英語と日本文化の違い
はい、おはようございます。堀田隆一です。
はい、本日はですね、いつもとちょっと違う感じなんですけれども、初めてになりますかね、ゲストを迎えて放送するということで、特別なビッグゲストで、タイトルにももうすでに書いたんですけれども、井上逸兵先生ですね。
最近、英語の思考法を話すための文庫、文化レッスンというのを、筑波新書から出て、今売れに売れているという。
いやいやいや。
今年もご検本いただきましてありがとうございます。早速読ませていただいたんですけれども、今日はこれを話題にして、雑談をしゃべりたいという感じで、いきたいと思います。
お呼びいただきましてありがとうございます。
役得で、KEOの同僚ということで、今ちょうど英文研究室というスタッフが使うようなところで話しているんですけれども。
YouTubeで流したいぐらいですね。
これ。
YouTubeでね。
よろしければ、お越しのYouTubeか。
いやいやいや。なんか映像撮ってないからね。しょうがないですけど。いずれヘログもYouTube版で。
YouTube版で。
堀田さん、ビジュアルいいから。
バナレされている。
この英語の思考法ですよね。割と本当にやっていることの、普段研究されることのズバリというのを新紹介したということで、これまでも新章であるとか、読みやすい系の本あったんですが、もちろん読みやすさは変わらずね。
逆も含めつつ、かなりわかりやすいですね。紙砕いた形でやられていて。
読者的には、基本的に英語学習者が英語に関心のある全ての人っていう感じでしょうかね。
そうですね。英語学習者を想定して、これ読んだ方で専門的に社会言語学とか勉強されている方はすぐわかるんですけど、基本ポライトネスっていう研究分野の話を、あとちょっと認知言語学のテイストを入れて、一般向けに紙砕いた感じなんで。
専門的な人から見ると、そんなにコアの部分としては新しくないんですよね。それを紙砕いて、ちょっと面白おかしく、個別の例はなるべく面白いようにしながら。
これは例が豊富で、一つ一つがすぐ使えそうな感じのを選ばれているなって。
その辺を意図して、一般向けに書いたんですね。だから、あえて参考文献とかつけなかったんですよ。
なるほど、ついてなかったんですね。
これは鈴木孝先生の真似でもあるんですけど、鈴木孝先生は本を読まないとご自分でおっしゃってますけど、私は一応多少読んでるんで。
多少読んでるんで、本当は参考文献、これはこういう人の考え方だって、つけてもおかしくないところが、わかる人は多分わかるはずなんですけど、そこあえてつけないで、後書きにちょっとそこ触れてますけど。
ここだけですよね。実はこれポライトネスということで呼ばれている。
話題なんですよということで。
だからね、この太田さんのヘログンのリスナーさんぐらいだったら、多分、これこの話だなってわかる人は結構いらっしゃるんじゃないかなと思います。
そうですね。非常にキーワードとしては、学術用語を使わずに、独立、つながり、対等っていう。
これが本当にわかりやすいですよね。
それぞれ違う概念なんだけれども、しかもちゃんとこの3つが関連するような形で描かれているということで、この3つのキーワードでだいたいわかるのかなというところはありますね。
この辺はなんかね、私が言いとったのは結構、例えばデイビッド・セインとか、いわゆるネイティブの方で日本で結構いっぱい出版されている方のよくある本は、ネイティブはこんな言い方しないんだとか、この言い方カチンときますよみたいな、そういう本多いですよね。
結構あれも売れてて。
だけどやっぱりネイティブの方だと、その事象は取り上げられるんだけど、その根本の原理をあんまりシンプルに、やっぱり意識しているのかしていないのかないところを、僕は要するにネイティブじゃないんで、結構日本人的視点で、こう言うとネイティブの方こういう印象で受け止めるとか、そういうようなことを考えて書いたところがありますよね。
ウェブ上のコメントを読んだ方から見ると、こう考えればよかったんだとか、英語ってこういうことなのかという表現の裏にあるまさに思考法というか、そこが長年英語を勉強しているんだけど、確かに英語ネイティブはこういう言い方をするけど、どうしてなんだろうなというのがふっと不倫をしたというような経験をされている方が多いのかなと。
そうでしたし、読んでいくつか。
たてまえとほんねの理解
よかったです。
