1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #153 『論理哲学論考』を理解..

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

ウィトゲンシュタインの論理哲学論考には、世界と論理空間の関係、私という存在の無限性、価値の存在しない偶然性などが探求されています。また、意思という概念が世界の外に存在することによって、自由意思や意味付けが可能になることも述べられています。また、ウィトゲンシュタインの巧妙な仕掛けについて話し、世界の彩りや意思の働きについて考えます。価値や美味しさの存在や比較可能性についても言及します。さらに、論考の進行に応じてウィトゲンシュタインの論理哲学論考の意図や境界線の解釈が述べられます。論考を読むことで、本来語れないものについての理解を得ることができるというメッセージも含まれています。

ウィトゲンシュタインの哲学と世界と論理空間
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回もウィトゲンシュタインということで、前回がやっとあれですね、世界が何かとか、
その世界とあと論理空間が何かとか、その上でウィトゲンシュタインがどういう感覚を持っていたのか、
どういう違和感を言葉とかに対して持っていったのか、ということがやっと何となく分かってきたかな、
見えてきたかな、というところまで行けたという感じでした。
そうですね、兄貴もね、ベストパニックポロラと私って同じなんだっていうね、
それだけ聞いたら、何言ってるんだこいつっていうような言葉をついに言い出してたと思うんですけど。
そうだよね、確かに。やべえやつだな。
哲学ではそういうことがよく起こるよね、たぶんね。
僕もすごく嬉しいし、本当にね、ついてきてくださって皆さん本当にありがとうございます。
なかなかね、聞いてる方もしんどかったんじゃないかと思うんですけれども。
そうはね、本当にね、この道どこに向かってんのっていうね。
でもね、楽しんでいただけたら嬉しいなと思ってるんですけど、
今日はね、もうだいぶゴールに走っていきますぞっていう感じなので、走っていきますぞ?
誰だ?走っていきますよっていう感じなので、ちょっと気を楽にして聞いていただければと思っております。
前回はね、兄貴がマニキュアやってくれたことを繰り返しになっちゃうんだけど、
世界っていうようなものと論理空間っていう言葉だけでできたものがあったときに、
世界の方には事実とか、例えばダビデっていう人がいて、
論理空間の方にはダビデ像みたいな、それを映しとった、本当に像みたいなものがあって、
それが一致するっていうのが語れるっていうことなんだよみたいな話をしましたと。
その意味でちょっと哲学的なというか、抽象的な意味での私っていうのが、
世界のどこにもある人存在できない。
私という存在と価値の偶然性
私とは何か、と問う私、問う私みたいな感じで無限に私っていうのが後ろに行っちゃうから、
私っていうのはないよねみたいな話をしましたと。
ちょっとこれね、補足が実はちょっとだけありまして、
その意味での抽象的な私っていうのは世界の中にはいないんだけど、
ビトゲン社員っていうのは、私っていうのは世界の限界を定める働きを持ってるんだっていうことを言うのね。
難しいと思うんです。もう少し話すんですけど、
実際ビトゲン社員の言葉に、私は私の世界であるとか、
私の言語の限界が私の世界の限界を意味するみたいなふうに書いてるんだよね。
つまりこれ何を言ってるかっていうと、世界の中には私はいないんだけど、
前回言った通り、世界と論理空間の大きさは一致するよみたいな話をしたじゃないですか。
ということが、論理空間っていうのは何だったかっていうと、
言葉っていうのに使われた命題の集まりだったよね。
言葉で作った命題の数だけ、その論理空間も広がっていくから、
その分世界の方の可能性も広がるっていうことが起きるんだよね。
最初はさ、世界っていう方から始めたから目玉焼きっていうのは固定してて、
写真で写すって意味では、世界が大元で、論理空間がそこから使えるってイメージだったと思うんですけど、
ここは実はお互いに影響を与えてて、論理空間が大きくなれば世界の方も大きくなるっていうふうに言えるんだよね。
まだ実現してるかしてないかはともかくとしてっていう話ね、可能性の話だから。
これも私の世界っていう意味で言うと、私がいろんなことを考えるとか、いろんな言葉を習得するっていうのは、
まさに世界が広がるっていうことと一緒だって考えることができて、
だから私っていうのは世界の大きさを決める、限界を決めるような存在なんだっていうふうには言うことができます。
なるほどね。ちょっと戻るけど、さっきの話で言うと、論理空間が大きくなると世界側の境界線も大きくなるっていう話がしたんだけど、
また逆もあるってことだよね。ないことが証明されるとその境界線がちょっと小さくなるっていうこともあるんだもんね。
そうそう、あるある。
変な話で、例えば世界の方で新しい科学的な発見があったとか、
例えば僕らが世界っていうのは平らじゃなくて丸いっていうことが分かったとなると、また論理空間の方も変わっていくよね。
平らかもしれないし丸かったかもしれないっていう広がりがあったものが、平らっていうものは世界の外に教えられて、境界線がその分縮まるって話だもんね。
