1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #152 ウィトゲンシュタインが..
2023-10-08 39:14

#152 ウィトゲンシュタインが伝えたかった「語り得るものと語り得ないもの」の境界線

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

今回はウィトゲンシュタインの論理哲学論庫について話しています。まずは論理哲学論庫の中で、準備や土台の話から始まり、事実と物の関係、そして言葉と事実の区別について説明しています。最後には、事実と言葉の境界線を引く話になります。ウィトゲンシュタインが伝えたかった「語り得るものと語り得ないもの」の境界線について、論理空間と世界の違いや命題と命題じゃないものの線引きについて語られます。ウィトゲンシュタインは語り得るものと語り得ないものの境界線を探っています。言葉や精神について考えることで、個人の存在や意味について深く迫ります。ウィトゲンシュタイン、語り得るものと語り得ないもの、境界線、ネットコミュニティ、ウィトリエンシュタイン、論理哲学論庫最終編、語り得ないもの、命題、論考の言葉、論理空間、世界

論理哲学論庫の準備
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回もウィトゲンシュタインということで、前回ぐらいから論理哲学論庫の中の話をしていきますよって話をしたんですけど、
全然中に入っていってる感じしないよね。多分まだ1ページ目とか1ページ目とか、そういう感じだよね。
そうですね、そうですね。でもやっぱりね、一番最初がやっぱりとっつきにくいっていう話はやっぱりあるみたいで、この論理哲学論庫の話自体がね。
なるほど、そう、哲学やってる人の中でもやっぱりそういう感じなのかな、まず最初から。
はいはい。なので、山登りみたいな話はしたかな、ちょっとあの、もしかしたら雑談とかしたか、兄貴の雑談とかしたかもしれないんですけど、
やっぱり最初この山を登る前の準備だよね、その靴を買うとかさ、アウターを買うみたいなところがやっぱり一番手間がかかるけど、
それさえ持っちゃえば意外と登れるみたいな話があって、この論庫の話も最初が大変その世界とは何かとかって前回話したと思うんですけど、
それは理解できると、理解できるというかある程度なじんでくると、結構その後の話も入りやすいよみたいな感じなので。
あー、なるほどね。あるよね、なんかRPGとかでさ、普通の強い剣だと全然ダメージ当たんないんだけど、
すっごい本編のストーリーと関係ないさ、別のところに行って、あの老人からこの何とかの剣をもらうとすっげー倒しやすい。
特殊な道具な感じがするね、特殊というか難しいんだね、その道具を揃えるのがまずね。
難しいね、敵を倒す時にやっぱりその準備が大事ですみたいな話と同じだね、確かに。
逆にそれがあれば、その山は何とか登れるかもねっていうのを知って。
そうです。なので、前回ね、その準備、土台っていう意味で、この世界ってビトゲンシャイってどう見てたみたいな話をしましたね。
で、なんかその全然わからない世界っていうのは事実の相対だって物の相対ではないみたいな、わからない言葉っていうのを、
事実っていうのはこういうことで、物っていうのはこういうことだみたいな話をして、物と物の関係っていうものが大事だよみたいな話をしましたと。
で、兄ちゃんが目玉焼きみたいに伝えてくれて、君っていうのが事実、実際に起こったことだよと。
で、その外にある白身っていうのが状況って言って、それが起こってないけど起こる可能性が少しでもあること。
で、さらにその先の空間みたいなところに無限に起こる可能性がゼロのことみたいな。
言葉でできる世界っていうのが広がっているわねみたいな話っていうのをしてたかなと思いますと。
事実と物の関係
はいはい、すごくざっくりとね。
で、じゃあ今日はね、そこからさらに次の話なんだけど、前回の最後、これはちょっとね、なかなか聞いてる方も理解しんかったんじゃないかと思うんですけど、
