1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #326 カント『判断力批判』。..
2025-06-15 52:51

#326 カント『判断力批判』。「美」という感覚はどこからやってくる?

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

このエピソードでは、カントの『判断力批判』を通じて「美」という感覚の源泉が探求されています。カントが提唱した知情意や実践理性の概念を基に、人間の判断力とその背後にある秩序との関係が深く考察されています。また、美や崇高さといった感覚がどのように人間の経験や理性に根ざしているのかが探求され、自然の中で人間が美しさを感じる瞬間やその背後にある意図や意味付けについても考察されています。さらに、カントは理性を通じて人間の判断力とその根底にある美的感覚を論じ、相対主義と主観性を超えた普遍的な美の理解を目指しています。このエピソードでは、カントの『判断力批判』に基づき、美の感覚がどのように形成されるかが議論されています。

カントの判断力批判の概要
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回でカント最終回ということで、判断力批判を見ていくというようなところでした。
はい。前からもいわゆる知情意、知識と感情とか病というものと、あとは意志とか意欲というものが3つがあって、
それはカントの3批判書という、純粋理性、実践理性、判断力というものに対応します、といったことを言ったと思うんですよね。
今回の判断力批判というのは、その知情意の情、感情とか、まさに情念みたいな、そういうものを取り扱ってます、といわれることが多いです。
なんでそんなことをやったのかとか、そもそも判断力対応ということを今日お話ししながら、カントの最後の話をしたいんですけれども、
この判断力批判もやろうと思うと、もちろん2回とか3回とかで足りないぐらいになっちゃうんだけれども、
ここまである程度ロック、ヒュームときて、カントに向かってやってきた中で、
やりすぎと言うとあれだけれども、結構重たい話がついてるんじゃないかと、聴覚感覚もありまして。
なるほど。久々のせいなんだ。ちょっと硬すぎるみたいな。
今回は1回分ぐらいで判断力批判ってどういうことをやろうとしたんだろうねとか、
純粋理性とか実践理性っていう後に、なんでこれを持ってこなきゃいけなかったんだろうねみたいな話をして、
一旦カント界としては終了にしようかなと思ってます。
理性と感性の統合
前回もたぶん兄貴言ってくれたみたいに、たぶんカント3回目とかあってもいいのだと思ったりはするんで。
なるほどね。
これまた残しておいて、次はちょっと次で東洋に行こうと思ってるんですけれども、
ちょっとそこの橋渡し、橋休め的な感じで、今回は、なんとなく判断力ってそういうことなんだねとか、
カントってそもそもそういう3つの作品、作作を通じてこういうことをやろうとしてたんだねっていうところをお伝えできるような感じでお話ししたいなーなんて思ってます。
はいはい。なるほどなるほど。確かに確かに。哲学の深いというか、固い話ばっかりだとそこの2回ばっかり頭いっちゃうけれども、
そういえばカントって何したんだってみたいなところってちょっと忘れるというかね、すぐに置いていっちゃう感じになっちゃうもんね。
そうですよね。ぐーっと寄ってくるのが楽しいしいいなと思うんだけど、ちょっと最後のパッと目を、距離を取った時に、
あ、全体感こんな感じだったねっていうふうな、そういう感じでお話したいと思うので、
皆さんもちょっと今回は少し、最近ちょっと息が詰まる部分もあったかなと思うんですけれども、
ちょっと気を楽にして聞いていただけたら嬉しいななんて思ってますというところですね。
はいはいはい。
そういう意味では、何回もなんですけれども、これまでの足跡を振り返っていきましょうというところなんですけれども、
ヨック・ヒウムで経験論というものや、経験というところがすごく大事だ。むしろ経験というのがすべての始まりだっていうところをやってたと思うんですよね。
そこに対して関東っていうのは、やや経験だけじゃなくて、やっぱり自分たちの側にあるいわゆる理性、
これが最初に言った純粋理性っていうものだよって言ってたんですけれども、
やっぱり世界を知るっていう時に、ただ外から内っていうものがあるんじゃなくて、内側にあるその感性とか剛性、
そういうものを使って、いったい若組を通して、自然、世界っていうのを理解しているんだよねと。
これがプリニクス展開っていうやつで、経験したものをそのまま受け取ってるんじゃなくて、
それをちゃんと秩序されているから、やっぱり僕は世界そのもの、ものそのものを見てるんじゃなくて、
自分が作り出した印象とか、イメージみたいなものってところで、
僕らは生きてるんだよ、世の中を捉えてるんだよっていうような話をしたと思うんですよね。
はいはいはい。だからこれこそがまさに大陸合理論側の理性と、ある意味完璧にも見えた、
