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#434 【分人 その1】本当の自分はどこへ行った?個人から分人という在り方へ 
2026-06-24 40:21

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サマリー

このエピソードでは、小説家の平野啓一郎氏が提唱する「分人」という概念について掘り下げています。従来の「個人」という捉え方では、私たちは社会生活を送る中で、職場、家族、友人など、状況に応じて異なる自分を演じているように感じがちです。しかし、従来の「個人」という概念は、分けられない「インディビジュアル」という語源を持ち、近代社会における独立した主体という考え方に基づいています。この概念では、異なる自分を演じることは「本当の自分」を隠している、あるいは偽っているという感覚につながり、ストレスの原因となることがあります。 一方、「分人」の考え方では、これらの異なる自分はどれも「本当の自分」であり、それぞれが独立した人格を持つ「分人」として存在すると捉えます。例えば、職場で大人しい自分、友人といる時に活発な自分、それぞれが「分人A」「分人B」として存在し、どちらも本来の自分から切り離されたものではなく、その環境との相互作用によって立ち現れる自分なのです。この考え方により、「本当の自分探し」といった従来の個人モデルに伴うストレスから解放され、自分自身の様々な側面を肯定的に捉えることができるようになります。次回は、この「分人」が人間関係や恋愛においてどのように機能するのかについてさらに掘り下げていく予定です。

「分人」概念の導入と従来の「個人」への疑問
はい、それ哲ラジオ。今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回は前回やったベルクソンの流れから、分人っていうキーワードで今回やっていくという話でした。
はい、そうですね。分人。あの、分割の分に人で分ける人ですね。
っていう概念があるよって話をしてたんですけど、前回の雑談でも少しお伝えしたんですけれども、
小説家の平野圭一郎さんっていう方が提唱してる概念みたいな感じで、
今手元にその人の私とは何か個人から分人へっていう本があるんですけど、
高山社の現代新書かな?で、出たのが2010年とかなので、
ちょっとごめんなさい、原本あるかもですけど、わりと新しい本だったりはしますよと。
おお、思ったより100年くらい新しいね。
そうね、小説家のとかって言ったらあれだもんね。文豪、昭和の文豪かなみたいな。
昭和だったりね、もう何なら1000年くらい。
明治とかね、はいはいはい。2012年ですわ。に出てるような本です。
結構現代的な話として、私というか人っていうものを捉えましょうっていうような本なんだけれども、
これなんで面白いなっていうか、やりたいなって思ったかっていうと、
前回ベルクソン色々やったときに、まさに空間化、それがイコール分けるってことだよって話をしたじゃないですか。
羊とかも1頭2頭、1匹2匹って分けると、羊1匹1匹が特徴ってなくなってしまう。
これが時間とかそういうことにもいろいろあるんだよっていう話をしたと思うんですけど、
これを人間に与えてみましょうよって話したんだよね。
僕らもさ、人間が例えば100人いますとかってときに、当然100人1人1人の違いとかって目は向くとはいえ、
1人1人って何ですかって話になるわけだよね。
そうだね、すごい分かる。
分かる?
少しだけずれちゃうんだけど、若いときに、自分は岩手の田舎生まれだからさ、
若いとき、例えば就学旅行でもいいし、大学生でもいいんだけど、
たまに仙台でもいいよなんなら、仙台でもいいし、東京でもいいんだけど、
やっぱ人が多いところに行ったときの、
1人1人が薄まる感覚だったり、逆に1人1人の人生ってものがあるんだろうなって考えたときに、
すごい具合悪くなるというか、なんかいっぱいになっちゃう感覚があって、都会に出れなかったっていう。
あるんだよね。
そんなこと感じたんだね。
今の話で思い出した。
大きいビルがたくさん並んでるところを電車から眺めたときに、
あの一室一室とかのことを考えてしまって、すごい頭がオーバーヒートされて、
うーってなる。
深掘ってみたいんだけどさ、いわゆる自分の小ささみたいなのを感じるっていうことってよくあると思うんだけど、そういうこととはまた違うのかな?