その目玉焼きの作った世界っていう目玉焼きの写真を撮って横に並べますと。
で、その写真の方を実験室みたいにして、言葉だけを使ってね、いろんな可能性とかを考えていこうみたいな話をちょっとしたと思うんですよ。
うんうん、そこは結構ね、イメージするのが、たぶん目玉焼きにしちゃったから。
まあね。
かもしれないけど、それはね、もともとの本当にある世界だよねっていうリアルな世界っていうのがあったときに、
それを写真というか、写真を撮った感じにして横に並べると、もう一個その二つ並びますよと。
で、その写真を撮った方が、実は元の世界を言葉だけで表現したものだという話だったよね。
それが結構ね、イメージしづらいんだけど、何とかね、まずそのイメージで話を聞いていこうかなっていう心の準備はしてきたよ。
収録にあたってね。
そうそうそう。
ありがとうございます。
そうそう、で、それが何を示すかとか、やっぱり最初は絶対分かんないので、ちょっと今日はね、それを何とか理解できるというところまでいけると、
あとだいぶね、その後はもうスッといけるんじゃないかと思ってるんで。
今の時点でそれを理解する必要はしている。
全くない、全くない。
とにかくもう片方は言語だけでできてるんだよなっていうのを忘れなければ、迷子にはならない。
ならないはず。で、最後のゴール、山のてっぺんには語れることと語れないことの境界線を引く。
それはゴールだから、そのゴールに向かって今世界っていうものと、さっきの写真撮ったコピーっていうのは論理空間っていう言葉で今表現してるんだけど、
世界と論理空間っていうのがあるよっていう、もうこの三つだけ覚えておられば一旦OKです。
とりあえずそのイメージさえ持ちながら話を聞いていきましょう。
頑張っていきましょうという感じなんですよ。
で、早速なんだけどね、この今言った論理空間、そのコピーした先、写真で撮った先のものなんだけど、
これっていうのは世界全体を映し取ったものなので、普通写真だったら外側というか外見しか映し取れないと思うんだけど、
世界の中に含まれることっていうのはもう全部映し取られているものなんですか?
はいはい、まあそうだね、世界自体がもう事実の相対であるみたいな話で、
だからあらゆる事実を言葉でもうすでにコピー済みみたいな話だよね。
そうだね、そうそうそう。
言葉によって。
なのでリンゴがあるみたいな事実が世界に当たったとすると、それをリンゴがある言葉とか、
There is an appleみたいな英語で言うとね、言葉で映し取ったものが論理空間にはありますよというような感じで、
それは像とかピクチャーとかって呼ぶらしいんだけど、その言葉で映し取った言葉だね。
言葉側、はいはいはい。
像って、例えばそのいわゆる石像とか銅像とかあると思うんだけどさ、
例えば有名なダビデ像とかあった時に、
ダビデ像自体はもちろん大理石なのかな、そういうのでできてて、もちろん人そのものではないですと。
でもその像を見るとダビデっていう人を表現することができるんだよね。
それと同じ感じで、リンゴがあるみたいな言葉は事実そのものじゃないんですよ。
ここがね、結構難しいんだけど、あくまでも事実ってのは世界にあるもので、
それを映し取った言葉としてのリンゴがあるっていうのは、論理空間にある事実ではないもの。
うんうんうん、なるほど。
映し取ったものではあるけれども、あくまで事実とはノットイコールですよって。
さっきのダビデの話だよね。
だってダビデ像がダビデそのものかって言われると違うもんね。
そうそうそうそう。
あくまでも大理石にできた、映したものであって、っていう風に考えると、
このリンゴっていうものがあった時に、それがダビデ本物、生身をダビデに置かないと、
リンゴがあるっていう言葉は、ダビデ像、大理石にできたダビデ像のように、
それを何らかの形で、今回は言語で、表現したものにしみないと。
だから別の、表現したものだってそのものではないよっていう理解をしてほしいっていうイメージだよね。
言葉と事実の区別
その通りですその通りです。
言葉とかっていうのは重なると分かりにくいので、
ここもちょっと別の言葉をビトゲンシュタインは当てていて、
