1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #35 カント『純粋理性批判』後..
2022-08-24 44:58

#35 カント『純粋理性批判』後編。「この世は偶然か必然か」の答えは?

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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[音楽]
はい、ソレ鉄ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
前回は、カントの純粋理性批判が、そもそもどのような動機で、どのような問いを設定したのか、という「そもそも」というところを教えてもらいました。
今日は、その内容にさらに踏み込んでいきたいと思います。よろしくお願いします。
はい、お願いします。
ちょっとだけ簡単に、前回の話をすると、カントが純粋理性批判で立てた問いとして、アプリ寄りの総合判断は、いかにして可能かという問いがあったんですけど、
全然意味がわからないというところから始まって、何となくこういうことを言っているのかな、という経験によらない知識を広げるような認識とか判断で、どういうことができるんだっけ、というようなことを考えていきました。
なかなか理解するのも大変だと思うんですけど。
そうだね。かなり、今の同じような言葉を使っても、7+5が12になるのが当たり前じゃないみたいな、そこからみたいなところが難しかったし面白かったなって。
今回は、この問いに、問いを立てるという山を登ったので、今度降りる方をどうやって答えていくのか、というところを見ていって、答え切ったら、それが可能であるということとか、可能ではないというのがわかるということなので、
いわゆるコナンでいう謎解き編みたいな、後編みたいな。
話さえいぜんぺん後編だね。
そうなんです。感じでやっていこうと思うんですけど、今回も結構常識的に考えるとわからんとか、何を言ってるんだっていうことがあると思うので、そういう時に来たらまた言ってください、兄貴の方も。
そうね、こっちはアンラーニングできてない状態だと思うから、そういう時って。そう理解が違うんじゃないとか、もしくはこっちはわからないってただわからんと言うから。
そうね、多分それは聞いてる人もそうだと思うので、という感じでやっていこうと思います。この前、問いを考えていくにあたっても、総合判断とか分析判断とか、もの自体とか表彰っていう言葉をいろいろ立ててたと思うんですけど、またちょっと2つ新しい働きを立てます。
結構ボリボリなものがある。
それが「感性」と「語性」っていう言葉なんだけど、簡単に言うと感性は感じる性質。物事を感じる性質。
語性は理性って思って大丈夫ですよ。物事を知る力とか、理性の力とか知性の力で理解する力。っていう風に思ってください。
03:15
感覚の感性と、あと理性だね。頭で考えると。
そうだね。
この言葉も怪しいけどね。感覚で理解していいのかっていうところはあるけども、了解です。
ちょっとこれも打足というか横見せれちゃうけど、なぜ語性って悟りの性質、言葉を当ててるかっていうと、理性って言っちゃうと、僕らは理性っていう言葉を理性的なとか、欲望と理性みたいな風にパッと捉えちゃうんだよね。
そうだね。捉えてるすでに。
でも別にカントはそういうことは言ってないから、翻訳の時にどうしたらこれまでの手やかにまみれてない言葉にできるかとか、ということを考えるんだけど、でも語性がどうやってても全然わからないじゃないですか。
そうだね。パッと入ってこないね。確かに。
そうそう。だから結構それも哲学の難しさとか翻訳の難しさみたいなところがあったりします。っていうのはちょっと補足でしたと。
今日は感性と理性という言葉で進めようかなとは思うんだけど、人が物事を認識する場合に、この感性と理性、語性っていうのが一緒に働くよっていうことを言うので。
どういうことかというと、まず人間というのは直感的に言ったら語感を通じて、物自体から表情、感覚とか色とか、これは美味しそうだとかっていう感覚というのを得ます。
はいはいはい。これまで言うとまず鼓膜とかだよね。音を捉えるときに鼓膜で捉えるよねっていうところね。
そのままだとなんか音を聞いたなとか、なんか鳴ってるみたいな感覚に留まっちゃうよね。
