00:11
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、前回から日本の思想編ということだったんですけれども、前回はそもそも日本の資料とか、歴史的なものが少ないよっていう話と、
あと、どこの国にも言えるけれども、そもそも日本という国じゃなかったよね、みたいな話があったので、その中で日本の歴史も踏まえながら見ていけたらね、というような話でした。
そうですね。今回に関してはですね、とにかくできる限り古いというか、遡って、たどるところをたどってみて、というような話があって、
時代的には弥生から古墳時代ぐらい、前回の話でいくと紀元前後ぐらいから、紀元後3、400年ぐらいと思っていただきたいんですけれども、
当時の人たちがどんなことを考えたってもわかんないんで、やっぱりね、文字とか何かが残ってるわけじゃないんで、
あくまでもその後の時代で比較したときに、こんな特徴があったんじゃなかろうかね、みたいな、そういうふうな研究というか論文があったんで、
それを読みながら、ちょっと皆さんにもお届けしようと思ってますっていう感じですね。
じゃあ、縄文時代に、例えば1万年前ぐらいに、なんとかさんっていう呪術師がいて、こういうことをしてたとか、そういうのはないんだね。
ないね。一切残ってないみたいな。
あくまでもその弥生医みたいな話なんですけど、やっぱりその話のもとにしてるのが、田中玄さんという教授の方がいらっしゃって、哲学の教授の方なんですけど、
結構前ですが、1968年に書いた、古代日本思想の構造っていう論文が引っかかりまして。
いいね。
まさにみたいな。これGoogleで検索して出てくるんで、もし興味あれば読んでいただければと思うんですけど、すごい興味深いことが、教授の論文読んで興味深いですよね。
慣れたよみたいな感じだった。
ちょっと上からだけど。
でもすごい面白かったんで、参考にしてみましたよと。
そこから60年くらい経ってるんで、もちろん最新の研究とか、今は平日はこうだとかってあるのかもしれないんですけど、それも使い切れなかった部分もあったんで、まずはこれをもとにお話ししていきますよと。
03:03
もし今の時代はこっちが修理ですとかって知ってる方がいれば、ぜひ教えていただけたら嬉しいなとは思ってるんですけど。
イメージは仏教伝来前みたいな、日本の思想、日本人の思想ってどうなんやねんっていう話をお伝えしていくんですけど。
いきなり本題入るんだけど、当時、1968年の通説みたいな感じとして言われているのが、
古代の日本人っていうのは、いわゆる楽天的で、皇帝的な性格で、現実主義的だったみたいな話があったらしいんですよね。
先生が論文を書いていたときの一般論としてあった。
田中先生はそれを批判しようとして書くわけなんだけど、通説としてはこういうのがあるから、でもそれは違うんじゃないかっていう話をしていくわけなんだよね。
楽天的とか皇帝的っていう根拠はっていう話でいくと、これもめちゃめちゃ何かがあるっていうよりは、
日本の気候って元来穏やかじゃないですかと。四季もあって、美しい景色に囲まれて過ごしている日本人だよねみたいなのがあって、
アニミズム的なものがあったよねっていうのはなんとなくあるんで、
自然進行をしているとしたら、日々を謳歌するような自然と触れ合う生活をしてたんじゃないかみたいな、そういうふうな発想があったらしいんですよね。
なるほど。
ピュアな感じだけど。
確かに砂漠みたいに水を飲むのも人苦労だとか、あとはね、もっと熱帯とかみたいに暑くて、人が住めることじゃないとわからないけど、生活も苦労するみたいな。
食べ物とかあるかもしれないけど、その分動物も強いし、病気も出るしみたいな。
そことかに比べれば、日本って過ごしやすいし、気質も穏やかになるんじゃないみたいな、そんなふうな発想があったらしいんですよね。
なるほどなるほど。
または当然ね、それって本当かとか、説得力あるんですかみたいな話で考えてみると、もちろんそうじゃないよねと。それだけじゃもちろんなんとも言えないよねと。
そう、なんとも言えないね。
そうそうそう。っていうのはあるんで、もちろん疑問だよねってあるし、何より当時の人がどう暮らしてたか。
06:00
自然は確かにそういう四季折々豊かかもしれないけど、その中でどんなふうに人たちって暮らしてたんだろうねっていうところに全然思いが至ってないじゃないかってことを考えるんですよね。
はいはい、確かにそうだよね。何作って何食べてみたいなね。
そうそうそう。
そういうとこがあるんで、ある種、歴史的なというか、土器とかも含めて出土したものから想像できる当時の人の暮らしをもうちょっと考えるときに、
