1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #319 理性と信仰のどっちが重..
2025-05-21 45:43

#319 理性と信仰のどっちが重要?人間の理性を冷静に見つめたヒューム

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

このエピソードでは、ヒュームの哲学を通じて宗教と理性の関係が探求されます。特に自然宗教と刑事宗教の対立について論じられ、理性を用いた神の理解を目指す登場人物たちの議論が展開されます。エピソードでは、ヒュームの理性と信仰に関する考察が中心に扱われ、彼が提唱する自然宗教と知的存在の不在について深く掘り下げられています。また、理性の限界と信仰における無批判的服従の危険性にも触れ、宗教と哲学の交差点が議論されています。ヒュームの哲学を通じて、宗教と理性の関係が探求され、神の理解や社会の秩序に対する新たな視点が提供されます。理性と信仰の限界を考察し、ヒュームの影響を受けた思考が現代にも適用可能であることが示唆されます。ヒュームについての考察を通じて、理性と信仰の重要性が再評価され、哲学的な議論が深まります。

ヒュームと宗教の関係
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回でヒューム回最後ということで、宗教について見ていくというところでした。
はい、そうですね。前回まで結構、因果性とか道徳みたいな、結構いろんなテーマが登場できたんですけれども、
やっぱり当時の哲学とか考えるときに、神とか宗教って、あんまり切っても切り離さないものなんですよね。
これ結構個人的な関心というのもありまして、今ずっとホワイトヘッドのことを勉強しているんですけれども、
ホワイトヘッドは20世紀のイギリスの哲学者なんですよ。
なので、まさにこのロックとかヒュームっていうものを結構下敷きにしていて、めちゃめちゃ本の中で名前が出てくるんですよね。
ああ、そうなの。なんならこの流れの一人みたいな感じなのか。
まずね、そこまででもないっていう感じですけど。
違う、流れではないんだ。ホワイトヘッド。
あとね、いわゆる経験論みたいなことでは多分なくて、本にやっぱりロックとかヒュームっていうものにかなり、
正当な哲学にちゃんとのっとっているってことを言うんだよね。
言うんだけど、ホワイトヘッドさんの本を読んでいるとですね、めちゃめちゃ気軽に神とかを持ち出すんですよ。
ああ、そうなんだ。持ち出す。
神ってこういうもんだよねとか、神というものは現実的存在の一部だとかってのを結構普通に言ったりするんだよね。
へー、そうなんだ。
なので、ヒュームから100年ぐらい経ってるのに、全然神様ってこうだよねとかって話をしてます。
ヒュームはわりとさらっと神のことを扱ったりとか、むしろ神について語るのって結構慎重だよねって感じだったんだけど、
ホワイトヘッドさんは普通に言ってないと思って。哲学者だからなのか、普通に宗教的な基盤があるとは思うんだけども、
なんでそんなこと起きてるんだろうなとか、改めて知りたいなとかもちょっと思ってまして。
そういう意味で、ヒュームっていうものがどんなふうに神とか宗教を捉えたかっていうところが知りたいなというところから、
最後にその話をしていこうと思ってるんですよね。
はいはいはい。
前回までかなりこみ入った話だったかなとは思うので、今回はさらっとというか、
ちょっと前回に最後お伝えしましたけれども、今回というわけで自然宗教をめぐる対話っていう本なんだけれども、
これ自体はディスカッション形式っていうか、いわゆる対話編みたいな感じなんですよ。
3人の人が出てきて、それぞれの立場から宗教とか神について語っていきます。
それ語り長の本なんだよね。
へー、そうなんだ。
前回までは人間本性論っていう、わりと大というか、本当に哲学みたいな形の本なんですけれども、
この自然宗教をめぐる対話って、わりとそういう内容はもちろん濃いんだけれども、語り口は結構軽い感じもあったりするので、
そういう意味では取り上げ方としても、わりとさらっとお伝えしながら、
自然宗教と刑事宗教の対比
最後はこんなことを考えたんだねっていうところをお伝えしていこうと思ってますっていう感じですね。
なるほど。わかりました。
さっそく内容入っていくんですけれども、本の中で3人の登場人物が出ますと言ったんですけど、
1人がクレアンテスっていう人で、2人目がデメアっていう人で、3人がフィロっていう人なんですよね。
あれ?ヒュームは?
ヒュームいない。
いないの?
