カントの哲学と経験の理解
はい、それ哲ラジオ、今回も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回も引き続きカントやっていくというところでした。
はい。前回ですね、カントがやったのって、結局は世界とは何かじゃなくて、世界をどういうふうに知るのかとか、人間がそこにどう関わるのかっていうことですよと。
そこに対して、アプリ折とか総合版とか、ちょっとややこしい言葉を使い始めたんですけれども、カントがどう考えたのかっていうことをお伝えしたいかなと思います。
その中に出てきた言葉として、感性と誤性っていうのがあって、この二つを組み合わせながら僕らっていうのは世界を経験していくよね。
人間の働きとしての枠組みっていうものがあって、それが数とか因果性とか、そういうふうな世界を取り込むための仕組みっていうのが既にあるんだよ。
それって何があるんだろうねっていうところが、カントの発見だよっていうことまでお伝えしたと思うんですよね。
結構何気も悩みながらだとは思うんですけれども、前回はもうちょっと引き継ぐ形で、そもそも経験ってどんなふうになりだすのっていう話。
これちょっと前回も増えたところではあるんだけれども、そこでもう少し丁寧にお伝えしたいなというふうに思っておりますよ。
前回その辺OKでしょって終わるかと思ったからね。
そうだよね。ごめんね。ちょっとだいぶね、いろいろ話が広がった部分は言っちゃったんですけど、もうちょっとゆっくり進んでいこうと思いますよ。
感性と語性の相互作用
それに関しては大きなキーワードが3つあって、それが前回言った感性と語性っていう話と、もう一個等格っていう話があって。
等格。
等格は統合するの等に感覚の格っていうふうな日本語を作ってまして、この等格っていうものをキーワードとして一つ加えさせてくださいと。
っていう感じなんだけど、これ前回の復習にもなっていくんですけれども、大前提で関東っていうのは経験っていうものを、
例えば前回と石を見るとか石を触るとかっていう話だと思うんですけど、石を触るっていう経験がダイレクトにあるんじゃなくて、
丸々を触る、触れるっていうものを感性が素材としてすぐから受け取って、それを語性がいろいろ整理することで、
これは石なんだとか、これは今自分の目玉にあるんだとか、そういうことを経験として作り上げていくよみたいな、そういうふうな話をさせていただいたんですよね。
うん、そうだね。はいはいはいはい。
もうちょっと言うと、感性ってまさに光とか音とか手触り、五感で感じるものとしたときに、
例えば語性っていうものがいろいろ加えて、これはお日様の光だねとか、あるいはお日様が落ちてきて暗くなったねとか、
そういうことって全部、この感性と語性っていうものが加わって行われています。僕らとして感じることができますよと。
ところなんだけれども、感性はいろいろ受け取るから、それはいいじゃないというか、まるで自然に行われることだと思うんだけれども、
語性ってどんなふうにその素材を整理しろっていうことが問題になるわけなんですよね。
まあ、確かにそうだね。
好き勝手に、「○○は石だ。」とか、「これはお日様の光なのか?」っていうときに、
それってどんな働きなのとか、何がそこで起きているのっていうことを、やっぱりカントは明らかにしたくなるんですよ。
まあ、確かにそこが大事だよね。そこないと、好き勝手に何でも作れちゃうもんね、それ。
そうそうそうそう。
議論として。
そうなんです。で、ここに実はカテゴリーっていうような考え方をカントは持っていて、
すごいざっくり言うと、12個のカテゴリーってもので、この語性っていうのが初アイドルだっていうことを言うんですよね。
おー、はいはいはい。
で、これに関しては結構賛否両論があって、なんでその12なんだよとか、本当にそれだけとかってのはあるんですけど、
一応カントからすると、4つのグループがあって、それぞれ3つあって、4×3で12個っていうふうに説明しています。
それもただ単純に自分が考えたというだけじゃなくて、もちろん過去のアリストセレスだったりとか、
もちろん論理学のこととかも考えながらやってるんだけれども、
でもね、ある種簡単にお伝えすると、
例えばまず1個目のグループが量っていうものがあって、
これはいわゆる数だよね、1とか数とかあと全体であるとか、
っていうふうなカテゴリーがあります、グループがありますと。
で、2つ目のグループが質で、質って言うと量と質って言うとなんかややこしかったんだけど、いわゆる存在の強度みたいな話で、
多分これヒュームの印象とかに近いんだけれども、
壮烈な印象を持つものはやっぱ存在性が強くって、
