ヒュームの哲学と印象
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、前回はヒュームの哲学を理解するために必要な概念として、印象と観念というものを見てきたというところでした。
はい、そうですね。前回は道具ですよって話をして、ここからまさに料理の話。
前回が包丁とまな板を学んだとしたら、そこからどう料理するのか。
もっと言うと、ヒュームという人は、人間の本性とか本質みたいなものって何かとか、世界というものはどういうふうに捉えているかということを見ようとしましたよ、というような話をしたとは思うんですけれども。
それに対して、今日は1個テーマとしては、因果関係とか因果性みたいなものを取り上げていきますよと。
なんでこれがテーマになるかって話もちょっとあるんで、少し前回の話も踏まえつつ、因果性とか因果関係って話にしていこうと思っていくんですけれども。
前回にお伝えした通り、ヒュームさん、いろいろ考えましたっていうときに、僕らの心の中に現れるもの、僕らが認識できるものっていうのを印象っていう先に挙げてくれた、
今まさに強く感じている、例えば暑いとか寒いとかでもいいし、怒ったとかするのもいいんだけれども、そういう強い感覚的なものと、
あと観念ですね。これは記憶とか想像するもの。昨日おやつ食べてるなとか、1年前に何かしてるなとかっていうのは記憶らしい。
前回、黄金の山っていう観念も扱ったと思うんですけど、見たことないけど、黄金とか山っていう観念を組み合わせると、作れるねとかっていうふうに想像できる。
っていうふうにして、それは観念だっていうふうに言いましたよ。大事なのが、その観念、いろいろ考えたり想像したりするものっていうのは、いわゆる印象のコピーにすぎませんよと。
僕らは実際、黄金とか山って見たことがあるから、そのコピーである観念を使って、黄金の山っていうものを作れると。
だから黄金の山っていうものの印象はないんだけれども、それは僕らは想像することができないっていうふうなところもお伝えしたと思うんですよね。
なんかこの印象と観念がかなりあれだね。HUMEの中でHUME独特の言葉として、イメージとして使われてるんだね。
そうです。かつと印象から始まるというのが、めちゃめちゃHUMEの大事なところなんだけれども。
逆に言うと、これはちょっと前回お話したと思うんですけれども、例えばその印象がどう頑張っても存在しないもの。
例えば前回の神様みたいな話をしたと思うんですけれども、神様って頑張って世の中に認識として、印象として神様そのものを感じようみたいなことをしたとしても、
それって無理だよねと。そうすると神様っていう観念というものは、ぶっちゃけ意味を持たないかもしれないよねっていうことまでHUMEは主張するんだよね。
因果関係の探求
はいはい。ある意味その想像に過ぎないよねと言えるってことだよね。HUME的にね。
想像すら観念なので、想像してると思ってるけど実はそれってちゃんと想像できないよねっていうことを言うんだよね。
なるほどなるほど。そうかそうか。想像してるつもりだよねっていう話ね。
そうそうそうそう。
前回ちょっと補足になっちゃうんですけれども、神っていうのは印象を持たないけど、スネーギは印象を持つみたいな話をしたじゃないですか。
あー、なんかあったね。
そうそうそう。これ結構兄貴もね、それが終わった後に話してて、なんかしっくりこないなーとか、スネーギも印象なくないとかって話があったと思うんですよ。
ロックの話をすると、ロックさん観念っていうのをめちゃめちゃ広く捉えたので、神様であれ、正義であれ、あれば目の前にリンゴとかであれ、全部観念であれっていう話をして、同じ箱に入れちゃったんだよね。
はいはいはい。
でもそれはHUMEはもっと細かく分けて、印象と観念ってすることで、神は印象がないから外れますと。
あーはいはいはい。
でも正義は印象があるから外れますとかっていうふうにここを分けたんだよね。
あー、そこだよね。なんか正義も、ある意味HUMEでいう印象を直に経験するみたいな感覚で捉えた時に、正義も無理じゃないかみたいな話を確か前回したんだよね。
神は確かに経験できないのは分かるけど、ハヤトが言う正義は経験できるでしょって言うと、それおかしくないみたいなのはうまく奥に落ちなかった気がするよね。
そうだよね。
で、実際これはHUMEの道徳論っていう別の結構大きなテーマがあって、これちょっと次の次とかにやろうと思ってるんで、そこでまたちゃんと話すんですけど。
ちょっとね、いろいろ考えてて思ったのは、要はプラトンのイデアみたいなさ、神そのものとかさ、正義そのものみたいなものを想像すると、やっぱこれはどう頑張ってやっぱ印象ってどっちも持てないんだよね。
はいはいはいはい。
うん、なんか正義そのものを感じてくださいとか言ったら多分無理じゃない?