合理論を包み込んだように見えた、ロックヒューンとかのイギリスの経験論。
これを統合して、さらに2つともみんな包み込んじゃったよっていう関東のヤバさみたいな話。
そうですそうです。
それが純粋理性派であったことなんだけれども、それだけではとどまりますよっていうのが前回の実践理性っていう話で、
結構いろんな道徳とか、人格がどうとか、尊厳がどうとかっていろんなキーワードがあったと思うんですけれども、
要は、そういう世界に対しては、理性と感性というものを使って関わっている人間なんだけれども、
そういう時に、例えば正義、正しいと思うことをするとか、そもそも何を正しいと思うか、信じるかとかっていうことって、
やっぱり、いろんなこと関わっているだけではどうしても出てこないもの、見えてこないもの。
思っていると、純粋理性では扱えないものがあるよね、ということで関東は気づいてたんだよね。
なので、そういう別の理性の中の別の働きとして、実践理性というものを考えたときに、
人間はいかに自由を実現できるかとか、自分で自分を立することで、ちゃんと人としての生き方っていうのを基礎値にしていく。
そういうふうに、主体的に動いていける存在でもあるよね、と言ったんだろうね。
この部分も、エヒウムとかだと、トビリンス経験論だと、
結構もう経験からくるから、そもそも正義そのものとか、そういうのは経験できないじゃん、みたいな感じで、
実はそこまで深く語られていなかったものを、ちゃんと構造分析した、みたいな話だよね。
そうだね、そうだね、そうそう。
やっぱり正義をどういうふうに打ち立てられるのか、それが一人の思い込みじゃなくて、
いわゆる一人自分のやってるルールが、全員がやってもいいと思えるルールになるルールだったら、
それはいいよみたいな話を前回したと思うんですけど。
判断力の美的側面
そういうふうに、やっぱり社会とか世の中ってどういうふうに適応されるかっていうことを考えていった。
という意味ではまさに、アニケート・ベトナム・ウェトリウスの構造っていうものを解き明かしていったんだよね。
うん、はいはいはいはい。
っていうところだけでも、やっぱりめちゃめちゃすごくいいんだけれども、
カントはここで終わらないっていうのは、さらに3歩目進んでいきますっていう話でして、
何を思ったかっていうとですね、
それこそ純粋理性の方では、いわゆる世の中とか世界、世の中はどうなって、もっと自然だよね。
っていうものがどうなっていて、それを人間がどこまで知れるかとか、
どういうふうに理解するかっていうことを言いましたと。
自然は自然として、いわゆる色の秩序があって、それに基づいて動いてるわけだよね。
はいはいはい。
で、一方で実践理性の方では、人間の自由というか、
秩序とか法則だけによらない、自分で法則を立てるみたいな、
そういう人間が持った力というか能力について語りましたというときに、
それぞれ見るとすごくいいんだけれども、
どんどん考えてみると、あれと思ったんだよね。
要は、自然は秩序に従って動いていると。
人間は秩序を超えるというか、新しい秩序を生み出しているような自由があるよね。
ほうほうほう。
いうときに、秩序に従うという話と、秩序を生み出すという話って、
矛盾してない?っていうふうにカントは考えたんだよね。
んー、矛盾なんだ。
人間というのも自然の一部である以上は、秩序に従って生きてるわけじゃない?
あー、なるほどね。はいはいはい。
人間は秩序に従っているんだけど、でもその秩序を生み出すことができるって、
なんで人間ってそんなことができるの?
それって、普通、矛盾というか、本来なら秩序に従うか、秩序を作るか。
もっと言うと、秘蔵物か、みたいな話になるんだけど、
なんで人間は両方持っているように見えるんだろうね?
そういうことを考えるんだよね。
なるほど、なるほど。そっかそっか。
ある意味秩序が決まっていれば、全部それで説明できるはずだけど、
みたいな話はね。
ちょっと違そうだぞ、みたいなね。
違そうだぞ、だし、
実践理性としては、自分で法則とか秩序を作れるっていうことをある程度証明したんだけれども、
そうなると、自然の秩序に従うとか、
その中で生きるって、
なんでそんなことが逆にできるんだろう?
要は、生きているレベルで言うと、
それって時々いいじゃんっていう感じだと思うんだけれども、
かんとか人間っていうのを考えるときに、
そういう秩序に従うと、秩序に作るっていう、
全然相反するものが、
そういう行動に関わっている人間って、
なんかちょっと分裂してるよねっていうふうに見えたみたいなんだよね。
なるほど、だし、
どうなんだろう。
人間も自然の秩序に沿って生きているのであれば、
そもそも人間は秩序を作る必要なんかないし、
あと逆に、
人間は秩序を自分で作り出すことができるのであれば、
そもそも人間って秩序いらないよね、みたいな。
そこが矛盾してるっていう感覚で大丈夫かな。
そうだね、大丈夫。
実際その本をちゃんと読んでいくと、
もうちょっと違う語り方ではあるんだけれども、
ちゃんと感じた違和感とかそこに共感しようと思うと、
まさに今兄貴やってくれたような感じ?
そういう感じでとりあえず大丈夫?