具体的な例が豊富で、例えばもう既にこれを読んで使っちゃおうと思って使ったものとか、会話とか英会話とか英語のメールとか書き言葉でも使えるなっていうのがいくつかあって、例えば確かにLet me tell youみたいな言い方すごく言ってたんですけど、繋がり思考的にはLet me share with youみたいなインフォメーションみたいな。
それは確かにそうだと思って、極力最近使うことをして、Let me tell youは言わなくなったくらい。
もちろん。
これもありますし。
ほったさんにまで影響を与えたような素晴らしい。
Youを主語にしたね。確かに使いにくいですよね。You lost meとかYou scared meみたいな。これ非常に英語っぽいんですけれども、なかなか出てこない。
びっくりしたってどうしてもI was surprisedみたいにインタビューになっちゃいますけど、あれは言わないですよね。びっくりしたっていうような感じの時はYou scared meみたいな方が多分自然だと思う。
あの発想は結構認知言語学的な話でもありますけどね。
そうですね、確かにね。
その辺混ぜながらっていう感じで、必ずしもポライトネスだけでもないんですけど、ちょっと結びつけてるところがありますね。
あと多くの人がこのギャグのジョークの部分で共感してるって部分で、Excuse usは面白かったよね。
あれも出て、なかなか意識してないと、あすって出てこないんですよね。
これは確かにそういうことかとか、あといろいろ参考になる表現があって。
僕好きだったのは、褒められたっていうか何かお世辞言われて、日本人返せないじゃないですか。
だいたいこう黙ってマゴマゴしてればこれでいいんですけど、何回言わなきゃいけない雰囲気が英語でありますよね。
うまく言えない時に、これレベル高いですけど、ジョークで。
例えばCan you tell my husband thatみたいなのがありましたけど、これちょっと使ってみたいなと思って頭に入れたんですけど。
ただ言ってる姿を想像するとやっぱり歯が浮いて無理ですね。
あれは結構レベル高い話ですよね。
役に立つんだけども、自分が使えるかって言ったら歯が浮くものも結構入ってるっていう面白さは。
あれは本当に使うの難しいですよね。
これ使ってるんですか?
使ってないです。
そういうわけではないんですか。
考え方としてはそういうふうにして会話を続けていくっていうのが大事だっていう話として。
その繋げ方も、ちょっと話がこの本から飛んじゃいますけど、
やっぱり日本人で英語ネイティブじゃない人で苦手としているのは社交的な会話っていうか、
コリドー・カンバセーションってビジネスのように言ったりしますけど、廊下で立ち話しするから。
あれが意外と苦手だったり、
苦手ですね。
パーティーで立ち話しで、知らない人に話しかけ、ある一定以上会話を続け、
うまく終えてまた別の人と。
これ結構日本人苦手ですよね。
だからそれはね、ちょっとこの本の領域から外れちゃいますけど、
でも考え方としてはそういうふうに考えると、
多少なりとも会話を続けるっていうことができるんじゃないかなっていうつもりでは書いてます。
今年も1回読んで、改めて読んだときに、
この独立つながり対等、これはとても分かりやすいと思ったんですけども、
英語の歴史の立場からすると、
これが言わば英語的とかアムロ作戦的っていう言い方でこの本でされてると思うんですけども、
これ、歴史的にはそんなに古くもないんじゃないかっていう直感が働いていて、
ちょっと雑談は前にもしたんですけども、
近代になってから、その素質あったかもしれないんですけど、
開花したのはですね、この独立つながり対等、
これは近代のいわゆる古とか、ああいうものが発生した後に、
ある意味確立っていうか、したっていう可能性はないかなと思っていて。
それがやっぱりアムロ作戦にものすごく際立った形で発達して、
他の欧米の中でも、ベーはちょっとその時代あれですけど、
実践的な英語の思考法
ヨーロッパでも他の時代、他の国の人たちはそうでもなかったっていうのはちょっと不思議ですけどね。
そうですね。
これはちょっとあれじゃないですか。
ちょっと1回でも当たり切れない感じですけどもね。
もう1回いきますか。
もう1回やっても10分経っちゃいますね。
いずれですが井上、英語の指向法、指摘印象からということで、
ぜひ皆さんも手に取っていただければと思います。
よろしくお願いします。
今日はありがとうございました。
ありがとうございます。
おはようございます。
おはようございます。
おはようございます。
