1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #150 ウィトゲンシュタイン『..

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」は非常に難解で、哲学専門家でもなかなか理解できないテキストです。それを完全に理解するには長い年月がかかる可能性があるかもしれません。しかし、この本はビートゲンシュタインが過去の哲学を乗り越えるために書かれたものであり、彼独特の世界観や哲学を伝えるためのものです。ウィトゲンさんは、哲学の無意味さを追求するために、意味の有無を証明する手段を示しています。彼の目的は言葉と言語の限界を明らかにすることであり、具体的な問いに対しても無の方に位置付けられる結論を導くことです。ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は言葉の限界を語ることで、語れるものと語れないものについての議論を展開しています。論考を理解するための前提や議論を捨てることが必要であり、ウィトゲンシュタインは自信を持って論考を完成させたと評価されています。ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』超入門の第1回は、言葉の限界についての話です。

目次

ウィトゲンシュタインの論理哲学論考
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回ウィトゲンシュタイン2回目ということで、前回はどういうことなのかとか、
結構また、いつもあるあるなんですけれども、哲学の全部を否定というか、乗り越えました?という話を見ていったんですけれども、
より具体的な話を見ていくということだったんですが、
この前、早いと最後にさ、よければ論理哲学論考、図書館にあるから借りてみてくださいって言ってたと思うんだけれども、
言ってきたよ。
おーすごい、ほんとだ、持ってる、今並みの。今ね、皆さん見えないと思うんですけど、兄貴が持ってますね。
そう、図書館に行ったら、閉科書庫にあって。
あ、そう。わざわざ取ってきてもらわないといけないやつですね。
たぶんね、誰も読まないから送ってしまったのかなと思って。
今手の図書館頑張ってよ、もっと。みんな読んでよ。
そうそう、ね。
あのね、これを、早人言ってたじゃん、一応なんかさ、構成がおかしいみたいな。
そうだね。
それを見てほしいという話を見たんだけど、あのね、これ見たんだよ。
見て。
で、思ったのが、あの、ほんとまずね、これ早人にごめんなさいみたいな。
あ、はいはいはい。
あのね、それって哲学じゃん、ほら。
いつも言ってるけどさ、結構身近なテーマじゃないじゃん、もはや。
結構ガチなさ。
確かツイッターとかでも、あのね、それって哲学なのじゃなくて、それいけ哲学ぐらいの。
確かに、いいね、それいけ哲学。
いけ哲学ぐらいの難しさというか、雰囲気がね、みたいな人たちがいて。
なるほどね、それはそっちの方が合ってますね、たぶん。
そうだなーって思ってたんだけれども、で、あの、これをね、開いたんで、ちょっと見てみたの。
論理哲学論考ね、はい。
そしたら、あのー、やっぱり哲学のこれ、無理だと。難しすぎて。
本当はあのー、これでも分かりやすく、まあ確かに教えてもらってるんだなっていうのをね、ちょっとね、再確認。
なるほどね。
だんだんね。
早くもっと分かりやすく教えろよと。
そうそう、難しい話ばっかりして、ちゃんとね、分かりやすい話をちゃんと持ってくるとか、台本も分かりやすく自転車操縦じゃなくて、ちゃんとねってねって持ってきなさいと。
そうですよね。
思ってたんだけれども、難しいわと思って。
試しにさ、最初の0.5ページだけちょっと読んでみて。
あ、0.5ページね、読んで、まあうんうん、お願いします。
イトニューシャイン論理哲学論考。
なぜなら、事実の相対は何が成立しているのかを否定すると同時に、何が成立していないのかをも否定するからである。
1-13、論理空間の中にある諸事実、それが世界である。
でさ、これね、0.5ページ。
うん、そうね。
で、ここから1-2とかで続いていって、100-30ページくらいあって、で、4-5-6、で7、最後7、語り得ぬものについては沈黙せねばならない。
丸。
はい。
終わり。
これさ、今のさ、0.5ページ読むのに一時間以上かかるというかさ、意味不明なんだけど。
そうだよね。
哲学好きな人っていうかさ、哲学やってる人はこれをやってるんだなっていうのを。
なるほどね。
ちょっとね、やっぱ本ね、それでそれぞれ聞いてふんふんって言ってるんだけど、本って確かに読まなかったんだろうね。
そうね、確かに。
こうやってね、本開いてみると、やっぱ謎だらけなんだなっていう。
あんたは。
面白いですね。
最初からね、ちょっと日本語関係ない話なんだけど、びっくりした。
本当にやっぱそうなんですよ。僕もいつも言ってるじゃないですか、解説書なんで僕が読んでるんだなって言ってると思うんですけど、それはそうで、やっぱ今言ってくれたような、
人間主体の論理哲学論考、僕が読んだ話をしますとかってできないのよ。
嘘だよね。
嘘。
わかんないと思う。
知ってたとしたら。
これを専門家は多分解説書とか二文章を見ながら、自分も原点に当たり、なんなら日本語じゃない、元の言語で書かれたやつにもさらに当たりみたいなことを突き詰めて自分なりの解釈ってものを求め続けてるのが学者さんってことなんだよね。人生をかけて。
違う。
違うの?
