ロックの観念と経験
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、前回からジョン・ロックの流れからスコットランドのヒュームということで、前回はオイたちとかに出てきたというところでした。
はい、その中でですね、哲学とかにね、強すぎてね、ノイローズになっちゃったみたいな話とか、
あとはね、そのやろうとしたことをして、神を前提としない世界、それを探求するんだ、みたいな。
そういうことをお伝えしたかなと思っております。
うん。
うん。で、これは前回もお伝えしたんですけど、結構微妙なところなんだけど、
神を否定したとか、神は死んだとか、逃げちゃうってことを言ったっていうことじゃなくて、
やっぱり神について語ることも全然あるんですよね。
だからその、自分が思う世界の根源に神を置くとか、神を根拠にするっていうことを真面目に避けましたみたいな、そういう感じなんだよね。
ああ、そこは結構ちゃんと理解しとかないと、このヒュームのポジションみたいなものが間違っちゃうな。
そうそう、そうなんだよね。
だから単純に神なしでいいんだとか、神なんていらないって言ったんだっていうのもちょっと違うし、
でもロックみたいに神を前提にして人間の知性があるっていうのとも違うよっていう、このまさに過剰期みたいな感じがヒュームにはあるんですよって話なんだけれども、
ヒュームの哲学を今回伝えていくにとって、その土台やいろいろな道具があって、それをお伝えしていくんですけれども、
最初のテーマとしては印象という言葉と観念という言葉、この2つを伝えていきますよと。
ロックは経験と観念だったじゃない。
そうね。
そういうふうに全く同じ観念という言葉が出てくるんだけど、意味合いが微妙に違うんですよ。
ロックの観念だと問題ないってヒュームは考えてくるんだけど、その印象と観念が何よっていうところを続けて、今回はちゃんとお伝えしていくっていうふうにしたいと思っています。
はいはい、なるほど。だからロックの観念っていう概念は踏まえての話なんだね。
踏まえてはいる。同じではないよっていうところを含めて、まずは兄貴に今回で伝えればいいと思ってるんですけど。
今回は今、ハヤトが道具って言ってたけれども、ヒュームの哲学を中身そのものとかっていうよりも、
まずは包丁の使い方とか、まずはその道具分を知って、それを知らないとある意味調理に移れないですよみたいな。
感じでいいのかな、雰囲気としては。
もっと言うと、そもそも包丁という道具とボールという道具がありますよね、ところからかな。
うーん、OKOK。で、その後、それを分からないと、
例えばこの包丁を使ってジャガイモを剥いていくんですよの包丁分からんやんみたいな、そういう話になってくる。
そうそうそう、そういうことです。
包丁とはとか言われても困っちゃうよっていうね。
そうなんです、はい。
そういうことです。
という意味で、印象とはとか観念とはということを今日お伝えしていきましょう。
わかりました。
復習でロックのことから話すんですけど、これ何回も出てる通り、ロックは人間の心は白紙です。
生まれたときは何もないんですってことを考えていて、神様によって与えられた理性とか知性とありながらも、
学習の中に経験にもついた知識っていうのも書き込まれていくっていうふうに考えていましたよと。
これはデカルトの批判でもあって、誠徳観念っていうのが生まれながらに持っているものを否定して、
全部知識とか考えて、やっぱり経験からやってくるんだと。
これは僕ら経験論とか経験主義とかって言ってるんですけど、
ゲームは基本的にはこの立場に引き継いでるんですよね。
ある種、ロックをより研ぎ澄ませていくというか、絶対して経験に依存していくっていう感じなんですよ。
そうなんだ。
ロックの観念っていう話をいろいろしたと思うんですけど、結構ざっくりしてるんですよね。
単純観念とか複合観念っていうふうな話をしたとは思うんですけど、
ヒュームの印象と観念の違い
赤っていう色も観念だし、赤いリンゴっていうのも観念だよね。
例えば青い空とか、あとは正義とか神みたいな、それを全部ひっくり返して観念だっていうふうに言ってるんだよね、ロックは。