なのでそれをある種統合して、これは関野ハヤトっていう人間が喋っている声だとか、そういう単語をちゃんと喋ってるんだっていう風に理解できる概念にしなきゃいけないっていうことを言うのね。
はいはい。その振動をちゃんと人間というか自分が理解できるような概念に変換しないといけないよねというところね。
そうそうそう。変換されているよねというところ。それが理性とか語性の働きなんだという風に言います。
はいはい。で、結構関東が言った有名な言葉があって、って言っても僕もあんまりちゃんと知らなかったんだけど、「内容のない視意は空虚であり、概念のない直感は盲目である」っていう言葉があるのね。
06:04
うんうん。
「内容のない視意は空虚であり、概念のない直感は盲目である」で、これどういうことかっていうと、
内容っていうのは、例えば表彰とか感覚、今に聞くような、要は音が聞こえたっていう意味を形成する前のものが内容っていった時に、
結局それがない理性とか語性の働きっていうのは概念だけだから、結局現実と結びついていなかったりとか、要は概念的な操作に留まっちゃうので、
概念の働きだけっていうのは空虚なので、そういえばもう中身がないでしょとすること。
そう。だからもっと言うと、ブロックがないのにお城を組み立てようとしてるみたいなのが近いと思う。
レゴとかでさ、なんか作ろうとした時に、一個もレゴがないのに、お城のようなものを作って、作ろうとするのって無意味というか、意味がないかも。
うーん、まあ、そうか、意味ないかな。そうか、作ろうとするお城を作ることには意味はありそう、想像することには意味はありそうだけどなぁとか。
そう、だから想像じゃないの。ただ手を動かしてるだけみたいな感じ。
でもちょっとこの例えは良くなかったかもだし、でもこれはちょっと難しいかも。
ただ一応ひっくり返した、概念のない直感は盲目であるっていうところまで言うと、
まあ、結局その直感して感覚を得ましたって言っても、理性の働きによって概念化されないと、それがそもそも何の中を理解とか意味をそこに見出せないから、
結局何も見えてないとか聞こえてないと同じだよね、みたいなことを言います。
うんうんうん。わかるわかる。
だから、感性はどこまでで、理性とか音声はどこまでっていうのをやった時に、
それぞれ両方がないと人間の認識っていうのは生まれないんだよとか、意味のある認識にならないんだよっていうことを言っているっていう感じかな。
うんうんうん。はいはいはい。
なるほどね。どっちが大事とかっていう風になりがちだけれども、どっちも大事なんだよっていう話をカントしてるってことだね。
そうそうそう。で、まさにどっちも大事が、いわゆる経験論と観念論の統合になってるっていう話だよね。
はぁ~はいはい。そっかそっか。それぞれが対応するんだ。
そうそうそう。要は、感性っていうのは現実のもの自体っていう、それすら認識できないんだけど、そこから得た情報とか感覚っていうものを得ますよ、そこをちゃんと得ましょうねっていう話だし。
はいはい。
一方ね、その考えるとか理性の働きによる、理性、誤性っていうものがその感覚とか経験をちゃんと意味のあるまとまりにすることによって、初めて人間がちゃんと認識できるとかっていうことを言っているので。
09:16
はいはいはい。
ある程度、接触なんだよね。ちゃんと経験とかを土台にしないと、認識っていうのは無意味だし、でも経験だけね、人間に意味があるまとまりが生まれるかっていうと、そうじゃないよねっていうことを言いますと。
そう、こうやってその感性と誤性、理性というところから経験論と観念論を統合するっていう事態でも結構すごいんだけど、よりすごいのは元々感度が痛かったことって、そのアプリよりの総合判断は成り立つか可能かっていうことを考えた時に、
つまり、人間の認識っていうのは感性と理性の働きによるから、この感性と理性がそれぞれアプリよりの総合判断を持つんだったら、人間の認識全体もアプリよりの総合判断が可能だよねっていう風に言えるよねっていう風に分解するのね。
はい、なるほどね。そうかそうか、その2つに分解できるから、どっちも証明できたとすればそれは正しいよねと。
そう、そう、そう。なのでそれを説明していきますと。
ちょっとここからは、正直分かりづらいかもしれんので、一旦バッと話して聞くね、兄貴に。どう?みたいな。
そうね、ちょっと聞いた上で。
まずその感性の方なんだけど、ここについては結論、その空間と時間っていうのを直感のアプリより経験によらない形であるという風にしました。