違うっていうか、それを突き詰めてはないの。そこから始まりだから原文で読むとか、それができないとそもそも学者ではないみたいな話だと思うんだよね。
しかもビトゲンシュタインが理解するためには、これまでやってきたような修正の哲学とか、デカルトもカントもヘーゲルも知らなきゃいけないしとか、例えばね。
その辺の解釈が間違ってるとビトゲンシュタインの解釈というか、理解も間違っちゃうぐらいの恐ろしさがあるわけね。
そうそうそうそう。
だいぶ難しいなと思ってたんだけれども、それでも、別にハイトを褒めてるわけじゃないんだけれども、ハイト最高ってわけじゃないんだけど。
頑張ってくれたんだなみたいな感じだよね、たぶんね。
びっくりした。一瞬で閉じた。
ありがたいですし、兄貴がそうやって実際に図書館で書いてくれたって嬉しいし、もし実際に書いてくださった方がいたら、わかるとかね、自分も相談みたいなこともいらっしゃるかなと思うんですけど。
一応ね、この後に解説とかね、役者の後書きみたいないろんな解説とかあって、それを見ながらたぶん理解していくんだろうけど、いずれにせよムズーって思って。
なので、今日もですね、ローリー・手伝くローコンの話をしていくんですけれども、まさにその理解をするための導入の話を、第1回分でしたいな、第1回というかこの1本分でしたいなと思ってますと。
今の0.5ページ2回するために、やっぱりね、1話分、1本分ぐらい必要なんだね。
今の0.5ページの前かな、そもそもやっぱり問題設定が独特なんだよね。今さ、まさに兄貴が言ってくれた通りで、本当に本文の書き出しが、最初1、世界は成立している事柄の相対であるから始まるんだよね。
いきなり世界の説明始まってるけどさ、相対がとかさ、事柄とかものとかさ、諸事実とかさ、厳しけはもね、自分の中にそれを意味を理解して構築していけよって話なんだろうけど。
無理なのよ、それは基本的に。ただ読んでるだけでは。
いいんだ。分かんなくて普通なのね。
分かんなくて普通。だから兄貴が読めなかったとかじゃなく、普通の人には理解できないのよ、やっぱりこれは。
はいはいはい。
兄貴がまず言ってくれた通り、学者さんが一生書けて、でも分かれば分かんないかみたいな、本当そういう世界なので。
はいはいはい。
だからこそ、なんでそもそもそんなことを書こうとしたのかとか、前回も言ったけど哲学を乗り越えようとしたみたいなね。
あとは哲学のほとんどが疑似問題だみたいな話をしたと思うんですけど、
じゃあそういうふうに思ったとして、じゃあ結局なんでこの本を書こうとしたのとか、
この本を書くことでなんでそれが乗り越えられるのみたいな話っていうのを先に理解しておくと、やっぱりちょっと理解しやすいみたいなところはあるんで。
確かに本に入れててほしいよね。
一切その説明はないんだよね、この本の中には。
なので、ちょっとそのあたりの話をさせていただきますと。
この本では結構論考って略されたりすることがあるんで、今回も論理哲学論考って長いし言いにくいので、論考論考って言っていこうと思います。
かつですね、これまで哲学の本ってどっちかっていうと、この著者はこういうことを主張しましたとか、
これはこの著者の言ってることです、正しいことですみたいなふうに言ってきたと思うんですけど、
これもちょっと前回お伝えした通り、ビートゲンシュタインってそれこそ前期とか中期とか後期みたいに、
結構その時代というか年齢とかによってやっぱりテーマが変わっていくんですよね。
前回でもあったもんね、最初にこの哲学問題提起して、もう哲学やり切ったというか、もうそこから足を洗ったぐらいの感じだったみたいな。
そうそう、でまた戻ってきますみたいな話があったと思うんですけど、
この論考については前期とか初期って言われるもので、これ自体はもちろん一個完結してるんだけど、
やっぱり年を重ねた後で自分自身の乗り越えるみたいな話があるんだよね。
だからこの本、この論考だけを持ってビートゲンシュタインが間違いないこんな主張をしたってなかなか言えないし、
逆に言うと後期も乗り越えるってことは要はそのテーマは引きずっているってことだから、
