあり得るとは思うんだけど、
そうは解釈されなかったみたいなところもあったんだろうし。
なるほどね。
悲しくなってきたまた。
悲しそうだよね。
それこそ、こないだリハックに辻田さんがまた出てて、
プロパガンダの話とかしててね。
北原博史がすげえいっぱいこう音楽を作る中で、
音楽というか詩か、詩を作る中で、
ナチス雷さんの詩とかを書いていたとかね。
そういう話とかもあったらしくて。
それはガチで書いてたらしいんですけど、利用されたとかじゃなくて。
もともとはそんな国家主義みたいな人ではなかったらしいんですけど、
やっぱりあの時代の中で、国民的詩人みたいなふうにもってはやされ始めて、
いろんな公家とか詩家とかさ、ああいうのを作っていく中で、
文化とかも作っていく中で、だんだんそういうのを背負ってくるというか、
俺が国家を背負ってるんだみたいなふうになってきて、
なんかその人らが、なんだっけな、
なんかどっかに来るときに作った歌みたいなね。
ナチス万歳みたいな。
だからなんかそういうのはあるんだよなーみたいな。
やっぱ当時生きてたらそうなるんだろうし、
なんか今のなんかこの世の中の空気感とかもなんちゅうか、なんちゅうかなーみたいな。
みんな気をつけようぜみたいな。
簡単になびくよ人はみたいな感じがすごく感じるというか。
ほんとだよね。だからほんとほんとあのほんと哲学の話とか、
何年やってるの私たちはこれを。
何年くらい?
2月から始めて。2年半ですよもうね。
まだそんなもんか。
まだ?だって毎週やってるんだよ。すごくない?
それでさ、やっぱりさ、みんなに2人についていこうと思ってさ、
私もさ、結構なんか好きだって、哲学の話多分。
なんかすごい勉強になるって。
なんで勉強になるかっていうと、
なんかやっぱりもう自分の脳みそで考えることは頼りがないなと思って、
大したことではないなと思って、なんかすげー天才の人たちが今までいっぱい話してね、
なんか勉強、あの一生懸命考えてくれたことがもうあるんだから、
そっから学ぶ方がよっぽどなんか頼りになるなみたいな感じが、信頼できると。
タイパーがいいよね、タイパーが。
タイパーね。
タイパーがいいよね。
タイパーもう分かんないけどね。
何か分かんないけど、そうだね、そうだと思う。
なんか今日、今日自分がなんか学んだからとか、自分が考えたからとかって言ってる場合じゃなくて、
もちろんそういうのを見てから。
車輪の再発明的なことになっちゃうよね。
そうだね。
そういうことなの?わかんないけど、そう思ったときに、なんかめちゃくちゃ大変なのね。
時間がかかるし、あの簡単なの。
もっと自分で考えちゃって、自分で考えましたこっちにしますみたいな方が。
確かに。
簡単なの。
だから、なんかこうみんなこっち、なんか白黒はっきりさせた、さする方が簡単だから、
なんか、なんかあんまりよく分かってないけど、
多分みんなこっちとかあっちとかって言っちゃってるんじゃないかなとかって思ってて、
でも本当に考えるとすると、もうね、時間もないと思うし、労力もかかるし、
なんかめっちゃ大変だよなと思って。
でも、大勢の人がそういうふうに大変な思いをして、いろいろ知ったりとかするのってどうしたらいいんだろうとか思ったりするよね、みたいな。
うん、まあ、いやわかるよ。わかる。
なんか、簡単、でもね、私ももうあんまりそういうのは分かってないできちゃったから、
SNSの影響と未成熟な思考
安易に、なんか安易って思わないで、なんか判断した方が簡単だから、次々進むから。
