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#435 【分人 その2】個性とは?愛とは?分人ならではの感覚に触れてみる
2026-06-28 45:29

#435 【分人 その2】個性とは?愛とは?分人ならではの感覚に触れてみる

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00:11
はい、それ哲ラジオ。今日も始めていきたいと思います。 よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、前回と今回で分人という言葉をテーマにやっているというところでした。
はい、この言葉ですね、前回お伝えした通り、あの平野さんというですね、作家の方かな、語説家の方が言っている言葉でして、
元々ね、前回も話しましたけれども、分人、分ける人の時に、人をある種分割みたいな僕イメージで思っていたんだけれども、
そういうことじゃなかったよね、個人っていうふうな、もう一個、全体と思われているものが、実はそんな個とか本当の私っていうものが中心にあるっていうことじゃなくて、
むしろそう、いろんな自分がいろんな関係する中にいるんだと。 それって、パルソナとか仮面っていうものとは全然違うんだよみたいな、そういう話をね、前回させていただいたかなと思うんですよね。
はいはい、だからいわゆる個人だよね。個人っていうのが、なんかその本当の自分みたいなものがあるんだけど、それを隠しながら、
いろんな場面に応じて仮面を付け替えているみたいなのが普通というか、
一般的なイメージだよね。
イメージ、振る舞いみたいなところで、その分人の方だと、仮面っていうよりはいろんな環境との相互作用だから自分はみたいな、
本当の自分っていうものがあるとかじゃなくて、全部が本当自分だよぐらいの、ちょっとベルクソンの持続に近い観点というか、
頭で見るとちょっとイメージできるかなって、この前収録したと思った感じかな。
そうだね、思ったよりもベルクソンと違う概念を取ろうとしたんだけれども、
実は近かったですみたいな感じで面白いなと思ったんだけれども、
今回はその分人っていうものをもう少し深掘りしてみましょうというか、もうちょっと具体例を挙げて、
分人っていう発想があると、僕らの普段の日常とか世の中のたらやかさっていうのはどう変わるのかなみたいな話とか、
読んだ私とは何かっていう本の中に、愛とは何かとか分人としての愛とか、
あと何で人を殺したらいけないのかみたいな、そういう話を書いてるんですよ。
結構それが面白いなっていうか、結構納得感あるなって思ったので、
その辺で話をしながらと、もう一段この分人っていう発想を掘り下げていこうと思っておりますというのが今回ですね。
03:03
早速いこうと思うんですけど、前回もちょっと話したんですけれども、その分人ってグラデーションなんですよね。
これはベルクソンの時にも結構言ったと思うんですけれども、
要は同じ光でも赤の光と青の光があった時に、赤と青って違うけれども光っていうものは一緒だとか、
っていうものと同じように、その分人っていうものも例えば身近な家族とかすごい大事な人から、
いわゆる初めて会う人までいろんなグラデーションがあるわけなんだよね。
なるほど、あれだよね。だから前回も言ってたけれども、
自分が行く場所、家にいるとか会社にいるとか、通勤中とかさ、いろいろ多分あると思うんだけど、それぞれの話、それぞれがグラデーションになってるよねみたいな話だよね。
大きなところで言うと、やっぱり一つは社会っていうちょっと広いところのグラデーションと、
あとは特定のグループ、それこそ家族とか多いんだけれども、そういうところのグラデーションがあるっていうふうなところをちょっと今日話していきたいと思うんだけれども、
まずこの社会、大きな社会ね。この社会って何かって言うと、いわゆるバスですれ違う、電車で隣になった人とか、あるいはコンビニで買い物をする時の店員さんみたいな時に、
いわゆるこの人たちに自分の本当の姿を伝えたいとかっていうことってほとんど思わないと思うんですよね。
なるほど、そういうシチュエーションの時の私の文人の話みたいなイメージね。
