1. 本質志向のスピリチュアルラジオ
  2. 生とは根本的に遊びである
2025-10-16 32:15

生とは根本的に遊びである


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1000冊以上の読書を経てヒーラーになった元霊感ゼロ人間です。「本質のスピリチュアルをわかりやすく」をメインテーマに、幸せのために役立つ情報をゆるく発信していきます。

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【プロフィール】

元ゲームオタク。
20代前半に新社会人として社会デビューするも、世の中の厳しさに圧倒されて人生を挫折。
その後、ゲームに費やしていた時間全てを読書に充て、
「なぜ自分の人生はこんなにも辛いのか?」
「どうしたら幸せに生きられるのか?」
といった人生の根本的疑問について本を読みながらひたすら考え続ける。
10年以上の読書の中で、自己啓発、成功哲学、心理学、科学、宗教、哲学などの分野を調べわたった末に、心から納得できる人生の答えをスピリチュアルに見出す。
現在ではシータヒーリングを学び、セッションを行いながら、幸福な人生の本質についての自らの知見をわかりやすく発信している。


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#スピリチュアル #アラン・ワッツ #ガンガジ #自分の人生を生きる #常識 #遊び心 #我慢しなくていい #奇跡講座
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サマリー

このエピソードでは、アラン・ワッツの哲学に基づく「人生が根本的に遊びである」という考え方について語られています。彼は、自分の人生を創造のキャンバスとして捉え、他者を責めずに自由に表現することの重要性を述べています。さらに、人生が根本的に自由で楽しいものであることを探求し、自己制限やエゴに対する新たな視点を提供しながら、ハイヤーセルフの声に従って自分の道を描くことの重要性が強調されています。また、個人主義と全体主義の対立が西洋哲学の議論において長年存在してきたことが解説され、各個人が神聖な存在であり、内側から持っている力を自覚することでより楽しく生きることができるというメッセージが伝えられています。

遊びの哲学
はい、こんにちは、カズです。 今日のタイトルは、生とは根本的に遊びである、というこのタイトルでお話ししていきたいと思います。
すいません、ちょっと久しぶりになりましたけど、やっていきますね。 なんかちょっとね、軽くなる話をしたいなと思ったんですよね。
あの次どういう話しようかなと思って、ちょっとこう メイソチックなことをしてね、インスピレーションを待ってたら、なんかこう雲を取り去るような、まあちょっと今曇ってるんでね。
なんかそう、重苦しい感じじゃなくて、真面目っぽい堅苦しい感じじゃなくて、なんかね、軽くなる、肩の力抜ける系の話がしたいなっていうふうに思ったんで、今日はね、
人生は好きな遊び方をしていいんだよっていう話、そういう話をちょっとしたいなと思います。
えっとですね、生とは根本的に遊びであるですね。 このタイトルの言葉は、あの哲学者のね、アラン・ワッツって人の言葉を持ってきました。
アラン・ワッツさんですね、知ってますかね。あの哲学者なんだけど、まあちょっとスピっている感じですね、この人。
まあね、この人生でやんなきゃいけないことなんて何一つないんだよっていう話なんですよ。
えっとですね、ちょっとね、覚えといてほしいのはですね、べきとか、ねばとか、こうしなければとかね、こう
でなければならないみたいなね、そういう思考あるじゃないですか。べき思考、ねば思考みたいなね。こういうのはもう本当に
一つの例外なく、全部手放してオッケーです。もう全部思い込みなんで、こういうのはあの人生においてね、必要ありません。
マジで。って断言しちゃっていいぐらい別にいらないんで。こういうのはね、あのべきとかねばとか
なんだろう、スピ的に言ってね、活躍の機会がないので、外してってオッケーですね。
べきとかねばとかのモチベーションでやるんじゃなくて、その代わりに採用すべきなのは、まあそこでべき使っちゃダメですけどね。
採用したいのはですね、えっと、したいとかね、これがやりたい、あれがやりたいとかね、