それが薄いものは存在性が良い、ゼロのものは存在しないとかね、
っていうふうに、存在するしないっていうのも量に比較されますっていうふうに言ってます。
なるほど、はいはいはい。
あと3つ目のグループが関係性っていう話で、
ここに実は因果性とか相互性とか、要は因果って何かと何かの関係を示す言葉じゃないですか。
で、前後みたいな話で。
あとは相互性っていうのも相互作用っていうぐらいなので、何かと何かがそれこそは関係があるとかないとか、
っていうこともある種、互性の働きの中に含まれるっていうふうに言ってたよね。
じゃあ前回言っちゃったヒウムの因果性っていうのはここに入ってくるんだ。
そうそう、関係性グループの中にあるカテゴリーって感じ。
はいはい、人間がもともと持ってる互性の一つですよって話なんだね。
そうですそうですそうです。
互性の働きの一つかな、互性っていうのは一つっていうか、そういう働きなので。
4つ目がね、要素っていう、ちょっとこれ分かりにくいだいぶ言葉なんですけど、
これは何て言うのかな、物事が偶然起きるとか必然的に起きるとかって、偶然はカントの中にはないんだけど、
そういう物事の起きる差し支えらしさとか割合みたいな話。
花って咲くこともあれば咲かないこともあるじゃないですか。
そういう時に、この花が咲くっていうのは経験なんだけれども、
この花は咲くだろうっていうふうに考えることとか、
そういうふうに花には咲くという力があるっていうことを理解する能力っていうのは人間の側にあるよねと。
ほー、ちょっと他に分かりづらい。
そう、分かりづらい。でもそうじゃないと、要は花が成長していくときに一個一個じゃあ種で、束でちょっと伸びてとかっていう、
一個一個全部認識しなきゃいけないっていうか、
それを何だろうな、説明しちゃいけないじゃないですか。
っていう時に、その種があって芽が出て花が咲くっていう、そういう変化の可能性っていうものって、
僕らは何だろうな、人間の世界を理解する形としてもともと持ってるよねっていうふうに考えるんだよね。
だから言うと、例えば花に水をあげたら、種に水をあげたら花が咲く。因果だよね。
種にはそもそも花が咲くという可能性がある。
そういうふうな変化する属性を持っているみたいなこと?
はいはいはい、なるほど。
まあこの様相って4つ目のカテゴリーですよっていう感じかな。
なるほど、オッケーそうです。
やっぱり厳密性はやっぱり難しいし、さっきも言ったように、本当にこの十二神話とかっていろいろあるんだけれども、
ざっくりこういうカテゴリー、しかも数え上げられるぐらいのカテゴリーによって、
僕らはこの世界っていうものを知ることができるんだっていうふうにカントは考えるんですよね。
うん、なるほど。
で、かつこのカテゴリーっていうものは、生きていて何かを経験することで捉えられていくものじゃなくて、
その経験を作り出す前提としてアプリを、ある種人間に生まれついて備わっているものだというふうに言うんだよね。
はいはい、なるほど。
だから、僕がデカルトの正徳観念っていうのを聞いた話とかあったと思うんだけど、
これは観念ではないんだけれども、カントからすると生まれ持ってとか、人間の理性にもともと備わっているものだっていうふうに言うんだよね。
ふんふんふんふん。
そういう意味ではちょっとデカルトっぽさがここにあります。
なるほどね、どの部分を正徳的なのかっていう話だね。
そうそうそうそう。
こんな感じなんだよね。
なので、例えばよくあるリンゴを見ましょうみたいな経験ね。
これもちょっと前回の一心の話は近いんだけれども、やっぱり僕らはこのリンゴを見るってやっぱりもう経験になっちゃってるんだよね。
ふんふんふんふん。
そうじゃなくって丸々を見る。丸々が目に飛び込んでくるっていうのがまずあって。
うんうん。
これ観世ね。
はいはいはい。
で、それが例えば空間的にあるよねとか、時間的にちゃんと存在しない。
まあごめん、存在もカテゴリーだからちょっと今言葉を間違えたんだねってね。
この世界という空間的、時間的に構成された舞台の中に赤くて丸い何?丸々がありますと。
ふんふんふんふん。
っていうことをまず観世として素材として取ってくるんだよね。
しかもあれだね、ちょっとわざとわかりづらくというか、ややこしくするけど、赤くて丸いものがあり続けてるよねっていう話だよね。
しかも時間的な話を言うと。
時間的で言うと。
だし、そもそもあるっていうのもごめん、さっき言った通り存在、質の半寸だから、その瞬間にはあるとも言えてないんだよね、実は。
そっかそっか、なんかずっと感覚として受け取ってるよねぐらいの。
受け続けているが正しい、感覚として入り続けているって感じかな。
そこに対して、例えばまず量で言うとこれは1。
