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2022-08-28 36:17

#36 「やらない善よりやる偽善」は本当?カントならこう考える

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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(音楽)
はい、ソレテツラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
前回までは、純粋理性批判というところで関東の話を聞いてきたんですけれども、今回はその後ですね、別の著書である実践理性批判というところを教えてもらいたいと思います。よろしくお願いします。
はい、お願いします。
前回も言ってくれた通り、純粋理性批判という、人間はどう真理というか正しいものを認識していくか、そういった認識の方法って何かみたいなところをやってきました。
一言で言うと、人間の認識っていうのは関東に言わせると、もの自体っていう、あるんだけど認識できないものっていうところを通して、感性っていうものが捉えたイメージとか、
脳とか心っていう、山に湧き上がるものっていうのを、理性、誤性っていう働きが統合することで行われるんだよっていうのは明らかにしたんですけど、
多分この言葉だけだとなんじゃってなると思うので、まだ聞いてない方はぜひ前2回分も聞いてみていただけると、今僕が言ったこともなんとなく理解いただけるんじゃないかなと思っております。
第1回、関東の第1回からお伝えしている通り、関東の三批判所って言われる純粋理性批判、実践理性批判、判断力批判という3つが、真、善、美に対応しているよねみたいなことが結構言われます。
今回の実践理性批判っていうのは、善、良いとか悪いみたいな話に関わるよねと。
もっと言うと、これもちょっと横目に逸れちゃうんだけど、もともと哲学って真なるものは善であるとか、神様って真実そのものでありかつ良いものであるみたいな一緒なんだよね。
美しい美であるみたいな。 まったいな。 そっか、全部一体になってるんだ。
本当の理想のもって正しく回り、正しいから良いものだし、良いものだからそれは美しいよねみたいな。そこって結構ぐるぐる回ってるんだけど。
それが時代の流れとともに分かれちゃうんだよね。真実とか真理を探求するのはそれこそ自然科学だとか、善っていうのは倫理とか道徳だとか、美っていうのが芸術とかアートだみたいな。
本当は、もともとは一緒だったんだけど、キリスト教的な世界から近代に変わっていくにあたって、結構そこを分けて考えるみたいなのが主流になってきますと。
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それはもうすでになっていたってことだよね。その関東でかると以前にそうなっちゃってたってことだよね。
そうそう。だからこそ、良いものは真実であるみたいなことは言えなくなっちゃったから、カードとしては物事を正しく捉えるとか認識するっていうことを純粋理性観でやったので、
次はそれをもとに道徳とか善、良いことみたいな話っていうのを考えていきましょうっていうのがモチベーションですと。
はいはい。鉄格でそれを横串を通すだったりとか、もともと鉄格の中で語っていたその3つのものを、もう一回手綱をちゃんと握って鉄格が頭脳としてその3つをコントロールしていこうみたいな。
そこまで上下関係じゃないかもしれないけどね。
そうだね。コントロールするというよりは、もう一回正しい共通、善みたいなのを立て直そうっていう感じかな。
要はキリスト教的な善で動いていた世界がちょっと変わってきたとか、そもそもキリスト教世界も腐敗してきて何が良いかわからなくなってきたみたいな時代だったりするわけで。
なるほど。鉄格云々よりもそういう社会的な要請というか、そういう時代の流れもあったってことか。
そうだね。やっぱりそういう時代の変化の中でもいろいろ考えてますよっていう感じはあるんだけど。