うん、そうだね。
でも、いわゆる世の中一般の正義としての行いとか、正義としての感覚っていうのは、例えば味わえますねと。
例えばだけど困ってる人を助けようと思うとか。
あるいは、例えば世の中の犯罪の様子とかを見て、腹立たしいとか枝立たしいと思う。これをいわゆる、腹立たしさイコール正義感だよねっていう風にも言えますよねと。
うんうんうんうん。
なので、それを内的な感情として、自分自身の正義感とか、正義の心っていうのは感じれますよねと。
はいはいはいはい。
で、一方で神様に関する部分じゃないかって言うんだけれども、例えば、それはあくまでも神様っぽい神々しさとか、異形の念とかを感じるかもしれないんだけれども。
それイコール神の印象ですかっていうと、それって違うよねっていう風にヒューマンは考えるんだよね。
あー、そっか。今の流れからするとそうだね。なるほど。さっき、正義そのものは感じられないけれども、いわゆる正義、いろんな正義がある中での正義感は感じられるよねっていうのと同じで、
神そのもの、神とは何かみたいなのは感じられないけれども、神っぽいよねみたいなものは感じられるっていう風にしたときに、そうやっていくと急に神っていうのも一人しかいないとか、絶対的なものが。
だから神そのものを感じろとか、みんなは神そのものを感じてるんですってみんなは言ってるけれども、
いやいやと、あなたたちは神そのものを、人間はそもそも神そのものとは感じられなくて、あなたたちは感じるのは、そういう正義とかと同じような感じで、神らしいものなら、私も言い換えできるけれども、神そのものじゃないよねーみたいなのがヒュームのイメージで。
そうだねそうだね。そこである種一個分けてますよというか、より細かく人間が認識できるものとできないものっていうところを区別してますよっていう風な話なんだよね。
すごいとこに製品がね、これ。
そうね、かなり微妙なセリフ。でもかなり手前に引いちゃってるようなのがあって、要は印象がないものは存在しないとかいうと、どうなるのかっていうのは、実は今日やっていきたい、因果とかの話になっていくんですよね。
もうちょっとそこの話をしていくんですけれども、これはちょっと前回にお伝えしたんですけれども、その印象がコピーされて観念ができますって言ったときに、観念っていうものを人間は色組み合わせて、要は連合させて、いろんな観念を作っていきますっていう風な話をしたと思うんですよね。
因果関係の印象の検証
その繋がり方に類似っていう似ているとか、近接っていう時間とか場所が近いとか、その中の3つ目として因果関係っていう話をしたと思うんですよ。
で、この3つを使って人間っていうのは、ある種観念と自然と繋げちゃうというか、色んな観念を組み合わせちゃう、そういうような心の傾向があるよっていう風な話をしていくんだよね。
だったときに、この3つの因果関係っていうのは今日のテーマなんですけれども、これはなんで問題になるかっていうと、僕らって普段生きていると、いろんなものをAが起きるからBだとか、これがあったらあれをする。
それこそ、例えば雲が出てきたら雨が降るとかでもいいんだけれども、そういう風に予測しながら生きてるじゃないですか。
予測、はいはいはい。
これって、いわゆる因果関係を想定しているっていう話でも繋がるんですよね。
これは別にヒューマーが言ってることではないんだけれども、以前どこだったかな、人間の心とかで言ったかもしれないんだけれども、人間の脳は予測装置であるみたいな話って覚えてるかな。
脳科学かな?的な話。
脳科学かな?そうそうそう。当時は別にヒューマーの時代にそういうのはなかったんだけれども、おそらく人間の脳の働きをいろんな角度を見たときに一つあるのが、予測の誤差っていうのを検知して、それを埋めましょうとか、それを最小化しましょうみたいな。
そういう傾向があるんじゃないかっていうのは、現代の脳科学でも言われたりするんだよね。
はいはいはい。
で、その予測の根幹なのはやっぱり因果っていう話で、これを捉えるっていうことは結構やっぱり人間にとってすごく大事な営みだよねっていうふうにヒューマーも考えます。
おーすごいね、そう考えると。
そう。で、考える。考えるんだけれども、ヒューマーはここで疑うんだよね。
ほう。
あれ?因果関係って印象ありましたっけと。
そこで印象出てくるんだ。
そう、そこで印象が出てくるの。
で、因果関係っていう概念も一つの想像とか観念だとすると、それに対応する印象がないといけないじゃない。
わー、なるほど。なるほどね。そっかそっか。因果関係っていう観念について、これって印象初でしたっけっていうことをヒューマーは考え始めるんだ。
そうです、そうです。
疑ったんだね。
やばいね。やっぱこういう人は何なんだろうな。自己認識でいうかさ、自分の考えに対する自己批判か。脳力の高さ異常だね、なんかね。