そういうことってあるよなと思って、その今トモキが言ってる気をつけましょうねーみたいな、なんとなく自分、過去の自分もそうだったし、
今も多分、なんか軽々しくいろいろ判断してるんじゃないかとかっていう思いもありますね。
わかるし、そうね、だから、気をつけましょうねーとかっていうのもなんか、
いや、そんなんさ、できないでしょって言われたら、そりゃそうなんですよね、なんか。
いや、できる人もたくさんいるんだけど、やっぱりそれこそ、なんつーのかな、なんかやっぱり最近のSNSとか見せても、
そんなもん、分かれや、とか、いや別に本読めば分かるだろ、こんなもん、みたいなことを突っ込む人とかいるんですけど、
いや、読まないんだって、みたいな、読める人もいるし読めない人もいるし、別に読むのが絶対、読んだ方がいいとは個人的には思うけど、
その、そういうことを言うからさ、みたいな、そりゃそういう言い方したら嫌われちゃうよねーとかもすごく思うし、だからみんな気をつけようぜーとかっていうのも、
うん、みたいな、なんか、そういうのは簡単だけど、
じゃあどうすんだっていうのはなかなかむずいなーとは思う。
むずいねー、むずいねー。
何がむずいの?みそーちゃん。
発言に対する不安と自省
いや、グミンを投票せずに。
いやグミンか。
待って、グミン出たらグミンでしょ。
いや、なんか、僕的にはそっちをね、あんまグミンとは思わないんだよな。
それはしょうがないというか、それが普通そうなんじゃないかなって感じもするし。
まあまあまあ、どのレベルのことを言ってるのかがちょっとわからなかったから、
それをちゃんと議論をしようとしてるのに知ってる人がちょっと知らない人に対してマウント取ってくるみたいな、
そういう話なんだったら、それはマウント取ってくる側がクソって話だと思う。
ああ、そうね、そうね。
ただまあ、何も調べずになんとなく目に見えるゴシップ記事だけを元にして発言しているのは、やっぱりグミンですよね。
そうなんだよな。そこどう、なんとなくどうすりゃいいんだろうなって思ってますね、最近ね。
どうしようもないんじゃない?
どうしようもないんだけどさ。
でもなんか前回の雑談会の時にリュウリさんが言ってた話でさ、
発言をしてる人間たちっていうのがさ、なんとなくさ、我々大人だから大人だっていうふうに思い込んでさ、話をしてるけれどもさ、
なんか適当に書き込んでる中学生とか小学生みたいな人っていうのも多分いっぱいいるよねみたいな話をしてて、
確かにそうだよなっていうふうに思った。
そうね。
なんか未成熟な人間っていうのもあの場にはめっちゃいるからさ、
なんかまあ、そう考えるとまあしょうがねえのかなみたいなところもちょっと思ったりはした。
そうだね。
だからテキストとかで、なんかこう自分の考え方をきちんと持ってないと左右されがちな人たちとかがいっぱいいると思うし、
あの、もう時間あれかな?どのぐらいになった?
40分ぐらいかな。
いいの?まだもういい?一つだけ話して。
私がさ、X辞めたの知ってますか?
結構進んでたんですけど、
あのね、一番ね、ガツンって来てやめたことがあって、
何のビデオを見たのかな?動画を見たのかはちょっと今すぐは覚えらせないんだけど、
私たち世代、だから私50も過ぎてるけど、なんかインターネットとか知らないで大人になって、
多分なんだけど、こう言いたいことを言わないことの方が当然だと思って育ってきたというか、
まあまあまあ。
私たちのね、まあみんなの年代もそうかもしれないけどさ、
それで、まあ上司とかに対してだってさ、それは当たり前で、こんな言いたいこと言わないで何とかするみたいなのあるじゃない?