質で言うと確かにありありと見ている、そういう存在感があるとか。
逆に関係という意味で言うと、これは自分の目の前にある、空間的な関係だよね。
あとは様相って4つ目で言うと、ちゃんとこれは現実的に存在している必然がある。
それこそ妄想じゃないとか、騙されてないとか、そういうことも含めて、そういうカテゴリーがいろいろ当てはまっているときに、
初めてリンゴが今、私の目の前に確かにある、というような経験が生まれてくる。
僕らはそういうことを言えるよね、みたいな。
そんな風な流れがカントにはあるんだよね。
なるほど、リンゴを見るだけでもね。
いろんなカテゴリーを当てはめた結果として、初めて僕らはリンゴが今、私の目の前にあるんだっていう、
そういう経験が生じるんだってことを言うんだよね。
カントは経験というものをここまで分解して、経験以前の状況を感性と誤性を使って捉えてるんだよね。
カテゴリーの役割と重要性
そこまでが見えてくると、実はカントに有名な言葉がありまして、
どんな言葉かっていうと、内容のない思考は空虚であり、概念のない直感は盲目であるっていうふうな言葉があって、
これ、ずっと聞くと全然何言ってるのって感じなんだよね。
なんかさっき言ってそうだけどみたいな感じなんだけど。
ここまでの話でいくと結構意味が見えてきます。
内容っていうのは、いわゆる感性から得た素材だよね。
これは素材がないのに、要は誤性でステゴライズしようとしてるってことだから、
つまり、お肉も野菜もないのにフライパンと包丁だけありますみたいな、そんな感じ?
はいはいはい。
いくと、どんなにフライパン振っても料理はできないじゃないですか。
それと一緒で、内容、さっき言った素材、可能性の素材がないのに誤性だけあってもダメだし、
概念というのはまさにカテゴリーなんだけど、カテゴリーがないような素材だけを集めてくる。
これ直感なんだけど、いくと直感だけがバラバラバラバラ入ってくるんだけど、
それを組み立てられないから、世の中のことを知ることができないよねっていう意味で、
なんとやっぱり感性と誤性両方がないと、僕らは意味がある世界っていうものを捉えられないんですよっていう風な。
そういうことを、この内容のない思考がキュートであり、概念のない直感は盲目である。これまで表してるんだよね。
ほうほうほう。なるほど。はいはいはい。
うん。そしたら、なんかこうってイメージ湧くかな?これまでの話で。
カントの経験論の再構築
ああ、まあそうだね。カントが言うと、感性と誤性か。そこは両輪ですよっていうことをうまく表現してるのかな?ぐらいの感じかな。
うんうんうん。そう。でもこれはすごい皮肉でもあって、内容のない思考っていうのはいわゆるデカルトの合理論的な理性だけっていう話だし、
ほうほうほう。概念のない直感っていうのはロックヒューマンの経験論的な話だったよね。
うーん、なるほどなるほど。
ヒューマンは近くの束って言ってたぐらいで、ただ積み重なってるだけって言ってるじゃないですか。
でもカントはやっぱりそうじゃなくて、ちゃんとそれを構成して、ただの束じゃなくて、ちゃんと意味ある形に仕上げる?そういう仕組みをやらないとダメなんだぜっていうことを言うんだよね。
はー、なるほど。それはそういうことか。それぞれ経験論と合理論を表してるみたいなね。
そうそうそう、そういうことそういうこと。
やっぱり重ねて落ちて、両方を統合しちゃダメだぜっていう話をしてますよ。
ここまでで十分すごいじゃないですか。こんなことを考えすぎるんだみたいな。
だいぶ人間の経験だったり、人間がノートをどう捉えてるかっていうものが、だいぶヒュームから進んでる感じはあるもんね、すでに。
そうそうそうそう。やっぱりそこはあるんだけど、さらにカントはどんどんノートが先に行くんですよ。
例えばどういうことが、より先に進められるかっていうと、今言ったみたいに、産生がいろんな直感とか外部の情報を取り込んで、個性がカテゴライズして経験を組み立てますっていうのがいいとして、その1個1個の経験をどんなふうにつなげるんですかっていうことを考えるんだよね。
僕ら人間って、石を見た、りんごを見たっていう1個1個の経験をまさに蓄えて生きてるわけじゃなくて、その経験がつながって僕らの日常とか日々があるわけじゃないですか。
蓄えるだけじゃないっていうのは、ちゃんとつなげてるよねっていう意味で。
そうそうそうそう。もっと言うと、その経験のまとまりっていうのが、僕らが多分普段意識している自分っていう人間だし、あるいは自分が生きている世界っていうものになっていくはずなんだよね。
でも、ここまでの個性と可能性だけが話していくと、1個1個の経験は分析できるんだけど、経験同士のまとまりってことは説明できません。