異常だよね。絶対して印象と考え、線を引いた瞬間に、何って印象あるのっていうのはやっぱりあらゆるものについて問うことができるんだよね。
自分の考えとかそのものにもね、自分の考えが観念だってわかってるから、この観念どこから来たんだっていうのを常に検証してるんだね、同時にね。
そうです、そうです。
やばいね。
やばいよね。っていうのを、自分がその連合の参用とっていった一つの因果関係っていうものにも適応するんですよ。
例えばね、じゃあ原因Aと原因Bがあるとしましょうと。
で、例えば因果関係ってどこにあるのって言われると、AとBの間かなとかって言ったりすると思うんだけど、でもその間って見たり観察できますかっていう話ですよ。
例えばね、じゃあ何かお湯、水を熱したらお湯が沸くとかさ、あと机を叩いたら音が鳴るとかっていろんなことについて因果関係と言えるわけですよ。
はいはいはい。
っていうときに、例えばじゃあその火、例えば熱が水を沸かしてお湯にする力とか、あとはその机を叩いた時に音が鳴る仕組みみたいなものって感じられますかっていうふうに考えるんだよね。
これヒュームが考えてるの、これ。
ヒュームが考えてる、うん。
例としては、他の例も入ってるけれども、ヒュームもこういうことを考えてるんだよね。
えー、あの、何だなあ、仮にさ、その因果関係って関連だよねって、印象どっから出てんだろうねって疑ったとしてだよ。
はいはい。
もうこれでいいじゃん、印象。
うん。
お湯を温めたら、
そうだよね。
火にかけたら、あ、違う水か、水を火にかけたらお湯になったっていう印象でいいじゃんって思うけど、違うんだ。
はい、いやそうなのよ。
それね、実は僕も思った。
うん。
僕もっていろいろ考えたし、見てたんだけれども、
まあね、現代科学の発想からすると、お湯が沸くっていうのは結局その熱エネルギーっていうのが水の分子を動かしてますよねっていうふうに説明できるよねと。
その摩擦で温まってんだよねーっていう話でね。
摩擦じゃないよね。
熱エネルギーと摩擦は別物。
違うの?
熱エネルギーと摩擦は別物。
違うの?
あそこはちょっといいじゃん。
違うの?水分子が擦れて温まってんじゃん。
はい、違います。ちょっと検索してくださいそれは。
使えない関連だね、もう。
そうだね。間違ってるよね、完全に。
言わせんでした。
音が鳴るのも、ある種物体の振動ですよね、空気を震わしてそれは耳に伝わるですよね、とかっていうふうにも言えるわけ。
でもそういうようなことがあった時に、知識としてはそれはわかるよねと言えるんだけれども、
果たしてそれを僕ら普段生きてる時に本当に感じてますかっていうふうに言われると、どうなのっていうふうにやっぱり言えるわけだよね。
はいはい。
例えば、火にかけたら水がお湯になるっていうふうな残念とか、
月を叩いたらコンコンって音が鳴るっていうふうな残念っていうのを仮に想定した時に、
そういう時は神と一緒で感じることができないんじゃないっていうふうに言いますと。
へー、はいはい。
因果関係の認識
で、実際に起きてることをある種真摯に見てみると、
さっきでも兄貴が言ってくれたけれども、ただ火で熱したらお湯が沸いたとか、月を叩いたら音が鳴ったっていうふうな繋がりってのは見てるだけなんじゃないかと。
その繋がりっていうものを見た時に、僕らはそれを隠関系っていうふうに間違って捉えてるんじゃないっていうふうにヒューマー考えるんだよね。
わー、なんで。
これをね、実は説明したというか、紹介してる一ノ瀬さんっていう元気の哲学者の方がいらっしゃるんですけれども、
その人の語り口がたまたま面白かったのでちょっと紹介したいんだけれども、
さっきはね、手を動かしてテーブルに指を当てて音を鳴らしましょうっていう時に、
その手を動かしたりとか、テーブルに手が当たるっていうところまでは見れるよねと。
その印象がわかりますと。
かつ音が鳴った時に、それは耳で聞こえるから、その音も近くできますよね、印象を持てますよねというふうに言うんだけど、
ただ僕らはその、私が机を叩いたことによって音が出ているという時に、
そのによっての部分って、どうして人間で知覚できるんですかねっていうのをヒューマーは考えたんですっていうふうに言ってたんだよね。
あれ、うーんってなっちゃった。
いやー、これすごすぎてさ。
すごいよね。
なんだその視点というかさ。
そうそうそう。
こんなのって絶対に日々疑わないしさ、
机を叩いたら音が鳴るでしょとかさ、
ノックしたらそれはコンコンって言うでしょっていうふうな感じなんだけれども、
そのノックをしたら音が鳴るのをしたらって本当かいっていうことを考えていくわけなんだよね。
やっぱりそれをちゃんと言える哲学者ってすごいし、