こうしたいように思うとかね、そういうそっちですね、あのハフトゥーじゃなくてウォントゥーとかね、そういう言い方もすると思いますけど、
そういうことです。どんどん目覚めがね、今進んでいるとは言ってもですね、こういうのってまだ社会に蔓延してるじゃないですか。
なので今日はそういう思考とはね、あのそういう重たい思考とは正反対の話をしてみたいと思います。
自己選択の重要性
で、えっとですね、まあこの話をするにあたってね、一つ抑えておくべき大事なポイントというか、前提として確認したいことみたいなのがね、実はあってですね、
それは何かっていうと、あのこれなんですよね、結局最終的には全部あなたが選んでますよね、許可してますよね、っていうこういうことです。
まあいろいろ人生あるけど、酸いも甘いもあると思いますけど、なんていうかな、結局人生っていうのは選択の積み重ねで、
で、今の選択の結果を紡いできたのは最終的にはですね、その周りからいろいろ言われたりとか、外からの圧力とか、まあいろいろあったかもしれないけど、
最終的な決定権っていうのは全部自分ですよね、っていうことです。全部あなたが選んでますよね、許可してますよね。
結局あなたがゴーサイン出したんですよね、っていうことです。これをちょっとね、あのまずちょっと振り返ってほしいんですよね、自分の人生で。
つまり何が言いたいかっていうと、多責にしないってことですね。全部自責というか、つまり100%自分ゲインってことですね。
まあ奇跡講座的に言うと、人生の被害者っていう概念は幻想なんだよっていう、そういう話です。
被害者っていうのはね、存在しないんですよね、実は。っていうことです。
まあね、自由と責任みたいなね、セットで語られることも結構多いかなと思うんですけど、
ここで言いたいことは、何かね、周りのせいにするとか、他人のせいにするっていうことは、これ実のところどういうことをやってるのかというとですね、
自分の、自分宇宙の神としての力、あなたが神ですよね。
人間一人一宇宙で、自分宇宙の全創造の責任、というかね、創造のパワーを負ってる、全てのパワーを持っている神なんですけど、人間一人一人が。
その創造の神としてのパワー、権限、権威、っていうものを、他人のせいにすることによって、外に開け渡してしまってる、っていう結果になるっていうことなんですよ。
これをね、認識してほしいんですよね、まず。
誰かのせいにするっていうのは、自分の創造主たるパワー、聖書の創世記にも、多分ね、神に似せて人間を形作ったみたいな記述があると思うんですけど、
だから人間っていうのは、その本質が神であって、その自分の人生、自分の一人一宇宙の自分宇宙の創造のパワーっていうのを、全部自分が100%持っているっていうことなんですよね。
それが真実なんだけど、その神から賜ったね、創造のパワーっていうのは、全部自分が100%持っているっていうことなんですけど、
それを他人のせいとか、あいつが悪いとか、あと社会のせいとかね、政府が悪いとか、景気が悪いとか、なんかそういう外のせい、外に原因の追求をしちゃうとですね、
そうすると自分の創造のパワーが、外に開け渡されちゃう。つまり自分を結果的に弱めちゃうっていうことですね。
自分自身で弱くなっちゃってるんだよっていうことですね。これを認識してほしいと思います。
自由な人生の創造
私が不自由なのはとかね、私が不幸なのはあの人のせいだって、これを、このセリフをですね、宇宙創造のパワーすべてを持っているあなたが本気で思って宣言したとしたら、これどういう結果になると思いますかっていう、こういう謎々なんですよ。
そういうことなんですよ。当然、創造主たるあなたが本気で、私が不自由なのはあの人のせいだっていうこの宣言を本気で思い込んで口にしたら、それは当然そういう現実が創造されるっていう結果になっちゃうわけですよ。
これだから、世の中の多くの人っていまだにこれをやってると思いますけど、だからそれはパワーがないんじゃなくて、100%パワーを持っている創造主たるあなたが自分で、僕の言葉だと自爆してるとか言いたくなっちゃうんですけど、勝手にパワーを弱めちゃってる。
そう思い込んで勘違いしちゃって、本当のアイデンティティを忘れちゃってるもんで。だからそういう結果が創造されちゃうよっていうこと、そういう事態に現になっちゃってるわけなんですよね。
あの人じゃなくても、さっきも言ったね、社会情勢があとか、法律があとかね、景気があとか、そういう外のせいに何でもできちゃうわけです。これが周りのせいにする、多席思考ってやつですね。