うん、一旦大丈夫。
なので繰り返しだっちゃうんだけれども、
やっぱりまさに自然と自由、
要は世の中の法則と人間の自由っていう、
これをどういうふうに両立するんだろうとか、
どういうふうに人間の中に存在してるんだろうっていうことを
解き明かすことがもう一個残ってるんだ、
そういう仕事があるんだっていうふうにカントが考えたんだよね。
へー、そうなんだ、ほうほう。
で、実はそこに出てくるのが判断力って、
この本の判断力批判って話なんですけれども、
この判断するっていうことはもう、
やっぱりちょっと今の僕らが普段使ってるものとは違うんですよね。
もうそうなんだね、もうそういうものなんだね。
そういうもの。
道徳は遅いんですけれども、
これをちょっと最初に一言で言ってしまうと、
いわゆる、なんていうのかな、
個々の事象、個別のものがあったときにそれを
偶然的なもの、いわゆるみんなが共感できるものが、
みんながそうだよねって合意できるものに持っていくような力、
これを判断力ってふうに言ったんですよ。
ほうほうほう。
で、さっきも言ったような道徳みたいな感じで、
自分のルールを全体で適用できるなみたいな話とと近いんだけれども、
この判断力っていうのを説明するときに、
カントは美、美しさみたいなものをよく、
よくというかね、それを使って説明するんですよ。
ふんふんふん。
例えばどういうことかっていうと、
仮にその、なんていうのかな、道端でもどこでもいいんだけれども、
一本の例えば花が咲いているとするじゃないですか。
ふんふんふん。
うん。
っていうときに、その花を見てさ、
例えば綺麗だなとか、美しいなとか、
そういうことが思ったりすることってあるよねと。
ふんふんふん。
うん。
いうときに、
それは普通に残像なんだけれども、
いろいろ考えてみると、
なんで、例えばなんだろうな、
そんな何もないところに咲いているんだろうとか、
こんな、なんだろうな、
一本だけどこからやってきたんだろうかとか、
そういうことをいろいろ考えることができるよねと。
あーなるほど、はいはいはい。
うん。
っていうふうなときに、人間っていろいろ考えて、
もしかしてなんか、なんだろうな、
風といろんな雨といろんなものが調和して、
この花ができたんだとか、
ふんふんふん。
やっぱりこういう花の根が守っていて、
映画するってことは、
なんてすごくいい仕組みができてるんだろうとかっていうふうに、
そこにまさに感動とか、
なんていうのかな、
そういうことと自然の素晴らしさを感じたりできるよねと。
ふんふんふん。
っていうふうに、カンタは考えるんだよね。
はいはい、なるほど。
うん。
で、ただ一方で、
その自然の秩序っていうことだけで考えてみると、
別にそこには何の、なんだろうな、目的とか意図もなくて、
ただ別に種というものじゃなくて、
ずらっとこぼれてそこに来たから多分咲いてるだけであって、
そこには別になんとしてそこで咲きたかったとか、
何か他の雨とか風とかを調和してやろうとか、
美の感じ方
そういうものは一切ないわけだよね、花の側からすると。
はいはい、たまたまだよねっていう。
そう、たまたまだよねって言って、
そこに自然の秩序としての、
別にたまたまとか目的もないっていうふうな話を、
人間の側の、なんて綺麗なんだ、
そんな花が咲くなんて、なんてこの世は素晴らしいんだみたいな、
この思ったときの、
とりあえずその意味付けるというか、
そういうものを発想してしまう、
なんだろうな、人間の性質、
っていうものの両方が現れてるよね。
この両方があるときに、
人間の美しさっていうものを感じるんじゃないか、
っていうことをカントは考えるんだよね。
なるほどね、はいはいはいはい。
だから逆に言うと、なんていうのかな、
もちろん人が作った、
例えば芸術品であるなんであれとか、
すごく目的があって、
それが綺麗におくように作られたものに対して、
美しさを感じるとかもあるとは思うので、
必ずしも、
作ったものに目的がないってわけではないんだけれども、
いくまでも自然とか世の中って見たときに感じる美しさで言うと、
その目的がないものに対して、
そういう意図とか、
何かその、なんだろうな、
驚きとか目的性とか、
そういうものを感じるっていう感覚。
はいはい、目的が本当にないものにすらっていう意味。
そうそうそう。
っていうところに、
まず美しさを感じるっていうことをカントは考えます。
判断力の役割
はいはいはい。
そういう経験があるよねと。
で、面白いのが、
さっきその、
個人個人のとか一つの経験から、
その普遍的なものでっていう話をしたと思うんですけど、
それは、
例えばその花を見て、
綺麗だと思う、美しいと思うっていうのが自分の経験じゃないですか。
そうね。
で、ただ人はこの美しいっていうものを、
この花は美しいとか、
この手投げに咲いている花は素敵だとかっていう風に、
要は一般化しようとするんだよね。
うんうんうん。
うん。つまり自分だけじゃなくって、
きっと他の人が見ても美しいと思うだろうとか、
