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2023-03-22 44:31

#95 悪用厳禁!すべてを解体するデリダの「脱構築」入門

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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デリーダの脱構築について
(BGM)
はい、それ鉄ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
前回からデリーダのポスト構造処理というところで、まずはデリーダの生涯と、あとはポスト構造処理の全体像みたいなところを見てきましたと。
今回から具体的な中身に入っていくっていう感じでいいんでしょうか?
そうですね、はい。今回はですね、まず脱構築という、前回もね、不要意にいっぱい使った言葉をですね、ちょっとずつ解きほぐしていきましょうと。
で、たぶん今回で次回分くらい使ってお話するとは思ってますと。
やっぱこの脱構築って、そんだけのボリュームがあるんだね。
そうだね。し、やっぱなんかね、いろいろ調べたんだけど、定義はあんまされてないんですよね。
うん、というかたぶんね、定義を拒む言葉だみたいな話とかが出てきて。
本人はなんて言ってるの?本人は。
本人はね、いろいろ言ってんの。いろいろ言ってんだけど、なんだろうな、定義じゃないんだよね。
例えば、次回これ触れるように脱構築は正義だみたいな話を言ってるんだけど、別に脱構築は正義だってわけではないのよ。
脱構築と正義っていうものは、もし仮に存在するとしたら同じような仕方で存在するみたいなことを言ってる言葉であって、脱構築の定義ではないんだよね。
なるほどね。概念を生み出した本人も難しいほどの、それを説明するのがね。
それよりも定義を避けてるというか、この脱構築って概念自体が否定してるみたいな方が、もしかしたら近いのかなと思ったりはしてるんだけど。
それもちょっと話していくのと、あとね、実は脱構築って言葉自体、デリタの元々の言葉っていうよりは、ハイデガーに変えたいって言葉があるんだけど、
それの翻訳として使ったらしいんですよね。
あ~そうなの。
そう。別にデリタ自身もこの言葉がすげえぴったりくるって思って使ってなかった節があるらしく、
でもそれが気づいたら、デリタ=脱構築みたいな感じになっちゃってますよみたいな感じなんですよね。
なるほど。でもキャッチコピーの大事さだね。
そうだね。やっぱり分かりやすいし、ポスト構造主義=脱構築ってちょっとしっくりくる感じあるじゃん。
言葉的にも。
だからデリタ自体は、俺は脱構築を発明させてどうや、みたいな感じではないんだけど、
ただまあやっぱり脱構築者みたいな言葉というかそういう言われ方もして、やっぱりデリタっていうのはそれを使っていろんなものを考えていったよねみたいな、
っていう話なんですけど、じゃあ脱構築とか何かみたいな話をね、いろいろしていこうと思うんですけど、
何もつかみどころがないとさ、やっぱり聞いててもしんどいと思うので、すごいふわっと誤解を恐れずに言うと、
これもちょっと多分なんだけど、二元論的なあらゆる価値を疑うっていうのが脱構築なんじゃないかなと思います。
二元論的な価値と脱構築
二元論的っていうのは、それこそずっと言ってるプラトン以来の、あるいはイデアロン以降の西洋哲学に目がけまくと流れる考え方で、
理性と、真理と真理以外のものとか、やっぱり善と悪とかそういう対立関係にあるものだよね。
あとは主体、自分と客観、主観と客観とかって分けるような考え方。
で、じゃあその価値っていうのは何かっていうと、これが日常的な言葉にも近いんだけど、
もう少し進めて言うと、いわゆるあるものが在事とか重要とか重みづけがあるみたいなこと?
あ、ちょっとごめんね。今5辺飛んでた。
二元的なあらゆる価値を疑うっていうのの、今二元論の話をしてくれて、次は価値の話をしてくれるってことだね。
この辺もさ、ふわっと言っちゃうと認識が違っちゃうので、一応言っておくという感じで。
つまりはそのあらゆるものを二つに分けますと。で、どっちか片方には優れているとか価値があるみたいなことを言うんだけど、
もう一方にはそれを劣っているとか価値がないみたいに考える考え方っていうのが、
実はその西洋哲学には延々とあるよねっていう話を、
デリナもそうだし、それこそニーチェとかも含めて、こういう哲学を捉え直すみたいな人が結構言ったりしますと。
で、結構これってさ、僕らからすると当たり前の感覚じゃない?
この言論的な感覚の話だよね。
そう。で、かつどっちかが優れているのとどっちか劣っているみたいな。
要は、例えば善と悪があった時に、善という方が良くて、悪というのは悪い。
それこそ悪=悪いみたいな話だから劣っているんだみたいな感覚。
はいはいはい。そうだね、確かに確かに。じゃないと比べようがないもんね。
そうそうそう。
感じはする。
うんうん。
そうなんだけど、でもなんでそもそもそれ比べる必要があるんでしたっけ?とか、
なんでそこを無意識的に比べてどっちが価値があるとかないとかっていうふうにしちゃうんでしたっけ?