そういうふうに結構ダイナミックなんだよね。
実はそれも若干違う部分なんだけど、一旦私の世界っていうのはそういうふうにイメージして大丈夫ですと。
ちょっとこれ最初脱線したっぽい感じなんですけど、実はこれと同じようなことっていうのが、他にもいろんな上げている、語ることができない概念があるんだけど、それにも当てはまりますと。
例えばね、実はミトキンシュタインは世界っていうのも存在しないんだとか、論理っていうのも存在しないんだとかっていうふうに、
でも最初世界は事実と物を育てられるとか言ってたじゃんとか、論理空間って言ってるじゃんとかってあるんですけど、
それはもう実はここで言ってる世界っていう意味で話をしながら、これは存在しない、存在しないとかって言ってたりするんですよね。
その中で今日もう一個持ってきたのが、価値っていう話。価値があるとかないっていう話なんだけど、これももちろん言葉を正確に伝えたくて、
例えばあるリンゴが100円で、別のブドウが1000円だとした時に、これはブドウの方がリンゴより価値が高いっていうのは事実として言えるんだよね。
この意味での、比較した上での相対的な価値については語ることができます。
でも例えばリンゴには価値があるっていう命題とか、ブドウはおいしい、おいしいっていうのは価値判断じゃん、おいしいおいしくないって、
っていうような絶対的な価値については実は語ることができないんだ、世界の中に存在しないんだっていうふうにウィトゲンシャインは言うんだよね。
意思の存在と自由意思の薄まり
どうこれ、ここまでの話を聞いた時に兄貴としての捉え方として。
そうだね、これまでの話を聞いてると、ほんと一番最初の話だけど、事実とものの違いみたいな話で、価値っていうものをそれで置き換えるとわかる気がするよね。
だから事実、自分にとって価値があるっていうものを、うちらは自分とか誰かにとって価値があるっていう事実を、
このものである価値と混同しちゃってるのかなっていう、そういう感覚は得られるかな、一応。
いいですね、すごい。なんか伝わるっていう感じがしますね。
やっと、ここにきてやっと。
ありがとうございます。
受け取り方としては今兄貴が言ってくれた通りなんだけど、ウィトゲンシャインはもうちょっと説明的にいろいろ言ってくれてるんで、それをお伝えしていこうと思います。
実は世界と論理空間っていう話をずっとこれまでしてきたと思うんですけど、この2つをイメージした場合に、どっちにもあらゆる可能性っていうのが含まれてるんですよ。
これはこれまで言ってきたことなんだけど、ということはあらゆる可能性が含まれている中で、何が実際に世界に起きるのかっていう事実として現れてくるかっていうのは偶然でしかないんだっていうこともウィトゲンシャインは実は言いますと。
うーん、なるほど。そこはウィトゲンシャインが思ってることね。
これなぜかっていうとあらゆる可能性が含まれるってさっき言ったじゃない。これまで真理だと思ってきたこと、例えばさっき言ったような地球は平らだと思ってたけどそれは丸かったみたいな話と同じで、次の瞬間には変わるかもしれないっていうことも世界の中には常に可能性として含まれてるんだよね。
例えばさ、これまで朝になれば太陽が昇ってきたっていうのは事実なんだけど、その事実をもって明日も太陽が昇るというふうには決めつけることができませんと。
なぜなら論理空間というかその世界においても明日の朝太陽が昇らないっていう命題は意味を持ち得るんだよね。
ってことはそれがもちろん常に太陽を観測していて、まだ壊れない、まだ壊れないっていう何らかの確証を得続けることができるかもしれないんだけど、
でもその明日太陽が昇るっていうのも、やっぱりそれは偶然起きたことなんだっていうふうに言わざるを得ないんだっていうふうに非常現したいと考えます。
だからどれだけ確実であろうとか間違いなく起きるであろうっていうことも、でもそれって必然じゃなくて偶然だっていうふうな世界観なんだよね。
そうだよ。そうなったときにあらゆることが偶然起きていて起きなかったりするとしたら、特別に何らかのこの出来事とか事実には価値があるっていうふうにやっぱり言えないんだよね。
なるほどね。永遠不変の価値みたいなことで固定はできないって話ね。
固定はできないし、やっぱりそれっていうのはまさにマニキュアがさっき言ってくれたことなんだけど、やっぱり私がその事実の価値が高いと思うとか、こういう状況の人にとってはこの出来事には価値がある。
例えば、明日は待ち遠しいと思っている子どもたちにとっては朝太陽が昇るっていうのは価値があるとかね。
みたいなふうに、何かを想定しないと価値っていうのは言えません。
これ前回もお伝えした通り、そもそもそういったような私みたいなものって、哲学的な私っていうのは世界にいない。
私にとってこの出来事は価値があるって言ったときの私っていうのも存在しないとすると、そもそもその命題も無意味になっちゃう。
その価値っていうのもまさに事実としてはそこには存在しないから、私も存在しないし価値も存在しないっていう二重の意味で、これは無意味な命題もどきだっていう話なんだよね。
なるほどね。何回でも言うけど、ペチャポニポレロが葡萄を美味しいと思っているって言ったときに、誰やみたいな話になっちゃう。
美味しいって言うのも、「それ何なの?」って言えちゃうんだよね。
ペチャポニポレロが葡萄をポチョだと思っているって話になっちゃうと。
どう思ってんの?