なぜなら、例えば何かを感じるとか、その何だろうな、そのものを見たと思った時に、絶対に空間、ある空間において存在をとらえるし、その時間、物事の前後とか、先とか後の関係というのも絶対についてくるよねっていうことを言うよね。
ちょっと例えばにすると、例えば白い壁があって、右側に赤色が見えて、左側に青色が見えるというのをちょっと想像してほしいんですけど。
はいはいはい。
右が赤、左が青となった時に、そもそも全体をパッと見た時に、赤と青が見える場所というのは、そもそも僕は右、左って言ったけど、そういう風にもう空間が前提と熟別されてるよね。
うん、そうだね。
だから、赤とか青っていう色を認識しようと思っても、そこに右とか左とか、ここにある、こっちにある、あっちにあるみたいな空間というのが必ずついて回ってきますと。
12:06
はいはいはいはい。
空間を覗いて色を見ることはできませんよねと。
うんうんうん。
逆にというか、同じように時間に関しても、例えば、赤がある、青があるみたいになった時に、その見ると先に赤を見た後に青を見たみたいなものっていうのも絶対についてくるし、仮に両方パッと同時に見たとしても、同時っていう時間が絶対についてくる。
はいはいはいはい。
みたいな感じで、時間っていうのも絶対に色を見ようとした時についてきます。
それは空間とか時間そのものを経験したんじゃなくて、経験に先立って人間がその表彰を得るとか感性をもとに世の中を感じる時には、絶対に時間と空間がくっついてくるっていう風なことなんだってカントが言うのね。
はいはい。なるほど。経験の定義だね。
だから空間と時間は経験によらない直感の形式である。つまりアプリ寄りである。という風に言います。
はいOK。大丈夫だと思う。
大丈夫?
今、感性の話をしていると思うんだけれども、この感性部分だけの話で捉えたもの、空間とか時間というものを、これは認識以前の問題で人間が感覚としてただ捉えているんだけれども、
それは経験とは言わないよと、誤性でもないよと。
そういった感性というものを具体的に捉えようとした時に、抽象的に捉えたとすると空間と時間というものがまずあるよね。
それがあって初めて感性というものが存在してくるよね。という、感性をさらに分解してくれている感じなのかな?
分解しているというよりは、感性が働くときには必ず空間と時間を一緒に働くよ、みたいな感じのことを言うので。
働くというか捉えられるようか。
結構この辺の時間論とかもその後どんどん発展して面白いことになっていくんだけど、
僕らってなんとなく空間があるとか時間が流れるとかって言うじゃないですか。
でもそれは人間がそういう風に世の中を捉える仕組みをもともと持っているからであって、
空間も時間もないよね、みたいな話も出てきたりするのね。
はいはいはい。この辺のもの自体みたいな話からすると納得すると思う。空間と時間を捉えたという意味で。
15:04
なので、感性の働きというのを考えると、そのアプリ寄りなものとして空間と時間があるよね、というのを一旦結論付けます。
次、理性と誤性の方なんだけど、ちょっとこれはめっちゃあるんですよ。12個のカテゴリーを提示してくれていて、
それこそミンシーにやってくれてるんだけど、全部やると難しいというか、理解がしづらいので、
一旦ここに関しては、もともとアリストテレスの時代から実は、こういう人間の理性の地下働きとか、何かを統合するとかって何があるのっていうのが、
実は10個のカテゴリーがもともと提出されてたのね。
そうなんだ、はいはい。
それを整理し直して、12個のカテゴリーにしたので、これを理性のアプリ寄りな形にしましょう、ということを勘とか言います。
なので、ここは詳しく知りたい方は、また本とかぜひ読んでもらえたらという感じなんだけど、
一旦、その関西と後西の両方がアプリ寄りな総合判断が可能だという風に言えたとします。
一旦ここは、そうできたものと捉えてほしいんだけど、
この時点で関東が何を言ったかというと、実際の関東の言葉を今から言うんですけど、
「あらゆる対象は、可能的経験における直感の多様の統合的統一の必然的制約のもとに立つ」って言います。
全く入ってこなかったな。
はい、言葉が固いよね。
そう、こういうことが、ボンも出てくるから関東難しいってなるんですけど、
これ、すごく噛み砕いて言うと、外部、自分の外側に対象、何らかの対象があって、それを認識している、経験論的に捉えているんじゃなくて、
その対象っていうのは、人間がもともと経験によらないアプリを持つ認識に依存してますよ、ということを言っています。