作のというか、昔、前にギリシアの人なのかな?名前を変えてきて言ってるらしいんですけど。
フィクションなのね。
フィクションです、フィクション。
はいはいはい、なるほど。OKOK。
ごめんね、全然言ってなかったね。
3人の定談してる本、定談本みたいな。
じゃなくて、赤のヒュームがその3人の人を立てて、それぞれの立場っていうものを代表するようなことを言わせるっていう感じなんだよね。
はいはいはい。
前提としてお話するとですね、自然宗教の巡る対話っていう本じゃないですか。
自然宗教って何?っていう話なんだけれども、これ当時流行ってたというか、主流になっていた宗教の捉え方っていう感じなんですよ。
へー、そうなんだ。
どういうことかっていうと、これ前回もちょっとお伝えしたんですけど、ヒュームは理性反対派じゃないですか。そんな理性で全部わかるなんてありえないという人なんですけど。
でも当時やっぱり理性っていうものがもてはやされてて、やっぱり理性、神が与えた理性だよね。
はいはいはい。
それに基づいて、やっぱり物事をいろいろ明らかにできるっていう発想がまだまだメジャーなわけなんですよね。
理性っていうものが神が与えたものっていうので、要はこの世界も神が作ったっていうところからすると、それを僕ら自然って言ってるじゃないですか。神が作った自然。
っていうのと同じような理由で、神が与えた理性っていうものを自然の光っていうふうに言うことがあったんですね。
要は理性ってものが世界の真理を照らす光だと。
はいはいはい。
そういうふうに、理性って自然の神が与えた力を使って、神そのものを解き明かそうっていうことを指して、自然宗教というふうに言います。
そうなんだ。そういう意味なんだ。
だから自然宗教でそういうと、いわゆる自然崇拝とかアニメーズっぽい感じになっちゃうじゃないですか、イメージとして。
そっちはと思った。
そうじゃなくて、あくまでも理性の力で神を知るっていうことが自然宗教だよね。ちょっとこれ分かりにくいんですけど。
そうなんだ。
じゃあその自然宗教、神の力、理性の力で神を知るぞっていうので、ある意味で光を照らしていくわけなんだけれども、それで追いやられたものがあって、
それがいわゆる経時宗教っていうような、神のお告げとか、まさに教会の権威っていうものから神を明らかにしていこうっていうのが経時宗教なんですよ。
カトリックとかのイメージなのかな、当時。カトリックとプロテスタント的な。
それへのアプローチ方法が変わっていくっていう感じかな。
宗教そのまま変わったってことじゃなくて、同じカトリックとかプロテスタントの中でも、そういう神の言葉とかお告げっていうものから神はいるんだっていうふうに説明していくとか理解していく人たちがいたんだけど、
それってもう無理じゃね?ってやっぱり17、18世紀くらいになってくるわけなんですよ。
そうなんだ。
やっぱり教会も結構、要は平成が良くなっていくとか、要は教会の権威が落ちていきますよねとか、神の経時って言ってもそれ誰が聞いてんだみたいな話とか、
それって素朴にこれまで信じられたかもしれないけど、今もそれ信じられなくない?みたいな。
そういうふうな時代になっていくわけなんですよね。
なるほど。
っていう時に、例えば当時ニュートン物理学があったって話もちょっと思うんですけれども、
そういうふうに僕らは理性の力を使えば自然現象とか、この世の断りっていうものは明らかにできますよね。
そういうふうに世の中を解き明かすことで神も解き明かせるんじゃないか。
むしろそういうふうにして神を解き明かしていくことが、人間に与えた理性っていうものを使う最大のパワーじゃないかみたいな。
なるほど、なるほど。そっかそっか。
それって、民が作ったこの世界を興味本位っていうか、全部わかってやるんだっていうことじゃなくて、
いわゆるこの信仰っぽいのはなんだっけとか、さっき言うなオフィス芸だったりとか、
刑事いろんなものがあったりとか、聖書があったりとか、普段のいろんな反習みたいなもの、宗教的にあったときに、
本当の宗教的に正しいとか理想的な生き方みたいなものとか考え方ってなんだっけっていう意味での神を知るみたいな感覚なんだね。
本当の信仰とは何なんだろうかみたいな。
本当そういうこと、そういうこと。