そうそう、その社会という文人というものがいた時に、基本的にはその文人としての自分って割と汎用性が高いというか、そこにいわゆる一般的な個性ってほとんど入ってないと思いますと、
例えばレジで買い物をする時に、めちゃめちゃこの目の前の店員さんを驚かせてやろうとか、何かすごい関係を築いてやろうっていう人ってほとんどいないと思うんだよ、YouTuberぐらいだと思うんだよ、何かやるとしても。
YouTuberだけかもしれないけど、ちょっと目立ちそうだね、そういう人みたいな。
そういう時には、要はある人自分を出してるんじゃなくて、その社会の中の一定の常識とか慣習みたいなもの。レジで物を買う時にはまずは物を渡して、袋いりますかいりませんとかって会話をするとかさ、そういうものを果たしてればOKなわけで、そういう自分というものもいますよねと。
06:09
で、面白いのは、例えばその社会的な文人とかだった時に、やっぱりともにそれが合わないことってあると思いますと。
例えばだけど、よく友人とかもいるんだけど、やっぱりそういう機械的なやり取りが苦手みたいな。
とか、コンビニとかだとこういうふうにすればいいってわかってるんだけど、でも何か聞かれた時にちょっと焦りそうで逆に嫌だみたいなのがあって、セルフレージ使うほうが好きみたいなさ、そういう人もいるなって思うんだよね。
っていう時に、ある種その合わないやり取りがあるとすると、ある種コンビニ、セブンイレブンが合わなかったら別にファミリーマート行ってもいいしとか、コンビニが嫌だったらスーパー行ってもいいしみたいな感じで、結構取り替え可能なわけなんだよね、お互いに。
お店側からしても、どうしてもこの勘の外さに来てもらえると困るってことは多分コンビニにはなくて。もっとちっちゃいプライベートなお店はあるかもしれないけれども、そういうふうな環境と自分の相互性の違いっていうものが社会的な文人でもありますと。
なるほど、そのぐらいのスケール感の時の文人、自分の振る舞いってことね。
それもあるし、文人としての自分だよっていう感じなんだけれども、ここからグラデーションが濃くなっていくと、特定のグループっていうのが出てきますねと。
このグループはいろいろあって、家族もあれば、学校とか職場もあれば、あとは習い事とかもあると思うんだけれども、いろんなコミュニティがありますよね。
そこはコミュニティごとの合わせに常識とか慣習とかがあるから、そこで合う合わないってのがあるんだけれども、社会みたいなものに比べると、ちょっと特価引きが難しい。
例えば学校に合わない時に、今だったら少し転校するかとか、フリースクールとかいろんな選択肢はあるけれども、やっぱりそんなコンビニを買えるぐらい簡単には買えられなかったりするじゃないですか。
職場もそうだよね。なのでこういう風になっていくと、より自分の文人と環境ってものをどう合わせるかとか、どういう風にその場で過ごしやすくするかってことがより大事になってくるみたいなこともあるし、
あとは当然ね、いわゆる特定の相手、例えばその場っていうだけじゃなくて、カンノハヤドさんがカンノキョウスケさんに見せる文人とか、奥さんに見せる文人とか、そういうものがあるんだよね。
09:04
なんてなると、やっぱりこの文人っていうものは割と取り替えがきかないというか、よくね、これ前回も言ったことあると思うんだけど、学校でさ、よく笑い話だと思うんだけど、先生のことをお母さんって呼んじゃうみたいな、なんかね、すごい恥ずかしいってあると思うんだけれども、それも本来学校とか先生に見せる自分と親に見せる自分って違うはずなんだよね。
でもなんかそれを家のものを出してしまったときに、間違えたとか恥ずかしいとか、見られちゃったみたいな、そういうのがあるのって、やっぱりそういう自分の文人、本来見せるべきでない文人を見せてしまったみたいな、多分そういうふうな形で捉えられると思うんだよね。
なるほど、なるほど。面白いね。もうちょっと恥ずかしさみたいな。
この前も、うちの子供が家に帰ってきてさ、しばらく経ってからふちに会話してたら、先生って言ってたもんね。
まさにだね。
誰だよみたいな。
まあ安心するけど、安心というかね、学校でちゃんと先生と仲良くできてるのかなっていう意味ではね、ほっこりしたけれども。
なんかしまった、やっちゃったみたいな感じだった?