そう。だからそれは柔らかいと思っているとか、水々しいと思っているとかが多分言えるんだよね。
水々しさっていうのは、水分量が多いっていう事実に変換できるじゃん。
柔らかいっていうのも、人が脳とかいろんな感覚として、これは硬さっていう物理的な量として柔らかいと思っているというふうに変換できるから、それは多分言えるのよ。
なるほど。具体的に数字で示せるしね。
数字で示せるイコール偏るってわけでもないっていうのはちょっと難しいところではあるんだけど。
そこを無理矢理できるからね。
でもやっぱりおいしいっていうのは、どこまで行っても主観というか、そういう判断を含まざるを得ないんだよね。
確かに。そこってどうなんだろうね。おいしさとか、脳科学的な話で、ここの部分が何%反応するとおいしいとか、そういう風になってくるとそこも変わるのかな、もしかして。
でもそれがね、絶対的にはなり得ないかもしれないもんね。人によってそこの感じ方とか違うとかね。
そうなんだよね。たぶんホヤっておいしいのはおいしくないんだよね、話で。ある人にとってはおいしいけど、ある人にとってはおいしくないと思うみたいな話って、いくらでもあるわけだよね。
確かに。
やっぱりそういう風に価値っていうのは、世界の中にはないと。
もしあるとしたら、それっていうのは世界の外にあるんだって話をして、
ウィトゲンシュタインは世界の外ってことについてもここで実は語ってるんだけど、
そういう風にあるものに価値を与えるものがあるとしたら、それは意思だ、意思という風に呼ぼうっていう風にウィトゲンシュタインは言ってるんだよね。
なんかいきなり来たな。
いきなり来た、そうそうそう。
ちょっとここから意思の話をするんだけど、
これも普段僕らが使うような何かをしようとする気持ち、何かをする意思がありますとか、意欲がありますみたいな話ではなくて、
さっきもさすがにウィトゲンシュタインの世界観の中では、あれよりできるのは偶然だから、
それっていうのは要はまさに自由意思、自分が何かをするとか、自分が世界に何かを影響を与えるみたいなことも限りなく薄まっちゃうんだよね。
だって全部偶然なんだから。
でもやっぱりそうじゃなくて、僕が生きている中では、やっぱりこれこれには間違いなく価値があるとか、
こうすることが正しいっていう風に思って生きてたりするわけだよね。
その意味付けをしていくような話って、なんでできるのっていうと、
それは世界の中にはないんだけど、世界の外にある意思っていうものが世界に働きかけて起こるんだみたいなことを言い出しますと。
なんか世界観が複雑になってきたけど、はいはい。
でもこれもあくまでも、世界の中と外っていうのはあくまでちゃんと分けたからこそ言えることなんだよね。
この世界観の中で言うと、例えば僕らがおいしいリンゴ最高って思っている人は、
世界の中の事実には何も影響を与えない。
リンゴのそれで別においしさが変わるわけではないし、
もちろんプラシーボみたいな感じで、おいしいと思い込んだらおいしく食べられる話はあるかもしれないけど。
インフルエンサーがいたらみんなおいしいって言う人もあるかもしれないけど。
ウィトゲンシュタインの仕掛けと世界の彩り
でもそれもあくまでも主観の中の話になっちゃうから、やっぱりそれは事実としては当たれません。
そういうふうになったときに、その世界に含まれることとか事実とか状況とか何も変わらないんだけど、
世界の外にある意思っていうのを働かせると、これもちょっと知識な表現になっちゃうんだけど、
世界自体の彩りが変わるみたいなことは、表現できますと。
ちょっとウィトリー・シャインが言ってる。
ウィトリー・シャインが言ってるのはね、強弱強くなったり弱くなったりするって言葉を使ってるんだよね。
へー、そうなんだ。
世界が強くなったり弱くなったりする。
わかりづらいね、確かに。
わかりづらいでしょ。
なるほど。
なのでちょっと彩りみたいな話にしたんだけど、
要は、例えば僕、カンのハイドっていう人間が、
おいしいものには価値があって、おいしくないものは価値がないっていう意思を持ってたとすると、
リンゴには価値があるけど、おいしくないものはなんだろうな。
僕セロリ苦手。
セロリ好きな方は否定するわけじゃないんですけど、セロリ苦手なんですよ。
そうするとセロリには価値がないっていう、そういう世界で生きることになるんだよね。
っていう風な彩りを与えることはできる。
あー、なるほど。
そうかると強弱ってのも、なんとなくわかる気もするし、
ピントが合う合わないみたいな雰囲気でもあるかもね。
そうね、そうね。
おいしいと思うものはピントがあってそれを食べたいと思い、
