フィヒテの思想の探求
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回フィヒテ第3回ということでやっていきたいと思います。
はい、前回ですね、結構兄貴もね、苦労しながらついてきてくれたというイメージを膨らませてくれたと思うんですけれども、
そもそもフィヒテが関東にすごい影響を受けて、ただ関東がまだ足りないんじゃないかというか、
それこそ物自体とかさ、まだそういう解明できないものがあるよねっていうところから、
もっと自分は先に行くぞと、もっと本源を追求して、逆しらだみたいな話もしましたけれども、
そういうところもありながら、より突き詰めていくぞっていうふうな話をしてきたと思うんですよね。
ふり返ってみると、覚えてるのがさ、自我が自己を定義するみたいな話で、
散々あの、暗いところを想像してくださいみたいなさ。
で、自我がありますよねみたいなさ。散々そういうのをやって、いやそうじゃないみたいなさ。
そもそも暗いところもなんのですみたいな話でね。
そうそう。空間も想定しちゃダメで。自我は空間全部にあって、
その空間の中に悲願が侵食してきて攻めき合いをするのだぐらいのイメージみたいなさ。
あれ?それしか覚えてないんだけど。で、何なの?みたいな。
でもなかったよねって言うんだけど。大丈夫?
大丈夫。そこからは一歩一歩丁寧にやっておこうと思うんですけど。
もう一つ思い出してほしいというか、前回ちょっと大事だったかなと思うのは、
カントで言うと理性か、純粋理性と実践理性っていうのがあったときに、
それがやはりバラバラですよねと。
それはやっぱり統合とか一つにしたいっていうところがフィフトにありたかったことなんだよね。
それをどうしようかっていうときに、彼がひっくり返したというか考えたのが、
普通僕らって、我々自分という存在でもいいし、リンゴとかパソコンというものでもいいんだけれども、
まず物があって、存在してて、それが何かをする、行動をするとかっていうときに考えるじゃないですか。
そうすると、まずあるとか存在するっていうことを認識しなきゃいけないから、
外から内へっていう、どうしてもそういうルートになっちゃうんだよね。
なので、そこをある種フィフトにひっくり返して、自分が存在すると自分が決めているとか、
自分が自分という存在を立てているっていう行動の方をお先にしたっていうのが結構大胆なスタートなんですよね。
それがつまり、自我が自己を立てるっていう、自分が存在するっていうところから始めるんじゃなくて、
その前に自分を立てるのだっていう行動とか、意思みたいなものがあるぞっていうところから始めてくるんですよ。
なぜかわかんないけど自分いるよねとかあるよねじゃなくて、自分が自分をちゃんと存在させてるんだよねみたいな話ってことね。
それはちょっと前回言わなかったんだけれども、フィフテの独特の言葉で、
自行っていう、事実の自と行動の行っていうのを合わせて自行っていう言葉を当ててるんだけど、
要は、ある種自分が存在するという事実と、自分を存在させたという行動、
これはきっと切り離さないイコールというか同時のものなんだみたいな、そういうような概念っていうのをフィフテは立てたりしてるんだよね。
ただ正直それもよくわかんないし、もっと言うと兄貴がさっき言ってくれた通りに、
衝動の理解
仮に自我があって事故ができて、かつて被害というものも出てきますみたいなことはなんとなくわかったとしましょうと。
でも被害って言っても当然その被害にもいろんなものがあるわけじゃん。
パソコンもあれば、それこそリンゴもあれば、木もあれば山もあればみたいな感じで。
被害もたくさんある、事故っていうものもあるみたいな時に、
だいたい結局どうやって我々認識してるのとか、どういうふうに世界が立ち現れていくのっていうことがまだ全然わかんないんですよね。
いやーそうだよね。100歩譲って、自我はいいですよと。自我というか事故。
それしかない空間もない。そこから被害みたいなものが現れてきますよってなった時に、
どっから?ってね。それはどっから?って。それも私が作ってるんですかね?みたいな。
そうそう。あなたの被害はどこから?みたいな感じで。わからんみたいな。
結局は自我からなんだけど、じゃあ自我ってやっぱりそこにぐるぐる回っちゃうんだよね。
っていうところがあるんで、それをある種ステップバイステップで、ゆっくりなんですけど、
例えば仮に、僕らが目の前のリンゴというものを理解できるのか、理解してるのかみたいな話っていうところを、
今日はお話ししていこうと思っております。というような感じなんですよね。
ある意味完璧だと思われたカントに対して、ちゃんと違和感を持って、自分なりにフィッシュしたステップをちゃんと作ったってことだもんね。
今の感じだとぐるぐる回っちゃって、結局わからんみたいな話ではあるけれども、ちゃんと世界観は作ったよっていう話なんだもんね。
そうです、そうです。
というところで、ひきせさんの話をすることで、兄貴がそれを納得してくれるのかどうかっていうところは、今日の勝負っていう感じなんですけれども。
素人はどう思うのかっていう。
そうですね。やってみましょうよと。
それまで僕ら自我があるとか、自我が事故を立てるって、そこからスタートしてたじゃないですか。
でも実はそれっていうのも、それが第一歩目だとすると、ゼロ歩目みたいなものがあるんですよね。
そうなんだ。でもすごい、ちゃんとあるんだね。
あるんです。それが何かっていうと、フィリピン人はそれを衝動って言ってるんですよ。
何かっていうと、例えば僕らは何かをしようとするとか、自我が事故を立てようとするって言ったんだけど、
そういう意志とか意欲みたいなものが、基本的にはやっぱり必要じゃないですか。
つまり、立てるという行為のためには、立てようっていう意欲というか意志みたいなものが必要なんですよね。
実はこのフィリピン人が言う衝動には2つの大きな方向性が含まれるんですよ。
何かっていうと、一つは、人物の自我っていうものを考えてるじゃないですか、僕らは。
で、自我の衝動っていうふうに言うと、一つは、もっと広がりたいとか、事故をある種押し広げて、
無限に事故っていうものを大きくしていきたいみたいな、広がるっていうふうな衝動があるんですよね。
へー、広がる。
広げていく。これを、もう一個の日本語で努力っていうふうに言いますと。
努力。
努力する。
そうなんだ。はいはい。
広がっていきます。
で、もう一個はね、広がろうとするということは、つまりそこには抵抗があるってことじゃないですか。
抵抗がなかったら、永遠に広がって、どこまでもどこまでも広がっていけるわけじゃない?