なんかちょっとニヤリとしてたね。ちょっと恥ずかしそうだった。
確かにね、子供の。
小学1年生なりに。
はいはいはい、なんかイメージ湧くけど。
まさにそういう子供のことって、まさに今の文人っていうものがちょっと違うところに出ちゃったとか、違うチューニングになっちゃったみたいな、そういう話だと思うんだよね。
ここでやっぱり大事なのが、いわゆる僕らはそういう文人を意識して、これは家族用とか、これは社会用とかっていうふうに分けてる部分もあるとは思うんだけれども、
あくまでも出来上がった後の話で、そういう自分が出来上がるっていうのは、やっぱりまさに言ったら相互作用。
自動的に要は、こういう社会から自分を作り上げてやろうっていうのはかなり努力が必要で、その前提になる文人としての自分っていうのは結構立ち上がってくるというか、勝手に出来上がっていくものって感じなんだよね。
なるほど。
もっと言うと、文人の半分は相手で出来てますよね。バファリンの半分は優しさみたいな感じじゃないけれども、文人っていうのは相手とか社会とか、そういうものなくしては成り立たないんですというものがこの発想の根幹にあるわけなんだよね。
はいはいはい。
前回の復習でもあるんだけれども、じゃあねと、僕らは一人の人間として生きてると思っている時に、さっきもちょっと出たんだけど、個性みたいな話があるわけだよね。
12:08
おー、はいはいはい。
要はカンノハヤトさんらしさとか、カンノキョウスケさんらしさっていうものは多分あるじゃないですか。
でもそうすると文人って言ったら全部やっぱり違う自分がいてさ、その時々で家族とのカンノハヤト、社会でのカンノハヤトがいるような、そういうイメージになるんじゃない?
そうだね、確かに前回の仮面、ペルソナと文人って言っても同じじゃないみたいなね、言葉の違いだけじゃないみたいな風にも捉えられるもんね。
そうそうそう。言った時に、やっぱり個人っていうものもとても大事だよねっていう話の中で、文人としての個性っていう話もするんですよ。
これもすごく分かりやすいんだけれども、グラデーションなので、いわゆる比率みたいな感じで考えてみませんかっていう話なんだよね。
例えば、カンノハヤトって人間のエングラフがあったとして、例えば家族といる時の文人が例えば30%とか、
職場との文人も30%で、趣味の文人が例えば10%とかっていう風にした時に、そういうこのエングラフの構成比がその人の個性なんだっていう風な発想をするんですよ。
例えば同じ家族に対する文人がいるとしても、例えばカンノハヤトさんは30%だけど、キョウスケさんは例えば50%ですってなった時に、
同じ家族との関係性の中でもそれを自分の中でどのくらい占めてるかっていうことが、その人の個性につながっていくんだっていう風な考え方をするんだよね。
この比率ってたぶん全く同じ人ってほとんどいないだろうから、15.555%とかってやっていくと。
やっぱり自分がどういう風に社会とのつながりを作っているのかとか、どのくらい時間とか心理的なリソースっていうものを割いているのかっていう、そのトータルがその人の個性なんだっていう風な話をするんだよね。
うーん、個性か。なるほどね。
こういう発想ってちっくりくるかな?
そうだね。個性って言われると確かにそういうパラメーターだと確かにわかりやすいかなっていうふうに思ったね。
だから個性、例えば旗から見たときのあの人の個性はこうだねとか、こういうふうに見えるねみたいなのはすごいわかりやすいなって思った一方で、
15:01
これちょっとうまく言葉にできるかわかんないんだけれども、その個性なのかその人の本質みたいなものって言っていいのかわかんないんだけど、
なんだろうね、そういうさ、パラメーターじゃなくて、そういう文人でいるじゃん。いろんな文人がいるというか文人であるシチュエーションがあると思うんだけど、
いろんな文人として外部の環境と関わるときに、その外部環境っていうインプットに対してどういう処理をしてどういうアウトプットをするか、もしくはどういうふうに自分が感じるかみたいなもののフィルター部分というか、
その芯みたいなものが個性だったりとか本質じゃないかなっていう部分を一方で自分はなんか感じるというか、
だからその観点で言うと今の個性、エンガラフは少し自分が思う、自分フィルターみたいなものが抜けちゃった外側の、その人のちょっと外側を見過ぎてる感じはあるのかなみたいな意味で個性、
肌から見たときのその人の雰囲気みたいな意味ではいいかなと思ったっていう感じかな、ちょっと伝わる、ちょっとうまく言葉にできてるかな。
例えば今の兄貴の話を少し広大に翻訳すると、例えば双子がいますと、全く同じ環境で育ったとしても違う人間になることってありますねというときに、
多分その外との関係性はもしかしたら双子って近いかもしれないけど、その物事の受け取り方とか、どこにやっぱりアンテナが立つかっていうことがちょっと違うと、当然その人の人格だったりとか、まさにそういう人と会えて変わるよねっていうこと?