その当時の人たちの考え方とか性質みたいなもので、もうちょっと考えるんじゃね?とかいうことを言っていきますよ。
うんうんうん。
そういうのがこの論文の大きな流れなんだけど、
当然その弥生時代のことを考えてみると、それまでの縄文時代、いわゆる移動をして狩猟をしてみたいな話から、定住して農業へみたいなのが大きく言われてるわけなんですよね。
うんうん。
もっと言うと農業の中でも稲作、だからお米だよね、が使われてくるんだけど、
稲作の技術自体はやっぱり中国から入ってきて、日本で定着してきますって感じなんだけど、
日本では勝手に使われたっていうよりはね。
そうなんだね。
そうそうそう。
で、それがやっぱり広まっていくと、やっぱり山とか森とかじゃなくて、水がどうしても必要になってくるんで、やっぱり川とか湖の近くにどんどん住処を移していきますよと。
はいはいはい。
っていう感じで変わってくるんだけど、もし聞いてる農家の方とかね、稲作やったことあるよっていう方がいたら、多分僕らも詳しいと思うんだけど、
水があれば稲が育つかっていうと、当然そんなことはないわけなんですよね。
うんうんうん。
うん、当然田んぼに水が張るみたいなイメージである方も多いと思うんですけど、
そうすると結局間にあぜ道とかを作ってさ、水が流れないようにちゃんと区分けするとかさ、
もちろん今みたいに綺麗な感じじゃないとしても、そういうふうなことをちゃんと土地に対して、地面に対してやっぱり手を入れなきゃいけないわけですよね。
はいはいはいはい。
そういう遺跡とか出てるらしくって、
うんうんうん。
ただその土を盛るだけでもダメで、なんかその木の板をちゃんと敷いていわゆる整地をするみたいなこととか、
そういうことも当時の人やってたんじゃねえかっていうふうな話があるらしいんだよね。
はいはいはい。
うん、なので、よしじゃあ米作るべって、なんか田植えをするぞとかっていうことじゃなくって、
まずその木を切ってきて、なんか丸太にして、なんか板に加工をして、なんかその田んぼの形を作って、みたいな。
09:03
で、そこから水も引っ張ってきてとかっていうふうに、やっぱ全然楽じゃないわけですよね。
あーなるほど。かなりいろんな技術の応用というか組み合わせではあるんだね。
そうそうそうそうそうそう。
はいはい。
なんかそれまではね、うさぎなのかイノシシなのか、倒したら止めれるみたいな感じだったのがさ、
で、稲植える前にまず木を切んなきゃいけないみたいな。
うんうんうん。
うん、っていうところになって、まあ結構なんだろうな、当然こう、そんな穏やかとか言ってらんねえですよみたいな話もするし、
まあ当然ね、じゃあ植えて、まあ米が出てからも、その水分はね、ちゃんと増設しなきゃいけないし、水の量はね、
いけないし、雑草も生えてくるから抜かなきゃいけないし、
まあ鳥とかね、動物に食べられないように世話しなきゃいけないし、みたいな感じで、
でまあね、当然大変だし、でしかもその中でも台風とか来ちゃってさ、えこそぎ倒されちゃったらもうダメになるわけじゃないですか。
うん、まあそうだね、洪水とかでもダメだよね、水浸しとかね。
そうそうそうそう、水浸しとかね。
うん。
ってなっちゃうんで、まあまあ、なんだ、そんな穏やかに生きてるとかじゃねえぞみたいな話もあるわけなんですよね。
なるほど。
うん。
ほらあの、さつまいもとかじゃがいもとは違うんだぞと。
そうそうそう、なんかね、地面からほいって抜けるわけで、まあもちろんね、そっちは大変だと思うんだけど、そっちは。
うんうんうん。
まあね、やっぱり稲とかお米って大変ですよと。
うんうんうん。
いうときに、その田中先生が考えるのが、いやその、自然がね豊かだからいいっていうのはもちろんあるんだけど、
豊かだからこそ、当然雑草とかも生えるし、虫とかも生くし、動物も生えるしみたいな感じで、やっぱりこうなんだろう、問題も起きるし、
かつやっぱり、自然が豊かだからこそそこに逆らえないというか、
うんうんうん。
なんだろうな、やっぱりそれを、やっぱり人がどうこうできない、水が多い少ないとかって、もちろんそれはね、他のクリームもそうだと思うんですけど、やっぱりもうどうしようもできないじゃないですか。
っていうときに、やっぱりこう、当時の感覚としても、とにかくそれを受け入れるしかないとか、とにかく耐えるしかない、そういう忍耐っていうものを求めるような環境っていうものに、当時の日本人、弥生時代にとっていうのは晒されていったんじゃなかろうかと。
はいはいはいはい。
そういうことを考え出すわけなんだよね。
まあそうね、ここまでの流れはわかるけども、ある意味これを楽天的と言ってもいいかもしれないよね。
楽天的?
