1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #149 哲学は言葉遊びに過ぎな..
2023-09-27 35:43

#149 哲学は言葉遊びに過ぎない?ウィトゲンシュタインの人生と哲学観

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

ウィトゲンシュタインは20世紀最大の哲学者です。彼は言葉の使用や言葉遊びに関する独自の概念を提唱し、名言や影響力を持っています。彼の哲学は言葉に関する問題を分析し、言葉の構造の曖昧さや無意味さを指摘して、西洋哲学の多くが擬似問題であることを示しています。彼の人生と哲学観について、言葉の営みや正確さというテーマを取り上げ、彼の哲学の特徴や限界について議論しております。また、彼の幸せと苦悩、そして哲学の本質的な問いを探求した一生も紹介いたしました。ウィトゲンシュタインの哲学観を通じて、言葉の働きや言葉の違いについて深く考え、哲学が言葉遊びに過ぎないのかという問いについてお話ししてまいります。そして、論理哲学論考にも触れながら、哲学についての理解を深めてまいります。

00:05
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
このラジオは、身近なテーマをきっかけに、哲学について楽しく学んでみようという番組です。
哲学好きの弟と、哲学に馴染みのない兄の兄弟二人でお送りしていきたいと思います。
改めまして、兄の菅野共生です。
弟のハヤトです。よろしくお願いします。
ウィトゲンシュタインの影響力と独特な概念
今回からウィトゲンシュタインと、何か名前は聞いたことがあるな〜という感じの人ですね。
そうですね、結構有名な哲学者ですと、
20世紀最大の哲学者とはハイデッカです、みたいな話はハイデッカ会でしたと思うんですけど、
そこに並ぶぐらい天才だったり有名だ、みたいなのがこのウィトゲンシュタインさんなんですよね。
あ、そこまですごい人なんだ。
人によってこっちだっちだっていう人はいるんですけど、少なくとも偉大な哲学者が20世紀のというのが評価としては揺るがないみたいな、結構そんな人ですと。
確かに名前は初めて聞いたよっていう方もおられるかもしれないですけど、
例えば、当たりえないことについては沈黙しなければならない、みたいな名言みたいなのがあって、
そういうのとか、あとは言語ゲームみたいな、結構特徴的な概念を言っていることもあって、
そういうのを別の本とかで聞いたこともある人もいるんじゃないかなと思ったりしますと。
そういう意味では結構名前もそうだし、名言とか言語ゲームってちょっととっつきに言いやすいじゃん。
言語ゲームって言ったら何だろう、何だろう、みたいな。
なんか見てみたいね。
そうそうそうそう。というのもキャッチーさもあって、そういう広がりがある人でもあるんですよ。
これちょっと前回の雑談でも言ったんですけど、だからいろんな哲学の本とか読んでも、
なんでウィトゲンシャインがこんな風に言ってるとか、ウィトゲンシャインの言語ゲームではみたいなのがちょこちょこ出てるから。
え、あ、そうなんだ。
そうそうそう。全然ウィトゲンシャインと関係ない本でもあったりするから、
なんか僕もざっくり知ってるつもりだったし、ちょっと本も一冊ぐらい読んだことがあって、
あ、読めてるかもって思ったんですけど、改めてちゃんと、それでも解説書レベルなんですけど、
読んだ時にやっぱり全然知らなかったわって思ったんですよね。
プラグマティズムの時も同じようなこと言ったと思うんですけど、
やっぱり哲学全体を乗り越えるというか、
よくメタ哲学っていうこともあったんですけど、
メタってね、一個上のレベルから見るみたいなフォーカス的な言い方があると思うんですけど、
その哲学全体を一個上の立場から見るみたいな、
そんなことをやってる人っぽくって。
え、あ、そうなんだ。
うん。でもそもそも哲学自体がさ、
それも前回たくさん言ったけど、ちょっとさ日常から離れたというか、
それを一個上から見てる感じするじゃないですか。
うんうんうんうん。
それをさらに上から見ると何よみたいな感じで、
やっぱすごい人なんだなとか、
まだちょっと僕も台本作り途中で、
ちゃんと全部理解してるわけではないんですけど、
今からこの人すげえなみたいなことをね、
結構感じながら今読んでるんですよね。
うーん、なるほどだけど、
なんかさ、哲学って乗り越えられすぎじゃない?
哲学大丈夫?