ちょっと違う?
うん、ちょっと違うと思う。
そうじゃないな、例えば祭りに行ったときに双子が祭りに行って、盆踊りの場に加わるかどうかみたいなことがあったときに、2人とも加わってますと。
2人ともめっちゃ楽しそうに踊ってると。
ただその片方はマジで楽しんでる。
片方はちゃんと場の空気を壊さないって方をすごく大事にしている。
だからめっちゃ踊ってることがあると。
18:01
そういうときに、端から見たときの感じは一緒なのに中身は違うというか、反応が違うみたいなことがあったときに、それをいろんな文人としていろんなシチュエーションになると、
自分の環境に対する決まったものがあるじゃん。
場を壊さないとか、もしくは自分が楽しいと思ったものをやる。
だから同じ双子が別のイベントに行ったときに、片方の場の空気を大切にする方がめっちゃ盛り上がってて、
本当に楽しいと思うことしかやらない方はスンってしてるかもしれないみたいな。
そういうのがちょっと消えちゃう感じがしたみたいなイメージかな。
なるほどね。
たぶんそれは面白いというか、文人という発想は前回お伝えした通り、中心にある自分みたいなものとか、本当の自分というものは省きますと。
兄貴のもそれはないんだけれども、でもたぶん社会と関わるときとか、そこで何かね、さっき言ったら盆踊りとかをしてるときに感じることとか、あるいは処理していることが違うんじゃないか。
そこの処理をするっていう働きにこそ、自分というものが現れるんじゃないかみたいな、そういう話かな。
そうだねそうだね。その結果としての文人みたいなもの?
はいはい。
でもそういう意味では一緒なのか、どうなんだろう。
おそらくどこに焦点を当てるかとか、どの切り口から話すかかなと思います。
この後まさに、最初お伝えした愛とか、人を殺すのがなぜダメかみたいな、そういう話をするので、その辺も聞いてみたときに、兄貴の今の感覚が変わるかどうかっていうのを聞いてみたいなって思ったから。
ありがとうございます。ごめんね、うまく言葉にできなかったんだけれども。
でもたぶんこれは、ちょっと次回の先取りでもあるんだけれども、次回フロイト笑うと思ってるんですよ。精神分析のフロイトさんね。
で、まさかとその根底にあるテーマとしては、私とは何かとか、まさに今回取り上げた本のタイトルでもあるけれども、
自分とか人間っていうものを捉え方が、19世紀20世紀どう変わってきたのかみたいな、そういう話をしようかなと思ってるんですよね。
21:00
今年は20世紀の哲学っていうものを頑張ってやりたいですっていう話をしたと思うんだけれども、
この100年くらいで人間の捉え方とか、そういったものがめちゃめちゃ変わってるなって改めて思ってるのよ。
僕らはそれを当たり前のようにして、人間ってこうだよね、自分ってこうだよねって言ってるんだけど、
その捉え方もこの150年くらいじゃん、みたいなことを思った時に、いろいろ見えてくるものがあるんじゃないかなって思ってるんだよね、自分の中で。
なるほどね。今言葉にしてみて、ハヤトと話して思ったというか、もうさっきの前言撤回ぐらいの感じになってたんですけど。
早いな。
確かにそうだよね。自分っていうものがあるから、いろんな環境からのインプットに対してこういうふうなアウトプットをしていくのだ、みたいに思ったけど。
元があるから、自分があるからそういうふうにするんだ、みたいに思ったけれども、逆も近いかもな、みたいなね。
自分ってものがないというか、やっぱり捉えられなくて、いろんな環境に対して、自分こういう時はこうやってアウトプットするんだ、こういう時はこうやってアウトプットするんだっていう、
ケーススタディから自分っていうものが映し出されるというか、浮かび上がるみたいな。そう考えたら納得かなって、勝手に納得しちゃったんですよ。
もう着地した。
はめ打ちありがとう。
どういたしまして。
でもね、本当それが面白くて、文字の話に戻るけれども、円グラフとかそういった割合っていう話をすると何がいいのかっていうと、
要はこれを変えれば、いろんな人生の物事も変わりますねっていうのは、そういう発想で自分でも捉えられますねと。
例えばさっき家族で30で仕事30とかって言ったけれども、例えば家族1の人がいますと、仕事99の人がいたときに、本人はそれでいいって思ってたとしても、
でもなんかもうちょっと家族の時間が欲しいなとか、本当にこれでいいんだっけって思う時があったとしますと。
そういう人がね。
そうしたときに、せめてその1、今あなたは1ですよ、家族。