もっと言うと、僕らって、例えば目の前にあるリンゴを見るから、そこにリンゴがあるっていう風に思う。
つまり、実在するリンゴを僕ら見ているっていう風に普通思うんだけど、違うんだと。
リンゴっていうものを、僕らが持っている感性とか理性、語性の働きによって認識するから、リンゴがあるっていうことを僕らは感じられるんだっていう、
その認識の主体を外部から内部に持ってくるのね、カントは。
で、これは実は、天道説か地道説、要は、地球は中心にあって、他の天体が回ってるんだっていう天道説から地球が回ってるんだっていうような転換みたいなもんだっていう風に捉えて、
18:16
コペレティニクス的転換だっていう風にカント自身が言ってます。
で、これ実はちょっと面白くて、多分今の話、そんなに違和感なかったんじゃないかなと思うのね。
ふーん、違和感、うん、だね。あんま考えたこともなかったけど。
そう、なんか、なんとなく、それは自分の仲間とか自分が認識してるんだから、それは自分が認識の主体でしょみたいなのってあると思うんだけど。
この前のデカールトでもそういう感じだったしね。
そうそうそう。この時の世界ってまだまだキリスト教的な世界で、そもそも神様みたいなものが世界を作って、僕らはその中である種生かされている、生きているみたいな時代だから、
神様が作ったものを正しく受け取るとか、そっちに正しさがあって、自分はそれをある種受け取るだけとか、恵みとしていただくだけだみたいなやっぱり感覚っていうのが、もちろんあるんだよね。
そういう、ある程度薄れてきたとしても、1700年くらいだから、その時代において、人間の中の前提とある、しかも経験によらない、もともと持っている働きこそが世界を理解するある種主体であるとか、主人公であるっていう風に言ったのは、めちゃくちゃすごいこと。
そうだね。これで言うと、もとある世界を人間が認識しているんじゃなくて、認識によって人間が世界を作っているって言ったってことだもんね。
それは実はデカルトが言ったことで、
デカルト言ってたんだ。
今は「我を思うゆえに我あり」だから、我が世界を作っているっていう観念論的な考え方なんだけど、
それだけじゃないんだ、これ。
そう。カントは、あくまでも、ここまでの話をまとめると、まず自然の世界っていうのは、まずその空間と時間っていう、感性を通じて与えられた表彰、
感覚とかが理性による12個のカテゴリー、ちょっと今回説明を省いたけど、そのカテゴリーのいずれかによって思考とか理性の対象になって、その法則によって構成されたものを世の中にある対象だって捉える世界だっていう風に言いますと。
うん、うん、うん。
でもそれはあくまでも経験できる範囲の世界、その時間と空間の中で感性を通じて捉えることに対してはこれが適用できますと。
21:01
でも一方それで経験によって捉えられないもの自体っていうのは、存在するんだけど認識はできませんっていう風に言うから、
その存在するってことと認識できるっていうのの境界をバシッと引いたのがカントのすごいところなのね。
はぁ、はいはい。そっかそっか、この後半のところがカントのすごいところなんだ。
そうそう。
前半まではデカールトもいってた?
前半までは近い。
だから自分の理性によって世界を構築できるよっていうのがデカールトであったとすると、それはあくまでも経験できる世界に限られていて、
元々ね、掲示書学みたいな神様とか心とか魂みたいな世界に関しては、それは適用できませんよっていう風に線を引くのね。
はいはいはい。
認識のエラーですよとか、認識力ってのを正しく使えてませんよっていう風に言います。
ここまで来るとあと一歩で、いろんな議論を使って、まずこれまでの悪色、軽情、悪と全部解体しますと。
はいはいはい。
めっちゃ簡単に言うとさっき言ったのは、心とか世界とか神みたいなものに対して、経験できないもの、あとは経験できるとか実在するっていうのは、神は実在する、心っていうのは実在する、
世界っていうものは、世界全体みたいなものっていうのが自分を捉えられるとか、経験できるっていうのは間違いだと。
ですから経験できないものは感性で捉えられないから、そもそも理性の対象にならない。
人間の認識対象として、理性の力をいかにどんなに使っても、それをアプリよりに、あるいは総合判断として扱うことはできないっていう風に言うね。
その上で、その4つのいろんな矛盾っていうのを引き合いに出しながら、それは認識のエラーだっていうことを言うんだけど、
例えば、世界は偶然か必然かみたいな問いってあるじゃない?