やっぱりある人人生をかけて取り組むのテーマのフィアな姿がここにある、この論考って本の中にあるみたいな、そんな感じなんですよ。
なるほど、一番熱量が大きかったりとか問題意識っていうものには直接的に取り組んでる本だっていうのが何なのかな。
やっぱりこの本はビートゲンシュタインを買った時にはきっと気に入る話だぜみたいな感じなんですけど、
さっき言った通りビートゲンシュタイン自体が哲学っていうのはほとんど疑似問題、要は意味のない問題とか、そもそも問題じゃないことをみんなこねくれ回してるんだって言ったんだけど、
彼自身哲学者だし、哲学をしてるんだよね。
しかもそれはやっぱり言葉でやらざるを得ないってことだよね。
そうそうそうそう、それって何でなの?みたいな話からちょっとしていきたいんですけど、ここにもやっぱりいろんな解釈があるかなとは思うんですけど、
ちょっと僕が読んでたところでいくと、ビートゲンシュタインってのは哲学っていうものを二通りの意味で使ってるとは考えてるんだみたいな話がありますと、
一つは乗り越えようとしている、要は過去の哲学で、もう一つは乗り越えるために必要なビートゲンシュタインがこれから語っていく哲学みたいな感じなんで、哲学を哲学で乗り越えるみたいな、そういうふうな世界観があるんだよね。
あーそうだそうだよね。確かに哲学から足を洗ってそのまま別の世界に行けばいいものを、やっぱりそのビートゲンシュタインを捉えて話さなかったんだね、哲学っていうジャンルっていうかね。
そうなんだよね。前回もおっしゃった通り、一回その学校の先生になるとかっていうので、そういうよくわかんない問題じゃなくて、やっぱ人と関わるとか、人が生きていく、成長するっていう現状世界に行くんだけど、
でもやっぱり、ちょっと現実世界とは違うというか、ちょっと抽象度の高いことを、でもなんとか現実に足をつけながら考えるみたいな、そういうことをやろうとした人ではあるんだよね。
論理哲学論考の乗り越え難さ
なるほど、なるほど。哲学を乗り越えるのは哲学しかなかったって話ね。
そうそうそうそう。
実際どんなものが乗り越えられるべき哲学なのかみたいな話なんだけど、例えばさ、これまでも言ってきたことあると思うんですけど、
例えば神とか魂は存在するかとか、あとはなんかよくあるのが善と美は同じかみたいなね。
良いものは美しいものであるみたいな話をするときに、じゃあ善とは何か、美とは何かみたいなね。
でなんか、哲学っぽいって多分なるじゃないですか。
まあそうね、言葉をこねくり回してるやつららっていうことね。
そうそうそうそう。で、美都原社員からするとこういうのがまさに擬似問題で、これが無意味なことなんだよと。
はいはいはい。
美都原社がやろうとしたことは何かっていうと、
それいうふうに美とは何かとか、美と善は同じかとかって考えてるに対して、
いやそれ考えろって無意味だぜとか、
それって意味がないことを考えてるんだよ、なぜならねっていう、そこのなぜっていうのをちゃんと説明して理解させる。
それが自分が教えている哲学で、
人によってはいわゆる病気の治療みたいな、
そういう人たち、擬似問題を考える人っていうのは哲学病に起こされてて、
そういう本当の無意味なことをこねくり回してる。
その病気、ただそれっていうのは結構人間とかと言葉に自然にこう、
何だろうな、備わってるところから起きちゃうものだから、
それを正しい哲学で治療するんだとか病気を治すんだみたいな、
結構そういう考え方があるみたいなんですよね。
そうなんだね。
それまでの哲学者というか、みたいな人からすると、それこそあれだよね、
善とは何かとか、悪とは何かをきちんと言語化して、
みんなが共通認識できるというか、それだそれだっていう、できるのってすごく意味がありそうだとは思う。
実際多分ね、社会生活だったりとか、いろんなね、自然科学の発展みたいな、
そういうところまで下手したらやっぱり起業してるわけだから、哲学が。
そうするとかなり意味があると思うんだけれども、
