1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #29 デカルトの有名な「我思う..
2022-08-03 33:15

#29 デカルトの有名な「我思う、ゆえに我あり」。本当の意味って知ってますか?

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


【内容】方法序説/アリストテレス『形而上学』との対比/思考プロセス/デカルトの哲学4つのポイント/MECE、プロジェクトマネジメント/現実とのバランス感/ソクラテスやブッダとの比較/時代背景の違い/我という存在にたどり着いたデカルト/デカルトへの批判/物心二元論/次回は、デカルトによる神の存在証明/


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【テツラジオ】
はい、それテツラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今日も引き続き、近代哲学の父デカルトというところで、まずは一番有名でいいのかな、方法助説というところについて教えてもらいたいと思います。
はい、では早速本題のところで、方法助説という本を読みながら、まさに我を思うゆえに我ありって何だったのかということを今日はご紹介していこうと思っております。
早速、冒頭どんな言葉からこの本が始まるの?というところなんですけど、この本の最初というのは「良識はこの世で最も公平に分け与えられているものである」というふうに始まるのね。
つまり物事をちゃんと考えるとか、これっていいよねとか悪いよねっていうふうにある種判断するみたいな能力っていうのは、誰でも持ってるよねということを言うんです。
なるほど、善悪の判断ね。
うん、善悪の判断だけじゃなくて物事をちゃんと考えるみたいなことかな。アリストテレスの時にね、刑事奥学っていう本を「人は誰でも生まれつき知ることを求める」っていうことから始まるんですよっていうのを紹介したと思うんですけど、
ちょっとここと僕の中では比較というか面白い対比になってるなと思って、アリストテレスは要は知るっていうものを、自分の中に好奇心っていうのがあって足りないものがあるから世の中にそれを知りに行くんだっていう、
ちょっと欠けてるものを埋めに行くみたいな考えがあるなっていうこの言葉だけからね、そういうと思うんだけど、デカルトは最も公平に与えられている良識っていうものを使って、これからいろんな物事を考えていく手順っていうのを一緒に辿っていきましょうね、みたいなことを始めていくのね。
ああ、言われてみると確かに、穴を埋める感覚というよりはもう何かがあって積み上げていくみたいな、既にゼロなのかマイナスなのかみたいなところでちょっと違いが感じられるねという感じかな。
そうそう、その出発点がね。読んでる人にもデカルトが特別でみんなに何か教えるんじゃなくて、みんなが持っている正しく判断するとか、これは本当だとか偽物だとかって区別する能力っていうのは生まれつき持っているんだよと。
ただ、トマエさん普通に話してたりすると、何か考え方がそれこそ違うとか、結論が合わないとかで対立するとかって普通にあるじゃない。
デカルトとしては、ただそれっていうのは思考っていうものを違う道筋で導いちゃったりとか、実は同じことを考えていると思って、捉えている概念が別だからそういうことが生じるんだよってことよね。
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なるほど、そっかそっか。それは元々持っている能力としては変わりがないというか、公平に持っていると。ただそれの使い方だったりとかが違うでしょ。そこにはもしかするとうまい、下手だったりとか、特性みたいなものがあって、それによってその良識だったりとか、そういったものを使った時に出てくるアウトプットは人によって違いますよね。
そうそう、まさにその通り。だからこそ、自分と同じようにこの本で辿っているように、あなたたちも辿ってくれれば同じように正しく判断できるはずだよみたいなスタンスなんだよね。これを親切と見えるかちょっと傲慢な感じと見えるか、それは人によってあると思うんだけど。
でもデカール・トノスさんはそういうところから始まります。だからみんなも一緒にちゃんと考えようねっていうことなんだけど。