観念ってあれだよね、たしか。
例えばリンゴがあったときに、仮にそのものが存在してるとして、
それを心で映して人間が認識したものが観念だったよね、たしかに。
そうです、その通りです。
リンゴが粒子で何か出てたときにその粒子が飛んできて、それによって作られた像というか、
そういうイメージ的なものが観念っていう感じだよね、ロックでいう。
人間が認識してるものみたいな話ね。
当然、その良さとしては単純観念とか複合観念とか考えれば、それだけでいろんなことを示せる。
そういうシンプルさはあっていいよねっていうのはあったんだけれども、
それって物足りないよねっていうふうにヒュームは考えるんだよね。
なるほど。
何がという話をこれからしていくんですけれども、
まずね、人をまとめた観念というものをヒュームは2つに分けるんですよ。
それがさっき言った印象と観念という話で、印象が増えますっていう感じなんだけど、
この違いっていうのをすごいざっくり言うと、
心に働きかける時の勢いとか生々しさっていうもので分けましたってヒュームは言うんだよね。
なるほど。
どういうことかっていうと、例えばさ、暑いとか眩しいとか怖いとかでもいいんだけど、
そういう感情も含めた、今まさに人が感じる生々しい感覚。
これを印象っていうふうに言うんだよね。
印象、はいはい。
見える、聞こえる、増える、感じるとかっていうもので、
それこそ、皆さんが例えばね、今僕らの声を耳から聞いているとしたら、
この聞こえるっていう感覚、これは印象です。
一方でその観念、ヒュームで言う観念っていうのは、
その印象っていうものを記憶として思い出すとか、
あれ何かを想像するときに現れるぼんやりしたイメージみたいなもので、
例えばラジオを聞き終わったときに、
あ、この京介さんと林さんがあんなことを話していたなっていうふうに思い出す、
これは観念なんですよ。
おお、そうなんだ。
うん。
例えばね、火傷したときの暑さを思い出すとか、
あとは今春ですけど、夏の太陽を想像して、
すごい眩しいような夏の太陽っていうふうに想像するとか。
うんうんうん。
それって今感じるわけじゃないんだけれども、
その感覚自体は思い浮かべることができる。
うんうんうんうん。
つまりそのロックのイメージと、
前回さ、映画のイメージで、
心がスクリーンで、フィルムがもので、
その伝えたものが観念ですかって言ったと思うんですけど、
その生々しいものっていうのが印象というふうにラベルを付けて、
思い出したものとか想像したものは観念っていうラベルを付けてっていうふうに
フィルムは区別するんだよね。
同じスクリーンの映像なんだけど。
うーん、なるほど。ロックは分かれてなかったんだね、それが。
分かれてない、うん。
思い出したこととかも全部観念だったんだよね。
うんうんうん。
はい。
で、それを分けると何ができますかっていう話なんだけれども、
このフィルムは結構大意義っていうのが、
この観念付けた記憶とか想像っていうのは、
全部印象のスピーなんだっていうふうに言い切るんですよ。
おー、なるほど。ちょっと上下観点出てきたね、そこに。
そうそうそう。まさに前後から上下という、
だから印象が先でまさに観念が後っていう感じで、
前後か、はいはいはい。
そう、これはそのままコピー原理って言ったりするらしいんですけど、
基本的には印象なしには観念って生まれないんじゃねえかってこと言うんだよね。
観念形成のメカニズム
なるほどね、確かにね。
うんうんうん。
つまり、さっき言ったそのね、火傷の熱さとかって、
もう実際に火傷をしたっていう感覚というか印象?
うん。
火傷の熱さっていう印象がないと思い出すこともできないし。
うんうんうん。
で、もっと言うと印象を持つってことは、つまり経験するってことだから、
それ実際に見たり聞いたりする、
そういうふうな経験したいことっていうのは想像すらできないってことを言うんだよね。
うん、なるほどね、はいはいはい。
ところで、これちょっと例えばなんですけど、皆さん、
これですね、黄金の山を想像してみてほしいんですよ。
黄金の山ね。
黄金の山。
うん。
想像できる?
うん、できるかな。
どんな想像ですか?