そんな風に事実を表現するためにできた言葉とか、
その像としての言葉っていうのを命題っていう風に呼ぶのね。
これは命題と言います。
なんでこんな分かりにくいことを言うかっていうと、
まさに今兄貴が言ってくれた通りで、
僕らって自然に暮らしていると、
当たり前に事実と言葉っていうのを同じように捉えてしまうんだよね。
いやー、今の早いと言葉もパパッと言ったけど、
そうだよね、まずは前回の、
我々は事実と物っていうものを混同しているよねってことがまずあって、
そこを分けたよね。
リンゴっていうのとリンゴがあるっていうのは別だよねっていうのを前回分けたよね。
だよね。
その上で、その事実っていうものも我々はさらにそれを分けたんだけど、
その事実ですらその物と言葉っていうものは混同しているよねっていう風に、
それをさらにもう一個分けたっていう話だから、
うちらの感覚から2回も離れているという処理を行っているんだよね、これはね。
そういうこと、そういうこと。
そりゃむずいわっていう感じはする。
なんとなくこれまでの話からすると、事実と言葉が混同していて、
この世界っていう話と論議空間っていうのを分けることで、
この事実と言葉っていうものをちゃんと別行に考えることができますよ、
考えることにしましょうっていう話をしている。
そこでは追いついている気がするな。
素晴らしい、素晴らしい。もう100点です。
ありがとうございます。
いやちょっとね、そうなんですよ。
なので、まさにそういう事実とは世界の側にあって、
命題っていうのは論議空間の側にあります。
っていうので、これでまた区別ができるんだよね。
ダビデとダビデ像。
そう、ダビデとダビデ像。
例えばさ、前回俺も例に挙げたと思うんですけど、
僕がスマホが手元にあるみたいな事実としてあるよねって話と、
スマホがパンを食べるっていうのは、
これって絶対意味として破綻してるねみたいなことを言ったじゃないですか。
うんうんうん、世界に存在しえないよねっていうパンを食べる方は。
そう、世界に存在しえない。
おそらく可能性はゼロと言っていいよねと言った時に、
ただこれも言葉として何か表現してるように感じちゃうと思うんですよ。
スマホがパンを食べてる時に、
ちゃんと考えたら意味がないってわかるんだけど、
でも何か意味ありげに感じちゃうじゃない。
いやー感じるよね。
保育園とか幼稚園の子供がこんな表現してたら素敵だねーとかってちょっと誤魔化しちゃいそうだっていう意味で。
確かにね、大人はそんな風に考えないよみたいなね。
でもそれこそがやっぱり言葉と事実を一種直線にしちゃってるっていうことなんだよね、まさに。
はいはいはい。
だから、そんな風に言ってもすごく人間の無意識というか、
自然に言葉で表現できたものは事実としてあり得てしまうように感じる。
あー素敵だねーとかって無理矢理に持ってっちゃう回路がもう。
そうそうできちゃってる。
はいはいはい。
フィルゲンシュタインはこの自然な態度っていうのがまさに哲学っていうのがその擬似問題で、
例えばこれって美とは何かとか、神とはいるかみたいなことっていうのもこれと一緒で、
言葉にできてるからなんか意味がある問題っぽいんだけど、
でもそれも結局全部、言葉と事実を混同しちゃってるからだっていうことを言いたいんだよね、美と現したいのは。
結論としてはね。
でも、神はいるかとスマホがパンを食べるってやっぱりまだちょっと違うというか、
論理空間と世界
そうだね、そこを主張してる、神はいるのだって主張してる人たちに、
このスマホパン食べないでしょ、だから神もいないでしょって言って、
あ、なるほどって泣いてさ、そうだったと今回はしないよね。
そうだよね、まだそうだよね。
なので、そこはやっぱり美と現したいのは乗り越えたと自分は思っていて、
それを読者とか読む人にも何とか乗り越えてほしいって思ってるんだよね。
だからあえて明大みたいな普通では使わないとか、ちょっと別の意味で使うような言葉を持ってきて、
言葉っていうものと明大っていうのは違うんだよと。
