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  2. #318 道徳や正義は誰が決める..
2025-05-18 58:10

#318 道徳や正義は誰が決めるのか?イギリス経験論、ヒュームの道徳論

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

このエピソードでは、ヒュームの道徳論を通じて道徳や正義の概念がどのように形成されるのかが探求されます。イギリス経験論の視点から、道徳が感情や印象に基づくことが強調され、正義がその一部として位置づけられています。ヒュームは正義を社会の必須要件と捉え、自然な徳と人為的な徳の違いを探求し、人間の欲求と社会的な協力の重要性について議論します。エピソードでは、道徳や正義の決定に関するヒュームの見解が探求され、社会が正義によってどのように影響を受けるかが議論されています。特に、自然な動機と人為的な動機の違いが強調され、正義の重要性とその使われ方について考察がなされます。さらに、道徳や正義の決定に関するヒュームの哲学的視点が探求され、個人主義と共同体の関係や社会的な秩序がどのように構築されるかについて議論され、ヒュームの考えが現代社会においてどのように適用できるかが示されます。

道徳の概念の探求
それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回も引き続きヒュームということで、前回は自分はいるのかみたいな話を見てきたんですけれども、今回は道徳の話になっていくみたいな話でした。
そうですね。これまでは印象と観念というのは道具だよね。そういうものを使って、普段僕らがあると思っている、その上に意識すらしないと思うんだけれども、
今言ってくれた事故、私とはみたいな話とか、あと因果性、原因と結果があるっていうのも実は世の中にあるんじゃなくて、心の因果的に作ってるんじゃないかみたいな。
そういうことをお伝えしてきたと思うんですよね。
その因果関係っていうのもあると思ってるけれども、自分そのものとか神そのものみたいなものと同じで、因果関係の印象ないじゃんみたいな話をヒュームは思ったって話だったよね。
そういうことです。ここまでちょっとそういう印象があるとかないとかっていうこともちょっとずつ馴染んできたんじゃないかななんて思ってるんですけれども、
ちょっと今回その流れを踏まえつつ、最初大きくなるんだけれども、道徳とか正義っていうものをちょっと扱っていきたいんですよ。
これまではどっちかっていうと、本当に一人の人間というか、私みたいなものがどうかとか、世の中を見るとか聞くとか、そういう時にどうかっていうことでしたんですけれども、
道徳っていうと結構ね、いわゆる社会的なものとか人と人の関係になってくるじゃないですか。
っていう意味ではちょっと分かり合えてるような感覚もあるんだけれども、
悪くてもヒュームの哲学としては、やっぱり社会に生きる人間がどういうふうにお互いに生きていくかとか、
社会を成り立たせていくかというところがやっぱりテーマだったりはするので、そこにはある種踏み込んでいかざるを得ないんだよね。
まあ確かになし、前回のテーマのロックあたりからもそうだったけれども、やっぱりこのロックとかヒューム側のイリース経験論側と、
大陸デカルト的な、デカルトはデカルトだね。大陸合理論みたいな話の違い、価値観の違いっていうのがめちゃくちゃ大きくて、
それをイギリス経験論側から、そういった正義とか道徳というものをどう見るのかみたいなのは、すごく興味深いよね。そういう意味でね、どうなっちゃうんだろうね。
そうだね。そうそうそう。私、当時のイギリス経験論っていうものが考えられたイギリスであっても、
例えば道徳みたいなことを考えたときに、基本的に神様みたいなものとか、理性だよね。
例えば道徳って、いわゆる何か善悪とか、正不正みたいな、正しい正しくないとかっていうものなんだけれども、
やっぱりどこかに普遍の、要は変わらないそういう基準があって、それに基づいて、これは正しいとか、これは善であるとか。
そういうふうに判断すると、やっぱり一般的な発想だったみたいなんだよね。
そうだよね。確かにロックは経験がピューリーだんだっていう話もあったから、まさにそうだよね。前提がある程度あるというか、教えがあるみたいな。
そうなのです。やっぱりヒュームからすると、そういう前提とかっていうのを考えずに、ちゃんと印象っていうものから世の中を捉えていこうというふうにするので。
善と悪の印象
一旦この質問をフィルター通しちゃいますよってなって。
そうそう。
道徳、これは得と悪徳とか悪、悪い徳ね。
それをこういう印象とか観念っていうものを使って考えていくんですよ。
実際、本を読んでみると、例えば我々人間っていうものが、得と悪徳、善と悪だよね。
それを区別して、ある行為をしたときに、これはダメだよっていうふうに非難されるとか、あるいはそれは素晴らしいって称賛される。
はいはいはい。
っていうふうなことって日常的に起こると思うんだけれども、これって観念と印象のどっちによって起きてんのとかっていうふうに考えていくんだよね。
なるほどなるほど。その辺がどう作用してるのか。
なんなら通ってない部分もあるんじゃないかみたいな話も出てきそうだもんね、ヒュームだとね。
そうなんです。これまでの考えからするとどっちでしょうっていうところを今日見ていくんですけれども。
ある程度これは流れでわかると思うんですけれども、ヒュームからすると、さっき理性とか神から道徳とか善悪が出てくるって話をちょっとしたと思うんですけど、
当然ヒュームはそういうふうには考えないんですよね。
そうだよね。前回からの流れでいうと、今回は道徳そのものとか、生理そのものみたいなものはなさそうじゃん、すでにヒュームの感じからするとね。
なさないと思う。
でも僕らは道徳とか正義っていうものをある種大事にして生きているときに、それってどこからやってきてんのっていう話なんですよね。