綺麗だろうと思うだろうっていう風に、
分析的に格上げしてしまう、その感覚を、経験を。
はいはい、そうなんだ。
っていう時に、
この格上げすることを、
ちゃんと判断だっていう風に考えてるんだよね。
へー、そうなんだ。
うん。
で、なんでこんなことを言うかっていうと、
要は、これまでってどっちかっていうと、
例えば純粋理性の方では秩序があって、
それを当てはめて世の中を見ていくんだとか、
実践理性でいうと道徳みたいなものがあって、
それを当てはめて一個一個の場面に、
これは正しいとか、これは正しくないとか、
当てはめていくんだっていう風に、
上から下みたいな、
そういう風な発想が強かったと思うんですよね。
なるほど。上から下っていうのは、
自分自然だったりとか、外部にあるものを理解するみたいな、
そういうイメージじゃない?外から中へ的な。
外から中へというよりは、いわゆる法則とか秩序だね。
秩序は、秩序でいうと、合成やカテゴリー、
なんか4つぐらいいろいろ言ったと思うんだけど、
カテゴリーというのが先にあって、
それを経験に当てはめていきますとか。
はいはいはい。
道徳法則というものがあって、その法則を、
例えば目の前の場面、盤面に合わせていきますみたいな感じで。
ああ、なるほど。
大きな素材を小さく切り分けるようなイメージだね。
そうだね、そうだね。
例えば、仮に経験とかそういうものがあったときに、
それを切り分けていくとか、箱に収めていくみたいなイメージだよね。
はいはいはい。
だから、箱ってどうやって作るの?とか、
切り分けるってどういう手順でやるの?っていうことを
考えたのが純粋理性とか実践理性ですと。
はいはいはい。
逆に言うと、人間ってそれだけなんでしたけど、
要は何か基準とか原則があって、
それを現実に当てはめていくだけの存在かっていうと、
やっぱりそれとはちょっと違うんじゃないかって感じしない?
それで言うと今のところ、
この判断力批判の話をここまで聞いたところで感じるのが、
いわゆる純粋理性批判のところの、
語性だったよね、語性。
結構今回のこの美しいと思う挙動と、語性の違い。
ある意味語性の中にこの挙動入っててもいいんじゃないか、
みたいな考えを思ってしまっていて、
そうするとある意味どっちも、
さっきの現象を人間が語性フィルターみたいなものを通じて、
因果だったりとか、そういうふうな感じで捉えるみたいなところと、
今回の外から出てきたものを、
例えば美しい、神秘フィルターみたいなものを通して美しいと判断するみたいなさ、
そこがちょっと混同してるから、
今、ハヤトが伝えてくれようとしてる、
人間の純粋理性の部分とこの判断力の違いみたいなものが、
まだうまく分かれてないんだなと思った。
そういうことか、確かにね。
確かに、人間の場合に何か美しいと感じる仕組みがあって、
それをそれぞれに当てはめてしまえば、
それで美というものを説明できるんじゃないかって話だよね。
そうそう、そういうふうにも考えられるな、
語性に入っててもいいんじゃないかなって、
今、ちょっと批判的に聞いてる感じ。
ここはごめん、僕が理解してる範囲でって感じなんだけれども、
あくまでも純粋理性の話で言うと、語性っていうのは、
いわゆる何かを見たとか聞いたとかっていうふうな素材を整理するっていう、
そういうふうな働きなんだよね。
なので、あくまでも数とか関係性とかっていうふうに、
いわゆる受け取った素材に対して付随しているものを整理しますと。
今回って秩序の方の話ってことかな。
そうだね、秩序をもってその素材というものを整理するんだけれども、
例えば美しいとか、私とか後でやろうと思ったんだけど、
いわゆる崇高さみたいな、いわゆる崇高さとか高傲しさとかみたいな話って、
これって素材のほうとか、いわゆる世の中から感じ取ったものだけでできるものじゃなくて、
そこにやっぱり人間が加えるものというか、人間の側でそれを感じるものじゃないですか。
あー、なるほど。
これロックだったっけ?ごめん、ヒュームだったから忘れちゃったんだけれども、ロックかな。
やっぱり肝臓みたいなものって、外から来るだけじゃなくって、
肝臓、人間の側から出てくるよねとか、おいしいとか美しいとか汚いとかそういうものって、
それも経験なんだけれども、後から出てくるものだねみたいな、そういう話をしたと思うんですよね。
あったね。
たぶん肝臓もその感覚に近くって、美しいとかっていうものは素材の側にあるよりも人間がそう感じるとか、
人間とそのものがある種関わり合って初めて感じる、出てくるものだというふうに捉えてるはずなんだよね。
あー、そういう意味で人間が物事を認識するというか、感じたりするという時の順番みたいなのがあった時に、
この美とかに関しては、その個性と同じとこにはやっぱ入らない。その後だよね、たぶんね、順番が。
そうだね、そうだね。
ではなってくるだろうという話なんだ。
そうか、この後話あるかもしれないけど、それで言うとこの美、判断力の部分って、
肝臓で言うとアプリ用にの部分なのか、そうじゃない部分なのか、そういうのもあるのなのか。