人間としてはやっぱりそれは違うよっていう話を、それでもしてるってことなんだね。
そうです、そうです。
違和感を感じちゃってると。
だから、やっぱりその哲学を乗り越えられすぎ問題ってね、前回だと思うんですけど、
ウィトゲン社員の乗り越えるって意味はやっぱりちょっと違うんだよね。
例えばそのプラグマティズム、前回やったやつとかだと、
やっぱり同じようにこれまでの哲学を乗り越えるぞって言って、
例えばプラトンとかデカルトを出してきて、
プラトンのこういうところがおかしいとか、デカルトの方法的会議でね、
何でもかんでも全部疑うとかっていうのは、ある種本当はできないことだみたいな、
そういうところをある種ロジックで突き崩していって、
だから我々が正しいみたいな、我々はそれよりも発展しているみたいなことを言ったりするんだけど、
やっぱりこのウィトゲン社員がやってることって、やっぱり思い向きが違うんだよね。
要は乗り越えるっていうよりは無効化するみたいな。
あー、なるほど。
あなたたちがその真理とは何かとかって答えを出すんじゃなくて、
いやそもそもそれってやる意味ないですよ、
むしろやっちゃダメですよっていうふうに、
釘を刺しにいくような感じなんだよね。
なるほど、乗り越えじゃないね、じゃあやっぱりね。
そうだね。
今までの哲学、さっきほら最初言った、
哲学には二つの意味があるというか、意味で使っているというのは、
最初の哲学を無くしてゼロにして、
新しい哲学をゼロから作りましたぐらいの話だよね。
そうそうそう。
たぶん序文とかもあったかな、昨日。
岩波の本にも。
序文?ないかな。
ないか。
中でそれがあるらしいんですけど、
そこにもあった?
あった、序。
序があって、そこはちゃんと文章で書かれてるんだよね。
それ読んでねーよ。
見過ごされてる。
そこにも、
実際書いてあるのが、
自分の努力、要はその哲学の成果っていうのが、
他の哲学者の結果とどれくらい一致してるかっていうのを、
自分で判断しようとは思いません。
実際私がこの本、論号に書いたことっていうのは、
個別の、個々の論点に関して、
新しいことを主張するものじゃないんだよっていう風に書いてるんだよね。
さっき言った通り、普通は乗り越えるとか批判するってなったら、
新しいことを言うとか、
これまで発見されてないことを言うっていうのが学問的に正しいことだし、
価値があることなんですけど、
過去の人はこう言ってるけど、俺はこうだみたいなのを、
要は参照しながらやっていくわけだよね。
ビジョンゲージサインはそれをしません。
一切他人の言葉を持ってくることもしないし、
よくあれじゃん、参照で、これはこの人のこの本に書いてあるみたいなのを引用するとかって、
哲学者ならやらなきゃいけないんだけど。
先行研究みたいなものの上にどんどん積み上げていくイメージだよね、確かに。
じゃないと結局それってただの自分の思いつきでしょみたいになっちゃうから、
いやいや過去の学者さんも、しかも権威になる人もこんなこと言ってますみたいなので、
やっぱり引っ張ってくるわけだよね。
でも自分はそれをやりません。
普通の学生が言ったら、教授からぶん殴られるか、
お前そんなんじゃダメだよって無視されるかみたいな感じなんですけど、
勝手に発明してんじゃねえよって言われるよね。
やっぱりウィトゲンシャインはそれをやってのけて活評価されたみたいな意味では、
天才性というか、すげえやつだみたいな感じに同時代に宝物を生まれたんだと思うんですよね。
なるほど、これが本当。
そうだね、確かに。それを分かってあえてこれ書いてるかもしれないしね、
全部勉強した上で意味ねえやってるのか、本当に見てないのか分かんないけどね。
そうだね、そこまでは確かに分かんないなって言われるんだけど、
でもやっぱりそういう意味では、そもそもこれまでやってきた哲学、
他の人がやってる哲学っていうのは、自分からしたら無意味なものだっていうのが前提にあるから、
もしかしたらそんなもの見る必要もないよって思ってたのかもしれないですね。
で、じゃあ無意味だっていう哲学に対して、どんな風に治療しますか?