明大っていうのはあくまでも言葉だけの世界のものであって、事実とは別なんだよっていうのをちゃんと伝えるとするわけだよね。
はいはいはい。
もう普通に使ってる言葉っていうものにはいろんな意味が混ざっちゃってるから、
自信とは解きほぐしていってる段階なんだよね、今はね。
そうだね、ちゃんと分けてますと。
じゃあこの明大って何かっていうと、さっきこれもお伝えした通り、
その状況とか事実って世界にあるもの、世界で起こり得ることを言葉で写しとった像なんだよね。
何か言ってくれたらそのダビデとダビデ像っていうのとまさに同じような話なんだけど、
こんな風に設定すると、明大っていうのをあれこれいじくり回すことで、
実験的にいろんなことを論理空間の中で飾ることができます。
飾れることって何かっていうのを論理空間の中だけで考えることができて、
例えばリンゴがあるっていうのはさっき言ったけど、リンゴが100個机の上にあるっていうことも考えられるし、
例えばリンゴが空を飛ぶみたいなことも論理空間の中では考えられるんだよね。
この明大っていうのはおそらく無限に作れる。
要は別に101個、102個、103個とか、そういう風にやっていけば本当にいくらでもできるから、
そういう風にいろんな可能性っていうのを考えることができます。
ただ、言葉であればどんな組み合わせの明大になるかっていうと、
実はそんなことはないよっていうのもウィトゲンシュタインは考えてるんだよね。
例えば、第1回とか無意味なことを言いたい感じでピチョランチャラみたいなことを言ったと思うんだけど、
ピチョパニポレロだよ。
ピチョパニポレロよく覚えてるね。
その記憶力別に使ったほうがいいよ。
ピチョパニポレロだけかな。
ピチョパニ言った気がする。
みたいな言葉とかもそうだし、
例えば、机のあるリンゴが上に100個みたいな。
言葉として破綻してるみたいな。
っていうのもただの文字列だし、
例えば、スマホがパンを食べるみたいな話でリンゴが怒るみたいなね。
すごいシンプルだし明大として成り立ちそうなこと。
そもそも意味を成してない、意味を持たないっていう意味では単なる文字列なんだよね。
現実世界の話でいうと、もう存在しないよっていう側に入っちゃうような言葉たちだね。
論理空間の中で、これまさに論理空間ってどんな世界とか空間なのって話に繋がるんだけど、
言葉として成り立つか成り立たないかっていうことで、
そこの論理空間の中に存在するかしないかっていうことが決まる世界なんだよね。
リンゴが怒るっていうのは一見言葉として成り立つように見えるんだけど、
ビートゲー世界はすると、机のあるリンゴは上に100個っていうバラバラな文字列と一緒だっていうふうに言うんだよね。
どっちも意味がないからね。
世界でいうと、さっきの繰り返しだけど、存在しない可能性ゼロの方にいっちゃう。
そうそうそうそう。
なので、まさにこういう何らかの意味が存在しないものっていうのは排除されて、
少なくとも何か意味を成している。
そういう命題だけが論理空間の中にあって、
それをある種言葉の論理に従っているっていうふうにビートゲー世界は捉えますと。
だからこの空間を論理空間っていうふうに言うんだよね。
あ、そうなんだね。
じゃあ論理空間の中、さっき言ったようなリンゴが怒るとかそのほうがパンを食べるだったりとか、
あとはそのペチョパニポレロみたいな本当に意味不明の言葉みたいな文字列みたいなものは、
命題と命題じゃないもの
論理空間の中には存在しないって言ってると。
存在しないって言ってる。
だからリンゴが空を飛ぶとかも、もしかしたら誰か投げてるところをパッと見たらリンゴが空を飛ぶって言えるかもしれないっていう意味では存在し得るから。
これも命題。
なるほどなるほど。
リンゴが起こるが絶対存在しないので命題もどきみたいな、これはビートゲー社員の言葉っていうよりはその解説者の言葉だったんだけど、
命題っぽく見えるけど違うよっていう話なんだよね。
はいはいはい。そこで命題と命題じゃないものの線引きをしているってことですね。
そうそうそうそう。
そこはじゃあ世界の存在できるかできないかっていう線引きと同じでいいんだよね、イメージとしては。