そこを問題意識を持ってちゃんと解こうとしたヒューマーってやっぱりもっとすごいなって思ったりするんですけど。
習慣と経験
そうねー。
で、そんなふうにちょっと話を戻すんですけれども、
先日パニックで言った通りで、やっぱり原因があるから結果があるとかさ、
なんか結果が起きたっていうことは、それには何か原因としての出来事があったよねっていうふうに普通は思っちゃうんだよね。
まあそうね、思っちゃうし、さっきの例えば水を火にかけたらお湯になるって、
100回やったら100回お湯になるしね、実際。
なるよね、そうなるなるなる。
それを経験、印象って捉えても、
ヒュームにその印象と関連を分けてもらった上でも、
それって印象だよねってやっぱ、
自分の場合は物理レベルが低いことが判明したから、
偏差値20のやつが見ても思うよね。
まあまあでもね、それって、
疑う必要があるって思っちゃうじゃない。
疑えないか。
そもそも言われたときに、そこって疑う必要があるって思っちゃう。
だし別にヒュームもそれを感じることしたいのは別になんか悪いとか、
因果関係が存在しないんだとは言ってないんだよね。
そうじゃなくて、ちゃんとどんなふうに生み出されたのかを見ていきましょうというふうにヒュームは考えていきますと。
で、それをいろいろ考えたときにヒュームさんはですね、
まさにアニメの経験とかでもそう、経験というか繰り返しっていうのはそうなんだけれども、
中間っていうふうなキーワードを持ち出すんですよ。
中間、はいはい。
つまり本当にその通りで、火にかけたらお湯になるっていうことをたとえば繰り返すとしたときに、
僕らの頃っていうのはそれに慣れちゃって、
熱を加えるイコールお湯が沸くっていうふうに、
そういう接続を勝手にしちゃうんだっていうふうにヒュームは考えるんですよ。
これが習慣という話なんだけれども、
でもね、これってたとえば何かすごくロジカルに導かれたものとか、
あるいは理性から導いて、
この世の真理として火にかけたらお湯が沸きますとかっていうふうに導いたものじゃなくって、
あくまでもその繰り返しの出来事に対して、
熱イコールお湯が沸くだっていうふうにくっつけちゃって、
まさにラベリングしたものでしかないよねっていうふうにヒュームは考えるんだよね。
つまり演劇とか機能とかってあると思うんですよ。
要は何か一つのとこが出発していろんなものを説明していくっていう話と、
要はまさに世の中のいろんなものを観察したときには、
これが共通の静止画とかっていうふうに1個持つ機能だと思うんですけど、
そういうふうに考えたときに、あくまでもこの因果関係っていうのは機能的なものではないっていうふうにヒュームは考えるんですよね。
じゃあこれ何が悪いのかっていうと、
要は当時の参画からすると、
因果関係とかこのような秩序ってまさに神が作った説理だとか、
あるいは自然の秩序、つまり人間とは関係なく存在するものっていうふうに捉えたわけなんですよね。
でもちょっと考えてみると、
さっきのストーリー、因果関係って僕らが習慣として見たもの、
例えば100回お湯を作るときに、
ちゃんと熱と水があればお湯ができるっていうのを繰り返したときに、
そこにある種因果関係を発見するというか、
そういうのをある種見出しちゃうっていうことは、
もしかして因果関係って人間の側にあるんじゃない?
というふうなことを考えるんだよね。
おー、はいはいはい、なるほど。
うん。
つまり、そういったものとものがつながるってことって、
自然の方に秩序があるっていうふうに、
それはある人とかある人、それは僕らも含めて考えてるんだけど、
そうじゃなくて、この因果関係っていうのは、
経験したものが蓄積されて、
そういう具合になったときの信念、
要は主観的な約束ごとなんだっていうふうにヒューマンは考えるんですよ。
はいはいはいはい。
うん。
この違い。
要は、因果関係ってすごく強固に、
すごい約束されてるというか、
まさにこう、ある種ちょっと真理っぽいもの?
うーん。
まあ、実はそうじゃないっていうふうなことをヒュームはここで言ってるんだよね。
いやー、これは難しいね。
ここまで言われるとちょっと難しいね、でも。
はいはいはい。
若干ポジショントーク入ってそうだね、ヒュームの。
はははは。
なるほどね。
難しいって言うとね、確かにその、
自然のね、その節儀が、実は、
その自然に節儀なんかなくて、秩序なんかなくて、
人間が観察した上で、勝手に導き出したものだ。
って言われたらそれはそうだし、
とも言えるなともすごい納得するし、
理性と因果関係
ただ一方で、
たぶん人間なんかが見てなくても観測してなくても、
例えばその、火が出たら木は燃えてるだろうし、
はいはいはい。
水は温まるだろうし、みたいな?