今2つできて、
はい、はいはいはい。
例えば富士山とかあったとき、あれが全部金ピカのやつが1つで、
あともう1個は金ののめぼんが山のように積まれている様子。
はいはいはい、そういうことだよね。
の2つが想像された。
ありがとうございます。
多分それって結構皆さんも似たようなイメージだと思うんだけども、
いわゆる富士山みたいなものが全部金ピカ黄金のっていう話?
うん。
これってよくね、存在とは非存在のときに例に出されたりする話なんだけど、
多分前もね、何回か撮れることがあるんですけど、
僕らがそのいわゆる本当に金でできた山、富士山が金でできているっていうことは、
再建もしてないし印象としては持ってないじゃないですか。
でも今想像できたのは何でっていうと、
ここに印象として山っていうものの印象とか、
あとは黄金としての印象っていうのを受け取っていて、
その観念は持ってますよねと。
それをこの中で組み合わせるっていうときに、
黄金の山っていうふうな観念っていうものは考えることができるようにっていうふうに言うんだよね。
ただじゃあ本当の意味で金の塊って見たことありますかっていうと、
なかったりするじゃないですか。
そうね。
でもそのいわゆる金というものとかそういうものと塊っていうものは、
それぞれもちろん観念としては持っているから、
それを組み合わせることで黄金の塊っていうふうな観念もできて、
その観念と山を組み合わせると今度は黄金の山ができますみたいな、
そういうふうにいろんなパズルというかブロック合わせみたいなのができるんだけれども、
そのとおりにやっぱり印象としてのお見出しの経験が必要だというふうにHUMEを考えるんだよね。
そうだね。だから手札としてその印象と観念がないと、
そもそも組み合わせようがないよねっていう話だね。
そうですそうですそうです。
観念の基本概念
なのでそういうふうに考えるとHUMEはあくまでも観念を使っていろんなことを想像できるんだけど、
ちゃんと印象に基づきましょうと、印象のコピーとしての観念がないと、
本来的に僕らは考えることができませんねっていうふうに言うんだよね。
納得。
納得する?
これってROCKとも近い感じがするじゃん。
ROCKも経験で観念があって、観念を組み合わせることを考えましょうって言ってたから、
一緒じゃんとかって思っちゃうんだけれども、
じゃあ何が違うのってことをここから伝えていきますね。
あれだよね、ROCKの時はこの観念まで行った後に、観念を組み合わせる、複合観念とか、
それを組み合わせることで知識が導き出されるよねみたいな話をしてたと思う。
そこがたぶん近いところだよね。
それは近い。
と、今回の想像できるよねみたいな印象と観念を元にか。
それがその違いみたいな話だよね。
抽象観念の議論
そうだね。
何だっていう話なんですけれども、さっき観念の話をするときに、赤いリンゴとか青い空と一緒に、
正義とか神っていうことを僕は言ったんですよ。
これって抽象観念なので、まるして存在はしてないじゃないですか、世の中。
物としては存在しないじゃないですか、正義とか神ってね。
そうなんだ、物質としてはね。
おそらく。
神に関してはクエスチョンな人もいるかもしれないけどね。
そうそうそう。
っていうときに、観念でいくと、これ両方はどっちも説明できるんですよ。
実在するかどうかを置いといたとしても、やっぱり観念としての神っていうものは語ることができるし、
それについてもちろん議論もできるよねと。
ああ、あとロックの方だとね。
ロックの方だとね。
なるほど。
正義も同様で、正義の観念っていうものがあって、それについて語ることができますねっていう話なんだけど、
これヒュームに言わせると、観念っていうもの、ロックの観念は印象と観念に分けたじゃん?