そうだね、同じで大丈夫です。
なので、もっと言うとそのビートゲー社員がやってることっていうのはその論理空間においてさっき言った話で命題として語りうること、リンゴが100個付けにあるとかリンゴが飛ぶみたいなことと、
世界において状況としてとか事実として起こりうることっていうのはぴったり一致するよってことなんだよね。
はいはいはい。まさにあれだね、目玉焼きの黄身と白身のところが、もしくは白身の端っこかな、そこがピタッと重なるって話なんだよね。
そうそうそうそう。
なので、そういう意味では世界と論理空間っていうのは同じような広さを持っているんだけど、
世界のほうはやっぱり状況とか事実とかものでできていて、論理空間というのは言葉だけでできているっていう、そういう違いがあるよっていう話なんだよね。
はいはいはい、なるほどなるほど。ちょっとその論理空間と世界の違いだったりとか、さっきの命題ってものが言葉と何が違うのか、どういうふうに分けたのかっていうのが見えてきたかな。
そうそうそうそう。
ここまで来るとね、やっと語れることと語れないことの話ができるようになってきて、
今言ったように命題っていうのは要は語って意味がある、なぜならそれは世界に含まれるからなんだけど、
命題もどきそのリンゴが起こるとかっていうのは、そもそも世界に起こり得ないとか含まれ得ないから、
それって語っても意味がないこと、つまり語ることができないことだっていうふうな話をするんだよね。
そうすると、要は語るものと語られないものの境界線っていうのは、論理空間の中にそもそも含まれるかとか、
私とは何か
その論理空間に含まれた命題が、ちゃんと世界の中でそれが実現するかどうかを考えることができるかっていうことと一緒に考えることができるんだよね。
そうだね、境界線一緒だしと。
そうそう、一緒だしと。ここまできてやっと、イトギンシュタインの主張っていうのをちゃんと聞くようになっていきますと。
まだ土台だったんだ。
ここまでが土台の話。
了解了解。
ここまでやってきて、最終的には哲学は擬似問題だ、みたいなことをイトギンシュタインは言おうとするわけなんだけど、
例えば、最初の出発点としては、まず語れるものと語れないものを分けて、
その哲学が言っている神とは何かとか人とは何かっていうのが語れないものの方に入ったら、
それって無意味だとか意味がないっていうふうに言えるよねって話をしたと思うんだよね。
それこそスマホがパンを食べると一緒だよっていう話になれるってことだね、そこまでいって。
なので、それが今やっと僕らは、世界と論理空間っていうものがあって、
論理空間の中に含まれるかとか、世界の中に含まれないものは、
スマホがパンを食べるってことと一緒だから、それは擬似問題とか無意味だっていうふうに言えるっていうふうに言い換えられる地点まで来ましたと。
確かにそこまでは納得できるまで来た気がする。
あとはここからは神話とか人話っていうのがまさに含まれませんっていうことを言えていければ、
ビトゲン社員のやりたいことは達成できますと。
ここからは少し気を楽にして聞いていただけるんじゃないかと思うんですけど、
ここからはやっとビトゲン社員が明らかにした語り得ないものシリーズ、
これは語り得ませんっていうものをいろいろ挙げてるんだけど、
それをいくつか紹介していきたいなというふうに思っておりますと。
そこは納得できなきゃおしまいだからね。
そうそう。
まずいろいろ挙げてるんですよ。
もちろん美とかもそうだし神とかもそうなんだけど、
最初ちょっとこれがわかりやすいんじゃないかと思って持ってきたのが、
私とは何かみたいな命題。
いきなり結構深い話っぽい。
深いっぽいじゃん。
これ言われたら哲学的だよねとかそんな感じするよねって感じるじゃないですか。
でも僕らはまずは私とは何かっていうことに捉えられる前に、
そもそもこれが命題として成り立つかどうかっていうのを考えられる地点にいるはずなんだよね。
論理空間で私とは何かっていったときに。
私とは何かを考えようじゃなくて、
今日作ってきた土台の中で私とは何かはどこに含まれますかねっていう話をしましょうと。