まあ、そうだね。広がりたいとは、そもそも思わなくていいっていう話ね、そもそも。
そうですそうです。広がりたいという努力があるということは、そこには何か他のものに阻まれるとか、
事故というものを広げようとしたときに、やっぱり被害に出会ってしまう。
そういう思うようにいかなさっていうのがあるんだよね。
はいはいはいはい。
これを、ちょっと難しいんだけど、非限定性っていう言葉で言われてて、
被害の被。
で、限定は、要は自分が限定されるとか、他の存在に出会って限られてしまうっていう、そういうふうなものがあります。
つまり、この自我が事故を立てようっていう衝動を持った瞬間に、どこまでも広がりたいっていう気持ちと、
でもそれって結局は他のものに制限されちゃうよねっていう非限定性の2つが同時に出てくるよねっていうふうに、そういう人は言うんだよね。
衝動と自己の関係
うーん、はいはいはいはい。
うん。このどうだろう、第0歩目の感覚はどうだった?そういうのあるかな?
あー、どうなんだろうな。これがだって0歩目の話だよね。
そうですそうです。
これの後に、自我が事故を定義するっていうこの前の話が出てくるってこと?
そうです。そうなんだけれども、さっき通り、その事故っていう話でさ、いわゆる行為と存在、何かをするっていうこととあるっていうことは1つだって話をしたじゃないですか。
うんうんうん。
なので、その行為、今回お伝えしてる衝動は行為よりも確かに前なんだけれども、
広がりたい、思うようにいかないっていうふうになっているその瞬間にも、やっぱり行為ってのが出てるわけなんだよね。広がるっていう行為が同時に起きてますと。
0歩目とは言ったんだけれども、ほぼ同時というか。
一応ステップ的には衝動の方がちょっと前なんだけど、その衝動を抱いたときには既に自我が事故を立てているみたいな、そのぐらいの感覚?
そっかさ、この衝動があるから自我が働き出して事故を立てるのだ、ではなくて、ほぼ同時だと思っていいってことね。
そうそうそうそう。
例えば前回の話で言うと、空間はないけれども、その真っ暗なところみたいなところがあったときに、自我が事故をポッと立てますみたいな話だよね。
しかも、空間の中の一部にポッと立てるんじゃなくて、立ったときは空間らしきものの全部を基本を占めてますと。
そうだねそうだね。
まずは全部。世界というか感覚がすべて事故である。
とはいえ、その全体ではね、どこからか知らないけど端っこからかわからないけれども、どんどん自分じゃないものが侵食してくる感覚があると。
それが自我で、その自我じゃないところが実は事故なんだなっていうところの攻めり合いだ、みたいなイメージがあったときに、
その段階を想定すると、この衝動、どんどん火が迫ってくるじゃん、ここみたいな。
で、自分もちゃんと押し返さないと、全部被害取り込まれそうみたいな感じで広がりたいっていう。
その状態は想定できるんだけれども、その前ですよって言われるとわかんなくなるみたいなイメージかな。
そうね。それはね、ちょっとまたこれもイメージのアップデートが必要だから、難しいなって今話をするのを思ってるんだけれども。
今の時はさ、何か空間的なものがあって、その中に、事故と火がっていうものの攻めり合いがあると言ったじゃないですか。
でもよくよく考えてみると、空間的なものがあるっていう時点で、事故は無限には広がりてないじゃないですか。
空間、まあ確かにそうはね、はいはいはい。
そう、何か湧くのようなものを想定した瞬間に、もっと広がりたいっていうことが、提言されてますよね。
うんうん、確かに確かに。
つまりこれが、空間もあと、要はカントは空間とか時間っていう、そういう、何だろうな、ものを先に、要は人間が持っていて、そこから世の中を捉えるんだっていうふうに言ったんだけど、
そういう人はそう言わないのは、空間とかっていうものでも、やっぱりさらに先に衝動があるって言ってんだよね。
あー、なるほど。ちょっとわかった気がする。
うん。なので、湧くとか空間を捉えるってやっぱりわかりやすいんだけど、その衝動の考え方とかするとやっぱり間違いで、
とにかく再現もない、何だろうな、もう空間とも言ってはいけない、そういったものの中に、もうとにかく事故を広げていきたいっていうふうな衝動があるんだけど、
現実、空間はやっぱり限定的だし、自分が捉えるところにもやっぱり枠があるので、それが思うようにいかないと現実に阻まれてしまうっていうふうな限定性っていう感じだったよね。