だからカントがこれでやろうとしているのは、道徳とか良いことの根拠っていうのを理性、カントケントの個性とかそういったものを推論によって明らかにしていく。
要はそれをするとカントがやったように経験ではないもの、アプリ寄りなものから道徳の根拠とかっていうのが立てられるとしたら、
いわゆる誰にでも普遍的に共通理解ができる道徳とか善というものを仰っていることができますよねってことを考えるのね。
はいはい、なるほど。これみんなが喜ぶからいいでしょうとかじゃなくて、そういう経験論的な話じゃなくて、それこそ前回純粋に政平案でやったアプリ寄りな総合判断というものを、この善悪、道徳というものに適用したらどういう風になっていくのかっていうのをカントが考えてくれたってことはね。
まさにまさにその通りです。良い刑事条約をやっていこうみたいな感じだよね。
それで前回ちょっと最後にお伝えしたんだけれども、これも結構有名な言葉として、あなたの意思の確率がいつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよっていう言葉があるんですよ。
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うん、やっぱり入ってこないけど。
そう、これ言葉で聞いたからかと思いきや文字読んでても全然入ってこないんだけど、本とか読んでても。これの意味自体をちょっとわかるっていうことを今日のゴールにしながら皆さんにお伝えしていきたいなというふうに思っております。
はい、了解です。
という感じなんですけど、まずね、東映だいぶ端折っていくんで、なんとなくこんな感じだよねっていうぐらいで聞いていただければと思うんですけど、
まずカントはね、人間っていうのは自然法則だけじゃなくて道徳法則にも従って生きていますよねっていうふうに言いますと。
前回ちょっと話したみたいに、例えば自然生物としての例えば夜になったら眠くなりとかそういうのだけじゃなくて、
何か社会的なとか宗教的なとか、自分の良心みたいなものっていうのも当然あるよねと。
そうなった時にその道徳っていうのは快楽とか欲望からは出てこないんだっていうね。
例えばさっき兄貴がね、みんなが楽しいというかいいって言うからいいじゃんみたいなことも言ってくれたんだけど、
カントに言わせると、褒められるから片付けをしようみたいなものがあった時に、やってることはいいことなんだけど、
そうやって褒められたいっていう欲望とか欲求が出てくるから、本当の意味では道徳的な行為じゃないよねっていうね。
なるほどなるほど。
なんでカントはね、自分は悩みをしようとかこういうふうに行動しようみたいな考え、
もっと言うと、要はカント自体は経験に基づいて、でも最終的にはその個性とか理性の判断によって人は世界を認識するっていうふうに考えているから、
そういう考えとか意思の方向付けみたいなものを、マクシーメって言うんだけど、
それを日本語で確率、かっこいいのを書くに、割合とか%の率で確率っていうのね。
これはもう哲学用語なんで、分かんないというか普通にはない言葉なんですけど。
はいはい、その言葉のまま覚えてねってことはね、マクシーメと確率を。
だからそういう自分の主観的な方向性を、方向付けるものみたいな言葉を全部使っちゃうとややこしいじゃない、めちゃくちゃ。
それを確率と呼びましょうみたいな感じでやってるんだけど、
自分の意思の方向みたいなのは行為の原因にはなるんだけど、
片付けようっていう、片付けをするための原因にはなるんだけれども、
09:05
でもあくまでも主観的じゃん、それって。
そうね、さっきのほめられたいみたいなところってことだよね。
そうそうそう。
例えば片付けをするにもほめられたいからとか、気持ちが悪くなってきたからとか、病気になりそうだからとか、いろんな理由はつけられるけど、
それはそれぞれ主観的だから、共通とか普遍的なもんにはなり得ないよねと。
今の例でもいろいろあったしね、ポジティブな理由もあればネロティブな理由もありみたいな。
やらない善よりやる偽善みたいなこともあるから、別にやったらいいじゃんとかって思うこともあるんだけど、
でもカントはやっぱり普遍的なとか、みんなが共通理解できるみたいなところを目指していくから、
