はい、それ哲ラジオ。今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回はベルクソン第2回ということでやっていきたいと思います。
はい。前回ですね、第1回というところで、ベルクソンさんの、ちょっとね、兄貴も超人って言ってたけれども、
それね、ほんとに数学もすごい、哲学もやって、なんか成人の世界に割と思いきやノーベル文学者を取ってるみたいな、
ちょっとよくわかんないくらいのね、人生のドラマをお伝えしたいと思うんですよね。
そうだね、とにかく凄さは伝わったけど、今回から早く中身を聞きたいっていう感じだね。
じゃあ成功ですね、第1回としては。知らない人の話聞きたいってなってくれてるんで良かったなと思うんですけど、
早速ね、今回からいろいろ哲学質問とか見ていこうと思うんですけれども、ちょっとゆっくりいきます、ベルクソンさん。
なんか、やっぱ土台がわかんないと、何言ってるか天才すぎてわかんねえなみたいな、あんま天才天才というのもあれかもしれないけれども、
あのね、面白いと思ったのが、よくさ、その、哲学の話をこうやってする時に、よくある裸になってくださいとかさ、
ゼロ地点から考えましょうって言ったりするじゃないですか。
はいはいはい。
そう、で、なんか僕結構それでいろんな人理解できると思ってやってたんだけれども、なんかベルクソンさんよく理解できなかったのよ、それで。
ああ、そうなんだ、頭をゼロ、1回空っぽにしてゼロベースで、その、なんだろうな、この哲学者の言うことだけを素直にトレースしていくみたいなスタンスが通じなかった。
そうそうそう。
なんか難しいなと思ってて、これは僕の読み方だからそれが合ってるかどうかってあれなんだけれども、
逆にベルクソンさんはやっぱりある種僕らが普段持っているバイアスとか、まるでその、なんだろうな、いわゆる常識的なもの。
で、やっぱそっから始めて、実はそれで違うよねとか、むしろそれがなんかいろんな物事の問題の根源なんですみたいな、そういうことを言ってくれてる気がしてるんだよね。
ああ、なるほどね。
うん、なのでゼロから立ち上げるんじゃなくて、よくあるマインクラフトの話で言うと、世界ができましたら1個1個ブロックを置きましょうじゃなくて、既にブロックと世界はありますと。
僕らゲームしてるんだけれども、あれ、このゲームって本当にこうやって遊ぶんでしたっけみたいな、そういう問いをなんか投げてくれるみたいな。
ああ、これはでも、今のハヤトの話だけでも、でもというか、なんかそのノーベル文学賞を取ってるとかさ、大学の講義が死ぬほど人気みたいなさ、ちょっと通ずるものはあるのかもしれないよね。
ああ、どんな感じで思った?
たとえばいわゆる難しい哲学書みたいなものがいわゆるね、その人の考えをある意味ピュアにというか、悪く言えばひとりよがりというか、とにかく自分の考えをぶってるみたいなものだとしたらね、仮にね。
今のハヤトのこのベルクソンの話を例で言うと、なんか普通に本を、その人が書いた本を読むとか、普通にその人と話すだけで導いてくれるみたいな。
なるほどね、確かにね。
そういうのが人気の秘密なのかなみたいな。もしくはその、いわゆるその普通のさ、普通のというか優秀な方だろうけど、その大学の学生さんとかさ。
はいはい。
何でしょ、モグリでそのご夫人たちも来てるでしょ、街込んで。
そうそう、社交会のね、そうそう。
そういう人とか、あと普通に社交会の人、あとはその、わざわざアメリカに行って大統領だとか、いろんな人と話すみたいな、ちょっと話してちゃんと理解してもらえるっていうのは、なんかそういう、なんだろう、したい方?
はいはいはい。
そういう人なんかもね、手伝いしちゃうけど、でも手伝ったんでしょ?難しいんでしょ?