おいしくないと思うものはそれを避けたいと思いたいことっていうのは、
まさにこういう意思の働きで起きるんだよみたいな話ですね。
だから、やっぱり私とは何かとか、価値とは何かとか、
意思とは何かって語ることはできないんだけど、
私というものは働いて、なんだろうな、
世界を限界付けるっていう意味で働いているとか、
意思というものが働いて、
世界の中で何に価値があるかとかないかっていうことを自分自身が思ってしまうとか、
そういう働きとしてある種示されるんだみたいな話として、
ウィトル・ゲンシュタインは言うんだよね。
すごいね、なんか隙がないというか、
ウィトル・ゲンシュタインがこれまで言ってた世界の話だけで言うと、
その中に私はいないんだっていう話をしたときに追いやられていくんだみたいなね。
そこで終わっちゃうと、じゃあ私ってなんだよってなるけど、
私の居場所みたいなものも規制してくれたんだね、ここではね。
そうそう。
なので、さっき僕が意思が働いてとかって言ってたんだけど、
そもそも意思というものは世界の外にあって語り得ないものだから、
そんな風に本当は言えないんだよね。
論理空間の中では明大なり得ませんと。
でも意思というものが働いて世界に彩りがあるんだっていうことについて語ることには、
意味があるはずみたいな、
このギリギリのラインが伝わるかな。
イトリエンス社員的にもだいぶ境界線上を繋がったりしてる。
そうそう。
そのギリギリのところでまた語ろうとしてる。
ただやっぱり大事なのは、語り得ないことイコール意味がないことではないんだよね。
要は明大としては無意味、要は意味を成してないっていうことは言うんだけど、
それについて何だろうな。
意思とか私っていうものはやっぱりちゃんと重要なものだし、
だからこそ慎重に語らなきゃいけないとか、語れないってことをわかった上で、
それについて話をしないと結局私とはこの体であるとか精神であるとか、
そういう風に言っちゃって結局つかみ損ねちゃう。
害がどんどん大きくなっちゃうよね。
っていう風にイトリエンス社員は言ってるんだよね。
あまりそこに厳密に従いすぎるという話だよね。
論理空間の明大みたいな話に。
そうだねそうだね。
例えば今回もさ、ペチャポニンポレラは葡萄が美味しいと思っているっていう時に、
お前誰やっていう話をしたんだけど、
本来であればこの言葉、ペチャポニンポレラウンヌンっていうのは明大ですらないから、
本来その語るしかなんだろうな、語っちゃいけないむしろ明大でもないから、
そもそも話題に挙げちゃいけないでしょうみたいな、
あとそれをお互い共有してそれについて話すことも語れない話じゃんってなっちゃうんだけども、
ただこのペチャポニンポレラウンヌンっていう言葉自体には明大としては意味ないんだけど、
それをもとに我々が何かの理解を深めるっていう存在価値はそれ自体に与えられていて、
そういう意味ではこの論理空間に存在してもいいし、
世界だよね、世界にもそういったさっきのさ、
私は存在しないけど、私が存在すると思っている私が存在するみたいな話で、
ペチャポニンポレラ美味しいと思っているっていう言葉、
何かを理解するために生まれたその意味のない言葉っていうものは存在しているみたいな、
そういう感覚に近いのかな。
意思の働きと語れないことについて
そういうふうにも言えるし、
今日は兄貴が今言わなかったことで言うと、
論理空間とか世界ってすごく広い世界だって話を前でこれまでしてきたじゃない、
でも実はそこには私も価値も意思も含まれてないのよ。
私も価値も、うんうんうん、そうだね今日の話で言うと。
実は論理空間ってのはすごくありきたりでつまらない狭い世界だっていうふうに言うこともできるんだよね、
論理空間っていうのは。
それも本当に一人は言ってるのかな?
言ってる。
つまらない。
僕らそのエルトゲーム社員自身がこの本で語っていることとか、
自分が言っていることっていうのはもしかしたら取るに足らないこととか、
すごいつまんないって言われる、いわば哲学上の大発見みたいなことではないから、
自分自身が言ってるんだよね。
へー。
それは多分エルトゲーム社員の自然な素朴な感覚だったんだろうね。
そうだねそうだね、当たり前に物事を言ってるだけじゃんみたいな。
だからそういう意味では、論理空間が全てではないんだけど、
全てじゃないものを語ろうとするとそれは語ることができないから、
それは慎みなさいよっていうふうな話なんだよね。
なるほどね、徹底的に分解して分解して、
それが全てだとも言わないって話ね、あくまで分解したよっていう話で。
境界線を引いたよって話なんだよね。
なるほどなるほど。
別にそれ、弾かれたものをタブーとしてるわけじゃないんだね。