そうです。
いきなり私っていうのが世界にあるとかないとかっていうのを考え出すんじゃなくて、
私とは何かっていう命題って成り立ってるんだっけって考えたいんだよね。
やっていきましょうと。
この私っていうのはこのままだとすごく曖昧な言葉なんだよね。
そうなんだ。
なぜかっていうと、
例えば私がリンゴを食べるとか、
私の体は大きいとかっていう時の私って、
それは具体的に世界に存在してるじゃない、絶対に。
だからそれは別に、
ここで言う私とは何かっていうのの私の対象ではないっていう風に見逃げしたいと考えるんだよね。
それを聞いとったときに、
何がここで問われてる私なのかっていうと、
いわゆる哲学的な、
例えば、
自観とか自我とかって言葉をこれまでもいろんな人の中で使ってきたと思うんだけど、
純粋な知性としての私が、
例えば世の中の物事を正しく見て真理にたどり着きますよみたいな、
哲学ってそういう風な私っていうのを想定するじゃない。
これ本当に主人が作ったわけじゃなくて、
もう西洋哲学は割とそういうことやってきたよねっていう話で、
そういう自我みたいなものを想定しましょうという話。
そうだね、その通りです。
そういうふうにしたいのはもうちょっと、
私という言葉の存在
実は本当は独我論としての私みたいなことを言ってるんだけど、
ちょっとそこまでいくと分かりにくくなりすぎるので、
いったんは兄貴がやってくれたような、
そういう哲学的な自我みたいな私っていうのを想定してるよって思ってもらうとありがたいですと。
じゃあこの哲学的な自我として今言ったのは、
私って果たして語り得る対象なのか、
要は世界にそれって存在するのかとか、
例題として論理空間の中で語れるのかっていうと、
それは違うんだっていうのを物理的に言うんだよね。
そうなんだね。
これはもうスマホがパンを食べる側で存在しない側だと言っちゃうんだ、まず。
そうです。
はいはいはい、なんでだろう。
なんでかっていうと、
例えば私とは何かっていう言葉に対して、
他ならぬこの私が考えているとかって語ってみますと、
これもあくまでまだ論理空間の中の話ね。
なった時に、
他ならぬこの私って言ってる私って、
世界のどこにいますかってなった時に、
絶対特定できないんだよね。
これなんでかって言うとちょっと難しいんだけど、
なんでかって言うと、
例えば他ならぬこの私って言う時に、
このカンナ、ハヤトっていう人間を指差したとして、
できるんだけど、
それって私とはこの体であるとか、
私とは脳であるとか、
いうふうに答えれるじゃない。
んー、
ん?どういうことだ。
例えば、
そもそもこの私とは何かっていうことに、
なんとか答えようとしてみますと。
他ならぬこの私のことなんですって言った時に、
自分っていうのを、
例えば指差すとか、
脳に私がいてとかって、
いろんなことを言うことができるよね。
私ってものを何か表現しようとして。
あー、はいはいはい。
なるほどなるほど。
その言葉、実裏だよね。
その言葉を見た時の私は、
世界ではどういった形で存在しているのかって考えた時に。
そうそうそうそう。
しうるかって。
しうるかってことを考えた時に。
その私ってものを指すものが、
もしかすると身体的な意味での体全体?
個体そのものを指してるかもしれないし、
さっきハヤトが言ったような、
顔だけを指すかもしれないし、
脳みそだけを指すかもしれない。
もうそれで言うと、
あるかないかはまだわかんない。
証明されてないけど、
自我みたいなもの。
もう私の精神。
その個体の中にあるこの精神。
みたいなことを言うことができそうだけどね。
そうだよね。でも精神っていうのもさ、
それってもはや一つの具体的なものになっちゃってるわけじゃない?
もの?はいはいはい。
世界の中に精神っていうものを使って語っているってことは、
僕らも精神があるっていう事実の中に生きてるわけなんだよね。
でも私には精神があると言っている私っていうものを、
さらに問うことができるんだよね。
私には精神があると思っている私。
純粋な知性っていうことは、
精神っていうことも正しく捉えられる私なわけじゃない?