難しい。難しいです。
でもね、やっぱ確かに今言われて思ったけれども、いわゆるそのやっぱり全く何もないところから考えましょうというよりは、僕らが普段生きているこの感覚とか実感っていうところから入っていきましょうっていうのがあるから、
確かにその、ちゃんとそれを受け止めて、なんだろうな、一緒に考えたいと思う人からするとやっぱりやりやすいっていうのはあるかもしれない。
なるほど。
ただまあ、やりやすいとはいえって話があるんで、これからですよ、じゃあ実際どんなものかっていうのをね、一旦今日は土台編としちゃっていこうっていう感じなんですけれども。
ごめん、いつもあえて言わせてもらうけど、デルクソンのこの哲学のゴールは何なのっていう。
そうね。
無理。やっぱビジネスみたいにさ、結論先で後から補足というか話とかっていうふうにはやっぱりならないのかな。
結論は難しいけれども、いわゆる目的?は多分言えるかなと思ってて、これは僕が言うわけじゃなく、今回参考書もいろいろ読んでるんですけど、
日垣達也さんっていう方がいて、この人がよく参考文献であげられるデルクソンの哲学っていう本を書いてるんですよ。
その方が半大の教授なのかな?とかの方なんですけど、まさにその本の冒頭に書いてるんだけど、デルクソンの哲学とは何だろうかみたいな話があって、
一言で言うと、実在をあるがままに記述する試みであるって言ってんのね。
へー。
もうちょっと言うと、実在のリアルな立ち現れを一切の媒介に頼ることなく描くことって書いてます。
ほうほうほう。
はい、これです。
オッケー。わかりました。
今会話が立ち切れたね。
消えたね。
うん、わかりました。それはちょっと念頭に置いとくわ。全くピンとこないけど。
そうだよね。よくは哲学あるあるなんですけど、言葉でやってもわかんないじゃん。日本語なんだけど何言ってんの?みたいな話があったときに、
これって何で?って話でいくと、前回もお伝えした通り、当時のフランスの世の中的なとらやかさとかもそうだし、
もしかしたら現代でもそうかもしれないけれども、実在ってまさに何かあるものとか、出来事とかも含めていろいろあると思うんだけれども、
それは僕らっていうのは、人間のいろんなフィルター、その認識力とかもそうだし、そういったものを通じて理解してますよね。
これがある種、その出来ない、直接なんて出来ないって言ったのが関東の物事自体の話なわけだよね。
うんうんうん。
いっぺんの経験と理性っていうのに限界があるから、それのある種、枠内のことしか僕らは理解できません。
うん。
それもある種、当たり前の時代なんだけれども、僕らも全てがわかるとはある種、思ってないと思うんですけれども、
ベルクさんは、まさに実在そのものを捉えるとか、あるいはそのものかどうかは知らんけど、それを直接的に捉えようみたいな、
さっき媒介っていう話もしたけど、そういうことはやっぱり問題意識を持ってるんですよね。
じゃあ媒介って何かっていうと、言葉もそうだよね。
あー、そうなんだ。
だってね、僕が今喋ってもさし、あの鉛筆がっていう時の鉛筆っていうものもさ、
当然よくあるけどさ、その鉛筆というものと鉛筆という言葉は違うみたいなさ、
それまで同じだっていう人たちもいるけれども、基本的には違いますよね。
はいはいはい。
ただ数字もそうだよね。3本の鉛筆って言った時に、その3って何だよ、どこから来たんだよみたいな話もあるし。
いやー、そうね、かつは確かに意外と盲点かもしれないよね、数字は。
逆に言うと、数学ってまさにそういった記号を使って世の中のいろんなことを考えるものじゃないですか。
なのであくまでも記号というものがあって成り立つんだけれども、やっぱりデルクソンって数学をある種、
そこまでフランス一になるぐらいまで極めたからこそ、やっぱりいわゆるそういった記号とか、
概念みたいなものでやっぱり届かない、そういう領域ってやっぱり人生にはあるよねっていう、
まるでリアルさというか、そういったものからむしろ離れていくっていう感覚があったんじゃないかなと思うんだよね。
なるほど、確かにね。これはもう想像だけど、数字もね、一つの言語だとすれば、
うちらが例えば日本語でこれ表現式言えないみたいな、やばいとしか言えないとかエモいとしか言えないみたいなことが、
数字、数学っていう言語を使ってても起きるのかもしれないもんね。
ちょっと待って、今わかんなかったぞ。
日本語とかの場合だとエモいとかやばいで表現できちゃってるけど、
数学の場合だとそれを表現することはなかったりとか、もしくは全部無限みたいなものに全部集約されちゃうみたいなさ、
同じ1とかで言っても、1だとなんかちょっと違うんだよなみたいなさ。
そこって起きてるのかもなみたいなイメージかな。
そういうことね、表現としてってことね。
そうそうそう、そういう違和感みたいなもの。
いずさみたいな、いずい、いずい方言みたいな、なんていうの。
いずいは難しい、難い、落ち着かせるところがないみたいな話だよね。
確かにしっくりこなすというか、これじゃないという感覚はあったんだろうと。
なので、高校から進学するときに哲学とか人文系に行ったって話だと思うんだけれど、
ただね、やっぱり彼の発想を捉えるにあたって、やっぱり数とか量ってすごく大事なんです。
なので、そこから話を今日はしていくんだけれども、
まず、ベルクさんがいろいろ考えていくんですけれども、