言葉の限界を明らかにする
さっき言ったお医者さんというところの医術だよね。
それってワクチン打つのか、手術するのか、薬なのかとかっていろいろあるじゃないですか。
手段の話っていうのがまさにこの論考で行われている話なんですけど、
さっき言ってくれたように1とか、1-1-1だよね多分。
11って言われると11番目とかになっちゃうから、1-1-1みたいな感じなんですけど、
それを積み上げていくと、結局何を言おうとするかっていうと、一言で言うと、
言葉とか言語の限界を明らかにすること。
哲学の無意味さを解き明かすとか、それを追求するための手段なんだみたいに言ってるんですよ。
言ってるというか、そういう風に読み取れるんですよね。
そうなんだ。世界の話からスタートしてるのに。
そう、世界の話。
世界とはとか、思考とはとかっていろいろなことを言ってくるんだけど、
意味のある言葉、さっきから無意味だとか疑似問題とかって言ってるときに、
意味とか無意味みたいな話も一瞬やっぱり出ちゃうんですよ。
これは僕が以前、僕の好きな話とかで意味についてとかってやらせていただいたことあると思うんですけど、
それだけじゃなくて、やっぱりウィート・ゲンシュタインの語るときにも、
意味があるとかないとか、それを語れる、言葉にできるとかできないっていうのは結構絡みつく、合ってるんですよね。
そうなんだ、はいはい。
なので、例えば言葉の限界を明らかにするっていうのはつまり、
なんだろうな、やっぱりその問い、例えば、
善と美は同じかとかっていう問いがあったときに、
その問いは無意味だとか、そもそもそれって語ることができないことなんだ、本来なら。
っていうようなことを、なんだろうな、示せる。
だからこっから先は意味がない世界ですよ、言葉の世界においてってことを示して、
かつそれが、美と善は同じかっていう問いがそこに含まれるよっていう、
その2つを証明できると、
その善と美は同じかっていうことは語ることができませんっていう結論が導けるっていう。
なるほどなるほど。
そういう流れなんだよね。
はいはい、まずは大きくだよね。
意味があると意味がないってどういうことっていう大きな線引きをまず証明というか、明らかにしますと。
意味の有無を証明する手段
その上で、具体事例だよね。
例えば、善と美は同じなんでしょうかっていう具体的な問いがあったときに、
じゃあそれは最初に証明したところで言うとどこに位置付けられるかねっていうふうにやれば、
いろんなものの意味の有無を証明できるよねっていう。
そうそうそうそう。
はいはいはい。
ある種イメージしやすい美という現象からやりたいことをやろうとしたことをやったことですと。
はいはいはい。
なんとなくね、確かにそれが本当にできるようになったら何か言えそうだなってなるじゃないですか。
で、それを通じてこれまでの哲学者にやってきた言葉遊び、議事問題、
だからそういうのが全部意味の有無で言うと無の方に入るんだよっていうことを言いたかったってことなんだね。
もしくはそれを気づいてくれよという話なんだね。
みんなわかるよ。神は存在するかとか魂は存在するかとか、
主観と客観は一致するかとかっていろんな問いがあるんだけど、
それ全部無の方ですって。
でも恐ろしいって言いづらいんですよね。
そうそうそう。
ただちょっとここで考えてみたいんだけど、
そもそもさっき言ったように、ある言葉が意味があるとかないとか、
もっと言うと語れるとか語れない、語ることができないみたいな話って、
そんな簡単に区別できるんでしたっけっていうのがそもそもあるんだよね。
いやーそうだよね。だってこれそれこそイトリウスタインの意見じゃないですかっていう。
そうそうそうそう。
っていう話もあるし、
あとはさ、普通に考えたら言葉に言葉ができてるっていうことは語れてるじゃんっていう話なんだよね。
