はい、数哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。 よろしくお願いします。
よろしくお願いします。 はい、今回でベルクソン第6回ということで、最終回ですね。やっていきたいと思います。
はい、大分長い旅をしてきたなと思うんですけれども、 結構濃かったなと思ってね。
ピュアだけでもさ、時間と空間とか量と質とかさ、 時速やら記憶やら、前回エランビタールとか飛び出して。
だいぶそうなんだよね。人間の自由とは何かとかさ、そういう意味ですごく身近な話に繋がりそうなんだけど、
頭では確かに理解できるかもしれないけど、 なかなか腹落ちするまでに難しいっていう意味で、面白いよね。
今回の話だけじゃ、バッと、よし、人間の自由とはこれだ! みたいなさ、ならない面白さがあるね。
そう思ってくれればめちゃめちゃ嬉しいなと思うし、 やっぱりベルクソンが言っている自由とか不自由、
不自由の状態が何かっていうのが僕らが思うよりも結構厳密なんだろうなと思うんだよね。
今回、最後にベルクソン回の最後として社会というテーマを取り上げるんだけれども、
これはベルクソンから言わせると、ある種僕らが普段生きているこの日本社会、日本社会とかって言葉が言えるとしたときに、
これって多分不自由な社会なんですよ。 なんで?みたいな話だと思うじゃないですか。
それはもちろん完全な自由ではないかもしれないけれども、 いろんな言論の自由とか表現の自由とか表彰されてるじゃんみたいな話ってあるじゃない?
でも不自由なんですよね。 そうなんだ。だってね、前マルクスのときだったけどさ、
これを嫌がってじゃあ自分で全部さ、自らさ、 火から何から全部、食べ物から準備して、完全なる自由に行くのだ、みたいな。
でも、なんかただの逆張りだったりとかさ。 あー言ったよね。
それはそれで死ぬでしょうみたいな、普通に死ぬでしょうみたいなさ。
自由は何?っていうのはあるんだけど。
あるので、今回は社会っていうところを実現しながら、 最後改めてベルギスさんが言った自由って何だっけ?とか、
どう実現するの?みたいな話をお話ししていこうと思っているんですよ。
これまでの話をなんとなくイメージ持っていただけていれば、そんなに難しいんだけど、
まあまあわからんでもないかなってなるとは思うのが、
やっぱりマルクスさんって、これ冒頭から言ってるんだけれども、ゼロから始めないんだよね。
やっぱり今生きている社会とか、今生きている現実ってものから始まっていくので、
それをある種、自分がどう捉えてるかっていうところも含めて、
ちょっとね、振り返りながら聞いていただけるとイメージしていくなって思ってる感じなんですよね。
ちょっとさっそくね、言っていこうと思っているんですけれども、
まずベルギスさんはこの社会っていうものを考えるにあたって、2つの動きを俺も捉えてて、
1つが閉じた社会、閉じる、まさにドアが閉じるみたいな話ね。
クローズドな、みたいなね。
クローズドって言っちゃって、またそれもイメージがあれなんだけど。
えー、違うんだ。
確かにクローズドは言ってます。閉じる、閉じた社会。
あともう1個は開かれた社会。
オープンな。
オープン。
それも違う。
やっぱりさ、クローズドとオープンって言葉のイメージだよね。
っていうのが邪魔をするから。
でも確かに閉じる、クローズ、開く、オープンぐらいだと思っておいてください。
で、これがね、面白いんだけれども、
逆に閉じた社会とかクローズの社会というのがどんなイメージがする?