みたいなことっていうのが言えちゃうよねっていう話もあるんだよね。
はいはい、まあ確かにね。
例えを用いた二元論的な価値の話
そう。で、またというと、例えばプラトンのまさにイデアとかその移しみたいな関係もそうだし、
デカルトがまさに言ったような、その精神と肉体みたいな、そういうのを分けていく心身二元論みたいな話もそうだし、
これ本当に何にでも言えて、例えば上司と部下みたいなってある種二元論じゃん?分かれてる。
そうだねそうだね。
そう、でなんとなく上司の方が偉くって部下の方が、もう襲ってたりはないけど偉くないみたいな感覚があった時に、
これってなんでなんだっけ?みたいな話になっていくんだよね。
ああ、まあ面白いね。確かにな。例えば国とその人、国民みたいなのも、確かに国の方が上位な感じするしなとかね。
そうそうそうそう。
確かにな。
それがその構造的に、たくさんの人がいて国が作られてるって縦の構造的なものなのか、
国の方が例えば戦争でいくと、一人一人の命があり国の方が大事だった時に、
それって縦の関係じゃないよね。
そうやっていう時の、じゃあ国が大事ってなんでなんだっけ?みたいな話があった時に、
デリダの批判と二元論
これで結局その真理と非真理、だから真理じゃないもの、みたいな関係っていうのに繋がっていくんだよね。
要はその価値があるものが真理。哲学的には一番価値があるとか、物事の第一原因みたいなものが真理だから、
それをある種突き詰めてこれが真理だって言って、それをある種あがめたてまつる。
その真理以外のものがある種真理から派生的に生まれたものとか、その真理から導き出されるものみたいにすると、そっちは日的なものだみたいな話になっていって、
逆に言うとその価値がないものっていうのを特定することによって、真理そのものの価値を高め続けるみたいな、
そういう運があるよねっていうことをデリダはそういう二元論というのを批判する人は言うんだよね。
はいはいはい、デリダもそっち側だよね。なるほどね、例えばだけど真理そのものに価値があるから他のものが価値がないんじゃなくて、
あっちの方が価値低いでしょ、だから俺の方が上なんだよっていう、相手を下げて自分を上げるような営みになってない?みたいな感じね。
いやでも本当まさに、実はダスコーチクが言おうとしたのはそういうこと。もうちょっと言うと、何を問題としたかっていうと、
つまり二元論っていうのは、さっき一方が高い、一方が低いっていう、そういう階層性を帯びるよねっていうね。
だから元々上司部下っていうのはそもそも上下っていうのがあるから、その階層につけられた名前ではあるんだけど、そもそもね。
でもやっぱりそういう人とか同じ、本来違いがないはずの人っていうのが、そういう階層性を帯びるっていうのはそもそも二元論的な発想で、
例えば組織とかを作っている体みたいな、そういうことが言えるんだよね。
で、この間何が問題かっていうと、それがすごく自然に権力とか権威と結びつきますと。
前回お伝えした通りデリダっていうのは、やっぱり世の中に翻弄されたというか、フランスでフランス市民だったのに、急に政権変わったらお前フランス市民じゃないぞって権利を剥奪されるみたいな、
そういうまさに権力みたいなものにすごく向き合ってるわけだよね。
そういったときに、例えばその真理っていうのは知ってる人が偉くて知らない人が偉くないみたいな、
そういう哲学的な、例えば地位を持ってる人がみんなを統治すべきで、そうじゃない人が統治されるべきだとかっていう、例えば考え方に標準につながったりするし、
それだけならいいんだけど、結局支配されるとか、落とし合えるみたいな、そういうことにつながっていきますよね。
それこそあれだよね、反ユダヤじゃないけど、俺たちはユダヤ人じゃないからOK、ユダヤ人はダメだみたいな、それまさにデリダが経験したものそのものだもんね。
そういう感じ。やっぱりその、何ていうのかな、2つに分けるとそういう階層構造が生まれて、そこに価値の問題が生まれて、それを権力と結びつくみたいなのはある種、地続きだと。
これがプラトン以外の資料哲学というか、特に刑事上学と言われるような、感覚とか認識で捉えられないもの。