そうだね、実際その肝臓はこれまで適当で、純粋理性にも実践理性にもあったように、判断力にもアプリ寄りのものがあるというふうに考えて哲学を進めてるんだよね。
なるほどね、はいはい。
逆に言うとそれは、いわゆる個性とか道徳とかって全然違うカテゴリーの中で扱われるべきものだというふうにして、
全然違う理性の中でも判断力っていうのをなせてます。
はいはい、なるほどなるほど。まだ完全に説明はできないけど、その印象としてはわかった気がするかな。
わかったよかった。
で、そうなった時に話を戻すと、
でも兄貴が言ってくれたところは、すごく良い観点だなと思ってて、
やっぱりこの判断力っていうもので、まさに何かすでにあるカテゴリーとか秩序っていうものを適用するんじゃなくて、
手前と関わる中で、さっき言った秩序に触れる中で、人間がある種、自由に受け取れるものか、
そこに受け取るだけの独自性があるっていうのかな。
今は少し説明しにくいから次に行くんだけれども、
さっきもちょっと言った通り、ファントって美しさだけじゃなくて崇高さみたいな、そういうものにも判断力が効いてるよっていうふうに言うんだよね。
これ、例えば崇高さって何かっていうと、
例えば自然の脅威とかもそうなんだけど、いわゆる台風とかさ、
あとはすごい森が広がってるとかさ、幻想的な霧で、本当に異世界に舞い込んだみたいだとかって言うときに、
やっぱり僕らって自然の壮大さとか、人間はなんてちっぽけなんだとか、
逆にありがたいみたいな、そういうことを感じたりするわけじゃない。
っていうときに、やっぱりそれはさっきの話じゃなくて、別に自然は人を恐れさせようとか、
自分を大きく見せようとかって言って、別に木が生えてるわけでもないし、台風が発生するわけでもないじゃない。
そこに人間は何らかの意図とか意味とか、俺は人間に対する罰なんだとかさ、
逆に恵みの雨なんだとかさ、そういうものはどうしても感じてしまう生き物なんだよね。
それは逆に言うと、人間の生き物としての高度さというか、
単純に理性で全部割り切って、ただただ法則に則って生きるだけじゃない、
そういう人間の愛すべき部分って、どの立場で言ってもわかっちゃうんだけど。
でもわかる気がした。さっき、誤性との違いは?っていう質問をしたんだけれども、
今、ハヤトが伝えようとしてくれたことこそが、誤性と今回の判断の違いなんだろうね。
誤性はどっちかというと、今のハヤトの話で言うと、
秩序だった人間の自然な反応みたいな挙動に近いんだろうね。
どうしても因果関係で理解してしまいがちだとかさ。
そこには人間の想像力だったりとか、今回の判断みたいなものは多分入ってないんだろうね、きっと。
そうだね、そうそう。
でもやっぱり、いわゆる自然となるというものはかなり純粋理性的なんだよね。
要は台風に対して、これはこういう条件下でこういうふうに発生して、
このぐらいのヘクトパルスであるみたいなもので、
ある台風って単純に対象として捉えて、理解しようとしてるわけじゃないですか。
そこで逆に言うと、修行さとかそういうもんってやっぱりないんだよね。
一方で僕らは台風とか見たときに、やっぱりこれは地球の無理だとかさ、
そういうことを思うと、今で言うと非科学的だとかさ、
不自然な感覚かもしれないけれども、やっぱりどこか僕ら人間にはそういうふうに感じる、
自然とかようなことをぶれ合うときに感じる部分ってどうしてもある。
それを単純に非科学的だとか、非理性的だってしてるんじゃなくって、
そこにもちゃんと理性が働いてるんだよと。
自然との関わり
それが判断力っていうのが理性で、逆にそういうふうに自然と向き合えるとか、
そういうふうな修行さを感じられるっていうことも人間にとってはすごく大事なことだし、
それこそが自然っていう冒頭に言った秩序だったものと、
理由、人間にとってそれをどう受け取るかっていうことも自由だとしたときに、
それをつなぐ理性っていうものがこの判断力っていうものなんだよみたいな。
はいはいはいはいはい。
そういうふうに全体感をつなげていくんだよね。
あー、なるほど。はいはいはい。ちょっとわかってきた気がする。
もうちょっと前提を取ればよかったなと思うのは、やっぱりこれまでってかなりロジックの話というか、
人間とは秩序とか法則に則って生きるべしだみたいな感じで言ってたと思うんだけど、
あくまでも関東の人間像って、そういう理性っていうものがありながらも、
でもやっぱり何か意味を見出してしまうとか、目的を感じてしまうとか、
心が震えて、もう自然が秩序だってわかってるんだけど、
どう考えても自分にとってはこれは奇跡にしか思えないみたいな、
カントの人間観
そういうことも含めて人間だっていうふうな捉え方をやっぱしてるんだよね。
はいはいはい。すごい。
そういう揺らぎみたいなものも、実は人間にはアプリ用のものとして存在してるんですよ。
だからそういう挙動、そういう揺らぎも含めた挙動があるんですよっていうところも、
ちゃんと語ってる凄さってことだね。
そうそうそう。で、しかもそれをちゃんと理性っていう同じオーライズの中で、