っていうと、個人的な欲望とか快楽、つまり自分だけの幸福みたいなのを目的としちゃうと、道徳にはなり得ないよねと。
ただやっぱりカントが面白いというか、バランス感がいいなと思っているのは、だからその欲望はダメなんだじゃなくて、
そういう感情とか思いで動く人間っていうのって、それって自然だよね、人間と一緒に生きている以上はっていうことを言うのね。
はいはいはい、なるほどなるほど。そこは認めてるんだ。
そこは認めてる。やっぱり褒められたいし、楽したいしとかってあるよねと。
もうそれはしょうがないんだけど、だからこそ理性的な事項、もっと言うと純粋理性とか経験以前の理性の働きによって、
この感情的とか感性的、流されやすい自分っていうのを常に繋ぎ止め続けなきゃいけないんだってことを言うのね。
はー、なるほどね。ちゃんと自分のそういうところをちゃんと俯瞰して理解しておきましょうと。
そうね、自分のとかも人間のだね。人間ってそういうものだよねーっていう。
そうだね、純粋理性でやろうとしたのはそういう普遍的なものを見つけようとしたから、
自分がとかじゃなくて人間のそういう共通的なところを理解した上で自分をコントロールすれば、
自分も他人もというか、人間みんな自分をコントロールしながら生きていけるでしょうと。
そうそうそうそう。
その感とかなんでこういうことをやろうか、考えなきゃいけなかったかみたいなのがちょっとわかってきた気がする。
だからちょっとここまでが今日の前半のまとめであるんだけど、
あなたは道徳的な存在として人間のことを考えようってなった時に、
結局人間は普通にしてたら道徳的じゃないというか、個人の欲望とかで生きちゃうから、
常に道徳的な存在として生き続けなきゃいけないとか、そういう義務とか命令というように何にすべしみたいなことを、
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道徳で言おうと考えると言わざるを得ないよねっていうことに気付くのね。
はいはいはい。
この辺ね、こそわでとかしててもあるじゃない、これあれしなさい、これしなさいみたいな。
うんうんうん。
でも嫌々やってたらもっとちゃんとやりなさいって言っちゃうみたいな、
別にやってるからいいじゃんって思う気持ちもあるんだけど、
っていうようなね、ジレンマって普通にあるじゃない、生きてると。
確かにそうだよね、本質的に伝えたいことと、
現状、現在、目の前で起こっていることをこっちに持っていきたいとか、これを止めさせなきゃとか、
いろんなね、そこの攻めり合いみたいなものは多分あるよね。
そうそう。
だからやっぱりそういった人間の普遍的だというか、当たり前のものはもう一旦認めつつ、
理想としてのみんなが良いと思えるものとか、全員人類に共通する道徳っていうのを考えようと思うと、
やっぱりその通り越えなきゃいけない。
うんうんうん。確かにそうだね。
その土台なしでさっきの義務や命令みたいなものをやってしまうと、
それこそぐちゃぐちゃになっちゃうよね。
人間その一人の中でも多分矛盾は生じてくるだろうし、
社会になるとなおさらもうカオスが生まれるよねみたいな危機感はあるかも。確かに。
神が存在しない、もしくはしなくなった世界で、人間が道徳そういったものを作っていこうという時に、
やっぱその土台だよね。カントが今作ろうとしている土台がないと、
もう神がいた時よりヤバい世界が生まれそう。人間が作っちゃいそう。
そうだね、そうだね。まさに。結局秩序がないとか何でもありみたいな世界になっちゃうねって中で、
兄貴がまさに言ってくれた通り、やっぱここで神みたいな概念がいるよねというか、
必要だよねというか、やっぱりそういうことには言及されていくんだよね。
はい、あーそうなんだ。
うん。ちょっと僕が、カントはデカルトの神の存在証明を批判したいってことを言ってたんだけれども、
神自体を否定したっていうよりは、その存在の証明の仕方とかに対しての批判みたいな感じだったんで、
ちょっとそこはね、また機会があれば説明というかお伝えしたいなと思うんだけど、
一旦ちょっとここもさらっとやっていくと、道徳的な存在、人間が道徳的な存在になって、