結構この辺の話すごいややこしかったんですけど、ちょっとわかりやすい感じにお伝えすると、
まずそもそも理性じゃないよねってなったときに、ヒュームにとって理性ってなんだろうっていう話があるわけですよね。
当然理性っていうのもあるんだけれども、ヒュームにとってはあくまでもそれって、
すごいざっくり言うと、物事の真偽、要はロジック的に正しい正しくないんだよね、感情的にとかじゃなくて、
いわゆる論理的に正しい正しくないとか、
例えば真偽、それが真実か真実じゃないかっていうところを見極めるっていう、そういう判断するものが理性の働きだよって考えるんですよね。
そうすると善悪みたいな話も、まずそれって理性とかで判断できるようになると言いたくなるんですけれども、
これっていうのは善悪っていう概念というか、そういったものがあって、それに当てはめますよっていうことが理性で判断できますよねと。
そうじゃなくて、まず兄貴が言ってくれた、そもそも善とか悪っていうものが僕らの中に立ち上がってくるとか、
そういう三角を理解するのってどうなる、どういう働きがあるんでしょうねっていうことを考えていくんだよね。
うーわー、もうすでに難しいね。
すでに難しいわ。
そうなんですよ。
それ僕らって、世の中にある善とか悪とかする基準っていうものを自分に取り込んでとか学んで、
それを当てはめて、それは素敵だねとかそれはダメだねとかっていうふうにやっぱり発想するじゃないですか。
だからそれはヒューム的に言うと、それは自分の理性というか自分の人格的に、
その悪とか善みたいなものをある意味判断させられてるというか、
その意味、感じで、その悪とか善みたいなものを直接経験、つまり印象として持ってるわけではなさそうだよねっていう話だよね。
今までの話はそうだね。
ここまでは、今の話です。
そうです。
じゃあ、そもそもその悪とか善みたいなものを直接経験する印象として持つってどういうことだろうねっていうことを今から考えていくというか、話。
その通り、その通り。
そこはむずいね、やっぱりね。
そこを一歩間違えると、どこの何の話をしてるかわからなくなっちゃうね。
そうなんだよね。
だから、やっぱり僕らって善とか悪があると思ってる世界で基本生きてるから、
僕自分が善とかっていう概念を持った瞬間のことなんて覚えてないわけじゃない?
覚えてないから、前回までの話でいうと、我々が一人一人が持っている善・悪のイメージってものが、
ヒューマでいうとこの本物の観念なのか、前回までで言っていた妄想の方だよね。
印象を通ってない観念らしきものみたいな、そっちに入ってるのかが、基本区別ついてないよねって話だもんね。
そうです、そうです。
区別する必要性も関してないんだけれども、やっぱりヒューマはそこをちゃんと区別しようねっていうことをずっとやってるわけなんだよね。
そうだね。ちょっとくどいかもしれないけど、そこはちゃんと区別しておかないとヒューマがわかんなくなりそうだなっていうのはすごい感じる。
でも逆にナニキもこの5回分くらいからやって、幸福を感じてくれたらめちゃめちゃ嬉しいなと思いながら今話してるんだけど。
意識しないとでもすぐ迷いそうだなって思うんだよね。
まさに今言ってくれた通りで、ヒューマからすると理性がない。道徳とか正義とか善悪とかっていうのはね。
じゃあ何かっていうと、理性の反対という意味で言ったら感情っていうところからアプローチしてくるんですよ。
つまりヒューマを見たとか聞いたときに、それに対して特殊なって言葉を使ってるんだけど、そういう悲観とか不快な感じ?
要は例えば誰かがゴミを拾ってるのを見て、こちらの気持ちもスッとするとか。
逆に何かめちゃめちゃ迷惑かけてる、電車とかで雨着散らしてる人見たときに嫌だなって思うとか。
そういう思うっていう感情っていうものが、実は道徳の起源なんだよっていうふうにヒューマは考えるんですよね。
その思うとか感情っていうのはまさに印象になりうるので、その印象から僕らの道徳っていうのが生まれてくる。
要は善とか悪とか何が良い悪いっていうことが、後から判断できなくなってくる時に繋がってくるんですよね。
そこってどうかな、捉え方として。
すごく自然な感じがするよね。
良かった。
一旦社会抜きにして、個人の感覚っていうところから捉えると、めちゃくちゃ自然だよね。
人がこうされてるのを見たときにやべえって思うとかさ。
そうそうそう。
そういう感じだと思う。
ヒューマからすると、美しいとか醜いじゃないとか、好きとか嫌いとかっていう感情と目どころが一緒なんだよね。
あるものに触れたとか、あるものを見た、聞いたっていうときに何かを感じるじゃないですか。
その感じにラベルを張ったときに、善とか悪とか出てきますよね。
あなたの言葉で常年とかって言ったりするんだけど、
そういう常年を感じる経験、まさにこれも経験。
そういうところから道徳が生まれてきますよねって考えるんだよね。
そういう快意とか不快みたいなものを感じる経験とか印象を積み重ねるってこともまた。
そうです。
自分の中の本当の人間の観念が出ていくよねみたいな話だね。
うん、そういうことですよ。
なので、一般的なルールとか、これを道徳だとしたときに、外部にある、お腹にあるルールを自分に取り入れるっていうふうに僕らって思っちゃうんだけれども、
あくまでもそれを通じて、例えば自分が元気に挨拶をしたら褒められるっていうところから、
挨拶ってのは良いことだっていうふうな道徳的な考えを身につける。
逆に怒られて不快な気持ちになるっていうところから、これは悪いことなんだって思うみたいな。
そういうふうにして、善とか悪、道徳っていうものが培われていけますというふうに考えていきます。
正義の要素
ここまでが道徳とか善悪っていうこの一般的な、ちょっと大きな話なんだけれども、
これをヒューマー前提にした上で、正義に進んでいくんですよ。
なるほど。
正義っていうのは彼に言わせると、道徳って徳の中の一つ、一部だって感じなんだよね。