僕と同じようにできるはずだよ。確かに天才、ある意味、これは結果論だけど、歴史に長く残った天才にそんなこと言われても同じようにできるかねみたいなね。そこは疑うけどねみたいな話じゃないですか。
そうそう、そう。っていうのはあるけどね。ただやっぱり複雑なことは当然わからないというか、理解がしにくいので、前回もお伝えした通りいろんな学問を大学で学ぶんだけれども、4つの規則だけに従って考え方を進めていきますよって言ってデカール・トノスさんは言いますと。
自分が大学で学んできたことを4つに集約して、その4つのポイントから話しますよと。
そうだね。もっと言うとね、面白いのが大学でいろいろ学んできたんだけど、全部捨てろわっていうね。考え方とか身につけたものを一回全部捨てますわっていうね。
ちょっとそれはこの後の4つの規則に実は含まれてくるので、ちょっとね、デカール・トノスさんが何をしようとしたかとかどういう風に考えたかっていうのをちょっとご案内していくんだけれども、まずその4つの規則の1つ目は、私が名称的に真であると認めるのではなければ、どんなことも真として受けれない。
もっと言うと、明らかにこれは正しいよね、真実だよねっていう風に思えたもの以外のことが、かつそれはあくまでちゃんと自分が確かめたこと以外は真実とは受け入れません。
だから、即談と偏見、だからこれは正しいはずだとか、誰かが正しいと言っているみたいなことは全部やめますってまず言いますと。
ただね、これ徹底するんだけれども、ちょっとこれは後もちゃんと話していくんだけど、一時情報でも見間違いとか聞き間違いってあるじゃない、人間って。
要は、現場に行って私は見ましたって言っても、それが単なる見間違いだったりとか記憶の混乱だったりとかっていうことがあるから、それすらも疑いますみたいなことを言っていくのね。
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それが1個目で、2個目は難しい問題をこれから取り組んでいくんだけど、そのにあたってはそれをちゃんと解くために必要な小さい部分に分割していきますっていう風に言います。
3つ目は、思考っていうことを順序に従って導いていきます。要は飛躍させませんと。
で、最も単純で最も認識しやすい、理解しやすいとか分かりやすいところから始めて、ちょっとずつ複雑なものに上っていきますよと。
そういう風に思考を積み上げていくと、複雑なものもある種解明できるよねっていうことを言って。
最後4つ目に言うのは、あらゆる場合に完全に抜け漏れをなくして、何も見落としがなかったと確認しますみたいなことを言いますと。
この辺って、ロジカルシンキング的な、ミーシーで抜け漏れなくとか、問題は分割せよみたいな話と結構近いから、理解はしやすいと思うんだよね。
そうだね、確かに。それこそミーシーだったりとか、ガントチャートとかでさ、あとプロマネー的な発想であると思うんだけど、大きなプロジェクトをタスクに分解してさらにみたいな。
そういう、最後抜け漏れなかったよね、それを順番にやっていくと、そのプロジェクトを達成できるよね、みたいなものに近い気がした。
そうだね、そうだね。実は逆に言うと、デカルト的な思考が仕事とかに反映されると、ガントチャートとかミーシーとかになるっていう話であって、その原理はデカルトのこういう考え方にあるんだよね。
なるほど、ありがとうございますね、ほんと。
そう、で、デカルトはなぜそういうことを考えたかっていうと、要はもともと、前回もさせたとおり数学っていうのをやっていたので、彼からすると単純でね、すごい大デモから1+1=2であるみたいな明らかであろうっていうことから、
例えば、すべての有理数はとか、整数はみたいな複雑なことに発展できるっていう、そういう気化学の証明っていうものを念頭に置いてるのね。
だから、正しいものとか真実なものっていうのを、これは真実ある、これは真実あるっていうふうに積み上げていけば、どんな離れたものにも到達できるし、どんな隠れたものとか、その真実っていうものが発見できるよね、みたいなことを考えてますと。
この考え方でいうと、数学とかは特に、ある意味真実というか真理みたいなものが確定しやすいというか、ある意味正解っていうものを導きやすいようなものの考え方っていうものを土台にして、それを数学以外のものにも適用できるんじゃないかな、最初言ってた、量子規みたいなところも同じようなプロセスが踏めるんじゃないかな、みたいなところからスタートした感じなのかな、デカルトは。