違う。違うんだよね。
大多数の中に自分っていう子が埋もれてしまうっていう感覚じゃなくて、
いろんな人の人生、だからこの1人1人とか1万人とか100万人っていうふうにできればいいんだけど、
なんかそれができない感覚があって、
人がいっぱい歩いてても、もしくは遠くからそういうたくさんのビルたくさんの窓を一個一個を見てても、
何かが流れ込んできちゃうというか、
感覚、1人1人の目線じゃないけど、小説とかアニメだったりとか映画とかでさ、
主人公だったりとかさ、いろんな人の目線で話が進むじゃん。
それが同時に流れ込んでくる感覚というか、想像しちゃいそうになる感覚みたいな。
面白い。じゃあ満員電車なんか乗れないね、もうね。
そう、物理的にはいいんだけど、でも満員電車だと逆にあんま人見えないからいいのかもしれない。
え、満員電車人見えないの?
あんま見えなくない?頭とかしか見えないからね。
あ、そういうこと、視覚的な問題なんだ、面白い。
まあまあまあね、密度もあるかもしれないけど、そこまでどうだろうな。
まあ感じるかもしれないけどね、もうちょっとくすいてる方が感じやすいかもしれない。
逆にね、面白い。
乗車率80%ぐらいの方が感じやすいかも、逆に10%より。
なるほど。
とか、その満員電車から眺めてるビル群だよね。オフィスビルだったり、たくさんのマンションみたいな。
の方が来るかも。だからどっちもかな。
はいはいはい、面白いな。それだけでもね、結構深掘りの差があるなと。
ごめん、挟んじゃったね顔。
全然ごめんじゃないよ、いや、面白いし。
なんかそれこそね、ソイテッドカフェのテーマとかになりそうだなと思ったけれども、
一旦ね、今回の文人っていう話をすると、僕らは普通、そういった人たちは個人っていうじゃないですか。
私という個人がいて、とか個人個人が電車に乗っている私という個人と、
そういったビルで働いているという個人と、みたいな感じになったと思うんだけれども、
個人っていう概念をちょっと変えたいですよっていう話なんだよね。
本の冒頭に書いているのも、この本の目的っていうのは、人間の基本単位を考え直すことなんだと。
かっこいいね。
それを個人から文人へっていうふうにこの人は言ってるんだよね。
で、個人って何ですかみたいな話なんだけどさ、これって考えたことある?個人とか何かみたいな。
いやー、なんか普通にその一人一人かなーぐらいの感じだね。
っていうのが、やっぱりさ、それもね、やっぱり難しいというか、そんな考えないじゃないですか。
っていうところを、この方は哲学者ではないので、厳密に個人というものを規定してとかってことではないんだけれども、
やっぱり自分自身が書いてきた小説のキャラクターとか、あるいは自分自身の考えてきたこととか、
体験してきたこと、ことを踏まえて、個人っていうのはやっぱりちょっと無理があるんじゃないかというか、
人間ってそういう存在じゃないんじゃないかみたいなことを考えるんだよね。
っていうので、結構読みやすくてお勧めなので、よければぜひご覧くださいって感じなんだけれども、
今日は2回分ぐらいでこの個人から文人へって話をしていくんだけれども、
まずね、この個人が何かっていう話の厳密なところというよりは、ちょっと語源的な話をしますと。
「個人」概念の語源と限界
個人って日本語を感じると子の人なんだけど、この概念って明治時代にある種できた言葉である概念らしいんだよね。
何が個人って言葉になりましたかっていうと、いわゆる翻訳語なんだけれども、もともとは英語のindividual。
個人ってindividualって言うじゃないですか、っていうところなんだよね。
そうなんだ。外来語なんだ、個人って。
そうなんです。
外来語というかね、輸入。
日本には多分個人っていう言葉はなかったはずなんだよね。
で、じゃあこのindividualってどういう風な言葉なのかっていうと、inとdivisualってことに分かれてて、
要はディビジョンで分割するっていうことなんだよね。
ディビジョンとかディバイドとかね、分けるか。
そうそうそう、分けるって話。
inは否定、incredibleとかimpossibleとかさ、否定なので、要は分けられないっていうことなんですよ、言葉的に。