よそ者禁止みたいな。
貿易禁止みたいな。
鎖国的なね。
同じちょっと排他的な感じとかあるじゃない。
で、それは1個合ってるんだけれども、
それだけで見たらちょっと間違っちゃってるような話があるんですよ。
要は何かっていうと閉じるみたいな話ってさ、
さっきの鎖国とかで言うと、
どっちかっていうとね、
例えば江戸時代なら幕府みたいなさ、
そういう権力みたいな人が、
いやもうこれから貿易しません、
ここだけに縛りますみたいな、
そういう風な話じゃないですか。
ある種僕ら閉じるっていうと、
なんかそういう法律とか、また制度とか、
あとは何だろうな、空気でもいいんだけれども、
そういうもので、外部から強制されてるみたいな、
そういう発想があると思うんですよね。
なるほど、自分で選んだんじゃなくて、
そういうルールだねとか、
そういう習慣だねっていう風に思っちゃう。
まあそうだね、確かに。
だから不自由とか、
本当はこうしたいけど、
外部が違ってできないっていう、
なんかそういう圧力みたいな。
確かに確かに、そうだよね。
確かに、俺がルールだって、
俺が途中で決めるんだって人は自由だもんね。
そうそうそうそう。
なのでそういう一部の人だけは自由なんだけど、
多数の民主派は不自由だみたいな、
そういうイメージがあると思います。
ベルフさんはそういうことは言わないんだよね。
違うんだね。
違う、そう。
じゃなくて、さっき外部って言ったからイメージつくかもしれないけれども、
やっぱりベルフさんは内部、内側っていう言葉をめちゃめちゃ大事にするんですよ。
ほうほうほう。
つまり、このポジタ社会っていうものは、
一人一人のそこに生きる人間、
社会なので人間でいいんだけど、
その一人一人の内側から、
実は分けあがる働きによって閉じるんだっていう、
そういうことを言い出すんですよ。
言い出しちゃったね。
分からん。
よく分かんないよね。
分かんない。
つまりね、僕ら今日本に来ててさ、
例えば人に優しくしましょうでもいいし、
日本、表現の自由があるから、
ある人自分の持っていることを何でも言える、
ハッピーだみたいなこととかに思ってたとしましょうと、
言うときに、
社会っていうものを僕らはいいと思っていればいるほど、
それを守ろうとするじゃないですか。
そうすると、例えば表現の自由を守るために、
例えば戦うとか、
表現の自由を侵害する人がいたらそれを弾くとか、
そういうことをしますよね。
というふうに、
本来その社会とか集団の中で、
よりよく生きようとすればするほど、
そこから離れるものとか反するものっていうものを弾き出すっていう、
そういう動きを一人一人が取るようになりますと。
ジョーン・スチュワート・ビルのときそういう話あった気がするよね。
あったよね、そうそうそう。
まさに道徳みたいな話と近いんだけれども、
やっぱりベルクさんも道徳の話を実はしてるんだよね。
これも実は閉じた道徳と開いた道徳とかがあるんだけど、
合わせて閉じたっていうふうな話をしていて、
他人気がまさにちょっと排他的とかさ、
ちょっと良さ者に詰めたいみたいな話をしたと思うんだけれども、
これもある種そういうふうな制度とかっていうものよりも、
一人一人の社会に生きる人たちが、
その社会に従順であればあるほど、
それに反する人を弾き出そうとするっていう、
そういう動きがありますと。
なるほどなるほど。
これってね、別に何が悪いのって感じじゃない?
まあそうだね。
ジョン・シュワトリオン・ミルの時みたいに、
必ずしも少数派がね、
駆逐されている世界っていいんだっけみたいな感じじゃなっちゃうけれども、
確かにね、
良くないことを、だからその社会の中で、
良くないと思われている人が排除というか、
ある程度制限されるのはしょうがないかなっていうのはあるよね、でもね。
そうそうそう。
感覚としては。
だからこれは別に、悪いことというか、
今現実に起きていることなんですよね。
ベルクスもあえてそれを閉じたっていうふうに言うんですよ。
どういうことかっていうと、
ジョン・シュワトリオン・ミルの場合は、
やっぱり最大多数の最大幸福というのは、
公理主義という発想があるから、
社会全体で幸福をいかに最大化するかって、
そこをベースにするじゃないですか。
ああ、そうだったね。
なので、少数派だとしても、
それも含めて、ちゃんと社会で生きられるということが大事だと。
それを排除して、
じゃあ、ここからね、どうやって出ていきますかね。
そういう閉じた社会をどうしたら開いていきますかっていうと、
まさに開かれた社会っていうことにつながっていきます。
うんうんうん。
さっきのとおり、閉じた社会っていうのは別に誰かが何か悪いことをしようと思っているよりは、
そういう自分たちが生きる環境を維持するっていうことから生まれてくるものなんだよね。
うんうんうん。
なので、開かれた社会っていうのは、
この安定した社会とか、うまくいっている社会っていうものを突き破る働きになります。
うーん、そうなの。
これなんかさ、前回の話と通じてこない。
要は植物っていう壁があったときに、エランビタールがそれを突き破って動物になりましたみたいな。
はいはいはい。あー、なるほど。
うん。
おー、面白い。確かに確かに。
この社会がどの段階にあるかみたいな話に近いね。
この落ちた社会っていうのがね。
そう。とりあえず社会っていうふうな壁があって、それを突き破るっていう動きがありますと。
はいはいはい。
これが実は、なんていうのかな、
ベルクさんに言わせると、いわゆる、歴史的に言うと偉大な英雄とか、あとは神秘家みたいな人たち。
神秘家?