うん。
そういうときに、あれちょっと待てよと、神の印象ってみんな持ってましたっけ?っていう感じで言うんだよね。
そうだね、確かに。さっき印象と観念の前後関係あったときに、その印象とってなくね?ってなるよね、正義とか観念は。
そうなのよ、そうなのよ。
リンゴとか空は印象通ってるけれども、正義通ってたっけ?みたいなね。
そうそうそう。
ロックだと、そこは述べてなかったんだね、特に。
述べてないというか、心の中で思ったこととかも観念なので、ロックだと。
例えば心の中で神の像を思い浮かべるとか、例えば聖書を読んで神というものをすごく身近に感じるとかって思うと、それを神の観念だって言えちゃうんだよね。
わー、なるほど。そっかそっか。教会に通って説教を聞いて、神を感じたら、それはその人の観念なんだ。ロックの話で言うとね。
観念だって言えちゃうと。
あー、なるほど。
ヒューマンだと、それって印象ないですよねって言うんだよね。
なるほど、そっか。面白いね。確かに違うわ。
例えば聖書を読んで、すごく神聖さを感じましたとか、神様の素晴らしさを感じましたっていうことは言えるかもしれないんだけども、
あくまでも、罪さまの素晴らしさを感じただけであって、罪そのものの印象を感じたわけではないよね。
だから、神様が何か聖書に書かれていることについて語るのはいいんだけど、神そのものについて語るってできないって言うんだよね。
えー。
じゃあさ、正義はどうなのと。正義も感じるだけじゃんって言うんだけども、
冒涜って話はまた後ほどちゃんと取り扱うんだけど、正義で例えば盗みを働いた人に対して怒りを覚えるとか、ぶらしめてやろうと思うって言った気持ちが出てきたりするじゃない?
そういう時にそのいわゆる心情とかっていうものを起源にして印象も起きるよねっていうふうにヒューマンは考えるんですよ。
印象と観念の違い
だからリンゴとか空みたいに外のものじゃないんだけれども、明らかに生々しい怒りを感じるとか、生々しい不正だ、不誠実だっていうことを感じるってこと自体が正義の印象っていうふうに言えるよね。
なので、正義の印象は得られるんだけど、罪の印象は得られないっていうふうにそこを分けちゃうんですよ。
恐ろしいなあ。すごいね。
どう?この感覚。
さっきハヤトが言ってたじゃん。黄金の山か。それと同じだね。だから、正義とか神が黄金の山なんだ。
組み立てる妄想。
同じだよね。だから神とか、一応やったら黄金の山そのものを見て、印象として捉えて、観念として黄金の山は持ってないけれども、黄金の山は作れるよね。それについて、
あったらいいよねとか、俺実は見たんだぜみたいな嘘じゃないけど、そういう話をできるだけ盛り上がれるって言ってたじゃん、みんなで。
それと同じように、例えばそういった泥棒を見て怒りが云々とか、正義の心が沸くとか、聖書を読んで、あと説教を聞いて、信仰の心をとか、その印象をもとに神の偉大さを感じるとか、神のありがたさを感じるみたいなものが印象観念として、
残った上で、いろんな説教の話、いろんな良いこと悪いことの話、その印象と観念を統合して、自分で勝手に正義らしきものとか、神、正義とか神ってものを自分で作れるわけじゃん。黄金の山と同じように。
で、それについてみんなで、神ってすごいよねーとか、正義大事だよねーとか、悪は殺しめるべきみたいな技能はみんなで盛り上がれちゃうみたいなのが、このHUMEの話からだと、なんかできちゃうよねーと思った。
ただね、ちょっと1個訂正で。正義は、実は印象として受け取ることができるんですよ。HUMEに言わせると。
えー、そうなの?
うん。正義っていうものそのものを印象として受け取ることができるようにHUMEは考えるんだよね。
えー、そうなんだ。
そう。正義観とか正義っていう心みたいな話はあるんだけど、神っていうのはそれができないよねっていうふうにHUMEは考えますと。
あー、そこは違うんだ。
だから黄金の山に一緒なのは神の方だね。
はいはいはいはい。
でもまあ、存在としてまだ認められないというか、経験することができないもの。
まだ誰も経験してなさそうだよねーみたいなね。
そう。
で、正義は経験できるんだよ。だからHUMEからすると。
えー、そうなんだ。
うん。
さっき言った、ハヤトが言った、泥棒が云々みたいな?とか悪いことしてる人見たときの怒りみたいな。
鬼殺しめてやろうとかっていう気持ちとか怒りとか、そういうものを引き止める。でも怒りだけじゃないよねとか。
うーん。
殺しめてやろうっていうようなことだけじゃないっていうふうにやったりとか。
あとはその、いわゆるその泥棒を捕まえて月に突き出したとかっていう経験をしたときに、そこに対して正義感から来る行動だとかっていうようなことは言えたりするじゃない?