昨日に引き続き、連日ということになりますけれども、
井上っぺ先生にお越しいただいて、
ちくま新書、英語の指向法ですね、
この間出たばっかりという本について、
昨日も簡単に中身について質問させてもらって答えていただくと。
というような形でやりましたけれども、
まだ話し足りないという感じがしましたので、
続けてですね、2本目ということでやっています。
ありがとうございます。
多くの読者の印象というか、こういうことだったんでわかったっていうのはね、
例えば僕が1、読者として読んでこういうことなのかなと思ったのは、
英語っていうのは、日本語とか日本文化は、
たてまえとほんねがある。
これはとてもよく言われていて、
だからこそはっきり言えないことがあったり、ぐずぐずしたことがある。
それに対して英語はわりとズバズバ、はっきりと言うと、
これはほんねとたてまえがないからだっていうふうに理解してた人が多いんじゃないかと思うんですが、
ほんねとたてまえがないわけではなくて、むしろがっちりあるんですよね。
むしろどこにでもあるっていう。
一種類がだいぶ異質というか、ということなんだということですね。
だいたい外国のたてまえっていうのはわからないですよね。
異質に感じちゃうんで、この人たち本当のことは違うんだろうなって、
自分と違うと思っちゃうんで。
そうすると自分たちが正常で、この外国の人は変わってるって思いがちですけど、
実際は日本語と英語に限ってみても、やっぱりたてまえってあるって。
この辺の違いによってミスコミュニケーションが起こったり、
言葉の上でも表現をしたりしなかったりっていうような、いくつか事例があったと思うんですけれども、
面白いなと思ったことのひとつに、
例えば、うるさくありがとう、ありがとう、サンキューみたいなことは英語文化では言わない。
昨日のことをですね、昨日はどう思って日付が変わってから言うってことはしないとか、
別れるときに、あるいはお邪魔しては出るときに手を振ったり振らなかったりみたいな、
この話面白い。
さらっと入っちゃいますよね。
一般的にはお見送りしないんで。
お見送りをするって、例えばこの本の中で言ってますけども、
私がよく見る光景はガソリンスタンドとか車屋さんで、
文化の違いについて
車が出てくるまでずっと店員様をずっと先まで見ておじぎずっとし続けてるんですよ。
日本ですね。
あれは絶対にあり得ないのはなぜかというと、
家から出たらもうその人の自由なんで、
見張ってるっていう印象になっちゃうっていう、
そういう話を書いたんですけど、
やっぱり束縛するっていうことは基本的には独立に反するので、
そういう言ってみれば縛りつけるようなことは、
基本的に控えようとするっていうのがあるんで、
英米とのコミュニケーションの経験ある人ほど、
負に落ちたっていう人が多いですね。
なんか冷たいのかと思ってた。
確かにそっけないというか、
そうですね。
その感覚はいろんなところで経験した気がしますよね。
なんでだろうって思って。
どうも冷たいと思ってるわけでもないっていう、
本当に冷たいのはあるかもしれないですけど、
冷たいと思ってるわけではなくて、
そこはスパッとネチネチしないっていうのが、
基本の独立のスピード。
逆に言うと、日本で見送りを最後までするというベースにあるのは、
なんだと考える?
ずっとあなたのことずっと思ってますよっていう態度を示すのが、
基本的に丁寧な振る舞いだと思うんですよね。
だから言ってみれば束縛と裏返しで、
あなたのことずっと関わりがあるものとしていますよっていう態度の表し方だと思います。
確かに本当にフックに落ちることがいろいろとあって、
あとつながりとか対等ですかね。
対等はそうですね。
対等っていう意識はやっぱりないんですよね。
これは実は昨日もちょっとお話ししましたけど、
この本の研究所のベースはポライトネスっていう研究なんですけど、
そこにも対等っていうのはないんですよね。
これは多分ブラウンとレビンソンは意識してないんですよ。
意識してないんですか。
当たり前だと思ってるんですよ。
これは独立の原理とつながりの原理を発展させて、
敷衍して考えると、それぞれが対等であり、
ごめんなさい、それぞれが独立していて、そしてつながっているっていうと、
必然的に対等っていうことに、
どっちかが上で、どっちかが下だっていうことにならないっていうのが基本だっていうことで。
なるほどね。これは親切、井上親切っていうことですよね。
独立性と対等性の理解