うわー、なるほど。それは楽しそうだね。楽しいっていうか、楽しいって言っちゃだいぶ軽くなるけど、そのモチベーションたるやって感じはするね。
いや、そうなんだよね。
登場人物の議論
なるほど、なるほど。もうちょっと浅はかというか、厳禁な感じで考えてたけど、違うんだね。
そうなんです。その自然宗教とか刑事宗教っていう宗教があるっていうことじゃなくて、
そういうふうな関わり方、要は神の存在とか、神とは何かっていうものを何によって理解しますかと。
逆に言うと刑事宗教だとやっぱり、ある教会の特定の役職の人だけとか、神の言葉を受け取った人だけが神に近づけるとやっぱりなっちゃうんだけど、
自然宗教になると、理性の力を働けば神というのが理解できるっていう道が開かれるから、ある種、それって誰にでも神に通ずる道はできるよねっていうことと近いんだよね。
なるほど。
あれはね、物理学者がこの自然法則を解き明かすあるはずだと同じかそれ以上のレベルで説き詰めたい話なんだね、これはね。
そうそうそう、そういうことなんです。
っていうのが18世紀にやっぱり広まっていて、その自然宗教を代表するのが、さっき言った中でいうとクレアンテスという人だったんですね。
なのでクレアンテスさんを自然、要は理性の力で神を解き明かそうとしてます。
刑事宗教を代表するのがデメアさんで、
この人はある種昔ながらのしきたりとかお告げとか、そういうものから神にたどり着こうとしています。
残ったフィロさんはって話なんだけども、彼は会議論者なので、神の存在とか神を知ることができるっていうこと自体に疑いを持ってるんですよ。
お別れの通りで、このフィロさんがある種ヒューマー立場に近い。
ヒューマーをやろうとしていることを代弁してるんじゃないかと言われてるんだけども、明確にフィロが私ですとかもちろんヒューマーは言わないわけなんだよね。
危ないもんね。危ないから。
だから最後にその3人の会話を見てた人が論評して、一番説得力があったのはプレアンテスだったり、要は自然宗教だったりとか言わせたりするんだよね。
なるほど。
ヒューマーからするとある種自分たちを守っている感じもあるんだけれども、
フィロさんにめちゃめちゃコテンパンに自然宗教もゲイジ宗教もちょっとおかしくないとかってことを言わせたりはする。
みたいな本がこの自然宗教をめぐる対話っていう本ですよっていう感じなんだよね。
いろんな禁閲とか、いろんなさっき言った立場というか、そういうのを想像させるね。
そういう意味でも面白い本なんですけれども。
どんなことを書いているかっていうのを集めながらそういう話をしていくんですけど、例えばプレアンテスさん、自然宗教の立場からすると、
さっきの物理学の話と同じような感じで、要はこの世界で長方形秩序ってすごい整ってますよね。
そういうのを見ると、それを設計する知的存在、イコール神だよね。
それがいるはずだっていうのが、結構自然宗教論者あるあるみたいな感じなんですよ。
要はそういうこの世界を見たときに、こんなにすごいものを作れる、この世界が存在しているということが、
それをやっぱり成り立たせる何かの仕組みとか働きとか存在ってのがあるはずだっていうことだよね。
こうやって明確に神まで言わずとも、やっぱり世界の素晴らしさとか奥深さを感じたときに、
ヒュームと自然宗教の理解
やっぱり何か絶対的な存在とか働きがあるんじゃないかっていう感覚ってあると思うんだよね、今の僕らからしても。
ないとしても共感はできるかなと思うんだよね。
個人的には、雲が巣を張ってるとか、蜂が巣を作ってるとか、ああいうのを見るとちょっと思うかもしれないね。
なんでこんなことができるの?みたいなね。
めっちゃ綺麗じゃね?みたいな。
その感覚ってのは、この18世紀、ヒュームの生きた時代に生じた自然宗教っていうものに寄ってるんですよ。
これに対してフィロ会議論者は反論していくんですけれども、
例えばそういう知的存在があるのかっていうことを考えてみましょうというときに、
僕らが知っている唯一の知的な原理っていうのは人間の心ですよね。
要は、いわゆる印象とかを得る、まさに働きだよね。
物についての働きを見ようとするときに、僕らの知識とか認識っていうのは限られています。
心そのものを仮に捉えるとするときに、全部解き明かすのは無理だよねっていうことを言っていくんだよね。
なるほど。