良いことをするから幸福になるっていうものがちゃんと繋がらないと、
15:03
要は良いことをしようって絶対に思えないじゃないですか、道徳的な存在であろうってやっぱ思えないじゃないですか。
そうだね、そこそこ自分は飯食わないで人に施してばっかりしてて、自分が死んだら元も子もないでしょみたいな話だよね。
そうそうそう、そういうのはできる人とか、本当に滅死防衛的にできる人もいるかもしれないけど、
人類全滅するけどね、それ。
そうそうそう、全員それやったら本当にどうしようもないから、
っていう意味では、まさにそれは個別に、この人はいいことやって幸せになったけど、この人はいいことやったけど不幸になったみたいなことじゃダメなんだと。
はいはいはい。
よく小説とかドラマとかでもあったりするけど、それは現実とか理想の世界ではやっぱりダメで、
完全にとか絶対的に良いものとか善なる存在っていうのが必要で、道徳的な存在になるとか道徳的であることと、
人として幸福であるっていうことが結びつくんだよっていうのを保証しなきゃ困るよねっていうね。
じゃないとみんな自分の欲望とか欲求を満たして自分だけは幸福になればいいじゃんっていうふうに思っちゃうから。
なるほど、これはまた新しい課題というか問題が出てきた気がするね。
面白いわ。道徳について語ろうとした時に幸福とは何かみたいなところもまた出てくるんだねここで。
そうそうそうそう。
幸福っていうのもちゃんと普遍的なものにしとかないと、人によって幸せが違うしね。
そうだねそうだね。
なるほどなるほど。
一旦幸福っていうものを例えば欲望とか欲求が満たされるとか、自分なりにポジティブになる、要は善なものに近づいていくみたいなことだとすると、
さっき言った真善美みたいな話と一緒で、道徳と善と幸福っていうものがちゃんと結びついていないと、僕らが道徳的な行為をやっぱりするとか、それをしなさいとか言えないよねっていう感じだよね。
ここにきて、絶対的な神みたいなものとか、いわゆる道徳的なあるいは良いことをすると、幸福になる世界っていうのを神が作ったんだみたいな、そういう考え方が必要になるよねっていう風に言いますと。
簡単に言わせると、これってのは妄想とか、大のいい物語なんじゃなくて、純粋理性?経験によらない理性から推論を重ねていった結果、そういったものっていうのは共通の道徳を作るためには必然的に必要であるっていう結論にたどり着いたっていうのね。
どう?この辺の納得感というか、神じゃなくてもいいんだけど、そういうものってやっぱり必要だよねみたいな感覚は僕、ギリギリ今に生きる僕らでも共感できるなという気がするのね。
18:13
ヨウ:いや、すごくわかると思う。神とかっていうものの存在意義をきちんと構造分析して、因数分解して、ただその、賞賛するでもなく、受け入れるでもなく、ただ批判するでもなく、神の機能ってこういうことだよねっていう風に、純粋に理性で批判しましたっていう。
すごいと思うよ。すげえ上からだけどすごいと思うよ。
ヨウ:いやでも、そっか、その凄さが伝わっているなら嬉しいっすわ。ちょっとまた雑談でも言おうと思うけど、僕ちょっとカントを食わず嫌いというか、もう一回かじっても無理ってなったところだったんだけど、改めて読むとすごいちゃんとしている人だな、それはそうだよね、トップ5に入るよねみたいな。
すごいすごい、そこまでやった人は、神様作れるよ、作り方マニュアルだよね、これ。
ヨウ:実践神様の作り方マニュアルみたいなね。
ヨウ:元々言っていた前半分の「意志の確立」、つまりあなたの意志とか考えていることとか欲望みたいなものを含めた方向づけというものが主語になっているということがここまでの話ですと。
ヨウ:ここまでですね、冒頭お伝えしたあなたの意志の確立がいつでも同時に普遍的立法の原理として打倒するように行為せよという言葉があったときの主語の部分。
ヨウ:あなたの意志の確立というのは、結局自分の考えとか欲望とかそういう主観的なものの方向性の話だよということをお伝えして、その上でそれを人類共通に引き受けようとすると、神とか絶対に共通にいいと思えるものが必要だよねということを話してきました。