精神を正しく捉えている私を正しく捉えている私みたいな感じで、
どんどんどんどん私っていうのが後ろに行っちゃうのよ。
これは面白いかも。
これが一番最初に話した、
私の精神の捉え方
世界は事実の相対であり、物の相対ではないっていうところで、
例えばリンゴみたいなものだと、
それもリンゴそのものっていうのは物であって、
うちらが普通に認識しているリンゴっていうのは、
もうその時点で事実だよねっていう話をしたと思うんだけど、
それが事実に足り得るのは、
もう誰の目から見ても明らかに、
リンゴっていうもの自体はあるだろうと、
これだよって指し示すことができる。
もう目でも見える、触れる。
だからそれは事実。
私たちはリンゴがあると思っているという事実が、
世界には存在し得るって話で、
今のような何か分かんない私とか、
それを例えば自我みたいな、精神とかってやっちゃうと、
もうそれについては具体的に指し示せない。
ここからここまでが私の精神ですよっていうものを、
誰が見ても明らかみたいな話にはなれないっていう意味で、
そのリンゴとは圧倒的に、
決定的に違うっていう意味で、
存在し得ない。
だからその精神が、私の精神とか自我が存在するよっていう風に、
現実世界では自分たちが言っちゃってるのは、
さっきハエトンが言ったように、
それを自分がそう思ってるという形でしか表現できない。
そうだね。
じゃあそうすると、さっき言った、
それを言った時点で、
その精神があると思っている自分っていう枠がもう1個できて、
そうするとやっぱりそれが無限ループになっちゃうんだね。
そうだね。
さらにそう思っている自分っていう風に、
ひたすらひたすら終わりがない旅に出ちゃって、
そうそうそう。
っていう感じ。
こんな感じです。
ごめん難しいね。
難しいけど兄貴が言ってくれた通りで、
私っていうのは精神ですって言うと、
私が思っているという事実を示してますってことなんだよね。
イトゲンシュタインの話だと。
だからそこまでの国が、
リンゴみたいになっちゃうって話だよね。
そうそう。
どちらは精神っていうものをイコールリンゴだと思ってるんだけど、
本当は精神があると思っている自分っていうものが、
私の存在と語り得ないもの
リンゴと同じクリーっていう枠を作るとすると。
そうだね。
そうするとじゃあ精神って何?ってなっちゃう。
そのものって何?ってなっちゃうって話ね。
そうそうそう。
難しいけど納得はする。
ちょっとずつ感じることができると思うんだよね。
これを納得していいのかどうかは分からないけど、
一応理解はできるって感じかな。
ありがとうございます。
僕もちょっと台本作った後に一人で30分間考えて本当かって思ったんだけど、
本当に言えてる気じゃないみたいなことをずっと考えたんだけど、
でも私いるじゃんみたいな。
でも多分聞いてる方もそんなにすんなり納得できないところかもしれないんですけど、
逆にここでぜひ自分でも話してみていただきたい。
やっぱりイトゲンシュタインが言うのは、
例えば僕らは、
それこそ哲学的に私が存在するのはなぜかとか、
私と他人が違うのはなぜかとか、
私だけがこの世界で特別な気がするのはなぜかとか、
そういう私っていう言葉を使っていろんな命題、
というか問いを立てることができるんだよね。
でもこの私っていうのがそもそも世界には存在しないから、
これは全部疑似問題で本当は無意味なことなんだっていう話なんだよね。
わー、なるほどね。
イトゲンシュタイン曰くね。
だから別に問うことに意味がないとは言わないというか、
疑似問題だから別にやめなさい、哲学としてはそれは意味がないですよとは言うんだけど、
もうちょっと手前として、そもそもその命題っていうのは意味があることを語っていません。
語ることができないことですっていう話なんだよね。
なるほどね。これが私がとか人間がとかっていうから、
すごく崇高な感じがするんだけどね。
今回の話で結局これ、ペチャポニポエロは存在するのかとか、
ペチャポニポエロとカニが違うのはなぜかとかいう話をしてるから、
そもそもペチャポニポエロって何?みたいになっちゃって、
意味不明じゃんっていうふうにイトゲンシュタインは感じちゃうってことだよね。
そういうこと、そういうこと、そういうこと。
ペチャポニポエロの存在を証明してまず、さっそく教えてっていう話に気持ちになっちゃうんだよね、
イトゲンシュタインから。
そういうこと、そういうこと、そういうこと。まさにそれです。
それは怖いだろうな、イトゲンシュタインからすると。
そうそうそう。何言ってるの?