わかりやすいのはイエス・キリストだよね。
あー、ほうほうほう。
イエス・キリストは当時の社会があったときに、全然違う発想というか、
イエス・キリストはキリスト教を作ったわけではないとは思うんだけれども、
そういう神との関係っていうものを引っさげて、どんどん人を増やしていって、
だから危険に位置されて殺されたりっていう話があるんだけれども、
やっぱりイエス・キリストが何で突き動かされてそういったことをしたかっていうと、
たぶんそれって環境に突き動かされてとか、誰かにやれって言われたからじゃなくて、
自分の湧き上がる何かわからない使命感なのかわからないけれども、
そういうものに突き動かされてたぶん動いてたはずなんだよね。
確かにそうだね。やれって言われてないはず。
ああまあ、神様に言われたかもしれないけど。
まあ例えばね、そうそう。
ただ、そうはね。
もちろんそういう環境、いろんな辛い環境の中で自分がやるべきだと立ち上がったとかあるかもしれないけれども、
それはある種、環境で動かされた本能というわけじゃなくて、
まさにベルクソンが言う自由の働き。
その働きによって、キリストはそういった自分の考えとか、
発想ってものを広めていったはずであろうと。
そういうふうな人が歴史には何人か何人か時代々に生まれていって、
それを後から、それたちのことを偉大な英雄と呼んだりするんだけれども、
つまりそれは、取り板社会とかその壁、
人類という存在が突き当たっているその壁をぶち壊した人というふうな、
そういうふうな働きなんだよっていうふうに言うんだよね。
へー、はいはいはい。
そう。なのでこの開くっていうのは、いわゆる開放するっていうオープンだっていうことよりも、
もちろん突き破るとか、なんていうのかな。
今ある囲いを本当に取っ払うみたいな、破壊的な動きなんだよね、やっぱり。
いやー、そうね。たとえ出てくる人が偉大な人が、
有名人すぎて、逆にイメージ湧かないよね。
そう、もうナポレオンとかもそういうふうなレベルなのよ。
確かに何があるかっていうと、
世界を開いていく、要は人種とか貴族と貧民とかっていうようなものを超えて、
人類合いとか共同体みたいな話。
ナポレオンはちょっと違うのかもしれないけれども、
でもやっぱりそういう、征服という者としてもやっぱりその一つの枠組みを超えて、
社会というものをつなごうとする、まさに閉じたものを開こうとする働き。
そういうものをやっていく人たちがいて、
そういう人たちがどんどんどんどん社会というものを前進させていくことによって、
この世の中、今我々が生きている社会は閉じているんだけれども、
それが開かれていく。もっと言うと、
世界一つである種人類合いみたいな、
そういうものにつながる社会ができるんじゃないかみたいな、
そういうことをベルクスの方が考えていくんだよね。
おー、なるほど。
持続で、その視点で考えるとこうなるのか。
前回のエラン・ヴィタール的な感じだね。
そうね。
まさに。はいはい。
さっきのエラン・ヴィタールみたいな話。
生命の役だったけれども、
エラン・ダムールみたいな話を言ってて、
アムールって愛だよね。
おー、そうなのね。はいはい。
愛の躍動みたいな感じで、
英雄とかは、まさに自分の知りしおくとか、
有名になった野郎っていうものじゃなくて、
本当に人類愛とか、
よくしたいみたいな、
そういうもので動いていきます。
それによって、国家とか民族とか社会とかっていうふうな、
まさに区切り、知性の働きだよね。
区切る、空間化っていうものを超えて、
持続の方に世界全体を前進させるんだみたいな、
そういうふうな働きを持つっていうふうな発想をするんだよね。
これは正直批判も多分めちゃめちゃあって、
なんで世の中が持続の方に行かなきゃいけないんだとかさ、
それが本当に最高なのかとか、
いろんなおそらく言えると思うんだけれども、
僕らは普段いいと思っているこの国を作って、
今、国が200ぐらいあるのかな?