そう、つまり分けられないものとしての個人という単位というものが、もともと英語の言葉の意味とか語源的にあって、
それが入ってきたときに個人っていう風な言葉にしましたっていうものなんだよね。
だからこれは実はめちゃめちゃ西洋的なというか、
まず個人というものの確立した、犯すことのできない独立した主体であるとかさ、権利もあるそういった存在であるみたいな、
それが近代社会を前提とする中に住む個人、まさに子という存在という風な感じになっておるんですよと。
なるほど。
うん、いうことが書かれてたりするんだよね。
じゃあねと、僕らは確かに個人ですが、菅野京介さんも個人だし、菅野昭さんも個人ですってなっているんだけれども、
菅野さんに言わせると、これって結構大雑把すぎないみたいな、この単位って。
そうなんだ。
っていう風にことを考えるんだよね。
つまりこれよくあると思うんだけれども、よくある職場の自分とかさ、家族での自分とか、友人との自分とかっていう風に、
その時だけ自分が違うなんてことがよくあるわけじゃないですか。
はいはいはい。何回でも話したよね、こういう話は。
これをある種扱う概念として、よくあるのがペルソナとかさ、キャラみたいな、そういう話って何かしたかな、過去。
ちょっとどの回か忘れたけれども、そうね、仮面を被り分けてるとかね、そういう話だよね。
ペルソナはつまりパーソナル、個性とかそっちの語源なんだけど、今度はね。
つまりそういった個性といったものも、仮面をつけるように、要はその時々で変わります。
でもこれの要は、意味してることって要は仮面なので、本当の顔はちゃんとありますとか、
本当の自分はちゃんとありますっていう、そういう風な発想なんだよね。
そうだね、うんうんうん。
っていうと、このヒナマさんは本当の自分とか、なんとなく中心なのかわからないけど、
そこに本当の唯一無二の自分、あるいは個人としての自分がいて、
それが環境とか条件をしてキャラクターとかペルソナを使い分けてますっていう、
そういう発想も違うんじゃないかっていう風に言うんだよね。
あー、それも違うんじゃないかと。
そうそうそう。
今その個人っていうものと、ペルソナとか仮面っていう、要は個人はあるけど仮面をつけてるっていう、それも違います。
なんでかっていうと、そうするとね、ペルソナをつけてる自分っていうのは、いわゆる仮の姿、まずは仮面じゃないですか。
っていくと今度は、自分は本当はこういう人間なのに、会社では偽物の自分を演じているとか、
本当はこういう風に友達とかパートナーと接したいのに、それができない自分がいるみたいな、
そういうちょっと否定的なものとか、本当の自分と仮止めの自分といえば分けちゃうっていう、
そういうことになっちゃいますよねっていう風に考えるんだよね。
なんかこれは確かにそうだなって思うよね。
そうね、思う思う。そこに対してはストレスを抱えるだったりとか、逆にそれを楽しむこともあるんじゃないみたいなね。
そっちの方が合ってる人もいるんじゃないみたいな話は、以前した気がするよね。どっちがいいかっていうよりは。
それはもちろん人それぞれだと思うんだけれども、ひなまさん的にはそういう風になっちゃうと、
結局社会生活はめちゃめちゃ上手くいっているけれども、何か作っているとか、
何か常識にとられている自分がいて、本当の自分じゃなさそうだみたいな、そういう不安も生み出しますよね。
いやー、海外の映画でよくありそうな設定だよね。
俺はこんなに金持ちになったのにみたいな。
そうそうそう、本当の自分はみたいなさ、暗い部屋で俺だけは知っているとかさ、私だけは知っているのよとか言って、
ヒロインが来たりして、ヒロインとのひともんちゃくふたもんちゃがあるとかあったのがありそうな気がするけれども、
そういうことが個人っていうものにはつきまといますね。
なので、もちろん個人という発想にもすごく意味はあるんだけれども、
分割できないインディビジュアルとしての個人というものを一旦解体しませんかと。
おー、解体しちゃうんだ。
解体して、それを一旦バラバラにしちゃいますと。
その個人、要は分けられないっていうものが個人なんだから、
分けられるっていう存在を考えてみましょうよということで、