うん。
まあ、これもね、これは関連なんだけどね。
このシーンから言わせると、
もうこの想像自体が関連なんだけど、
でもそれはそれで、
あってもいいんじゃないかなとは思っちゃうかな。
人間がいないとこで、
営みもありそうだなっていう。
なるほどね。
その時にそれが要は因果なのかっていう話が、
たぶんひよみとってやっぱ大事なんだよね。
因果ね。
木がある時に木が燃えるっていうのは確かにそうだよね、と思うんだけど、
それって、火という原因が木を燃やすという結果を生んだっていう風に、
本当に繋げていいんでしたっけと。
あー、なるほど。
因果ね。
そう考えたら確かに面白いかも。
なるほど、なるほど。
ただ、火があるという出来事と、
木が燃えた、ちょっと火と木が聞きづらくて申し訳ないんですけど、
出来事と出来事がそれぞれあるのは間違いないんだけど、
果たしてそれって本当に、
どこで繋がるというか、
なんだろうな。
わかる気がする。
そんな単純なものだっけみたいな感じ。
プレイヤーってそんな少ないんでしたっけとか、
それを決める?それを決める変数ってそれだけでいいんでしたっけ?みたいな感覚?
そうね、それもある。
そこは何か…
あ、どうぞどうぞ。
実際にヒューマンはこのように言ってるんだけれども、
未来がどこに似ている?
要は過去の積み重ねで未来があるっていう風に僕らは考えるし、
そういう前提がないと、やっぱり因果関係で説明できますよね。
さっき言った通り、火にかけたらお湯になるっていうのは多分どこでもそうでしょう。
基本的にはね。
でも、ある種それって、実は論理的には説明できないし、
さっき言った通り、それって人間の心の中でしかないんだけれども、
僕らあまりにもその前提に頼っていろんなことを考えてませんかって言いたいんだよね、ヒュームは。
いやー、そうだね。
だから、例えばお日様が東から昇りますよ。
これってもう、ある種お日様との関係とか地球の事前とか考えるとそうなんだけれども、
必ずしも、じゃあ明日も本当に絶対に東から昇りますかって言われると、
もう言い切れなかったりするじゃないですか。
まあまあまあ、はいはい。
なんかめちゃめちゃ巨大隕石が地球にぶち当たって、
時点の方向が変わるとかって別になくはないかもしれないよね。
っていう時に、この言葉ってやっぱり無意味ではないんだよね。
だから、それを因果として、太陽っていうのは因果とは機能法的に、
太陽はこれまで常に東から昇ってきたから、
未来永劫東から昇るであろうって考えちゃうことはやっぱり間違いだよねと。
それと同じようなことが、熱するとお湯になるっていうことにも言えるしとか、
机を叩くと音が鳴るしとか、そういうことにも言えるよねっていうふうにヒュームは考えるんだよね。
なるほど。これはだいぶ極端な話に聞こえるけれども、
今言ったような因果関係を、
無意識的に受け入れてる人たちとか、それに基づいて考えてる人たちに、
それは違うというか、それだけじゃないんだぞ、みたいな。
そこに縛られてるぞ、みたいなことを分からせるためには必要な言い方なのかもしれないねと思った。
そうだね、そうだね。
第1回でもちょっとお伝えしたんですけれども、
カントにヒュームが大きな影響を与えたかって伝えたと思うんですよ。
カントが合理論的な考え方からすると、理性っていうものが人間には備わっていて、
それをある種、論理的に、例えばAだからB、BだからCとかっていうふうにちゃんとつなげていくと、
いろんなものごとが把握できるよ、っていうふうに彼らは言いたいんだよね。
言いたいんだけど、そういうふうにヒュームが、いやいや、その因果関係みたいな根本的なもの、
実は理性では取り扱えられないんだよとか、それも人間のあくまでも経験の蓄積である習慣からできたものなので、
理性で取り扱えないんだよっていうことを言っちゃうわけよ。
はいはいはいはい。
そうすると、え、マジかと。要は理性で準備をやりたかったのに、ヒュームさんができないって言っちゃったけど、
これどうしようっていうふうに悩んだのがカントなんだよね。悩んだっていうか、
それね、まさに独断のまどろみから目覚めましたみたいな感じで、確かに理性で全部できるってちょっと思い上がってたわみたいな。
はいはいはいはい。
そういうところにちゃんと影響を与えていくっていうような感じなんだよね。
まあね、うんうんうん。
うんうん。
これをね、可能性がゼロじゃないからみたいな話したら、話し進まないじゃんみたいなさ、
極論ばっかり言うただの変なおじさんじゃんっていうふうに捉えるんじゃなくてっていうことだね。
うん、そうそうそう。
そうですね。確かにちょっと極端だし、以前もおっしゃる通り当時からすると受け入れられなくて、
ヒュームをしょんぼりしたって話をしたと思うんですけれども、やっぱりそこにどんな意味があるのか、
意味というよりはその意義だよね、その哲学的な意義があるのかとか、
そこのヒュームを考える、ヒュームのこれだけ因果ってもしかしてないかもねとか、