文人としてね。
その文人、家族1としての文人をせめて10ぐらいしませんかみたいな。
そうするとその人の中で、要は自分を変えるっていうよりも、自分の中でのリソースとかパフォーマンスの作り方として、家族という文人の自分っていうものを大事にしようとか、
24:09
エロゲーをとか、そういうふうな発想ができるわけだよね。
なるほどね。
そういうふうにすると、やっぱり哲学者っていうよりはそういった小説家っていうかね、より人に深く向き合う人だから、やっぱりそういうふうな実用的なというか、
そういうふうにすると自分っていうものをもっと大事にできるんじゃないか。
あるいは自分と関係性だよね。家族との関係とか、世界との関係でも大事にできるんじゃないかみたいな、そういう発想を持ってらっしゃるんですよ。
こういうふうなものを使うことで、より良い自分になっていきましょう。より良い人生をある種幸せにしていきましょうという話をしていくんだけれども、
ある種、こういった自分という捉え方、文人という捉え方をすることで、結構人として根本にある愛っていう概念だったりとか、
あとは倫理だよね。人を殺すって基本的にはどの社会でもダメだと思うんだけど、
その殺人状に対しても新しい捉え方ができるんじゃないかっていう話をしてて、これが結構面白かったんで、ぜひ紹介してみたいなと思ってたんですよね。
どうなんだ?
まず愛についてっていう話なんだけれども、僕らは普通愛っていうものを、例えば誰かを好きになる、好きというか、自分が相手のことを好きになる、そういうふうな感情だと思うじゃないですか。
大切にするみたいなね。
あくまでも自分というものがあって、特定の誰かにそれを渡すとか与えるみたいな、そういうふうなイメージだと思うんですよね。
でもそこに対して文人主義っていうのは関係性っていうものを持ち込むんで、ちょっと変わるんですよと。
ある定義というか一言で言うと、要は特定の誰かといる、その時の文人としての自分が好きだっていう、こういう状態を愛だと捉えてみませんかっていうふうに言うんだよね。
おー、すごいわかりやすい。
Aさんって言った時に自分はすごく明るくて、楽しくて、すごくハッピーなんだと。
そういうふうな状態の自分がすごく好きだとすると、これを引き出してくれるAさんのことが好きみたいな、これってもう分けられないんだよね、自分であることとAさんがいるということが。
っていうなると、この文人っていうものの愛は、誰か特定の人に対してその人が好きとか、その人を対象にするんじゃなくて、その人のおかげで自分も好きだとか、自分自身も楽しいんだって、この両方のプロセスっていうのは大事なんだっていう、そういうふうな発想をするんですよ。
27:14
おー、すごいね。めっちゃイメージ湧いた。
そうそうそう。これ結構面白いよね。
面白い面白い。
ちなみにこれちょっと余談だけどさ、今さ、それって言ったフォーラムのほうで、みんなで愛について考えて、それぞれ作品を作ってみようみたいな、そういうのやってるじゃないですか。
はいはいはい。
コミュニティのほうで。で、実はちょっと僕が思ってたのが、その愛についてっていろいろ思ったときに、自分は果たして奥さんを愛しているのか。
はいはいはいはい。
実は奥さんを愛しているんじゃなくて、奥さんと歩む人生を愛しているんじゃないかっていうことを考えとしたのね。
おー、なるほどね。はいはい。
で、文字読んでたら出てきたから、もう書いてるわと思って。
創作の目が潰された。
そう、じゃあこの方向してダメだみたいな。もう答え出ちゃったみたいな。
なんか、創作期間中は外部からの情報を遮断するみたいな。
はいはい。だから作家さんが山にこもるとかそういうことなんだろうけどね。
だからそれは多分、僕なんかちょっと別の方向を考えなきゃいけないんだけれども、
まさにそういう、誰かのことが好きでは、結構聞かれるのよ。
かんのくんって誰か愛を感じたことある?とかさ、誰かを愛したことある?みたいな。
言われると、そんなめちゃめちゃ愛したとかないと思うけど、みたいな思ってたんだけど。
でもやっぱその、奥さんといる時間が好きだとか好ましいとか愛おしいとか、
家族ね、子供が増えたとき、そういうのがあったときに、
それが愛なんだっていうのは結構、自分の中でもスッと腹落ちしたんだよね。
はいはいはいはい。
なので、こういう文人的な愛っていうものもいいんじゃないかと思ったんだけれども、
どうかこういう発想って、結構兄貴も分かるって言ってくれたけどどうかな?