理性と本能とか、科学と非科学とかじゃなくて、
全部理性っていう中に含まれるんだと。
なるほどなるほど。
だから、理性を働かせましょうってデカイオリティ的に言うと、
あらゆるものを知り尽くしましょうとか、
理性、いわゆる自然の光によってそういったものを照らしましょうなんだけど、
ちゃんと同じ理性を使いましょうっていう中で、
そういういわゆる知性とか合成みたいなものがあれば、道徳みたいなものもあれば、
合成、要はそういうふうに感じる。
だから、崇高さとか美しさをどうしても抱いてしまう。
そういうことも全部ひっくるめて語れるようにしたんだよね。
はいはいはい。
ここがカントがこの3つの本でやり遂げた人間像であるし、
人間全体を理性で語るっていうふうな営みなんだよね。
はいはいはい。なるほど。
人間の解像度を爆上げした人なんだね。
そうだね、そう。
っていう感じで、ちょっと判断力そのものの説明ではないんだけれども、
カントがやろうとしたこととか、カントの人間観というものをお伝えしてみたという感じなんだよね。
はいはいはい。
どうだろう、この話で少しカントのイメージが豊かになるというか、
美と判断力の関係
そういうとこまで見てたんだっていうものが伝わったら嬉しいなと思ったんだけど。
いやー、そうだね。
前回までの実践理性批判で、もう十分というかさ。
はいはい。
もう人間を説明したって言われても、何の反論も出ないぐらいすごいなと思ってたんだけど、
こんなある意味まだ残ってた部分あったんだなっていうところで言うと、
やっぱカントレベルになると、もはや何のコメントもできないというか、
穴がわかんない。
たぶんレベルを超えすぎていて、わかんないね。
もうそうですねって、全部思わされて終わっちゃう。怖さもあるねと思うね。
確かにね、それはあるかもね。やっぱりカントって一個のことだけ言うんだけじゃなくて、
やっぱりそれの長話みたいなものとか、さっき言った通り、
通常とデビューとなったときに、それをどうやって繋げられるのかとか、
人間という存在の中に一つに置けるのかみたいな、
そういうところは全体をちゃんと捉えてる。
そういう意味で、やっぱり体系的な哲学者だとか、
やっぱりカント哲学っていうものがバシッとはまってるよねみたいな、
そういう感覚ではあるんだよね。
そうだよね。ある意味、自分の勝手な妄想ではなく、
ちゃんとこれまでの哲学的な歴史、経費に則った上で、
しかも人間個人と社会と世界、自然がどうなってるかみたいなところ、
現実を踏まえた上で、この経時状学的な話をしてるから強いんだろうね。
本当にそう、本当にそう。
あそこがやっぱり最大の哲学者だったら本当にそうだし。
西洋の流れでいくと、この後にドイツ関連論っていう流れができていくんだけれども、
この流れとしてフィヒテとかシェリングみたいな、
そういう人たちが出てくるんだよね。
この人たちも、こういうふうにやりたいなと思っているんだけれども、
これはカウントを批判する、もちろん批判もしてるんだけれども、
やっぱり乗り越えるっていうよりは、カウントの理念を受け継いだ上で、
どこを実現させるのかとか、どこに軸足を置くのかみたいな、
そういうふうなことをやっていく人たちなんだよね。
なるほど。
なので、やっぱりカウントの、まさに今度はゲームができちゃって、
やっぱりこういう純粋理性とか実践理性とか判断力とかあったときに、
こういうふうに、もっと言うと、ブルニクス展開では視点をそのまま理解するんじゃなくて、
人間は世界とか自然をどういうふうに見ていますかとか、
どういうふうに理解することができますかっていうふうな、
そういうところにまたガラッと実際の流れが変わっていくんだよね。
だからブッダ的な話も、全部原理は言っちゃって、
あとはそのゲームの中でとか、土台の上で、
もうクーがありますとかさ、
全部その上で話をし始めちゃうみたいな、
自分はこう原則してこうするんですみたいな、
そのぐらいの土台があるっていう感じかな。
その窓打ち関連論っていう意味ではね。
そうね。だからもちろんそこからいろんなものが出てくるんだけれども、
やっぱりこう、もちろん乗り越えるものもあるんだけれども、
原初はちょっとこの辺、もう一回ちゃんと調べたからいいよ。
あんまり言ってたことない。
そうだね。実際、もちろん関東を乗り越えようとか、
関東の哲学っていうのはまたどんどん転していって、
なんか新関東派とかっていう人たちが出たりするんだけれども、
そういう意味では、過去やったフェスタナルとかハイデッカーって原初学ってあったじゃないですか、
やっぱりカエラとかもかなり関東っていうものを下敷きにしてというか、
それを乗り越えようとして自分たちの哲学を作ってるんだよね。
はぁはぁはぁ、そうなんだ。
逆に言うと、そこの土台としては関東的なものがあるっていうふうに思われたりするんだけど、
やっぱりそれって、さっきも繰り返しどうしてもなっちゃうんだけれども、
やっぱりこう、自分、人間っていう側から始めて、どう世界を捉えるか。