道徳って広いカテゴリーがあって、その中に正義がちょっと増えるんだけど、
例えば思いやりを持つとか、逆に人を憐むとか、
それは憐れだって叫ぶんじゃなくて、本当にそういう増感するとか、そういうことを含めた憐れみっていうことを徳の一部だねとか言ったりするんだよね。
はいはいはい。
言うときに、その中に正義っていうものがありますよ。
それってさ、単なるさっきみたいな感情的なものよりも、どっちかっていうと規則を守るとか、
人の権利を尊重するとか、裁判とかも分かりやすいと思うんだけど、
やっぱり白黒をはっきりつけるみたいな感じでいくと、よりちょっと理性っぽいというか、判断っぽい感じはあるんじゃないかなと思うんだよね。
ああ、そうだね、確かに。
なんか、その印象で何か感じた後に起こす行動とか、具体的な思いみたいな、そういう感じがするよね、正義の方が。
そうそうそう。
正義と道徳の関係
なので、ついてたやつは、ありがとうっていうことが褒められて、みたいなところです。感情的に理解できると思うんだけど、
正義の感情とか、なんていうのかな、自分が正義であるみたいなことを体験するって、遠いと思うんですよ。
うーん、確かに確かに。
でもそこに通しても、実は違わないんだよとか、でも正義ってこういう特徴があるんだよっていうところを、
ヒューマーはね、深く読み解いてるんで、それを見ていくんですけれども、
なんでかっていうと、ここがちょっと実は難しいというか、少しジャンプするところがあって、
冒頭で道徳ってちょっと社会的な話でしたよってことを伝えたじゃないですか。
実は正義っていうのはヒュームにとって、社会に構成する必須要件みたいな感じなんですよね。
なので、正義っていうものはあえて取り上げてるんだけど、どういうことかっていうとですね、
まずヒュームは最初の問いとして、正義ってのは徳だよね、道徳が必要だよねってことは言うんだけれども、
これって自然な徳ですか、それとも人が作った人為的な徳ですかっていうことを考えるんだよね。
うーん、なるほど。
その徳って区別していきます。
例えば自然な徳っていうのは、いわゆる自然に湧き上がる感情みたいな感じで、
さっき言った思いやりとか哀れみみたいな感じで、ある場面を見聞きしたら、
全員じゃないかもしれないけれども、ある程度共感力を持った人間であれば、自然と湧き上がってくるよねっていう感覚。
これを自然な徳だっていうふうにヒュームは考えてるんだよね。
なるほど。全員一致とはいかない、まだ傾向みたいなものはあるよねって話ね。
そうそうそう。そうです。
っていう時に、正義って自然の徳なんだって言うと、ヒュームはこれって人が作った徳だよねって考えるんですよ。
うーん、なるほど。
もっと言うと、人間社会、世の中だった時に、
それを安定させるために、必要とされた制度的なルールを指して、僕らは正義って呼んでるんじゃないかって考えるんですよね。
おー、なるほど。
ロックとの比較
なんで特別したのっていうところなんですけど、ここから実はロックとの比較が出てきます。
ロックね。
ヒュームはロックを受け継ぎながらも批判してるんだけれども、
ちょっとロックの学習なんですが、
かいはさ、当時に理論家、哲学じゃなくて政治の話をしたときにお伝えしたと思うんですけど、
人間の自然状態、要は人間が放り投げられて社会とか何もないときにどんな状態かっていうと、
そこは幸せなんだけれども、その中に人に暴力を振るうとか、
そういう危害を加えちゃう人も出てくる。それを防げないんで、
そういう意味で社会とか国家みたいなものを作って、一部の権利を渡して、
中立の状態として、みんなをいい感じにしてもらおうっていうふうなことを発想しましたって話をしたと思うんですよね。
あー、はいはいはいはい。
うん。さっき覚えてるから。
そうだよね。自分の権利だったり命を脅かすものが出てきたときに、
それぞれが自己防衛するよりも、ある程度権利みたいなものだったりとか、
その分の、ある意味若干の自由だよね。その分守るべきルールみたいなものは出てくるかもしれないけれども、
人のものを盗んじゃいけないとかね、それこそね。
そこを合意した上で、それを司る権利みたいなものは出てくるよねって話だったね。
そうですそうです。それが自分たちの権利を守ってくれないなら、
革命して倒してもいいよねみたいな。革命権とか抵抗権まで言ったよっていうところがドラスティックだねって話をしたと思うんですけど。
そういう意味で言うと、ロックの感覚で言うと、まず、
その人に、所有権ってプロパティとか言ってたと思うんですけど、
そういう神が与えてくれた権利っていうものがあって、
それによって自分のものであるとか、自分のものにするっていう行為がある人に認められると。
これは社会じゃなくて、神が与えたって意味で自然権って言うんですってこともおっしゃったと思うんですよね。
で、その中で、所有権を得るためには、そこに労働っていうのが加わるよって話をしていて、
つまり、働いて、手に入れたものを自分のものにしていいよっていうようなものが、世界の成立前にルールとしてできるんですって考えたんですよね、ロックは。
はいはい。それが、あれでもね、もう、なんだろう、世界のルールです、世界の真偽ですみたいな話をしてるってことだね。
そうですそうです。成り立っていますよと。
というふうに考えたんだけれども、そこはですね、ヒュームは、マテロって考えるんですよね。
ほうほうほう。
本当に、所有権、人が何かを自分のものにするのって、世界が成り立つよりも本当に先立ってるんでした。
人が何かを所有するって、本当に個人のことだけでできるんでしたっていうふうに考えるんだよね。
どういうふうに言うと、所有権っていうものを突き詰めていくと、やっぱり所有欲じゃないですか、欲求。
わー。はいはい。
そうすると、自分だけが良い。自分だけが良ければいいよねとか、他の人はどうなってもいいっていうふうに結びついちゃうんじゃない?っていうふうに考えるんだよね。
わー、うんうんうん。
言われればそうだって感じもするじゃない?
