1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
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2025-02-09 48:07

#290 【西田幾多郎 雑談】哲学と実生活/「自分」が主語の人生に飽きる?

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

西田幾多郎の哲学が日常生活に与える影響について考察が行われます。哲学的な思索が人生の価値観や生き方にどう関わるかが議論され、次回への期待が高まる内容となっています。西田幾多郎の哲学を学ぶ過程では、大学での読書法やその深さについて語られます。また、人生の段階と哲学の学びがどのように変化するのかを考察し、自我の枠を越えた視点が探られます。哲学と実生活の関連については、西田幾多郎の思想を基に深い考察が行われ、自己の在り方や幸せの概念の変遷が掘り下げられています。西田幾多郎に関する雑談を通じて、彼の哲学と実生活の関連性や人生のテーマについても考えられます。

西田幾多郎の哲学の影響
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回は雑談ということで、西田幾多郎さんシリーズ、お疲れ様でした。
はい、お疲れ様でした。
いやー、結構長かったね。
そうですね。しかもね、久々に哲学の結構深いところをグーってやってたと思うんで。
うん。
割とね、聞いてる方も疲れたって思ってなかったらいいなっていう感じがあるんですけど、
どうでした?兄貴としてはね。聞き切りとして8回分くらい付き合ってますと思うんですけど。
いやー、面白かったよね。前回も最後の方でさ、ある程度感想をバーって語って、忘れる前にバーって語っちゃったんですけど。
はいはい。
やっぱり日本人が、例えば古代ギリシャはどうとか、古代インドがどうとかさ、
そういう一個一個は今までやってくれてたと思うんだけど、もちろんそれぞれ例えば近代哲学で言えば、
デクラートはこういう人を見てこういう風に思ったとかっていうのはあったと思うんだけど、
その中で日本人がそういう西洋哲学まで勉強した日本人がこういうことを考えるんだ、みたいな意味での身近な感じだったりとか、
そこはしかもね、禅とかそういう東洋哲学のところと絡まってるっていうところが、
なんかこうなんだろうな、すごく新しいし、ある意味こう、うちらの価値観とかってこういうところにある程度逆してるというか、
はいはい。
そういうのを説明してくれてるのかなーっていうのを感じたね、なんかね。
なるほどね。面白いね。これまでもさ、もう3年くらいになるのかな?
結構いろんな哲学者の方とか宗教、仏教とか含めて取り扱ってきたけど、それともちょっと感触が違ったもんね、兄貴の反応からしてもね。
ほんと?ほうほうほう。
やっぱりなんかこう、もちろんいろんな人を自分に惹きつけて多分聞こうとしてくれてると思うんだけど、
なんかそれが多分西谷さんの場合やりやすかったのかなとか、
結構兄貴自身がやっぱり、なんかイメージわからんけどイメージは湧くみたいなところは結構あったような気がしてて。
あーなるほど。はいはいはい。
それとは、自分たちの感覚的にやってるものをめちゃくちゃ言語化してくれてるっていう風なイメージなのかな?もしかするとね。
あるかもね。それがね、日本人だからって話なのか、やっぱり西谷さんが考えてることっていうのが、
やっぱりこうね、前回までも散々言ってきた通り、東洋文化っていうものはやっぱりなんとか哲学で基礎づけようみたいなことを言っているから、
根幹にあるとか根底にあるのはそういう日本人としての生き方とか、
やっぱり日本の伝統的な、日本の伝統でなんて言うかって言うと難しいって話もあったと思うんだけど、
だからそこから考えようっていうところはやっぱりね、海外の当然、哲学者の人たちからするとまた全然違う出発点になるから。
そこは面白いよね。
前回終わって話聞いた後でふと思ったんだけど、前回の西木太郎さんシリーズって、
この世の仕組みというか、そういうのをフラットにめちゃくちゃ説明してくれてるよねっていう面白さはあったんだけれども、
そういえばと思って、この西田さんの哲学をもってどう生きるのかみたいな、どうそれを社会に生かすのかみたいな、
社会を説明するとか、この世を説明するっていうフラットさっていう意味ではめちゃくちゃ面白かったんだけど、
そういうどう生かすか的な話なかったなと思って、
そういうのを西田さん自体が生きるべしとかさ、これを踏まえた上でこういう風にやるべしみたいなのってあったのかなと思って。
次回の取り上げる人物
なるほどね。なんかね、正直正学にはわかんないんだけれども、哲学としてそれを語るっていうのはあんまりないんじゃないかと思うんだよね。
あれこそ自分の考え方をもとに宗教との関わり方としてやるとか、自分自身の価値観としてやるとかはやってるかもしれないけど、
哲学にしたっていう感じはあんまないんじゃないかな。
ごめん、今のハヤトの話が結構難しいから質問なんだけど。
はいはい。
だからこういう哲学者みたいな人たちがどう生きるかっていうのを考えようとすると、それも哲学の土台の上になっちゃうみたいな感じなんだ。