古代の日本人は楽天的だっていうのを、ある意味ね、そこ、自然はこういうもんだ、みたいな、耐えるしかねえみたいなね。
12:00
それはある意味、ポジティブではあるよね。それをちゃんと理解して耐え忍ぶっていうのも一つの。
だからそれはね、生きる知恵というか、生活の知恵的な感じだと思うんだけど、そこまではね、わりと生活に根付いたとか、いらっしゃくれっていう感じなんだけど、ここからちょっと少し概念的なところに踏み込んでいくんですけど、
概念的なところに踏み込んでいくというか、そもそもそういう概念がないっていうこと自体に意味があるんじゃないかみたいな話だったんだけど、どういうことかっていうとですね、
これ、前回もおっしゃった通り、少し後の時代になっちゃうんだけど、古事記とか日本書記っていう、日本の神話と呼ばれる文献があるわけですよね。
ドキとかもそうだし、劇画とか日本はないと思うんだけど、そういういろんな都度しているものが異物が生じたものがあったときに、
いわゆる現実世界以外の概念がないっていうのに、田中先生は目を向けるわけなんですよ。
おー、なるほど。
要は、神話とかこういう仕方と、いわゆる今の現世っていうのが昔でいうと中津国、足原中津国って言われてて、
神様の国が玉ヶ原で、死者の国としての黄泉の国みたいな、そういうのが3つ分かれてるっていう話って聞いたことあるかな。
うん、なんか言葉としては。
そうそうそう。っていうのはあるんだけど、これもね、日本的な考えで言うと、地続きなんだよね。
だから、いわゆる神隠しみたいな感じで、神の国に迷い込んじゃうとかっていうのもある。
死者の国も、いわゆる埋葬とかするとそこに行くよねみたいな感じで、
普通にお盆とかでまた帰ってくるとかじゃないけど、そういう風な行き来できる感覚ってあるんですよ。
はー、なるほど。
っていう意味でいくと、現実世界の外に違う世界があるじゃなくて、
あくまでもこの広い世界の中に神様の国とか、死者の国とか、僕らが生きてる国があるみたいな、そういう風な感覚らしいんですよね。
へー、はいはい。
うん。
で、いくとさ、やゆる時代の500年600年前くらいに、
ブラッフマンとか母様みたいな超中小存在みたいなものだと考えたインド人たちがすごいというか、
それはそれで一個独特な発想法だと思うんだけど。
うん、まあ、確かにだし、その前にも神様とかにいろいろ儀式とかしてるわけだもんね。
15:01
あー、そうそうそう。
その後みたいなものが少ないってことなのかな、そのやゆる時代とか。
そうなんだよね。うん。
もちろん神様の儀式とかはしてはいるんだけど、
あくまでもその、なんだろうな、現実とは違う世界にいる神様じゃなくて、
その世界に降りてきた神様なんだよね。
日本のこう、お祈りみたいな。
だから、ベイダーと比べるとまだベイダー的ではあるって感じだよね。
神様は友達みたいな、実在するからお供えしなきゃみたいなのがあるけれども、
ウファインシャット的な、さっき言ったブラッフマンアートマンみたいな、
そういう方にはいたたき儀式がないってことなんだね。
儀式がない、そうそうそう。
そうなんですよ。
だからあれだよね、土器で言うと、例えば埴輪とかあるじゃんって思ったんだけど、
埴輪ね。
それはベイダー的な、友達としての神様の域を超えてないようなものだってことなのかな、多分。
埴輪ね。モチーフとしても、いわゆる女性の体だみたいなのがあったときに、
やっぱりこの空想上の神様を肩取ったところではないわけだよね。
いや、ないよね。
今、神様みたいな話をしたけど、
それ一つとってもさ、よくイザナギとかイザナミとかって言われるじゃないですか。
その夫婦が降りてきて日本を作ったっていう話があるんだけど、
なんでこの二人が日本を作ったかって知ってる?