これは実はこれ聞いてる人もポライトネスぐらいはわかるっていう人も多いと思うんで、
独立はいわゆるパワーに関するところで、つながりはまさにソリダリティなんだけど、
対等ってどっから出るんだろうな、英語で言うとエクオリティとかあんまり聞いてないかもな。
僕はイザリタリアニズムっていう言葉を使ったりするんですけど、
対等主義っていうような言葉を使ったりする時もあるんですけど、
お互いが対等であるっていうのが、特にこの本にも書いてるんですけど、
謙遜の振る舞いによく現れてて、日本人の謙遜って自分を下げますよ。
アングロサクソンの人たちの謙遜って、上げられると対等まで戻ってくるっていう。
それ具体でいっぱい言いましたよね。
自分を下げすぎると、今度は相手に上げてっていうプレッシャーかけちゃう。
自分を下げすぎると、これもこれである意味失礼になるというか、
嫌な感じか事前的な感じがする。
その例を確かにいっぱい見て、なるほどなと思ったんですね。
差があると、かえって居心地が悪い感じになっちゃうんですかね。
日本の方はあえて自分の下に居る。
差をつけることで居心地をむしろお互いにいい感じに持ってくる。
これは結構大きい違いですね。
僕自身も本当に日本人だなと思うんですけど、
低姿勢で居る方が楽なんで。
人に接する時も、あ、すみません、すみませんって言ってる方が楽ですよね。
それがやっぱりアングロサクソンの観点から見ると、
相手が下がりすぎると、あ、めんどくさいな、この人上げなきゃ。
だから謝りすぎたり感謝しすぎたりっていうことが日本の場合には、
よく日本人は謝りすぎ感謝しすぎとか、
スピーチをよく言う話です。
スピーチを日本人は謝罪で始めて、アメリカ人はジョークで始める。
そういう定番のもありますけどね。
その辺は結構いろんなところで現れてるんじゃないかなと思うんですけど。
これ数々の例を挙げてくれてるので、本の中で、
あ、これある、これあるっていうのが連続なんですよね。
確かに米人こういう言い方してるよなっていうのがわかるっていうことですよね。
ここを読み取っていただいて大変ありがたいですけどね。
あと井上さんといえばって言ったらあれですけど、
最近コロナでなかなかできてませんが飲み会。
飲み会ネタもいくつかありましたよね。
ビール注ぐかどうかだけでも一つをとってもここに文化差があるっていう。
これは面白いですね。
これ話すと最近の世代はお釈迦するの嫌がる日本人が増えましたけどね。
そうですね。確かにね。
なんかめんどくさいっていう感じの。
あれはだから僕は思うんですけど、
日本の個人主義とアングルスタクソン的な個人主義って
ちょっと似てるようでだいぶ違うっていうところがあって、
日本の個人主義ってどっちかっていうと自分の世界、
自分が自分だっていう世界の考え方っていうのがベースだと思うんですけど、
アングルスタクソンはこの本にも書いてありますように、
相手の独立性を尊重するっていうのがベースとして、
自分ももちろん独立してるけれども、
相手の独立性を尊重するっていう感じの個人主義なんで、
だからその辺は微妙に違ってんじゃないかなっていう気がするんですけど。
謙遜の文化
やっぱり注がれると勝手に無言で注がれると、
なんで注いでるんだろうみたいな。
断る権利もあるんじゃないかみたいな発想になるんですよね。
結構ね面白いのはね、僕見てると、
アメリカとかの日本料理店で、
最近やっぱり日本酒好きな人が多いんで、
日本酒注文するんですけど、
我々どうですかホッタさんといったら、
普通お調子、厚かなったらお調子1本でおチョコ2つで、
こうやって注ぎますよね。
だいたいね、英米人ね、
お調子1本ずつ頼んでますから。
それぞれね。
それぞれ。自分で好きな時にこうやって注いでるっていう。
あれもすごい典型的だなと思うんですけど。
確かにだけど、今の若い世代では、
自分の飲みたいように飲ませてくれよっていう感じで、
だいぶね、これはアングロ作村家とは言えるんですかね。
現象としては似てるんですけど、
原理がやっぱり違っている気がするんですけどね。
そこはちょっとうまくまだ論じられてないんですけど、
日本のこともやっぱり考えながら書いててはいるので、
だいぶ時間が来ちゃいましたね。
これは止まらないですね。
逆に日本慣れしている英語ワシャラなんかは、
また振る舞い面白いですね。
面白いですね。
これはまた書けちゃう。
第二弾書くんですか、これ。
これ今、お話頂戴しまして。
そうですか。
いろいろ今考えてる。
ということなので皆さん。