そうだね、そう思う。
なるほど、そっかそっか。
西原さんが、例えば居酒屋とかで、俺は幸せだと思うんだとはちょっとレベルが違うんだね。
そうね。もちろんね、そういう話もしてただろうとは思うけど。
実はね、それはすごくいい気づきというか、3点で。
次ね、同じ日本人でも誰やろうかなって前回迷ってたんですけど、次は久喜修蔵さんという人を取り上げようと思ってるんですよ。
久喜修蔵さん。
久喜修蔵さん、この人は聞いたことあるかはないんですけど、それこそ意気の構造っていう本とかが有名で、意気っていわゆる意気だねみたいな。
逆側は物髄とかって言ったりするじゃない。の反対語で意気だなんだ。
多分着物とかそういうの言うらしいんだけど、そういう意気っていうものが、どういう風な構造を持ってるのか、言葉としてとか意味としてとか。
へー、はいはいはい。
そうそうそう、そういうのだった人がいるんだけど、全然違うじゃん。存在の基底を突き詰めるような話とさ、意気について調べるみたいな。
面白そうだね、それはそれで。
みたいな感じで、いわゆるめちゃめちゃ抽象的な方に行くんじゃなくって、具体のまさに日本人がどういう風に生きてるのかとか、
その中で意気っていうものが他の国にもしない言葉だとした時に、それって日本人はどういう風な感覚が出てるんだとかっていうことを哲学的な手法で考えたっていう人なんだよね。
哲学と生き方
へー、面白いね。そっかそっか。
だから同じだよね。海外と交流する中で、意気っていう概念が、英語でうまく伝えられねえぞみたいな話というか、お互い分かんないみたいなね。
こっちもうまく言語化できねえみたいなことが起こるわけだ。
その時に、哲学ってずっとやってきてる通り、同じテーブルにつくっていう話で言うと、やっぱり言語とか文言をこうやってやっていけるはずなんだけど、
その意気っていうものを取り上げようと思った瞬間に、同じテーブルに乗りたくても乗れませんみたいなことが起きるよね、みたいなことがあって。
どっちかっていうと、たぶんその人が、私がどう生きるかとか、私にとっての意気とは何かみたいな。
別に福木さんがそういうことを書いてるわけじゃないんだけど、そういうふうな発想に近くなっていくんだよね。
だからより幸せに生きるとか、どう生きるかとか、そういうすごく身近なテーマにはなってきてるんだ、福木さんに関してはね。
そうだね、そうそうそうね。
それも実は哲学の中に、いわゆる生の哲学、生きるの哲学っていうのがあって、それがニーチェとかから始まってるって言われてるんだけど。
へー、そうなんだ。
やっぱりニーチェも、もちろん人類全体のことは考えてるんだけど、やっぱり超人として、あるいは自分がどう生きるかとかに、
自分がどういうふうなものを目指すかっていうところにかなり目が向いてるんだよね。
世の中全体がどうかとか、世界の構造がどうなってるかっていうよりは。
そうだね、ニーチェなんか確かにそうだね。
そうそうそう。
だからそういう意味では西原さんの観点で言うと、まさに抽象的な、世の中全般というところに、
もちろん自分というものを投資なんだけど、そっちに向かうっていうのがあるのに対して、やっぱり茎さんとかはまた別の方向を向いてるって意味で、
西原さんがやらなかったことを、あえて茎さんがやってるっていうのは、取り上げることもできるから、あんまり西原さんだけで見るよりも、時代も近い感じなので。
へー、そうなんだね。
なんかね、茎さんとかの話もしながら、哲学を使って、それこそ自分が生きるとはどういうことかみたいなこととか、
どういうふうに生きるべきかって考えるって、こんな感じなのかとかっていうふうに見ていくのが、ちょうどいいかもなって今まさに思ってた。
わー、だから、そっかそっか。哲学ってそういう意味では、なんだろうな、適用範囲が広いんだね。
そうだね。なんか、やっぱり手法の話でもあるから、単純にね、幸せって何?だと別にね、他の学問でも多分できるんだけど、
幸せというものをこういうふうな哲学的な手法でとか、方法論で紐解いてみました。しかも厳密にみたいな。
っていうのはやっぱり、やろうとは全然できるし、やっぱりやってる人もいるよね。
まあ、そっか。確かにだし、まるまる哲学ってあるもんね。学問としてね。
あー、そうだね。そうそう。
それぞれの学問ごとにとかね、科学、哲学みたいな話だったりとか。
それなんかまさにそうだもんね。科学っていうものをきちんと、どういうものかみんなが納得できるようにきちんと考えとこうみたいな話だもんね。
そうだね、そうだね。そうなんです。
兄貴の疑問に戻ると、たぶん西田さん自身が、やっぱり哲学を通じて生きるべしとか、人生群みたいなことはたぶんあんまりやってない。
まあ、やってたとしても、そんなめちゃめちゃすごいことはたぶん言ってない。あんまり残ってないということは。
そこはわかんないのか。前回のハヤトの話からすると、意図的にそういうのは排除したんじゃないかぐらいフラッとあったんだよね。
そういう視点が感じないよね。それがまたすごいよねっていう話はしたんだけども、それがあえてなのかどうかはちょっとわからないみたいな。
でも感覚的には、兄貴の質問面白いなと思うのは、西田さんのことを僕自身が読んでいるときに、そこってあんまり気にならないんだよね、実は。
どこ?