まあね、すごいね。ヒュームはやっぱりそこも、なんだろうな、もう一段階というかね、フラットにしようとする、なんだろうな、ひらめきがすごいよね。ひらめきなのが。
そうそうそうそう。
これは多分やっぱり、ロックとヒュームで生きてる時代に、100年と言わないほどそのぐらいの差があるんで、ちょっとね、そういう社会がそのぐらい進んだっていうのもあると思うんですけれども。
例えばね、同じ労働というのをとっても、やっぱりロックが考えてるのって、例としてリンゴを収穫するみたいな、結構単純なものだったりするんですよね。
えー、あ、そうなんだ。
うんうん。もっと言うと、個人で完結する労働感っていうのがあって、自分で育やしたものは、まあそれは自分の食べ物ですよね、っていうのもそれはいいんだけれども、
ヒュームが見ている世界観って、やっぱりちょっと当時、もう18世紀のイギリスとかでいくと、結構分業制とか協力して働くっていうのがあったりするんで、
じゃあ一つ何か、リンゴを収穫するにも、種を蒔いた人もいれば、土を耕した人もいれば、収穫した人もいればとかっていうふうに、やっぱりそういうふうにいろいろ関わってきますよね。
じゃあそうなると、果たして収穫したリンゴって、どれのものなんでしたっけっていうふうに語ってくるわけだよね。
おー、なるほど。
でね、均等に分ければもちろんいいけれども、やっぱり人の欲求ってある種底の足立ちにするので、
一方、全部欲しいっていう人もいれば、みんなの欲求を満たそうと思うときに、やっぱりアウトプットって散りないんですよ。
でもそもそも他の人と協力しないと、そういうリンゴ自体も収穫できないってなったときに、
個人で自分のある種欲求を満たしたいっていうふうな利己的なものと、
他の人と協力しないとうまくやっていけないっていう社会的なものって、やっぱり両方あるよねっていうことを日々ヒューマンは考えるんだよね。
ここまで来るとかなりね、現代っぽくなってくるというかさ。
今の僕らも同じようなことを普通に問題として捉えられると思うんだよね。
自分だけ良ければいいって思うと、他の人と協力しないと、そもそも何かやっぱり利益とか面白いこともできないみたいなものがあったときにどうしますか。
そういう矛盾を抱えた人間っていうものをどう扱いますかってヒューマンは考えるんだよね。
確かにさっき早藤さんが言った通り、時代の差なのかもね。ロックがそこの部分の考えが足りないとか、すごい欲深いとかっていうことじゃなくて。
時代なのかもね。ロックの時の方がまだその王権が強くて、
まず民衆の方になんとか力、パワーを欲しいみたいな、結構激動な時代だったもんね。
そうだね。生命権とかって含まれるって話もしたと思うんですけど、自分の命は自分のものっていう感覚すらまだ当時、ロックの時代っていうのは少なかったはずなんだよね。
なるほど。そもそもね。
そもそもね。労働とか基本的人権、当時そういう考えもないから。そういうものからまずはやっぱり保障しないと。しかもそれが社会よりも先にいないと、やっぱり人って弱い存在だからどんどん命も勝手に奪われちゃうみたいな時代だと思うんですよ。
財産どころじゃなかったんだ。
財産じゃなかったっていう。ところから国が安定してきたときに、ヒュームが見た社会でいくと、そこまで命が勝手に奪われてなくなってきた。
その次にもう一回労働権とか所有権とか考えたときに、何が大事なんだっけっていうふうに進んでったんだろうなっていうふうにも思うんだよね。
社会的な欲求と正義
なるほど。社会的な課題というか、党人たちから見たね。そこが変わってるんだね。
僕らは人間、要は国から与えた所有権に基づいて生きるっていうことじゃなくて、自分の欲求に従いたいという理工的な性格を持つ自分と、社会ともつながりたいという社会的な性格を持つ自分。
両方を持った人間を踏まえた上で、ヒュームが重視するのが今回扱おうとしている正義なんですよ。
あそこに出てくるんだね。
そこに正義と所有権という関係が出てくるんだよね。
ここからはちょっとまた一段深くなっていくんですけれども、ヒュームはね、そういう人間観と思ったときに、
そういう理工的な性質というか、人間ともそういう欲求がいないっていうのは全然認めるんだよね。
欲求が悪いとか、それを抑えようとかっては全然思わなくて。
人間って理工的な性質もあるじゃないかと。
だからやっぱり、個人というのは自分の利益を最大化したいんだけれども、
それをやろうとすると、結局社会的な生活とか労働として、その人と協力するっていうことをやらなきゃいけない。
そういうふうに僕ら生きてるよね。
実はそのときに必要になるのが、正義っていうところであって、
その正義があることで僕らっていうのは、そういう平和とか秩序っていうのが満たされている社会、
そういう環境をゲットできるよねっていうふうに考えるんだよね。
なるほど。いいね、秩序。
正義が先にあるんじゃなくて、その平和とか秩序がある社会っていうものを維持しようとしたときに、
そこに役立つ徳っていうものを指して正義と呼ぶんだっていうふうにヒューマンは考えてるんですよ。
今維持って言ってたけれども、さっきの流れで言うと、
そういうシミュレーションゲームがあったとして、
放っておくと、たぶんみんなリンゴの収穫だったりとか、
みんなで一緒に作ったものを販売して得た利益みたいなものを奪って、
なんかめっちゃ殺し合ってるんだけどみたいな。
やばいやばいやばい、人口めっちゃ減ってるみたいな。
逃げてくるんだけどみたいな。
国力めっちゃ衰えてるんだけどみたいな、その社会としてね。
そういうときに、やばこれ正義必要みたいな。
そういう感じで維持っていうのはまずそれ必要って感じだよね。