大丈夫じゃないよ。
どうなの?
あの、ウィトリエンシュタインがすごいんじゃなくて、
哲学がしょぼいだけ切ない。
おー、いいねいいね。
あとあの、前回のほら、だってプラグマチズミのさ、
それまでの哲学をさ、
全部乗り越えてたでしょ。
哲学大丈夫?
大丈夫じゃないのよ。だって、
まさにじゃあウィトリエンシュタインって、
何やったからすごいのっていう話なんですけど、
なんか一見はね、
言葉とかさ、
そういう哲学のことよくあるじゃないですか、
言葉ってすごいよねとか、
言葉の問題と曖昧さの指摘
言葉の構造がとかって言うと思うんですけど、
結構それを分析してのを通じて、
これまでの哲学、
要は2000年くらい続いてきた西洋哲学がやってきたことって、
ほとんどが擬似問題、
要は本当は問題じゃないことを、
ただただ言葉の中央上の混乱とか、
そういうので論じてるだけなんだ、
そういうので生じてるものなんだっていう風に、
結構見出したみたいな、
1個目にやったらすごいことなんですよね。
そうなんだ、例えば、
プラトンのイデア自体が、
イデア自体が、
さらに本当のイデアがあったぐらいの、
それ自体が写真だったぐらいの話をし始めてるみたいな。
思ってるとイデアとか言ってるけど、
それって結局何も言ってねえじゃん、
みたいな感じかな。
なるほど、そもそも。
かなりそもそもで攻めてきたね。
かなりそもそも、
そうそうそう。
プラガマディズムの真理があるっていうのにないじゃん、
みたいなことを言ってたんだけど、
ウィトゲンシュタインは、
これすごくざっくりだから、
これからちゃんと伝えていこうと思うんですけど、
要はイデアがあるとかないとか、
真理があるとかないとかっていうのも、
それ結局言葉の問題だから、
何も言ってないよ、
そもそも言葉の使い方は間違ってるだけだよ、
みたいな。
まじか。
思考のエラーだよ、みたいな。
おお。
みたいなのを言ったのが、
一つ目の本である、
論理哲学論考って本があって、
こわ。
こわいね。
すごいね。
言葉の使い方間違ってます。
操れてないですよ、と。
そもそも操るとか何言ってんすか、
みたいな。
言葉ってそんなもんじゃないっすよ、
みたいな。
と言ったのが、
一つ目ね。
西洋哲学の擬似問題への批判
哲学ダメじゃんっていうのを
兄貴がまさにウィトゲンシュタイン。
哲学どころじゃないね。
言葉使えてないじゃんって話を
伝えてると。
恐ろしい。
一つ目で。
二つ目は、
言葉っていうのはかなり具体的に
見ていくんだけど、
言葉っていうのは
決して明確な構造を
持つとか、
言葉ってすごく論理的だとか
ロジカルだみたいなことを
ロジカルにどう言葉を使うか
っていうのはあるんだけど、
そんなことはどうやっても無理で、
すごく曖昧なものなんだと。
そこにちゃんと意義を
見出そうぜっていうのが
二つ目に言ったことで、
これが二つ目の
師匠って言われてる哲学探究
っていう本で
言ったことって一言では言えないよ
っていうのもそもそもあるんですけど、
めちゃめちゃざっくり
なんだろうな、
としたらそんな感じになるんですよね。
なるほど。
本当にあれだね、
それまでも哲学が
言葉になされてるでしょ?
あんたたち言葉使われてないじゃん
そもそもで、
だいぶ焼け殻にしました。
じゃあ自分は確かに
言葉使われてないですっていう指摘しながら
言葉とは何かっていうところから
積み上げていきますよねっていう話を
してるってことだね。
もうちょっと言うと、
哲学なんて議事問題だとか
無意味だっていうのを
自分でパーンって言っちゃったから
ユイドゲンシュタインの哲学やる
モチベーションもその時点でゼロなわけだよね。
あ、ゼロなんだ。
自分の哲学を探究し始めるんじゃなくて。
うん、だって哲学に
意味はありませんっていうことを
言い尽くしたって思ってるわけだから。
えー、じゃあ何しちゃったの?
そう、
それはね、この後また言うんだけど、
学校の先生になるんですよ。小学校の先生になるの。
ユイドゲンシュタインさんは。
大学に入って哲学やるんだけど、
その本を書いて、
小学校の先生になるのも
自分にとって哲学ってのは
無意味だみたいな感じになって。
えー、そうなの?