もう世界というか、こういうふうになってますよってことを示したに過ぎないというか。
そういうこと。
うんうんうん、なるほどなるほど。
そうなんです。
だからやっぱり、例えばここから派生して、
倫理っていうものを語れないみたいな話とかを見てくださっているんだよね。
何が正しいとか美しいとか正義だとかっていうのも、
語ることができないと。
美味しいと似たような感じかな、この価値と。
そうだね、価値と似たような感じ。
でもやっぱりじゃあ、倫理がこの世界に必要ないかっていうとそのことは絶対になくって、
やっぱり何が正しいかとか、何が人として正解かみたいな話っていうのは、
語れないんだけど、やっぱりそれによって、
世界っていうのはすごく働き方が変わってきてしまうみたいなことがあるから、
だからそこについて語るのは無意味なんだけど、
その大事さっていう言葉は捨てちゃダメだよっていう、
このギリギリのラインで話すんだよね、ミトゲンシタンには。
語れることと語れないことの境界
でもさっきの価値の話してくれたことで、
その辺のそこを捨てちゃダメだよっていうのもわかる気がするよね。
たとえば絶対的な正義とか、
絶対的な美とか善っていうのは、
さっきの絶対的な美味しさみたいな話と同じで、
たぶん存在しないだろうと、このミトゲンシタンの世界では。
ただ、こういった事実とこういった事実のどっちの方が尊いですかとか、
どっちの方が良いと思われますかっていうのは、
どっちの方が美味しいみたいな話で、
確かに比較可能ではある。
どっちが真実かはわからないけど、比較可能ではあると。
かなり主観だけどっていう。
それはその世界には存在するっていう、
ただそこが混同してるでしょ、あなたたち。
混同してる人たちがいるよねっていう話をしてるんだよね。
とか、やっぱりどっちの、
たとえば私の正義の方が正しいとかって言ってる人が、
明らかにそれは語れないことを語っているよねとか、
そういったことをミトゲンシタンはちゃんと示そうとしてる。
だからまさに、これちょっと僕が話したんだけど、
前回も言ったミトゲンシタンが最後の一文として書いている、
語り得ないことについては沈黙しなければならないっていう言葉って、
これもたぶんいろんな解釈があるんだけど、
やっぱりこれってすごくミトゲンシタンの意思だなって思うんだよね。
だってさ、語り得ないことについて語るっていう可能性は、
世界の中にもちろん含まれているわけだよね。
さっきの話みたいなこと?
さっきの話みたいに。
意味がどうだとか。
意味がどうだとか、世界がどうだとか、
ページのポイントプロジェクトがどうだっていうことは、
それを、たとえばカンのハヤトが言うっていう可能性は、
別に世界の中から弾かれないわけよ。
あー、はいはい、なるほどね。
ミトゲンシタンのことで、それも別に価値としては等しい、
偶然起こることだから、
それにリンゴがあるっていう事実と、
カンのハヤトが語れないことについて語るっていうことは、
等しく起こり得るんだよね。
なるほど、なるほど。
でもミトゲンシタンは、
それについては沈黙しなければならないっていう、
ある種、意思を表明することで、
それを慎みなさいよっていう、
ある種、本当は語っちゃダメなことを示そうとしてるんだよね。
なるほど、はいはいはい。
そうか、その可能性はあるから、
みんなそこの部分は、意思を持って慎みなさいよと。
そうそうそうそう。
そういう意思を持った方が良いよね。
哲学をするならとか、
ちゃんと物事を考えるならっていう。
だから、まさに兄貴が言ってくれた、
世界の方も縮んだりするって言ってくれたじゃん。
それと同じで、
ミトゲンシタンがこういう風に言ったことで、
世界の方をちゃんと、
論理空間の方をちゃんと縮めようとしてっていうのに近いのかな。
あー、はいはい。
語れないことで結構氾濫してるよね、今みたいな。
傍聴してないみたいなね。
そうそう、傍聴しすぎちゃってるから。
みんなそれ語れるって思っちゃってるでしょって。
そうじゃないんだよ。
ここにちゃんと境界線があって、
語れることと語れないことの線を引いたから、
ちゃんとこの中でみんな物事を語って考えてねっていう話なんだよね。
でも本当はそれは価値を示してるから、
できないはずなんだよ、この世界観でいうと。
でもやっぱりその世界の外のことまで、
ミトゲンシタンがわざわざ語ることによって、
自分がやろうとしてることの意味を伝えてたりとか、
そういうことを自分はやってるんだよっていうことに、
ちゃんと自覚的であるっていうことが、
なんかわかるんじゃないかなって思うんだよね。
なるほどねー。
せめて語れないものについて、