やっぱり当て際のところから考えていきましょうというときに、
僕らは普段、いろんな外のものを理解するときに、
やっぱり量っていうところからある種理解することが多いですよね。
例えば想像してほしいんだけれども、
実際、例えばすごい広い草原というか牧場があったときに、
そこに白い生き物がいます、だから羊だねと言ったときに、
だいたい大事なとこはわかんないけれども、
じゃあ羊が何頭ぐらいいるかなみたいな感じで数えたりしますよね。
いうときに、ある種それって、ある種その羊の数に注目したわけじゃないですか。
で、これってある種当たり前というか、いっぱいいるねとか、
こんだけの羊がここには飼われてるんだとかっていうふうに言うのってある種当たり前なんだけれども、
ベルクソンはこれに対して違和感をある種感じちゃうわけですよ。
早いね。
早いでしょ。
野とかでいいじゃんとかってことじゃなくって、
どうなるかっていうと、これはよく言われることなんだけれども、
数って要はその本質的なものを剥ぎ取ってしまいますよね。
本質的なものっていうか個別的なものか。
つまり、羊たちも1匹で当然違う羊だし、
いろんな時間を過ごしている。
まさに時間っていう言葉は出ちゃうんだけど自然に。
っていうものがあるんだけれども、それを全部なくして、
羊が1匹、羊が2匹っていうふうに、
もうその個別性を剥ぎ取ってしまいますよね。
つまりこれって、勝手に僕らが羊っていうリアルなものを、
同じ単位というか1とか2とかっていう数字に当てはめちゃって、
勝手に並べているというか、勝手に扱ってしまっている。
そういうふうな操作っていうものが、
実は量とか数っていうものの前提にはあるんだっていうことを言うんですよ。
なるほど。
この辺は結構イメージ分けやすいというか、そんな違和感ないと思うんだよね。
ここまでの話についてってことね。
ここまでの話、そうそう。
数で数えるっていうことが、個別性とかを剥ぎ取っちゃうっていう話かな。
そう言われればそうだねっていう感じだね。
そうそうそう。
彼は数の数的な多さということで、
数的多性とか量的多性という言葉で言うんだけれども、
つまりよく例えば100匹より101匹の方が多いとか、
あるいは50匹の方が少ないとかっていうふうには、
その代償とかっていうことも多い少ないか、
いうことも数って判断しやすいじゃないですか。
そうね。
なのでやっぱりこれってすごく便利なんだよね。
まず自然科学で分析をしますとか何かを計算しますっていう時に、
やっぱり一定の記号とか数に当てはめることで、
僕らは机の上でも羊のことを考えることができる。
っていう意味ではめちゃめちゃ便利な発想です。
でもさっき言ったとおり、
やっぱりベルクソンは僕らの生の実在というか、
そのリアルな実在というものを知りたいわけなんだよね。
っていう時にこの数で見るっていうことは、
どう考えてもその羊そのものを生では見てないですね、
というところがあるので、
この量とか数で考えるっていうことは、
ベルクソンがやりたいことには当てはまりませんね。
なるほどね。
やっぱり手段として使えませんねってなるんだよね。
面白いね。
ベルクソンがいわゆる数字で物事を捉えるみたいなものに対する違和感っていうものを、
ちょろっと説明しようとするとこうなるんだね。
ここまで。
なぜかというとですね、
遠い愛とかも別に、愛の溢れてくるとかさ、
例えばね。
ヤバみが極まるとかっていったときに、
なんかそういう寮っぽいじゃん。
心の感情とかも。
もちろん寮と言ってもいいんだよね、これも。
寮なんだけれども、たださっきの羊とかと違うのは、
この感情とか心の状態みたいなものっていうのは、
並べて数えたりとか、分割して、
愛が1つ、愛が2つみたいにはできないっていうふうな、
そういう寮なんだっていうふうに言うのよね。
そうなんだね。
それは科学が発展すればいつかはできるようになるとか、
そういうのも考えなかったのかな。
どう思う?
じゃあ何かものすごい科学が発達したときに、
あなたの愛情は100ですとかって言われて、
それが本当に正しいことってあり得るかね。
いやー、ちょっと凡人の頭では分かんないね。
仮にさ、それが発明されて本当に、
例えばあなたの愛は87ですとか、
こっちは85ですとかって言われたときに、
それをどう証明されたら納得するかっていうところは、
全然想像できないからね。
もっと言うとだよ、
例えば愛も生理現象ですと、
このホルモンがこのぐらい出て、
こういうブレンドだったらこのぐらい愛が強いということです、
ということが仮に証明されたとして、
それに基づいて87点とかってやってるみたいな話ね、例えばね。
そうそう、例えば。
だったときに、
例えば全く同じ数値の2人がいたときに、
あなたたちの愛は全く同じ質と量ですねって言われたとして、
これって何を言ってるのかって話なんだよね。
つまり、そもそも愛というものとか、
そういう感情みたいなものを、
そういった科学とか数字の分野で取り組んでいくってこと自体が、
カテゴリーミステイクなんじゃないかっていう。
なるほどだし、確かに、
現実的ではなさそうだね。
少なくとも今はみたいな。
そうだし、できたとやってみたとして、
それって結局何を言ってるんですかって話になるわけよ、結局ね。
何を言ってるですかになるか?