ヨウ:ここからが、いわゆる述語の後に来る「いつでも同時に普遍的立法の原理として」みたいなことなんですけど、普遍的立法は何かというと、欲望を満たすためにいいことをする。
ヨウ:要は、褒められたいから片付けようみたいな確立、方向性に基づく道徳というのではなくて、欲望を満たすためにというのを取り除いた後に残るのは、良いことをしようというすごく純粋な意志とか意図じゃないですか。
21:13
ヨウ:つまり、何とかのためにというのを除いた良いことをしようという意志だけに基づいて行われる行為というのが、本当に道徳的な行為ですよということを言うのね。
ヨウ:良いことをしようというのは、ある種、万人に共通しますと。
なるほど、そっかそっか。面白い。そうか、喘がる部分は人によるって話をしたもんね、さっき。
ヨウ:居心地が悪いからとか病気になるからっていうのは人によるけど、良いことをしようっていうのはくれない。
ヨウ:ただ、その後良いことをしようで何をするかは人によるかもしれないけど、良いことをしようという意志は万人に共通し得るっていうところがあるので、
ヨウ:そういう常に良いことをしようとか、誰かのためにやろうみたいな、そういう普遍的に成立する良いこととか善とか道徳的なものに合致するように行為しなさいという風に言いますと。
ヨウ:だから、すっごく簡単に言うと、自分の意志っていうのは色んな方向を持つんだけど、それが常に良いことをしようみたいな、万人に共通できるような道徳法則、要は自然法則っていう、自然のバランスじゃなくて、
ヨウ:そういう絶対誰が見ても、それはもう純粋に良いことだっていうようなものに応じて行為しましょう、そういうものに合致しているようにやりましょうねっていうことを言ってますと。
ヨウ:これじゃあね、今からすると当たり前かもしれないというか、良いことをしようみたいな話って、まあまあそうだよねとかってあるじゃないですか。
ヨウ:そうだね、これはさっきハヤトが言ったところで言う、やらない偽善よりやる偽善だというか、のやる偽善も良しとしているみたいな、そういう感じかな。
ヨウ:で言うと、実はそれはカントの話じゃなくて、今の僕らの生き方の話なんだよね。カントは偽善は善じゃないって明確に言うというか思っていて。
ヨウ:そういうことも語ってるんだ、偽善について。
偽善については語ってるかわかんないんだけど、思ってるとは思う。なぜなら良いことをするという意思には、その偽みたいなものが含まれないじゃん、絶対に。
自分が得をするからとか、誰かの役に立ちたいからっていうのが入った瞬間に、偽善かどうかはわかんないけど、個人の欲望が入っちゃうから、それは個人の意思の確立になっちゃうんだよね。
24:09
ヨウ:はいはい、偽善で言うと偽は確立の方にしかかかってない。今回のマクシーメンにしか偽はかかってない。
ヨウ:このマクシーメンと確立を判断するものがあったとすると、それが正しいのか偽なのか。この後の良いことをしようというのが善だとすると、偽善という言葉がここでもう分かれちゃってるから、そもそも偽の意味ないよ、カントにおいては。
普遍的立法には偽っていうものは入ってこないから。
ヨウ:でも、これは例えば、自己中心的な、さっきの自分の欲望を満たすためだけの目的だったとしても、良いことをすればいい、普遍的に成立する道徳法則と合致しているようにだから、そこに合致さえすれば自分はどう思っても、どういう欲望とか意図を持ってもいいよ、みたいな解釈ができるかなと思ったんだけど、ちょっと違うか。
ヨウ:それはカントが言っていることではないね。なんとなら、欲望とか欲求っていうのは人間の根本としてあるよね、そういう傾向に流されるよね、ということまでは良いんだけど、共通道徳を作る上ではそれを乗り越えなさいっていうことを言っているから、個人の欲望とかっていうのは、純粋理性というか、その純粋なものには含まれない。
ヨウ:だから、もっと理性の、純粋理性の働きを使って道徳っていうものを作っていきましょうね、っていうことを言っている感じかな。
ヨウ:そうか、じゃあこの後に残るこの良いことをしようという善っていうものを、ただ純粋に善と捉えて、それをモチベーションとして良いことを行いなさいというような感じなのか。