あるね。
そう言われると偶然かもしれないし、でも必然的かもしれないよねみたいな、なんかモニャモニャするじゃん、普通に言うと。
するね。どっちだろうね、みたいな。どっちもかな、みたいになるね。
で、カンタもこれに答えを出しちゃうのね。
あるんだ、答え。
カンタ的にはね。
それとかっていうと、その人間が認識できる対象同士の関係の世界、要は現実界みたいなところでいくと、
当然その物事の原因となっている物自体っていうのが認識できないから、世界っていうのは偶然だよねと。
要は原因が見えないし、経験できないから。
24:01
でも、物自体が存在する可能界というか、いわゆるイデア界的な世界を考慮すると、
その対象の背景には原因となる物自体があるので必然だよねと。
つまり、本当はどちらも真、あっているとは言えるんだけど、
結局、人間っていうのは、本当の物自体がある世界っていうのはどう頑張っても経験できないし、認識できないから、
それを微生の働きでそもそも問おうとすることが無駄だよねと。
どっちも正しいんだけど、でも答えは絶対出ない問いだから、
そもそもこれっていうのは認識のエラーであって、本当の自体が間違っているよね、みたいなことを言いますと。
なるほど。ここまで来て、さっきのレゴの例え、ちょっと分かった気がする。
そもそもそうだよね、レゴが存在しない世界で、物を作れるかっていうのが、ちょっと繋がった感じがするね。
そうだね。確かにそう。言ってくれたら、レゴが存在しない世界は僕は想定してしゃべってて、だから何かを作ろうと思った時に、
その素材がない状態では絶対に意味がある行為にならないよね、みたいなことなんだけど。
つまり、カントがやってきたのは、この純粋性批判っていうのは、例えば真・全美っていう3つのテーマがあった時に、
真実をどう捉えるかとか、人間がそういう物事を正しく考えるっていうのがどういうことか、みたいなことをテーマにした本という話だったんだけれども、
その能力に対してきちんと限界を示しましたと。理性とか知性の適用範囲はここからここまでですよ、というのを明確にして、
その使用方法とか使い方っていうのを吟味した、つまり批判者っていうことが、この純粋性批判でカントがやったことです。
結論、この認識とかここまでやってきた道具を使ってちゃんと進めていくと、新しい形状学っていうのを作れるよね、っていう話をしていて、
それが何かっていうのは明確に実は言ってはいないものの、実はこのそもそも今やってきた議論、そもそも理性の働きってどこからどこまでとか、
だって理性って経験できないし分からないじゃん、なんだけど、これを経験によらないアプリ寄りな感性とアプリ寄りな個性というところから、
この経験を重ねることでここまでこれたっていうことが実際形状学であって、カントの言う新しい形状学の一つが、
27:00
そもそもこの純粋性批判の本の中で展開されているみたいな感じです。
はいはいはい、なるほど。
はい、いかがでしたでしょうか?
ちょっと難しくて、うわめっちゃすげーっていう驚きっていうのが多分もうちょっと、これ何回か自分でも聞き直しながらみたいになると思うんだけども、
例えばっていう話で世界は偶然か必然かっていうことを、カントが考えだした思考法、考え方に基づくと、さっきのこっちから考えると偶然だし、こっちから考えると必然だよねという、
ある意味それぞれのプレイヤーの視点に立った相対的な答えがちゃんと出てくる、絶対的な答えじゃなくて、その中でプラトンが多分やらなかったというか、
そのイデアと現象界どっちもあるよね、イデアっていう方がある意味前だよねみたいな話があった時に、
カントはイデアを前だと断定せずに、イデアはこういうものです、現象界はこんなものです、って言うて人間って現象界で生きてるじゃん、
その中でどうやって物事を判断して、どういうふうに生きていったらいいのかね、だったりとか、
どっちが良い悪いを言ったってわけじゃなくて、前訳の判断はこうしたら今よりちょっと良くなるんじゃないのかね、よりリアルなんじゃないかねっていうところをきちんと捉えようとした、