うーん、そうなんだ。あー、そこに関してはちょっと不義は落ちてないかな、まだ。
なるほどね。
この辺りはね、また別の道徳論みたいな話で取り上げようと思うんで。
あるんだ、それはそれで。
あるある。
ヒュームの?
ヒュームの道徳論が。
えー、はいはいはい。
前回おっしゃった通りで、やっぱり神がいないと。今言った通り神っていうものは印象としてはヒュームからすると受け取れないから、
ヒュームって存在しないかもしれない。もっと言うと存在すればどうかとか言えないよねみたいな話にヒュームはちょっと棚上げするんだよね。
うーん。
そういうときに、要はそういう世界において人間とはどういうふうに世界を認識するかもそうだし、その中でいわゆる道徳とか正義って何?っていうこともやっぱりテーマに入ってくるんだよね、ヒュームの中の。
へー、なるほど。
そっか、ちょっとまだ不二は落ちてないけれども、神と正義の違いで言うと、正義を感じろって言われたら、確かに、これ100歩譲ってたけれども、
印象としてさっき言った通りね、その正義感みたいなものとか、怒りみたいなものは感じることができるかもしれないけれども、その正義っていう価値観が、ちょっとそれを感じれるって言っちゃうと、なんか正徳的に感じちゃうよね、ちょっと。
ほー。
正義の価値観ありきで、その正義の印象を感じられる気がするから、そのタブララサ的な話で言うと、その正義の印象って難しい気がするんだよね。そこはちょっと不二落ちないポイントで。
ただ神は、神を感じろって言われた時に、なんか良いも悪いもさ、わかんないじゃん。っていうのは、その正義とかとの違いかな、みたいなのを感じるね。神の方がわからないレベルというか、印象を通らなそうレベルは高い感じがする。
そうそうそう。あとで腹落ちするシーンあるかもね、まだ知らないけれども、でもロックはその正義も神も同じように観念として使いましたっていうところと、ケンはそこに一本線を引こうとしたというか、同じちょっと抽象的な概念。
リンゴと神を分けるのは簡単じゃない?でも正義と神を分けようという時に、やっぱりロックは分けてなかったものをヒューマンさんに分けて考えたというところが、まずこの観念というものを印象と観念に分けましたというところの大きな違いなんだよね。
そうだね。物質学と物質と、例えば抽象概念は違いますよだったりとか、印象っていうところ、ちゃんとそこの前後関係を作ったっていうのは、そこは本当に世界が広がるよね。今回、それで勝手に盛り上がっちゃってるというか、想像膨らんじゃってるだけなんだけどね、自分の方はね。
そうそうそう。でもさっきさ、僕が道具をまず説明しますっていう意味はなんだか分かるでしょ?
いやーそうだね、確かに。この道具の使い方というか凄さみたいなものを分かんないと、じゃあこれをこう使いますってね、確かに分かんないかも。
分かんないし、「なんで?」とか、「なんで今そうやって使っちゃったの?」とか、「なんで包丁をアクロバティックに使っちゃったの?」みたいになっちゃったりするから。
確かに確かに。
そうそうそう。ちゃんと印象と観念っていうのが分かれてますって、やっぱりすごく大事なんだよね。ちょっと地味に聞こえるかもしれないけど。
で、やっぱりこれ自体が前回お伝えした、前回からお伝えしてるような、神を前提としない世界。
今言った通り、神の印象がないってことは、神の印象として持たない人間、神の観念を持たない人間でも世の中を理解できませんとか、
こんなことまで考えれませんっていうことも出発になってくるんだよね。
あー、なるほど。そっかそっか、そうだね。
というところで、まずこの2つの概念がありますよ。
もう一個重要なルールというか、考え方があって。
観念の連合の法則
そのルールっていうのが、観念の連合、連なるにあう。連合国とかの連合だね。
っていうような言葉の表現があるんですけど、
今まで印象と観念と分けて話したんですけど、ここから観念の話で、
あそこで黄金の山で話したみたいに、観念と観念をくっつけますねっていう話をしたじゃないですか。
これっていうのはすごく大事な働きなんだけれども、これってちゃんとルールがあるよねっていうふうにヒューマンは考えるんだよね。
え、そうなんだ。
そう。それがないとただただ観念同士が偶然つながるだけで、要は何だろうな。
ただの大喜利みたいになっちゃうの?