西田さんが自分が辿り着いた哲学を使ってどう生きたのかとか、何が正しいと思ったのかみたいな話ってあんまり気にならなくて。
っていうのは、いわゆる存在の根源を探求するみたいな話って、別に自分が生きるかどうかとかって一旦ちょっと置いて考えてる感覚あるなと思ってて。
ああ、はあはあはあ。
もちろんですね、分けれないんだよ。前回までもずっと言った通り、やっぱり分けたくない人だから、西田さんは。
まあ、だしそうよね、実際禅とかも学んでるわけだもんね。
そうそうそう。自分と世界って分けれないんだけど、その中で自分がどうありたいかとか、もちろん教授としてこういうふうになりたいとかあるとは思うんだけど、
でもなんかね、普通の生活観点と真っ赤でちょっと違う気がするんだよな。これなんて言ったらいいんだろう。
いや、でもちょっと分かる気がする。西田さんの話で言うと、やっぱり、例えば、何とかの場所、絶対無の場所。
ああ、絶対無の場所ね、はいはい。
場所からいろんなものが出てくるんだって考えると、で、自分もその後だって考えると、自分がどう生きるかっていう、この言葉自体がすごく破綻していて。
ああ、なるほどね。
なんかそれを自分も徹底しようとすると、ある意味悟りに近い感じになると、善悪だとか幸せだどうだも相対的なものでしかなくなるから、あえてそこは語られる必要もないかな、みたいな。
感覚に自然となっているのか、そういうモードに自分を置いているのかわかんないけども、自分というのを一旦置いておく、みたいな。そういうことはすごい分かる気がした。
そうだね。
とはいえね、西田さんがすごいスネージャーみたいな人で、こういう善悪を離れた悟った人でしたかって言うと、そうでもなかったらしく。
ほうほうほう。
当然ね、いろんな批判を受けてね、しんどいとか、その晩年に自分の本当に考えた本当のことは誰も理解してくれなかったみたいなことを掛け出したりするらしくて。
ああ、そういうことは書いてるんだ。
うん、そうそうそう。
それまでどんな気持ちで書いてたのかわかんないけれども、やっぱりそういう意味では、もちろん悩み苦しみながらやっぱり自分なりにこう、つらくて向き合った人であることは間違いないんだよね。
それ自体がイコンの生き方だったみたいな話になるんだろうなと思うけど。
ああ、そうだね。ここまでのことをやってるってことはそうだね。
西田哲学の学び方
とはいえね、とはいえ今すごい西原さんのこと分かった風に言ってるけど、全然分かってないなっていうのが僕の中では反省点というか、やっぱりちゃんと思ってなきゃいけないなって感じたことがあって。
ほうほうほう。
そういうのが、今月に1回、時々言ってるんですけど、退任された哲学科の教授の方。そこに行って、ご自宅で1時間、2時間くらいか、月に1回レッスンというか個人レッスンみたいな感じで一緒に本を読むとかやったりするんだけど。
ああ、なんかゼミみたいな感じだね。大学の。
そうだね。大学のゼミの個人版みたいな。
個人版。ワンオワンでやってるね。
ワンオワン。そうそうそう。っていうのをやらせてもらってるんだけど、そこで前回行ったときに、その中で2時間で一応50ページは読むみたいなことをやってたんだよね。
読むって言っても、ちょっとまとめてったものを一緒にさらうって感じなんだけど。まさに今言ってくれた通りで、例えば大学のゼミとか、そういうところで哲学書、まさに哲学者が書いた本っていうのを読むとしたら、どんなふうにやるんですかっていうのをふと聞いたのよ。
はいはいはいはい。
実際に大学の授業ってどんな感じなんですかって言ったら、授業とかゼミだけど、まずそもそも原書で読みますと。和訳したもんじゃなくて、自分たちでまず翻訳しますと。
で、それを本当に一言一言丁寧に拾ってくるんだって。
へー。それで言うと、ハヤトは今日本語訳されたものをやってるんだね。
もちろんもちろん。っていうのをやってるんだけど、大学だとそういうふうに翻訳して、一言一言とは何かっていうところをやっていくと、例えば半年のゼミとかで、1.1ページみたいな。
1.1ページ?