なるほど、なるほど。なるほど、面白いね。そっかそっか。そういう意味だと、その衝動だよね、みたいなものが、もう無限に広がりたいみたいなやつがいたとした時に、
確かに空間であったりとか、あと時間もだよね、それで言うと。
そうそうそう。現在、過去、未来とかっていうのも全部限定されるじゃないですか。
うんうん。想定した瞬間、というか、想定してるってことはもうすでにこの次のステップじゃないけれども、もう事故みたいなものがあるからっていう、そこの段階は今の話で想像できた気がする、確かに。
はいはいはい。
私、ほぼ同時ってのもわかる気がした。
うんうん。なので、どうしても僕らはやっぱり、枠を作ってそこに当てはめるってやっぱり認識をするから、そういうふうに考えちゃうんだけど、フィッシャーは本当にもう、自我の衝動みたいな、言ったらあれだけど、何だろうな、それが何って言われると多分、実はそれもフィッシャーは後期にそういうことを考えてるので、
ちょっとこれ次の次ぐらいの回に取り上げるんですけど、今この瞬間で言うと、そういうものがあってるとしたら多分言えないもんなんだよね。
うんうんうん。
とにかくそこから始めると、自我とか事故っていうものを中心に世界を語れていきます。その第0個目に衝動があるんですっていうふうな説明なんだよね。
なるほどなるほど。イメージというか、感覚は理解した気がする。その衝動ね。だから、これがやっぱり前回話した、自我が事故的にするのを、本当にその第1歩目だった話で、まず衝動が、あるって言うと多分おかしいんだけれども、
衝動の理解
まず衝動ですって、その無限の広がりの中の。まず衝動ですって言われたときに、その無限の広がりか、みたいな感覚はわかった気がする。
うんうんうん。よかったよかった。ありがとうございます。
まずこの衝動っていうものは、始まりにありますよね。そこから今言ったみたいに、自我とか事故とか非我っていうものが出てくるっていうのはほぼ同時に起こるんだけれども、
その上でね、その衝動が、その事故の意識に昇るっていうことが今度起きるよねっていうふうに言うんですよ。
例えば、さっき言った枠にぶつかったときに、枠があるっていうさらに前に、なんかぶつかったとか、なんかいるみたいなね。
そういうふうなものが意識に昇るっていうふうな話を考えて、これをフィフティは感情って言ってるんですよ。
これややこしいんだけど、普通僕ら感情ってね、嬉しいとか悲しいとか、そういう気持ちのことを言うじゃないですか。
じゃなくて、フィフティの感情はどっちかっていうと、まさにぶつかったとか痛いとか熱いみたいな、いわゆる感覚?
うん。その感とか、体験とかその感覚のほうがより近いんだけど、そういうものを指してフィフティは感情って言ってるんですよね。
で、これ面白いのは、感覚って言ったら外から内へっていうのがどうしてもついてまとっちゃうじゃないですか、その言葉のイメージとして。
あー面白いね。確かに確かに。
五感って言っちゃうと、もうすでに体があって、神経があって外のものを内側に取り込むっていうふうな流れになっちゃうから、フィフティはそういうふうには言いたくないんですよ。
わー、なるほど。ちゃんと言葉を決めてるんだね、そうやって。
そうそうそうそう。なので、その感情ですと。
で、ただその熱いとか甘いっていうのも、実は感情のように内側から出てるものなんですっていうふうにフィフティは言いたいんだよね。
うんうんうんうん。
うん。なんすかね、外っていうのがまだそんなに出てない、被害は出てるけど、その被害と事故がどう関わるかっていうところがまだ説明できてないから。
そうだね、うんうんうん。
あくまでも事故が何かにぶつかったときに意識に昇ったものを取り上げて、これは何かにぶつかったっていうふうに捉えるっていうことが次のステップで起きます。
はいはい。だから想像するとさっきの衝動くんがいたときにさ、
はいはいはい。
無限の広がりで、まだその、自分もその無限の広がりみたいなときに、わーいって多分自由じゃん、広がり放題らしいんで。
そうそう自由、そうそうそう。
ときに、なんか、あれっていう、なんか今ぶつかったぞみたいな、いた!ぶつかったっていうか、いた!みたいなのが。
うんうんうん、そうそうそうそう。
アツーとかさ、あとあの、たぶん目つぶってるときにレゴ踏んだみたいな感じでさ、あ、いた!みたいなさ、当たらない感じ。そういう感覚に近いんだろうね、たぶんね。
なんじゃ、なんじゃーみたいなね。
あーんって、うんうんうん。
うんうんうん。
なるほどなるほど。
そうそうそうそう。それが起きますと。
はいはいはい。
だからそのときはまだそれがレゴだとか、自分の足で踏んだとかそういう言葉で言ってないんだよね。