地球上に国があって、
その中でこの国の安定を求めて生きていくっていう話。
これが実は閉じてるんだとか、
外部に敵を作っているんだとか、
本能的に不自由なのとか、
そういった分析ってやっぱめちゃめちゃ鋭いなって思うんだよね。
それを開いていきましょう。
それが持続に繋がるし、
エランビタールだし、
エランダムールだよみたいな。
そういうふうな話がベルクソンのたどり着いた社会観というか、
どうかな、この社会のイメージ。
前回までの話が入っていると、
閉じるとか開くっていうイメージが湧いてくるんじゃないかなと思ったりするんだけど。
イメージが好きか嫌いかとか、
なじむかどうかは別として、
閉じている状態っていうのが、
みんなが主体的に動いているようで、
自分の意志で動いているようで、
実は空間化の産物であって、
めちゃくちゃ不自由だよと。
その視点っていうのは確かに面白いなっていうね。
ただそれをぶち壊す、
開かれた社会だっけ?
開かれた社会だね。
開かれた社会?
っていうのが、
いわゆる人間一人一人に求めるんじゃなくて、
英雄に求めている感じ?
っていうのはちょっと独特なのかなと思っちゃったね。
そこら辺ベルクソンどう考えたんだろうね。
本来、人間一人一人が、
無理だと思ったのかな。
全員が持続的な感覚でいれば、
あとはもう流れるように流れるんじゃない?
開くというよりは。
前回、ミルの話でも天才とか、
そういう特権的な人が生まれる社会、
それによって、
社会全体が恩恵を超えるみたいな話があったと思うんだけれども。
そういう人たちを駆逐しないというかね、
目を積まないっていうね。
似たような発想っていうところもある種ベースとして、
800年代か900年代の時代にあったのかもしれないね。
どうだろうか。今だと特定の天才が社会を前進させるとかさ、
ある種カリスマ的なリーダーみたいな。
でもそれは全然今の日本にもあるよね、やっぱり。
今の日本もあるんじゃない?
それが政治なのか経済なのか、
スポーツなのか、分野はいろいろあると思うけども、
あるんじゃないかな。
例えば大谷翔平がさ、
あれは野球の躍動だと思うんだけどさ。
二刀流って斧を切り開いて、野球を次のステージに進めちゃったわけじゃない?
そうだね、躍動の最先端を開き続けてる感じがするもんね。
ある種僕らは大谷翔平さんを見て、やっぱすごいなとか、
やっぱり時代を作ったみたいな話?
するのはまさに野球という世界図の英雄とか、
まさにこの壁をぶち破って、次の世界を開いてくれた人っていうのを見てるっていう話に近いんだろうなと思うけどね。
だからこのベルクソンの社会の話に至ってというか、
社会の話では思ったより現実的な話になったなって思ったね。
そうだね。
そういう意味で、だからみんながこの持続の感じ?