大喜利とか本当に無意味な連想ばかりになっちゃう。
例えば黄金の山とか銀の山とか、別に銀の地でも全然いいんだけど、
そういう観念と観念が結びつくときに、言葉の上ではなんとでもできるんだけれども、
それが本当に意味のある繋がりなのかとか、知識として役立つ繋がりなのかっていうところ、何らかの制限がないとさ、
人間の知性って無限に処理しなきゃいけなくなってるじゃない?
あー、はいはいはいはい。
もっと言うと、これは想像なんだけれども、
もともとは神がそういうものを保証してくれて、
でも神が作ったものを人間が理解する。
だからそもそも別に黄金の山ってないからそれについて考える人はないよねっていうところなんだけれども、
でもやっぱり神がいない中で人間がその物事を考えるとか、
観念と組み合わせて何かを形作っていくっていうときに、
何かの枠組みがないと無法信じられないっていうふうにヒューマンは考えたんだと思うんだよね。
うーん、なるほどね。
これはちょっと想像が入ってるんだけれども。
あるいはそういうのがないと結局人間の知性とかって言うことができなくなっちゃうから、
それをちゃんと枠組みを作ってルールを作ってあげましょうっていうことを考えるんですよね。
それは観念の連合。
連合、はい。
で、それは3つ法則として立ててるんだけれども、ちょっと順番に紹介しておくね。
うん。
分かりにくい話なんだけども、1個目は類似っていう考え方で、
3つの法則の探求
似てるものが観念同士で結びつきやすいですよねっていう話なんだよね。
例えばリンゴを見て梨を想像すればどっちも果物は梨、丸いしみたいな。
リンゴを見てドラゴンフルーツとかって思い出す人って多分そんなに多くない。
またリンゴを見て卵を思い出す人っているかもしれないけどちょっと遠いよねみたいな。
まさに類似っていう近さの話だから。
また白くて丸い犬を見て昔飼ってた白い猫を思い出すとか。
っていう時にやっぱり黒い猫をそのままパッと思い出すことって多分ちょっと遠いと思うんだよね。
っていう感じで何かに似てるとか、繋がりがあるっていうものを観念として引っ張っておきやすいとか、結びつきやすいとかいうことをまず1個考えたりします。
はいはいはい。
2つ目は近接っていう概念、近いっていう概念で、この近さっていうのは時間と場所が繋がるっていう話で、
例えば公園に行くと自分のちっちゃい頃を思い出すとか、あるいは夏祭りのお林の音を聞くと金魚すくいとか浴衣みたいなものを思い出すみたいな感じで、
場所とか、これは場所だね。近いと近いものを思い出したり想像したりしやすくなる。
はいはいはいはい。
そういうふうな繋がりが関連動詞であるよねっていうふうなことを2個目で言ったりするんだよね。
うんうんうんうん。
3つ目が前回もちょっと言った因果関係なんですけど、こうやってまさにAが起きたらBが起きるみたいな話で、
例えばね、じゃあ眠くなるとあくびが出ましたとかって言うときに、これ原因は眠気?眠くなる。で、結果はあくびじゃないですか。
うん。
うん。っていうときにその想像とか関連の中でも、その眠いとあくびっていうものが繋がりやすいのではないかっていうふうにヒューは当然言うんだよね。
はいはいはいはい。
で、これって実は面白くて、科学的に眠気とあくびの繋がりって証明できるよっていう現代ではあるかもしれないんだけれども、
当時ってまだそこまで科学的な時代とか因果関係って証明するってことができてなかった時代だったりするし、
そもそも因果関係って神によって保証されるものだったわけなんだよね、この時代って。
あーなるほど。
で、これはある種、次回これも言うんだけど、因果関係をヒューも否定したいんですよ、実は。
うーん。
そう、否定したいんだけれども、人間のその関連の繋がりの基本としては、実はこういう働きがあるよねって。
うんうんうんうん。
例えば眠い、あくびが出る。眠い、あくびが出るっていうのが毎日起きるとすると、
これ眠いからあくびが出るんだっていうふうにやっぱり人間と捉えるねっていうふうに言うんだよね。