例えば僕と兄貴のそういう生理的なものを全部データを取って、
かんのさんが抱えている子供の愛と、
きょうすけさんが抱えている子供の愛は同じですってときに、
同じなんだってなる?
同じなんだって。
どうだろうな。
例えばね、ごめんちょっと話ずれるかもしれないけど、
例えば、愛を測定する機械ができましたと。
身体から出ている脳波だったりとか、いろんなホルモンの中に物質みたいなものがあって、
愛を構成する変数みたいな物質が、
例えば6個に特定されましたと。
その6個ですと。
その6個のパラメータが違う中で、
同じ80点ってものがあるかもしれない。
そうすると、80点っていう点数は同じなんだけど、
質は違うねと。
あなたはこういったタイプの愛が強いですね、みたいな。
あるかもしれないんだけど、そのパラメータまでがっちり同じ6つのパラメータが、
全く同じで同じ80点だったら、
固く仲間よみたいな。
俺とお前ちょっと仲間かもみたいな。
そういうふうに思わせられる自信がある。
どうしようみたいなね。
そういう世界に生まれて、そういう機会があったら、
自分は多分、そういった意味で同じ80点、
同じパラメータがいたら、すごい親近感があるかもって思った。
なるほどね。
例えば映画館に行って、映画を見た後に出口でそれをピッピッピってみんなやられて、
全く同じパラメータの人がいたら、その後一緒に喫茶店に多分行くと思うもんね。
なるほどね。面白い。
この感覚は兄貴がぜひ持ち続けてほしい。
今後のベルソンさんの話を聞いて、
変わるのかどうかとか何を思うのかっていうのをぜひ教えてほしいな。
大丈夫?話ずれすぎてない?大丈夫?
ずれてない。ずれてないっていうか、これがいいのよ。
要はさっき言った通り、ベルソンさんの哲学は僕の感覚では、
日常的な感覚っていうものから始まって、それを乗り越えようとしますねと。
つまり今、兄貴は兄貴の日常的な感覚として、
愛はパラメータ化できるんじゃないかとか、
パラメータが一緒だったら仲良くなるっていうか、同志じゃないかっていう、
愛というものはパラメータに変換できるっていう感覚を持ってるわけだよね、今。
そうそう、科学史上主義というか、科学的にもしかしたらその未来あるかもってね。
そうだよね。
僕はそこに対して、そもそも家庭誇りが違うからそんなことはありえないんだっていうふうなことを主張してますと。
僕はっていうか、ベルソン的に言うと。
ベルソン的に言うと、そうそうそう。
っていう、この2人が話していくのは絶対面白いし、
たぶん両方いるし、もちろんいろんな考え方があるとは思うんだけれども、
それはね、非常に典型的なパターンだから、
ある種数値化できますって言うとできませんっていう人って、
その2人が話してると、たぶん今めちゃめちゃ面白いと思う。
確かにね、たぶん自分が思いつくようなことは、たぶん当時めちゃくちゃ同じような批判をされてたはずだからね。
どうなんだろう。
っていうところもあるんで、ちょっとそこはいい感じで疑いながらというか、
本当にそうかなとかって思いながら聞いてほしいんですけど。
いい感じで。
いい感じで。
さっき言った通り、こっちも量と言っても良いでしょうと、とりあえずね。
数字と同じように、別に愛も量ですと。
ただその量っていうのが、いわゆる並べて数えられるとか、
いわゆる区別できる量なのか、並べられない。
愛が100とかとか言ったとしても、その100ってなんだよみたいになっちゃうとかっていうときに、
いわゆる強度の問題なのだと。
強度っていうのは強さね。
さっきパラメータっていうのが一つあってて、
何か仮に公正要素ってものがあったときに、
これが例えば5の人よりは10の人が強いかも。
ただその5と10が2倍かどうかはわからんみたいな、
そういうふうな発想がありますよね。
で、これをある種ベルクソンは質っていうふうに言い換えるんだよね。
なるほど。今はだから量と質の定義をしてるんだね、ベルクソン的な。
そう。というと量っていうものをいろいろ分解していくと、質としか言えないものが出てきて、
ここで初めて量と質っていう概念を分けましょうっていうことなんだよね。
久しぶりだね、こういう話。確かに哲学っぽい。
量っていうものがありましてとか、質っていうものがありましてじゃなくて、
まずは単純にその質の数みたいな量っていうものに着目していきながら、
じゃあ一方で愛はみたいな話をすると、
この量ではいけないのでしょうがないから質っていうものも必要になるよね、しょうがないよねっていう形で、
どっかから引っ張ってきたんじゃなくて、ちゃんと一つの出発地点からこうやって今歩みを始めてるわけね、これ。
そうです、そうです。
だから出てきちゃったね、質というものを問題しなきゃいけなくなっちゃったねっていう感じ。
OK。
これなぜかというと、さっきの愛の話はそうなんだけれども、
もし仮に愛が羊みたいに並べられるものだとすると、愛を積み重ねられますと。
例えば愛を10積み重ねました、今日も10積み重ねました、なので今日の愛は20ですっていうふうになりますねと。
でもどうやら愛って本当にそうですかとかって言ったときに、