そうすると、不完全な心っていうものから考えたときに、
その世界の設計者とか、そういう知的存在がいるみたいなことって、そもそも印象としてないじゃないですか。
はいはいはい。
ヒュームの言葉で言うとね。
この本では別に印象がないとか、印象とは関係ないという言葉では言わないんだけれども、
そういうふうに知的存在、要はこの世界を作った設計者みたいなもので、認識できますか、印象として持てますかっていうことをここでも言っていくんだよね。
なるほど。
そうすると、僕らヒュームを学んできた僕らからすると、確かにそれってやっぱりないよね。
それってある種、人間の心とか理性とか知性の働きで経験できますかっていうと、できない経験ですよね。
だからこの世界の設計者なんて、いないとは言わないけど、認識はできないし印象はないよねっていうことを伝えていきます。
この辺はね、これまでの議論というかね、流れからするとイメージの差だと思います。
神そのものの話をしたしね、自分があるのかみたいなとこと同じ感覚でね。
理性の限界と信仰の危険性
同じです。
ある種、飛躍してるって話だし、神の存在だけじゃなくて、そもそも君ってどんな性質を持ってますかとか、
神ってどんなふうにこの世界と関わってるんですかねとかっていうことも問うことはできるんだけれども、
それもヒュームからやらせると、勝手に人間と神は近しいようになってる、ある種妄想して。
人間っていろんな性格とか性質を持ってるよね。
ああ、はいはい。
そういう性格とか性質はきっと神にもあるだろうっていうふうに、本当に根拠のない推論を無駄らかさせるより過ぎないよねって考えるんだよね。
ああ、なるほど。なんで勝手に擬人化してんの?みたいな話。
そうそうそう、そういうことそういうこと。
人かわかんないよ、みたいなね。
そうです。そもそもそういうふうに類推することが正しいかどうかもわかんないはずじゃないかと。
はいはいはい。
でもある種、自然宗教論者は理性ってものを使ったら、神の性格、性質がわかるって言ってるんだけど、
性質とか性格がわかるっていう前提自体が、そもそも妄想じゃねえかっていうことを言うんだよね。
うんうん、それもあるかないかわかんないのにねっていうね。
そうそうそう、そうですそうです。
っていうふうに言われると、自然宗教論者とかすると、うーん、うーんって感じになっちゃうわけだからね。
なるほど、そこはうーんってなっちゃうのね。
そうそうそう。だったりとか、あとはこれよく言われる話なんだけれども、
人を譲って、君がこの世界を設計したとしましょうと。
そうすると結局、よく言われる、じゃあなんでこの世ではこんなに苦しみとか福みたいなものが溢れてるんだっていうのがことになるわけだよね。
うーん。
うん。で、これも普通に言わせると、やっぱりそうでもいいんだけど理性的に応えられないよねと。
うん。要は、それも試練だとかさ、それも神が必要と思ったからある、であって人間が理解できないだけだとかっていうこともできるんだけど。
うーん。
自然論者側からすると、自然宗教側からするとね。
うん。
でもそれも結局は、やっぱり類推とか妄想に過ぎないってやっぱり、先のからすると言えちゃう。
まあ確かにそうだよね。それに対して印象ありますか?でだいぶ全部崩されちゃうからね。
そうそうそう、そうなんだよね。なのでやっぱり根本からすると、そもそも自然宗教論者がやろうとしている、理性っていうものを使えば神が理解できるっていうこの構造、これがやっぱり無理があるんだよっていうことからやっぱりくっつき崩してるんだよね。
なんでかっていうと、理性は実際にそもそも限界があるんだよとか。理性って自然の光とかって言われてるけれども、やっぱり全部を解き明かせるものじゃないんだぜっていうことが常にヒューマンが言ってることなので、それを繰り返しフィローを通じて言い渡せるんですって感じもあるんだよね。
はいはいはい。
これちょっと面白いのが、一方で刑事宗教、デメアさんという人がいたと思うんですけど。
出てきてなかった。
この人も理性に関してで言うと、実は似てるようなことを考えてるんですよ。似てるというのはクレアンテス、要はフィロか、ヒューマン側と近くと言われていて、要は神って理性が及ばない存在だって話だよね。