いやすごく分かるよね。面白い面白い。
愛って何?みたいなことを考えるとして、確かに漠然としちゃうもんね。
お互いを大切にする、みたいな感じがあったけれども、
そうはね、その人と一緒にいるときというか、
そういう人と関わっているときの文人としての自分がどんだけ生き生きしてるかみたいな話。
ただ、そうすると、一方通行だったらちょっと切ないけど、
だからそれは愛というのだろうかみたいなのはあるけれども、
30:01
可能性としてはすごい良いイメージだなと思ったね。
もちろんね、愛の中でドロドロした愛とか、苦しい愛とかいろんなものもあるから、
必ずしもそれが自分をハッピーにするだけじゃないかもしれないけれども、
一個の考え方として、関係性の中でより自分が豊かになるとか、
そういう発想を愛と捉えた方がいいんじゃないかって、すごく面白いなって思うんだよね。
面白いね。それが愛じゃなくても、確かにいろんなものに使えるかもしれないね、感情。
っていう中で、やっぱり関係性としての愛みたいな話はあるんだけれども、
もう一個ちょっと違う話で、さっき言った人を殺す、殺人だよね。
ちょっとネガティブな方も考えてみたいんだけれども、
逆に、人を殺すのはなんでダメですかって、よくさ、倫理な問いとかであると思うんだけれども、
これちょっと兄貴が聞かれたら、なんて答えれそう?今のお兄さんだったら。
今の感覚、その愛の話を踏まえると、
それは人を殺してるんじゃなくて、その分人を殺してることになるから、
半分自殺してるよね、その15%分みたいな、そういう感覚かな。
なるほどね。面白いというか、いいなって思うんだけれども、
まさに、通常個人という発想からすると、
一人の人を殺すっていうのは1です。
これはベルクソンのまさに空間化だと思うんだけれども、
だから、例えば一人殺すのも一人殺す以上なんだよね。
なるほど、そっちの視点か。
でも分人だとしますと、その人それぞれ殺した相手がね、分人だとすると、
そのAさんの周囲にいる人との関係性における分人全部を殺してます。
あー、はいはいはい。
つまり、例えば僕が殺されたとしたときに、カンノハヤトさんが死んだじゃなくて、
奥さんにとっての分人としてのカンノハヤトさんも死ぬし、
子供にとっても、職場にとっても、
そういう人、あるいはこれから関係性を持つかもしれなかった、
未来のカンノハヤトさんの分人というものも全部殺してるんです。
つまり、誰か一人がいなくなるってことは、
その存在、効果がなくなるんじゃなくて、関係性がなくなっていくってことによって、
本当はもっと社会的なことだし、
その残された人にとっても、ただその人を失って悲しいじゃなくて、
33:00
その人が作り上げてきた分人としての自分っていうものが失われるっていう意味で、
やっぱりすごく多層的なものなんだっていうのを発想するんだよね。
なるほど。
うん。
これ結構すごい、なるほどな、すごいこと言ってるなって思ったんだけれども、
赤に消えてくれた通り、誰かを殺す、相手を殺すってことは、
その相手と関係性を作れるかもしれなかった自分の可能性とか、
はいはいはい。
まさに自分の分人を殺すっていうのは、確かに自殺なんだよね。
いやー、もう含まれるよね。
含まれるし、演グラフだとすると、
その相手にとっては自分が5%だったとして、
残りの95%のいろんなものもまとめて消滅させちゃうっていう恐ろしい罪というか、
なんだろうね、まあそうだね、恐ろしい罪なんだね。
そうなんですよ。
だから、もちろん殺人にも親しい人を殺すことから、
全く無関係の人を殺すこともいろいろ様々あるけれども、
だからどっちがいいとか悪いとかももちろんなくて、
自分に関係ない、全く分子の気づいてない人なら殺していいかって、
もちろんそんなこともないわけだよね。
確かに最初自分が答えたさ、自分も自分の分人も殺しちゃうからみたいな話で言うと、
自分にとってはほぼゼロみたいな、相手殺せばいいじゃんみたいになっちゃうもんね、確かに。
でも実際あるじゃない、インタビューとかでさ、誰でもよかったとかさ、
むしろ関係ない人をある種狙ったみたいなことがあった時に、
それは多分その人からすると、
自分とはまさに無関係の分人を持たない相手をむしろ選んでたってことだと思うんだよね。