そう。
そこからでも10年くらい経って、
やっぱり哲学まだやれることあるかもって言ったら
もう一回大学に戻って
教授になって書き上げたのが
哲学探究っていう本なんだよね。
あー、そんくらいの今の
2つ本がある
2つ本があるって言ったのも
そんだけ時間軸の
離れてると。
離れてる。
じゃあこの哲学探究っていう
ある意味その
後から書いた方が
とても有名というか
あの話なのかな?
どっちもか、セットなのかな?
どっちも、そう。結構前期ユイドゲンシュタインとか
後期ユイドゲンシュタインに
言われがちなんだけど、
その前期の代表作が
論理哲学論考で
若い時
後期の哲学探究が
メインみたいな
二大著書って
言われてるみたいな感じかな
はいはいはい。
だからこの後もう少し
詳しくこんな人生
すごくはちゃめちゃなというか
人生自体がすごい特徴的な人だから
それも面白いと思うんですけど
その前にもしよかったら
なんかこの哲学探究で
何言ったのこの人
まあそれこそ一言で言えないの
やっぱりいつもさ
先にやっぱりさ
この導入の時に
ユイドゲンシュタインのすごさを
教えてってやっぱ
言っちゃうんだけど
やっぱ難しいのか
順番に聞いてねって話になっちゃう
いやそうだよねそうだよね
分かるのよ
それも確かにちょっと反省して
ウィトゲンシュタインの人生と家族
順番聞いてねーなんだけど
正しくは言えないな
と思うんだけど僕が感じたこと
って言うと
言葉
今僕らも言葉で喋ってるし
基本的には僕らは言葉で
物事を考えるよね
もちろん図を描いたりするのも
その言葉とかを図にして
そこで視覚的に
理解する感じなんだけど
それってどういう
営みですかみたいな
ことをめちゃめちゃ
なんだろうな
こう正直にじゃないんだよ
僕らは緻密にやらないんだよね
緻密にやると言葉を
ロジカルに使うことになっちゃうから
それはユイドゲンシュタインがやろうと
することが反するんだよね
有意識なのかな
有意識でもない
有意識ではないんだけど
なんか仏教っぽい話
認識とは何かみたいな
ところにアプローチし始めてる
いやでもそんな感じは
要は僕自身は
そうなんだけど
明石な思考みたいな
デカルト的に言うと
正しく物事を考えるとか
厳密に言葉を定義して
この定義を積み上げていくと
やっぱ正しい
理解に至るみたいな感覚って
あるんだよね
人間はそれができると思ってるわけだよね
そう思ってる
その方がより
高いレベルで言葉を
使ってるんだって
そこの感覚も
自然にあると思うのよ
こっち側で言うと曖昧な言葉を
使うとか
道徳でも受け止められる言葉を
使うとかそれをちゃんと考えてるのかとか
全然ロジカルじゃないとかって批判されちゃう
みたいなのってあると思うんだよね
伝わんないもんねそもそも
確かに
でもユイドゲンシュタインは
それ自体を批判してて
面白い言葉があるんだけど
例えばその言葉を使うとするときに
この辺りにいてください
っていうのって無意味なの?