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読み解くとそういうふうになっちゃうんだけど、デカルト自身が本当にやりたいのは、数学とかの原理のより根底にあるものごとの捉え方とかっていうのを考えたいっていうふうにしてるよね。
そうか、そうか、その単純な数学からのただ横展開じゃないよと、数学もその、ずっとやってた土台があって、数学もその一つに過ぎないよぐらいの感じか。
そうそうそう、それ通り。だから哲学っていうのを第一哲学とか第一要因みたいに言う人たちがいるんだけど、哲学者として。
要は第一っていうのはその始めのものとか、一番根底のものっていう、ソクラテスとかアリソセーションの時にも言ったと思うんだけども、っていう考え方があるから、数学とか物理学とかあらゆる学問もその規則にのっとってるよね、みたいなことを示そうとする。
だからこそ、方法除節っていう一番初めの方法についての話だよ。そこから数学とか光学、光の学問とかっていうものを私は説明していくよっていうふうに言っていくんだよね。
これは僕が読んだ本の著書とかも言ってたんだけど、とはやっぱり第一の学問と言いながら数学的な考えをちょっと引っ張ってきたりとか、自然科学的な考え方を応用してる部分っていうのが見れるから、そこまで厳密にできてたかっていうとそうじゃないよね、みたいな評判とか評価もあるんだけど。
(岡田)はあ、なるほど。それはあれだよね。こんだけ頑張ったのに、そんな評判されちゃうんだっていうちょっと大変さを感じるね、こういう学問というか哲学のね。
(山本)やっぱりね、厳密な思考ってやっぱり難しいし、400年も経ったらね、それはまあいろいろあるよねっていうのはあるんだけれども。
(山本)まあでも、デカイトにやろうとしてることとかやりたいことはなんとなく今のことで伝わったと思うんだけど、で、面白いというかデカイトがすごいなと思うのは、それはまあ人生をかけてあるしやっていこうとしてたわけなんだけど、ただまあ、第一の規則として、私自身がこれは明確に真実だって思えない限りはどんなことも受け入れませんって言っちゃった瞬間に、
(山本)これまでの常識とか、自分が大事にしてるものとかを、本当に一切捨てなきゃいけないわけよ。でも、そうなっちゃうと、もうそれこそ生活できないじゃん。なんか信号見て、なぜ青信号では止まらねばならぬのだって法律とかから解釈してたら、日常生活できないじゃないですか。
(岡田)本当はね、この夕ご飯のパン見て、このパン食べていいんだってみたいな話。までってことだよね、それを徹底しようとすると。
(山本)うん、までってこと。そもそもパンってものあるのかとか、オツトは何かとかって考えだしたらさ、もうそれは病気なわけよ。生活できないからね。なので、デカイトがすごい人間的だと思うのは、そこにたどり着くまでは、一旦仮決めで幸福に生きられる道徳っていうのを定めましょうと。
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(岡田)おー、すごい現実的、素晴らしい。 (山本)そう。で、これ建て話も面白くって、例えば家を建て直そうとか建てようとする場合に、じゃあ一回家から住めなくなるじゃない、今住んでる家から。で、その間、あなたって野宿しますか?みたいなことを言うのね。
(山本)要は、工事期間中におい心地よくするために別の住処を用意するとか、仮の住まいっていうのをちゃんと準備するよねと。 (岡田)はいはいはい。 (山本)それと一緒で、自分は人生の捉え方とか方法っていうのを考え立って、一旦仮決めの幸せに生きる方法っていうのを大事にしますと。
(山本)それっていうのは、ちゃんと国とか法律に従うとか、宗教を大事にするとか、ある程度極端じゃない、一番温等な、波風立てずに生きられる、そういう意見に従いますよと。
(山本)で、なぜかっていうと、自分の意見っていうのは、全部ちゃんと粒さんに検討しようとするから、それを一旦捨てようと思うので、一旦大多数の人が信じてるものに沿ってたら、幸せというか、普通に生きていけるでしょう、みたいなことを仮決めするのね。
(岡田)すごいね。この霊とかは、デカルトが考えて残してくれてるの?霊なの?実際。こういうこと言ってる?