目に見えるものとかあったら、まだそれによって、例えば実用的な価値とか言えたりするんだけど、分かんないから、とにかくこれが価値があるっていうトンガチみたいな。
なるほど、あの、あれか、面白い二元論構造発見大会みたいな話。
もうあれで、オーディーでしょ。君たち壮大なオーディーやってたね、今までって話ね。
なっちゃうのよ。
まさに弁証法とかも、2つにあるものを矛盾させて対立させて、それを乗り越えるっていう、ある種それが強みだったわけではね、弁証法の。
そもそもそれも二元論を前提としてて、乗り越えていくって話なんだけど。
確かにな、そのオーディーの攻略法みたいな話ね。
一個の攻略法だね、そう。
いろんな対立を並べるんじゃなくて、そもそも全部上にいってったら絶対一みたいな、そういうものに絶対政治だから行き着くよって言ってたのは、
あんまり言っちゃうとちょっと楽すぎるかもだけど、でも平気だったらそういう。
脱構築と現実
はいはいはい。
逆にエリダは脱構築ってもので、そこにどう向き合うかっていうと、本当に物事が2つに分かれてますと。
で、兄貴がさっき言った通り、片方を仮にちょっとAとして、他のものはBとした時に、Aの方がBより優れてますよって言うとすると、
それを突き詰めていくと理想的には、じゃあAの中にはBの要素が何にもないと。
要はBっていうのが含まれてたらAに劣ってるっていうのが含まれちゃうわけだから、
AはBを完全に外にやっぱり置いろうとするのね。
で、あ、よかった、Bが全部脱がったから俺は完璧なAだみたいな、そういう風にしたくなるんですけど、
じゃあ本当にこれが成り立つんだったら、1回分かれたAとBっていうのはもう永遠に分かれて絶対交わらないはずじゃないですか。
で、それが確かに理想なんだけど、じゃあ本当に現実そうなのって言うと、そんなこと絶対ないよねっていうのをエリダは言うのね。
はい、そうだね、ないんだね。
例えば善と悪みたいな話も、例えば最近で何の言葉か、ネットの言葉なのかわからないけど、
正義の反対は、善の反対はもう一個別の正義だとか善だみたいな言葉って聞いたことあったりする?
最近ほら、漫画とかでもさ、やっぱり敵キャラがちゃんと立ってるみたいなのってそういう感じじゃん。
そうそうそうそう、これすごい脱構築的なのよ。
へー、なにそれ、そうなの。
じゃあヒロアカは、僕らのヒーローアカデミーやんか、ヒロアカでも覚えちゃったけど、あれは脱構築主義的な漫画なのね。
そうだよ、だって逃げんのんじゃん。そもそも正義側、ヒーロー側とさ、デュランって悪側がいてさ、
それが本来なら交わらない、別に正義は正義で悪は悪でいればいいのに、
悪が正義を語ったり、正義が悪に陥ったりして混ざり合うから、そこにストーリーが生まれるわけじゃん。
詳しいな。
意外と読んでたからね、一時期。
はいはいはい。
ストーリー作成の理論
でもまさにそうで、ちょっとこれ脱線するんだけど、僕一時期、脚本術みたいな本を読んだことがあって、
ハリウッドとか映画の脚本とかシナリオっていうのが、なぜ感動させるのかとか、
なんか思っちゃうと脚本とか書いて一発当てたら楽になれるかなみたいなことを思って。
そんなことも考えてたんだね。
不純なね、そう動機で読んでたんだけど、
まさにシナリオっていうのは、変化であって、あと主人公の成長だみたいな話があるのね。
結局その主人公が成長するっていうものをやり立たせるためには、主人公ってやっぱり、
主人公が持ってないけど、もっとよく書けてるものとか、主人公が求めているものをちゃんと出さなきゃいけないみたいな。
ロード・オブ・ザ・リングで言うとまさに『ユビワ』だったりとか、あとは『ゲド戦記』とかで言うとまさに自分の名前とか影みたいなものだったりするんだけど、
それがあるからストーリーとして成立するとか、もっと言うと人間はそういうストーリーやっぱり求めている。
じゃないとわかんないもんね。なんかある少年が一人いました。いきなり始められてもどう付き合っていいかわかんないもんね、その物語もね。
そうそうそうそう。やっぱりそれが知りたげられている、屋根裏に住んでいる、実は元魔法使いの子とかでのハリーポッターになったりするわけじゃない。