ブロックみたいに積み重なるものというよりはグラデーションとかが多分近いんだけれども、
例えばベルクソンとかも光とかっていうのを例に出してるんだけど、光ってさ、いわゆるスペクトルがあるじゃないですか。
紫外線とか赤外線とかっていうときに、その間の中で波長なのかなっていうもので、
これは黄色の光だとか、これは緑だとかってなってると思うんだけれども、
光というものは一つありながら、そのグラデーションの中で、なんか今日は赤だとか、
今日は青だっていうふうになります。
なので愛っていうのもそういうもので、
愛というものが積み重なるんじゃなくて、
そういったグラデーションの中で、今日は愛が強めだとか弱めだとか、
ここが最高だと思ったのにさらに最高があったとか、
そういうふうなメーターみたいな、車のメーターみたいな感じ?
あのアナログの方ね、タリーがブイーンって上がってくるじゃん。
あんな感じの変化の仕方をするよねっていうふうに考えるんだよね。
それがいわゆる羊を数えることと、愛を数えると考えることも違いなんだけれども、
ここでめちゃめちゃ面白いというか、ベルフィスさんが考えるのが、
本来愛みたいなものって、心とかって数えられないはずじゃないですか。
数えられないはずなんだけれども、どうやら僕らはそれを理解するときに、
何か数えられるもの、もっと言うと空間っていうものを手がかりにして考えちゃうねっていうふうなことを言うんですよ。
空間ね。
ここで空間が出てくるんだけれども、さっきさ、愛がまさに溢れるとかさ、
溢れるってすごい視覚的な話じゃない?
僕らは愛は見えないのに、なぜかそれを溢れるとかっていうふうに、まさに空間的な言葉で表現してます。
あと愛が重いとかもあると思うんだけど、重いっていうのはどっちかというと重力的な話なんだけれども、
これもやっぱり空間で、その下に行くとかさ、そういうふうにずっしり来るみたいな、そういう感覚ってやっぱり空間的な感覚なんだよね。
確かに愛が深いとかも言うよね。
そうそうそうそう。
やっぱさ、海のように広い心とかってすごくいい。
心が広いって当たり前に言うけど、どんぐらい何丁なの?みたいなさ、言わないじゃん、そんなに。
僕ら勝手に心とか感情みたいなものにも、そういう空間的なもの、もっと言うと数えられるものが、そういうふうな発想を持ち込んでるんだってことに気づくんですよ。
これはある種の言葉の、今はわかりやすい言葉の分析で言ったけれども、
ブレックサウンドの例はね、またちょっと伝わって、これもすごい面白いんだけど、
風の音、ゴンゴンって、教会でもいいし、お寺でもいいんですけど、鳴るじゃないですか。
いう時に、カネの音をただただ静かに聞いていれば、それが鳴り響いてるなとか、前鳴った音と後の音が重なって、
なんか、なんていうのかな、音向きが変わったなとか、そういうことに気がつくはずなんだよね。
そういうふうな話なんだけれども、普通に僕らが空間的なとか数の関係で聞いてると、
今、カネが3回鳴ったから3時だとか、今、カネが5回鳴ったとかっていうふうに、
ある種、溶け合っていた音っていうものを切り離して、勝手に区切りをつけちゃうんだよね。
これが区切るっていうことが、その数、筆字的な数の本質なんだけれども、この区切らない、
つまり、前とか後っていう前後関係あるかもしれないけれども、
それが今この瞬間合わさって一つの音になっているっていう、そういう体験っていうものがあるよね。
こういったものがある種質だし、さっきの数的多性っていうのに比べて質的多性っていうものがあって、
質感っていうものをちゃんと掴むことができるんだっていうふうにベルフさんは考えるんですよね。
なので、この音っていうのもすごく分かりやすくって、
一個一個のド、レ、ミ、ファっていうものを聞くと、メロディーには絶対ならない。
別に言うと、メロディーとか音楽っていうのを楽しむためには、そういった区切らずに全体を捉える必要がある。
これはさっきの光のメタファーと近いんだよね。
そうなんだ、光って。
光というものを理解するときに赤色の光だけを見ても絶対に分かんなくて。
むしろその術法とかグラデーションって違うっていうことを捉えないと光っていうものは理解できませんね。
つまり愛とかそういった心みたいなのも同じで、今この瞬間の愛とか、
さっき言った6つのパラメータがあったとして、
このパラメータが出てきた愛っていうものだけを見ても、愛とは何かって分かんなくて、
今どういう状態かは分かるかもしれないけど、
映画を見た後の愛とか心がどうかっていうのは分かるかもしれないけれども、
その奥にあるのかもしれないあなたの愛とか、
心の動きって何ですかっていうことにはたどり着けないねって話なんだよね。
そっかそっか、それ言われちゃうと、
どの時点の愛になっちゃうか、その量ったとして。
今時点の愛はもしかしたら測れるかもしれない。
測れるとかその状態として言えるかもしれない。
SFの話ね、今ね。
SFの話、そうそう。全部家庭の話だからね。
なるほど、確かに。それで言うと、
その時点でパラメータ同じだったとしても同じだとは言えなくなっちゃうし、