その外にはね、ないかもねっていうことが何を意味するのかってやっぱりすごく難しいんだけれども、
よくよく考えてみると、
僕らが普段当たり前のように前提にしている因果関係とか、
AがあればBがあるみたいな繋がりっていうものが、
ヒュームの洞察
実はただ何もない、印象がないのに観念として持っているような気がしている。
本当は観念じゃないんだけどそれは。
ある種勝手に、何だろうな、
錯覚しているか。
そういうことにメッセをどんどん入れていくんですよね、ヒュームって。
ヒュームから見ると、みんなそういうふうにしか見えなかったってことなんだね。
そうそうそう。印象ないじゃんっていうふうに言っていきますと。
うわー怖い。なんか面白いね。
何だろうな、感覚としてさ、当時ってインターネットないだろうけどさ、
今だとさ、リアルの世界じゃなくてずっとネットの世界ばっかりで生きてるっていうさ、
そうやってちょっとバカにされがちじゃん、バカにというかさ、
ずっとネットの世界でわさわさしてるみたいな。
ただヒュームから見たときの周りに生きてる人たちってそういうふうに見えた可能性があるよね。
あるある。
現実に生きてない、経験がないものについてウダウダ言ったりとか言わされたり、
思ったつもりになったり思わされたりしながら、生きてるなんてなんて人間らしくないんだ、
みたいなことを思ってそうだね。
因果関係の考察
あると思う。ここまで解像度だけ見ちゃうと全然違うだろうね、世の中のトライアルとかもそうだし。
もっとネットの世界じゃなくてリアル、外に出て人と喋ろうよ、みたいな。
それとはちょっとずれてるけど、
同じ世界に生きてるのに、そんぐらいの隔たりを感じてそうな視点だね、これは。
そうなんだよね。今みたいな一般的な話、それこそネットよりもリアルのほうがいいよねとか、
お湯が湧くには熱が必要だよねとか、一個一個の話はそうなんだけれども、
僕らって、いわゆる個別の具体的な話から、一般的な、要は明大みたいな形で、
そもそも水というものは熱を加えるとお湯になるものだ、みたいな、そういうことを語り出すじゃないですか。
目の前の水だけじゃなくてね。
いやー、そうしそうだね、いっこ訂正というか、今ハエとか言ってくれたけど、
ネットに引き込まれずに外に出ようよっていうのも、果たしてそれが正解なのかねっていうのはもちろんあるかないかっていう話だからね。
そうね、そうそうそう。だからあなたにとってって話と、
そもそも世の中一般としてってやっぱり戻って、ある種分けて考えていけるんだけれども、
やっぱりさっきの機能法的なところからいくと、熱を加えたら今回もお湯になった、また次もお湯になったとかっていうのをいくら集めても、
その普遍的な、そういう一般明大としての熱を加えるとお湯になるっていうことって、
保証できないよねっていう土台とある因果関係が存在しないから。
そうだね、はいはいはい。
っていうことも、いわゆるヒューマンからすると言えちゃうんだけれども、
これをするとある種、やっぱりまさに疑ってる懐疑論だよね。
あらゆることを言って疑いますよね、というふうになっていきますと。
確かに確かに。
ただヒューマン自体は懐疑論者って言われることもあるんだけれども、
経験とかそこから来る印象っていうものは別に否定してないから、
そういう意味では全然、いわゆる何でもかんでも疑って書かれてるわけではないんだよね。
いやー、そうだよね。その大元の根拠とか、大元の印象がありましたって、だから。
そうそうそう。
ただの印象マンだよね。
印象マンだよね。
懐疑論者っていうか印象論者。
そうそうそう。
だから、それをなんでやったかっていうと、
人間の本性とか本質的な認識能力を突き詰めて考えるとしたときに、
どこまではこれが確実だとか、冷たいとか暑いっていうこと自体は印象としては感じられます。
これ次の話にするんだけど、自分がっていうのもヒューマンはちょっと疑ってくるんだよね。
へー、そうなんだ。
そう。そういう印象があったときに、それは確率です。
ただ、そこからもらえたもの、印象の読みに関しては不確実です。
それから紙とか、英語単形とか。
っていうものを、ちゃんと線を引いていくんだよね。
で、やっぱりその線がだいぶ手前なんだよなっていうのはちょっと僕も思ってて。
あー、そうなんだ。
そう、ヒューブが引いた線がね。
ヒューブ引いた線が。
観念っていうものも印象からコピーされて、冷たいっていう観念とか、暑いっていう観念ができるのもオッケーでしょうと。
それをいろいろ組み合わせて、近接とか類似とか因果関係っていうもので組み合わせて、新たな観念を作るのもオッケーなんだけど。
作り出すために使っている因果関係っていうのは方法というか、そういうものに関してはこれは人間が勝手に作り出したものだから、これはNGだよっていうところで線を引いちゃうんだよね。