そうですそうです。
それがないと本当にどんどん社会って衰退しちゃうよね。
あとやっぱ流れで見ると結局自分の不利益じゃんと。
今得たリンゴを100年、この全員を殺してさ奪ったとしても、
じゃあ来年のリンゴゼロになっちゃうじゃん。
できてもたぶん3とか4とかだと思うんだよね、一人でできるのって。
そうよね。だいぶ1個のリンゴを得るための能力がめっちゃ増えるよね。
結局自分しかいないみたいなね。
そうなんだよね。
ヒュームの社会観
やっぱなっちゃったときに結局、長い目に見るときに社会が豊かになるっていうことが、
自分の利益にもなるんだっていうふうな、こういう前後関係というか、
その繋がりがあるよっていうことをヒューマンは考えるんですよ。
まさにあやけが言った通り、そのメカニズムというか、
そういう社会を維持するためのパラメーターっていうのが正義。
正しさとか得なんだっていうふうに考えているので、
ある種、ヒュームの考える社会に生きる個人からすると、
その正義に基づいて行動したりとか判断したりすることが、
社会全体から引いては自分自身にも利益をもたらすんだっていうふうに思うし、
そういうふうに他の人も思ってるっていうふうにある種信じることができる。
そういう正義、そういうふうに得に基づいて行動することがいいことだよねとか、
それが体感だよっていうふうに思えていること自体が、
その社会における正義の印象になっていくんだっていうことを言うんだよね。
逆に言うと、その社会における平和とか秩序のあり方が変われば、
正義っていうものがやっぱり変わります。
さっき自然な特化、人為的な特化って言ったと思うんですけど、
例えば、人を思いやるとか、人を暴れむとかっていうことは、
ある種時代とか社会が変わっても、ある程度共通じゃないかっていうふうにヒュームは考えるんだよね。
それは暴れむシチュエーションとかは変わるかもしれないけれども、
そういう気持ち自体とか、それが湧き起こるっていうこと、体験、経験自体はそんなに変わらないでしょう。
それは自然な動機っていうものが根っこにあるから。
やっぱ正義の印象っていうのは人為的なものなので、
その次回どんな社会に生きているかとか、どんな教育を受けたかとか、
そういう人がどんな正義に基づいて生きているかによって変わるよねっていうふうに考えていて、
ここにその得っていうものを人為的か自然なものかというふうに分けるところの意義があるっていうふうにヒュームは考えるんだよね。
なるほどなるほど。そういう意味で人為的っていうような言葉を当ててるんだよね。
そうですそうです。
だから正義の心はもしかしたらすでに湧き上がってくるかもしれないけれども、
そもそもその正義の心自体が社会っていうものと深く関わっているというか、一度も切り離せない。
そうだよね。出てきた社会だったり共同体に応じて、
その正義の形で、どこにみんなが不満を抱えて、
どういった正義を処方することで秩序が保たれるかっていうのを正義の感覚で、
深い深いみたいなところはポイントは変わるよねっていうイメージだね。
そうですそうです。
っていうふうになるとこれ面白いのか、やっぱり社会によってなんでその法律が違うのかとか、
国ごとにある種特徴があるのかっていうことも説明できてくるじゃないですか。
ある種ロックの話からすると今社会だけがあって、それが何だろうな、
もう最高だみたいな感じでやっぱりなりかえないんだけれども、
映画からするとそもそも国によってやっぱり体制が違うとか、
社会が違うっていうことも、それはそれを維持する意味でのパラメーターとしては正義が違うからだみたいな、
そういうことまで結構分析できたりするんだよね。
所有権と正義の関係
なんかめちゃくちゃすごいね。
やっぱり視点側がすごいよね、ヒューマンはね。
何を聞いとっても。
今こうやって聞いてるから、その社会がどうとかこうなってるみたいな話、
そうだよねって言えるけどさ、そこに住む中で今自分の社会がこうなってて、こうなってて、こうなっててみたいな話って、
基本むずいもんね。
いや、難しい。
ヒューマンはやっぱりそもそもこの本を書いた後に、歴史家としても名も馳せるっていうのをちょっとおっしゃったと思うんですけど、
こういうふうな人間感とか社会感があるからこそ、やっぱりそこで聞いとった歴史観っていうところもすごいシャートになるし、
ヒューマンさん言ってることすげえっていうふうになっていくわけなんだよね。
そこはもうお互いも哲学と歴史の中でシナージー。
そう、まさにシナージーだね。
日本語忘れちゃった。
お互いのいいところを生かしてる。
それがヒューマンさんの中にあるわけだよね。
話戻すんだけれども、所有権って話をしたと思うんですよ。
はいはいはい。
ロックで言うとそれは自然、神様から与えたものだったんだけれども、
ヒューマンさんからすると、われわれの所有権、物を持つとか所有するっていうものが、実はそれって個人にあるんじゃなくて社会の側にあるんだと。
社会があなたはそれを持っていてもいいよ、そのリンゴ10個持って帰っていいよっていうふうに認められる。
それが正義として判断されたときに、あなたは10個ね、あなたは5個ねって割り当たられたものか、あなたが所有していいものなんだって考えるんだよね。
逆に言うと、不正要は10個って言われてるのに15個持って帰っちゃうとそれはダメなので、取り替えされても文句は言えませんよね。
その所有権っていうのはあくまでも社会では正義の側から制裁されてるように考えるので、ヒュームからするとその正義が先で、所有は後なんだよね。
これ面白い。ロックは所有が先で、それを社会に預けて社会と国が成り立つんだけど、ヒュームはやっぱりその社会とか国っていうものが一定数にあって、