それで言うと、例えば映画館に入ってから出るまでの平均値が、
例えば出したとして平均になっちゃうから、
例えば映画を見始めて1分後、2分後、3分後っていう、
絶対そこの推移みたいなもので一緒っていうのはちょっと考えられないから、
そう考えると、さっき一緒に岸手に行こうとした人、
行かないほうがいいかもって思ったね。
行かないほうがいいか知らないけれども、
話してみたら全然違ったのがあるかもしれないよね。
めっちゃ面白かったねって言って、
乾燥戦行こうって言った結果、
ある人は冒頭のシーンにナイスだけど、
ある人は後半がめっちゃ良かったって言って、
全然変わらなかったねみたいなことって普通にあるじゃん。
それでたまたま映画館が出たときは、
全てのパラメーターと点数が一緒だっただけっていう可能性があるってことはね。
ある。まさに今推移って言ってくれたけども、
そういったものを除外して、
ある瞬間のパラメーターとか数値を取ったとって、
果たして本当に同じってことは言えるんですか?
姉貴の心そのものを理解したと言えるんですか?っていう話なんだよね。
なるほどね。
それはちょっと面白くなってきたというか、
本当にありえないけど、
映画館に入ってから出るまでの推移も全く一緒で、
そう結果、平均じゃなくて完全に一致した人が仮にいたとして、
でもだよね。
でも、映画館に来る前のお家での状態どうでしたかみたいな、
そういう話になっちゃうってことはね。
そうです。
面白いね。
だから、まさに言った通り、今の映画館ならみたいな話では区切るって話じゃん。
そうだよね。
区切るっていうことはさっきの通り、数で数えるとか、
分割できるって話だから、
その発想は全部数的多性の話なんだよね。
そうだね。
そうじゃなくて、さっきのスミみたいな感じで、
いろんな人がいろんなことを考えながら映画を見てるよねっていう話。
この浮き沈みとか流れっていうものを全部理解しないと、
その人が映画を見た体験っていうものが語り尽くせないよねっていうのが、
ある種、数的多数の方の話なんだよね。
やばいやばい。もう論破されそう。
頑張ってよ。まださっきから10分も経ってない。10分ぐらいだよ。
面白いね。
でもそう言われたらさ、確かにそういう点というかその瞬間で捉えるって、
確かに成り立たないかもなっていうことはちょっと感じてくるじゃない?
そうだね。ちょっと感じてくるし、
いわゆる逆転させると、多分逆転した話だと思うんだけど、
こんだけ俺たちクリってるんだっていう。
クリっちゃうんだな、クリっちゃってるんだなみたいなさ、
ベルキさんが言うところの量の話だよね。
ベルキさんは一生懸命この量の話を伝えてくれようとしてるんだけど、
それでもなお、区切ろうとしてるこちら側みたいな。
その感覚はちょっとこの区切るって感覚、これはちょっとちゃんと捨てるというかね。
これは難しいなと思ったね。
さっき言うともちろん大事なんだよ。分析するとか区切る、分けるっていうことはすごく大事だし、
物事を理解する根源なんだけれども、
それをやり切った、数学をやり切ったベルクソンだからこそ、それで死ぬものがある。
よく言われるじゃん、その全体っていうのは部分を足し上げたもの以上であるみたいな。
例えば10個ブロックがあります。
それを組み上げていろんな形を作ったときに、数としては10個のブロックを積み上げたものだとするじゃん。
それができたものが、子どもが一生懸命作ったロケットでもいいし、何でもいいんだけど、
ロケットっていう作ったもののイメージとか、子どもが頑張って組み上げたという努力っていうものは、
ブロック10個には還元できないわけよ。
なるほど、その時点で情報が増えたね。
そうそうそうね。これは外部からの操作があるからちょっと違うかもしれないけれども、
やっぱりその部分と全体っていうものを考えたときに、単なる相場ではないっていうことがよくあると。
逆もしかりで、全部切り分けて詰まったときに、元々何でしたかっていうことを考えるとしても無理だと。
数で考えるだけだと、全体とも捉えられない。さっきの炎とか光も一緒だけど。
っていうものが確かにあるよね、僕らが生きている世界に。
それがまさに実在っていうもので、もしかしたら、ものだけを考えるんであれば、
例えば、本を作りますときに同じような印刷された紙を100枚くっつけたら同じ本になるよねって言えるかもしれないけど、
人間の心っていうものは、喜びと悲しみと怒りっていうものを混ぜ合わせたら全員が同じ感情を持ちますとかっていうと、
そんなことはやっぱりあり得ないわけね。
それがさっき僕が言ったカテゴリーエラーというか、適応したダメなものを適応しちゃったよねっていう話なんだよね。
なので、数っていうものとか量っていうものは、ベルフさんは非常に警戒をしてます。
数えるっていうことは、さっきの羊みたいな感じで、一個一個の個性とか本来羊が持っているものっていうものを、
やっぱりそれもある種、見捨ててしまうとか殺してしまうものなんだよっていう話を考えるんだよね。
ここまでイメージ湧いてきた?