うーん。
というような形で、この類似と近接と因果関係、この3つっていうものがこの関連の連合のルールとしてあって、
うーん。
例えばさっきのその黄金の山ですとどれになるんだろうな。
あー。
まあ、例えば類似か山っていうものがあって、それに似たものとして近似できているっていうふうに置き換えてると思うから、
うんうんうん。
多分類似っていうもので作ってると思うんだよね。
うーん。
うん。
なんかそういうイメージ湧くかな。
うーん。
あんまり。
黄金の山ってあんまくっつかないからね、むしろね。
まあ普通はね、似てないからね。
山に似てるものとして黄金の山を考えるってことができると思うんだよね。
あー、はいはい、なるほどね。
うん。
だから黄金の山って印象がないから一回山とか黄金っていうものを経由して黄金の山に行きますみたいな。
うーん。
そういうふうな発想かな。
はいはいはいはい。
うん。
というふうにして、ある種のヒュームは観念っていうものがバラバラにあるだけじゃなくって、一定のルールに従ってちゃんと組み合わされるんだよとか、結びつけたりとか言ってるんですけれども。
これね、さっきもちょっと言った通りで、実はこの三つの因果関係とか因果性っていう話が、このヒュームがまさに乗り越えようとした概念でもあるんですよ。
うんうんうん。
これは繰り返しになっちゃうけれども、当時は神様っていうものがあって物事が進んでいくとか、地中だっていうふうに考えたわけですよね。
うーん。
でもさっきの通りで、そのヒュームは神の印象ないじゃんと。
ということは神が存在するかどうかっていうのはちょっと言えないよねっていうのが世界観で話を進めちゃうんだよね。
うーん。
そうすると、例えばその、似ているとか時間とか空間的に近いっていうことは別に経験として言えるんだけど、その因果って本当に経験だけから言えるんでしたっけっていうことを、実はヒュームは考えてるんですよね。
あー、そうなんだ。なるほど。
そう。これちょっと次回の作業でもあるんだけれども、実は眠くなったらあくびが出ます。毎日起きたときに。
それってじゃあ、1年後も本当にそうなりますかとか、100年後の人もそうなってますかっていうと、たとえば分かんなかったりするじゃない。
うーん。
すると、眠いとあくびが出るっていうのは、いわゆる100%の因果関係かどうかってやっぱり分かんないんだよね。
そうね、うーん。
すると、もしかしてここに、その因果関係っていうことを信じ込んでる人間のバグというか、エラーがあるんじゃないかとかっていうことを考えてきます。
おー、はいはいはい。
はい。
てな感じでね、次回その因果関係っていうのを乗り越えたヒュームの話をしていこうと思うんですけど、ちょっと今回でまとめていくと、出発点としては印象と関連だよね。
因果関係の疑問
うーん。
まずこれがヒュームの一番大事な部分なので、この違いがちょっと理解いただけたかなっていうところと。
あとはその関連っていうものを使って、どんなふうに人間がルール立てて、いろんなものをある種の想像していくかとか、知識として持っていくかということをお伝えしていきましょうと。
うんうんうん。
うん。で、結構ね、なんでこんなに細かいかっていうと、やっぱりそうするとロックの関連と近いんですよ、この話って。
あー、なるほど。
だってものを経験して、心に浮かんだものを組み立てていって、いろんなものを想像するっていうのは話だから、そのエプロン自体はロックと同じだけど、ロックは引き継いでるからなんだけども、やっぱりそこはすごく似てるんだよね。
あー、だからこの印象っていうところ、特に。そこを経由の関連みたいなところをしっかりとロックとの違いを理解しておかないと、次に話すあれだよね、多分その因果が。
ここのところが多分理解できなくなるみたいな話なんだね、きっと。
そうです、そうなんです。うんうん。
はい。なので、土台としてすごく重要なポイントなのに、ちょっと時間をかけてお伝えしていきましょうというふうな感じなんですよね。