みたいな言葉があるのね
この辺りって
すごい漠然とした言葉じゃん
例えば
当然状況によって
まさにこの
噴水の周りとかっていうのを表すことも
あれば
言ってくださいじゃないけど地図とかを見てたら
この辺りっていうのでヨーロッパ全体とかを
指したりするわけよ
じゃあこの辺りって言葉に
意味がないかっていうとそんなことはなくて
僕らはこの辺りって言葉を
日々普通に使うし
それで何にも困ってないんだよね
はいはいはい
まあそうだね
でもその困らなさとか
曖昧さを許容するっていうのが
言葉の特徴だし
それを
この辺りとかじゃなくてどこどこって
お店の
入口から何メートルのところにいてください
みたいな
厳密にするっていうのが正しい
それがいいっていうのが
そもそも色めがねなみたいな
理系の料理みたいなやつね
ニンニクチューブ2センチみたいな
そうそうそう
ニンニクチューブっていうのもね
どのぐらいの力で
お宿屋敷とか作りたいって方が
正確じゃんとかではあるわけよ
そこどうでもいいんだろ
どうでもいいから
良くないか
良くないと思う
2センチの中で密度が違ったりするじゃん
確かにそういう話になってくるね
確かにね
厳密さを求め出すとね
とか室温20度の
キッチンに置いてやってください
みたいなさ例えば
そっかそっかそっか
そうだ
同じことは言えるね
そうそう
正確さとか
精密さこそが
良いみたいなのが
実学の流れとしてあったんだけど
今の例えば
その異常さがちょっと際立つ
ニンニクチューブの強さまで指定してください
みたいな
なってたってことはね
なってたってこと
物自体とかハイデッカーの
現存在っていうのも
結局はその概念を説明できないから
新しい言葉を発明しました
それってすごく大事なことですよね
って僕も言ってきたし
そう思ってるんだけど
今笑っちゃったけども
例えば自分みたいにさ
EKでみたいな話をしたときに
2センチみたいなところまでしか
それまでしか
概念がなかった人たちに
じゃあその押す力みたいな
ところを伝えようとしたら
その新しい変数というか
言葉を作らなきゃいけないので定義をね
そうそうそうそう
なるほど
でもそういう風に言われると
確かに自分が間違ってましたとか
もっと解像度は上げなきゃ
ダメですよねって思っちゃいがちなんだけど
いやそんなことは
全然ないのだぞと
っていう美都元主体の話ね
っていう言葉に対して
そういうことを言い出す
美都元主体の話
だから
めちゃめちゃ面白いというか
ある種
私は兄貴が東洋っぽいかもね
って言ったのはそうで
言葉という曖昧なものを
言葉自体で進めようとするから
それはもう難しいわけよ
あー
ちゃんとその限界みたいなのには
美都元主体もぶつかってるわけなんだ
ぶつかってるっていうか
それをもう吹き尽くしたのが
ロリ・テザー・クロンコなんだよね
おーすごいね
その限界を定めましたっていうのは
だから語り得ること
言葉とか
語り得るものはこれだ
語り得ないものは
ここだからここに限界という線を
行って引きましょう
みたいな感覚
そうではないんだけど言ってることは
でもそういう風に受け取れる
感じではあるんだよね
語り得ることを語り得ないことっていう
そこを乗り越えたというよりは
まずここに限界がありますよね
っていう話をしてるってわけだよね
そうそうそうそう
ロリ・テザー・クロンコって本ではね
でもそれをさらに
越えて
いやいやもうちょっと違う発想とか
捉え方がありましたわ
みたいなのが哲学探究
って後期の本なんだよね
あーなるほどなるほど
ちょっとなんかやったこと?
うん
見えてきた気がする
そうそうそう
だから
僕も正直ウィトゲンシャインの凄さを
ちゃんと伝えきれる自信は
今はまだなくて
第1回のうちでね
あのなんだろうな
もしかしたら聞く人によって
あまりにも当たり前じゃんとか
それちょっと面白いけど
哲学なのってなるかもしれないんだけど
でも
それってすごい深みが
ある
合うのかな
何言おうとしたの今
合うのかな
みたいになってたけど
それは
僕自身が
ウィトゲンシャインを読んで
本当にすごいのこの人ってやっぱり
言ってるわけじゃないのよ
すごいって言ってる人の本を読んで
間接的にすごいと言ってるから
すごいのだみたいな感じ
今はまだなっちゃってるから
まだ言わされてる感がある
自分自身としてまだ持ってないんだけど
でもやっぱりすごそうだ
っていう感覚はあるから
それを
伝えたい伝えていきたいっていうのは
今回の僕のテーマでもある
という感じですね
収録が自転車