まず、これやってないかなっていうのを確認してほしいってことですね。なんでこういう話を最初にしたかというと、僕なりのなんとなくのイメージだとですね、人生っていうのはそもそも真っ白なキャンバスなんですよ。
真っ白なキャンバスで、自由に何でも描いていいよっていう、あなたがあなた宇宙の中心で神の子で、だからこの真っ白な何も書かれてない綺麗なキャンバスに自由にあなたの人生っていうものを想像して描いてっていいんだよ、ほら楽しんでくださいね、みたいなね。
っていうのが神様から、僕ら神の子に用意されているシチュエーションだと。
だいたいそもそもの人生っていうのはそういうもんだということなんですよ。
でもここにですね、ネバとかべきとかね、そういう思考が入り込んでくるとどうなるかっていうと、本当はすごいクリエイティブで自由そのものみたいな人生創造のその活動に謎ルールがいろいろと加わっていくことになるっていうことなんですよね。
ネバとかべきとかが自分が思い込んで、思い込んじゃうと人生創造っていうね、自由なクリエイティブな絵画の作業に謎ルールが加わっていくことになる。
例えば、この黒の絵の具は使っちゃいけないんだとかね、それは悪魔の色なんですみたいな、不条だからそれは触っちゃいけませんとかね。
あと例えば、なるべくリアリティを持って、写実的にいわゆる上手い絵みたいのをなるべく描いていくのが良い人生、格の高い人生なんだとか、そういう価値基準とかね、あったら、それを信じて採用してしまったら、他の絵が描けなくなったりするじゃないですか。
本当は魂的にはもっと写実じゃなくて抽象画みたいなね、そういうのを描きたい魂なのに、世間的にそう言われてるからって言って、それが良い人生なんだみたいな風に採用しちゃうと窮屈になるわけじゃないですか。
あとは手は休まずにずっと動かして描き続けなきゃダメだとか、別に休憩してもいいわけじゃないですか、あとペンは右手で持って描かなきゃいけない、普通右手で持って描くものだとかね、別にこれも左手で描いたっていいし何なら口に加えたっていいし、足で描いたりしてもいいし、手で直接描いたりしたっていいわけなんですよ。
だから何でもいいわけなんですよ、本当に、ルールがないんで。
自分の好きなように人生やっていいっていうことなんですけど、だからネバとかべきとかね、そういうものは全部結局思い込みに過ぎないっていうことですね。
その人がそうしなきゃいけないっていう風に勝手に信じ込んで思い込んでるっていうだけなんですよ。
だから本当は自由にもうルールなんか何一つない真っ白なキャンバスを目の前にして一人一人人生創造している僕らなんですが、思い込みっていうのがね、蔓延してます、今。
それは結構集合意識から来てるところとかね、歴史的な背景とかもあるんで、個人が悪いっていう風にも一概に言えないところはあるんですけど、ともかくそういうのを思い込んでいるとですね、何か我慢が発生しちゃうんですよね。
その謎ルールが正しいと信じてるわけですよ。
その謎ルールがね、だから人生こう生きなきゃいけないみたいな謎ルールを信じ込んで採用しちゃってる人はどうなるかっていうと、魂は本当はもっと自由にキャンバスを遊び尽くしたいわけですよ。
だけど禁止ルールを自分でいろいろ謎ルールを採用しちゃってるんで、窮屈なんですよね。
だから我慢しちゃってる。
ちょっとね、我慢した分だけストレスが溜まったりしてね。
我慢して、自らが勝手に信じ込んだその謎ルール、結局それっていうのは自分が採用してるだけじゃないですか。
周りからあれこれ言われたかもしれないけど、結局それにOKサインを出して、自分自身が真理として採用しちゃってる、人生を生きるガイドとして採用しちゃってるのは自分の責任じゃないですか。
これ最初に確認したことなんですけど、結局自分でOK出してますよねっていうのはそういう意味です。
自分自身の制約に気づく
その謎ルールを真理だとして自分自身の人生に採用しているのは他ならぬ自分なんだよっていうことなんですね。
だから自分で行ったらね、自分で自ら縛られに行っちゃってるみたいな感じなんですよね、実際のところ。
で、本当はもっと自由にしたいんですよ。だから我慢してると。で、ちょっとストレスが溜まってきちゃうと。
だからそういう我慢した生き方をしている自分の隣でですね、平然と自分の採用しているその謎ルール、禁止ルールを破って自由を奔放に絵を描いている人なんかを見るともう許せないわけですよ。