あーそうだね、確かに。
そうそうそう。っていうときに、これをどういうふうにまとめるのかっていうのが、いわゆる私がお伝えした当格っていうのが在年なんですよね。
おーなるほど。
これもある種、そういう流れで質問とか出されてるって感じではあるんだけれども、めっちゃ簡単に言うと、いろんな経験っていうものを自分のものだっていうふうに捉える働き。
そういう自己意識っていうものが当格としてあるんだっていうふうに、カントは考えるんだよね。
へーどういうことだろう。
本当に言うと、自我って言っちゃってもいいんだけど、人間にはいろんな1個1個使われてた経験っていうものを、自分のものとしてまとめるっていうふうな働きがあるんだっていうことをカントは言っちゃいます。
これも実は2つに分けていて、経験的当格と純粋当格って2つがあるんですよ。
どこだって言うと、経験的当格っていうのは、例えば石は重いとかリンゴがあるっていうときに、これを私がリンゴを見たとか、私が石が重いと感じているみたいな、この私がっていうつもりですね。
これを経験的当格っていうふうに言うんですよね。
要はその都度都度生まれる自家というか、自覚の3つっていうのがあって、さっき言った1個1個の経験の話です。
この2個目の純粋当格っていうのが、あらゆる経験に先立つ。これもアプリよりなんだけど、アプリよりにどんな経験をしても、それが私の経験とか、私がやったことだとして統一されるっていう、そういうふうな根源的な構造っていうものを想定して純粋当格っていうふうに言うんですよ。
これはもうカントの考えたことだね、これは。
そう、考えたこと。
なので、これがあることによって、その経験が生まれた後に、この経験ってどこにストックせばいいんだっけ、じゃなくって、ちゃんとストックするための自我というか、私っていうものがあるよねっていう、そういうことを聞かれるんだよね。
そうなんだ。この違い、必要なんだね、これは。
そうそうそう。
これ、どの辺が違いというか、1個でいいじゃないかっていう感覚があるかな。
これが当格か、当格っていうことを2つに分けたときに、この経験的当格と純粋当格が並列で並んでるのか、それとも純粋当格っていうアプリ用になる人間の機能があって、
そこの後ではね、直列というか、その後にその経験的当格っていうものも機能しているみたいな感覚なのか、どっちなんだろうなっていう。
それでいくと、純粋当格の方がより根源的っていう感じではあるから、並列でやっぱり、より深いのが純粋当格の方っていうか。
僕ら普段生きてても、やっぱりマリオを忘れるとか、自分という感覚がなくなるみたいな瞬間ってあったりするじゃない。
その中で、自分が見てたんだとか、自分がこれを感じたんだっていうふうになる瞬間があって、それは経験的当格、自分を経験するところに近いんだけれども。
それとは別に、要は経験した後に生まれる自分じゃなくて、何かを経験する前にそもそもする自分っていうポルダというか、
いろんな経験を得るため、ストックするための場所っていうのがあるんだよっていう、そういうことを分けてるんだよね。
だからヒュームからすると、経験の束だから自我はないっていうふうな話なんだけど、そうじゃなくて、日々の経験においても自分っていうのを確かに探っていることはある。
経験的当格ってあるんだけれども、それだけだと足りなくて、いろんな経験っていうものを統一するための自分っていうものも必要で、
その日々経験する自分と、本源的にあらゆる経験をつなげる自分っていうものが2つあるよね、ということを当格っていうものを分けることで考えるんだよね。
世界の認識と理性
なるほど。これはあれはね、ちょっと意地悪かもしれないけど、カントのポジション的な部分を感じるね、これはね。
そうだね。
この純粋当格っていうのはどっちかというと今まで言ってきた合理論側の理性って感じするね。
理性の働く自我みたいな感じかな。我を思うゆえに我々の我に近いかもね。
この経験的当格の方が若干ヒューム側というか。ちょっと違うか、でもこれは。
ヒューム側というよりは、もうちょっと日々の中で感じる自分とか、私が見た時の私が見たっていう時の私っていう主語の部分っていう感じかな。
経験的当格の方が、むしろこの純粋当格を通じて出てきた自分の自我みたいな感じがするね、より。
そうだねそうだね。
なので、これがある種なんだろうな、本当にあるんですかとか、2つに分かれてるんですかとかって言うと難しいんだけれども、
カントの考え方を理解しようと思うと、確かに2つに分かれるよねとか、
2つを想定することで、いわゆる3世とか5世の働き、お互いちゃんと理解できるようになっていくのはそういうふうな仕組みになってるんだよね。