(山本)そうそう、本に書いてる。法助説にそういうことを書いてます。
(岡田)逆に言うと、これ聞いて、さっき素晴らしいって言ったんだけど、何が素晴らしいかって、これまでブッダとかの話、あとサクラテスも近いかなとは思うんだけど、結構ぶっ壊して、現実から離れちゃう。
(山本)自分の立てた仮説の方に100%突っ込むみたいな、あの人たちを見てきたというか、その話をちょっと聞いてきたような気がするから、
(山本)自分の人生あるじゃん、周りの人生あるじゃん、国もあるじゃん、そういったものをぶっ壊す、革命してやるとか、新しい何かを打ち立ててやる、みたいなものじゃなくて、
(山本)すごく自分の人生だったりとか周りの生活、そういったものがある中で、物事をまた作り直していく、再構築していく、みたいな。
(岡田)はいはいはい。
(山本)そういう、それこそさっき言った恩犬だとか、恩党だとか、そういう優しさと判断するかは分からないし、果たしてそういったやり方がどんだけ後世に影響を与えるのかっていうのは当時だともちろん分からないというか、
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(山本)なんかそれはそれで、やっぱりその現実的な感じっていうのは、またブッダとかね、作家が作る人とは違う素晴らしさというか、気持ちよさみたいなものを感じたね。
(岡田)ああ、そうだね。やっぱりなんだかんだ言って、ブッダとか作家ってちょっと狂ってるというか、やっぱりやりすぎちゃった人みたいな感覚はあるし、
(岡田)またね、第一回で時代背景とかもお伝えしたと思うんだけど、当時ってやっぱりまだまだキリスト教的な考え方も強くて、魔女狩り的な、神を批判すると有罪判決を受けるような世界だから、デカルトはすごく慎重にやっぱり物事を進めようっていうのを常に考えてる人なのね。
(山本)そっか、確かに、ガリレオとかも裁判で、地動説どうすか?みたいな話があったんだよね。
(岡田)地球が動いてるっていうのを話して、有罪判決を受けるわけじゃない。デカルトも同じ時代で、まさにニュースを知って、自分も地動説の本を出そうと思ったんだけど、それを取りやめるってことも実はしてるのね。その出版を取りやめるってこともしてて、実は。
(山本)ガリレオを見て、俺もこうなるみたいな。 (岡田)ガリレオですら、当時イタリアで名前をちゃんと知れ渡っていたガリレオですら捕まるんだったら、自分なんかも一瞬だわ、みたいなことを思うわけよ。
(山本)そっか、なるほど。面白いね。そこはかなり時代的な制約がある中で、突っ込んだらソクラテスとかね、そこそこ70歳まで生きたなって。一瞬で、そういうのを発信した瞬間に死ぬわ、みたいな。
(山本)そっか。 (岡田)最終的にはソクラテスの死刑になるんだけど、やっぱりアテネの当時の安定から、その変動の時代を多分ね、やっぱりそれを反映してると思うし、
(岡田)ブッダはね、ゴータマシュタルタの王子として、やっぱり王族である。あんまり自由なことを言っても、そんなにしょっぴかられないみたいな。やっぱりそういう時代背景とか、当時の権力的なものもあっただろうから。
(岡田)やっぱり思想とかと、その生きる時代とか、その人の社会的な地位とかっていうのは、切っても切り離さないんじゃないかなって僕は感じてるな。
(山本)面白いね。同じくらいの天才が生まれたとして、生まれる時代とか場所で、もしかするとね、仮に生まれた時のパラメーターがみんな一緒だったとすると、外的な影響とか制限でここまで変わるかみたいなね、そういうのも個人的には面白いなと思った。
(岡田)ちょっとね、方法除接の話からいきなりずれちゃったけど。4つのポイントからずれちゃったけど。
(山本)あとこれ話したんだっけ。そうそう、仮決めで幸福な人生を生きますよと。で、その中でいろんなことをもちろん考えながらデカルトが生きてくるんだけど、一応9年くらいいろいろ考えましたみたいなことを書いてあって。
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もともと前から大学とかでも学問をしてるからずっと考えた中で、時間が経った上で至った考えとして、真理、真実とか真理だよね、探求に携わるには、ほんの少しでも疑いをかけうるもの、疑えるものは全部絶対的な誤りとして捨て去るべきである。っていうのを改めて言うのね。