さっき言った通り、
全と美は同じかっていうことを言葉にして語ってる視点で、
いやもう語ってるじゃないかと。
無意味とか言っても、
これも前ちょっと話したかもしれないですけど、
丸い四角みたいな、明らかに矛盾はしてるし、
実際でもないから、
丸い四角って僕がポロって言っても、
そんなものはどこにもありません。
意味がない言葉ですっていう風にも言えるんだけど、
でも語れてはしまう。
あーなるほど。語ってるね確かにね。
そうそうそう。言ってはいるじゃない。
例えば、全と美は同じかは語ることができないとか、
丸い四角については語ることができないっていう風に、
でも語ってるじゃんみたいな。
っていうところで、
要はそれが存在するとかしないとかって判断する対象になるんだったら、
それって別に語れるじゃんっていう風になっちゃうよねと。
そういうのが普通に考えても言えるんだよね。
なるほどね。
そうすると丸い四角っていうものは物質としては存在しないけれども、
我々の認識じゃないけど、
言葉の限界を語る
その中には存在はしてると言えるよねみたいなことも言えちゃうと。
逆にね。
そうだね。
物理と原子体への反論としてね。
そういうのもあり得るよねって感じだよね。
そうだね。
まさにそういうことを言葉とかを定義して語っていくんですけど、
逆に語れるって言うと、
だいたい語れちゃうから、
語れないこと、語れることができないことに注目してみましょうと。
これ別に微妙原子体の議論じゃなくて、
それをわかりやすくイメージするために今話したことなんだけど、
例えばさ、
さっきの丸い四角だとイメージわからないけどなんか持てちゃうじゃん。
まあね、なんとなくね。
全く意味ない、例えばペチョパニポレロみたいな、
本当にもうわからないみたいな言葉があって、
ペチョパニポレロについては語ることができない、
みたいな言葉は言えますと。
それは語れないよねと。
あれってそもそもこだわりとして成り立ってないし、
破綻してるから、
それを考察することに意味が、
それこそ意味がありますかみたいな話になっちゃうと思うんだよね。
はいはいはいはい。
まあそうだね、いきなりじゃあそれを、
前と美の一緒ですかと、
ペチョパニポレロがイコールって言われちゃうと、
いや、ちょっとそれ無理っしょって。
そうそうそうそう。
いや、それは前と美の方は意味あるでしょみたいなね、語れてるじゃんみたいな。
ってなっちゃうから、
やっぱりこの語れるとか語れないとかっていうのは、
そもそもそういう風に判断する思考自体が言葉で行われているがゆえに、
結構解消できないんじゃないって思っちゃうんだよね、
普通に考えると。
だからさっきサニキがちょっと最初と最後読んでくれたけど、
一番最後は語り得ないもの、語ることができないものについては、
沈黙しなければならないっていうのは、
これはもう本当有名な言葉としてあるんだけど、
これで締まってたんだね。
本当にこれでシュッて終わるんだよね。
でも語り得ないもので、
どうやってそれを示したの?
そんなことできるの?っていうのを、
俺はやり切ったぜっていうのがこの論考なんだよね。
語れるものと語れないもの
ああ、その話もう終わってるから最後それで締めてるんだ。
だから、1・2・3・4・5・6・7が、
語り得ないものについては沈黙しなければならないっていう定義というか定義なんだけど、
その1から6までの話でそれを全部やり切ったから、
7で総主張しますっていう話なんだよね。
なるほど、なるほど。
そう。
なので、しかもビートゲーシャンはかなり自信を持ってるんですよ。
俺はやり切ったぞと。
確かにそれをやり切ったように思えるっていうのが、
やっぱりその後の哲学者たちの評価なので、
それってどうやって語ったの?