いやー、そうだね。
くにっちゃうっていうところ。
そこの感覚を取っ払うのがすごい難しそうだと思ったね。
今のベルフさんの話を聞いて、まず量から始まったよね。
量から始まって、そこまではいいと思うんだけど、この質っていうものを想像するにあたって、
うちらが無意識的にやっちゃってるクリルみたいな感覚を一回ちゃんと捨てないと、
ちゃんとベルフさんの話聞けなさそうだなって思った。
いいね、ちゃんと意識しよう。
しかも彼はクリルっていう感覚を捨てて、生きることを求めるんですよね。
大丈夫なのか?それはそれで。
その生き方って何なの?みたいな話になっていくので、それも面白いんだけれども、
ちょっとここに行く前に、冒頭言ったらゆっくり行きたいなと思うので、
これはまた次の回になるんですけれども、空間の話を今日ちょっと思うんですけれども。
した?空間の話した?
数を数えるっていうのは空間的な話ですってちょっとしたじゃん。
だから僕らは心とかそういうものも空間で表現したくなるみたいな。
そうか、それって数を数える、だから量と質の対比じゃなくて、
こっちも同じだよ、同じと並だよっていう意味での話。
僕らは物事を空間的に捉えがちではねって話。
そっか、ごめん、ちゃんと伝わってなかった。
ごめんごめん。
数を数えるっていう、例えば羊の数を数える、1頭2頭数えることと、
心とかについて空間的に捉えるっていうのは全く違うことで、
空間的に捉えるものが質だよ、みたいな話で思えちゃってたかもしれないけど、
ごめんごめん、違います違います。
ごめん最後そこだけちゃんと補足して言うんだけど、
空間っていうものを出したのは数を数える、数的多性っていうものと空間っていうものが
僕らの認識で非常に結びつき合ってるからです。
結びつき、はいはい。
さっき当たり前のように羊の例を出したけれども、
草原に羊がいますって言った瞬間に、草原という空間とそこにいる羊で、
例えばこの左側に何頭いて右側に何頭いてみたいな感じで、空間的な配置を多分想像したはずなんだよね。
数っていうのは、羊が1匹って言ったら1匹出るじゃん。
羊が2匹ってなったらどうなる?
そういう人は2匹目の羊が現れるね。
どこに現れた?
草原に。
1匹目の羊のどの辺?