そこそこそこそこ。さっき、そっか、目つぶってるだけの想像じゃ足りないんだ。
そっか。どこで何を、どこで感じてるかも分かんないんだね。
はいはいはい。
だからね、ちょっと先駆りすると、まさに今みたいに、ぶつかった、これはなんだ、きっと床にあった答え物だからレゴだっていうことがもう連想が進んだ、ほんとに先の話で。
そうだね、だいぶそうだね。
だいぶ先の話。
今の話で言うと、だいぶ先の話な感じがするよね。レゴってなんだっけみたいなさ、そもそも。
そうなんだよね。だからこれが面白くて、やっぱり普段僕らは、もうある種、これはレゴだっていうふうに反射的に考えるんだけど、そこの認識までにはすごいステップがあるっていうことをフィフテはちゃんと一個一個なぞっていくんだよね。
なので、まだこの感情、要はなんじゃっていう部分では、世界はまだまだぼんやりしていて、まだよくわかりませんっていうふうな状況ですと。
少なくともこれで、事故と被害の出会いっていうものは生まれつつあるんだよね、ここに。
そうだね、つつあるんだもんね、わかんないんだもんね、まだね。
そう、まだわかんない、まだわかんない。
そう、っていうふうな状況がある種、一歩目とか二歩目かな。
第0歩で衝動が起きて、第1歩で事故、被害っていうのが出てきて、第2歩目で感情っていうのが出てきます。
構想力の役割
次がどうなるかっていうんだけれども、要はなんじゃだけで終わってたら、ある種外の世界がまだまだ見えないわけなんですよね。
そこに対して、人間というか理性を持った存在であると、ここに反省っていうのが入りますと、反省。
要は、これって何だろうとか、このなんじゃっていう感覚に対して、これってきっとこうじゃないかっていうことを考えていく、そういう力が人間にはあるよねっていうふうに言うんだよね。
ここに理性っていう言葉が出てくるんだね。
そう、フィフテで言うとこれを構想力っていうふうに言ってるんだけど、物語を構想するとかっていうのがあるじゃないですか。
構想力っていうのを使ってて、まだ理性っていう言葉は多分言ってないんだけれども、
構想力、要は、なんじゃっていうふうな感覚を持ったとか、そういうことはきっと何かしら非がというものがあるだろうみたいな、
そういうものを全体として捉える力として構想力っていうふうなものを取り出して、これを使って人間は感情を反省するみたいなことを言うんだよね。
おー、はいはいはいはい。
はい。で、この構想力を使うと、実は感情、さっきのなんじゃみたいなものが2つに分かれていきますっていうふうに言いますと。
えー、そうなんだ、ほうほうほう。
そう。何かっていうと1つがね、これ言葉は難しいんだけれども、1個は対象概念で、もう1個は目的概念っていうふうに言われるんだけど、
要は対象概念っていうのは外に向かう生理なんですよね。
さっきの話でいくと、何かぶつかったらなんじゃってなったときに、これは、例えば自分の下の方を足というもので踏んだと。
これは床にあるものを踏んだ。で、床にあるものとして踏みそうなポケトゲしたものはレゴだみたいな。
そういうふうに、外にこれをちゃんと構想していくというか、何なんだろうこれっていうことを突き詰めていくような考え方。
ふんふんふんふん。
うん。こういうふうな発想をまず1つ持ちますっていうふうに言うんだよね。
うーん。
うん。要は、すごいわかりやすく言うと、物を捉える働き。
うんうんうん。
っていうのが、その感情を、構想力を使って描かしていくと出てきます。
はいはいはいはい。
はい。なんなんだけど、もう1個は目的概念っていうのは、目的っていうぐらいなんで、こうしたいとか、こうあるべきっていうふうな、そういう発想も出てくるって言うんだよね。
へー。
つまり、なんじゃって思ってるってことは、自分がある種そういうものとぶつからずに歩くこととか、進むことっていうのを期待してるわけじゃないですか。
ああ、まあそうだね。期待っていうか、想定をしてなかったよね、みたいなね。
そうそうそう、ぶつかったっていうことだね。
さっきの衝動の話でいくと、押し広げたい、自分の行動範囲広げたいっていうときに、レゴっていう邪魔者にぶつかったわけだよね。
うーん。
すると、押し広げたい、でも邪魔者にぶつかった、じゃあどうするっていうことが自然に出てくるよねっていうふうにフィフティは考えるんですよ。
へー、はいはいはい。
例えばまず痛いから足を上げましょう、踏み続けるんじゃなくって上げましょうとか、ここはダメだから別の床、要は別の道を歩きましょうとか、あるいはちょっとこの辺危険すぎるから一回止まりましょうとか、