アプリ折りっていうところで1個線引いてるから。
そうそうそう。なので、カントが強調するのはどこまでいっても、やっぱりこの純粋当格っていう、要は世界を1つのまとまりとして経験するっていうことも、
内側から外に出ようとした時に、要は世界っていうものがそもそもあるわけじゃないっていうところから始まってるじゃないですか。
なので、僕らは世界というものを作り上げなきゃいけないんだけれども、
3世とかで考えていくと、どうしても情報ってバラバラに入ってくるから、
1個1個まとめようと思っても、5世で頑張って経験経験経験って作っていっても、やっぱりブロックが積み上がっていくだけなんだよね。
だからそのブロック、素材からブロックを作りました。で、そのブロックをちゃんと家の形にするとか、
何かそういうまとまりのある形にするための仕組みっていうのが、純粋トワークだよっていうのを感じていくと、ちょっとイメージ分けやすいかもね。
まあ、突然のマイクラ的な話になった。
そうそうそうそう。
確かに確かに。そこは必要だよね。だから、さっきハヤトも言ってたデカルトDはね、経験より前に存在するものは純粋等覚であると。
それがあって、その経験的等覚としての自我だよね。
そうだね。
自分で自覚している自我的な感覚みたいな。そこは確かに必要なのかもしれないね。
そうだね。言いながら思い出したんだけれども、ヒューマンもデカルトの我を批判して、我も経験だみたいな話をしたっていうのをヒューマンが言ったと思うんですよ。
それをたぶん踏まえながら、カントはその2つがあるんだと。経験的等覚は確かに否定されるかもしれないけど、純粋等覚はあるよみたいなことで乗り越えていったんだろうね。
っていうのがここで言うということです。
なので、カントが提示している世界観っていうのは、少なくとも人が世界を認識するとか理解するっていう時には、
やっぱり何か自分の中でそれを統一するための認識主体というか、確固たるものがいるよねっていうようなことを考えるんだよね。
やっぱり赤いリンゴを見た時に丸々でしか最初はわかんないと。
しかもそれ赤いとか丸いとか甘いとか、いろんな情報が入ってきたり経験したりする時に、
それはバラバラに置いておくんじゃなくて、ちゃんと見ている1つの主体としての自分とか、
経験が成り立っている場としての私とか我みたいなものがどうしても必要になってくる。
なのでここでヒュームをある種一旦捨てた自我っていうものが、やっぱりもう一回大事になってくるっていうリバイバルもあるんだよね。
そうだね。はいはいはい。
っていうふうな感じで、この経験論からカントリーっていうところのダイナミズムの感じでいただけるんじゃないかと思うんだけども、
ここで考えると、僕が日々生きてるっていう、ある種当たり前に生きてるよねって言うんですけども、
これはカントリーによると感性とか個性とか純粋等格、それが連動することで初めて僕らは世界を経験できるし、
世界っていうものに対して働きかけることができる。
ただやっぱり世界っていうのがあって自動的に受け取ってるんじゃなくて、
ちゃんと理性っていうものを使って世界っていうものを作り上げてるんだっていうふうな、
そういうふうな世界観っていうものをカントは提示しつくしたっていう感じなんだよね。
っていうのがカントのある種やった純粋理性観でやったことって感じなんですけど。
わー、はいはいはい。そうだね。
どうでしょう。
ほんとそうだね。大陸合理論をデカルト的に包み込んだロックヒュームを、
やっぱり本当にさらに包み込んでる感じするよね。ただ単に反対の意見を言ってるとか、
大陸合理論の理性、やっぱり理性だって言ってるわけでもなく、
包み込んでる感じがするね。
なので、やっぱりそのためにはいろんな道具が必要だからこそ、
母性とか産性とかアプリ寄りとかってやっぱり男が出てくるから難しいってのはあるんだけれども。
ある程度ね、もちろんこれが全部ではないって何度も繰り返してお伝えしたいんですけど、
なんとなくちゃんと出せることをやったんだっていうところまでは、
みんなで育ってこれたんじゃないかって思ってるんですよね。
はいはい。いやー、そうだね。
で、ちょっと今日の最後っていう意味でいくと、もう一個ね、実は言葉としては使ってるけど、
ちゃんと説明できないものがあって、それがもの自体っていうやつ。
あー、はいはいはいはい。
時々言うじゃないですか、もの自体とかものそのものみたいなさ。
おー、そうだね、結構言うよね。
なんとなくカントがそうそう言ってるよねとかって言うんだけど、
でも兄貴は僕の中でも、じゃあもの自体が何って言われたら、正直わかんないと思うんですよ。
そうね、うんうんうん。
っていうのをここまでっていうと実はちゃんと理解できるなと思って、
