で、そういった言葉で書かれているのが、前回もちょっとお伝えした、ベルクソンの物質と記憶っていう本なんですよね。
ただ、もうこれ正直ですけど、やっぱり読んだけど、正直全部わかりきってないと僕も思ってます。
なので、そういったこういうふうにかなっていうところで掴んだものをちょっと皆さんと共有しながら、
少しでは前回の時間と持続の違いとか、
その中で生きる我々人間との話を、ある種掴んでみたいという話なんですけれども。
まず、さっきも言った通り、僕らは今、現在というものを大事にしますっていうものは、
ある種もう人間としては当たり前だよねって話は、ベルクソンも考えるんですよ。
うんうんうん。
で、どういうことかっていうと、ここで物質っていうのが出てくるんですけれども、
僕ら体っていうものを持っていますよね。体って物質的なもの。
仮に精神と物質というのは二元論で分けるとしたら、体ってやっぱり物質的なものじゃないですか。
うんうんうん。
そういったときに、現実に生きる、今生きている僕らのこの体っていうものは、
ある種生き抜いていく。現代ならそんなにかもしれないけれども、もっと例えば、
イニシエの原始人とかを想像してもらうと、
例えば目の前の石とか岩っていうものを避けて通るのか乗り越えるのかみたいなことによっても、
やっぱりここで生きるか死ぬかみたいなことがどんどん決まっちゃうわけですよね。
うんうんうん。
やっぱり今この瞬間、この体というものでどう生きるかとか、もっと言うと、
どう次の一歩を踏み出すかっていうものが、
その本編さんは精神直結するようなことっていうのが普通に自然界であります。
なので、このベルクさんに合わせると、こういう体っていうものと、あるいはその周囲の物質、
それはさっき言った岩でもいいし、木とかでもいいんだけど、
そういうものがぶつかり合う場面を指して、それが現在なんだっていうふうに言うんですよね。
ふーん、ふーんふーんふーん。
なのでそういう説明を端折っているんだけれども、ベルクさんに合わせると現在というものは物質の領域ですと。
おー、そうなんだ。はぁはぁ、なるほどなるほど。
そう。どう頑張っても僕らって現在というものに、その体というものを一定、回避してしか存在できないじゃん。
そうだね、ふーんふーんふーん。
で、そうするときに、その体というものは、やっぱりこの地面に足をつけ、別にそれが部屋の床でもいいんだけれども、
足がつくとか、あとは一定その、まあこれは普通のエビの空間、
要は何らかの場所という中に存在することしかできませんと。
ふーんふーんふーん。
浮いてても一緒だよね、別に地図を飛んでたとしても、別の空間の中にいることは変わらない。
ふーん、わんわんわんわん。
そう。でいうと、このベルクさんに合わせると現在というのはその体という僕らの物質と、
世界という中にある物質がぶつかり合う場所だというふうに捉えます。
はーはー、なるほどなるほど、やっとなんかイメージはきました。
そうすると、やっぱりその生存というものを考えたときに、この外にある物質というのは、いわゆる危険物のことが多いわけだよね。
ふーんふーんふーん。
で、岩にぶつかれば怪我をする、ライオンに出会えば殺されるかもしれない、
うさぎを狩らなければ食べ物が死んでしまうかもしれないというふうな感じで、
でも、自分と世界というものが物質的に関わるということがすごく大事な場なんですと。
だから僕らは、現在というものは大事だし、今この瞬間何をするかということに意識が向いちゃうよねというふうな話なんだよね。
ふーん、なるほどなるほど。
ちょっとね、現在の感覚としては少し遠いかもしれないけれども、そういうふうに言われたら、まあまあ確かにそういうこともあるかもなって、どこまでは行けそうかな。
まあそうだね、どこまで極端な世界を想像しなくても、ある意味一瞬一瞬の選択と行動で、いろいろ分岐するよね、変わっていくよねっていうふうに捉えれば、まあそうだよねっていう。
うん、うん、あったね。
で、そもそも兄貴がさ、あのね、そもそもこれ月って思うとか、なんだろうな、月とすら思わないんじゃないみたいな話をしてくれたじゃない?
あー、まあそうね、そういうなんか、我を忘れてというかさ、景色に見えるみたいな時って、
あんまり月だなーとかさ、木が綺麗だなーとかさ、水の流れがなんかいい感じだなーって思わないで、
なんか見いって、あとであの水綺麗だったなーとかさ、あの月綺麗だったなーみたいな順番なんだよなーっていうふうにちょっと思ったんだけど。
うんうんうんうん。いいね。今の話でいくと、外部の物質に反応しないっていう話なんだよね。
反応してない?
つまり、僕らってもう思考がスッと入るのがもう、なんだろうな、当たり前になっちゃってるから、
月を見たら月だって思うし、で、水を見たら水だって思うしっていうふうに、それってある種もう、無意識に反応しちゃっている。
ほうほうほうほう。
さっきの話でいうと、例えば目の前のライオンがいるとしたときに、ライオン危ない逃げろっていうふうにもうある種条件反射器になるみたいな話なんだよね。
うーん、そうなんだ。ほうほうほう。
それは月を見て月だって思うのと一緒なんですよ。
ここ伝わるかな?ちょっと伝わってなさそう。
なんか本能的なとこで言うんだったら、なんか逆な気がしたね。
うんうん。
本能的にライオン危ないから逃げるのと、だったら本能的にその月が綺麗だと思うみたいな方が繋がりそうだね。
月を見て月だって思うよりは、みたいな感じで思っちゃったかな。
はいはいはい。これはそのまあ、体の反応なのか、その思考の反応なのかっていうのは確かに違うんだけれども。
うん。ああ、思考の反応の方?