ヨウ:モチベーションっていうのも少し違っていて、さっきの言葉っていうのは最後が、打倒、その普遍的一方の原因として打倒するように行為せよっていう命令系なのね。
ヨウ:行為すべしとかせよ、だから道徳的に生きる、それが善とか幸福に繋がるっていう世界で生きているんだから、人間っていうのはそういう、自分の個人的な傾向じゃなくて、純粋理性からくるような普遍的なものに従って生きるべきだ、っていうことを言っているのね。
ヨウ:なるほどね、これは土台の話、そもそもそうかもしれないし、そうじゃないかもしれないとかじゃなくて、もうそういうふうにしなさいと、これは道徳の話をしてくれてるんだね。
ヨウ:これは法則だから、これは自然で人は生まれたら死ぬとかっていう法則と一緒で、人は道徳的に生きるんだったら、こういうふうに行為すべししなきゃいけないっていうふうに言ってるって感じかな。
27:04
ヨウ:ちょっとわかったような気がする。ちょっとここは落とし込む。
ヨウ:そしたら今日のまとめに入っていくんですけど、そういう道徳的なものを考えていたときに、いわゆる自分が意思するとか、良いことをしようと思うみたいなことを、すごく大事にカントっていうのはしていました。
ヨウ:これって今からすると当たり前じゃないかって思うかもしれないんだけど、結局その当時、1700年くらいってまだまだキリスト教の影響が強かった時代で、道徳とか良いことっていうのは神の世界というかね、そっちにあったんだよね。
ヨウ:それを人間の内側とか理性から、そういう道徳であったり良いものであったりっていうのがある種生まれてくる。そういうのを理性の側に求められるというふうにさせるのが、そういう画期的なんだよと。
ヨウ:だから特定の文化とか宗教とか国とかそういったのにとらわれずに、ある種人類として、各変的な道徳とか良いことが実現できる可能性があるんだよっていうのを言ったこと自体がすごく鋭いというか、カントの独自性がここに出てくるっていう感じかな。
ヨウ:はいはい、なるほどね。それがどう使われるかは別として、今までは完全に神っていう外部環境に道徳性とか、もしかすると幸せとか良いこと、そういうものが規定されていた。外部に規定されていた。
ヨウ:神に。というものが、意外とちょこっと前の7+5=12ってなった時に、人間はもう12ですよっていうところしか見てなかったってことはね。
ヨウ:ああそうだね。経験論的にとか、もう12なんて置かれきってるよっていうところしか見てなかったものを、ちゃんと前提となるものとか、そもそもその働きっていうのは人間のどこが生まれているのかっていうことに、ちゃんと焦点を当てて論じたっていうことだね。
ヨウ:その12ってものの裏には本来、7+5っていうものがあったはずで、そこさえわかれば、もし仮に12っていうものが良いものだとしたとして、それは例えば10+2でもいいし、6+6でもいいし、みたいな、そっちのイコールの反対側っていうものを人間が操作できるであろうと。
ヨウ:っていうのがさっきハヤトが言ったところの、その人間の内側から、人類として普遍的な道徳や良いことを、神が規定した12じゃなくて、人間が6+6とか10+2とか、そういったものを作っていくことができる可能性があるのだと、いうことを人々に理解させた、というか認識させたっていう感じかな。
30:07
ヨウ:ちょっとたとえとしてはわかりづらいかな。
ヨウ:そうだね、ちょっと数字で難しいかも。難しいかも。だし、カントが操作できるよね、じゃなくて、人として正しいステップを踏んで考えれば、理想にたどり着くよねっていうところが世界観では考えてるから、それをどうこうしよう、みたいな感じではないんだよね。
ヨウ:うんうんうん。そのイコールの両側だよね。そこを実は神が決めたんじゃなくて、人間の方で作れるんだと。
ヨウ:人間が、人間の存在っていうものがそこにちゃんと関わっていて、正しく人間の理性を働かせると、その働きを捉えられるのだが正しいかな。変えるとか変えないとかってなっちゃうと、要はそうやって人間の恣意性が入っちゃうから。
ヨウ:でも、前純粋性観で言ったようなアプリ寄りな経験にとらわれない考え方っていうのは、もう12個のカテゴリーしかないし、反省としては時間と空間っていうものしかないっていうのが大前提だから、それは人間が何とかしても変えれないし。