やっぱり人間っていうものがある程度、世界っていうものを捉えて役割を持ってるよねっていう、
そういう発想じゃやっぱり関東なんだよね。
あー、そっか。そこまでの前提はもう作ってたんだね。
そうそうそうそう。
だから逆に言うと、それまでは世の中の真理っていうものはどう捉えるかとか、
それって個人個人の能力っていうよりは真理っていうものがあるから、
それをどう捉えつくかってそっちのゲームだったんだよね。
逆に言うと、普遍性とか、より神でもいいんだけど、そういうふうなものが先にあって、
それは僕らはある種読み解いていくんだみたいな。
やっぱり発想なんだけれども、今回の判断力とかもそうなんだけれども、
やっぱり何かを美しいと思うとか、花って綺麗だとか、台風は恐ろしい、恐れ多いみたいなもので、
すごい主観的な感覚じゃないですか。
あー、そうだよね。だから今回ちょっと今を聞いて思い出したんだけど、
結構また相対主義じゃないけれども、
自分は例えば台風を見たときに恐れ多いと思う人間、自然の雄大さを感じる人もいるかもしれないし、
ただただ怖い人もいるかもしれないしみたいな、
自分はこう感じるからいいやみたいな、そういう感覚が結構あるのかなと思うんだけど、
その辺はカントが言ってたりするね。
そうだね。やっぱりただ主観主義みたいな感じじゃなくて、
やっぱりそれを、みんなも美しいと思うよねっていうふうな、そういう働きがやっぱり人間にはあって、
しかもそれこそがやっぱり判断力っていうものの意味なんだよね。
だから花を美しいと思うっていうことを、美しいと判断するって言ってるわけじゃなくて、
もっと言うと、この花を美しいと思うまではやっぱり経験なんですよ、個人の。
経験なんだけど、この花は美しいって言い切ると、
それって他の人にも適用するようなものとして考えてるんじゃないっていうふうにカントは見るんだよね。
あー、なるほど。終盤も終盤で、この個性と判断の違いの確信に今触れた気がするんだけど。
いや、その前半の花が美しいと自分が思うまでは、今その経験的な話っていうのは、
経験主観の経験なんだよね。
感性・個性の話で収まるっていう見解でいい?
あー、なるほどね。
どうなんだろう?
なんと、個性の風呂に入るのかな?いや、風呂には多分入らないんだけど。
でも、言おうとすればそういう気持ちが湧いてきた時に、それを美しいと名付ける。
美しい漢字だというふうにラベリングしたっていう意味で、なんだろうな。
まだその、これ個性的っていうのはちょっとやっぱり言いにくいんだけど、
あくまでも経験の範疇だよねっていう感じかな、これは。
へー、なるほどなるほど。
あー、ごめん、ちょっとここは確かに難しいというか、すごい微妙なラインかもね。
経験、うわー、でもむずい。
今言おうとしたのが、美しいっていうところまでは、ある意味無意識にでも感じられるところだよね、と思って。
この判断に至るには、多分、美しいですよね、みたいな。
どこまで含んで、と思って、そっちは意識側なのかなと思ったんだけど、
多分そこも人によいけりで、この美しいと思うと、美しいよねって思うところが、
混同してる人と混同していない人です。
それが、しかも意識的か無意識的かでさらに分かれる気がして、
すごい難しい話だなと、になっちゃうなと思った。
だけど、感度的に言うと、意識的だろうが無意識的だろうが、
後よりにこの部分まではありますよね、っていうふうに説明はできるかなとも思った、みたいな。
ちょっとややこしい話になっちゃうんだけど。
そうだね。
ちなみに、今ちょっと本を改めて読んでたんだけれども、
分かりやすいかなと思った例があって、
馬が走っていますと言うときに、
例えばそれを合成的に見ると、
馬が速く走るということが生き残るのに有利であるとか、
例えばそういうふうな筋肉をしているのも、
そういう速く走るために必要な要素だからだっていうふうに、ある種考えることもできるよねと。
これはある種目的、さっき目的がないって言ったけど、
馬の体つきとかにはもしかしたら目的があるっていうふうにも言えるよねと。
でも、それから離れて単純に、
なんて人生をとれた体をしているんだとか、
なんて走る姿が美しいんだっていうふうに見ることもできると。
そういうふうに言うと、この同じ馬が走るとかっていうのにも目的的に判断することと、
ある種純粋理性的に理解することも、
例は、なんて美しい存在だ、それは驚くべきことだっていうふうに判断力として感じることができる。
あー、なるほど、なるほど。
その辺は、もしかしたら平行に、というか同時に起こっている可能性もあるんだね。
そうだね。
人間の中でね。
そうです、そうです。
やっぱりそこを一体分けてあげるときに、目的っていうものを感じるかどうか。
あくまでもカウント的には目的がないのに、そこに美しさとか崇高さとか、
そういう意味付けをしてしまうっていうことをもって判断っていうふうに言ってるみたいだよね。
カント思想の影響
うーん。
結構厄介な概念ではあるよね、どうしても。
ここまで聞くと、確かにそこはご生徒というか、純粋に生徒の判断というのは、