今回の『デリーラ』もそんな感じだよね。幼い頃にいきなり国籍を剥奪されてみたいな、そういう話ね。
そう、でもそれはあくまでもストーリーなのよね。ただやっぱり人間はそういうストーリーで物事を捉えるから、そういう二元論的に、
どっちが善でどっちが悪かって言われた方がわかりやすいみたいなのがあったりします。
なんだけど、さっき言った通り、正義の反対はもう一個の正義だよねとか、要は、善っていうものを死に据えたいのに、そこにはどうしても悪っていうものがまとまりついてくる。
みたいなことが出てきます。例えば、ちょっとこれは変な例なんだけど、さっきその上司部下みたいな話をしたじゃない。
でもやっぱりどんな上司もどんな部長もどんな執行役員の部下なのよ。
はいはいはい。
とか、どんな部下も将来上司になる可能性っていうのはどっかに残ってるわけだよね。
そうね。
で、社長はとかって言うと、社長は確かに一個組織においてはトップかもしれないけど、今度は社長と部下と言われば社長と従業みたいな対立がするよね。
そうすると一人社長がフリーランスだって別に社長とは言いにくいわけだから、結局従業員っていうのがいないと社長ってのも存在しませんよねみたいな。
社長っていう概念の中にはそもそも従業員っていうのが含まれてるよねみたいな、そういうことが言えたりします。
つまりその二元的な考え方においては、その片方をどんな理想的な絶対的なものに高めようとしても、必ずその排除しようとしたもう一方の概念というのが入り込んできますよ。
っていうのがデリダが見出したことです。
二元論的存在の境界線
これは前回のソシュール的な考え方だよね。もう分かれたものを概念は一方を反対概念としないか定義しないとそっちも定義されないみたいなことがあったとしても、
社長っていうのも何かを二つなり三つなりに分けたものの結果の言葉でしかなくて、ということはその社長っていう言葉には、もう分けられ、その社長って言葉が生まれたときに、
もう同時にもう双子のように生まれたもう一方の従業員って言葉が生まれていて、絶対そっちがちらつくよね。双子のようにみたいな話だよね。
そういうこと。
よくあるじゃん、一人部長みたいなので、部下いないんだけどね、みたいなさ。
それとも果たして俺は部長なのかみたいなアイデンティティを選ぶみたいな話と一緒で。
実はこれ左線なんじゃねえかね。窓際なんじゃねえかみたいな。
だから本当に兄貴が言ってくれた通り、まさにそういう概念が生まれた瞬間にもう一個対立概念が生まれてくるとか入り込んでくるみたいな、そういうことをまさにレイダーは結構言ってるんだよね。
はいはいはい。
だから哲学的な理想とか伝統で言うと、やっぱり心理ってのはそれ自身で充足する。
イディアは善のイディアっていう完璧なものがあって、それが他に原因を持たずに、それそのものとして完璧だみたいな。
まさに神とかもそうなんだけど。
なるほどね。もう従業員いないけど俺社長みたいな存在じゃん。
もうなんか求めちゃってるって話だよね。
そうそうそうそう。
でもいやいや、別にそんなのは社長じゃなくてフリーランスだみたいな個人事業主だっていう人が自然に湧いてきて、これが内側に滑り込んでくるよみたいな。
はいはい。でもそれを求めちゃってるよねって話だね。
そうそうそうね。かつこれが恐ろしいのが、これっていうのはどんな対立構造においても起こせるんだって話なんだよね。
例えばさ、なんか一個言ってみて、ポンってこういう概念とかどうよみたいな。
えーじゃあビー玉。
ビー玉?じゃあビー玉っていうのは例えばおはじきとかって時に、これ対立してるかわかんないけど、どっちもさガラスでできたさ、おもちゃじゃん。
でも丸と平っていうところによってさ、じゃあどこで分けられるの?ビー玉とおはじきって。
おー!確かにね、どこまで丸、楕円はどうなの?みたいなね。どっちなの?みたいな。
ちょっと凹んだビー玉はじゃあおはじきの厚みがあってもいいじゃないですか、例えば。
はいはい、ビー玉は、でもそっかそうだね。確かにね。完全な球のガラスの玉をビー玉と呼んで、それがおはじきと呼ぶみたいな、どっかに絶対あるはずみたいな。