そういうふうに、いろんな行動というか選択が出てくるわけなんですよね。
ああ、まあ確かに。
そういうふうに自分の、例えば家の中から玄関に帰りに行きたいという目的を持っていたとしましょう、
っていうときにその目的を達成するために何をすべきなのかとかどうするのかっていう、そういうものが出てくるよね、それが内側が出てくるよねっていうふうにフィフティは考えるんだよね。
ほうほうほうほう。
つまりその感情、さっきの何じゃっていうすごいまだ世界が曖昧なところから一歩進んで、この放送力を使った反省ってところに進むと、やっとそこで世界ってどんなものがあるのかとか、
ここに対して自分はどう関わるのかっていう、そういうものが割と細かく出てくるよねっていうふうな、そういうステップに進んでくるんですよね。
主観と客観の認識
はいはいはい、なるほど。この段階でだいぶ明確になってきてるというか、感じはね。
そうなんです。で、ただ、今だいぶ僕進んじゃったんだけど、実はその次のステップでやっと主観と客観が出てくるっていう感じなんですよね。
へー、そうなんだ。ほうほうほう。
そう。まだこの反省する段階だと、自分の内側にしかまだ意識を向けてないというか、内側を通して外のものっていうところに向かってるので、まだ外の世界があるっていうところまで行ってないんですよ。
へー、そうなんだ。ほうほうほう。
うん。で、その反省を通してやっと、確かにこれはレゴというものがあるねとか、
それを私という存在が踏んだんだねっていうふうな自覚を持って始めて、主観と客観とか、自我が世界にあるっていう、そういうふうな認識になるよねっていうふうな、
そういうふうにフィッシャーが考えるんですよね。
うーん、なるほど。そっからもう一段階あるんだね。認定するみたいな。
そうですそうです。
ほうほうほう。
その反省っていうものから、確かにあるっていう基礎。
ここはちょっとね、伝わってるかもしれないんだけれども、やっぱりその、ここの反省っていう今言ったステップと、
その現実、主観と客観があるへっていうステップには、やっぱりちゃんとこう、やっぱり時間的には前後があるんですよ。
うんうん。
で、どういうことかっていうと、さっき反省って話していくと、
まず、やっぱり一個一個やっていく、まあなんだろう、時間的には並行して同時なんだけれども、
その、例えばここではレゴというものがあるよね、とか。
うーん。
あるいは、自分が痛いと感じているよね、とか。
うん。
で、それだったら一回足を上げるべきだ、要は踏み続けるんじゃなくて、それを避けるべきだ、とか。
うーん。
そういうものを、一個一個ちゃんと反省をして、認定、よしこれはOK、丸、丸、丸ってしていくんですよね。
はいはいはいはい。
うん。で、その丸を全部統合したときに初めて、私の足がレゴを踏んで痛かったので、その足をどけました、みたいな。
うーん。
そういう、ある種統合された、まあ現実というか、世界っていうものができてくるんだよね。
あー、なるほど。えっと、だからそれで言うとはけれども、今って多分その、このフィフテの今のさ、あの、第一歩か、第一歩、衝動から、
多分すごい順を追って説明してくれてると思うんだけど、
はいはい。
それで言うと、多分その、私が足でレゴを踏んで痛かったので足をあげたっていうのは、もう、死ぬほど応用編な感じがするよね。
そうだね、そうだね、めちゃめちゃ先の話だね、うん。
もう空間も時間もない、その、私は無限だーっていうさ、もう衝動訓が生まれて、そこに来るって結構遠い気がして、
多いね。
そうするとあれだもんね、先ほど言った衝動訓が、えっと、まず、こう、ふわふわと広がっていますと、
空間も時間もないっていう時に、バッてなんかぶつかるっていうのがあったじゃん、まず。なんだっけ、感情か。
そうだね、まあ、衝動の中にも自分を制限するっていうものがあるから、
その、要は、広がりたいという気持ちには、さっきも言った通り、広がれないかもしれないっていう可能性というか、
はいはいはいはいはい。
そういうことが含まれてるんだよね。
すでに衝動訓が生まれた時点で、周りからなんかあるとか、そういうのが迫ってくるとか、そういう不自由さっていうのはすでにあるんだ。
そうですそうです。それも、感覚には、その衝動の中には入ってる。
入ってるんだ。
両方あるんだよね。
はいはいはいはい。
じゃあ、その中で、何かにぶつかったっていう感覚はOK?
例えば、レゴにぶつかった時に、何かにぶつかったっていう感覚はOK?