そこから僕らの正義っていうふうな印象が得られて、そこから正義の観念が出てくるっていうふうな、そこからさらに所有権っていう自分がどういうふうに世の中で、社会の中で生活をしていくかみたいな、そういうふうな行動も出てくるんだよって考えるんだよね。
なるほど。本当にこれはもう社会の構造変化というか、労働の在り方の違いみたいな。その辺がすごいアップデートされてるんだろうね。
そうだと思う。やっぱりこの50年とか100年ぐらいで。同じイギリス系言論って、これだけ発想の軸は違ったりとか。もちろんロックは学んだ上でヒュームは考えてるんだけど、このぐらい批判的なこともしてるんだよね。
でもこの批判が、あれだよね。ロックの根本的なところは批判してない。だいぶさ、所有権っていうプロパティっていう、社会の在り方の前提みたいなところは、たぶん崩してるんだけれども、考え方としては、たぶん持ってる感じがしたというか。
はいはいはい。そうだね。
例えば政府みたいなものに預ける、個々人が預ける自由というか、受ける個々人の制約だったりとか恩恵みたいなもの。そのバランスが違うだけで、基本的なやっぱりとはいえ個人個人の方が大事だよねみたいなところ。
正義の本質
はいはいはい。
とはいえ、じゃあ預けられた方は何をすべきかとか何ができるのかみたいなところが、よりブラッシュアップというかアップデートというか、より明確になってるというか。その分進んでる感じっていうのはめちゃくちゃ感じるよね。
うんうんうんうんうん。そうだね。やっぱりね、このブックって言うものはやっぱり人間と社会の関係、そもそもの関係性とか、そもそも人っていうものがやっぱり基本的人権につながるようなものを持っている。
やっぱり発想ってすごいものだったし、それをどんどんアップデートしたときに自在に合わせて変えていくとか、より鮮明させていくっていうことが起きてるわけだよね。
うーん。
もう一回ちょっと正義の話に戻るんですけれども、さっき正義って、要は自然の得じゃなくて人為的な得だよって話をしたと思うんですけれども、
これ面白いのがヒューロが正義について言ってるんだけれども、正義っていうものはもちろん得としてあるんだけれども、それに基づく一つ一つの行いっていうのは行為?
それを考えるとそれ自体としては、しばしば公共の善、良いことっていうのに反することがあるっていうふうに伝わってるんだよね。
あー、そうなのね。はいはい。
よくね、良かれと思ってやったことが裏目に出るとかってよくある話なんですけれども、
ヒュームから言わせると、正義以外の自然な得、さっきからお伝えしてる思いやりとか哀れみっていうものは、基本的には適切に使われればいいことになります。
要は、適切な思いやりを持てば受けた人は嬉しいし、適切な哀れみっていうものを持つと、それは例えば社会的なものとしたら、
適切な哀れみを持てば国として貧しい人に制度を作りましょうとか福祉を充実させましょうとかっていうふうにいくわけで、
そういう意味ではより良い方向に社会とか個人が向かっていくわけなんだよね。
っていうのは、なぜかって自然な得が自然な動機から生まれるので、動機と行為って基本的には一致するんですよ。
だから、基本的には良いことになりますって感じなんだけれども、正義って人為的な得、人が作った得なので、
自然な動機以外はこういう時には正義の気持ちを湧き起こしましょうみたいなものがないんですよ。
要は、社会的に正義ってこういうものだってことは学ぶんだけれども、
それがどういう時に使いますかっていうことも、ある種、受け取った人次第なんだよね。
まあ、確かにね。なるほど。
そういう意味で、正義ってものとあがれみとか思いやりとは違うっていうふうにあえてヒュアも言ってます。
なので、よくあるじゃないですか、正義の心を持ってるんだけど、やってることはなっちゃう。
社会をまさに滅ぼそうとしてるみたいなことっていうのもあるだろうし、
特に、めちゃめちゃ法律を決めたら正義なんだけど、その冒頭はめちゃめちゃ利己的だみたいな。
冒頭は全然あるよねっていうことが、正義に関しては成り立っちゃいますよね。
なるほど。
そういう意味で他と区別してるっていうのはそういう意味があるんだよね。
それでも、そういうふうに、公共の善に反することがあったとしても、正義ってのはなくてはならないんだっていうふうにヒューマンは考えるんですよ。
なぜなら、仮に正義をちょっと悪用するというか、間違って使ってしまうことによって人とか社会が若干損をしても、
でも最終的には、平和とか自由ある社会っていうものを維持するメリットっていうのはやっぱり正義が持っているから、
そっちのほうがトータルで見たときに大きいよね。
要は、その社会に対してはし、その社会にいる個々人に対しても、その社会が維持されるメリットのほうがトータル大きいはずなので、
正義っていうものはやっぱり大事なんだっていうふうにヒューマンは言うんだけど、
果たしてこれって本当?とか。本当にそういうふうに言い切っちゃっていいの?っていうのは結構、今でも意味のある問いというか、
考えてみたくなる問いじゃないかなというふうに思うんだよね。
まあそうだね。だけどヒューマンは本当にすごいね。
どの辺で思った?改めて。
すごくフラットな視点を与えてくれるよねって思って。
それはすごいいいね。
やっぱ時代なのかもしれないけれども、特定の思想に誘導しようとか、
特定のほうに社会を動かしてやろうみたいな、そういうのがあんまりなさそうで、
すごく今こうなってますとか、そもそもこうなってますっていうところにかなり降ってる気がして、
今の正義の話にしても、このヒュームの飾っているこの構造自体への批判みたいなものって、