え、なんで?理由あんの?知らない。
理由あるある。
なんでかっていうと、他の神様から海を作ってって命令されたんだよね。
あ、そうなの?
他の神に命じられて地上に降りてきて、日本を作ったっていうふうに書かれてるんだよね。
そうなんだ。
めっちゃ気になるじゃん。他の神って誰?とかさ。
命じた神ってなに?めっちゃ偉そうじゃんみたいな。
偉そうだよね。
めっちゃそっちが根源的な神じゃね?みたいなさ。
そっち言いたいよね。
そっち言いたいじゃん。
ないんだけど、そこは全く触れられてないんですよ。
具体的にはね。
依頼人としてしか出てこないの?そんな偉い人がね。
そうそうそう。
依頼というか命じてるのか。
これがギリシャだったらさ、神の根源はとかさ、
その命じた神とはあれこれであるよね。
掘っておかなそうじゃん。
そうそうそう。
日本においては、というか当時の日本だとすごいふわっとしてるんだよね、ここがね。
18:03
しかもだよ、しかもやっぱり命じられてみたいことでいくと、
なんとなくさ、いずなみさんなんか意外と地位低いんですか?みたいなさ。
なんかね、それ使われてるんですか?みたいな感じなんだけど、
あくまでも国づくりの神様としてすごい尊敬されているわけなんですよね。
都営作ってるからね。
そうそうそう。
で、やっぱりこのある種ふわっと感だよね。
なんかよくわかんないけど、なんか日本作ってくれてありがとうみたいな感じとかした。
当時って言ってもね、その古事記とかできるのはもう8世紀とかなんで、
結構あとの700年ぐらいですけど、
やっぱりそういう当時の日本人の、いわゆるこうなんだろうな、
ふわっと感というか、ちょっと楽観とも言えるような感覚があって、
感覚を表してるんじゃないかっていうふうに読み解いてるんだよね。
なるほどね。なんか逆にね、これ妄想だけど、
そこに触れなくてもいいぐらい浸透してた説もない。
あえて言わなくてもわかるでしょうみたいな。
ああ、あの神ね、みたいな。神というか、あれね、みたいな。
どうせそんなんを命じるの、あれでしょ、みたいな。
面白いね。そんな発想はなかったけど。
たぶんね、それもないね。
またちょっと今度ちゃんと話すけど、やっぱり古事記とかの成立を考えると、
いわゆる異性者が作って、民衆にちょっとずつ下ろしていったみたいな感じなんだよね。
だから当時の話をまとめたっていうよりは、やっぱり当時の政権にある種、都合がいて言うとあれだけど、
やっぱり運営がうまくいくようにまとめたっていうところがあるから、
あんまりあの神様でわかるわかるみたいな、そういう感じじゃない。
そっかそっか、そういうのがないから作ってるとも言えるし、
ないっていうのは、それぞれの例えば集落だったりとか、
場所場所ではそういうのがいたかもしれないけれども、
その全体として、いわゆる日本的なもの全体としての共通のものはないから、
そういう意味でのあれはなかったって話ね。
そうですそうです。
いわゆる祖先信仰みたいな感じで、やっぱりおじいちゃんおばあちゃんとか先祖をお祭りするみたいな、
とかっていうのがそれぞれの集落、100ぐらい分かれたっていうところもそれぞれあったらしいんだけど、
それがまとめるにあたって、こういう大きな日本和みたいな話は作ったんだよね。
はいはいはいはい。
21:02
で、やっぱりこうなんだろうな、
ただね、これもじゃあもう一個考えられるのが、
そこまで考えるいわゆる理性の力というか、知的な能力がなかったんじゃないみたいな話でも考えられるわけですよね。
そうじゃない人頭ないからさ、みたいな。
まあまあね、考え方としてはね。
でもやっぱりそうではないんだっていうのを高瀬さんは言ってるんだけど、
むしろ神様みたいなものって、僕らどうしても絶対的な神とか、
根源としての神みたいなことを考えるじゃない。
っていうのをむしろそれをしなかった。
相対的なもの、イザナギとかイザナミもたくさんいる神様の中の一人、二人なんだけど、
それを改めて絶対者的な日本を作ったっていうふうに設定したこと自体が、実はすごい発明なんじゃないかみたいな。