エラン・ヴィタールの一部なのだ、みたいなさ。
みんな頑張れ!みたいなさ。
みんな目覚めよう!みたいな感じじゃないんだねっていう。
逆に言うと、前回は知性じゃなくて直感がいいよねって話をしたと思うんだけれども、
直感によって生きるとか、本当の意味で持続を生きるっていうことは、
現代によっては英雄的な生き方になっちゃうんだって話だと思うんだよね。
なっちゃうのか。
必然的に。やっぱりそういう言い方を知る人が少ないとか、
みんなが知性で生きている中で、区切るっていう言い方を知る中で、
それを壊すというか、区切らないという言い方をするわけだから。
さっきの大谷翔平の話がまさにそうか。
ベイブルース以来の、野球の神様以来の一材というかね、ユニコーンだって言われてるから。
ユニコーンって空想上の生き物って話じゃない?
確かにその野球のエランビタールの最先端、野球の持続の最先端を生き続けているとすると、
これはすごいわかりやすいね、確かに。みんなにやれって言われても無理だしな。
しかも周囲からは、そんなのやめてどっちかに専念しようとかって言われ続けてるわけじゃない?
それでも自分はこれでやるんだって、やり切ったっていうのは、
今の話で言うと持続を生き続けるとか、生命の本流の最先端であり続けるって話だと思うのよ。
閉じた社会から開いたもんね、突破したもんね。
二刀流なんて無理だ、みたいなね、突破したもんね。
で、すごくわかりやすいよね。今自分でも思ってた、確かに大谷翔平さんだって思ったんだけど。
そっかそっか、全員がやれたらそれはいいけども、面白いかもしれないけども、
現実的にそうだよと。野球というものを見ても100年に一人だよっていう話になるのか。
もう英雄じゃん、やっぱり大谷さんって。
英雄だね。
それはもちろん能力もあるだろう。野球という能力もあるだろうし、
もちろんそういった環境とかもあると思うんだけれども、
それを乗り越えて自分の内側から出てくる本能と知性と直感みたいな、それを全部持っちゃうと思うんだよね。
わー面白いね、そっかそっか。
この持続っていうものを体現すると英雄になっちゃう。
自然的にね。
面白いね。
だからさっきキリストとかナポレオンっていう話をしちゃったからあまりにもってなるけれども、
それは人類とか生存っていうところで持続をやり続けるとまさにキリストになるみたいな、イエスキリストになるって話で。
野球という領域でやったら大谷翔平さんになるとか、将棋は分かんないけれども藤井さんになるとか、
ほんとそういうようなレベルなのと思う。
そっかそっか、自転車レースでいうとタディポガチャルみたいなね。
ちょっと僕そっち分かんないんだけど。
知ってる人の方が少ないか。
なんだっけ、ツールドフランスみたいな。
そうそうツールドフランス、去年も優勝してたけれども、そう、ヤバい人がいるんですよ。
やっぱそうなんだね。
そういうことかー。
まさに歴史の残すとか、時代の最先端にいるっていうのはそういうことなんだと思うんだよね。
いやー納得、めちゃくちゃ納得にしたわー。
やっぱね、こういうてつやくんの話をしてるとさ、
カントとかニーチェにせよさ、そういう生き方をみんなできたらいいね、みたいになっちゃって、
すべきだ、みたいになっちゃうかもしれないんだけれども、
現実問題、それを実現すると英雄になっちゃう説っていうのは、
すごい腑に落ちたわー。
確かにそうなんだよね。
ベルキーさんもだから、それはみんな別にできることだし、
その直感を使おうっていうのは多分あるんだけれども、
まさに言っちゃった通りで、
現代でそれをやると英雄になっちゃうとか、
やっぱりそうじゃない人が多すぎてっていう話に多分なるんだろうね。
なるほどねー。
確かにそれもグラデーションだとすると、
少しでも持続っぽい感じを持ったらいいねっていうのはあるかもしれないけれども、
それをその完全体みたいなね、話になるとちょっとレベルというかね、
異常値みたいな、異常答えがあるみたいな話になる。
グラデーションの濃い方に行けばいくことはやっぱりそういうね、
バイネームでやっぱり神様とか英雄とかユニコーンとかいう風になっちゃうっていうのはすごいわかるよね。
確かに今の大谷さんの話をしてすごい腑に落ちた、僕もなんか。
多分そういうことなんだわ。
エランビタールの例えとしてめちゃくちゃ近いんだよ。
ね。
そんな感じでね。
なので面白いのは、大谷翔平さんが高校生、神奈巻東高校か、やってた時にどうなるかなんて、
多分本人もわかってないし、誰もわかってないはずなんだよ。
はいはいはい。
つまり未来を描けないはずなんだよね。
うんうんうん。
それがこれまでの話で言うと、実は最大限の自由だって話って伝わるかな。
あの、大谷翔平と言えばマンダラチャートでしょ。