だから余計怒りが湧いてくるね、自分勝手さんで。
そうそう、そういう風になるので、
このまさにグラデーション、同じ人を愛するとか人を殺すっていうような色んな概念に対しても、
分人っていうふうに、人っていうものの捉え方を変えることによって、
そんなにも視点が変わるんだとか捉え方が変わるんだっていうふうなことで、
すごく意義がある発想だなって思うんだよね。
そうだね、何で人を殺しちゃダメなの?っていう時に、
すごい納得性の高い答えの一つというか、だいぶいいなと思ったよ。
もちろんそれを聞いても、そんなの知らないよと。
俺の社会は俺の社会であって、
何で亡くなった奴の周りにいる家族なのか知らないという人もいると思うんだけど、
そこまでいくともっと根本的な倫理観の話になるから、
36:05
おそらく通常の社会的な社交性とか、
一般社会の中で生きる自分っていうものを持っている人であれば、
確かに一人を殺すっていうことは、一人の人だけがいなくなるんじゃなくて、
周囲への影響もあるよねとか、
逆に一人を愛するっていうことは、その人の周りにいる人だよね。
例えば結婚とかもそうだけれども、
相手にも親がいたり、大事な人がいたりした時に、
その関係性を丸ごと愛するっていうことに繋がってると思うんだよね。
おー、なるほど。
その相手だけを愛するってやっぱり難しくて、
だから格闘するわけじゃん。相手と親の関係が悪いとかっていう時に、
その関係性を丸ごと引き受けるのかみたいな話もあるし、
最近はそれが嫌だから、もう親とか関係なく絶縁状態で、
分離したってプラスってこともあると思うんだけれども、
本来は相手を愛するっていうことは、
多分相手を取り巻く関係性を進めて、
自分に引き受けるってことになるから、
一対一だけでもないんだよね。
みたいな発想をすると、
やっぱり人を愛するってめんどくさいなって思うのか、
やっぱりそのぐらい繋がりがある素敵なことだなって思うのか、
これは多分人それぞれだと思うんだが、
文人っていう発想がそこまで広がっていくんじゃないかなって思うんだよね。
すごいね。だいぶイメージがあることで、
本当に広がりが出るね。
改めて言うと、前回と今回でお伝えしたかったことって、
文人っていう発想がすごく面白いねって話もそうなんだけれども、
その捉え方をすることで、
ここまで愛とか人を殺すっていう、
そういった人にまつわる概念っていうものも変わるし、
いろんな新しい視点が得られるし、
そういうふうに視点を拡張してくれる。
物を見方とか捉え方が広がるようなものなんだよなっていうことを、
改めてお伝えしたかったんですね。
やっぱりこういった発想ってすごく大事だなって思うし、
それを知ることで自分のまさに人間感とか世界観が広がっていく。
これがベルクソンからつながる、
もともとベルクソンで空間語とかグラデーションとか、
いろんなことをやったからこそ、
多分今回の文人っていうものもちょっと理解しやすかったりとか、
スッと入ってきやすかったりするところがあるんじゃないかなって思うんだよね。
そうだね。
39:01
途中、エングラフのところで一回ちょっと疑問をペンしたけれども、
確かに前回のベルクソンの話から言っても、
自分があるから、
いろんなシチュエーションでそういうふうに反応する文人がいるのだみたいなさ、
話ってちょっと空間化されてるな、してるかなって、
むしろ思ってきたね。
ベルクソンもそうだったもんね。
人間がいて、生命があるじゃなくて、
生命の躍動があって人間がいて、現在があるみたいなさ、
という感じだったけど、
それと同じで、自分がいるから文人がいるんじゃなくて、
文人っていうものを通じて自分が浮かび上がってくるぐらいの順番。
そこについても相互作用だぐらいの感じ。
っていう感覚が、この文人っていう今回のイメージがあったからこそ、
個性とは何かとかさ、
そういうところも考えさせられたというかね、
刺激されたなって感じがあるね。
そうだね。それが伝わるとすごく嬉しいなと。
それが伝わっているとすごく嬉しいなと思うし、
あえて言うと、ベルクソンが多分この話を聞くと、
そもそもエングラフなんか考えるなって言うはずなんだよね。