そう、あるはず。
そこにはその二元論的な存在が、やっぱ二元論っていう境界線が存在するだろうって話になっちゃうのか。
でもだいぶ苦しかったけどね。
こういうのもうちょっとわかりやすいようなの出せばいいかなと思ったんだけど。
確かに確かに。でもさ、踏ん張ったらギリギリ言えた気がするじゃない、なんか。
脱構築と相対主義
そうだね、でもおはじきとビー玉はいいね、確かに確かに。全く違うもの持ってこられてもええってなるかもね。
そうそうそうそう。
そう思ったけど、確かに。
みたいな感じがあるので、そういう二元論の境界っていうのは意外と突き崩れるぞみたいな。
まあ頑張れば何かあるっていうね。
そう、何かある。
わかりが絶対あると。
そう。
はいはいはい。
っていう風に言えちゃうよっていう話で。
今あれか、じゃあビー玉が脱構築された瞬間なんだね。
まあ、脱構築の、なんだそうだね、向けられた瞬間が、ちょっと脱構築できたかどうかちょっとわかんないけど。
はいはい、まあこれがあれか、脱構築、そうか、楽しいね。
ほら脱構築ってやっぱりやっちゃいたくなるキャッチーズがあるんだね。
いえい、脱構築ゲームって言えちゃう、なんかそのまさに気軽さっていうのはそこ。
そういうカードゲームありそうだね。
確かにね、そう概念を溶かすゲームとかはね、楽しいと思う。
脱構築、ただね、そういうビー玉とかっていう、絵が描いたカードだけがある脱構築ゲームみたいな。
カードゲーム。
もしボードゲーム製作会社の方がいらっしゃったらちょっと前向きに。
出落ち感すごいけどね。
そうね。
名前、脱構築ゲームって大したことないね、ゲーム自体はね。
まあみたいな感じでね、本当に結構なんでもできますって感じなんだけど。
これをね、普通に考えていくと、実は脱構築ってニヒリズムに近づいていくよね、みたいな考え方が出てくるんですよ。
要は、これまで重要と思われてきた善悪とか自由みたいな話もそうだし、さっき言ったビー玉とかも結局、ビー玉ってそもそもあるのかみたいなこととか突き詰めちゃうとさ、
結局、物事に、世の中には物事があるのかとか、価値とは何かみたいな、結局そっちにどうしても近づいていくんだよね。
何でもあるのは相対主義になっちゃって、結局ビー玉っていうのは、ビー玉がそういうものがあるんじゃなくて、
おはじきとか風鈴とか、ガラスでできたいろんなものの中で、たまたま丸くてちょうど手につまめるようなサイズのものをビー玉と呼んでいるだけだ、みたいな。
そういう相対主義に陥っちゃいますよと。
確かに逆にあれだよね、おはじき派からしたらさ、その丸いのあってもおはじきの仲間でおはじきにしろよ、みたいな。
もうどっちも正解になっちゃうんだね。それぞれの正義があるから。
そう、転がるか滑るかの話で、結局遊ぶものとしては一緒だ、みたいな。
うんうん。
だからまさに弁償法の時にやったみたいな、そういう概念の対立村がやっぱりあちこちにできちゃうわけよ、ハンバーガー村みたいなやつがね。
これが別にさ、そのものとかにあっている分にはいいんだけど、さっき言ったような、それこそ善悪とか自由と不自由とか、国家とかそういうのに向けられた瞬間に、素朴にこれってやっぱ大事だよねとかいいよねって思われるものまで崩壊させちゃうんだよね。
うん、はぁはぁはぁ、なるほどなるほど。
ニヒリズムと新しい価値
さっき言ったような、だからさ、サリーとやるような、正義って本当に正義なのかみたいな話がお話の中でやっぱりやられてるから、フィクションで楽しいのであって。
それはやっぱり実際の現実世界とか、僕らが生きている日常に滑り込んでくると結構それは怖いよね。
そうだね、信号を守らなくてもいいでしょとかってなっちゃうと、守らないのも一つの正義だとかって言い始めるともうやばいよねって話だよね。
そうそうそう、そう言える瞬間もあるよね。だからやっぱり、さ、じゃあなんかね、目の前の人があの交通事故で倒れている時に信号を守るっていうのが正義なのかとかさ、
あとやっぱり、あのサイデル、サイデルさんじゃないや、マイケル・サンデルさん、なんだっけ、正義とは何かみたいなさ、そのNHKの授業で一時期めっちゃ流行った人いなかった?