(岡田)さっき言った、パンも信じるなみたいな話だね。
そうそう、だからちょっとでも疑えるっていうのは、それを正しいかどうかとか考えるんじゃなくて、全部間違ってるっていう風に一貫していようと。で、その後に私の信念の中に全く疑えない何かが残るかっていうのを見かける必要があると。
だから疑って疑って疑って、それでも何かが残るんだっけっていうことを試していきますと。で、さっきも言った通り、感覚より何かを見た、聞いた、感じたっていうのが自分を欺くことがあるよねと。見たと思ったものを見てないとか、心境を見てないとか、もちろんあるよねとなるんで、だから感覚が想像させる通りのものは何も存在しないっていう風に想定しますと。
あとはその、幾何学の最も単純な事柄だとしても、誤った推論を犯すことがあるよと。例えばその三角形とかを見て、これは正三角形だって思っても、実はちょっと角度が違うってことは全然あるじゃない。
例えばね、それはちょっと感覚と近いんだけど、だからそういう単純な数学的なものであっても、とか厳密だと思われているものについても、結構間違っちゃうことで人間ってあるよねって言ったりとか。
あとは、目覚めている時に僕らが考えていること、例えばご飯食べたいとかでもいいし、こういう哲学的なことでもいいんだけど、そういうのも夢の中でも夢でお腹空いたみたいに思うこともあるじゃん。
ってことは、何か考えるみたいなことも、もしかしたら夢かもしれないみたいなことって捨てられないから、それも結局自分の思考ってのも真実ではないから疑えるから捨てます、みたいなことを言っていきますと。
(岡田)えぇー、すごい。さっき最初「感覚は自分を欺くから」みたいなのがいきなり出てきて、なんでデカルトがそういう、ある意味ブッダみたいな流れ手段みたいな、古代でもいいんだけど、存在するものと認識が違いに至ったんだろうかって最初思っちゃったんだけど。
そういうことか、気化学的な創用があるから、あれだよね、よくイオンとかでやってるトリックアート展とかって、田舎だとやってるんだけど。
21:05
(山本)あるある。 (岡田)ああいう視覚的なトリックとか、多分ああいうのが勉強してると気化学とかとあるのかな、もしかして。
まあそうだね、そういう作詞的なものもあるだろうし、あとはその証明できたと思っても、実は途中でちょっと違ってて、その証明間違ってたっていうことも当然あるよね、数学とかやってると。
(山本)ああ、それをある意味証明したっていうところと感覚の違いっていうふうにも確かに表現できるよね、確かにそれも。
(岡田)そうそうそうそう。で、ここでやっと一番有名な言葉が出てくるんだけど、こうやってあれも偽物だ、これも偽物だってやってる間も、そう考えているこの私っていうのは必然的に何者かでなければならないっていうことで言って、
そこね、だからこそ我思うゆえに我ありっていうこの真理は怪義論者、だからあらゆるものを疑う人たちのどんなとこもない、あんなこともこんなことも偽物な真理ではないっていうような想定でも揺るが知れないほど健康で確実なものを認め、
この真理を求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられると判断したっていうふうに言うのね。
あんなことも疑って、こんなことも疑うけど、その疑っている私っていうものの存在は絶対について回るので、これっていうのが我思う我ありっていうこの真理を哲学の第一原理としますっていうふうにここで宣言するのね。
おーすごい、そっか。いろんなこと考えて何が残るかなっていろいろ考えていった結果、本当に多分デカレットみたいな人が考えた結果、本当にそれしか残らなかったんだ。
彼の中ではね。
そうなんだね。
そうそう。
これも批判は全然できるんだよね。
そうなんだ、それの批判もあるんだね。
批判もある。ちょっとだけしゃべるとね、風光とかっていう哲学者がいるんだけど、彼も面白いからまた取り上げるとは思うんだけど、彼は結構精神病患者の研究とかを通じて狂気とはみたいなことを話すんだけど、つまり精神病の患者の人って自分っていう存在がそもそも信じられないとか、
デカレットが言ってる我思う我ありの我ありっていう感覚がない人っていうのが存在するんだよね。
なるほどだし、その…
なんか伝わる?