うん、そうそうそう。
わかるかな?その、ライオンを見たときに、ライオンだ、あれは危ない、近づかない方がいい、みたいなものと、月を見たときに、月だ、月が綺麗だ、っていうのはまあ似てる気がする。
なんか、とっさにライオンに襲われたときに背を向けるとか、すっかり走り出す、みたいなものと、
ただ空を見れた、なんか丸いものは超綺麗だったから見入っちゃった、そっちは繋がる、みたいなものだったらわかるかな、みたいな。
はいはいはい。そうだね、そう。
どっちにしても、それってやっぱりその刺激に対する反応として出ているっていう感じなんだよね。
はいはいはい。
月を見た、みたいな話は、反応というか、なんていうのかな、ちょっとここは難しいな、これはちょっとまた後で取り上げられると思うんだけれども、
はいはいはい。
まあ、その瞬間だけで捉えると、やっぱりさっきベルクソンが言った物質だよね、体っていう物質と外の物質っていうものが反応し合うっていう、もうそれしか起きませんって。
はいはいはい。
こうやってもうビリヤードの弾みたいな、こう打ったら弾けますとかさ、ある意味機械みたいになっちゃうんだよね。
ああ、なるほどなるほど。
それでいうとどっちでもいいね、本能の反射だろうが、月を見て思わず見とれるも同じカテゴリーというか話に収まるよね、確かに。
二言論って、ベルクソンが二言論って意味じゃなくて、
ベルクソンって割と、一言論的な感覚の話をしてる?
うん。
なぜかって言うと、これ、前々作は量と質の話をしたときもあったと思うんだけども、
質ってグラデーションなんだよね。
光の例で言ったときにさ、
赤の光とか青の光って波長が違うとか言えるけれども、
基本はそのグラデーションでしかありませんと言うときに、やっぱ分かれてないじゃない。
分けることはできる、光を分割することは人間の想像力でできるけれども、
本来僕らが光を見るときってそんな風には捉えられないはずなんだよね。
これが本来捉えられないっていうのが、いわゆるリアルなものをリアルなまま掴むとか、
実在を直接捉えるってこととイコールなんだよね。
わー、面白い。確かに、そっか。
これ難しいのは、光を直接掴みましょうっていうときに、
でも光というものは分割できて、その本性はスペクトルだからって言っちゃうと、
それはリアルなんですかどうなんですかっていうのはちょっと難しい問題なんだけれども、
赤羽のヴェルクソンはやっぱり僕らのいわゆる感情的な部分とか、
そういう非合とかに還元できないものを捉えようとしているから、
リアルな光っていうのは分化された光ではなく、今僕らが浴びている太陽の光とか、
木漏れ日の暖かさとかそういうものを味わいたいんだよね。
なるほどだし、あんまり物理学的なの詳しくないから、
ずれてるかもしれないけど、光そのものを何の媒介もなしに捉えるって、
まさにこのヴェルクソンの話に近そうだよね。
そうそうそうそう。
さっきハイトが色って言ってくれてたけれども、
光って多分そういう何かに通ることで色として認識されるはずだから、
光そのものを、たぶんうちら人間が感知することって基本できないよね、光そのものを。
そうだね、そう思う。
反射で赤とか、紫外線だったらここに反射してて、
そもそもうちらは紫外線とか赤外線、センサーがないから見えないだけで、
ライアン主観を媒介とした上で、そう判断、そう認識されるみたいな話だから、
そもそも光そのものみたいなものになってくると、
やっぱり次元論的な赤でもあり、紫でもありみたいな話になるんでしょう、たぶん。
そうだね、そう思う。
やっぱりその光を捉えようとしたのが、ちょっとこれは芸術になるけど、
印象派だよね、よく言われるのは。
ということはやっぱりその印象派っていうのは光っていうものを描くとか捉えるとか表現するっていう風に言われてるんだけれども、
やっぱりその色ではなく光なんだみたいな話とか、
僕もそんな詳しいわけじゃないんだけれども、
そういったものを捉えたいとか表現したいとか、
そういうものがこの印象派も19世紀くらいかな、出てくるので、
それがやっぱり時代の流れとか、そういう人間の、
そういう大きな共通の欲求みたいなものがあったんじゃないかと思うんだよね。
みたいな話をしているんだけれども、
やっぱり言ってくれた通りで、僕らは普段どうしても分けて細かく捉えようとしちゃう。
でも、本来その奥には光とか愛とか、
そういう想像しか言えないものがあるわけよね。
そういうものをいかにダイレクトに捉えるか。
別にそれは岩とかで物質でもいいんだよね。
その岩っていうものを、なんとなくこれは岩だというふうに概念で処理するんじゃなくて、
やっぱりそのものに向き合うとか、
そしたらその向き合い方も、ちゃんと過去の記憶とか精神っていうものを持った上で向き合う。
そこができると、それはやっぱり実属として生きていることになるんじゃなかろうか。
そうやって僕らの普段生きているその分割した、空間化した生き方とはだいぶ違うよねっていうふうな、
そういうイメージが伝わると嬉しいなというふうな感じですね。