そのために最初言ってくれた問題意識としての悪しき啓示乗学、神様っているかいないかみたいな、そもそもを展開せずに、
それこそコーヒーってカフェイン入ってるから眠くならないじゃんっていう話と同じレベルで、神っているじゃんとか、王様っているじゃんみたいな話があった時に、
そこを多分めっちゃ頭いい人たちが本当にそう思って、神がいる前提で物事の論理を展開している、
そもそもっていうのを一回ちゃんと考えましょうよと、何ならそれ間違ってますよと、逆にそれをやることでもう一度ちゃんとそういった頭のいい人たちだったらきちんと理論の同じテーブルにつくことができるでしょうみたいな、
そういうちゃんと理論しようよみたいな、さっきの世界が偶然か必然かみたいなものがあった時に、本当にそれぞれ違うテーブルの上で偶然だ、必然だみたいなことを言い合ってる状態が本当に気持ち悪かったというか、
お前ら違うぞって多分本気で思ったんだろうなあって、神とは、そういうところをちょっと抽象的ではあるかもしれないけど、何をやろうとして、何を実際に証明したのかっていう意味で、
30:14
ちょっとまだ具体的には落ちない部分はあるけれども、抽象的にはこんな感じで、ちょっと思って、神との凄さを少し分かった、分からせてもらえたかなって感じ。 うんうんうん。 あ、よかったです。
大丈夫? 理解してる? そうだね、一旦別にまだまだちゃんと理解するには自分で学んだりするのだと思うんだけど、でもそういう神とがやろうとしたこととか、モチベーションとか、
全然何やってるか分からない人じゃなくなったっていうことがすごく大事だなあと思って、で、ちょっとこれ雑談でも言おうかなと思うんだけど、神との物自体っていう考え方は実はあんまり好きじゃなくて、読んでなかったっていうのがあって、 あ、そうなんだ。
うん、要はその物自体っていうのは経験では認識できない理想のものみたいに言ってしまうと、結局それが何だろうな、物語の設定のやっぱり装置になっちゃうんだよね。
神がいるから世界ができたっていうのと同じような感じで、物自体があるから僕らは現実の世界を理解できてるってなると、結局言ってることは違うんだけど、構造としては結構近い感じがするなあと思って。
うんうん、それはすごく共感するね。このアプリ寄りな総合判断っていうものができるようになったとして、結局じゃあ本当に人間が主体で神が否定されるかっていうと、別の方法で神を作ることができるよね。
そうそう。実は結構その問いとか、カントのそういうところから、じゃあ本当の世界の認識ってなんだっけとか、そもそも本当に物自体ってあるのかないのかとか、あるってなんだっけとかっていうのが繰り広げられるのがその後の哲学だったりはするんだよね。
そっか、さらにこれを乗り越えるというか、いろいろまたアップデートはされてるんだね。
もう300年前ですからね、言ってカントのこの話も。
まあ確かに、そっかそっかそっか、1700年の前半だもんね。
そうそうそう。なので、ただやっぱりこうやって改めて学び直してみると、カントがやろうとした突き詰めたことっていうのは本当にすごいことだったなあって思うんだけど、ただ実はカントはもちろんここでは終わりませんと。
はいはいはい。
この三非反省で、さっき兄貴が神様とか、要はプラットンは善の意図みたいなのを、そっちを完全に良いものというふうにしたみたいなことを言ってくれたんだけど、
33:06
カントはもちろんそれを理解しているから、あくまでもまず最初は人間の理性とか認識とか、良し悪しというのを一旦はずいて、認識の働きだけというのを捉えましたと。
はい、この今回の純粋理性非反では。
その後書いた実践理性非反と判断力非反では、まさに善とか美というのを扱うんだけれども、カントってのはすごいバランスの良いというか、しっかりした人で、
今今回話してきたように、人間は理論的な経験とか、そもそも経験に寄らないその手前のある種性約としての認識の限界というのはもちろんあるんだけれども、
一方で人間ってやっぱり道徳的な認識もするよねと。
だからその何か物事を正しく見るみたいな時に、神とか心とかっていうのはあんまり生きてこないんだけど、