おー、なるほど。
そういうふうに解釈してるんですよね。
なるほど、穴があるんじゃなくて、ちゃんと作ったんだよっていうね、この世界観を。
そうそう、ちゃんと作って、ちゃんと作った上で明治者神様には触れませんでしたっていう。
これちょっと言い方あれだけど、みこしを担ぐとか、責任を取らないというのは近い気もするんだけど、
絶対者とか作っちゃうとどうしてもそこから始めなきゃいけないじゃん。
ブラフマンがいたら、とにかく全てがブラフマンだみたいな。
全てが神様、キリストかわかんないけれども、こういうキリスト的な神様が世界を作ったんだとすると、
やっぱりキリストがいて、その世があるみたいなさ。
そういう世界観にガチッと固定されちゃうじゃない。
逆にイザナギとかイザナミも、いろんな神様のうちは一人ですよとかさ。
しかも他の神様に命じられてますよとか言うと、だからこそイザナギとかイザナミも完璧である必要はないし、
別に他の神様がこっちの神様も素敵ですよとか言っても別に何ら問題ないわけなんだよね。
確かに自然と受け入れられそうだね。
そうそうそうそう。完璧な世界を作ろうとしたわけじゃないんですよみたいな感じが。
実際さ、これ名前聞いたことあると思うんですけど、アマテラス大神とかっているじゃないですか。
これも太陽の神様でとかってあると思うんだけど、
アマテラスは実はイザナギ、イザナミの娘なんだよね。
はいはいはいはい。
24:00
っていう時にアマテラス自体が尊ばれるっていうと、
観学的には親の方が大元でしょとか、親の方が強いでしょってなりがちなんだけど、
全然アマテラス大神すげえでいいわけよ。
なるほど。ほうほうほう。
なぜかっていうと別にイザナギとかイザナミもすごいんだけど、
別にそこに絶対的なものを見てるとか、それだけが強いとだってならないから、
なんとなく神様の順位が変わったっていうよりは、
漠然とした神らしさとか、神様として尊ぶべきものみたいなものが、
イザナギたちからアマテラスに移ったっていうぐらいで全然OKってなっちゃうんだよね。
なるほど。確かにさっきハエトがちらっと言った、その責任が誰取ればいいかわかんないね、これね。
誰にどの責任があるかようわからんね。
よくわかんない。
イザナギザミも命じられて作ってるから、
日本、例えばよくある、神が人間を作ったら人間を幸せにする責任が神にあるんじゃないかとかってもし考えたときに、
イザナギとイザナミには当てはまんないわけよ。
作ってないもんね、人はね。
人は作ってない。ただ土地作ってやったっていうぐらいだし、
しかも命じられてるから別に、わかんないけど、シーランピって言えちゃうわけよね。
俺が言いたかったわけじゃねえしみたいな。
なんかの信念の音に作ったわけじゃないっていう。
そうそうそう。っていう不安感だよね。
わー。面白いね。ちょっと掴みどころがないんだ。
けどみんなすごいって言えちゃうっていう、なんか恐ろしい話だな。考えてみると。言われてみると。
言われてみるとね。だから、もちろんこれがさ、今の日本の大企業の責任を取らないとこれザッと言うんだとか言うつもりだけど、
大企業じゃなくてもいいんだけどさ、あるじゃない、そういうのって責任を取りませんとかたらえ回すやつみたいな。
そうね。みんなの責任みたいなね。私じゃない。
ないですみたいな。直結してるわけじゃないと思うんだけど、
逆にそういう僕らが解釈すると、やっぱりそういう神っていうもの一つとっても、全然こうなんだろうな、
たくさんね、そろそろ野郎的にたくさんいるし、別に誰かが何かすごいかっこたる意思を持って日本を作りました、どうや、みたいなものではないっていうのが、
やっぱりこの当時作られたお話っていうことなんだよね。
27:02
いやー、そうだね。今はね、だから責任を取らないみたいにネガティブな方に捉えたけれども、
逆に言うとさっきの自然振興じゃないけれども、もうあるものはあるものとして受け入れる姿勢みたいな。
そうそうそうそう。
あるがままみたいな感じも受けるよね。
そうなんだよね。やっぱりある種漠然とした神らしさというか、神的なものに包まれて生きるというか、それってもうあるじゃん、みたいな。