っていうふうな話だったんだよね。もちろんそれもいろんな先生の考え方とか、大学とかの授業とかによって全然違うとは思うんだけど、その先生のゼミの感覚で言うとそのぐらいだと。
で、やっぱり本を読むことを目的にしないんだって。
あーそうか。だってさっき聞いたときに、いわゆる自分が学生だとするとさ、哲学科に入って、専門でゼミやり始めて、半年で1ページってさ、その本の内容さ、分かんないじゃん。
何も分かんない。
2年、学史2年いたとしたら、何ページ?4ページじゃん。
4ページ。
4ページ。
それで卒業してさ、自分で哲学科やりましたみたいなさ、どういうこと?それ。
もちろんね、読むのは他で読んでるとは思うんだけど、例えば一言一言、それこそ西田さんの言葉でもさ、絶対無の場所とかってあったときに、絶対って何?無って何?場所って何?みたいなの?どういうこと?みたいな。
例えばそれを別に言葉に分解するわけじゃないんだけど、それを使った意図とか繋がりとか、そういうものはやっぱり本当にあるわけだよね。
特に海外の人とかだと、当然その言葉の翻訳の問題もあるし、あとは例えば過去の哲学者から引っ張ってくる概念だとしたときに、この言葉は実はちゃんとこの概念と繋がっていたとなった瞬間に、またそっちを見に行かなきゃいけませんみたいな。
あー、なるほど。
そうそうそう。っていうのがあるから、やっぱり読み方というか、言葉に込められた情報量が全然違うみたいなんだよね。
なるほどね。はいはいはい。
僕はニシャーさんに関しても、もうちょっと諦めて、前の研究だけは読んだとお伝えしたと思うんですけど、他の本はもちろんちゃんと全部読めてないし、いわゆる学者さん、他の学者さんが書いた解説本を読んで、なんとなくこんなふうに理解しましたっていうのを伝えるっていうのは前回までなんだけど、
やっぱりそれあくまでもなんとなくでしかないし、哲学のそういう専門家からしたら、やっぱりもう薄いってなるんだろうなって思ったんだよね。
まあ、なるほどね。薄いというか、哲学っていうものをやる上での本の一部なんだよっていう話ってことだね。
だからね、ずっと言っている通り哲学好きの自分がやれるラジオってここなんだなって逆に思うし。
それを踏まえるとね。
踏まえるとね、そうそう。
やっぱり専門家の人は多分もっとまた違う観点でやるだろうし、もちろん全くわからない人がやらないだろうからっていう中でいくと、
自分の立ち位置が逆にそこなんだなっていうのを先生の半年1ページでするときに、2時間で50ページ読もうとした方はどんだけ無謀かというか。
でもそれで別にいいじゃないかと。別に学者になるわけじゃないし。
なんとなく、今やってるのはホワイトヘッドなんだけど、ホワイトヘッドの家庭と実在という本をなんとなく読み通してみたいとか、
自分の人生で1回読んだって経験をしたいみたいな感覚で言うと、全然いいと思うよっていうふうに言ってもらえて。
すごいね。そこはやっぱり厳密に言うと違うんだね。読むっていうのと、とりあえず読み通すっていうのが今のホワイトヘッドだったようなとこで。
読むとか、理解するとか、研究対象とするみたいにすると、さというような一言一句みたいな世界に突入するんだね。
じゃあ哲学、例えば大学の生徒でいう学生さんで言うと、例えば今言ってたホワイトヘッドで言うと、ホワイトヘッド全部理解しますじゃなくて、
哲学を学問するとは何かみたいな、その手法どっちかというと、哲学するとは何かっていうことを多分そういう一言一句がこうで、
この言葉の裏にはこの人のこれがあって、そこには社会的なこういう背景があったみたいな、多分そこを一個一個掘っていく作業を、
そのやり方みたいなものを教えてもらってるみたいな感じなのかな。
そうだね。これもちょっと誤解をすれずに、わからない例で言うと、哲学研究とは何かを学ぶ場みたいなんだよね。
本当の意味で、西田さんみたいに自分なりの西田哲学を作るみたいな感じで、ファンの哲学を作るみたいなことはやっぱり教えられるもんじゃないというか、
人生の段階と哲学
そもそも俺ができる人なんて何人いるんだみたいな話はあるみたい。
なるほどね。そこまでの話ってことはね、それをやり切った上で自分もそれをやっているってことになるんだもんね。
そうそうそうそう。
言葉に対してそこまで厳密に言葉を紡ぐ人に今度はなるみたいな話だから、結構すごい、結構というか、めちゃくちゃ恐ろしい話だよね。
いやーすごいことだよね。だからね、まさにそういうインプットはやっぱり緻密にやって、だったらアウトプットできるようになるのに、やっぱりすごい、こうなんだ、駐輪とかやっぱり鍛錬がいるっていうのはそういうことなんだなって思うよね。
なんか職人技な感じはね、あれを思い出した。
なになに?