怒りが湧いてくるっていうことなんですよね。
そんなことしちゃダメでしょみたいに言いたくなるわけなんですけど、この時その副音声っていうかね、カッコでね、だって私はこんなに我慢してるんだからっていう、そういうことなんですよね。
他人の生き方とか振る舞いに対して怒りが湧く理由っていうのは結構自分がその謎ルールを採用して我慢しちゃってるから、だから怒りが湧いてくる。
だから実は羨ましいと思ってるみたいなね、ところも結構あったりするわけなんですよね。
自分が勝手に採用した謎ルールで我慢して苦しんでる、窮屈な思いしてる、で隣にその謎ルールをもう眼無視している、好き勝手にキャンバスに絵を描いている他人が目に映る、そうするともう怒りたくなっちゃうということなんですけど、
そもそも自分が謎ルールを採用してるだけなので、だったらそう思うならやめりゃいいんじゃないっていう、それ採用するのやめりゃいいんじゃないっていう話じゃないですか。
そもそもその人生創造にルールはないのでね、真っ白なキャンバスをどう描こうと良かったわけじゃないですか。
っていうことなんですよね。
なので、なんだろうな。
言いたいのはですね、だからそこら辺のことを思い込みの問題とかね、人間っていうのは人生自爆しているだけなんですよみたいな、そういう話ちょっとしましたけど、
そこら辺のちょっと多少込み入った話も整理して理解できれば、人生っていうのは本来はとても自由で楽しいものだっていうことなんですよ、言いたいのは。
しかも今この素晴らしく恵まれた日本という国に住んでいますから、実はですね、めちゃくちゃ僕らね、自由だったりするわけなんですよ。
今ですね、ぶっちゃけそのやりたいと思ったこの大概のことっていうのは工夫次第で結構何でもできる時代になってきていると言えると思います。
これちょっとね、あのさっきの話とは変わって現実寄りの話にちょっとしますけど。
例えば、自分の本を出版したいみたいに思ってた人も、そういう野望みたいな野心みたいなのを思ってた人も、昔はなかなか本の出版ってハードル高かったけど、今だったら電子書籍っていう形とかもあるし、結構簡単に本を出すことができますよね。
あと会社で働きたくないっていう人も、昔はなかなか難しかったかもしれないけど、最近だったらインターネット活用して個人で仕事をするみたいなことも相当一般的になってきたわけです。
だからね、結構ね、本当にスマホ1個持っていれば大概のことはね、やりゃできるみたいな時代になってきてるっていうことなんですよね、現実的にね。
でもそれでも、大体の人は、今の日本に住んでる人だったら、大体雨風防げる住まいがあって、スマホ1台くらいのは持ってるじゃないですか。そのぐらいの条件で、大体やりたいことはね、意外とできたりするんですよね。
でもそれでも、〇〇のせいでできないみたいな、自由に生きられないみたいに言いたくなる人っていうのもまだ実際多いかなという気がするんですけど、それっていうのは結局ちょっとね、やっぱり恐れが強いというか、エゴにそそのかされてる、振り回されてる、ちゃってる可能性があるんじゃないかなっていうことなんですよね。
で、やっぱりエゴのやりたいことというか、エゴの仕事っていうのは、エゴは何をやるかっていうと、僕らにですね、欠乏感を突きつけてきて、僕らを馬車馬みたいに頑張らせるようなことなんですよ。それがエゴの仕事なんですよね、結局。
あれがないよとか、これも足りてないよ、これもないよ、あの人はもっと頑張ってるよ、だからもっと全然足りないから頑張んなきゃみたいにエゴは言ってくるんですよ。これがいわゆる無い思考、欠乏思考みたいなことですね。
ないない、そういうない思考っていうのはエゴが囁いてくることです。だからそれを真に受けると、そのエゴのそそのかしにあって、馬車馬のように働くだけの欠乏感を必死で埋めるための人生みたいになっちゃうわけですよ。
だからまあこういうことで困っている人がもしね、いたとしたら僕が思い出してほしいなって思っていることはこれですね、あの実はすでに自分満たされちゃってるんじゃないっていうことなんですよ。これにね、このことにちょっとね思いを馳せてほしいと思います。
エゴはもうあれが足りないこれが足りない全然ダメだみたいなないないみたいなことをずっと言ってくるんですけど、いやいやちょっと待ってってことですね、実はもうなんか足りないもんなんてないんじゃないのっていう、なんかもう完璧に自分すでに満たされちゃってるんじゃないのっていうことをちょっとね考えてほしいんですよ。