分人、分ける人、分割する人っていうものを考えますっていう話なんだよね。
「分人」の概念:本当の自分は複数存在する
そうなんだ、ほうほうほう。
どう?この前の流れ。
めっちゃわかりやすいよね。
個人がインディビジュアルだから、
じゃあイン外してみようみたいな。
分けちゃおうみたいな。
ところからどうなるんだろうみたいなね。
だから僕も分人っていう概念をちゃんと知らなくて、
言葉としてだけ知ってたんだけれども、
人間を分割しましょうではなく、
今が分割できないと言われているから、
そのよくわからない前提を一旦取っ払っちゃいましょうっていうのが発想らしいんだよね。
はいはいはい。
さっきも言った通り、実学者ではないので、
この厳密さとか、
それが本当にどういうことを操作としてやってるのかってところまでは踏み込まない。
あくまでも新書だしね。
っていう感じなんだけれども、結構面白いなと思うんで、
ここから分人とは何かって話をしていくんですけれども、
分けられますと人がね。
どうなるかっていうと、
要は、いわゆる対人関係とか、
さっき言った会社がとか家族がとか友達がっていうときに、
それぞれ全部が分人なんですと。
その分人っていうのは、
じゃあ仮に分人A、B、Cとかっていうときに、
それを本当の自分を切り分けているんじゃなくて、
どれもが本当の自分なんですっていうふうに発想するんだよね。
だから分人はあれだよね、分人というか、
分けてるっていうのはさっきで言うと、
仮面かぶってるそれぞれの職場の自分、
家族の自分みたいな、それぞれが分人ってこと?
仮面をかぶってるっていうと、
さっき言った本当の自分がいるんだけれども、
今は違ってるじゃん。
そうじゃなくって、
会社にいるときの本当の自分としての分人Aと、
家族といるときの本当の自分としての分人Bとっていうふうに、
それぞれの自分がちゃんといるっていう感じなんだよね。
ここが多分一番大事なポイントなんだけれども、
分人Aっていうのは、
本来の自分から切り離された自分ではないですと。
それをある種、ごまかして社会に合わせようとしてる自分でもないです。
そうじゃなくって、あくまでも、
例えば会社という場にいる自分というものは、
こういう自分であるっていう、
それは別に本当とか嘘とかっていうのはなく、
それも自分ですっていう話で捉えてほしいんだよね。
なるほど。
なので、イメージで言うとあれなのかな、
例えばナルトじゃないですか、渦巻ナルト。
ちょっと古いかもしれないですけど、
主人公のナルトさんが、いわゆるお箱的に、
多重影分身を使うんですよね。
忍者だからね。
その全てが実体であるみたいな、
そういう影分身を使うんだけれども、
あれは、影分身解けると一人のナルトになるじゃん。
なる。
あれは本当のナルトがいて、
影分身の実装のナルトがいるだから、
これはペルソナっていうふうな発想なのよ。
なるほど。
あれだもんね。
確かにナルトの影分身だと、
あくまで全部実体であるけれども、
解くと消えちゃう。
一つ一つに戻るのでっていうところだよね。
そうそう。
じゃああれは広赤で言うと、
ヴィランでトゥワイスいるじゃん。
いますね。
グバイガオラ。
グバイガオラさんね。
自分を2倍にし続けてすごいことできる人ね。
世界を覆らせられる人ね。
この人お前分身作るけどさ、
分身というか分裂させるけどさ、
全部が全部ちょっとずつ自分と違う人格持っちゃって、
自分を増やしてさ、
家事をやらせる自分、
仕事をやらせる自分みたいにさ、
増やしていった結果自分同士がめっちゃ喧嘩して、
結局人格分裂してやんじゃったみたいなさ、
設定だったと思うけど、
それに近い。
本当にそれだな。
グバイガオラさんは分身だわ。
その家事をさせてる自分も自分だし、
例えば仕事に行かせてる自分も自分で、
家でゴロゴロして、
テレビを見てめっちゃだらけてる、
本当の自分だと思ってるこの自分も自分でもありみたいな。
そうなると結局、
仮にオリジナルのグバイガオラさんがいるとしても、
他の人に絶対吸収されてるはずなんだよね、一部。
お互いにね。
ネットワーク、
グバイガオラさんが10人かいたとしたら、
その10人を指して、
この人がグバイガオラさんですと言わなきゃいけない?