日本のデニムってすごいって。
ごめん、全然わかんないわ。日本にデニムがあるの?
岡山、ジーンズってあるでしょ?
はいはい、ジーンズあります。
あれ岡山とかすごい有名。
なんか聞いたことある。
ユニクロも、ユニクロは広島だけど、そっちの方の記事を使ってうんぬんみたいなのを出してたりするんだけれども、
ああいうのもすごい思い出した。
例えばそういうさ、アメリカの古き良き時代のジーンズを再現しますっていう時のオリジナルがあるでしょ。
それをどこまで再現するのっていう時の、日本人の職人の感覚っていうか、
例えばその記事にしても、その記事のコットンがどこで作られてて、どういう風な割合でブレンドしてて、
どういう風に何を使って染色してみたいな話だったりとか、
もちろんそれ以外もいろいろやるんだけど、さえその上で、できた記事をどんな糸で縫製してるの?
この部分はこの糸を使って、こういうミシンを使って縫製しますみたいな。
ここまで、なるほどね。
すごいそういうのに近いというか、似てるなと思った。
面白いよね。
ズボン履ければいいじゃん。
自分がかっこいいジーンズを作りますであれば、別に糸がどうなってるとかっていうのは最悪どうでもいいというか。
まあそうだね。
あるものとか、あとこういういろんな糸があって、それを使うとかっこよくなる。
こういういろんな記事があってで、かっこいいのは作れるかもしれないし、パターンもいろいろあって、それを学べば作れるかもしれないけれども、
完全復刻しますっていうときの、そのレベル感みたいな。
そういうことだよね。
ミシン一つとかね、ミシンの中でもそういうことで、ミシンバリ一つ取っても多分こなわってるみたいな、そういう話だもんね。
そうそうそう。それを今度ね、解析したらこういうふうにやってそうだ。
じゃあ今の素材でどう作るの?みたいな。
今度作る側のほうになってくるみたいな、そういう深みが多分。
なるほどね。
日本語で読む記事って世界でも知ってる人からすれば当たり前なんだけど、世界でもめっちゃ人気がある。
そうなんだ。すごいね。どこの世界でもそういう職人芸というか、やっぱり本質を極めようという人がそこに行くんだろうね。
すごくすごいものを作りましただけじゃなくて、そういうリバースエンジニアリングじゃないけれども、
誰か先人がやったものを解析した上で、ちゃんと学んだ上で、自分もこう作ります、みたいな。
すごいなー。でも実はまさにそうだよね。やっぱり過去の人、おそらくミシアさんもさ、プラトンとかアレステレスをまた読み返して、やさせようとかって言ってたけど、
それもアレステレスとかやっぱりものにしないとできないわけじゃない?
いやー、だって10年やってるわけでしょ?
そうそう、10年かかってるから。
40何歳から初めてね。
そうそうそうそう。やっぱりそれはね、ちゃんと自分の分かったとか、本当には繰り返しだからこのそこから伝えるとか生み出せるみたいなものって、やっぱすごいなって思うよね。
はやとはその、「わかるとは何か?」みたいなところ、結構痛感じゃないけれども、やっぱそういう本当のプロだよね。
そういう元標準と反するとやっぱり感じるわけだね、そういうのは。
感じる。全然違うなって思う。
すごいよね。そこでさ、変にそれを押し付けるんじゃなくて、薄めてこれじゃあとりあえず読み通してみようか、みたいな。
そういうのをやっぱり対応してくれると、なんか本当のプロな感じがするよね。
そこはすごくフラットだし、自分だけじゃなくて結構いろんな人とそういうのをやってるらしくて、
その人が読みたい哲学書を一緒に読むとか、知りたいことを一緒に調べて伝えてあげるとかっていうのを結構やってらっしゃる先生で。
そういう意味ではすごい、そういう人との出会いって本当にありがたいなと思うよね。なんか常に言ってるけどそれは。
そんな感じで西田さんの回もいろいろやってきたんですけど、
次回ね、くきさんとさっきお伝えした人をやっていく中で、もうちょっと何人か日本人を取り上げたいなと思うんだけど。
そうなんだ。
哲学の実践
なんかね、それもちょっと雑談なんですけど、僕は実はこの2月で35歳になるんですよ。
おめでとうございます。そうだね。
ありがとうございます。1990年生まれで35歳になるんですけど、
これもなんかちょっと不思議な感覚なんだけど、自分の中で30、人生70年説っていうのがあって。
そうなんだ。現代からするとちょっと少なく見積もってるね。
ちょっと少なく見積もってる。もちろん80歳、90歳、元気な人もね、周りにいるから、別に人生が終わるとは思ってないんだけど、
なんとなくその70年の中の35歳って3分だみたいな感覚があるんだよね。
はいはいはいはい。