なるほど、今やっとちょっと遅れて、その因果関係のところが一番面白いというか、さっき人間のエラーだみたいな表現が入ってました。
意味が今やっと、1分何分か遅れてわかったんだけれども。
はいはい。
多くの人間が、この因果のところを多分勘違いしてるよね、みたいな。もしくは無意識で変に勝手に変な因果関係作っちゃってるよね、みたいなところが、ヒュームにとっては違和感だったみたいな感じなんだろうね。
そうですね、そうです。
当時で言えば、神による因果とか秩序っていうふうな話だし、現代としてもある程度常識的に、これとこれって因果関係でしょとかって言ったときに、果たしてそれって本当って疑うことができるよねと。
というふうな話だし。
あとは、神を前提としないっていうところが難しさっていうのは常にヒュームの話はつきまとっていて。
連合として類似近接因果関係ってありますよっていう話も、もちろんこれもっと先に言えばよかったかもしれないんだけれども。
僕が物事をいろいろ考えますっていうときに、経験を基にしてますが経験論の考え方じゃないですか。
なので、経験を基にするっていうことは変わらないんだけれども、考えるっていったときに、果たして人間って自由に考えられるのかっていうことが出てくるわけですよね。
なぜかっていうと、それまでは神様のある種、枠内で考えるってことが当たり前だったわけで。
神様がいないときに人間が考えてどういう営みなのっていうことにも目を向けないと、ヒュームの神を前提としない発想というのにつながらないんですよ。
ヒュームとロックの比較
神がいないときに人間の思考とか発想ってもうバラバラで秩序がないのって言うと、実は秩序があるんだと。
その秩序っていうのは、類似と近接と因果関係ってことの3つがあって、これによって人間が考えるとか、観念を決めらせるっていうことが、実はある程度訳があるんだけど、一定に自由にできるんですよ。
だからこれに神っていなくてもいけるでしょっていうことを言ってるんだよね。
なるほど。人間の挙動の方を説明してるのか、これ。
そうですそうです。人間側の仕組みの話。
なので常に神を前提として神を頼らないとしたときに、どこまで説明しなきゃいけないのかとか、どこまで考えなきゃいけないのかっていうことがヒュームはやってるんだよね。
確かに。そうするとロックより深掘りというか、その感じはちょっとわかる気もするし。
前回もロックのイギリス経験論から言わせると、合理論的な話って包み込まれちゃう。
そうだね、イギリスではね。
合理論側が反論だったりとか論破しきれない部分って出てくるよなと思ったんだけれども、
そのもっと深いレベルでというか、同じことが起こりそうだなって思った。
はいはいはい。そうだね。
尖らせるから、でも逆に尖らせたことで、それは言えるけどこれはちょっと言い過ぎじゃないとか。
ああ、はいはいはい。
そういうのに見えてくるっていうのはヒュームの面白さでもあると思う。
でも今回はその土台の話だけなので、まだちょっとピンとこない部分もあると思うんですけれども、
次回以降そういう因果みたいな話とか道徳みたいな話とか、
もう一個面白いのが事故、私っていう観念で何なのみたいな話とか。
へー、その話してるんだ。
してる。そういうところをテーマとして扱う中で、ヒュームってこんなことを言ってたんだとか、
確かにヒュームの言うことを踏まえるとこう言えるかもねとかっていうことを一緒にまたこれも楽しんでいこうと思ってますっていう感じですね。
はいはい。わー、わかりました。
今回はね、確かに最初言った通り道具の話だからね、確かにこれが、
実際これで何ができるのとかね、どこに繋がっていくのっていうところはまだね、
こう、なんだろうな、想像でしかないというかね。
はいはい。
次回ですね、それをじゃあ実際どう使っていくのかというところに倒していくというところで見ていきたいと思います。
では次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。