そうだよね。
っていう存在になりますと。
っていうか、なんで普通についてくるの?
知らないでいいでしょ。
ナルトと多分どうなんだろうね。
でも知名度的には一緒?
でも多分ね、
グバイガオラさん結構読まないと出てこないから、
ごめんなさい、我々兄弟が漫画が好きすぎるっていう問題があって、
リスナーさん置いてけぼりにしてる可能性があるんですけど、
すみませんでした。
今の話はすごいまとえていて、
どういうことかっていうと、
その分身、人術の分身っていうものは、
やっぱり本体がいてその人の術です。
でも能力として自分を分裂させる分身じゃなくて、
分裂ってなると、
どっちが主体かってもう分かんなくなる。
オリジナルがいてコピーを作るんじゃなくて、
まさにアメーガみたいな感じで、
細胞分裂しちゃったらどっちが大元かってもう分かんない。
遺伝子レベルでは一緒だから。
だったときに、多分分裂ってそういうことなんだよね。
しかもそれぞれが、さっきネットワークって言ったんだけれども、
その関係性において、
会社だと会社っぽくなるし、
家族だと家族っぽくなるし、
友達だと友達っぽくなるっていうふうなときに、
その環境との相互作用っていうのを含めて、
やっぱり自分なんだっていう発想なんですよ。
だからその分身っていうものは、
それぞれちょっとずつ違うんだけど、
それは本来の自分じゃなくなったじゃなくて、
その環境との相互作用による自分っていうふうに、
ちょっとずつグラデーションがまさに、
ベルクさんはグラデーションって話をしたと思うんだけど、
まさにこの自分のグラデーションっていうのは変わっていって、
それぞれのグラデーションの自分というものが成り立っていくんだみたいな、
そういう発想だと平野さんはしてるんだよね。
わー面白いね。
「分人」モデルと「仮面」モデルの違い、そして自己受容
なので、自分のネットワークが統合できなくなるとか、
異常を起き出すとさっき言ったように、
ドバイガーラさんみたいに精神を崩壊するとか、
もう自分は死んだ方がいいみたいになっちゃうみたいな。
確かにそういう現実でもあるかもしれないよね。
仮面の使い分けが激しすぎたりとか。
ごめん、仮面って言うとベルクさんになっちゃうから。
文人の話っていうよりは使い分けの話。
ペルーさんは普通のね。
でもどっちでもいいんだと思う。
ペルーさんはでもいいし、文人だと起きないか。
これは実は結構大事なところで、
仮面っていうものは本当の自分を隠すから、守るっていう発想もあるのよ。
つまり、例えば自分がものすごいチャラい環境で苦しいことをしているとしても、
それはあくまでも自分の仮面というか、そういうのがあるだけであって、
本当の自分は違うんだみたいな、よくもあるかも逃避ができるわけだよね。
でも逆に文人っていうと、全てが本当の自分だから、
その環境を選んでいる自分も本当の自分だし、
そこでつらいとか苦しいと思っている自分も自分なんだよね。
だからそこに対して守りとか逃避が、よくもあるかもができなくなっちゃうっていう。
なるほど。
これはいいこともあって、例えば、
さっき会社が悪いっていう例ばっか出したけど、
別に社会がダメだって言われてるわけじゃないんだけれども、
ありそうなものとして、例えば職場の文人の自分はつらいけど、
でも友人との自分という文人は心地いいから、
こっちを大事にして職場の方をやり過ごそうとかね、
例えばっていうこともできるようになります。
これが逆に仮面だと、その仮面を付け替えて付け替えてやっているときに、
結局本当の自分が分かんなくなるとか、
どっちも作り棒だから本当の自分は孤独だとかっていうふうになっちゃったりする。
っていうふうに、個人と文人は人間の捉え方とモデルが結構違うんだよね。
なるほど。
うん。
なので結構この辺が面白いというか、いろんな発想につながるなと思ったんだけれども、
さっき言った通り、文人はあくまでも環境との相互作用っていうか、
環境から影響を受けるっていうことが前提なんですよね。
なので文人とは言ってるんだけど、個人よりもむしろ周囲に開かれてるっていうか、
そういう関係性を大事にしてるっていう感じなんだよね。
はいはいはいはい。
うん。ちょっとずつイメージ湧いてきた、この文人のイメージ。
あーとね、そっくの仮面との違い?