これ実は事実だったりするわけなんですよね。お金がないとか愛されないとか言ってる時っていうのは結構ですね、往々にしてこの目の前にすでにある事実っていうのをエゴの声を聞きすぎて無視しがちだったりするわけなんですよ。
さっきも言ったけど本当に今の日本ってめちゃくちゃ恵まれてるとも言えるわけで、だから特定の人に愛されないかもしれないけど、でも自分を大事に思ってくれる家族だったり親友だったりはいるわけだったりするし、お金がないとか言ってるかもしれないけど普通にスマホは持ってたりとかね、するわけなんですよそういうこと。
だいたいエゴに翻弄されてる時って思考っていうのは過去とか未来にすぐ行きたがるんで、今ここっていうのを無視してね、どっか過去か未来に僕らを連れ去ってしまうものなんですけど、そうじゃなくて目の前の景色をちゃんと事実確認してみたらあれ意外と自分って満たされてるじゃんっていうことに気づけると思うんですよ。
特にやっぱりね、こういうだけ今の日本って恵まれた境遇にあるのになかなかみんな幸福感を味わえない種たる原因っていうのは、やっぱり競争社会とかね、比べるっていうところがそういう風潮が根強いのかなと思うんですけど、
やっぱり今の世の中ね、資本主義の競争煽り社会じゃないですか。言ったらね、SNS疲れとか結構よく聞きますけど、結局これっていうのはどういうことかっていうと、本来なら引き合いに出す必要のない比較対象みたいなのを勝手にわざわざ自分から探して見つけて引っ張り出してきて、
ハイヤーセルフの描く絵
その幻想みたいなね、仮想的みたいなのを自分の目の前に引っ張り出してきて、勝手に比べて、自分はまだまだ足りてないんだって言って落ち込むみたいなことをやってるってことですね。だから本当は全部すでに持ってるんですよ、必要なものは。それを確認するだけで本当はいいはずなんですよね。
だからこのないない思考、比較するってことですね。これやってるとやっぱり引き寄せとかの観点から言ってもですね、あれがない、これがない、これもない、これも全然足りないみたいな、ないないみたいなのを確認し続けていく人生ってどうなるかっていうと、やっぱりあなたが創造主なので、
なので現実を自分がないない、これもない、あれもないみたいな人生を創造する結果になりますよっていうことになっちゃうわけですよね。だからこういうことで困ってる人はね、あの藤井和さんのね、祭りっていう曲がすごいいいんで、ぜひね、リピートで聴いてほしいぐらいなんですけど。
だからないっていうのは実は幻想かもしれないんですよね。エゴの戯言かもしれないんですよ。実は全部あるのかもしれないですよ、すでに目の前に。っていうことをちょっとね、思ってほしいんですよね。
そうですね。だから言いたいのはですね、人生は本当は自由なんですよ。その真っ白なキャンバスなんですよ。そこに自由に絵を描いていいんですよ。僕は子供の頃ね、レゴブロックすごい好きだったんですけど、あれは本当にね、だからああいうことですよね。本当に何作ってもいいし、どう作ってもいいし、一番クリエイティブですよね。
すごいね、子供の頃はまったんですけど、まあ今でも面白いなと思いますけどね。だから人生は根本的にそうなんですよ。生は根本的に遊びであるなんですよ。何やってもいいんですよ。何やってもいいから自分のやりたいことを追求していく。
ここでべきっていう言葉を使うとちょっとあれになっちゃうんですけど、やりたいことをやっていきましょうっていうことなんですよ。これをやらないまま今回の人生死んじゃうのは嫌だなとかね、なんかうっすら思っていること。もしあればそういうのをやっていきましょうっていうことなんですよ。
自分のやりたいことっていうのは、みんな何かしら持っているはずなんですよ。みんな何かしら持って地球に今生まれてきているはずなんですよ。その衝動というかニーズというか情熱というか、なんかそういうもの。
これっていうのは魂がね、魂の声みたいに言いますけど、これですね。これっていうのはハイヤーセルフがあなたにやって欲しいことなんですよ。
ハイヤーセルフがキャンバスの例えで言うなら、ハイヤーセルフがあなたに描いて欲しい絵があるってことですね。今回の人生で。そういうものが一切何も、もしないんであれば生まれてくる理由もないはずなんですよね。