土地とか国みたいなものもこうやってあるし、確かに完璧じゃないけどあるし、
で、そう作ったら神様もまあなんかいるし、ありがたがっとこう、みたいなね。
よく言えば受け入れたりとか、ありのままできな感じ。悪く言うとそれを耐えるとかある種無批判に受け入れちゃう感覚。
そういう稲作の前半にお伝えしたような、やっぱりこうね、大変だけど植えたらうまくいけば育つし、うまくいかんかったらダメかもしんないけど、まあ頑張ろう次じゃん。
感覚にも通じるんじゃないかみたいな。
なので、当時通説として話したら、楽観的に生きてましたよ、肯定的でしたよというふうな、いわゆるこうめちゃめちゃポジティブみたいな形よりは、
何だろうな、逆に言うとあんまり突き詰めない、良くも悪くも。
他はその、万物の根源はとかってことじゃなくて、万物あるじゃんって良しじゃんみたいな、
そういう感覚っていうのが、やっぱり当時の日本人の態度だったんじゃないかとか、
やっぱりそういう態度があったからこそ、何か予期せぬ自然のいろんな災害とか地震とかも含めてたくさんあったけど、それでも忍んで生きていける。
そういう現実に生きる精神性になっていったんじゃないかっていうことを考えた。
田中さん、田中先生とは考えてたんですってことなんだよね。
田中先生の手のひらの上だね。何かそうかもって思って。
思わされちゃうよね。
これは今の話と同じかもしれないけどね。そうかもって思わされてるだけかもしれないけど。
そうそうそう。ある種、真理とはとかじゃなくて、確かにそういう説もあるよねみたいな。
納得感の方が大事っていうね。でも納得感は大事とはいえ、現実はあるからね。
現実があった上でのそれを説明する納得感が大事っていうね。
30:01
やっぱりね、こういう話をすると当然イジアとかプラスマンとかリーネとかも出てこないんだけど、
やっぱりこれだってさ、あえて僕も日本のところを見てて思ったんだけど、
本源を追求するゲームみたいなものではあるわけだよね。
作ってしまうと。
逆のほうというか、別のゲームとしての本源を追求しないゲームというか、
別に実体者とかいらないっていうか、わざわざ作んなくていいよねと。
あくまでも相対的な世界観の中で、その時々に素敵な人がいてとかさ、
今の日本でもそうだと思うけど、結婚したい時はこの神様だとか、
勉強したい時はこの神様だとかって、やっぱり全然いっぱいあるじゃん。
でもね、それぞれでオッケーみたいなさ。
っていうところの発想って、やっぱりこうした時代の部分からあったのかなって思ってしまう。
思えるのも楽しいよねっていう感じかな。
この後お話あるかもしれないけれども、さっきその古事跡とかそういうものが、
日本の神話みたいなものが、ある意味そういうめちゃくちゃ多様な多分価値観があった日本に、
新たな国らしくしていくというか、共通の価値観とかを作るためっていう作品を作っていくというか、
新たな国らしくしていくというか、共通の価値観とかを作るためっていう側面もあったとすると、
自然に考えるともっとさ、例えば当時誰が偉いか知らないけどさ、王みたいなの、王様とかさ、
あと中国で言うと、皇帝みたいなさ、天みたいなもの、そういうものを想定してもいいはずじゃん。
それがいないじゃん。例えばさ、天がイザナギとイザナミにお使わせてみたいな話にして、天最高みたいなさ、
それイコール王様であるみたいなさ、やればいいのにやってないみたいなね。
そこはね、なんでだろうっていうね、さっきの話とね、頭が足りなかったのか、
もしくはやっぱりめちゃくちゃ考えた上で、それだと、やっぱりその、例えば中国とか見てると、とはいえその、
いろんなね、国が争って皇帝みたいな人も変わってんじゃんみたいな、そう見てたのかもしれないしね、そこはちょっとね、何なんだろうね。
それもあると思うし、逆に言うと、それをやったのはやっぱり天皇ではあるんだよね。
33:04
アマテラスの子孫として天皇が国をまとめるって言って。
そういう話なんだ。
ごめん、知らなすぎて、あそこに落ち着いていくの?