だから人生の前半の最後っていう風なちょっと1年間として捉えてて。
ほうほうほうほう。
なんかね、結構この1年でもいろんな変化があったんだけど、割とさっきみたいな、
20歳くらいの時って割と自分が何かをするとか、それこそ俺が俺がみたいな感覚が結構強かったのよ。
はいはいはいはいはい。
やっぱ30歳になって子供が生まれてとか、家族が大事になってとかっていう中で、
それこそ哲学とかもやる中で、別になんか自分っていう嗜好で生きていくのもそろそろ飽きたなみたいな。
ほうほう。飽きだね。
飽き、飽きそう。
哲学の意義
なんか前もちょっとそんな話をした記憶あるんですけど、
自分っていう性を広げていけるといいんじゃないかみたいな。
そっか、広げるって表現してたか。
そうそう、当時はね。
で、今だともうちょいそれこそ西原さんみたいな感じで、
自分っていう嗜好も別に他のどこか出てくるでもいいよなとかも考えてるんだけど、
っていう時に、やっぱり過去のまさに日本人だよね。
どんなことを考えてたんだろうとか、
やっぱり何を問題として捉えて哲学者の人たちが過ごしたのって、
結構自分としてもなんか気になってる、実はタイミングが重なっていて。
そうなんだ、ほうほうほう。
それを知ることで、後半の35年だよね、70歳までって考えた時に、
自分が一番何を大事にして生きていくんだろうとか、
その次の後半期の人生のテーマみたいなものが見つかるんじゃないかなとかってちょっと思ってるんだよね。
そうなんだ、ほうほうほう。それがやっぱり日本の哲学者だから、その身近さ故にみたいなとこ含めて。
そうだね、あとはさっき言った通り、ホワイトヘッドは実は先生とこの1年かけて読もうっていう話をしてて、
1回取り上げましたけど、彼はイギリスの正統派哲学者っていう感じなんだよね。
なのでそっちはそっちでやりつつ、そっちに行くとすごい緻密すぎて、それこそ自分の人生に引き付けようと思うと無理なのよ、遠すぎて。
あー、だから前回の西田さん的な、全部なくなる感覚で、分かるんだけど全部なくなるみたいな。
そうそうそう、世界のことはよくわかった、まさに兄貴が言ってくれたような、世界のことはわかった気がするけどみたいな。
そっちはそっちはやりたいから勉強するんだけど、もうちょっと日々の楽しさ、つらさみたいなものとか、美意識とかで何を美しいと捉えるかみたいな。
そういうのって山崎さんとかが扱ったテーマらしいんだけど、そういうのを学んでいくことで、もうちょっと地に足ついた、目線が見えてくるんじゃないかなとか思って。
いやー面白そうだもんね、確かにそっち。
そうそうそうね。もちろん日本人だけしかやりませんってことは全然ないんだけど、
結構ね、さっき言った兄ちゃんにつながるような、まさにどう生きるか、私がどう生きるかとか、
そういうふうなことも扱って哲学とかをいろいろ見ていきたいなって思ってたんですよね。
幸せの捉え方
あーなるほどなるほど。そこはちょっと、ソレテツラジオ当初の感じとはちょっと違うかもね。
違うかも。
どういう人とか、テーマを選ぶかっていうところの基準、基準じゃないけどね。そこがちょっと視点が変わってる気がするね。
そうだね。たぶん自分が哲学に期待するものとか、哲学から得たいものが変わってきたのかなって確かに思う、今話してて。
はいはいはいはい。
そうなんです。だからね、あんまりこう、じゃあね、この35年間めちゃめちゃテーマを持ってきてたって別にそんなことはないんだけど、
でもなんとなく、割と下に構えたちょっとネクラなやつから少しずつオープンな人間になってきたかなと思うから、この5年ぐらいでね。
それも踏まえてもうちょっと、まさにね、その、資格身分じゃないけどさ、世の中と繋がってるとか、
そういう世界と、やっぱりその世界の中の自分みたいな感覚っていうものを、なんかもうちょっと大事にして生きていきたいなとかって、なんとなく思ってるんだよね。
はいはいはい。えー、そういう意味で言うと、結構これ何回か話してるけど、
そういう哲学上、当初みたいな話で言うと、ハヤトの価値観じゃないけれどもさ、もともと哲学やった理由みたいなところも含めての、
例えばその幸せに生きるとかっていう話があったときに、幸せのイデアみたいな話で、人間にとっての幸せって究極、なんなん究極というか、どういうことだろうっていうのが分かんないと、
それが分かって初めて、自分が幸せっていうところが、多分その、分かる?
はいはい。
順番で、だから自分が幸せみたいな感覚がちょっと分かんなくて、幸せとはそもそも何?みたいなところをまず知りたいんだ、みたいな話がもともとの最初みたいな話があったと思うんだけど、
西田さんの話を聞いた後に思うと、それすらも結構二言論的な話?