現時点ではあまり思い浮かばなくて。
なるほどね。
正義って必要なの?どうなの?みたいなところは問いたいよねみたいなところはもちろんあるんだけども、
それってこのヒュームの構造自体を問うんじゃなくて、
このヒュームが語った、そういうふうな個人が増えてきて、
社会としてその正義っていうものがしょうがなく処方箋として必要になる段階があるよね、
それを処方したよね、というところまでは納得で、
ヒュームの哲学的視点
じゃあその処方箋って、この薬ってどう効くんだっけ、どういう副作用があるんだっけっていう、
あとはその人為的だよね、その共同体の人たちがその正義、処方箋、薬を何のか得られるかどう作ったっていう、
共同体が適応している正義自体については議論できるけれども、
このヒュームの構造自体にはあんまり違和感ない気がする。
だからさっきその正義感から間違ったことというか、誰かが損をしちゃうことをしちゃうとか、
というのが処方された正義の上に成り立っているから、
その構造部分自体が分かっていれば、その正義はこうだよね、今はこうだよねとか、
今の環境からすると、前作った正義はおかしいよねっていう議論がその上でできるから、
そういう意味で、すごくフラットかつ根本的な部分に触れてるんだなっていう印象がある。
そうだね、本当にその通りで、やっぱ、毎回ヒュームは結構懐疑論者って呼ばれるみたいな、
要はリパイロットストーリーを疑わなかった私を疑いましたから、それは前回か、事故の話をしたと思うんだけれども、
ヒュームはある種理性に図体的な価値を置くとか、罪っていうものを申しにするとかってことがすごく批判的なんだよね。
やっぱりそういうところは行かない方がいいよっていうのは強く言うんだけど、
じゃあどうしましょうっていうときに、あくまでも経験とか印象ってところを始めましょうっていう、
そこぐらいしか正直言ってないんだよね。
で、あとはそこから始めると、こうなりますよ、インガとかもなくなりますよとか、
同じでもなくなりますよっていうふうに適応してるだけだから。
さすがハヤトが最初言ってきた道具だよね。
そこをただ使うとこうなりますよってことを教えてくれてるだけというか。
そうです、そうです。
そう、だから、例えば新しい電動ドリルを次にやったときに、
電動ドリル使ったらこんないいことできますよっていうのをいろんなところでやってるだけで、
電動ドリルを使いましょうっていうこと自体は既に変わらないというか。
それまでのみと彫刻刀しかなかった人に電動ドリルを出したらそれいろいろできるよねみたいな。
そういう話なので、ある種兄貴が言ってくれたように、
フィルムを越えようとか何か変えようと思ったら、また違う道具を発明しなきゃいけない。
はいはいはい。
っていうところまでいけるのが、いわゆる一流の哲学者とか思想家だよねっていう話なんだよね。
なるほどなるほど。その分にはもう踏み込んでるレベルの人なんだよね、フィルムは。
そうですそうです。
社会的構造と個人主義
そんな感じで今日は道徳とかその中の人為的なところとしての正義を見てきましたよ。
改めて言うと、道徳ってフィルムに言わせると理性への指示にした。
要は既にあるものを受け取るんじゃなくて、
惨状、要は共感するもそうだし、自分から分け上がってくるものが出てくるんですよ。
ただその正義っていうもの自体は、正義そのものがあるわけじゃないんだけれども、
平和劣情的な社会をつくる時に出てくるものだから、
それをある種外部から取り込むようなものはあるよねと。
はいはいはい。
ある種、正義そのものはないっていう話と、とはいえ正義は社会的にあるっていうところを上手く切り分けてるんだよね。
というところで説明をしていきましょうという話だし、
そういう意味でフィルム自身は、
独立した、ただ一人で存在する個人よりも、
やっぱり社会でお互いに影響し合うとか、
一緒に働いて、一緒に生きていけば人間というものを捉えてるんだよね。
なので彼の世界観からすると、人間は利己的なものとか、
所有欲とかあるんだけど、
やっぱり教育とか習慣とか、
お互いに思いやりとか、憐れみを持つ共感力、
そういうものを通じて社会的な構造というものがあって、
それによって人間同士尊重し合ったり協力し合ったり、
そういうふうな社会が生まれてくるんだよということまで語ってくれてるんだよね。
これはある種、
世の中にそういう批判とか理想の社会とかがあって、
それを作るんじゃなくて、
僕らは国とか社会を作っていくのか、
その中で人間として一緒に生きていくのかということを、
本当に経験というところから積み上げていった思想という感じなので、
結構馴染みやすいというか、
正しく言われたらそうだよね、というか納得感というか思いやすいんじゃないかなというふうに思うんだよね。
なるほど。
そんな感じで今日の話はまとめたんですけれども。
あんま長くならないように。長かったら雑談会に移すけれども。
今、ハヨトが言われれば納得するという話をしてくれたんだけれども、
結構納得はするけどというよりは、
結構今の社会に必要な考え方が無きがするむしろ。
今こそ必要な気がした、このHUMEの解説。
なぜかというと、特に日本だと、
多分その、これ反動だと思うんだけど、
結局その社会がとか世間がみたいなところからの反動として、
個人主義的な方に多分進んでると思うんだけれども、
その個人主義的な感覚が、どっちかというとロックっぽいなと思ったんだよね、今回の話から。
自分の所有欲、自分の時間、自分のお金、
自分のスペースみたいな。
そういう感じがして、
逆に世間とか、共同体、社会みたいなものと、