操業だから
台本作りながらだっていう
勉強しながらだっていう制約があると
でもなんだろうな
そういうこれまででやっぱり哲学者
とか紹介してきたものとは違うぞ
っていう感覚は持ってはいるから
そこをしっかりお伝えしていきたい
というような感じですね
なるほどありがとうございます
なんとなく全体存在というか
見えてきた気がする
なんとなくこんなことを言おうと
これから死ぬんだっていうのはあると思うんですけど
どうしてそんなことを考えるに
至ったのかというか
これもそれこそ
人柄とか経歴みたいな
このを第一回らしく
お伝えしていこうと思っております
はいはいはい
さっきも言った通り結構
波乱万丈
すごいなんだろうな
人によっては奇人みたいに
言う人もいるみたいなんだけど
人生なので
それはすごく面白いんですけど
まずね
イトギア人がどこでいつ生まれましたか
っていうと
1889年ですね
オーストリアの首都ウィーンに
生まれますと
前回プログラマティズムでお伝えした
パースとかジェームズは
1840年とかなので
50年近い差がある
一世代二世代後の人
みたいな感じですと
家族構成系は
お父さんがすごい実業家で
めちゃめちゃ
財を成した人みたいな感じで
お母さんは
どちらかというと
信仰心の厚い
技術肌みたいな感じで
絵に描いたような上流家庭の
ご両親みたいな感じなんですよ
イトギア人社員自体は
8人兄弟の先輩で
生まれてるんですよね
本当にウィーン
オーストリアの首都ウィーンの
大皇帝に住んでたらしくって
本当に有名な
芸術家でロダンとか
ブラームスみたいな
超有名な一流の芸術家が
出入りしてました
いわゆるパトロン的に支援してたんだろうね
ウィトゲンシュタインの人生
社交界の
上流家庭
超一流の教育を受けて
バラ色で
哲学者あらゆるでそんなことはなくて
当時のオーストリア自体が
暗い雰囲気というか
8人のうち
4人のお兄さんがいて
5人の男兄弟なんだけど
4人の兄のうち3人が
自殺してるらしいんですよ
イトギア人社員自身も
結構
常に自殺
するかしないかみたいな
人生だったりとか
周囲から聞こうと言われるような
報道とかも結構やってます
みたいな人だったらしいんだよね
それは多分幸せで
ぬくぬく座ったら哲学者にならん
みたいな話もあると思うんですけど
にしてもそうだね
結構壮絶だね
ただやっぱその哲学的な
センスは結構本物で
23歳で
普通にというか
ケンブル哲学に入るので
その年齢差はしたと思うんですけど
さっき言った論理哲学論考
要はこれまでの哲学の
問題はほとんど
疑似問題だと言ったことを
自分は解き尽くしたぞって言ったのが
入学から
5年後?6年後かな
の29歳の時
でも20代で
それだけの歴史に残る
本を書き上げちゃうんだよね
すごいね
しかもこの間
ケンブル哲学入るんですけど
大学で黙々と
別に研究したわけじゃなくて
当時第一次世界大戦
オーストリアは本当に
中心地だよね
だったんで
志願兵として従軍して
めっちゃ功績上げたんだって
危機的な状況を
貫いたというか
哲学の進歩と挫折
乗り越えたみたいな感じで
志願レベルの
最高勲章とかもらってますみたいな
っていうのを20代で
過ごしてるんだよね
これも20代で
すごい本を書いて
当時からすごいって言われてて
従軍して成功勲章もらって
肌晴らしい人生だ
みたいな感じかと言うと
それもまた全然違って
要はオーストリアって負けちゃうんですよね
その第一次世界大戦で
当時はオーストリアは
ハンガリー帝国だったんだけど
それを解散させられちゃって
ウィトゲン主体自体も
捕虜になりますと
そこから生活しときの気持ちは
序童家っていう
帰れたらよかったみたいな感じじゃなくて
疲れ果ててるよ
長い捕虜生活で疲れ果ててるし
自分がやろうとした
論理哲学論考っていう
哲学を乗り越えとかも
やっちゃってるし
何したらいいのよ
しかもエピソード的には
終戦の直前に
大切な愛する人を
亡くしてる事故で
亡くしてるってことらしいんですよ
一体これからの人生
自分は何にして生きていったらいいのか
みたいな
戦争もあって
負けちゃって国も負けちゃったし
自分がやるべきことはやったと思ってるし
愛する人も亡くしても
実際手紙の中では
私の人生って本当に無意味になってしまって
余計なエピソードが
成り立ってるに過ぎないみたいな
そんな言葉を
書いて送ったみたいな話も
あるぐらいなんですよ
30枚ぐらいでそういう
そうそうそう
自分の人生は
もう何もないみたいな
残りかすはみたいな
さっきも言った通り