理性によって神はとらえられないという観点だけで言うと、フィローとかデメア、要は刑事宗教と会議論者と結構近いんですよ。
ただ刑事宗教からすると、理性に限界があるからじゃなくて、神は理性とか人間とかって人知を超えた存在なんだっていうふうに発想なんだよね。
そこまではまだ近い感じも持てるね。
デメアさんは、だからこそ神を信仰によって知りましょうっていうふうに言うんだよね。
これが刑事宗教ですね。
ただそれに対してもフィロは批判するんだけれども、信仰って別にいいんだけど、やっぱりある種信仰を主体にしてしまうと、
印象に基づかないとか確証がないものに対しても無批判に服従しちゃうじゃないかと。
それこそ、例えば奇跡が起きたとか、人が復活したとかもいいんだけれども、もしかしたらあなたが印象として持ってるかもしれないけれども、
僕は持てないし、持つ持たないっていうものがやっぱり人によって変わってしまう。
ある種共感できるかわかんないものに対してそれを基盤に置きましょうっていうのはちょっと危ないよね。
歴史を見たときに、ある種信仰への無批判な服従が申しんどもによって、いろんな歴史の中でもそういうことが起きてきたじゃないですか。
それこそ、いわゆる宗教的な殺害もそうだし、迫害とかもそうだし。
やっぱり考えたときに、神を教えるとか信仰によって生きるってちょっと危ないよねっていうふうに言ってくるんだよね。
ヒューマンからすると、神は理性を超えてるっていうこともしかしたら別に、それしかいいんだけど別に。
だからこそ、信仰とか啓示、お告げとかによって神を理解しましょうっていうことは同意できません。
なるほど。面白いね。印象を通ってないっていう点で一緒なんだね。
ヒューマン側からするとどちらもね。
そうなんです。
同じ手法でやっつけられちゃう、批判できちゃうっていうのもあるからね。
実際、神の奇跡とかっていうのは批判的、大義的だし、神の声を聞いたとかって人がいても、
それって18世紀、ヒューマンが生きた時代において、同じ教訓を呼べますかと。同じ印象をちゃんと持つっていう人をちゃんと見つけられますかって、やっぱりなかなかそれって厳しいよねって。
なるほど。だから本人が、いくらこれは印象だ、経験だって言ったとしてってことはね。
そうですそうです。そうしたら否定できないかもしれないけど、やっぱり社会とかを見たときにそれを受け入れるわけにはいかない。批判にはね。
ということも考えていくという意味では、ある種バランスが取れてるとも言えるし、
ある種、何だろうな、やっぱり会議論者っていうぐらいだから、いろいろと疑って、何が正しいのって言われると難しいけどねってなっちゃうんだよね。
で、こういう話を聞くと、やっぱりヒルムって無神論者というか、神を信じなかったんだよねっていうふうに思えるなと思うんですけど、
実はこれもちょっとお伝えした通り、このフィロ、この本の無神論者の話を聞いても、神は存在しないとまだ言ってないんだよね。
神がいるかわかりませんとか、理性では証明できませんとかってことは言えるんだけれども、神は存在しませんっていうのは、やっぱりこの時代のイギリスとかに生きる人たちだから、絶対たぶんできないんだよね。
なので、あくまでもヒルムがやろうとしたのは、信仰とか理性、刑事宗教でいう信仰とか、自然宗教でいう理性っていう、そういう手段を使って罪を知るっていう行い。
これ自体がやっぱり不確かなんだと。そもそも信仰とか理性って文字が不確かなので、それによって世界を解き明かすとか、神を理解し尽くすみたいなこと自体がやっぱり無理なんだっていうことを、とにかく言い続けるって感じなんだよね。
はいはいはいはい。
宗教と哲学の交差点
ある種、不器用させているっていうか、全てを疑うってことじゃなくて、ある種盲目的に支援してるような理性の力とか信仰の力、そういうものをある種疑いましょうっていうことを、ヒルムさんフェローさんはやろうとしてますって感じなんです。
はいはいはい。
どうだろう、こういうふうな話を聞くときに、イメージ湧くかな?
うん、湧くね。ここは聞いてるから、観念の通ってないっていうところに対して、だいぶ敏感に、そこに素直にツッコミ続けてるんだなって思ったし。
これは前回の道徳の話、正義の話を聞いたからだと思うんだけれども、結構神と正義って似てるかもなーみたいな思っちゃうね。
おー、どんなところで?