隣ぐらいかな。
そういう風に、これは1か2になると空間が広がるんだよ。
空間が広がる。
羊が1匹だった世界、もちろん草原というベースの空間はあるけれども、
そこに羊1匹いるわけじゃん。
羊が2匹ってなった瞬間に隣っていう概念が生まれたでしょ。
隣っていう概念。
やっぱり羊が占める空間が広がったんだよ、そこで。
で、3、4ってなったらもっと広がってくるじゃん。
広がってくる。
数を数えるっていうことは、実は空間が広がるとか、
右とか左とか数が増えていくとかっていう風な形でいったときに、
そういった空間性って言うとめちゃめちゃ結びついてるって話なんだよね。
なるほど。
言われてみたらそうじゃない?数えれるとか分割っていうのも空間の話でしょ。
区切ってるわけだから。
さっき空間の話聞いたときに、全然違う形で理解してたね。
ごめんごめん。
僕が言いたかったのは、例えば心が溢れるとか、愛が溢れるとか、
心が深いっていうことを言っているときに、
僕らが本来、区切れないものとか、数では測れないものを、
数というものと密接にくっついている空間というもので理解しようとしているっていう。
そういう間違いを犯してるんじゃないですかって話なんだよね。
間違いの話か。
ごめんごめん、間違いの話なんです。
数に対しての空間だと思ってたから、同じことなんだねっていうね。
ごめんごめん、そうそう。
僕らは光とか心っていうものを数で捉えるということは、
イコール空間で捉えるということで、
これがどっちもあるし、誤りなんですよっていう話。
はいはいはい。
そこの後の話からすると、空間の方が合ってるっていうのは、
数字つまみが合わないなと思ってたんだけど、これで納得した。
ごめんごめん、よかったよかった。
これは光の話も一緒で、
例えば赤色の光は何Hzっていうのかな、振動性とかっていうときに、
僕らは何Hzっていう数字を理解したとても、
その色が何色かっていうことをリアルに感じることなんかできないじゃん。
つまりこれが、ベルギッソンがもともと言っていた、
媒介があるっていう話なんだ。
これはあるがままではない。
媒介とか数字っていうものを通して光を理解してしまっているっていう状態なんだよね。
はいはいはい。
なので、そうじゃなくて、
まさにリアルな光の色とか、きらめきとか、
きらめきってすごく心理的な意味があるから、そこにはだいぶ勝ちづけされちゃってるんだけれども、
そういうものを理解するときには、
数字とか言葉とかっていうものを、無理だよねって話をするんですよね。
はいはいはい。
というのがご免許なので話したかったのは、
ちょっとまとめると、まず量語とか数から始めましょう。
数っていうもので羊はOKなんだけれども、
どうやら愛とか心みたいなものはそのままはダメそうですね。
ここで量と質っていうのは分かれるんだけれども、
量で知るっていうことは、
ニュアリーイコール空間的に捉えるってことです。
なので、この質っていうものを空間的に捉えるっていうことは実は良くないんですよ。
っていうふうな話を今日はやりたかったことなんですよね。
その質っていうものを、
うちらはなぜかそれも量的に実は捉えてるのに、
あなたたちは質で捉えたつもりになっているっていう過ちを犯してるんですよっていう話をしてる。
量として混乱すんなよって話だね、グループ総合から。
そうだねそうだね。
それはちゃんと区別しましょうねって感じかな。
だから質の話はこれからしてくれるみたいな感じなのかな?
そうね。そっちの世界の話をしていきましょう。
久しぶりだねこの感じ。
なんでみんな数の話をしてるだけなのに、こんな話すっていうね。
そしてちょっとわかりづらいっていう。
いや、そうなんだよね。
台本作っててあわせて2回に分けたんだけど、
これを第1回でちゃんとやらないと、次回以降の話何にも伝わってこないなって思って。
なるほどね。
だからうちらがいわゆる心に対して深いとか言ってるのは、
それも羊の数を数えてるのと同じだから、
いわゆる心とか愛についての質について考えてるつもりになるなよって話ね。
間違えんなよっていうね。
そうそうそう。間違ってませんかって話だね。
ちょっとここちゃんと2回しておかないと、次回忘れてそうだから。
覚えておく。
そういう意味では次回につなげたいっていうのもあるんで、少し話すんですけど。
次回何について話すかっていうと、時間について話します。
時間ね。
やっぱり自然に出ちゃうなって思ったんだけど、さっき僕金の話をしたときに、
金の音の話をしたときに、3回鳴ったから3時とかさ。
何回か時間について勝手に触れちゃってる時があるんだよね。
っていうぐらいこの話と時間って結びついてしまうんだけれども、
例えば、兄貴に時間を数えてくださいって言ったらどうする?
1秒、2秒とか?
時間って数えれるんですか?って言われたらどうする?
数えれるんですか?
今日の話で言うと、時間って量のカテゴリーなんですか?質のカテゴリーなんですか?って話なの。
はいはいはい、なるほど。
どっちなんだろう?質なのかな?でもわーわかんない。
はい、ということですね。次回考えていきましょうと。
やめてよ。
次回秘密してほしかった。
考えさせないであんまり。
そうしたらね、ちゃんと覚えて次回入ってくれるかなって思ってさ。
わかりました。じゃあそんな時間の話ね。
そうね。持ってると別にこれも結論言っていいんだけど、要は本当は時間は質ですと。
愛とかと一緒なんですと、カテゴリー的にはね。
でも僕らはなぜかそれを量として捉えちゃってますし、それを当たり前にしちゃってませんかって話なんだよね。
なるほどなるほど。
はい。なので次回の時間とは何だというか、そのベルクソンが考えている時間というもの。
これを次回深掘っていきたいと思ってますって感じなんだよね。
わかりました。じゃあ次回ですね、このベルクソンの話引き続き楽しんでいきたいと思います。
では引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。