しかも本だから言葉ですらやってるわけだよね。
言葉の限界を言葉で語れるってどういうこと?とか、
それってどんな風にやったの?って、
それじゃやっぱ矛盾視点に見えるじゃない。
見える、うん。
でもそれを、じゃあまさにやったって何なの?っていうのを、
また次回以降ですね。
今回お伝えした前提というか導入をもとに、
実際に論理哲学論庫のさっき兄貴が言ってくれたような、
1、世界は成立している事柄の総体である、
とは何かみたいな、
そういうことからお伝えしていきたいというふうに思っております。
なるほど、確かにこの前提ないとそうだね。
この本が何のためにとかね、本当分かんないし。
結局さ、どこに自分の問題詞を持って読んでいくかが分かんないね、まずそもそも。
うんうん。
そうはね、世界とは何なのかに問題詞持っちゃいそうだもん、これ。
そうそうそうそう。
世界の話してるのかな?みたいな。
違う、言語の限界を明らかにすることが大事なんですみたいな。
っていうのに僕も気づくくらいめっちゃ時間がかかったので、
台本書くのが遅くなってるって話なんですけど。
はいはいはい。
いやー、なかなかの導入だね。
語れると語れないの違いは何か、みたいな。
そこをこの導入されるためにこの〇〇1回使ったっていうね。
そうだね。やっぱり本当はっていうか、もうちょっとシュッと本部に行けるかなって思ったよ、僕も。
あ、そうなんだ。
ウィトゲンシュタインやろうって思ったけど。
でも、やっぱりいきなりさ、この世界っていうのをウィトゲンシュタインはこの論理世界、
論理世界っていうか、いくつかに分けていてみたいな話とか、
それとそれが対照するって一対一対応しようって言ってるんだよねって話をしても、
何言ってるか本当分かんない。
それこそ言葉としては入ってくるけど意味としては返ってこないなみたいな。
はいはいはい。
感じになっちゃうなと思ったんで、
やっぱこの前提になっている、
そもそも哲学っていうのは2つに分けて、
それを乗り越えるっていうのは要は治療する、要は無効化する話だっていうことと、
それを言葉の限界を示すことでやろうとしているっていうこの2つは、
絶対教えていただけばダメだなって思う。
はいはい。すごいね。
語れるものと語れないものとか、
意味があるものと意味がないものっていうのを主観じゃなくて、
ある程度頭いい人たちが後のイントロデューサーの本を読んで、
簡単に批判しきれないレベルで証明してるってことなんだよね。
証明っていうよりは論述してるってほうが近いと思うんだけど、
まさに言ってくださる通りで、
どうやって言葉を伝えるかっていうと、
言葉の構造というか、根っこにあるもので話すしかないんだよね。
例えば日本語では言えるけど英語では言えませんとか、
例えばイタリア語では説明できるけどフランス語ではダメですとかっていう話になったら、
それこそ言葉とか言語の違いじゃん、文化の違いじゃんってなっちゃうわけだよね。
ほうほうほうほう。
これまた次回以降もちゃんと言うんですけど、
ある種の究極言語みたいなものを考えて、
それは時代とか場所とか、
今の例えば当時1900年という形、今で世紀2030年、
2023年。
いつも生きてる。
2023年には無理だけど、
例えば西暦3500年の言語ではできますとかっていうことでもダメなのよ。
ああ、それでもダメなんだ。
ダメ。だって言葉の限界ができてないじゃん。
言葉が発展したら言えちゃうってことだから、
だからそういう、
個々の東西全部を引き込めて、
そもそも言葉っていうものがこういうものだとしたときに、
この構造からするとこれは言えますとか、
この構造からするとこれは言えませんっていうことを言おうとするんだよね。
そこまで想定してるんだ。
そうそう。
自分の母語だけじゃなくて。
だけじゃなくて。
そうそうそう。
だからこれ糸原子体の単なる空想じゃんとか、
そういうふうに言えない。
言いにくいんだよね。
なるほど。
ちょっと隙がないんだね。
なかなかね。
ない。ない。
ありとない。
なくもないらしいけど。
なくもない。そうなの?
そう。
意外とこれ語れないって後で言ってること自分で言っちゃってないとか、
そうなんだ。
あんなかないらしいんだけど、
でも、それで言うとね、
先出ししちゃうのもちょっとあれなんですけど、
面白いのが、
途中で書いてるのよ。
論考の捨てるべき議論
ここまでの議論を理解した人は、
この論考の話っていうのを全部捨てさなきゃいけないっていうふうにね、
あえて言ってるんですよね。
ほうほうほうほうほう。
やっぱ梯子と同じだみたいな。
これも結構有名な例えで、
梯子もさ、
上るためには必要なんだけど、
上って別に下りなかったらもう捨てていいじゃん。
はいはいはいはい。
一緒で、論考の議論も、
それを理解するとか、
言葉の限界に取り付くまでには必要なんだけど、
取り付いたら全部捨てなさいと。
全部捨てなさいっていうか、
それは別に戻んなくていいんだよみたいな話をしてるんだよね。
ほうほうほう戻る。
さっき言った通り、
1とか2とか3っていう議論の中では、
これちょっと突っ込みどころあるよねとか、
これ語らないこと語っちゃってないみたいなこともあるんだけど、
6とかの終盤ぐらいで、
その話は全部捨てていいよっていう。
基本的には説明のために使っただけの話だから、
別にそれまでに自分が語り合えないことについて語ってるように見えるとかっていうのも、
別に説明のためにやってるだけに過ぎないから、
そこにとらわれんなって話をするんだよね。
それはどうだろう。
ウィトゲンシュタインがそういう意図で喋ってるのかな?