だからこういうのがあるんですよ。で、ハイヤーセルフがあなたに描いて欲しい絵。つまりハイヤーセルフが今回の人生であなたにこれやって欲しいなって思っていること。これをミッションと言ったりもすると思うんですけど、そういうものっていうのはミッションって言うとちょっと思っ苦しい感じあるかもしれないんですけど、この実態はですね、自分にとって最高の喜びなわけなんですよ。
めちゃくちゃ楽しいものなんですよ。魂の望みっていうのは。一番楽しい遊び方なんですよ。
しかもこれがすごいのが、このハイヤーセルフがあなたに描いて欲しい絵、つまりミッションですけど、魂のやりたいことっていうのがあなたの最高の喜びでもあるし、かつ神の意思でもあるっていうことなんですよ。
神の意思でもあるっていうのは、だから全体のためにもなるっていうことですね。そういう意味ですね。
これがね、意外とすごいんですよ。
哲学的対立の理解
個人主義と全体主義っていう、西洋哲学の歴史って2500年くらいありますけど、ずっとこの個人主義vs全体主義の対立みたいなそういう議論がずっとあったりしたわけなんですよ。
正義とは何かみたいなものを考えたときに、ずっと自由と平等っていうね、どっちを取るかみたいなそういう議論、そういうのがずっとつきまとってきて、ああでもない、こうでもないってなってた、そういう背景があったりするんですけど。
でも、前の配信で次元の話しましたけど、この次元ではずっと解決不可能なように思えてたその議論っていうのも一個抽象度を上げて、次元を上げて、私が神なんだっていう、私のやりたいことはすなわち神の意思でもあるんだっていう、そういう次元になった途端、
そのパラダイムで問題を考えた途端、もうこれが解決できちゃうわけなんですよね。
自分の最高の個人としての自分の最高の喜びでもあるし、かつ地球全体の引いては宇宙全体の最高の仕事にもなるっていう、どっちも解決しちゃうっていうね、すごい話なんですよ。
前回の次元の話も交えて言うと、結果的に個人主義、個人のためにもなるし全体のためにもなることができちゃうよっていうことなんですよね。
これがハイヤーセルフがあなたにやって欲しいことをすることで達成できるということなので、だから僕がいつも言ってることですね。
ハイヤーセルフのお利口さんになりましょうよっていうことを言ってるわけです。
そういうことなんですね。
最後にちょっと個人的なことを話すと、僕がなんとなくね、やりたいことの話が出たんで、僕がなんとなく今やりたいと感じていることはですね、やっぱりいつも言っていることですけど、みんな一人一人ね、やっぱり神様だったんですよ、実は。
なんかね、ちっぽけな力のない人間だという洗脳を社会に受けてそう思い込まされていましたが、実はですね、一人一人の本質は神様だったんだっていうことなんですよね。
宇宙の創造主ですべてのパワーを一人一人が持ってるんですよ、すでに。
なので、だから自分、ガンガジだったかな、なんかその辺のスピリチュアルな本の中の例え話で、私がこの本の中でやろうと思っているのは何かプレゼント、ギフトをあなたに与えることじゃなくて、
すでにあなたの内ポケットの中に入っているダイヤモンド、そこにダイヤがあるんですよ、気づいてくださいよっていう指摘するっていうこと、この本でやろうとしているのはそういうことですみたいな説明があったんですけど、そういうことなんですよ。
実際すでに僕ら一人一人の内ポケットにはとほもない価値のダイヤモンドが入ってたっていうオチだったんですよね。
一人一人が神様で、宇宙の創造のパワーすべてを持ってるっていうことなんですよ。
そういう事実だったんなら、もうとっととその自覚を取り戻してもっと楽しく生きましょうっていうことなんですよ。
言いたいのはね、なんか我慢して生きる必要なんてもうないよっていうことなんですよ。
だから、せっかく事実はそうだったんだから、それを個人的にはちょっとでも広めていきたいっていうね、そういうゲームを僕は個人的にはやってね、やりたいなと思ってるんで。
今回の配信もそれにちょっと役立つかなと思うことをお話しさせていただきました。
すいません、またちょっとね、なんかダラダラと長くなっちゃいましたが、今回の配信はこれで終わろうかなと思います。
ちょっとでも面白いなとかね、楽になったなって思っていただけたらすごい嬉しいなと思います。
では長らくお聞きくださいまして、どうもありがとうございました。
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