あなたたちは語ってるんですよということを自覚せよと。
そうだね。
いい話だね。
自覚せよだし、自覚したならば語れることはできないよね。
沈黙しなきゃいけないっていうことがわかったよねって話なんだよね。
なるほど、そう沈黙っていうのが、
さっきの俺の正義、こっちこそが正義なんだみたいな話。
話っていうのはやっぱり沈黙した方がいいよねっていうふうになった人がね。
そこがもっと対話として何かあるでしょうっていう話だね。
そういう話じゃなくて。
もしかしたらあなたの正義と私の正義の中で、
よりどちらの方が正義として承認できるかを擦り合わせましょうとか、
それだったら多分事実としてまだギリいけると思うんだよね。
あなたの正義は何ですか、こっちの正義は何ですかっていう、
そもそも定義からちゃんと話していきましょうねみたいな話になるかもねとか、
そこの正解は多分無限にあるから、あれだけど。
例えばの話で。
でもやっぱりそこをちゃんと分ける。
言葉としては近いじゃない。
俺の正義を理解せよと、私とあなたの正義をお互い理解し合いましょうって。
論考の意図とウィトリンシュタインの生き方
言葉としては近いんだけど、語れるか語れないかっていうところから言うと、
そこの間の線はものすごく太いものが入っているみたいな感じだと思うんだよね。
それを過去の頭の大天才と言われたような哲学者にも感じてたってことなのね、
ウィトリン氏というのはね。
そうね。
だからでもまさに言ってくれたような、世界とは神とはっていうので、
それってペッチャポニーポロールと一緒じゃんみたいな話を多分感じたんだろうね。
私、今回ペッチャポニーポロールが出てるけれども、前回からの話でいうと、
スマホがパンを食べたイコール、それこそ私とはいないみたいなさ。
イコール私。そこそこイコール私だよね。
そうだね。
私が存在するみたいな。
話してるのにここまで聞くと、確かに納得できるところまで来た気がするね。
そうだね。よかったよかった。
それが論理の飛躍でもウィトリンシュタインの暴論でもないさそうだみたいなね。
そうそうそう。そうなんです。
だからね、やっぱりウィトリンシュタインが言ってることが全部正しいかったら、
もう世界はウィトリンシュタインの世界になってるはずだから、
なってないってことはやっぱりそこにやっぱり難しさとか、
ウィトリンシュタインが正しくいったと言い切れない部分があるんだよね。
あ、なってないんだね。
なってない、そう。
だってなったらウィトリンシュタインの話、
あ、そんなん当然じゃん、知ってるよってなってるわけじゃん。
なるほど、ちゃんと義務協力で世界中でやられてるはず。
世界中でやられて、みんなが語り得ないことについては沈黙してる世界になってるはずなのよ。
なるほど。
でもなってないってことはやっぱり、なんだろうな、
それはやっぱりすごく理解するのが難しいって話もありつつ、
やっぱりウィトリンシュタイン自身がこの自分が考えた論考っていうものを、
やっぱりもう一回乗り越えてるんだよね。
え、あ、そうなの?
ここになんか隙があったよねみたいな話、乗り越えてるんだ。
そう。
へー。
あの、第一回でね、言った通り、
ウィトリンシュタインが一回この論考を書いた後に、
じゃあもう自分はやり切った哲学の仕事はやり切ったって言って、
一回小学校も先生になってるんですよ。
だからもう語れないことっていうのに、
ある種関わるんじゃなくて、
自分は実際の人生に向き合うっていうので、
いわゆる子どもの教育とかっていう、
すごく具体的な世界に浸ってるわけだよね。
あー、ある意味実践してるわけか。
沈黙するっていうのね。
そうそうそう、沈黙してるっていう。
でも、10年後に改めて哲学の世界に戻っていて、
それを論考の世界でやり尽くしたと思ってた、
自分自身の哲学とか、発想っていうのはやっぱりもう一回乗り越えてるんだよ。
やっぱそれがすごいよねって話もあって、
普通ここまでやったら、
論考の境界線と解釈の幅
自分のやってきたことを悲観するなんて、
普通の人間はなかなかできないもん。
自分が作ってきた愛着もあるじゃないですか、
自分の論理とか主張に。
それをやり切って、
また新しい発想とかテーマっていうのを語ってる。
これが中期とか後期を意図現したいの主張なんだよね。
あー、これを強化するとかじゃなくて、
乗り越え的な話なんだ。
穴があったよね。
この辺は散々言ってきたじゃん。
論理空間があったか、世界があったかって。
だけど、そもそも論理空間ってあんの?みたいな話とか。
え?あ、そうなの?
この3,4回何だったの?って話だけど、
あ、そうなんだ。
でもそこって語れるんだっけ?