喋ってる喋ってる。
あ、そうなの?
そう。
上文の時からこれは、
分かる人にしか伝わらない本だって書いてて、
はいはいはい。
ウィトゲンシュタインは、
言葉の限界を知ったっていう世界から書いてるって話だから、
だからもう、
それを言葉の限界を知らない人は、
結局このはしごを登ってきなさいよと。
自分の位置とか、
位置の位置とかっていう論述に沿ってちゃんと読んでいけなさいよと。
それをやったら、
言葉の限界を知ったあだになった時には、
もうこの論考の話はいらないよね。
なぜならもう世界が変わってるからっていう。
あー、そういう意味なんだ。
なんか、最初聞いた時というかね、
全然途中の話がすとばされてるからあれだけど、
この前の哲学、
いわゆるウィトゲンシュタインが批判した議事問題とか扱ってる哲学に戻るなっていう話ではなくて、
っていう話なんだ。
あくまでこの、
ウィトゲンシュタインの話を理解するための話を捨てろっていう話っていうのを、
ウィトゲンシュタインは意図しているんです。
そうそう、論考のやってきた話っていうのを、
差し戻る必要ないよっていう風に言ってるんだよね。
なるほど、なるほど。
なんか、面白いね。
やっぱり、悟りとかに近いね。
勝手に言う。
悟るためのいろんなさ、
問答とかさ、
具体的なやりとりがあると思うんだけど、
そういうのはあくまで、
悟るための一テクニックに過ぎず、
例えに過ぎず、
その後は例え自体には何の意味もないのかみたいな。
そうだね。
言葉の限界
言わせてみたら、そうね。
その感覚は確かに近いよね。
違う目線で言葉とか世界を見ている、
っていうウィトゲンシュタインと、
言葉っていうのは、
善と悪は同じかみたいなことにも意味があるよねって言っちゃう僕ら。
では、見ている世界が違うみたいな。
悟った世界っていうのは全部一緒で、
自分も他人もすべて一つだっていう人と、
自分は自分、他人は他人じゃんっていう人はやっぱり違うみたいな。
ぐらいの差はもしかしたらあるかもしれないね。
そこを理解させるための手段としてはこうだけどねっていう話をしてると。
なるほど。
本当に好きなさそうっていうことは。
そうだね。
ちゃんと自学して書いてるだとはもう、
弱い30歳くらいだからね。
そうよね。絶対的な自信とスキルとどっちも。
ね。
みたいな感じですごく、
つけにくい本ではあるんだけど、やろうとしてることはなんか面白い。
ちょっと面白いって感じで言っておけたら嬉しいなとは思うんだけど。
だってすごい難しそうだもんね。
哲学的にもそうだしさ。
でもやっぱりこの意味ある無しとか語れる語れないのを証明せよとか。
それ自体はもうすごく難しそうだしね。
それを、じゃあ今回ハヤトの話を聞いた後でどう自分がこの、
そこそこの問いで、具体的だけど具体的なこの問いに対しても
どういう感覚持ってるんだろうなーっていうのはちょっと楽しみでもあるかなって。
ね。そういう風にね、その結論を楽しめてもそうですし、
そういう意見矛盾した語れないものについて語るとか、
語れると語れないの間を言葉で説明するとか、
っていうのをどうやったのみたいな話のちょっと手法的な部分でもですね、
ぜひ楽しんでいただけたら嬉しいななんて思っている感じですね。
はいはいはい。いやー了解です。
ちょっとそうだね。
ウィトリエンシュタイの中身を見るっていうかと思ったんだけども、
やはりこれだけ難しさもちょっとわかったんで、
ちょっとその前段階ということで、いやーありがたかったです。
よかったです。嬉しいです。
ぜひ次回からまたちょっと深くですね、
このウィトリエンシュタイの論理哲学論考の話っていうのを
しっかりしていきたいなと思いますので、
ぜひ楽しみにしていただけたらと思っております。
はい。わかりました。
では次回、論理哲学論考の中身ということで、
引き続き楽しみにしていきたいと思います。
では次回もよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
40:10

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