今日最後にこの話をしたいと思ってます。
へー、あ、そうなんだ。ほうほうほう。
で、どういうことかっていうと、これもちょっと繰り返しになるんですけれども、
カントの知識の限界
カントに言わせると、僕らが知ることができる世界っていうのって、
今でも賛成によって捉えられるとか、
不正によってカテゴライズできるものじゃないですか。
で、そのときに逆に言うと、賛成で捉えられないもの、
不正でカテゴライズできないものっていうのが人間には知ることができませんっていうのが、
カントのロジックから出てくるんだよね。
あー、なるほどだし、カントもそう考えてる。
考えてる、うん。
はいはいはいはい。
それが前回言ったような限界を引くとか、線を引くっていう話なんだけれども、
つまり、僕らってさっき言ったように丸々っていうものを見たときに、
これは例えばリンゴだとか石だっていうものを後から構成するって言ってたじゃないですか。
その丸々っていうものは、ある種ぼんやりでは捉えられてるけれども、
その丸々が何かっていうことを特定することはやっぱりできないんだよね。
つまりこれが、ある種カントから言ったもの自体って話なんだけど、
カントはそのもの自体っていうものがあるんです。
ものそのものっていうものが捉えられないっていうよりは、
普段人間ってその感性とか個性を使って世の中を捉えているから、
その枠をはみ出すものがどうしてもあって、
それを説明するために、
もの自体っていう概念を後から導入してるっていうふうな発想なんだよね。
へー、あ、そうなんだ。
そう。
ほうほうほう。
物自体と現象
つまり僕らは見ているものは、ある種現象現れに過ぎませんと。
うんうんうん。
3世と5世作り上げてるものだから。
うん。
でもその現象だけだとしたときに、
現象には何かそれを生み出してるはずの何かしかがあるよねと。
うんうんうん。
何もないところから現象を生み出してるわけじゃないから、人間は。
うん。
そのときに何かがある。
それが何かがわかんないから、
もの自体っていう言葉をつけて、一旦置いときましょうっていうのが発想なんだよね。
ふーんふーんふーんふーん。
うん。
これわかるかな、違いというか、なんだろう。
内側から外へっていうのにすごくつながってるんだけど。
はいはい。
今の話聞いて思ったのが、
うん。
もの自体っていうふうにうちらが表現する場合は、
どっちかというとイメージとしては大陸合理論側的なというか、
はいはい。
世界にものが先に存在しているけど何かわかんない状態みたいな。
うんうんうんうん。
いうふうに捉えてたんだけれども、
うん。
今の話を踏まえると全然違う感じがするよね。
あ、そうそうそう。
うん。
これは実はややこしくて、
そのもの自体っていうのは、まさに兄貴言う通り、実在するもの、いわば世界っていうものがあって、
それは人間には及ばないもの自体なんだっていうふうに捉えるのか、
うん。
あくまでも、そうじゃなくて、
まさにこれも関連論、実は関東ってドイツ関連論とかっていうふうにもつながってくるんだけど、
うんうん。
あくまでも理論上表とされるもの、
うんうんうん。
で、別に実在としてはないんだって捉えるのかによって、
うん。
全然関東の解釈ってやっぱ違ってくるんだよね。
はいはいはいはいはい。
うん。で、ちょっと僕もそこまで踏み越えてないんだけれども、
うん。
なんか関東ってそこを厳密に定義してたわけじゃないらしく、
あーはーはーはー。
そう、やっぱどう解釈するかによっても、
結構どんな哲学がその後生まれていくかに、
うん。
結構ね、影響が与えてるらしいんですよね。
へー、あーそうなんだね。
そうそうそう。
だからその関東が言うそのもの自体を、
うん。
関東がどう捉えていたかっていうのは結構解釈の余地があるっていう話なんですね。
そうだねそうだね。
うんうん。
はいはい。今ハヤトが言った話で言うと、
うん。
前回、今回でハヤトが話してくれた、
うん。
人間の物事をどう捉えるかとか、
うん。
その存在をどう捉えるかみたいなに経験するか、
うん。
っていう話から行くと、
うん。
基本的にはその、いろんな物事が浮かび上がってくるはずで、
うんうんうん。
さっきの個性、その感性と個性を使うと、いろんなものが見えてくるんだけれども、
うん。
その限界ではね、そこから、
うん。
降り落とされて人間が、その認識そもそもしていないもの、
うん。
も、あるはずだと。
で、それをどう捉えるかっていう時に仕方がないから物自体っていう風にそれを、
そう表現するとか、
うん。
そういう意味の余白的な感覚なのか、
そうだね。
もしくはさっきうちらが言ったような、
もう、
うん。
世の中全てが物自体である、