うん。
っていう意味での、なんだろうね、これは、
ちなみにごめん、ちょっと質問で返しておいておこう。
あーいいよいいよ。
はやとはインディビジュアルと、個人と文人か、
個人と文人に言うとどっちタイプだったとか、どっちだとかってある?
元々はもう完全に個人タイプだよね。
あーそうなんだ。
人間っていうものは格好とある個を持っていて主体性があり、
それに基づいて生きることが理性的な人間としてのあるべき姿だって思ってたから。
えーと、はやとは仮面被ってる感覚とかあった?
その学校にいるとか、そのコミュニティだったり場所に寄ってみたいな。
基本的にはなかった。高校生ぐらいまでは。
なかった?ほうほうほう。
だから割と自分はそんなに何かを作るとか、着飾る、着飾るっていうのはなんだろうな、
自分をよく見せようとかってものは薄かったと思う。
実際はどうかわかんないけど、自分の中では薄かったかな。
それが大学生になって一人で京都に来たときに、
このままじゃ生きてけないかもって思って、
自分をちゃんと環境に合わせる、関西という環境に合わせるとか。
あーそっかそっか。
そういうところでちょっと変わったって感じかな。
あー面白いね。生活感覚とか方言というか、言葉とかも含めてだけど。
確かにな。それはどっちのイメージが強い?今から言うと仮面と文人。
今で言うとどうなんだろうな。
まだちょっと個人よりかな。個人の自分というもの、本当の自分はあって、
それを環境が変わったから作り変えるみたいな。
結構そういうイメージが強かったかも。
もうちょっと先寄りすると、今の文人という発想よりも、
これはずっと言ってるホワイトヘッドなんだけれども、
やっぱり彼は個体というものというかそういうものってなくって、
基本的にはそれは周囲、環境だけじゃなくて、あらゆる過去のことも含めたものの
関係性のつながりにおいて、現実的存在というものが立ち現れる。
一つ一つ立ち現れてくるという発想なので、
やっぱり僕の発想としても、会社なら会社という自分が立ち上がってくるとか、
家族なら家族という自分が立ち上がってくる。
その時々で自分というものが立ち上がってくるみたいな。
かっことある子というものは逆に存在しないよねみたいな。
結構そこまでガラッと変わっちゃってる感じなんだよね。
保険材の話をするとそういう感じになっちゃってると。
そうそうそうそう。
なるほどね。
だから文人、ちょっとこれ先取り次回言おうと思ったんだけど、文人っていうのも、
やっぱり職場の自分というものをちょっと固定化してる感じがあるから、
今の感覚でいうともっと流動的なんじゃないかとは思ってる。
なるほどなるほど。
ごめんちょっといっぱい言っちゃったけど、どう兄貴の質問には答えられてるかしら。
うーん、答え…。
それで言うと現在地がこの文人通り越し過ぎてて、逆によくわかんなくなったっていうところがあるんだけれども。
でもわかる気がする。演じてるのと、常に自分の一部っていう感覚を持ってるっていう。
これも多分、感覚としては微妙なところっていうか、
頭ではわかるけど、いまいち腑に落ちないなっていう人も多分いるんだろうなとは思うんだけど。
そうだよね。
ただその違いはわかると思う。
自分がまさに変わってきたから、本当にそれはなじむかどうかとか、
そういうモデルを取り入れるかどうかって話だと思うんだけれども、
一番やっぱりコアにあるなと思うのは、さっき言った個人はやっぱり中心にある本当の自分とか、
まさに真と偽、真の自分と偽の自分がいるみたいな、
そういうふうな比較を生み出すっていうところが個人モデルの一番良くないところなんですね。
文人モデルにすると、全部が本当の自分で、そのネットワークっていうもののトータルが、
あえて言うなら本当の自分だけれども、それに別に上下とかはないみたいな感覚。