自分の関係みたいなものを、変に立ち切る方向にいっちゃう。
なるほどね、確かにね。
なので、多分最近その、コミュニティ側とかっていうのは、
逆にまたその反動として、やっぱり人間って繋がってるよねとか、
繋がりが必要だよねとか、あと、
ただ一緒にいるだけでいいよねとかさ、地域のお祭りとかさ、
ああいう意味なさそうなやつにしてもとか、
あと最近面白いなと思うのは、よくSNSとかでさ、
結構PTAをぶっ壊しましたみたいなのがちょっと話題出てたりとかして。
確かにね。
あれもまたこう、みんなそうだそうだ、
あんな非合理的なものは消してしまえみたいな、
解体してしまえみたいなのももちろんわかるんだけれども、
結構それはあまりにもカウンター的すぎて、
ただただ親が集まることの意義とか、
なんでそもそもそうなったんだっけ、
だから今回の話で言うと、なんでそもそもそういう秩序が、
ルールが必要になったんだっけっていうところを、
歴史的なところとか、連絡は踏まえた上で解体してるんですか?みたいなところって、
ちょっとなおざりにされてるような感覚もあるから、
そういった意味でのヒュームの感覚っていうのは、
すごく今にむしろ必要なところ。
子も大事だし、社会も必要だし、その関係だよね。
次回のヒュームの宗教
なるほどね、確かに。
考える上ですごいいい話だったなと思う。
言われてみたらそうかもね。
兄貴がさっき僕が正義について話したときも、
そうやってヒュームの土台の上でやってるような話をしてたと思うんだけど、
さっきのPDAの話も、何かしら根本には何か必要性とか、
秩序の維持に役立つ部分があって、
例えば友達だらけプールが増えてますよとか、
自在的にそんなに個人情報もガンガン渡せないですよとか、
そういうのがあったときに、
今あるべきPDAの形はとか、
本当はできたらいいんだと思うんだけど、
そうじゃなくて、全部なくしましたとか、
懐中しましたとかってあったときに、
別に悪いとは言わないけれども、
本当にちゃんと向き合えてますかっていうと、
もしかしたら繋いであるよねって確かにそうだよね。
難しいけどね。
それ見てないよっていう方からすると、
例えばベルマーク集めるの無しにして、
私が1万円寄付しますとか、
さっきの懐中で言うと、地域の見守り活動だよね。
登校か、
帰ってくるときの道の横断歩道に立ってる人いるけれども、
あれも懐中しちゃいましょうみたいなね。
それが果たしていい悪いっていうよりは、
どこをどの部分からいい悪いとして捉えてるかみたいなところがやっぱり、
これも分かんないけどね、もちろんね。
いろんなね、学校とか地域でのものはあるから、
でも本当はそうなんだよね。
そこを抜きにして、いいぞいいぞとか、
SNSの方に上がるんじゃなくて、みたいなね。
そういうところはHUMEからすごい感じられた。
確かにね。
社会っていうものがいわゆる単位の決着って、地域もあれば、
学部みたいな社会もあるわけじゃないですか。
やっぱりその社会、学部の秩序とか平和を守るためにはとか、
市区町村の秩序を守るためにはとか、
そういうレイヤーがいろいろ重なってるからやっぱりややこしいんだろうなと思うし、
それぐらいにちゃんと切っていくと、この社会、この地域においてはこれが正義だっていうものも、
ちょっとちゃんと話しやすくなるのかもね。
そうね。だからまた面白いなとは思うのが、
最近町内会にここ何年かぐらい参加したんだけど、
やっぱりその運営してる側がそこをちゃんと理解してますかとか、
運営してる側の代表の方とか運営してる人たちが、
本当に全面処理だけでやってるみたいなふうにしか見えないと、
そういう意味ではさっきのPTAのほうにどうしても情報が湧くわけじゃん。
まあそうだよね。
やる気もないし、全く去年と同じようなことを全く去年と同じようにやってるだけ。
そりゃなくした方がいいよねっていうのも気持ちとしてはわかるから、
本当はお互い様なんだよね、そこはね。
確かにね。
確かにいろんな場合これは成り立ちますなと。
ちょっと突然でまた触れたいものは今僕も見えてきたんだけど。
今回はそういった形で道徳と正義の話、
思ったよりも多分皆さんのとか僕たちの日常にも活かせそうだなと思ったんですけど、
もう一回ちょっとまた少し飛んでというかテーマとしては離れてですね、
最後なんですけど、ヒューム界の最後として、神とか宗教ですね。
それを取り上げたいなと思いますと。
第1回かな。
ヒュームに関して、つまり否定したわけじゃないんだけど、
神なしで済まそうとしてるみたいな話をちょっとしたと思うんですよね。
うん、してたね。
それを今回これまでやってきたような印象とか関連の話もそうだし、
ヒューム全体のことを踏まえるとどんなふうになるのかとか、
ヒュームは考えているのかということをですね、
今度はちょっと違う、晩年に書かれた自然宗教をめぐる対話っていう本があって、
その本を踏まえながらお伝えしていきたいなというふうに思っております。
おお、はいはいはい。
あれだね、こんなヒュームが晩年だよね、しかもね。
そう、晩年です。
宗教についてどう語るかっていうのはすごい興味深いね。
それもね、ちょっといろいろあるんで、
またぜひ次回も聞いていただけたら嬉しいなと思う。
次回もぜひ聞いていただけたら嬉しいなと思っておりますという感じですね。
はい、では次回ですね、引き続きヒュームの宗教の話を見ていきたいと思います。
では、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
58:10

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