うん。
で、それを人間がただ捉えてるだけですっていう風に捉えるのと、
全然違う、話が違くなってくるってことなんだね。
そう。全然違う。
うん。
うんうんうんうん。
そう。なので、結構ね、やっぱ僕らはもうさ、物そのものとかっていう、
ちょっとなんか実在的にあるものって捉えちゃうんだけれども、
捉えちゃう、うん。
そう。でも実はカントはそこまでも言ってないというか、
そういう規定的なことは言ってないんだよね。
へー、あ、そうなんだね。
うんうんうん。
わー、これは難しいね。そっかそっか。
そう。
うん。
だからさっきの統学とかもそうなんだけれども、
カントって、なんだろう、その、もちろん日常的な感覚から、
いや因果性ってあるよねみたいなところももちろんあるんだけれども、
うん。
やっぱり自分のロジックを通すときに、こういう概念がやっぱ必要だよねとか、
うん。
こういうところも、やっぱ名付けておいて、
ちゃんと説明していこうねっていう感じのことをやっぱりやっていくみたいなんですよね。
はいはいはい。
うん。
だからこそ統学もその経験的統学と純粋統計に分けるとか、
うん。
物自体っていうものも導入して、
自分の考えてますよっていうことをちゃんとつなげていくみたいな。
あー、はいはいはいはい。
うんうん。そういうふうなやっぱり説明をしていきます。
うんうんうん。
だからこそ逆に言うと、そこ考えられてないじゃんとか、
うん。
なんだろうな。
あの、そこ、なんだろ、抜き応じられるっていうことがやっぱなくって、
世界を知るための理性
もちろん批判とかはできるんだけれども、
確かに考え尽くされてるねみたいな。
うんうんうんうんうん。
形の意味で、関東哲学ではその体系があるとか、
うん。
きちんとそこで語り尽くしてるっていうふうなことになっていくんだよね。
はいはいはい。まあそうだよね。
うん。
物自体っていうものがあるとすると、さっきのその合成のカテゴリーだよね。
そこはやっぱりちゃんと厳密にしないとねっていう重要性が増してくるから、
まあ、そうそうそう。
そういう意味でのそこへの批判っていうのは確かにあるかもしれないけれども、
うんうんうん。
とはいえ関東の手のひらの上だよねみたいな話はね。
そうそうそう。
作った土俵の上だよねっていう感じだよね。
そうですそうです。
うん。
カテゴリーを聖地にしようっていう話は、やっぱりカテゴリーがそもそも大事だとかあるっていうことを前提にしてるからね。
うんうんうん。
うん。
で、こんな感じでやっぱり関東っていう人は、
前回もお話しした人間の能力、自性とか、今回は個性と言いました。
個性とか感性と言いましたけど、それにちゃんと線を引くと。
うん。
で、限界を引いて、ここまで現象もここまでは見えるけど、その先にあるかもしれないもの自体っていうものが、
どんなに頑張っても人間って経験はできないよねと。
理解できないっていうことをちゃんと引くんだよね。
うんうんうん。
で、それはすごく慎重だし、やっぱり誠実。
やっぱり人間は全てを理解し尽くせるとか、あるいは経験というものだけで全部説明できるっていうことじゃなくて、
ちゃんと両方大事だし、両方を最大限に実施したとしても、ここから先は無理だみたいな。
うんうんうん。
そういうことをちゃんと言うんだよね。
あー、はいはい。なるほど。
あとは、これはちょっと受け取り方次第だけども、別にやりたければその先を考えてもいいよと。
別に。
うんうんうんうん。
自分はここに線を引いてるけど、その先は無いとも言ってないよみたいな。
うんうんうん。
そういうふうな感じで自分の哲学っていうのを世に出していくんだよね。
わー、なるほど。はいはい。
本当にあれだね、前回話した視点の違いみたいな感じが本当に感じるね。
うんうんうんうん。
そのRPGの第三者的な、上から見た神の視点なのか、自分の一人称の自分の目から見てる一人称視点なのかっていう話で、
かなり一人称視点の方の話をカントはしてる感じがするね。
まだ見ぬものはあるかもしれないけども、自分はこうやったものを投入してるんだとか、そういう感じがすごいするね。
そうだね、そうそう。
それがカントっていう個人だけじゃなくて、少なくとも一人一人が考えようとした時とか、いろんな人が私として考えた時には結構当てはまるよねっていう。
そういうことをやっぱりやってくれるんだよね。
うんうんうんうん。
で、例えばね、その先であるものっていう話、何よっていうところもあって、例えばさ、世界を知ろうって言った時に、
僕たちはリンゴとか石っていう自然にあるものだけじゃなくてさ、社会とかあるいは道徳的なところで、例えば挨拶はするべきなのかとか、そういうことについても考えたりするわけじゃない?