ぶつかるの前に痛いとかなんじゃっていう、
ぶつかるってなった瞬間に、自分と相手、別のものの衝突っていうものが含まれちゃうじゃん。
ぶつかるという言葉の中に。
ぶつかる。うんうんうん。あー、そっか。
衝動の理解
そう。だから、まだそこまで分かれてないんだよね。
あー。あー、おー、なるほどね。
だいぶ、ごめんね。だいぶ、多分同じ話になってるかもしれないけど、今の感覚はちょっと、今回なかったところが。
そうだよね。多分これまでの話だと。
そっかそっか。ぶつかったじゃなくて、だから、やっぱ想像、頭に想像するときにレゴを踏んで痛いって多分想像になってるから、
ぶつかったのか踏んだ、痛いみたいな順番なんだけど、衝動くんからすると、
痛っ!なんだ、まず。
そう、痛っ!そう、なんじゃ、なんだこれ、なんだだね、これって言った瞬間に、それも外部を想定しちゃうから、これとも言えない。
うん、痛っ!だね。で。
そうそうそう、あくまでも自分の感情としてね。
で、そっから反省が始まりますっていうときに。
そうです。
よくよく見ると、その衝動くんはすでに自分の足を認定していると仮定して、その話だけども、
足に対してはもう話は終わってますっていう前提で、足元になんかがあるっていうのはOKなんだよね。
ここまでは、反省まで行くとOK。
OKなんだね、反省としては。
はいはいはい、なんかあるぞ。
で、そうか、これを、自分の足で、認定済みのね、認定済みの自分の足で、踏んだから痛かったのだ、までもOK。
今進んでいくね。
うん、OK。
で、たぶんその人間だから反省で足を上げちゃってるんだけども、
あ、これ踏んで痛かったから自分は足を上げたのだ。
うん。
で、これってなんだろう、もうOK。
うん。
えっと、今でいくと、対象概念と目的概念が混ざっちゃったんだけど、
混ざるんだ。
混ざった。
あー。
要は対象概念っていうのは外に外にっていう風に行くものだから、
衝動と反省の過程
足を反省的に上げるっていうのは逆に目的概念、要は上げないと痛いままだ、だから上げようっていう、そっちになるんだよね。
うんうんうん。
だから、この反省っていう言葉で言うと、何か痛いってことが起きました。
で、これは足で踏んだようです。
うん。
まあ船がぶつかったようです。
で、このぶつかったものがあります。
うん。
それはよくよく見るとレゴというものでした。
っていう風に対象を理解していくっていう感じかな。
なるほどなるほど。
それはレゴっていうのは、そこにレゴって書いてたからねって話でOKってことだね、ここで言うと。
だからそれが石であったら、これは石だな、でいいっていう。
うん。
で、この石も知らない状態みたいなところを、そこまで厳密には一旦想定しなくていい?
まあそうだね、もしかしたら厳密にはフィフティはしてるかもしれないけれども、そこまでいくとそもそも知識をどう身につけるのかとか、いろんな話になっちゃうので、
一旦は知識というものはあるというか、反省からそれを導けるっていう前提がわかりやすいと思う。
うん、OKOKOK。
うんうん。
じゃないと話が本当に進まないっていうところだね。
そうだね。
失礼しました、OKOK。
いやいや、でもやっぱりそういうぐらい考えたくなるというか、考えないとわかんないよねっていうふうに思ってくれるのは嬉しい。
じゃあこれちょっと戻るけど、さっきハヤトがまずは対象概念だけか。
うん。
合ってる?
合ってるよ、対象概念。要は外にものがあるというふうな反省だね。
の話をしてくれたよね、今レゴの話で。これはレゴだ、それで対象概念はOKだね、レゴだ。
OK、レゴだってことがわかりました。
目的概念で言うと、さっきの足を離しました、みたいなところだったり、あとはどういう話になるの、もう次はこれ踏まないようにしようかとか、そういう話になってくるってこと?