うん、あのトロッコ問題だよさ、その向かいに5人の人がいてトロッコをまあ引いちゃうんだけど、太った1人を突き落とすと5人が助かるみたいな時にさ、その5人を突き落とす、あ、違う違う、あの5人をそのまま引くのがいいのか、1人を突き落とすのがいいのかみたいなさ、話があったじゃない。
ああ、その話があったんだ、ごめん知らない。
そうか、そうそう、あのサンデルさんの話はまさにそういう話なんだけど、まさにそういう問いが出ちゃうんだよね、ここから。
ああ、そういうところから出てくる、ゲームというかね。
思考実験ね。
思考実験、うんうんうん。
そういうものとか正義とは何かっていうと、まさにそういう問題が起きてきますと。で、まあ思ってるとそのニヒリズムっていうのはその無価値とかその根拠がない、あらゆるものに根拠がないっていう、そういうような発想なんだけど、
うん。
ニヒリズムをどう乗り越えるかとか、2,1の時にもあったと思うんだけど、その超人がいて、超人っていうもので人生っていうのを永劫回帰でやっていくんだみたいな話もするんだけど、
結局その新しい価値を打ち出した瞬間に、それも価値なんだから、その価値ってなんでなのっていう根拠の問題が出てきますと、
でも結局その根拠も脱構築できちゃうから、根拠になり得ないよねっていう無理矢理ループが起きちゃって、ニヒリズムっていうのがもう、ある種の乗り越えがたいみたいなものを証明しちゃったんじゃないかみたいな。
まあそうだね、そういう風にも全然使えるよね。
生きる意味の問題
せっかくね、俺は頑張って生きていくって、人生に意味を見出した瞬間に、その意味見出すっていう価値って意味ないよみたいなのされちゃうわけだもんね。
そう。
例えばあんた一人がそう思ったとして、それを万人に受けられない世の中において、どこに意味の根源があるのみたいな、それをニヒリズムは無限に生きるっていうところの人生のある種肯定というか、そこに意味を見出したよみたいな話があるんだけど。
それを崩しちゃうんだね。
そうそうそうそう。
例えば、じゃあどういう平等っていうのが大事だみたいなことを主張しようと思った時に、さっきの話でいうと、平等っていう心理的な価値からは不平等とか差異っていうものが外に追い上げられるわけだよね。
そうだね。
ちょっとこれも実はミスリードがあって、平等って本当に違いがないっていうことなのかみたいな、公平と平等って何が違うのかみたいな話とか出てくるのはここなんだけど、今、彼にそういう話をすると、
場に荒れる人が、そういう不平等がないとか差異がないみたいな話になっちゃうと、全員が全く同じ思考とか外見で生きるんですかみたいな、それってディストピアだよねみたいな。
うんうんうん。
結局それって一つの価値だけを大事にするっていうことは、そもそも価値っていうことは問題ならない、無価値な世界なんじゃないみたいなことが言えたりしますと。
うんうん、なるほどね。怖いね。
だから平等っていうのは、価値にはなり得ませんよとかって言えちゃったりして、脱口地が怖いみたいになるんですけど。
うんうんうん。
でね、ちょっとこれは少しぼやきというか台本作ってて思ったんですけど、結局価値とかにニヒリズムって、そもそも二言論的な発想から生まれてくるんじゃないかなって思ったんだよね。
うん、はいはい。
そう、仏教の一言論的なというか、空みたいなところからすると、そもそも価値とかが問題にならなくなってくるんですよ。
確かにそうね、その議論がそもそもなされない感じするよね。
ないとだない。
確かにそれもないで終わってるというか。
そう、だから仏教はニヒリズムなんじゃないかとか言う時があるんだけど、そもそも二言論に立たないから、価値を問題にしないっていうか、価値の問題がそもそもないっていう意味では価値とかは無意味なんだけど、実はそれは問題にならないんだよね。
なるほどね、そこにあれか、いわゆる確かに仏教が何か無情感だったりとか、虚無感を呼び起こす瞬間ってあると思うんだけど、それに対する批判がそういう二言論的なところからされてる場合と、いやいやこの一言論的な感覚から言うと必ずしもそうじゃないんだよっていうのが、
もうあの、交わらないんだ。そこは二言論がすれ違ってるっていうのはそういうところにあるんじゃないかっていう話なんだ。
そういうこと、そういうこと。
っていうのを思ったりはしたんだけれども、やっぱり僕がいて兄貴がいて、そこに違いがあるから価値が生まれるとか、違いが出てきたよねみたいな話ってあるんだけど、逆に言うとそれがあるから結局じゃあ、
50億人とか70億人とか80億人の中で自分の価値は何かみたいな問題も生まれてくるみたいな話があった時に、やっぱりそれって結局二言論とか違いをつける発想から出てくるものなんじゃないかなみたいなことを思ったりしましたと。
なるほどね、これは壮大なあれだね、もうなんかゲームのルールの違いって感じがした。さっきオーギーみたいなさ、その二言論、面白い二言論を探そうオーギーだけどさ、さっき仏教で言うとさ、そもそもそのオーギーのルールが違うじゃん。