伝わる…ああ、でもそれもさらにまた風光の時とか改めてそういうのをちゃんと聞いた上で聞きたいけど、それで言うと我思うゆえに我ありの、今我ありがっていう話をしたけど、その場合って我思うのほうすらおかしなことになってるはずだから。
まさにその通り。
この命題自体が存在しないんじゃないのって思っちゃうけど。
そういうことだよ。だから我思うゆえに我ありってデカレットが言ってるんだけど、我思うって思えない人がいる。要は誰かが自分にこうやって我思うっていうのも誰かに思わされてるんじゃないかとか、横で誰かが支えて私にこんなことを考えさせるんですって人ももちろんいるし、
24:08
自分が考えているっていう自分っていうものの実在感がないんです。統合主張症とかね。っていう人もいるっていうことがやっぱり時代が下れば下るほど、精神病とかっていうのがちゃんと取り上げられて分かるようになってくるみたいなこともやっぱり時代の流れとしてあって。
だからこのデカレットの我思うゆえに我ありっていうのは第一原理じゃないみたいなことも言えたりはするんだけど。
結構無理やりな批判するけど面白いね。そういう気になった人か、その批判はもっともだっていう人もいれば、それはあくまで100分の何の話、1万分の何の話なのみたいな話をする人もいるんだろうなって思った。
そうだね。そういうことも含めて考えると哲学って面白いなとか、人間が考えると面白いなっていうのは思ってますっていつもの僕の哲学面白い話なんだけど。
そうだね。確かにそういった批判を受け入れてそれに本当に頼るのかってもう一度考える姿勢っていうのはね、こういうことを考えたとか、それを支持する人には必要な姿勢だと思うしね、それは。
そうだね。妄目的にデカレットが我を思うゆえに我ありって言ったからそうなんだとか、疑い得ない我っていうのはあるんだっていうのは簡単だけど、
それだとデカレットが本当にやろうとした全てのものをちゃんと疑ってますかとか、自分でちゃんと正しいと思ったことだけを信じてますかっていうことから離れちゃってるんだよねやっぱり。
みたいなところでまたデカレットに戻ると、ここで言う我っていうのは何かっていうと、ざっくり心とか精神みたいなものだと思っても大丈夫なんだけど、もうちょっと言うと何かを考える主体みたいなものなんだよね。
シンキングシングさ、ごめんちょっと言葉忘れちゃったけど、そういう考えるものみたいなことをあえて言葉としても使ったりはするんだけど、ここで実は悪名高いって言うとあれなんだけど、デカレットはその後の物心二元論っていうものにつながっていくのね。
いや物と心っていうのは別々である、分かれているとか、心とか考えるものっていうのが主で考えられたもの、だから世の中にあるあらゆるものとか感情とか、あとはむしろ体、人間の体とかも全部それは重属しているものだみたいな考え方がここから出てきますと。
そこはもう自由にしちゃったの? 集中にしちゃったんだ、そこって。
集中にしちゃうんだよね。だから考えるものがあって、考えられるものっていうのが後にくるから。結構この考え方からプラトンの時に言ったような、自然みたいなものも人間の自由に使っていいんだとか、身体機械論みたいな、体っていうのは機械みたいなものだから、別にある種切り刻んでもいいっていうか、ある種物質だからね。
27:00
そういうふうにしてもいいみたいな、要は人間というのは神聖なものであるみたいな、宗教的な感覚っていうのはどんどん薄れていって、それが自然科学のもちろん発展にもつながるんだけど、そういうちょっと機械論的なというか、人間もある種酷使していいみたいな感じの思想もここから生まれてきたりするっていうふうに言われていて。
物質人間論っていうのはデカールとか言ったわけではない?