共同体とかに対して、絵の処方箋としてか。
面白い話だね。要は前回、社会の平和と秩序を維持するパラメーターが正義でしょってされたと思うんだけど、それがある時代は宗教だったってことだよね、兄貴が言う私の言って。
そうそう。ヒュームから見ると、ヒューム的な考え方からそれを、状況を見た時に、神と正義の違いは、一応正義っていうものは、社会状況とかいろんな状況に応じて、多分変化し得るのかなとは思うけれども、
神はそこがあまりにも固定されすぎてるから、その固定されてる具合がちょっと気持ち悪いかなーってヒュームは思ってそう。そこの部分を突っ込んでるのかなーみたいな感じはしたかな。
それもあるし、逆に言うと、ヒュームのちょっと前のロックの時代でいくと、宗教の派やったんですけど、キトリックがあったときにプロテスタントがあったとか、ルーターが出てきてとか、イギリス公教会があってとかっていろんな話をしたと思ったときに、
本当は変化しないはずの宗教が変化しまくって、政治も変化しまくってっていうふうに、要は全然平和でも秩序もないじゃんってなっちゃったなと思うんだよね。
確かに変化してるね。
そうそうそう。
怖っ。確かにそれは怖いね。
宗教と理性の探求
変わらないなら変わらないままいてくれれば、秩序と安定が保てるはずなんだけど、変わっちゃってるから、やっぱり宗教だとヤバくね?というか、
宗教が頼ってると、やっぱり本来得たい平和とか秩序って得られないよねっていうことも、もしかしたらあったのかなって完全に想像だけど。
それはヒューム的に。
ヒューム的な感覚としてあったんじゃないかなって。それからこそあえて正義っていうような別のトツっていうものをちゃんと打ち立てで説明して、
これによっては社会が成り立たせるんだっていうふうな説明をしなきゃいけなかったのかなって確かに思うよね。今の兄貴の話からすると。
ヒュームの考え方がない、それぞれの市民というか、そこに生きてる人たちの感覚を想像すると、自然宗教的だったり刑事宗教的だったり、
こっちが正しいはずだとか、もしくは本当の神、本当の秩序を平和をもたらせてくれる神的なものがあるはずだっていうのは、
とても切実で必要なものだっていうのもよりわかる気がするね。
そうだねそうだね。ある種こんなに混乱するのは、我々が神を正しく理解してないからだとか、
神とか宗教っていうものを正しく理解すればそれを超えるはずだっていうふうに思うのもわかる。
すごく自然な感覚かもね。
でもなかなかそうじゃないよ。それって無理だ、そうなんだし、むしろそっちには正しい、平和な道はないよというか。
どこまで行くも無理なんだよっていうのをちゃんと突きつけたヒュームっていうのがすごさを改めて感じるよね。
人間の理性の限界
なるほどね。
なのでやっぱり今回お伝えした自然宗教の寝る対話っていう本も、神とはこうだとか宗教の真理とはとかっていうものを説明を出す本ではないんだよね。
言えばそれをやりたいわけじゃなくて、どこまで行っても人間の理性とか信仰で及ばない範囲があるよね。
どこまでも及ぶと思っていいんだっていうことをちゃんと伝えていくし、人間って何がわかって何がわかんないのみたいな。
そういうことを神とか宗教っていうものを題材にして、ちゃんと明らかにするんだよみたいな。そういうふうな本なんだよね。
すごいね。
その意味ではこれまでも神に印象あるのかっていうのをずっと言ってきたと思うんですけれども、そこにちゃんと向き合い続けたというか、それを通じて人間とはとか社会とはとか、そういうものをちゃんと問い続けていく。
問い続けできたのがヒュームでディストラクションになっていく感じなんですよね。
こういう感じでどうでしょうね。前6回やってきて。前回もだいぶヒューム感が今日も見えてきたよっていう話をしたと思うんだけれども、なんとなくヒュームっぽさというのを味わえましたでしょうかっていう感じですね。
味わうも何も。前回の感想でも言ったけど、よく言うじゃん。過去の哲学者を見ると、今はもうその感覚がインストールされた世界だから当たり前に感じるよねーみたいな話がありがちだと思うんだけど、
これインストールされてないよね、この辺は。できてないよ。ちゃんと学ばないといけないなって思った。
本当にそう。
だってさっきのさ、人間には何が分かった何が分からないのかというところを、ある程度フィクションな話を通じて表現してたとして、これもそうだもんね。
たまにソクラテスを見て、ムチムチ大事だよねみたいなさ、そうだよねっていう話をするけど、まさにここで、やっぱ何かを知識を教えてくれる。何か分かることが大事っていうのは多いけれども、何が分からないのかが大事だということを教えてくれるってなかなかない気もするし。
そうだね、本当にそう。
この辺はね、全然できてないよ、インストール。っていうのも何か思ったね。
はいはいはい、いやまあそうだね。200年前でいくと哲学的には近いというか、まだ思想がね、一挙当たる前にやっぱり時間ってそんな、もっと長くかかるんですよと。
あーはいはいはい。
特にヒュームに関しては、やっぱりとはいえちょっと極端な部分もあって、全てが印象だって言われちゃうと、何だろうな。確かになんかスッキリするところもあるけれども、本当に?って思ったりする部分もありますよと。