そうそうそう。日本初期とか古時期で言われてるのはそういう風な流れなんだよね。
そういう流れか。でもさ、それで言うとやっぱりさ、天皇の置き場間違ってない?
天皇がイザナギとかイザナミに国を作らせたって一番偉いじゃん。
それが例えばイザナミがいて、アマテラスが生まれて、そしてその子供が天皇でしたって、だいぶ下じゃん、下というかさ、
結局その黒幕みたいな人が出てきてないじゃん。黒幕が一番偉いんだったらさ、それを天皇にしちゃいいのにって。
そこも不審だよね。だからこそできることもあるのかもしれないけど、ちょっとわからんね。
確かにね。今兄貴が言ってくれたようなことだと思った。これは雑談というか僕の妄想だけど、
こういった制度ができる前の日本って、前回から言ったとおり、中国の皇帝がある種、王、皇帝で、
その審査という立場。日本では王様だけど、中国の皇帝の方が偉いって図式なわけだからね。
天皇というところまで行かずに、中国皇帝というところがトップでしたと。
あー、はいはいはいはい。
中国とかもいろいろ内乱とか起きてるのかな、その辺りまたちゃんと次回話してくるんですけど、
そういう時に、もっと日本でいろいろできるんじゃねとか、日本のまとめるような強い人たちが出てきて、
統一していく中で、やっぱり日本独自の仕組みを作ろうという流れが出てくるわけなんだよね。
でもやっぱりその時に、もしかしたら当時、中国の天皇は天明というものが変わると革命が起きて別の国になるという言葉が歴史的に行われてるわけじゃない?
って思った時に、逆に天と繋がってるとか、自分こそが天だっていうのは危険だっていう発想はあったんじゃないかなとも思うんだよね。
そうだね、確かにその古事記みたいなものが中国に行っちゃった時に、
天とイコールかそれより偉いのいない?みたいな、何やっちゃってるの?って言われる可能性があるので、
36:02
っていうね。
のもあるかもしれないね。あいつら本能で潰しちゃうってなるかもしれないし。
そりゃ危険だね。その言い逃れする余地をどこに置くっていう。
あくまでも我々は天皇の中で生まれた日本という国のおめ様の子孫っていうぐらいなんですよ、みたいな。
とも言えるような抜き道だね。
なるほど、だから当初日本っていう国があったとして、俺たち最強っていう感覚がもうすでにないから、
その辺ちゃんとケアしておかないとすぐ潰されちゃうというか、一番偉いものが国の中にいるっていう感覚がなかったのかもしれない。
だし危なかったのかも。できなかったのかもね、やりたくてもね。
それは面白いね。ありそうありそう。
そうなんですよ。もちろんそれは僕らの今の想像でしかないけど、
やっぱり日本の思想って思ったとき、当然やっぱり中国ってあまりにも大きい存在だし、
前回も言ったとおり、日本初期とか古事記ができた時代っていうのは仏教とかもガンガン入ってきて、
中国とかいわゆるトライ人って言われるような人たちも日本でもめちゃめちゃ暮らしてた時代だから、
やっぱりそういうふうな外交的な感覚も含めて国が作られていった。
その中で日本人としての思想とかやっぱり態度っていうものも変わってきてるんだよね。
それは話ではあるんだよね。
この辺が面白いかも。純粋な思想を追求するというよりは、どう社会を作るかとか、
どういうふうに世の中を動かしていくかっていうところと切り離せないものとして残ってる感じだよね。
だからやっぱり特殊なんだろうね。自分たちが最強じゃないっていうのが分かっていながら、
ちゃんと国として生かされる国なんてなかったんだろうね、大陸だとね。すぐ潰されちゃう。
インドのアリア人じゃないけどさ。あれなんかもそうでしょ?