そうだね。
だなーって思うけど、その辺って捉え方だったりとか、もしくは進む方向というかベクトル?
はい。
まだ分かんないにせよ、みたいな、その辺って変わってきてるの?
それはね、確かに結構芽生えに変わってて、やっぱりその、当時って言ったもんね、本当に2,3年前だけど、やっぱりどこかにその幸せというものがあるとか、
その固定化された究極の理想的な幸せがあるみたいな感覚が結構あったのよ。
それでしかもあれだよね、例えばお金持ちになるとかさ、名誉を得るとか、そういうのとはまた違う感覚でしょ?
哲学的な、もっと根源的な幸せみたいな感覚がなんか共通する何かがあるのでは?みたいなイメージだよね。
うん、そうです。だからよく生きるとかまさにそうだと思うんだけど、
よくっていうものがいわゆる正しさとかに、人としての倫理観とかも含めて、正しい生き方、ストア化とかでもやったと思うんですけど、
それが分かれば、それに則って生きれば、自分はいい人生を送れるんじゃないか、みたいな。結構そういう感覚だったんだよね。
はいはいはい、言っててもないのかな。
それは無くはないんだけど、まさにリサさんの話とかもそうだけど、やっぱり常に物事は動いている。
これはホワイトヘッドもそうだけど、やっぱり幸せみたいなものも、どこかに究極の点があって、固定化された幸せがあって、それを追い求めるとかっていうよりは、
やっぱり都度都度、まさに今こうやってアネキーと話してる瞬間もそうだし、
こういうラジオもしかしたら聴いてくださったりすることもそうだと思うんだけど、やっぱりその瞬間瞬間に物事が立ち上がっていく、感情とかいろんなものが立ち上がっていく中に、
幸せっていうものが生まれてくるよねっていう感じに結構変わってきてるんだよね。
ほうほうほう。
だから、どこかにある幸せを追い求めるというよりは、今この自分がいる場、自分とこの場の関係の中で、どういうふうに幸せっていうものを作り出していくかみたいな、
そういう感覚に結構大きい変化なんだよね。
自己と環境の関係
いやー、全然違うよね。
全然違う。
全然違うよね。
すごいよね、なんか。
全然違う概念じゃんだし。
そうなんだよね。
それもただ、作り出すっていう概念に関しても、西田さんの話、今回西田さんの後だからより思うんだけれども、
一瞬一瞬その場と、自分が存在する環境も自分も、他の他人も含めて一瞬一瞬生まれていくって考えると、
次の一瞬のために、今この一瞬をこうしとけばみたいな、そういう感覚もなるよね。ちょっと種をまくじゃないと、次の一瞬。
そうそう、それもあるし、やっぱり意味の問題はずっと追い続けたいですとかって言ったと思うんだけど、やっぱりそれも意味づけみたいな話でいくと、
やっぱりその出来事に対して、やっぱり幸せだと意味づけれる時ってどういう時があるんだろうとか、
それはその出来事自体、例えばおいしいものを食べるとかっていう時も、どんなにおいしいものでも自分が満腹だったら別に食べたくないとかっていった時に、
これそうやって相互作用じゃん、やっぱり。
だから自分の状況もそうだし、外部の環境の状況もそうだし、そういうものをどういうふうに整えるかみたいな、結構そういうふうな発想になってるなと思う。
あー、だからやっぱ絶対的なものみたいな、もしくはマニ言論的なものからちょっと解放された感覚があるのかな?
そうね、そこは確かに今話してて思ったけど結構変わってるな。
だいぶマイルドになったと思うな、自分の幸せに知らないと自分はダメだみたいな。
それを、この真理を知らないことにはもう自分は生きてるとは言えないみたいな感覚があった頃からすると、それも含めてね、人生だし自分だし世界じゃんみたいなふうに言えるようになったのが、かなり大きな変化だよね。
あー、はいはいはい。まあそうね、肩から見るとそういうのはマイルドに見えるよね。幸せとは壊るべきだって言ってる人と比べると、ある意味主張がない人というかね。穏やかには見えないから。
YouTubeとかと再生数は伸びないだろうけど、こうでもあるしこうでもあるみたいなことをずっと言ってる人だっていうね。
ユリはね、幸せになるためにはこうしましょうっていうのが伸びそうだからね。
伸びそう、そういうのがある。それやらないからって、まあそれは自分のスタンス的にそうだし、ただやっぱり一方で独我論、ネツエに言う通り、それってよくあるじゃん、あなたの意見じゃんとかさ、
あなたが結局何でも幸せって見つけたらそれっていいんでしたっけとかってすぐ落ちちゃうと思うんだよね。
とか相対主義的な話。
そうそう、相対主義的にね。自分が幸せなら他どうでもいいとかってやっぱりなっちゃうんだけど、それも含めてやっぱりその世界と自分の環境だから、やっぱりどんなに、
例えばさっき言ったような話をしたけど、やっぱりまずいものはまずいとか、まずいものを食べるのは幸せとはちょっと遠いとかっていうのは当然あるわけじゃない?