高校生の時に監督がさ、みんなに描かせていたマンダラチャート。
ちょっと言うと、9マスとかさ、それをさらに俯瞰した9つのやつで、自分の目標だよね。
それを描いて、それをやり続けたからこそ今の大谷翔平さんがあるみたいな、そういう話だよね。
そうね。その9個目標があって、その周りにさらに8個か、そのためにやるべきことみたいなのを全部描いていって、
それを実現させていこうっていう話。
それってさ、ある意味普通に持続じゃない人。
はいはいはい。
だからマンダラチャートを使うと、たぶんその空間化した、しちゃってるんだよね、未来。
はいはいはい。
今、何なら書こうみたいな。
だけども、このマンダラチャートを、その持続の観点からマンダラチャートを使うと、空間化したマンダラチャートじゃなくて、
持続化バージョンのマンダラチャートを使うと、
大谷翔平みたいになれるみたいな。
はいはいはい。
なるほどね。私その発想が面白いと思うし、今誰にも想像できないって言ったけれども、
もしかしたら大谷翔平本人にはできてたかもしれないって、これはあるじゃん、たぶん。
想像、そうなんだよね。
それが空間化された未来に、俺がこうなってるっていう話とはたぶん違う感覚なんだろうなって意味で。
そうだねそうだね。
仮に、分かんないよ、たとえばWBCとか、分かんないけど、たとえば優勝するとかっていう目標をやったとした時にも、
それも優勝するという事実というか、現象としては同じなんだけれども、空間化しちゃうとただただその瞬間に優勝者という事実にフォーカスするんだけれども、
持続で多分発想すると、そこを別に至ってもいいし至らなくてもいいみたいなこととか、
その流れの中で何が起こるかって、むしろそっちに目が向くみたいな、その捉え方が全然違いそうってことまではイメージできるよね。
目標であり、過程でもあり、夢でもあり、みたいなさ。
そうそうそう、でも現実的でもあるみたいなさ。
だから、過程と結果どっちが大事なんですかっていう時に、どっちもだよっていうか、結果なんて最先端の今でしかないんだから、
結果はプロセスなんだけど、そのプロセスの重み付けとか記憶がないと結果もないよみたいな、
そうやって切り離さないからねっていう話しか言えなくなっちゃうなって思うね。
そうだよね、目標と結果とプロセスっていう理言論を超えてるというかね。
そうそうそうそう。
そこを直感してるっていうね。
そうそう、一体可能してるからみたいなさ。
そういう風な発想がやっぱりベリオクソンの言うところなんだなっていうのがなんか見えてきたね。
面白い。こういうのを聞くとさ、自分に取り入れられないかとか、いろんな人がこれをできたら理想的な社会になるのかなみたいなことをどうしても自分は考えちゃうんだけど、
その囚われから今回解放してもらってすごく清々しい気持ちになった。
本当?解放できた?なんかそれ。
すごい、こういう人たちの言うことができたらそれは英雄だよねっていう。
なるほどね。
っていうところはね、自分の中では結構みんな、もちろん全員がなれるとは思ってないんだけれども、頑張ればなれるとか、そういうちょっと理想論的な自分がいて。
わかるわかる。
ただ、実際はこれできたら英雄じゃん?みたいなことがあって、すごくそこをバッサリと現実を見引き戻してくれて、
良かったよな、ちょっとそういう捕らわれみたいなものから解放されたな、なんか。
なるほどね。すごくいいなと思うのは、やっぱグラデーションの話をしてるからさ、
それがすごい濃密だったら大谷翔平さんだけど、別にパーセントも数字だからあんまり良くないけれども、
例えばオレンジ真ん中ぐらいだとしても、
それってすごい持続的な発想をしない人よりも野球に対する向き合い方とか、配り方とかが多分変わってくるはずなんだよね。
十分一流のプロ選手です、みたいなね。
だからこその苦悩とかもあるとは思うんだけど、もしかしたら知性と直感のどっちなんだみたいなさ、
それはそれでやっぱりすごく正しい迷い方というか、
この本能、知性、直感みたいなものをもし当てはめるとしたら、
持ってるだけで自分はどこに向いてるんだっけとか、
もしかして本能的に環境のある種奴隷になってるんじゃないかなとか、
そういうようなことにも使えたりするから、
ある種ベルクソンの発想を使うためになるわけじゃないけれども、
そういう風に受け取ってもいいんじゃないかなというふうに今日話をして思ったよね。
そうはね。
そういう感覚をイメージするとか言語化するとこがりにはなるかもしれないよね。
たぶん本来言語化するのは難しい一元論的な話なんだろうけども。
これね、もう一個またすごいのがベルクソンさんの、
ちょっとエピローグ的なやつなんだけれども、
彼が亡くなったのが1941年かな?という話なんですけれども、
第2次世界大戦直前くらいなのかな?