そうそうそう。もっと言うと、例えば部屋の中から玄関まで行きたいですっていう目的があるとしましょうと。
っていうときに目的が妨げられたってことがまず起こるわけだよね。
痛いってことによって、このままで歩いていけないと。
なので足を上げてまず痛みをなくしましょうとか、このままで歩けないから別の道に足を踏み下ろしましょうとか、そういうことが出てくるって感じかな。
レゴを片付けましょうもOK。
OK、OK。歩きやすいようにレゴを片付けましょうもOK。
なるほどなるほど。確かに衝動レベルで想定すると確かに難しいから、今の目的だよね。
衝動空は無理に広がりたいみたいな、けど何かに妨げられるみたいな、めっちゃ抽象的だけど、今のリビングから玄関に行きたいけどレゴに妨げられるぐらいの方がわかりやすいかもね、確かに。
そうなんだよね、そうそうそう。
例えばね、これは僕が台本作ったときに思った例なんだけど、ダイエットとかあるじゃないですか。
はいはいはい。
痩せたいみたいな、って時に目的なんですよね、衝動。ある種痩せたいという衝動があります。
例えばそこでケーキを見てしまった、要は何か美味しそうって思ってしまった。
美味しそうって思ったのは、とてもクリームの乗ってる甘いケーキだったと。
そこに対して、当然食べちゃうと目的から外れてしまうんだよね。
でも食べたいっていう妨げが出てくるという風にして、ダイエットってものにはいろんな矛盾というか、両方の気持ちがあるよねみたいな。
そんな感覚に例えられる。近いとは言わないけれども、例えて言うとちょっとイメージしやすいかも。
確かに確かに。さっきのレゴより周りに差し迫ってくる感じがするよね、確かに。
そうそうそうそう。こんなに痩せたいのに、なんでケーキ食べたいと思っちゃうんだろうみたいなのあるじゃない。
それも衝動的に言うと、こんなに広がりたいのに、なんでこんなに限定されちゃうんだろうみたいなことがあるんだよね。
はいはいはい、面白いね。
そうそうそう。でも衝動の場合は、フィフティに言わせると、それはもう両方あった衝動だから、
広がりたいという努力、気持ちがあるということは、やっぱり何かに制限されてしまうっていう、やっぱりそういうものがある。
衝動も出てくるんだけど、それってどっちか片方だけじゃないし、
その攻めき合いの中でこそ、やっぱり人間というものは生きているよねとか、ある種の行動をしてるねっていうふうな、そういうふうな発想があるんだよね。
なるほど、はいはい。なんか深いね、確かに。
なんかやりたいって思うことは、整理があるからだみたいな、その表裏一体感が面白いね、確かに。
そうそうそうそう。
冒頭の話で言うと、自我が自己を立てるっていうときに、要は、立てたいと思わないと。
もっと言うと、既に立っていたら、要は自己というのは存在していたら、立てたいという意欲も当然なくなるわけだよね。
立っても立ってるじゃんっていう。
そうね。
そう、そうすると行動も起きないので、やっぱりその立てたい、立てようという行動を起こそうっていう、やっぱりそれが根前一体となった自我というもの。
はいはいはい。
だから世界が始まっていくんだっていうのが、フィフィとのすごいオリジナルな部分というか、動きがある部分なんだよね。
いやー、確かに確かに。さっきのダイエットの例は面白いっていうか、分かりやすい気がする。
あ、そうそうそうそう。
っていうような感じなので、やっぱりフィフィとの、これちょっと先取りなんだけども、定義でずっと弁償法ってあるじゃないですか。
AとBがあって矛盾してCになるっていう話なんだけど、実はこれの根っこがフィフィにあるよねっていう話があるんですよ。
へー、そうなの?ほうほうほう。
今みたいに広がりたいっていう努力・欲望と、それでも制限されるっていう非限定性。
これって矛盾なんだよね。
あー、はいはいはい。
広がりたいのに広がれない、限定されるけどそれを押し広げて無限に広がりたいっていう、そのある種動きがある中で人間っていうのはいろんな物事を、ある種飢餓として作り出していくというか、認識していくって話なんだけど、
それがある種、人間の根源的に抱える矛盾なんですよ。
世界の形成
おー、はいはいはい。
でもこの矛盾がないと、そもそも人は事故を立てようとも思わないから、人間っていうのはある種、そういうものを抱えたような存在だっていうふうに人間化になってくるんだよね。
おー、面白いし、確かにそこを土台に据えられると、またそこを突き崩すのは結構難しいかもね。
そうそうそうそう。
例えば人間はもともと存在してるんだとかっていうときに、でもじゃあなんで存在し続けるっていうことを求めるのかとか、
やっぱりそういう、なんだろうな、その存在っていう、その止まったような人間化で本当にいいんだっていうことがやっぱりいろいろ出てくるんだよね。
確かに確かに。理性みたいな話も交えてくると、「じゃあ人間と動物の違いは?」とか、「虫と人間の違いは?」みたいな話とかになってきちゃいそうだもんね。
存在してるじゃん、みたいなね。
本当にそうなんだよね。
不意地で言うと、それは人間にはその反省する力があって、ちゃんと、いわゆる外にあるものと事故っていうものを分けて考えて、
それを関係性を持たせ合えるっていう、その能力によって人間は人間なんだみたいなことが言いやすいんだよね。
そうだね。うんうんうん。確かに確かに。
その個性みたいなものの作り方の違いでもね、人間と動物とか虫とかそれぞれのね。
そうそうそうそう。
虫とかでも何かぶつかったら、「いて!」みたいなとか、「困った!」みたいなぐらいはあるかもしれないけど、
でもやっぱりそれが壁にぶつかったんだとか、
なので、そのぐらいの右に行くと空間があるからそっちに行けば出られるとかっていうことまでは絶対考えてないはずなんだよね。
そうだよね。団子虫とかもなんか順番に曲がるんでしょうなって。