常識的なというか感覚的なものとして。そういうときに、それもじゃあまずいものを食べたときにも、なんかありがたき幸せであると思いましょうとかはやっぱりちょっと変だと思ってて。
ああ、これそう無理やりない水系みたいだね。
そうそうそうそう、なんでもポジティブ変換するとやっぱり違うから。
そういうときにもちゃんと、これは例えば彼においしくないとするときに、でもそれが自分で作ったまずいものだったら、じゃあ料理頑張るかとかなるし、
誰かが作ってくれたときに、このまずさを何と伝えようかとかって悩むのも人間っぽいじゃないですか、それで。
で、その伝え方によって、幸福になることもある、不幸になることもある、全然あると思ってて。
というふうな発想で最近は生きようとしてるかな。
はいはい、まあそんなもんね。だからどちらにせよ、何やるにせよ、こうすべきみたいなものが幸せだと常に思い込むべしみたいなさ。
これも修行のためみたいなさ。どんな不幸の修行のためか思い込むべしみたいなさ。
それも大事なときはあるんだけれども、それだけになっちゃうと、それは信仰じゃんみたいな。宗教じゃんみたいな話だよね。
それは逆に現実化、目を背けてるってやっぱりなりかねないから。
そこにはやっぱり自分の何だろうな、自分の意思っていうものがあるかわかんないけれども、
それはないよね。
ないと思う。
でもこれも西谷さんの話から説明できるのかな。こういうのがあってあってあって、自分であるっていうときの、
こういうのがあってあっての、途中途中のこういうふうに判断した、こういうふうに判断したのが自分であるっていう個性みたいなのがあるってときの、
その途中の段階のこれを判断するのを、その一個を別のものに委ねてるよね。
こうあれべしみたいなものは。だからそれは自分ではないとも言えるかもしれない。
○○の教えによって全てが幸せであると思ってる私とかってしたときに、その○○が大きすぎるみたいなね。
必ずその自分、絶対の場所から最終的に出てくるのが自分だとすると、必ずその間に必ずそう思わなければならないっていう回路が挟まってしまうみたいな。
そうね。
めちゃくちゃ人為的だよね、それは。不自然だよね。
いや、確かに確かに。
それを自分で本当に選択したのであれば、自分の教えそれを毎回挟んでるならいいんだけど、
なんか挟まっちゃってるっていうのは不自由であるなっていうね。
そうだね。やっぱりそこに西田さんの話とか、いろんなものに応用できるというか、説明できちゃうね。
できそうだね。
確かにやっぱすごいんだな。そういう意味では全然当たり前のことを自分は喋ってるなと思うんだけど、
人生のテーマの考察
逆にいろんなことをね、哲学者のことを勉強したりとか、こうやって一緒にラジオでこうして話してる中で、
そういう穏やかさを手に入れた人生の前半だったなっていう感じもあるんで。
残りじゃないけど、向こう35年間。言っても長い時間だと思うんだけど、
何を追い求めたいかとか、どういう国に行きたいかっていうところがこの時点で見えるといいなっていう裏テーマというかね。
はいはいはいはい。
なんか実は自分の中でのテーマがある年なんですっていう感じなんだよね。
いいですね。そうやって考えるのはね。
すぐ40歳になるじゃん。
うん。
なんかあるの?40代はみたいな。
いやー、ないね。ちゃんとする。だから。
もうちゃんとすでに言ってるよね。ちゃんとする。
そう。基本ちゃんとしてないから。
はいはいはい。
仕事とかもサボっちゃうし、後からやべやべって言って今でもやってるしみたいな。
ああね。
だからちゃんとする。
やっぱりね。基本的には日々目の前のことを一生懸命やっていきましょうよ。尽きるんだろうね。
うん。
そんな話もありつつですが。
はい。なのでちょこちょこお伝えした通り、西原さんから今回は以上なんですけど、
次回から九木中蔵さんというですね、また日本の西原さんと同時代の、ちょっと1世代下ぐらいなのかな?
うんうんうん。
の手作者の人を取り上げようと思っておりますと。
ちょっとね、またひとテーマなので、第1回はちょっとその人となりとか、
追い出しとかっていうのを追っていって、2回目以降哲学の方に入っていくっていう感じでまたやっていきたいと思ってますので、
ぜひそちらも楽しみにしていただけたらなと思っております。
はいわかりました。
またね、西原さんとは違って、生きとは何かとか、ちょっとこうなんかね、生活に密着してそうな部分というかね、
そういう分やっていくということで、ちょっと楽しみにしていきたいと思います。
では次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
48:07

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