ヨウ:今、ちょっとずれたっていうのは、カントが言ったのは、普遍的なものを認識することができるのだとまでしか言ってなくて、それを用いて具体的にさっき言った10+2を作れるみたいな、そこまでは言ってないってことはね。
ヨウ:そうだね。もしかしたら、カントが話では言ってるかもしれないけれども、重要なのはその手前。まずは共通理解ができるとか、ちゃんと経験によらないとか宗教とか文化によらない道徳であったりとか、物事の考え方とかそういったものを作ることができるっていうところが一つの到達点かな。
ヨウ:この善とか幸福は人間の内側にあるよね、みたいな考え方から、実はその後の、例えば最大多数の最大幸福みたいなのって聞いたことあるかな。
ヨウ:公立主義みたいなものが、ジョン・スワットミルとかベンサムみたいな思想っていうのもやっぱりここから生まれてくるし、
ヨウ:もっと拡大解釈してみると、人類全体でも共通の理解を行えるよねとか、幸福っていうもの、これは幸福だよねっていうものをある程度定めながら一緒に追求できるよねっていう考え方もここから始まってると言える?
ヨウ:なるほどそうだよね。でも確かにその幸せっていうものの形が可視化されることで初めてそれを扱うことができるようになったっていう話だもんね。
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ヨウ:だからそれが、大体同じようなものを見ているよねっていう共通理解がちゃんとできるかどうか?
ヨウ:それをちゃんと共通で、いろんな人が見たときに、神以外のものを人間が作ったとしても共通理解できるものを作ることができそうだって話だよね。まだちょっと具体的な話になっちゃってるけどね。
ヨウ:だからカントはまだ神っていうものを必要としたというか、理性の、純粋な理性の働きによって最終的に、実践理性の働きによって神が求められるっていうことにいくんだけど、
ヨウ:もっと時代が下っていくと、神っていうものをそもそも必要としなくなるから、じゃあ代わり何を建てるのかとか、神がいない世界においてどういうふうに人が生きていくのかって、
ヨウ:1800人とか900人の手伝いで結構行われていることだったりするから。
ヨウ:あ~、そっかごめん、勝手に神から乗り越えたつもりでいたけれども、まだいるんだ。人々の意識を全然。人々どころかカントの中にもまだいるんだね。
ヨウ:だと思うね。当然ね、やっぱりその宗教的なものは全然もっと身近だし、毎週普通に教会とか行ってるぐらいだし、価値観はやっぱり根っこにはあるよね。
ヨウ:そっかごめん、ちょっと例えとかそうだね、こっちの認識をちょっといき急いだ気がした。
ヨウ:なるべく寄り添っていくと、まだまだ神っていうものがある世界の中で、とはいえ人間の中から生まれてくるものでも道徳とかそういう大事なものっていうのを作れるよねっていうところが、この時代のカントが到達した哲学的な地点っていう感じかな。
はいはいはい、なるほど。はい、いかがでしたでしょうか。今回もね、ちょっとその結構細かいというか、一個一個詰め上げるような形で話してみたんですけれども、
その理解、もともとお伝えしていた「あなたの意思の確率」っていうものと、「普遍的一方の原理」が「いつでも妥当するように行為する」みたいなものが少しでも伝わったりとか、あっという間に意味がわかったなっていうところがあれば嬉しいなというところでございます。
次回はね、ちょっと感想会として、カント結構重たかったと思うんで、マニキュアは大変だったと思うんで、ちょっといろいろね、この話踏まえてどうだったかみたいなところとか、もうちょっとお聞かせしてもらえたらというふうには思っております。
了解です。じゃあ、一旦今回はここまでというところで、また次の感想会で、今回だったりとか、全体総括した話なんかもゆるゆるとできればと思いますので、また次回も引き続きよろしくお願いします。
36:06
はい、お願いします。ありがとうございます。
♪~
36:17

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