実生活においてやっぱ宗教とか世界観とか、あるいは魂が不死か消滅するかとか、神はいるかいないかとかっていうのはやっぱり意味を持つよねと。
なのでそこを考えるのが実践理性非反だろうね。
なるほど。この前、カントまではどっちかというと個人の方にフォーカスしていて、
ヘイゲルの方が個人と社会を統合したみたいな話を近代哲学史の方でちょっと聞いたけれども、
またこの実践理性非反の方は少し社会とかコミュニティ、共同体みたいなのに踏み込んでそうな感じが勝手にしたね。
そうだね。これは正しい理解かあれなんだけど、カントは個人がいっぱいいる、個人個人個人という中で、
その個人個人が同じような道徳を持てるねとか、同じような価値観で生きれるよねということを言おうとしていくのね。
はいはいはいはい。
ヘイゲルは社会というのはその社会という一つのシステムで、個人というのも一つのシステムだから、
そのシステムとシステムが繋がったときに全体としてどうなるかということを言おうとするっていう違いがあるって感じかな。
なるほど。
要は個人の単なる集まりが社会じゃないよねっていう理解。
確かに確かに。そこを道徳だけでは社会は回んないし、そんな社会は単純なものでもないから、
そこに個人がどういう風に繋がっていくみたいな、そこの違いというものが存在するんだね。
そうそうそう。
ただやっぱりそれはカントの、やっぱり、あの、結枠がないと生まれなかったんじゃないかというか、繋がってくるよねっていう風に思うし。
36:08
やっぱりこの感性と誤性をちゃんと切り分けたとか、そういうのがすごくね、やっぱり冷静に、
そのあなたが思っているっていうところをきちんと分解する。
それこそ二項対立になりそうなものをきちんと同じテーブルの上に乗せて、そもそも俺たち何の話してるんだっけみたいな冷静さを取り戻す。
なんかね、お互い理論的に、理論しているのにやっぱり見解になっちゃう部分ってあると思うんだけど、
そこをちゃんと「いやお前らそれ理論じゃないから」みたいな風にちゃんと引き戻してくれるんだなっていうね。
そうだね。だから、あっちはね、すごい西洋的な理性の話で、一方で東洋的にいくと「いや、もうそんなの分けたらダメだよ」と。
もうそんなのは、自分を地獄に落とすだけだから、国一元論で一つとかして考えて、感じたものをそのまま理解するんだっていう考え方もあるし、
あとそういうね、西洋と東洋とか仏教的な考え方との違いとかっていうのをこういう風にやっていくと、めちゃくちゃ理解できて面白いなっていう感じはある。
なるほどね。そこもやっぱり違いだし、東洋と西洋が二方対立じゃないよみたいなところもわかってくるってことかな。
そうそうそう。「なぜにどっちかに勝てよってもダメだよね」みたいな。
はいはいはいはい。
はい、みたいな感じで。次回はですね、もうこんな感じでは話さないです。
もうちょっとラフに、だいたいこんな感じだよっていうのをお伝えしながらも、
でもね、もう一個カントに結構有名な言葉があって、これ聞いたことあるかな?
なんかその「あなたの意思の確立がいつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」っていう有名な言葉があるよね。
うんうん。
だから結構今回はカントの言葉、問いとか言葉に対して、それで結局何言ってるんだっけっていうのをたどってきたような回に、
まあ、計らずもなってるんだけど、次回もそういう今の言葉って何言ってるの結局みたいなことを紐解きながら、
実践理性批判でカントが言おうとしたことを触れていただきたいなと思っております。
という感じです。
今回はちょっと難しかったですけど、自分でも何回も聞いて、もしくはちゃんと本読んだりとかね、
参考文献を見て。
面白いね。ラジオで何回も聞きますみたいな発言が出てることないじゃん。二人でやってる聞いて側から。
あの、ちゃんと聞いてくださってる方ならまだ下みたいな話ね。
39:01
そうそう。リスナーの方で聞いてくださってる方ならもしかしたらお気に入りの回を聞くとかあるかもしれないけど。
でも、兄貴編集もしてるからさ。もう延々聞いてるわけじゃない?