ふんふんふん。ヒューブがNGとしてるのは、因果関係自体とかじゃなくて、印象に基づかない観念らしきもので勝手に、印象に基づかない観念で勝手にいろいろ作り出すことについてNGって言ってるのかな。
そうですそうですそうです。
さっき言った近接類似、因果関係みたいなものは、人間の挙動としては当たり前で、普通に印象だよね。何かを経験してたまった手札としての印象通り積みの観念を組み合わせていろいろ考えるときには人間は普通というか挙動としてそうなってるけれども、
同じく多くの人間の挙動として、なぜかヒューブから見ると気持ち悪いんだけれども、印象を通ってない観念をもとに同じようなこともやっちゃってるよねっていうのはNGだよね。そこだよね。その因果関係自体がNGだから。
それで言うと、因果関係自体は否定していませんと。今の時の言葉を一個訂正すると、印象通り観念っていうのは趣味はないんだよね。
観念とは呼ばないんだ。
呼ばない。
だから印象がない来年っていうものを使って、なぜか3年っていうものを扱おうとするとか。
妄想かな。
まさに妄想だね。
ないっていうふうにヒューマンは捉えてるからね。そういう因果関係という妄想を通じて、実はそれを妄想と気づかずに僕らは過ごしているとか、それを大事なものとしてしまっているということに対して脳を突きつけていますと。
だから別に因果関係自体は否定しないんだけれども、それは理性では確かめられないし、人間とは無関係に自然の秩序みたいなものとしてあると捉えちゃダメだよねっていうことを言うんだよね。
だけどこれまで、その時代までは神の秩序とかっていうふうに、要はこれが起きたらこれが起こるとかっていうものってある種絶対意識されて、人間の及ばないものっていうふうに考えちゃっただろうから、
経験と思考の関係
そういう意味ではその因果関係ってある種格下げされたというか、人間のむしろ側にあるよねっていうふうにヒューマンとしてはもうある種言い切っちゃったって感じなんだよね。
はいはいはい。なるほどなるほど。
うんうん。そんな絶対的なものじゃないよってことはね。
結構いろんな角度から神様絶対みたいなものに攻撃というか分解しにかかってるね。いろんな角度から。
そうだねそうだね。なのでロッテの時はその経験、イギリス経験論の層みたいなことを言ったと思うんですけど、彼も経験とは言いながら力能みたいなことを言ったの覚えてる?
うん、パワーの。
パワー、そうそうそう。パワーがあって、火には水をお湯にするパワーがあるとかっていうのを表現したと思うんだけれども。
あ、そうなんだ。へー。
表現というか、そういうことを言えるんだけれども、ロックの文脈からすると。
なんか前聞いたのが、リンゴの赤さもパワーだとかさ。
そうそうそうそう。赤く見せるパワーがあるんだけど、ヒュームはそのパワーみたいなものを切ってしてるわけですよ。そんなのにないというか印象ないじゃんかと。
あーなるほど、そこはそっか。言及しないんじゃなくてそれはないよねみたいなね。
あ、そうそうそうそう。なので、やっぱりヒュームの方がより経験、自分が感じられることとか、自分が本当に世の中から受け取れるものだけを使って物事を考えようとしたっていう意味で徹底してるんだよね。
うんうんうんうん。
そういうのが、やっぱりロック・バークリー・ヒュームって繋がる経験論の3人という時に、やっぱり発展とか深めたよっていうところの流れなわけですよと。
はい、そんなわけでね、今回その因果性とか因果関係っていうものをヒュームの視点から掘り下げてみたんですけれども、
僕らはね、普段の原因と結果っていう言葉とかさ、何の因果かわからないかとかっていうふうにやっぱりある程度出来事と出来事をぶっつける。
そこに原因と結果があるっていうところを普通にやっぱり思ってるんだけれども、
それって何も保証されてないですよと。因果関係自体はあるかもしれないとか人間はそういうふうに捉えてるんだけれども、
それってやっぱり理性でも証明できないし、それの事情とかっていうふうに人間は外にあるものでもないですよねと。
単なる習慣、経験の積み重ねてしまうっていうふうに言ったのが、やっぱり結構ヒュームのすごい発想でしたねっていうところなんだよね。
でも一方で人間ってそれから逃れられない。じゃあ全部には因果関係がないんだとかって思うとしても、やっぱり全てを物理の存在として捉えることはできないわけで。
っていうふうに、ある種こう自分の素朴な感覚っていうものをとはいえちゃんと切り崩していって、
じゃあ本当に両手立てるものってなんだろうとか、人間が本当に受け取れるものってなんだろうっていうことをちゃんと切り分けていった。
それはこのヒュームが出る哲学なんですよね。
すごい話だね。だからこれが今の科学というか観点から、このヒュームの話を見ると、何バカなことを言ってるんだっていうふうな面はあるかもしれないんだけど、
でもね、だってヒュームの後になってさっきハイトも言ってるのさ、実際水を火にかけることによってお湯になるのによっての部分が解明されてるわけじゃん。おそらく。どうなんだろう。