それが私たちの年代とかが急にSNSとかのこういう道具というか、そのメソッドを見ちゃって、
それで、何か言うこととか、何か私とかも結構大きなお世話なこととかをやったりとか、
オンラインで何かもしかして誰かが、これ私も気づいたから、これでみんな誰かが気づけばいいなとか思ったりとかして、
やってたこととかがあったんだけど、シェアしたりとか。
で、それを本当実際にすごい役に立ったよとかって言ってくれる人もいたから、ついついやってたのあるんだけど、
その動画を見た時に言われたことは、私たちみたいな人が、何かその機会を与えられてしまったと思いすぎて、
何かバカみたいになっちゃってるっていうか、何か変な話なんだけど、
おさるさんがストーリーエッジを覚えちゃった時に、死ぬまでやっちゃうのと同じような、そういう何かのが出てきてるよって言うのが、
ちょっと上手く言ってるかわかんないけど、
そうか、そうなのか。
それなんじゃないかっていうのを動画で見た時に、私も怖いと思って、それでやめたんですよ。
何かそういう感覚とか、やっぱりちょっと何か今までは言っちゃいけないこととか、何か言わないべきだとか、
何か別に私の大した意見なんて誰も聞かないって思ってたと思うのに、たまたまその道具が今私があるから、
やってるっていうのが瞬間ちょっとよぎって、もう本当に気持ち悪くなって、やめたんです。
SNSの危険性と懺悔
へー、なるほど。
はい、だから多分私たちはそういうことをすごい何かこう新しい文明だから、
何かすごく嬉しくて楽しく使うこともできると思うから、もっと上手に使っていきたいなとか、これからもやらないわけじゃないけど、
その何か思いがめちゃ大きくて、だから私はそれは結構めっちゃくちゃ考えてここまでたどり着いたので、
あんまり考えないで忙しくしてる人にとっては、何かそんな何かそのお猿さんが覚えてしまったものを死ぬまでやっちゃうのと同じような状況になっちゃってるんじゃないかとかは思ったりする。
なるほどねー、まあいるだろうね。
多分。
中毒的になってるっていうね。
そう、それでいいねとか押されちゃったりするから、それを何かそれが快感になってもっと非刺激的なことを言おうとか、
はいはいはい。
どこに行けば何かいいねがもらえるのかなとか考えちゃう、そっちの方に何か思考を漂わせる人たちがいるんじゃないかとか。
そうだね、有名人の隠立をすればとりあえず注目が集まるからみたいなね。
うんうんうんうん、でちょっとこの前髪でね、ごめんね私前髪が長すぎて縛ってるのに全然説得力ないよね、こんな頭して。
いいんですけど。
はい、すいません。
なるほどね。
っていうのがあるかなって思ってるんだよね。
これちょっといつ何か言えばいいのかわかんなくて、ちょうどたまたま今日そんな感じで。
なるほど、懺悔堂だ。
何が、懺悔じゃないですよ、別に懺悔じゃなくてよくわかりましたっていうことで、あとはお猿さんの死ぬまでやるみたいなにはなりたくないと思ったわけです、私。
だから皆さんもしね、これなんかこれ聞いて思った方は一緒にやめましょうみたいな。
なるほどね。
なるほど、ハマるもの。
ハマるものね、まあ僕はSNSとか全然ハマりきれない人間なんであれですけれども、まああるよね、でもなんかいわゆる娯楽みたいなところの中でハマってるものみたいなのってさ、みんなそれぞれやって。
ハマってもいいけど、いいねをもらうためだけに、快感を得るためだけに何かを投稿してしまうっていうのが、やっぱり私たちの年代とかが、今までそういうことに触れてこなかったから、新しいものを見てしまったお猿さんみたいになってるんではないかというふうな感覚があるということで。
それを知った瞬間に私気持ち悪くなってやめました。
なるほどね。
なるほどね。
まあなんかちょっとごめん、もさんが言ってることと論点が全然違うんだけどさ、
なんかドーパミン的なものが出る対象ってさ、本当人それぞれ全然違うよなみたいなさ、ところがちょっと面白いなっていう感じで思ったね。
なんか全然別にSNSいいと思うし、もさんのでもその自己反省、懺悔はとても素晴らしいことだと思ったんですけれども。
でもなんかそういうハマりきると危険なものみたいなのっていうのにさ、ハマってしまった人ってちょっとなんか運が悪いっていうか、その人の性質上の運の悪さみたいなのってあるよなみたいなさ。
なんかあれカジノの話はオンでは話してないか。前回のね、カジノの話してたと思うけれどもさ、なんかギャンブルとかにもハマりきってしまった人とか悲惨じゃんやっぱり。
なんかそうだね。
だからSNSにハマるのの何がさっきの話とつながるかというと、その人の一票も一票になってしまってるので、なんかそこでハマっていてきちんと考えを深めていない人たちが、
そういった人たちのお互いの意見を聞いてるような感覚になってしまっていることは怖いと思っていて。
そこがSNSの怖さだなと思ってるんですね、私は。
それに扇動されている多くの人たちがいるのではないかというふうに。
いや本当に、みんなで懺悔しましょう。
そうだな。
なんで私は懺悔しないよ。別に悪いことしてないもん。
懺悔堂というか、悪いことというか、一回立ち止まって帰り見る。
それ懺悔なの?反省と違うの?