論理空間って語れるの?みたいな。
ちょっと意味わかんなくなった、また。
そう、なっちゃうでしょ。
でも、逆に言うと、
この3回とか4回で一定の世界観を感じてくれたからこそ、
後期を意図現したいの、次に言う話っていうのも
味わってもらえるはずなんだよね。
まあ、そうだね。
こんだけ苦労して作ったあれだよね。
なんかわからないけど、
砂のお城みたいなものを一瞬で崩されるわけだよね。
そうそうそうそう。
この愛着のある。
でも、意図現したいのは10年かかってるから、
僕らはね、
1週間に2回やってるラジオの中では
お届けしてるだけではあるんだけど。
だから、もちろんね、
次回のラジオを聞いても、
それをわかったとか、
理解し尽くしたとはもしかしたらならないかもしれないし、
そもそもね、今回自転車創業で、
僕はまだその本を読み切ってないんですよ。
まだ半分ぐらいしか読んでなくって、
後期を意図現したから何を言ったかっていうのは
ちゃんと理解できないわけよね、今この瞬間。
全意を完全に把握した上で、
それを作ったわけではないと。
そうなんです、そうなんです。
結構僕自身は意図上ドキドキしてるんですけど、
でもね、そういう意図現したいのは
営みっていうのを伝えたいっていう気持ちはすごくあるんで、
そこは引き続きぜひやっていきたいなと思ってますと。
次回先取りした話なんだけど、
ごめん、もうちょっとだけ実は論考で話したいことがあって、
これは前回も言った、
梯子の比喩、要は高いところに登ったら梯子がいらなくなるみたいな感じで、
論考の議論っていうのも、
それを理解したら捨て去られるべきだみたいな、
捨て去らなきゃいけないみたいなことを言ったと思うんですよ。
あくまで論考か論理哲学論考の中で語られてるのは、
そこを理解するためのいろんな例え話だったりとかに過ぎないみたいなイメージだよね。
理解した後はそれらに縛られるのよ、捨てろって。
そう、捨てなきゃいけないよと。
実際にどんなふうに書いてるかっていうのをちょっとだけ読みたいんですけど、
これ実際に見解したいんです、論理哲学論考に書いてる言葉ね。
私の証明題、まさにこれまで言ってきたことね、
世界は事実と物の相対、事実の相対であり物の相対ではないみたいな、
そういう命題っていうのは、
もうちょっと飛ばすんだけど、
最後にそれが無意味であることを悟ることによって解明の役割を果たす。
言うなれば読者ははしごを登り切ったらそれを投げ捨てなければならない。
その時読者は世界を正しく見るだろう。
っていうふうに言われてるんだよね。
おー、すごいね。
すごい、手のひらの上って感じがするね。
そうなんだよ。
だから一瞬に知らなきゃいけないんだっていうのは、
まさにもう見解者が言ってるんだよね。
言ってるし、さっき言った通りだね。
語ってきたことが、それ自体が無意味だよねっていうことを悟れと言ってるんだね。
その時に初めてわかったと言えるみたいな。
だからこの命題はありがたいやありがたいやって、
めっちゃいいこと言ってるわーって言ってるうちは実はわかってないよねっていうことを言ってるんだね。
やっぱり正しく理解するだろうじゃなくて、世界を正しく見るだろうって話だから、
そういうふうに生きてるかどうかって、まさにその生き方のものがやってくるんだよね、これって。
いやー、なんか全問答味があるね、これ。
もうその内容自体にとらわれるなっていうね。
そうそう、言ってたよね。
法室を理解するための手段に過ぎないみたいな。
やっぱりハシゴなんだよね。
これにもいろんな解釈あると思うから、僕がレッスンを読んだ本の中で言われたことなんだけど、
ひとつは、論考のまさにこの話の中に、いわゆる命題もどき、命題のように見えて命題じゃないものがたくさん出てくるよっていう話があって、
さっきも言った通り、意思の話とか、意思が人に働きかけて世界に彩りを与えるとかって僕は言ったんだけど、
そもそも世界の外にある話だから、これって語ることは本当はできないはずなんだよね。命題じゃないはずなんだよね。
確かにこれも言葉遊びな感じが、そう言われるとするかもしれない。
理性と言い換えたりとか、自我って言い換えてもいいかもしれないもんね。
そうそうそうそう。自我の働きで世界に彩りを与えるとか、私が世界に彩りを与えているとかって言ってもいいんだけど、
それも全部結局命題もどき。だから論理空間の中にも世界の中にも出てこない。
これは語れないんだけど、でもそれをあえて語ることで、それは語れないんだとか、
そういう世界っていうのはそういうものなんだとか、論理空間っていうのがそういうふうなものなんだっていう説明をフェイトゲーションがやってきたわけだよね。
だね。やっぱりその順番でいかないと、最終的にその意思みたいなものが世界の外にあるって言われて、一定の納得感を得られないから、難しいよね、確かにね。
語れないものについては沈黙しなければならないというのが始まったら、その後何も続かないわけだよね。
語れないことと沈黙
一行で終わる。
そうじゃなくて、最後にそう言ってるっていうのは、その手前では語れないものについても語ってきたっていうことなんだと思うんだよね。
逆に語れることと語れないことの境界線を引いた、そういうふうに世界を見ることができた人にとっては、
たぶんこの話はもはや無意味であって、語れないものだということがわかってるよねっていう意味でまず理解できるよねっていうのが一つの解釈ですと。
まあそうだね。確かに本質に到達できたはずだよねと。
そうそうそう。
もう一つはね、ビトゲンシュタインがもともとやろうと思ったことに結びつくんだけどさ。
1回とか2回かな、最初と思うんだけど。
ビトゲンシュタインが言いたかったのは、本当は哲学というのも疑似もんだって批判して、やっぱり病気であるものだからそれを治療するんだ。
そういう哲学を作るんだというふうな話だと思うんだよね。