そうそうそうそう。右に行って左に行ってみたいなとかね。あと高い方に絶対行くとか。
へー、そうなんだ。
点灯虫かな、それは。
なんか、昔デザインたちはピタゴラスイッチやってたんですけど。
はいはいはいはい。
そうそう。っていうぐらいに、あるいはそれはもう本当に本能とか自然か、この文脈で言うと。
自然の動きだから逆に言うと自由がないんだよね。
いわゆる、高い方に行き続ける虫とか、高高に行き続ける団子虫には自由がないです。
でも人間には、そういう目的に対して、
例えば板とか団地あったときに、これがレコーダーっていうふうに特定をした後に、
これを片付けようとか、そのままにして先に行っちゃおうとかっていうふうに、
自分の行動をそういうふうに決めれるというか。
考えられる。それはやっぱり自由があるよね、っていうぐらいの感じなんだよね。
はいはい。まあ確かにね、セミとかもね、もっと大きく鳴いてやろうみたいなさ。
もうちょっと綺麗に鳴いてやろうみたいなのは難しそうだもんね、わかんないけどね。
おそらくないだろうね。
個体で決まってそうだよね、なんかね。
ね、ね。っていうのがあるんで、やっぱりそれは自由では多分ないんだよね。
逆に言うと、自由があるからこそ人間はやっぱりもっと広がろうとか、
やっぱりそういう衝動に、やっぱりよくも悪くも突きよがされてしまう。
はいはいはいはい。
っていうふうに、そういう矛盾を抱え込んだ存在なんだよねっていうようなことが、
ある種フィクシティの人間感みたいになっていくんですよね。
なので、今日で言うとね、本当にフィクシティのザイゼロ法ですよ。
その衝動法っていう、自我が自己を立てるよりもちょっと前だよね。
で、「はい」とか、「よう」っていうところから始まって、ここから感情だよね。
何かにやっぱり制限されてる。
ぶつかったとかいいとか、ぶつかったらダメってさっき言ったのね。
痛てんとかなんちゃっていうところがあって、
それを反省すると、「これは何かにぶつかったんだ」とか、「これはレゴだ」とか、
そういうことがいろいろ整理されていって、
それによっていわゆるものと、自分はこうするっていう外と内っていうのが出てきて、
それによってやっと世界が現れてきます。
自分はレゴを踏んだっていう、それがやっと説明できる段階にきますよっていう、
そのステップをちょっとこまめにやらせていただいたっていう感じですね。
なるほど。
ここまできてやっと世界、僕ら普段生きてる世界まで揃いついたっていう感じだね。
ってことはね、はいはいはい。
どうです?前回の自我が自己を立てる。
あるいはね、事故と被害が分かれるみたいな話をしたところからここまできましたけど、どうですか?
そうね、前回のイメージとは全然違くなって。
フィヒテの世界観の探求
なんで被害って迫ってくるの?みたいなものはあったんだけれども、
このフィフテの世界観でいうと、もうそういうもんだっていう話なんだね、そこに関しては。
そうです。そしたら衝動が、第0話目がそうだからって感じだね。
そもそもそういう中で、自我が自己を定義してるからもうそうなってんだよっていう話だし、
確かに、じゃあ自分とは何かを規定しなきゃいけないっていう差し迫った世界観だっていう。
それがなければそもそも自己を定義する必要もないし、みたいな感覚は確かに言われればそうだし、
そこを、その根本を否定する?いや、そうじゃないと、人の理性とか個性はそういうもんじゃないっていうのは、なかなか骨が折れそうだぞっていうところまで、確かにわかった気がするね。
よかったです。そこまでが見えてくれれば、だいぶフィフテの世界観というか、考えに馴染みつつあるかなと思うので。
これを題にいろいろ話せますよねって感じなんだけれども、次回何を取り上げるかっていうと、
レゴとかダイエットのケーキとかってそういうふうなものを我々は反省によって取られたじゃないですか。
これってあくまでも自分とものの世界なんだよね、まだ。
じゃあここから何が起こるかっていうと、当然自分と他人、要は同じ人っていうふうな人と人の関係性が出てくるじゃないですか。
いやー、そうだよね。まだ人とぶつかってないなって確かに思った。
ぶつかってないですね。そういうときに、このフィフテの考え方からすると、他者とか他人ってどういうことなの?みたいな。
これをちょっとね、次取り上げてみたいなというふうに思ってますという感じなんだよね。
そうなんだね。やっぱり他人っていうのは、こういうことを考えちゃう人たちにとってはかなり重要なテーマなんだね。
そうなんだよね。サイトルの時にまた思うんだけれども、どうしても自分という存在から始まって世界を見に行く。
フィフテというと自我だよね。圧倒的な自我っていうものからスタートしてるから、やっぱりそこに他人とか他者、もっと言うと、これは先取りだけど、要は他の自己。
自分以外の自己っていうのはどう捉えるかってやっぱりすごい難しい問題なんだよね。
そうだよね。どの世界線に存在してるんだろうみたいな感じになっちゃうよね。
そうそうそう。フィフテは結構そこは穏やかというか、さっき兄貴が言ったときに、他のものに差し迫ってくるっていう言い方をしてくれたから、
他者っていうのも、まさに自分を否定するとか、自分を制限する、抑え込むものだみたいな感覚っぽい感じもするんだけど、そうではなかったりするんだよね。
そのあたりの雰囲気感も埋めながら次回、ある種フィクションのステップを経て仕上がった世界において、他人とか他者って一体どんな存在なのっていうふうな、そこをお伝えしていきたいなと思ってます。
わかりました。次回、この世界観での他者について見ていくというところで楽しんでいきたいと思います。では、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。