そういう感覚になっていくから。
変な話、あれじゃあんだろうな。
平野さんが言うのは、やっぱり自分というものを丸ごと全部愛し尽くしなさいとかって結構難しいじゃないですか。
本当の自分がいて、それを愛しなさいとかって難しいと思うんだけれども、
文人で、でもこの友達といる時の自分は好きだなみたいな、
でもこっちのところでちょっと弱気な自分は嫌だなとかっていう時に、
まずこのどっちも本当の自分なんだから、
例えばじゃあまず自分の好きな自分っていうものから始めて、自分と向き合ってみましょうよみたいな、
そういう新しい捉え方ができると思うんだよね。
なるほど、そこは確かに確かに、やっとなんかちょっと見えてきた気がする。
分けるっていうところじゃなくて、本当の自分の捉え方みたいなところが全然違うっていう感じか。
個人だと本当の自分っていないんじゃないかとか、
多分いないよね。
基本的には多分イデアみたいな感じで、たどり着きづらいものになっちゃう感じが。
まあそうだね。これが自分だとか、自分のコアだみたいなものがあるという発想自体が結構問題をはらんでるよね。
確かに確かに。あと、仮面を着けるのは守るって言ったときやけども、
確かに本当の自分以外でいることの方が多いんだから、
基本ストレスを抱える方が多そうだなっていう大変だなって思ったけど、
文人だと全部自分っていうところで行くと、本当の自分探しとか、本当の自分をさらけ出す場所みたいな、
そういう個人っていうのにあった常にストレスをさらされなきゃいけないみたいな、正解にたどり着けない感覚から解放される感じはするね。
やっとなんか見えてきた見えてきた。
「分人」のネットワークと自己の流動性
見えてきた?結構これ役立つ思想だなと思ってて、
例えばその文人っていうものが何にできるかっていうと、文人っていうものって別に一貫性がなくていいんだよね。
つまり、例えば職場ではすごい大人しいけれども、友達と遊びに行くときはめっちゃはっちゃけるって言ったときに、
どっちが本当はアザーのとかって思っちゃったりするじゃん。あるいは本当は元気なんだねみたいなさ。
っていうふうに本当はって思っちゃうんだけれども、それを文人で考えると、
私は自分と距離が遠い人とか、社会的な関係においては別に距離を置きますとか、そんな親しくなりたいと思いません。
でも自分の身内と思えるような仲の良い人たちとか親しい人たちにとっては、
やっぱり過ごすときにはすごく自分のテンションを上げたいですとか、一緒に元気になるってことがすごく好きですっていうふうに。
そういう自分からの距離みたいなものによって別に違っていいじゃんみたいな、そういう発想もできるんだよね。
あー面白いね。確かに確かに。
で、やっぱりそれを自分が得る心地よいとか、どういう自分が好きかとか、どういう自分でいたいかみたいなところの発想とすごく相性がいいから、
そういう人に対してもっと会社でも仲良くした方がいいよとかさ、そんなに元気になったら仕事でもそういうの出したらとかって言いたくなっちゃうかもしれないけど、
それは文人的にはもう余計なお世話ですというか、会社の文人の私はそれなんですっていうふうに言えるみたいな。
そうだね、この環境においては私はこういうふうにしか出力されないよっていうだけっていうね。
そうそうそうそう。っていうようなことがある種自然には確かにそうだよねってなるっていう、そういうパワーを持つ発想コンセプトだなってやっぱ思うんだよね。
なるほどなるほど。あー面白いね。
そうそうそう。だからやっぱりどうしてもね、個人って言っちゃうとさ、じゃあ個人にはやっぱり切り分けるみたいな。
さっきさ、文人ABCとかって言ったときに、なんかそれって本当の自分から切り離されちゃうみたいなさ。