物質人間論って言葉自体は言ってはいないけど、物と心を分けるとか、心が種であるっていうのは言っていることだね。
ああ、そうなんだ。一瞬で感覚は自分を欺くみたいな話で言うと、空に近いかなとは思ったんだけど、空っていうものがやっぱり存在しない感じがするね、物質人間論っていうのからすると。
そうだね、空はそもそも考える主体とかもないとか、物事の向上的な要は常にあるものはないっていうことだから、でもデカールとは常にある我っていうものを想定しているから、空とやっぱり違うんだよね。
そこは常にあるっていうふうにしてしまったんだね、面白い。
ある。でも、比較するとやっぱり面白いでしょ。そういうところに違いがあるんだとか、ちょっと似てるなとかっていうのも見えてくるし。
面白いし、そうだね、また全然物質人間論っていうのはまだ内容わかんないけど、ただ集中になったっていうところと、その後さっき悪名堂々井とかっていう話してたけど、またそのうちテーマとかで教えてもらいたいなとかって聞いてまた思ったけれども、
ただやっぱりさっきの話した、同じ天才でも生まれた場所とか時代が違うとっていうところで、たぶんやっぱりそういうふうに集中にした理由っていうのもやっぱり何かあるはずだったりとか、あとは後でちょっと感想会とか最後、ちょっと全部聞いた後で話すかもしれないけれども、
やっぱりカトリック宗教というものとの付き合い方とか、やっぱりそれはちょっとイライラ出る時代の中で、しかもとはいえやっぱりまだまだ権威で、ちょっと間違うと殺されてしまうみたいな、
現実がある中でその天才性っていうものをどういう思考プロセスを持ってどういうアウトプットしていくか、このデカルトが。でやっぱりその時、どうしてもそのデカルト自身にはコントロールしえない影響、変数が存在したんだろうなっていうのを、
このこんなでここまで考えられる天才が何も考えずに集中みたいな結論に至るわけではないと思うしね。というのはちょっとまだ具体的な情報ない中だからざっくりとした話だけど。
ただね、彼はすごく必然的にちゃんと、前回もさっきとおり、筋道をたどった思考を大事にするんだよね。で、それはやっぱり突き詰めると結局、筋道よく物事を考えられる純粋な理性とか、
30:10
彼のところの考えるもの「我」っていうものが出てくると。その「我」っていうことから世界を見ると、「我」っていうものがやっぱり中心というか主体にあって、
世界というのは「我」っていうものがある種作り出したものとか、「我」っていうところから出てくるものだっていうようなものは結構必然的に出てきちゃうんだよね、思考として。
それが出てきたものがどのぐらいの影響があるかとかっていうのも面白い話ではあるんですけど、一旦今日はそういう方法助説の本当にさらっと流れをたどりながら、
「我」「思い」「我」「あり」っていうところまでたどり着いたよっていうところまでご案内をしたところなんですけど、
次がね、冒頭にもお伝えした、いろんなことをデカルトは話していくんだけど、その中に「神の存在証明」っていう話があって、
これは方法助説ではない別の小説っていう本に書かれてたりすることなの。いろんな本に書かれている内容をちょっと今まとめてお伝えしようと思ってるんだけど、
あれは「我」を思うゆえに「我」「あり」の「我」を発見したので、そこからいろんなものを証明する中で「神」っていう存在も証明しようとするのね。
だって「我」はあるっていうことは疑いなく思えたけど、そこから「神」がいるっていうことはまだ直接には出てこないよね。
そうはね、そこも証明しないと確かに。 「俺が神だ」みたいになっちゃうから。
そう、そう、そう、そう、ニフイツが自分だけで、神はないになっちゃうもんね。「それっていうのは自分だけだ」ってなっちゃうと。
そうそうそう。でもそうすると、それこそさっきのアイキャーが言ってくれた宗教的な話とかもそうだし、そもそも自分が生きているこの時代っていうものと神の存在っていうものはどうやって結びつくのかみたいなことを考えていく話があって、
ぶっちゃけ言っちゃうと、これはちょっと奇弁っぽいというか、すんなり受け入れられないところもあると思うんだけれども、
でもそういうデカルトみたいな歴史に残る天才とか知性がどういう話をしたかっていうのを知るのは面白いと思ってもらえるんじゃないかなと思って、
僕自身はそれ見てめっちゃ面白いと思ったんで、それもぜひ皆さんにお届けしたいなと思っております。
次回はデカルトが神を、ここまで物事について考えた、そのプロセス、思考プロセスを超大事にしたデカルトが神をどうやって証明したのか、しかも(会議あり)みたいな話をしてくれるんだね。
そうだね、そうですそうです。 了解。じゃあまた次回も、ちょっとずつデカルトの人となりというかね、時代背景とかよりもまたこういう思考をたどることでどういう人なのかみたいなのがちょっと見えてきた感じがするんで、
どんどん楽しみになってきたんで、次回もよろしくお願いします。
33:03
ぜひよろしくお願いします。楽しみにしていてください。
(♪ BGM)
33:15

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