いわゆるフランスで生きてるんだけれども、マチスに占領されるんですよ。
かなりユダヤ系なので、マチスとユダヤという関係性の中なんだけれども、
当時言っても明星もあったから、
ちょっと国権的な扱い?免除とかしてやるよみたいな、そういうものがあったらしいんだよね。
なんだけれども、やっぱりそれってある種、まさに極意じゃない?
同じユダヤ人なのに、明星とか業績があるベルクソンは免除されて、
そうしたら免除されないみたいな。
っていうのって、よくないよねって言って、その国権的なものを拒否するんですよ、ベルクソンさんが。
それに一ユダヤ人として、まさに登録をして、ユダヤ系の市民として、
ある種苦しいユダヤを生きていくっていうふうなことを選択するんだよね。
へー。
やっぱりこれは、まさに自分の哲学と生き方っていうものが一致してるっていうと言い過ぎかもしれないけれども、
それをちゃんと大事にしたみたいなエピソードとして語り継がれてるような話なんだよね。
わー、そうなんだね。
ちょっとそうするとだいぶ説得力もあるし、それが良いことかは別として、ドラマチックではあるよね。
そうね。だからそれが良いとか、そういう時に断るべきとかってことじゃなくて、
やっぱりこういうふうな哲学を考えて、やっぱり直感、知性、本能、デマックスの両方を大事にするというか、
組み合わせでしか得られない持続っていうふうな捉え方がある。
そうだね。
やっぱりそれをちゃんと生きようとか、そういう自分の利害とか、そういう外部の区別というものじゃなくて、
やっぱり自分のまさに自由な生き方に尊厳を見出そうっていう話は、すごい学ぶべきものがあるかなって思うんだよね。
だからあるじゃん、これは日本社会って当たり前だと思うんだけども、年収はいくらだとか、活動だ、部長だ、次長だみたいな話とかで、
そういう区切りによって自分のステータスを得るとか、ITを判断するとかって、あるし当たり前に起きてるじゃない?
やっぱりそれを取り払った時に、どんなふうに生きてるのかとか、それぐらい自分のある種、内側から出てくるもの。
それがかつ、義務感とかじゃなくて、本当に湧き上がってくるもので生きてるかみたいな。
そこで感じる人間関係とか、人の尊さっていうものが、もっと増えてもいいんじゃないかなとかっていうのは、僕個人としては思ったりはするんだよね。難しいけど。
そこはもちろんね、どうやったら到達できるかだよね。今回の話で言うと、本来は部長でもあり、自分でもあるみたいなさ。
もちろん、分けられないからね。
っていう話だよね。だからそこをね、部長だし、こっちではこうだし、そこを分けるんじゃなくて、全部が自分みたいなその感覚っていうのをどう持つのかっていうのは、面白いかもしれないよね。
出来るかも含めて。
でもね、文人っていう発想もあってね、まさに分ける人?