そんな時何するかっていうと
小学校の先生になるんだよね
大学に戻らずってことだね
そう大学に戻らず
これには
結構やっぱりお姉さん
家族とかも結構驚きで
哲学的な教師としての挑戦
せっかく大学に行って
手伝うとかやってるのに
なんで小学校教師なんていう
聞いてる方に
いらっしゃったらいいですけど
出たらちょっとつまらない
仕事
そうなんだ
精密機器で
木箱を直すようなものだみたいなことを
言われたらしいんですけど
専門的な知識とか身につけて
なんであえて
小学校とかに行くんだみたいな
別に
それは当時の価値観として
あったんだろうね
今みたいに別に全員が
日本みたいにほとんどの人が
大学に8割とか行くのかな
分かんないけどそういうような世界では
多分ないだろうから
っていうような感じでしたと
でもやっぱり見解したい本人からしたら
自分で哲学でやることは
ないし
自分は教育とか人の指導
っていうので過ごすんだ
って思ってたんだけど別にいい教師でもないのよ
めちゃめちゃ大罰とかするし
そうなんだ
観石とか起こすしみたいな
ていうので
学校とかも辞めされてるのか
問題とか起こしてるんですよね
気象とか
ちょっと荒いというか
多分相打つみたいな感じも
あったんじゃないかな
精神的にね
そのままのんびりと
過ごしましたって感じじゃないんだね
そうそうそう
別に教師としても別に
いい教師でもなく
自分はダメな教師だっていう風に打ちひじがれる
みたいな
結構そんな感じも
ありましたよと
そういう意味ではちょっとフラフラというか
そういう風に過ごしてたんだけれども
10年ぐらいかけて
改めてやっぱりちょっと
哲学の世界に戻ろうかみたいな
自分にまだできることしかあるんじゃ
なかろうかみたいな話を
決意しまして
主意は
人間社員は天才だみたいなことに
思ってるから
大学戻ろうかみたいな相談をしたら
いいよいいよと
学位とかも当時は持ってないんだけど
論理定策論考
っていう本もあるし
それで十分だと博士号に
足りるよねっていうので
その本を通っちゃうんだよね
そうなんだもう
教授レベルに
持ってきてくださいと
で、講師として
過ごして
教授になるのは言ってもちょっと
遅いというか
戻ってから10年後の
50歳ぐらいで
教授職に就いていると
普通教授なんてさ
コツコツコツコツ大学に行って
資格取って論文書いて
やっと晴れてなるものだから
十分して
大学いないとかさ
主学校の先生になって
10年間ぐらい別にアカデミックから
離れてるとか
そういうことから考えるとやっぱりちょっと異例
っていう感じなんだよね
当時から哲学の天才
みたいなそういう意味を
持ってる人でしたと
その後ね
哲学の教授として
授業とか本を書いたり
励んでいって
早いというか
62歳で1951年に
亡くなりますと
当時の寿命水準からすると
もしかしたらあと10年来たら
どんな本を書いたんだみたいな感じがあるかもしれない
んですけど
さっきも言った哲学三級
後期で主張って
やってるものは
彼の死んだ2年後
1953年に出版されたらしいんですよね
さっき言った通り
言葉っていうものの
捉え方がそもそも違うっていうか
厳密に書くみたいな
世界ではないから
独特な書かれ方とか内容で
専門の研究者ですら
全文をやっぱり
手短にまとめられる
みたいなもんじゃないし
そもそも流れに沿って
体験しなきゃいけない本なんだ
みたいに書いてたりするんですよ
あーそうなんだ
すいませんでした
いやいやいや
へーそうなんだ
それは無理なんだけど
僕の感触とかが
こうですとは言えるみたいな
感じですと
やっぱり
そもそも普通に
言葉を正しく積み上げれば理解する
みたいな
そういう世界観を超えてるというか
批判してるわけだから
そりゃそうなんだよね
体験するまでいっちゃってるもんね
体験する
プラグマティズムっぽいというか
状況とかシチュエーションによって
やっぱり理解が変わるとか
変な話で
ウィートゲインシュタインも
そういう世界観を知ってる人じゃないと
この本は理解できないよ
ぐらいまで書いてるんだよね
さっきのこの辺りね
みたいな話を
もう受け取ってねって話だよね
そういうことそういうこと
そうです
そういう意味では
僕がそれを
すごいって言おうとすると
僕の理解でしか言えません
って感じになっちゃうから
読んでる人とか支える人の力量は
通れるわけだよね
なるほどね
みんな体験しろよって話になっちゃう
みんな体験しろよだから
正直体験できる人間の
器が求められるわけだから
正直僕がどこまで支えるか