治療としての哲学みたいな話があったと思うんだけど。
ということなんだよ。
これもちょっと性格ではないんだけど、いわゆるこの世から病気が全部なくなったら、例えば医者もいらなくなるみたいな話と同じで。
誰もがこの論考の議論を理解して、正しく理解できることと理解できないことを区別できた。
っていうふうになったら、この本もそもそもいらなくなるんだよね。
病気がなくなったような哲学もどきとか疑似問題に囚われる人がいなくなったら、この論考の議論というのもいらなくなります。
いつの日かわかんないけど、自分がそれに対してできることをやり切ったこの論考という本を出すことで、
あとはみんながそれを読んで治療されるのは待つだけだから、
あとは自分の書いたものがいつか捨てられる、この論理論、哲学論考という本もいらなくなる時代が来るはずだ。
来てほしいっていう、そういう意味で投げ捨てられるっていうことを言ってるんじゃないかと。
そういう解釈もできそうだと。
できそうだっていう話なんだよね。
だからさっきの繰り返しになっちゃうんだけど、いとけんシャインは語り切ったから、
あとは自分はそこは知りませんって言って、まさに小学校の教師になるみたいな生き方を選んでいくわけだよね。
ある人が徹底している、境界線を引いた、引けることができる補助線、はしごを作った自分っていうのは、
あとはその通りに生きていくだけだよっていうような。
そういう行き様に彼の哲学っていうのは現れたなっていうことも感じるんだよね。
はいはい。
まあそうだね、言葉がすごい端的だから解釈の幅が広い感じがするね。
そうだね、あとはやっぱり誰かも、そして生き方自体も結構波乱万丈だから、
そういう意味では色んなことを解釈したくなる、やっぱり語りたくなっちゃうんだけど、
やっぱり今回改めて4回分くらいかな、浪人哲学論庫の時も4回分やらせていただいたんですけど、
やっぱり見とけやしない、すげえなって改めて感じたんですよね。
やっぱり最後、今日も何度も言っている、語り得ないことについては沈黙しなければならない。
この言葉ってこれだけで聞いたら、何当たり前のことを言ってんだとか、
同じことを繰り返すだけじゃんみたいな感じなんだよね。
語り得ないってことはそれはそうだよね、沈黙しなきゃいけない。
要は語れないんだからっていう話なんだけど、
まあ確かにね。
やっぱり何となくでも見とけやしないがやろうとしたことを理解しようとして、
世界とか論理空間とか言葉とか命題とかっていうものをそれなりに理解しようとした後にこの言葉に出会うと、
やっぱりすごいこの気持ちで、要は本当は語っちゃいけないことなんだけど、
でもあえてこの言葉を使ってるんだみたいな、そういう凄みを感じた気がしたんだよね、ちょっと。
ウィトゲンシュタインの論考
そこもコントロールしてるというかね、分かった上で、そこもやっぱり自分が言ってるわけだもんね。
命題が無意味であることを悟れって言い返したけど、
そこは自分なりに不信しながら、自分がたぶん到達した地点に上手くそうやって梯子をかけてきたのが論考だって話なんだもんね。
作った梯子が論考だと。
だと思うし、やっぱりちょっとこれもね、別に言い方にあまり寄せる必要はないんだけど、
これを書いてるのはやっぱり戦場の真ん中だからね。
あ、真ん中なんだ。
そう、戦時中の、まさにその戦場でこれを書いてるわけよ、ビートゲーム自体は。
あー、その帰ってきてからとかじゃなくて。
じゃなくて、装甲とかもその瞬間に書いてて、後で出版してるみたいな感じだから、
やっぱりどんな気持ちでこういう言葉を紡いでたんだみたいな話だよね。
っていうのはやっぱりすごいなと思うし、
やっぱりそれはね、ハイデッカーの時にね、
ハイデッカーが20世紀最大の手作者だって言ったと思うんですけど、
やっぱりそれと並ぶぐらいの天才だみたいな風に言われてるのも、
なんか分かってくるというか、
なんかその風に思ってきたのは初めてみたいな。
たぶんまだまだ全然浅いとは思うんですけど、
やっぱりちょっとでもやっぱり潜るとか、手を浸してみた時に、
やっぱりこの水ちげーわみたいな。
この人すげーわみたいなのが、
初めてちゃんと実感できたなって感じがしたんですよね。
論考の背景
最終回みたいな話になってるけれども、
まず一旦論理哲学論考の最後って話ね。
そうですね、論理哲学論考の最後で、
あと2回分ぐらいはちょっとね、分かんないって思ったら、
やっぱり3回分になったとか、なるかもしれないですけど。
まあでもここまで来たらね、
だってこれを乗り越えたって言われちゃうと、
そこ聞かずにはちょっと追われないから。
いや、そうだね、そうそうそう。
もったいないからね。
えっとね、そういう意味で言うと、
誰か言ったかな、
哲学探究っていう本が、
まさにこの、
いわゆる後期領域の現象を代表する本だって言われているものなので、
これをね、手がかりに。
これのまさに、
これはもちろん解説本で、
後期イントリエンス
原稿をとてもとても読めないんですけど、
手がかりに、
後期イトリエンス社員が何を言おうとしたのかとか、
論考の話を踏まえて、
いったい何が引っかかって、
改めて哲学をすることになったのかとか、
こんな話をですね、
次回ぐらいでやっていきたいなと思っている感じでございます。
分かりました。
そうですね、
イトリエンス社員の世界が楽しくなってきたので、
このまま次回まで、
その後期ですね、
もっと浸っていきたいと思いますので、
次回も引き続き楽しんでいきたいと思います。
では、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。
今回もありがとうございました。
44:17

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