大丈夫?それがなんか崇高の問いとか言ってるけど、
それ意味ないことですよみたいな話になっちゃうんだよね。
そうだね、まずそこのペチャポニポエロイコール私について話ししませんか?まずその存在、そのものについてみたいなね。
あなたはそれをどう捉えてるんですか?そもそも。
そうなんです、そうなんです。
でもやっぱり言ってるんだよね、イトゲンシュタインは。
いやー、生きづらそうだな、イトゲンシュタイン。
そう、だからやっぱり友達が少ないとかさ、やっぱりちょっと精神的に大変だとかみたいな話があるのもわかるよね。
友達が少なかったんだってことにしよう。
他にもイトゲンシュタインって語ることができないものっていろいろ挙げていくわけですよ。
それやった上で最後の語り得ないものについては沈黙しなければならないっていう7番目で言われているゴールになりつくわけなんだよね。
本当はもっとそういうことも言っていて、それこそ論理学に基づいて記号で物事を表してみるとか、
言葉っていうものを今みたいな日本語だけじゃなくて、やっぱりこの究極の言語っていうものを想定して、
究極の言語においても語り得ないものがあるんだみたいなこととかも言ったりしてるんだけど。
あー、そういう論議実験みたいな、その論議空間側でも実験を支えてる。
実験室としてもっと実験というのは聖地に起こるための舞台とか装置とか何かとかっていうのもちゃんと言ってるんだよね。
確かに本ババーッとパラパラめくると数式出てきて怖かったんだよね。
そうそうそう。そういうのもちゃんと使って、でも数式っていうのも実は論理そのものではないとか、そんな話もしてるんですよ。
えー、そうなんだ。
だから全然ね、僕が今言ってることっていうのは本当に浅い話でしか正直ないんだけど、
それでもやっぱりこれだけ、これまで哲学では言えなかったこととか、
これまで僕らが普通に言葉とものとか、言葉と事実っていうのを一緒に考えてると、
考えられないことを語れるようにしてくれてる。
言葉でなんとか説明できるようにしてくれてるっていうだけでもすごさって感じるんじゃないかと思うんですよね。
いやー、そうだね。だってここまで説明してもらわないとそのすごさ感じられないし、
ウィトゲンシュタインが伝えた「語り得るものと語り得ないもの」の境界線
これを完璧に感じられてるかって言われるとそれはもちろん違うんだろうけど、
でも一定そのウィトリエンシュタインが感じてた違和感みたいなものを感じられた気がしてちょっと嬉しいかなって。
そうだよね。ちょっとやっぱり山に一歩踏み出せた感じがあるじゃない。
だからそういった意味ではね、本当にここまで本当に兄貴聞いてくれてありがとう、皆さん聞いてくれてありがとうって話ですし。
そうだね。前回の2回とか3回でも、今回やーめたってなってもおかしくないからね。
次はやめようよってね、そう。
なってもおかしくないので本当にありがとうございますって感じなんですけど。
本当です。ありがとうございます。
次回は論理哲学論庫最終編みたいな感じで、他にもどんなものが語り得ないものって言われてるんだっけとか、
最後の語り得ないものについては沈黙しなければならない。
これってすごく哲学的にも有名な言葉なんだけど、これって結局何を言ってるの?
要はこれも一つの命題わけだよね。語り得ないものについては沈黙しなければならない。
っていう言葉とか命題って結局何を言ってるの?って話なんだよね。
わー、そっか。そう考えるとイトギンシュタインが使ってる言葉って全部命題なはずみたいな、
そこを意味した上で使ってる言葉になってるはずってことか。
本来的にはね、実はそうじゃないものを含まれてるじゃないか。
そこに対してイトギンシュタイン断ってる、もう一個のその、この話っていうのは理解したら捨て去らればならない。
あのハシゴの比喩みたいに言ったと思うんだけど。
だからこそ、はいはいはい。
そう、だからハシゴを登りきった人はそのハシゴを捨て去らればならないっていう話で、
この論考の言葉とか命題って、果たしてその論理空間の中でどういう位置を持つの?とか、
世界においてそれってちゃんと位置を持つの?持たないの?みたいな話っていうのもやっぱりあるんだよね。
その辺も含めてちょっと次回ね、いわゆるこの山を登るっていうことをちょっと皆さんにもお伝えしたいなというふうに思ってるので、
はい、ちょっとね、ここまで大変だったんですけど、
ちょっと次回はもう少しこう、アハ体験を売ることができるようにお伝えしていきたいなというふうに思っております。
じゃあ次回はそうですね、イトギンシュタインの論議哲学論考は最後だろうということで、
まだその次があるっていうね、コートですからイトギンシュタインがあるという話だったんで、
まずはそのためのまず、第一段階、第一ステップっていうところで、
次回も引き続き楽しみにしていきたいと思います。
では、引き続きよろしくお願いします。
よろしくお願いします。今回もありがとうございました。
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