まあ反省に近いかな。
もうこれだっていうものにこだわってたけど、これじゃないっていうふうに捨てれるというか、そういう感じなのかな、懺悔堂。
よくわかんない。
よくわかんねえわ、ごめん。
とりあえずいいんじゃないですか、もう。
終わりましょう。
終わりましょう。
え、何?
今日も最後までテツセカお聞きいただきありがとうございました。
Spotify Apple Podcasts Listenで配信しています。
番組を気に入っていただけましたら、お聞きのアプリで番組フォローや高評価ボタンを押していただけると嬉しいです。
感想ファンレターをお待ちしています。
番組概要欄のGoogleフォームにご入力いただくか、ハッシュタグテツセカをつけてつぶやいてください。
いつも感想いただく皆様本当にありがとうございます。
ありがとうございます。
田辺さんと現代の関係
まあなんか面白いね。
なんか時代というところとかそういうところの部分の話だったんだろうけれども。
まあなんかね、じゃあ逆に今の時代においてのそういうこう、
なんか今の時代に田辺さんが生きていたらどうなんだっていう話じゃないけどもさ、
なんていうか似たようなシチュエーションみたいなのが今の現代にも起こりつつある場所はあるのかなみたいなのとかさ。
わかんねえ。ごめん、それも含めて全然わかんねえわ。
そうね、確かにね。わかんないですね。
わかんなかった、ごめん。
ちょっと僕の脳みそが働いてないのか、ちょっとこういう話に関しての理解がなかなか及ばない。
頭があんま働かないんだよね、こういう話ってね。
ごめんね、トムキ先生。
いやいやいやいや、僕はただあの存在の話が好きなだけなんで。
それはよくわかんないと思います。
すいません、なんかちょっとトムキ先生的にはもうちょっとなんか打って帰ってくるみたいな感じ。
いやいやいやいや。
良かったんじゃないかなと反省式でございます、本当に。
参戦。
全然、ここから全然関係ない話したいなみたいな感じだったんでね、入り口にね。
なるほどね。
OK、大丈夫です。
ちょっともうちょっとあれな。
ごめんね、懺悔してるの、二人で。
ごめんね、私が最後に変なこと言っちゃったから。
いやいやいや。
なんかごめんね。
いやいや、差し込みとしては良かったと思いますけれども、
それも僕ちょっとSNSとかやったりしないから、なんか全然ピンとこなくて変な話をし始めたみたいな感じもあるんでね。
なんかちょっと勉強が足りねえな。
反省しないで。
勉強が足りねえ。勉強しなきゃなと思いました。
髪型と雑談
え、そんなんじゃ。
すいません。
私の髪の毛がおかしいからだと思います、これは。
全然関係ないです。
可愛いですよ。
どうですか。
じゃりんこ知恵みたいで可愛いですよ。
懐かしい。
いたねえ、あゆこねえ。
皆さんにもお見せしたいですね。
これね、前髪を切らなかったんですよ。
この前だから、もう鬱陶しくて毎日こういうふうにしてます。
ありがとうございます。
シンガポールまでモーサンを見に行ってあげてください。
はい、じゃあそんな感じで終わりでよろしいですか。
はい。
はい、じゃあ終わります。
ありがとうございます。
ありがとうございます。