全然違う引き出しに入れとかないと、そもそも説明もできない、語ることもできないのかなっていうのは伝わってきた気がする。
そうですね。今回だいぶシャラッといってしまったので、やっぱり腑に落ちない部分、何気もあるかなとは思うんだけれども。
聞いてくださってる方も、ちょっと分かってるのか分からないのかというところもあるかなとは思うんですけれども、
今日お伝えしたかった一番のところは、カウントってどうしてもお堅いイメージというか、
純粋理性とか実践率とかを含めて、基準を立ててそこに当てはめる、カテゴライズするみたいな印象を結構強く言ってしまったなと思っているんだけれども、
やっぱり最後この判断力を見たときに、もっと原始的なというか、本当に綺麗だとか、美しい、素晴らしいみたいな、
そういう気持ちをちゃんと扱った上で、やっぱり人間でも捉えてた人だし、そういう人間というものに魅力を感じた人なんじゃないかなというような感覚というか、
印象をぜひお伝えしたいなと思ったんだよね。
はいはいはい、なるほど。
そういうところで、今回カウントを全6回やらせていただいて、改めてカウントを2回目ってことでやらせていただいたんですけれども、
どうかな、結構個人的には前回やったときよりも、前回は本当に、今回は7たす5は十二ではないみたいな、結構個別の話でカウントを取り扱ったかなと思うんですけれども、
カントと判断力批判
今回もう少しカウント全体感であったりとか、もうちょっと冒頭お伝えした、やっぱりロックヒュームから来る経験論というものに対して、
どうやっぱり打ち返したかっていうことの、もう少し広い部分が教えてきたんじゃないかなと思うんですよね。
はいはい、そうね。人間とは何かみたいな。
そうそうそう。
ただ、最初も言ったけど、前回のカウントを覚えてないので、今回カウントを2回目みたいな大分けで言うとね、
正直3回でも4回でもね、カウントに限らず、どうせこのラジオって一本一本が長いから、
前のカウント回を例えば5回、6回全部聞き直そうって結構カロリーがいるから。
まあしならないからね。
確かにね。
何回でもやってもらっていいかなと、改めてというか思ったね。
そうですね。確かに逆に言うと、これでカウントをやり尽くしましたかっていうと、当然できてないっていう話でもあるし、
僕もカウントを理解しましたなんて、他の哲学者と同様、まさにそんなことをすごく言えないので、
という意味では、またいろんな流れの中で、これカウントにもう一回見た方がいいよねとか、
さっき言ったように原子力学とかもカウントを参照しているという時に、
じゃあフッサガとかハイデガーっていうものから見た時に、カウントってどの国なんだろうな、ミライさんだろうとかっていうのでまた戻ってくるみたいなことはね、全然あるかなと思うので。
そういう部分も含めて、ぜひこれからもお届けしていきたいと思ってますっていう感じですね。
はいはい。いやー、分かりました。
今後なんですけれども、これも冒頭お伝えした通り、東洋に戻ろうかなと思ってます。戻っていいか、行ってもいいかなと思ってまして。
時代も場所も飛び越えちゃうんですけれども、朱子学ですね。
朱子学か。
朱子学。時代的にはもう1200年、1100年ぐらいなので、200年ぐらい昔になるのかなっていう感じで、全然違うんですけれども、ちょっとだけ先取りすると、朱子学ってもともとの儒教がベースなんですよね、孔子の儒教。
そこからの自然、世の中を理解するときに、いわゆる気合とかの気、あと理、ことわりの理っていう、この2つの原理で世界を解き明かすぜみたいなことをやってたらしいんですよ。
そういう意味では、単純に世の中をそのまま受け取るんじゃなくて、まさにことわりみたいなものを考えたっていう意味では、近いとは言えないんだけれども、秩序みたいなものを大事にしたっていう意味で、若干カウントに変わるとも言えなくないなみたいな、ちょっと強引なんだけど。
そういう意味で、少し流れとしてもいいかなって思ったんですよね。僕自身も朱子学とか全然わからない中でやりたいなって思ってたこともあったんで、一回、ドイツ観念論に行くというよりも東洋に寄り道をして、そこからまた西洋に戻ってくるのかっていうところを考えながらやっていきたいなと思ってますっていう感じですね。
はいはい。わかりました。さすがに西洋を続くと恋しくなってくるからね、東洋のあの感じがね。
そうね、そうね。でもやっぱりね、禅とはまた違う。僕も今少し本を読み始めてるんですけれども、もうちょっとちゃんと説明してくれるとか、最近作ろうとしてる感じがあるので、面白いと思う。
朱子学への移行
はいはいはい。なるほど。わかりました。次回ですね、雑談を挟みつつ朱子学に入っていくというところで楽しみにしていきたいと思います。では、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
52:51

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