まあそうだね。編集3回くらい聞いても分かんないんじゃないかな。
そうね。ふに落ちないみたいな。でも、そういう経験を繰り返してやっぱり分かるとか、
他の人でやってた時に、もしかしてカントが言ったのってこういうことみたいになるのも面白いんで。
本当は聞いてる中でね、「うわ、これすげー!」とかってなれればいいけど、ちょっと頭が悪くてついてきませんでした。
っていう回もあるんだなっていうところで。最初は早くは言ってくれたけどね、難しいって。
そう。あ、ね。ちょっとこれもまた途端になっちゃってあれなんだけど、頭のよしやしじゃなくて、やっぱりアンラーニングというか自分が物事を捉えるとか認識するっていう、超当たり前のこと、超常識をやっぱり一回疑うというか、距離を取ってみなきゃいけないから。
それがめちゃくちゃ難しいというか、普通ではやらない操作なんだよね。
はいはい。あれでもね、今日の話で言うと、感性というものはやっぱりみんなに備わってるとして、理性の働き、そこの変換の回路っていうものが多分もう、脳の神経と一緒で、ちょっと固定化されてる部分もあるんだろうね。
ある、あると思う。
そう、そう。ちょっと毎回純粋にそこを、この関東みたいに、純粋な回路を通せば普通にアンラーニングできるんだろうけど、それって結構、ぶったレベルの話というか、超難しいですよ。
まあ普通に生きる上では、邪魔臭いというか、うちそんなことしなくてもいいから。
確かにね。毎回そんな回路を作ってたらね、生きていけないという。もちろんあるっていうのが人間なんだろう。そもそもそれが人間なんだろうしね。
そう、結構、その次の実践理性化の話で、そもそも人間はそういう傾向とか、偏りがあるものを、やっぱり目の前にものがあったら実際にあるって思っちゃうし、神はいるっていう思ったら、実在していて、いつか頑張ったら神と振り上げられるんじゃないかっていう風に思う。
やっぱり、なんだろうな、基本的な性質があるよねっていうのを理解した上で、では物事を正しく捉える2話とか、みんながちゃんとお互い共通認識を持つ2話みたいに考えるときは、やっぱりそれを一回手放さなきゃいけないみたいな。
ああ、すげえ。関東先生、すげえ。
そうそうそう。ちょっと肩組みづらくなってきたでしょ。
無理無理無理。ちゃんと膝、膝まずいて、正座して話聞くわ、本当に。
42:03
相手をただ批判するだけじゃなくて、ちゃんと分かった上で、こうでしょって包み込んでくれるね。すごいなあ。
そうだねそうだね。っていうのがやっぱり面白さだったりとか、関東の思想自体、関西と個性って分かれてるのとか分けた方がいいのとかっていうのは別問題としてあるんだけど。
そうだね。土地でちょっとチャチャ入れたけど。
そう。そういうのを知っていただくだけでも、関東の哲学っていうのが短くなっていただけるんじゃないかなという感じでございました。
確かに。ちょっと興味持ってきたかも。
いやーよかった。はい。っていう感じでね、じゃあ次回、また実践に関の話をして、関東編はたぶん終了になるんですけど、
是非皆さんもまた聞いていただいて、ここは分かんなかった、ここはこんなことを感じたみたいなものがあれば、
また是非ね、思い出を入れて、しなかのツイートもしていただけたら、それてツーラジオっていう最近ハッシュタグをつけて僕も気づいてきたので、
英語させていいねを押しに行きますので。
そうだね。でもそうだね。こんだけ難しくなってくると確かにそろそろ、ちょっと難しいわとかね。
むしろ詳しい人がね、ここ違うんじゃないとか、こういった方が多くわかりやすかったんじゃないとかね。
是非そういう補足とかももらえると。
あーそう、めっちゃありがたいですね。
こちらが勉強になるんで、今全然理解できないんで、自分がね。
そうだね。僕もね、話しててちゃんと伝わってるかっていうのはね、そろそろ怖い話。いつも怖いので、やっぱり。
そうだよね。確かに借りられた時間の中で、こんだけ難しい原文をね、しかも、合ってるんだ、合ってないんだかわからない例え話を使ってみたいな。
確かにチャレンジングではあるよね。確かにね。
チャレンジだよ。毎回怖いよ。
それはね、学者じゃないからできることかなと思ってる。やっぱり専門職だったらね、批判されたら怖いじゃないですか。
確かに学者だったらそういう難しい本書かないと。難しいかもね。無理かもね。確かに確かに。
好きないようにしないと。
そうそうそう。っていうのはね、あるので。まあちょっとね、好きかって言える立場をちょっと利用して話しておりますので。
はい、という形でですね。では、今回も長時間ですが、聞いていただいてありがとうございました。
ありがとうございました。じゃあまた次回は実践、理性、批判というところで、またよろしくお願いします。
はい、お願いします。お楽しみに。
お楽しみに。
♪~
44:58

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