それも空間化だってことね。
そうそうそう。通知化空間化だから。
それは常に揺れ動いているし、
そもそも文人、個人に対する文人っていう捉え方はすごく素敵なんだけれども、
全部その瞬間瞬間に生きているものが自分であると。
ベルクソンが多分考えるとね。
それが家族といる時の自分、
職場にいる時の自分、コンビニ店員さんという時の自分っていう風に、
それすらも別に分ける必要はない。
そしたらそれが全部自分のからっていう、
多分そういう話になるんだけれども、
やっぱりそれって分かりにくいし、
どう捉えたらいいのっていうところをまさにうまく表現してくれている。
あえてグラフって発想することによって分かりやすいし、
でもそのグラフっていうのは別に変わっていくんだと。
別に常に家族15%とかじゃなくて、
今日は20%だとか、今日も90%土曜日だからとか、
そういう方々がいろんなことがある中で、
まさに私という人間が生きているっていうことがすごくあり得るなって思うんだよね。
面白いね。
個人主義みたいなさ、
個人は大事だ、個性が大事だみたいなさ、
42:02
いろいろあるけれどもその捉え方一つとってもこんなに違うんだなというかね、
広がりがあるんだなみたいなのは面白いね。
そうそうそう。
だから、もしその文人主義の言葉で言うと、
個性を大事にしましょう。
だから人と関わるんですっていう、
多分それが自然になるはずなんだよね。
文人主義っていうのもあるの?
個人主義に対する文人主義。
まさに今回の話?
本当今回の話です。
寺尾さんが言っていること。
個人主義っていう言葉を聞くけれども、
ちゃんとこの文人という概念で文人主義というふうに定義してるんだ。
定義してというか、
そういうふうに言えるよねっていう感じかな、対比として。
そうなんだ。
だから普通は個人で言うと個性を大事にしましょう。
だからあなた自身のことに目を向けましょうとかさ、
あなたという人間を深掘りしましょうなんだけど、
それだけが文人の発想としては足りなくて、
あなたが誰と生きているかに目を向けましょうとか、
どんな人いるときに一番自分らしいと思うかという
相手のことを想像してみましょうとか、
そういうふうになるんだと思うんだよね。
面白いね。
そういうところがありました。
そういうところで、前回と今回は文人という話をさせていただきました。
そういうところですね。
ちょうどいい、あれだね。
ちょうどいいというと失礼だけどさ、
箸休めになったね。
箸休めというとちょっと申し訳ないけれども、
いわゆるマルクスやってミルやってベルクスやってって、
重たい、分かんないよっていうところから、
それを使って理解できるとか、
それを応用すると分かりやすいみたいなものとして、
すごい本当に、ある種ありがたいテーマだったなと思って。
そうだね、すごく自分ごとだったりとか、
ふざわり感のあるところに、これまで話してきたベルクソンだったりの、
形にして触れるっていう感じで、すごい楽しかったね。
よかったよかった。
僕もまさかこんな風に重なると思ってなかったんだけれども、
あるいは重なるように読んじゃってる部分もあると思うんだけれども、
今回2回分挟んだことで、よりイメージが膨らんだかなと思いますし、
あと、さっきとお伝えしたけど、
次回はフロイトを取ろうと思いますが、
雑談挟まずにそのままフロイトに行こうと思うんですけど、
この私とか自分っていうもの、人間という大きな括りじゃなくて、
いわゆる自分だねっていうものに対する捉え方とか、
そういったものがフロイトっていうところがかなり影響してたっていうのがあるので、
哲学者ではないんだけれども、
45:00
やっぱり20世紀にめちゃめちゃ影響を与えて、
我々にまで届いてるっていう、
そういう意味でのフロイトさんを取り上げようと思ってます。
っていう風な感じですね。
はい、わかりました。
次回ですね、フロイトに入っていくというところで楽しんでいきたいと思います。
では、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
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