うん。今のハヤトの話、印象だけでとも言えないよねっていうのは、それもそれですごい分かるっていうか、ような気がして。
っていうのが、ヒュームってすごく歴史だったりとか、その当時の環境だったり、社会をすごくフラットにとか、現実で見る、構造化する、抽象化するとか、あとより現実をちゃんと見るみたいな能力が多分凄まじいと思うんだけれども、
例えばとはいえ、この社会を見たときに、じゃあそのヒュームが言うところの妄想みたいなものだよね。印象通ってない観念らしきもので、動かされてきた歴史とか、動かされてきた社会とか、動かされている個人とかって、現実としては、
ヒュームが1018世紀だとすると、少なくともそこまでの人間の何万年、何十万年、西暦とかで言うと何千年みたいな話は、おそらく人間のそういった妄想部分で駆動してきた社会とか、人間個人って、歴史としては多分深い気がするんだよね、現実として。
それは本当にそうだね。
そこは否定できないなとは思うっていう意味で、さっきのハヤトの話を言い返したかな。
本当にその通りで、人間ってフィクションできないみたいな話って、サピエンス前史でもそういう話があったと思うんですけど、やっぱり印象がない、ここで妄想的な観念。
人間って全然それを信じて頑張るとか、むしろ苦しむとかってあるときに、そっちの話をヒュームは否定したわけじゃないけれども、そこには踏み込んでいかないと、本当の意味で人間とはとか、社会とはってなかなか成り立たないし、
今もそう思うけど、神の性質はとかって問いながら生きてる人が全然現実にいるわけじゃない?っていうときに、それも一つのものとして、やっぱり包み込んでいかないと、神なんていないんだって態度だけだと泣いてたいものがあるよね。現実そうだとしたときに、やっぱりヒュームだけでも生きていけない?
カントとの対比
そうだね。生きていけないというか、多分理想論になっちゃうんだろうね。このヒューム的な考え方を全人類が理解して実践するっていうのは、多分理想論なんだろうね、と思う。
そうだね。現実無理だと思う。っていう意味で、前回ちょっと最後お伝えしたんですけど、ヒュームの道具を学ぶのが大事なんだけれども、別の道具も必要だよねと。でもやっぱりそれってどうするのっていう話が当然出てくるわけなんだよね。こんなにいろいろ言われちゃってさ。
でもなんですよ。それがすごいんだけれども、前名前出したカントさんですね。これがまさにヒュームの道具を借りて別の道具を作った人なんですよ。
もういいよ。ヒュームもインストールできないから、カントは、人類がヒュームをインストールできた後にカントの話しようか。
もうスウェーデンスラジオ第5千百何十回みたいな。
もっとじゃないかな。3万5千回くらいだと思うけど。
みんな死んでると思うんですけど、今見てる人は。
いやでも、そういう意味ではカントリベンジなんですよね、やっぱり。
改めて、ヒューム会が今回で終わりだったときに、先週図書館でカントの本をまた借りてきたんですよ。
で、読んでみたんだけど、やっぱり難しい。くじけそうなんだよね、カントはね、どう頑張っても。
改めて読んでってことでしょ?
改めて読んで。やっぱりちょっと理解できるというか、そういう土台にカントは書いてるのかなって思った部分があって。
例えば先取りなんですけど、カントの一人に純粋理性批判っていう本があるんですけど、序論にこんなふうに書き出しがあって、
私たちのすべての認識は経験とともに始まると書いてるんですよね。これ経験論じゃん。
わかるわかるって読めるよね。
これだけ読むとロックとかヒュームっぽいんですけど、ちょっと後で書いてるのが、
私たちのすべての認識が経験とともに始まるとしても、すべての認識が経験から生まれるわけではないって書いてるんですよ。
わかる?経験と共に生まれるんだけど、経験から生まれるわけではない。
すべての認識が経験から生まれるわけではない。
そうって書いてるんですよね。
ほうほうほう。
つまりカントは、経験と認識っていうのがめっちゃ強い繋がりがあるってことは言ってんだけど、
でもそれだけじゃないよね、認識って、っていうことにもちゃんと目を向けてるんですよ。
だからこれ、今のカントの全ての認識が経験から生まれるわけではないっていうのは、
多分ヒュームの言うところの印象だよね。
自分の印象だけを組み合わせたものが観念である。
だから認識だよね、仮にね、観念っていうものを認識。
ヒュームで言うところの認識ね。
そうしたときに、そことはちょっと話が違うよっていう感じなんだね、これは。
そうです。ヒュームを受け継ぎながらも、ちょっと違うぜって言ってるんだよね。
哲学っぽい感じになってくるし、こういう話になってくるんだね、きっとね。
これ以上の話ばっかりになるんだね、哲学者を。ガチで学術的にやるっていうのはね。
そうです。これまだ序文の本当に一部二部取ってきただけだから、ガチでやろうと思うともうとんでもないことになるんだけれども。
覚えてるかな、カントのときにアプリオリとかアポステリオリっていう言葉をやったの覚えてる?