まあね、でも実はそれもちょっと違っていて、例えば宇宙空間でとか、そもそもそういういろんな前提条件が書かれてるのに、なんとなく僕らはこの地球上のことで考えたときに、
火をかけたらお湯になるとかって言ってますよね。それが一般原理として本当に宇宙の隅々まで成り立ちますかっていうことって実はまた別だったりするじゃない。
ああ、まあ確かにね。他のとこで火の概念も変わるだろうしね。火星と金星で火をかけたいものをやったときに何なんだろうね。
例えばね。もちろん山の上だと火がつき、お湯になりにくいとかってあると思うんですけど、ということも含めてやっぱり単純ではないし、
もっと言うと、例えば、アインシュタインの相対性理論とかもそうなんだけれども、
科学の中でも僕らがどうせやとか当たり前だと思って読むのを振り返ることって全然ありますよねっていうときに、
やっぱりOKでも101回目が違う可能性って全然ありますよね。科学でもね。
もちろん、だからこそ科学者やっぱり条件を整えたりとか、こういうふうな温度とか気温、湿度とかでやるっていうことも迷惑かけたりするんだけれども、
そういうことまでちゃんとやらないと、結局そういう制限性とか習慣っていうものってあり得ないわけっていうことに関しては、
別にヒュームっていうのはそういう貢献してるんだよね。
なんかその科学の土台の部分だよね。そういうものにめちゃくちゃ関わってくる考え方だったりとかしたよね。
関わってくる。そうそう関わってくる。
そういうことだって、科学が絶対とかって言うほうが妄信しちゃダメだっていうのは、
科学に触れたことない人でもなんとなくわかってるというか、そのくらいの常識ではあるじゃん、やっぱり。
そういう意味で神っていう時代に、いや人間もだっていう時に、別に科学みたいなものというか、
こういうのをもとにね、実際その寄手文って何なんだろうっていう好奇心をもとにいろいろやっていくとは思うんだけども、
それはそれで、絶対じゃないっていう若干の不感というか、絶対なものがないっていうスタンスというか、
スタンスじゃないよね。普通に考える、普通にというか、ちゃんと考えると絶対なものってない、なさそうだよねっていう視点が、
超すごい独創的。
そうだね。素敵らしい。逆にこれをやっぱりヒューマン・ニュートンから学んでもいるんだよね。
そうなの?
そうそうそう。前回の時にちょっと言ったかな。当時の大学の時に、ロックと合わせてニュートンも彼は学んでいたらしくて、
やっぱりそういう科学的な発想とか、ちゃんと観察するとか検証するっていうことも一定、ちゃんと理解してたはずなんですよ。
なるほど。
そういう態度も含めて、やっぱり自分の経験っていうのはどこまで行っていただけるのかってさっきの話。
ヒュームと因果関係の虚構
そういうところが結びついているから、やっぱりその他は単純に哲学のことだけじゃなくて、そういうふうな当時の最先端の科学も含めた発想でもあるんだよね。
なるほど、そっかそっか。じゃあこれは科学に影響を与えたっていうよりは、そこはもうお互い相互にみたいな感じだね。
なるほど。
やっぱりそういうところも踏まえると、ヒュームの牧草性というか、それまで神の真理とか説意とかっていうものがあった時代、
まあちょっとずつ緩まってはいたと思うんだけども、それは一気に突き潰したというか、先に攻めちゃったというところが見えてきたんじゃないかって思っておりますよ。
はいはいはい。
で、ただやっぱりもちろんここでは終わらなくって、そこからでもいろんなことに踏み込んでいくんですけれども、
次にちょっと扱いたいのがね、さっきもちょっと触れた、自分とか事故って何ですかっていう話。
へー、はいはいはい。
もっと言うと事故って印象ありますかっていう話なんですけれども、
おおー。
これはちょっと次回取り上げたいと思っております。
わー、なんかいきなり深い話、より深い話になるね。
へー。
いや、まあ因果関係とかのほうが本当本質的なんだけどね。
あ、そうなんだ。
うん。でもね、そのほうがイメージ分けやすいとは思うし、またね、これ聞いたことあるかな、
人間は知覚の束であるみたいな言葉って聞いたことあるかな。
いや、ないですね。
ないか。これはね、けっこうヒュームの有名な言葉って言われてるんですけど、
この表現もまさにそういう風な文明が出てくるんですよね。
うん。なのでちょっとね、自分とか私って何みたいなところを考えるときに、
ヒュームはどう切り込んでいくのかってことをちょっと次回お伝えしようと思うので、
ぜひね、引き続きそこも楽しんでいただければなと思っております。
はい、わかりました。
では次回ですね、ちょっと面白そうですね。
自分とは何かというところをヒューム目線で見ていきたいというところで楽しみにしていきたいと思います。
では、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。