だってもともとアリア人の国じゃないのに。
そうそうそう。
やっぱり日本も早々現行とかで滅ぼされかけたっていうか、危なかったわけじゃない?
それもおかしくなかったっていう話よね。力関係でいうと。
そうそう、一歩間違えたからね。
ただ一方で、もちろん天皇制とか続いてはいるけれども、
その後武士の社会になったりとか、全然違うところに王朝ができたりとかっていう話はもちろん日本の歴史の中でもあるわけで。
やっぱり弥生時代とか奈良時代とかっていうのがまっすぐつながってるっていう発想がそろそろ危険なんだよね。
39:09
ああ、なるほどね。
純粋な、それこそ弥生とかわかんないけど、奈良時代くらいからは純粋な日本って思いができてます。
一回も侵略されずに安定した国が続いてますっていうのがちょっと違う。
うんうんうん。
やっぱりそういう、どこまで続いてるものと変化してるものを見ていけるといいなって。
僕自身も逆に今回の日本というテーマにしたときに、そこにちゃんと意識的にできたらいいなっていうふうに思ってますっていう感じですね。
はいはいはい。そうだね。
それが今のうちらの感覚にどうつながってるかっていうのはすごく興味深いというかね。
ぜひ今回、そこまで行くかわかんないけれども、感じられたら嬉しいなっていうのが個人的な期待ではあるから。
はい、よかったです。
というわけでね、今回は当時の話っていうよりはそういったことを考えて、その田中同治のペトロン文でも取り上げてお伝えしますよっていうような感じなんですけど。
今回はね、もう少し文字が出始めた頃になるんで、当時の話っていうのを踏まえつつ、5、6世紀くらいに仏教が当時の日本においてどんなふうに広まっていったのかとか、
どんな意味を持つのかっていう話っていうところをちょっとしていこうかなと思ってますっていう感じですね。
はいはい、わかりました。
いや、だから今回もそういうことだよね。もう昔すぎて文字とかの資料が残ってないので、
1960何年の田中先生のお話から、この時代を見てみましたよっていう話しかできないってことなんだね。
そうですそうです。
やっと次回から文字残ってきたぞっていう話なんだね。ちょっと資料があるかもねっていうね。
あるかもねっていう。
ちょっとこれももう少し話したいけど、兄貴とさ、日本のことやろうと思ってるんじゃない?っていう時にさ、
なんか卑弥呼とかいたじゃんと。山田彦くんの卑弥呼がどんなことを考えてたのかとかさ、
その当時の人たちがどんなふうにね、そういうことに触れてたのかってわかるといいよねとかって言ってたけどさ、
全然わかんなかったね。無理だったね。
うんうんうんうん。教科書的な話で言うと、それは中国とか、今の韓国側の資料にしかなきゃ、
義師和人伝とか言ってたかなって。
あと義師和人伝、そうそうそうそう。
もう一部にいたよーみたいな、そういう人いたよーしか書いてないっていう話なのね。
42:04
そうそうそうそう。
だから当時にどういう人がいて、どういう会話がなされてとかっていうのは全くあるわけもないっていうね。
あるわけもない。だからさ、今日本でも卑弥呼がどこにいたんだっていうのじゃなくて、何個か説があるぐらいになってたじゃない?
本当にね、わかってればさ、ここから卑弥呼が出てきましたとかさ、日記とか手帳が出てきましたとかってなったらもう完璧なわけだけど、
まあ難しいってことだよね。
その辺も幻想なのかもしれないね。だから日本って何となくずっと同じ民族がいるから、歴史も長くてね、
中国4000年と並ぶみたいなさ、感覚が無きにしもあらずというかさ。
まあそういう感覚も持てちゃうよね。
あと、世界的に見ると伝統的な、長くついてる会社というか、商売も多いからみたいなね。
まあそんな単純なものじゃないんだね。っていうのがわかって面白いね。
なのでちょっとね、これもすごいふわっとした話になっちゃうんですけど、
まあそれも当時の弥生時代の人と同じような精神性かもしれませんというところですね。
皆さんも何かを追求するというよりは、いろんなものに触れてみるという感じかなね。
楽しんでいただけたら嬉しいなと思っておりますという感じですね。
はい、わかりました。
では次回仏教伝来あたりということで、引き続き楽しんでいきたいと思います。
では次回もよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。