よりちっちゃい文人がいるみたいなさ、やっぱり発想になんか僕も反射がなっちゃったんだけれども、絶対そうじゃないんだよね。
やっぱりその他者との関係でだから、新しい例えばコミュニティに行くとか、全然違う人と出会うとまた新しい文人ができて、
それによって自分という全体、その文人のネットワークとしての自分っていうものもまた揺さぶられるみたいなさ、そういうことが起きるんだよね。
あー面白い。そっかそっか。その新しいコミュニティの文人で完結するんじゃなくて、そこから影響を受けた文人が、
他の文人ABCDっていう自分自身だよね、にまた影響を与えて、しかもそこから影響与えられてまた別、同じ環境でも違う挙動をし始めるかもしれないみたいな。
そっかそっか。そこの相互性がどんどん流れ続けてるんだ。
そうなんだよね。それがまさにネットワークみたいな話だし、グラデーションっていうと、さっき言った社交的というか明るい元気な自分から、
あんまりそっとしておいてほしい人とコミュニティを取らない自分まで、全部が自分の中のグラデーションだっていう話になっていくんだよね。
あー面白いね。確かにさっきの職場の例で言うと、職場で静かな人が飲み会だったりとか、社内イベントとかでめっちゃはっちゃけて、
え、こういう人こんな一面あんの?っていうところで、職場の人にそれを見せてしまったからこそ、
例えばさっきね、「職場でも元気にしなよー!」みたいな意見のお世話だみたいなのがあったけれども、
その自分自身で職場で前よりちょっと明るく振る舞えるようになったとか、振る舞えるようにしたみたいなのも同じだよね。
自分の中のその相互影響というか。
相互作用だね。
作用。で変わる例の一つみたいな感じだよね。
グラデーションの中でちょっと元気寄りとか、はっちゃける寄りに移ったっていうだけで、
だからといって別にこの人が元々元気な人だからそっちに寄ったってことでもないっていう話ね。
で考えると結構やっぱその人の捉え方とか、まさに個人っていう捉え方と文人という捉え方をしたときに、
どっちの方が今の自分にとって役立つんだろうかとか、その人を捉えるときにより有効かみたいな話もできたりすると思うんだよね。
そういう話があるので、今回その文人とは何かっていうところの自分っていう話からちょっとしたんですけれども、
次回にせっかくなのでさっき言った関係性がやっぱりここにはめちゃめちゃ大事というか、もう文人の半分は相手なんだみたいな話もあるんですよ。
そうなんだ。
やっぱりその相手とかどういう風な環境とか人と関わるかってことがやっぱりめちゃめちゃ大事なので、
それを踏まえて次回ですね、それといろんな関係性の中に文人ってどういう風になるのとか、
あとちょうど前回言ったけど、愛するとか恋する、恋人みたいな話だったときに、そのときの文人って何?みたいな。
そういう話もあるんだよね。ちょっと待ってね。
さっきおっしゃった私と何かっていう本にもあるんだけれども、まさにこの第4章とかに愛すること死ぬことって書いてるんだよね。
やっぱり恋愛っていう関係性って、どうやら多くの人にとっては大事だろうというところがあるので、
あと小説家とかってやっぱりね、愛の話とか恋の話とかいろいろあるじゃないですか。
そこを文人って言われるときにどうかみたいな話を結構書いたりするので、そういうこともちょっとお伝えしていきたいなと思ってますという感じですね。
はいはい。面白いね。なるほど。
わかりました。では次回引き続きこの文人の中身を楽しんでいきたいと思います。では引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
40:21

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