なんとなくね、言葉が。
なんとなく。
アプリオリっていうのがいわゆる経験に先立つっていう意味で、
アポステリオリが経験に基づいてだっていう説明も多分ちょっとしたんですよ。
ここで言う経験っていうものが、まさにこのロックとかヒュームを言った経験だし、
ロックとかヒュームから言わせると経験に先立つものっていうのは基本ないんだけど、
それを実はカントが考えましたっていうことなんだよね。
へー、そうなんだ。
っていう意味で、今言ったアプリオリを経験に先立つっていう言葉の解像度とか、
経験に先立つって何よっていう話への安定の立ち具合が多分皆さんだいぶ捕まってると思うので、
次回カント編っていうところで、僕ももうちょっとマジで頑張るんで、
皆さんで一緒にヒュームとかロックを土台にして見ていきましょうっていうことをやりたいって感じですね。
そっかそっか、そうだよね。なんかヒュームでもだいぶフラットな感じというかさ、
人間世界、個人も社会もだいぶ説明してくれた上に、
まだそこに追いついてない自分たちみたいなものを想像してしまったんだけれども、
カント言ってたもんね。さらに統合しちゃったみたいな話してたもんね。
そうですそうです。
わー、面白そうだね。恐ろしいというか、聞いていいのかなみたいな。
大丈夫です。
たぶんね、前やったのがいつなんだろうな、もう2年半前くらいのかな、ちょっと待ってね。
ちょうど3年前くらいだね、カントでやったのが。
あー、そう、結構前だね。
ね。そこからね、だいぶ僕らを育てて聞いてくださってる方も、
たぶんなんとなく哲学っていうとかさ、今回ロックとヒュームっていうところがイメージ湧いてきて、
ヒュームの哲学に対する挑戦
大丈夫じゃないかと思うので、それを最大限活用してカントをもう一回やっていきたいというのが次回のテーマとして思っているところでございます。
はいはい、わー。
さっき言ったように楽しみでもあり怖くもあるね。
そう。
面白いな、これはソルテッドラジオを聞いてて初めての感覚かもしれないな。
なるほどね、次は楽しみっていうよりも、怖い、どこまで行くんだろうみたいな。
今日言ったのかな、やっぱり古いリーサとか聞いても、今の自分たちを無意識なところの説明みたいな感じで、
そういう意味でも納得感、今こうなってるんだ、この人たちの土台の上にいるんだなっていう感覚が気持ちいい部分ってあったんだけど、
たぶん今回は初めてこのヒュームだよね、ロックヒュームの流れで聞いて、土台じゃなくて先進んでるみたいな、今の自分たちこれから必要なものなのかもしれないっていう感覚は初めてだったから、
そういう怖さはね、なのにその先の関東の話を聞くんだっていう、扉開いていいの?みたいな感覚は初めてだね。
強いじゃないですか、ある種の自分の中の地のフロンティアとかが外際にいるわけです、今の木は。
でもそれを前回の関東を聞いた時はたぶん思ってなかったし、その土台にいると思ってたと思うから、それもまた面白いなと思うよね。
そうだね。ある種、やっぱり一人では考えられないし理解できないものが関東ってつらくだなって本当に思うので、
ちょっとそれをね、僕がどこまでできるかっていうのは常々あるんですけれども、ちょっとそれを一緒に頑張りたいという意味で、
リベンジ、再チャレンジっていうところを次回でやっていきたいというふうに思っております。
はい、わかりました。では、それってつらい状態で関東2.0ですね、次回。
そうだね、アップデートしてたらいいかもな。
バージョン2。
バージョン2ですね。
そこを楽しみにしていきたいと思います。では、木津玉君、よろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
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