はいはいはい。
っていう時に、このべきっていう感覚って、まるして因果性とか自在性とかっていう、その、個性のカテゴリーが出てこないんですよ。
へー、あ、そうなんだ。
挨拶をすべきかっていうことって、人間の個性そのものにもともとあるかっていうと、たぶんないんだよね。
へー、そうなんだね。
うんうん。で、その時に、でもさ、やっぱ誰かが親切にしてるのを見て、あれはすごくいいことだねとか、元気な挨拶って素敵だよねとかって思うことがある。
うんうんうん。
これもやっぱ経験じゃない?
うん。
っていう時に、でもこの挨拶って気持ちいいよねっていう経験って、反省度、個性だけからだと、なんでそれはいいのかっていうのがやっぱり出てこないんですよ。
うーん、そうなんだ。
うん。で、いう時に、でもふんとここで考えるんですけど、とはいえそれも、なんだかやっぱ人間の理性の働きとか、そういう能力が出てるよねと。
うんうんうん。
でもそれも経験だけじゃなくて、ちゃんと人間の働きがあるはずだから、それを考えようっていう風にするんだよね。
つまり、世界を知るっていう、ただその理解するというだけの働きじゃなくて、自分が世界を知った上でどう行動すべきなのかとか、どういう風に振る舞うのが良いのかっていう、そういうことをちゃんと理解していきましょうっていうことまで勘と話を進めていくんですよ。
うーん、なるほど。はいはいはいはい。
カントの理性の考察
これが前回言った地上位の意志とか意欲の部分で、今回と前回では知る力としての純粋理性っていうのを扱ったんだけれども、次回くらいかな、まさに意欲とか、まさに行う力としての実践理性っていうものを取り上げるんだよね。
あー、はいはいはい、なるほど。
これがまさに2つ目の実践理性批判っていうところで書かれてる実践理性って話なんですよ。同じ理性なんだけど、その知るってことに結びつく純粋理性と、行う意欲とかに結びつく実践理性ってことを分けてるんだよね。
いやー、なるほど。これ勝手な解釈だけれども。ここまでの話は、人間とはこういうふうな構造を持っているみたいな話で、一般的な話を。
世界を知るにあたってこういう構造を持っているんだな。
っていう話だったと思うんだけど、ここからはとはいえ、ここの人間の振る舞い結構違うじゃん、みたいな。そこの話に踏み込んでいくような感覚があるね。
それもあるし、もっと言うと、世界を知るだけで人間って生きてなくって、やっぱり社会とか人と関わるという時に、いろんなこれをしたほうがいいとか、これはしないほうがいいとか、まさに道徳だよね、的なことってあるっていう時に、それは純粋理性だけじゃ説明できなかったんだよね。
なので、その純粋理性以外の、でも理性の働きとして、例えばそれ道徳とか、そういったものをどう説明しますか。それは個人の話だけじゃなくって、国もそうだし、あるいは関東って実はあれなんですよ、人類一般みたいな発想もしてる人なんですよね。
人類一般?
うん。
ほいほいほい。
関東の中に永遠平穏のためにっていうふうな本があって、その中にいわゆる国際的な平和を維持するためのスパンというか、そういうものが必要だっていうことを言ってて、これが今の国連の土台というか、設立に影響を与えたって言われてるんだよね。
そんなこともやってるんだ、考えてるんだ。
だから、いわゆる個人個人がどう生きるか、もちろんそうなんだけれども、人類全体がどういうふうに生きるべきかとか、何を大事にすべきかっていうことまでをここで考えてるんだよね。
へー、思った以上に広いね。そうなんだ。
そうそうそうそう。だから、今回の純粋理性の話を開けていくと、個人がどうなるかとか、私がどうかっていう話になっちゃうんだけど、関東はそこだけではないんだよね。
そういう意味で、次回の実践理性批判も内容として踏み込みながら、今回では扱えないと関東が言ったような、まさに社会制度と道徳性というものを、関東がどう考えたかっていうのを理解したいと思ってます。
そっかそっか、なるほどなるほど。だから、他の人間がどうこうっていうよりは、人間が持っているであろう社会制みたいなものか、道徳性。そこの部分を関東がどう切り込んでいったのかっていう話ね。
そうですそうです。
いやーわかりました。ちょっとまた改めてというか、関東のすごさが、そこがまだ知れないっていう感じなんですけど、その辺を楽しんでいきたいというところで、では次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。