はい、ない、みたいな、はい、ない、みたいなさ、話じゃん。
一言論ゲーム、ビー玉そんなものはないみたいな。
以上みたいなね。
よくわかんなくなるよね。
それゲーム作って、一言論ゲームと二言論ゲーム作って、すごいなんかでも理解が促進される気がするよ。
そうかね、ちょっとね、発狂しそうだけどね。
人を発狂させるゲームになりそう、闇のゲームとかね。
一言論、うん、やりたいな、それ、二言論ゲームと一言論ゲームをどっちもやると、その違いがちょっとわかる、身体的にわかるかもしれないみたいな。
どっちもやるっていうか、多分ね、ルールの途中で変えようと思う。
はい、今から二言論です、はい、今から一言論です、みたいな感じで切り替えていくと、多分ね、面白いと思う。
それいいな、やりたい、それ。
脱構築とニヒリズム
やりたい、ちょっと考えようか。
もしやりたいっていう方がいたらちょっと言っていただければ、僕が本気で考えるアレになるかもしれないので。
何言ってんだこいつらって話だよね、多分。
まあ確かにね、酒も飲んでないのにね。
確かに、朝からね、何言ってんだって話なんですけど。
ごめんごめん、ちょっと脱線押してしまったけど。
ちょっとね、ニヒリズムの話に寄ってしまったんですけど、ある解釈、いろんなやっぱりデリナの解釈とか批判とかもちろんあるので、
それを全部見るわけにはもちろんできなかったんですけど、
デリナの脱法クチュックっていうのは、まさにそのニヒリズムを克服しようとして、難楽の立場に立つ。
立場に立った瞬間に、立場っていうそのものがニヒリズムを生み出すんだみたいな、そういう事実を突きつけてるんだよみたいな風に言ってるものもあったりします。
深い感じがする。
そう、で、やっぱりここからが難しくって、じゃあその事実を突きつけましたみたいな脱法クチュックっていうのは、
そういうニヒリズムを克服しようとした時に、結局その立場っていうものがそもそも無意味だとか、ニヒリズムの原因になっちゃうんだっていうことを言うような仕組みなんですとかって言った時に、
えっ、それって何の意味があるのってやっぱり事にある種行き着くんだよね。
まあ確かにそうだね、確かに確かに。論破して押し終えちゃちょっと。
デリダの脱構築の意義
立場とかスタンスに対して必然性を失わせるみたいな道具に、現実的な意味とか価値ってあんのみたいな。
まあ確かに確かにそうだよね、そっからまた新たに言論を生み出すの、ゼロに戻して白紙に戻してまた新たに言論を生み出すのみたいな感じだよね。
これがやっぱり前回言った、いろんな人が「いや、それデリアっていうのは価値とか真理とかっていうのをただ攻撃しただけの、別にいい仕事をしない奴だ」っていう批判にもある種繋がってる部分であるんだよね。
だからそれって、なんか世界とか学問とかを前に進めるために役立ってるんだっけみたいな話。
まあそうだね。
この問いには2つの答え方があって、1つは「そんなことを言うのは物語だ」と「脱構築ってもの自体には意味がなくて、ただただそういうふうに働く道具なんだ」みたいな。
「ハサミが紙を切れるのと一緒で脱構築はあらゆるものを解体するのだ」みたいな。
っていうのが1個の回答で。もう1つは、実は脱構築っていうのは、思考不可能なものに向き合うスタンスを与えてくれる道具なんだっていうものがあるのね。
つまり、教育の真理っていうのは一つに定めることができません。
それが美とか善とか、言った瞬間に、それも脱構築の対象になっちゃうんだけど、人間にはやっぱり思考はできないとか、言葉をつけてそれを概念として取り出すことはできないんだけど、それでも大事なものがあって。
「脱構築っていうのはそこに近づくための手段なんだ」みたいな答え方があります。
だから、まさに言葉にできないものは思考できないし、言葉にできちゃうと脱構築されちゃうんだけど、追概念で、二元論的には。
でも、逆に言うと言葉にならないものがそこにあるから脱構築できないっていう可能性が逆にあって。
もし脱構築できないものがあるとするなら、それはより人間の思考できないものを思考するっていうものに近づくんだみたいな答え方があって。
なるほど。
多分言えてると思う。僕が読み取ったわけですもんね。それをやってるのが法律、法と正義っていう観点で、デリダはそれをやろうとしてるらしいんですよね。
そうなんだ、これから。はいはいはい。
だから、正義っていうのは言葉にできちゃってるっぽいんだけど、デリダ曰くこれは脱構築できないらしいんだよね、正義っていうのは。
え、すげえ。
法と正義っていう観点を見たときに、それは脱構築できないらしくて、だからそれをちょっと次回、詳しく見ていきながら、脱構築って結局なんだっけっていうところをよりより見ていきたいなっていうふうに思っております。
おー、そうなんだ。そっかそっか、今の最後さ、脱構築って結局何?みたいなさ、ふわーっと仕掛けたんだけれども、ちゃんとデリダは自分なりの脱構築、本人がね、それこそちゃんと定義してないって部分もあると思うんだけど、ちゃんとやってるんだ。