っていうのはあるんですけど
当然ありがたい解説者もあるし
そういうことをさっき言った
30年研究した人の
言ってることもあるから
そういうのに乗っからせて頂いて
今回お伝えしていきましょうと
ありがたいっす
本当にね
そういう感じでございますと
面白ポイントというか
ウィートゲインシュタイン何がすごそうか
って話なんだけれども
やっぱりこそばっていうのは
どこまで分析できるのかとか
そこに
疑いをちゃんと持って
ウィトゲンシュタインの人生と哲学観
気づけるのかみたいな話なんだよね
さっき言ったような
この辺りって普通に使うけど
それってどういう
なんだろうな
言葉の働きが成り立ってるんですか
みたいな話もそうだし
それって哲学的な
いわゆる厳密な言葉
とは違うけど
そこの違いって
意味があるんですかとか
そこにさやっぱり
疑問を持たないわけだよね
そうだね
お互いそれでコミュニケーションだったりとか
伝わってるってやっぱ
伝えられるって思っちゃうもんね
思っちゃうし
これまたちゃんと言うと思うんですけど
例えば言葉の話をするときに
よくリンゴって出てくるじゃない
リンゴって言葉を考えるときに
僕らはさ
世の中にリンゴがあって
これはリンゴだよ
あれもリンゴだよ
これはみかんだよ
って言葉を覚えていくと思うし
言葉ってそういう
働きが世の中にあるものを
指し示すのが
言葉だって理解してるわけだよね
はいはい
分けていくっていうね
僕らは
リンゴを見て
これはリンゴですって言ったら
リンゴという言葉を理解したって思ってるんだけど
見てみたらそうじゃないよね
ってことを言うんだよね
分からん
そうそう
リンゴを理解するためには
そもそもリンゴ
っていうものが
抽象的なものではない
っていうような理解とか
それが例えば食べ物である
とか
みかんというものとは違うとか
っていろんなことと
関連して
リンゴという言葉を僕らは捉えたりしている
リンゴとは
目の前の赤い丸いものの
一対一対応で
名札をつけていくようなもの
なんじゃなくて
言葉っていう
広い地球の中で
網の目の中で
リンゴというものを理解しているんだ
っていうのが
まず1個違う考え方なんだよね
論理哲学論考の紹介
ただこれって言うと構造主義っぽく感じるんだけど
そことも違うんだよね
そうなんだ
構造主義っぽく感じなかったけどね
不勉強で感じられなかったけれども
そうなんだ
感じる
感じるんですけど
何が違うのかとか
どう違うのかっていうのは
僕は今まだクリアに言えないので
それを第2回以降
論理哲学論考の話とか
哲学探究の話とかを
踏まえながら
一緒に僕も皆さんに
兄貴とかにお伝えしながら
理解を深めていきたいし
皆さんにも楽しんでいただきたいなっていうのが
今回やろうとしていることでございます
はいはい
哲学もそうだし
言葉みたいなもの
そもそもまで踏み込んでいる感じで
哲学って言われると
ちょっとやっぱり難しい
構えちゃうけど
言葉って言われると
使えてる気になってるから
身近な感じするね
普段使えてると思ってるから
驚きとか発見も
感じやすいと思うんで
ぜひそこを
楽しくお話ししたいな
という感じですね
じゃあちょっとね
難しそうという意味では身構えちゃうけれども
ウィトリエンシュタインが
どんなことを
そもそも哲学は
無意味であるという話
二次問題である
二次問題である
もし
時間があるとかちょっと興味あるぞ
という方は
論理哲学論考
図書館とかちょっと大きな方なら
絶対あると思うのですね
ぜひちょっと一回
パラパラめくってみていただきたいんですよ
何でかっていうと
読まなくていいんで
読んでほしいんですけど
めちゃめちゃちょっと面クラの構成をしてて
なんか本で
何かを説明するというよりは
本当に数式みたいな感じなんだよね
数式で1の1
これこれである
1の1の1これこれである
1の1の2こうこうこうであるみたいな感じで書いてあって
すごいね不思議な
感じがすると思うんですよね
そうなんだ
もしなんかちょっとそういう
興味あるなとか
不思議な感じ味わってみたいなという方がいたら
ぜひ一回ちょっと手に取って
見ていただけると嬉しいなと思ってます
はい分かりました
じゃあ次回ちょっとその論理哲学論考の中身
見ていくというところで
楽しみにしていきたいと思います
はい
それでは引き続きよろしくお願いします
お願いします
今回もありがとうございました
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