やってるらしい。
道具として、仮にそれがハサミみたいな道具だったとしても、デリダはそのハサミを使って何か作品というか、ちゃんと使ってるんだ、それ。
そうだね、そうだね。だからハサミっていうものによって、ハサミで切れるものと切れないものっていうのは区別されるように、脱構築によって、思考されるものと思考されないものがちゃんと取り扱えるんだみたいな、多分そういう考え方だと思うんだよね。
あー、面白そうだね。なんか、そう、だから今思ったのが、今回いろんなさ、あらゆるものは二元論的であるみたいな話したんだけど、やっぱもう、ソシュールな話もあったけどさ、もう人間が扱ってるこの言葉、言葉そのものも二元論的な存在ってことだよね。
そうだね、言葉はやっぱり差異のシステムだっていうのと、やっぱり分けていくものだよね。
でもね、言葉を言った瞬間も、あらゆるものが二元論的に、その言葉は解体されるっていうのは当たり前の話で、言葉自体がもう二元論的な存在だから。
だから、じゃあその言葉って何?って言った時に、言葉っていうものを、言葉を考えると、その言葉が生まれた時に一緒に生まれた双子は、今ハヤトが言った言葉にできないものみたいなものが一緒に生まれてるわけで、
この脱構築っていうものは、言葉にならなかったもう一個の二言葉の、もう片割れではない、言葉にならなかったもの、そこにアポーチする扉なんだよ、鍵なんだよ、みたいな捉え方をしている人たちもいるってことなんだよね。
そういうこと、まさにそういうこと。
言葉と脱構築
これすごいね、さっき一瞬東洋の一元論的な話にもなったんだけども、結構二元論的な立場からその一元論的なものに、結局ほら、感じろ、みたいなさ、考えるな、感じろ、みたいな話の世界に、考える世界からその一元論的な世界にアプローチをする、
その変換器みたいなさ、もしくはその、それこそ扉というか、繋ぐ何か、みたいなものになり得る可能性を秘めてるみたいなところまで、今日はちょっと認識したな、感じがする。
そうだね、ちょっと怖いのは、データが本当にそう言ってる中、僕がそういう風に読みたくから読み取ってる中がちょっとね、今曖昧なんだよね。
僕今まさに愛理が言ってくれたような、西洋哲学から東洋的な空であったりとか、そういう一元論的な世界を語るみたいなことにめちゃめちゃ興味があって、個人的に。
そういう本を今いっぱい読んでるから、ちょっとそこに引っ張られてる可能性はあるんだけど、
普段読んだ論文とかも含めて、実際書いてるのが、おそらく思考されないものの彼方で、
おそらく思考不可能なものとして思考に到来するものの名において、思考可能なものの思考の常に向こうに超過するような思考不可能なものを正当に評価することなのだって書いてる。
わかんないでしょ?
日本語なんだけどさ、わかんないけど、こんなの一生懸命読んでるわけよ。楽しくやってるんですけど。
そうやってみんな一生懸命、言語化できないものをなんとか表現しようともがいてるんだね。
だから、まさに役に立ってくれたように、言葉にした時に言葉にできなかったものをないものとするんじゃなくて、なんとか示そうとしているのが脱口築なのではないかっていうのは、あんまり間違ってない読みだと思う。
いやー、あれだね、早く広角機動隊の電脳の世界に到来してくれないかね。もう、あの、有線で繋いで、感覚だけで、電話につなげて感覚で更新しよう、通信しよう。
言語化できないものの表現
でも、その時に果たしてこれが本当に伝わるとは何かって絶対問題出てくるだろうからね。
そう、絶対そうするとね、こっちのイメージはこうやけど、向こうにそのイメージが伝わった時に、やっぱ違う風に伝わってるわって絶対なるはずだしね。
あとまさにね、これはデリダの、あとやるんだけど、エクリチュールって言われる書き言葉とか翻訳とか、感テクスト性みたいな、いろんな言葉というかものに関してめちゃめちゃ言ってるんですよ。
なるほど、やっぱり世界をどう捉えようか、どう表現しようかってことを考えてそうな。
そう。
そうなんだ。
そのあたりもね、ちょっと次回は脱構築についてやるんですけど、その際に次ぐらいで、まさにそのエクリチュールみたいな書き言葉とは何かみたいな、そういうものもね、ちょっと触れながら、ぜひデリダの面白さを伝えていきたいと思うので、
引き続き頑張っていきましょうと、次の台本できないんで、ちょっと頑張って作ります。
今から勉強しながらね。
はい、はい、はい。
了解です。わーでも面白いね。
良かった、良かった。
分かりました。じゃあ次回も、どんな感じになっていくのか、はい、じゃあ引き続き楽しみにしてますので、よろしくお願いします。
はい、お願いします。今回もありがとうございました。
ありがとうございました。
ご視聴ありがとうございました。チャンネル登録よろしくお願いします。
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