1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #151 言葉について語る前に、..

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

ウィトゲンシュタインの論理哲学論考では、言葉の限界を明らかにすることが世界の理解を深めるために重要です。ウィトゲンシュタインの捉え方では、世界は事実の相対ではなく物の相対です。ウィトゲンシュタインは、「世界とは?」という問いから始めることを提案しています。彼は事実と状況の境界線を定め、起こり得る事実と起こり得ないことを区別することで世界をイメージします。ウィトゲンシュタインは世界を事実、状況、無意味の3つの要素に分け、言葉だけで世界を記述する実験装置を作りました。言葉と物が結びついているため、この言葉だけの世界を考えることは難しいとされています。次回以降、僕らが分けることができないと思っている言葉と物の分離によって何が起きるのか、何が言えるのかということを踏まえながら、論理空間の本質についてもお伝えしていきたいとお考えです。

ウィトゲンシュタインの哲学
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回もウィトゲンシュタインということで、今回からついに論理哲学論考というところの中身に入っていくというところでした。
はい。前回ですね、その論理哲学論考、まあ論考ってちょっと呼びますよ、みたいな話をしたと思うんですけど、
これはね、読んでいく前提として、そのウィトゲンシュタインというのは哲学をちょっと2つに分けてます、みたいな話をしたのを覚えてますかね、お兄さん。
2つに…ああ、なんか…えっと…何だっけ…疑似問題…これまでの哲学は疑似問題だ、みたいな。
あ、そうそうそうそう。
これまでの哲学がダメだっていう話と、あとこれから自分がやろうとしている哲学みたいな、なんかそういうふうに分けてたみたいな。
あ、そうそうそうそう。それです、それです。
だから、ある人にもね、本当は問題じゃないのに、なんかそれに取り組んじゃってるちょっと病気みたいなものと、
それで治療するものみたいに分けたときに、自分っていうのはその後ろの、治療する哲学なんだ、みたいな。
そんな考え方があるよっていう話をしたかなと思いますと。
そのためにこの論考っていう本の中でやろうとしているとか必要だって言われてるのが、
言葉の限界を明らかにすることなんですよね。
これもちょっと前回お伝えしたと思うんですけど、
語ることができることと語ることができないことっていうのを区別して、
教科を示せばいけるよねって言ってはいるんだけど、それも簡単じゃないよねみたいな話も、
なんとなく感じていただいてるんじゃないかなと思ってます。
あれだよね、そこを語ることができるものと語ることができないものっていうことを区別することで、
あれだよね、これまでやってきた、これまでの哲学は語ることができない方なんですよっていうことを示してやろうって話なんだよね。
そうですそうですそうです。
それはちょっと出発点とゴールみたいな感じにして、
論考のお話っていうのはちょっと大掴みで捉えていきたいなって思っていますと、
大掴みって言うと細かい議論とか難しい議論とかいくらでもあるんだよね。
もちろんそれを伝えきるのか僕が難しいのかもあるし、
後期ウィトゲンしたいっていうのは実はこの後に控えてるんですよ。
はいはいはい。
今これ前期ウィトゲンしたいんで、
後期の話もやりたいって思うとウィトゲンしたい第10回とかになりそうなんで、
あくまでも前期でこういうことをテーマにしてやりきりましたと。
やりきったことを実は後期ではこのふうに捉え直して乗り越えたよみたいな、
そんな大きな流れがあるんで、
後期につながるっていうのも含めて前期の論考の話をしたいなって思ってるけど、
論理哲学論考とは
特にこの回、この1回分ではどんな道具を準備すれば、
この語ることができることとできないことの区別をつけるっていう、
そういう問題に取り組めるのかっていう話をちょっとしたいなと思ってますと、
道具っていうのはこれまでの哲学あるあるだったかなと思うんですけど、
いわゆる難しいこと、要はなぜ人は生きているのか、
これはウィート原子炉からしたらちょっと疑似問題なんだけど、
世界はどうあるのかっていうことを考えようとしたときに、
例えばサルトルのときにもやったように、
そもそも自分っていう存在、この実存から始めるんだってなったときに、
人間ってものをなんとなくありふれた人間ってものじゃなくて、
実存、現実存在みたいなちょっと違う概念で捉えたりするわけだよね。
はいはい、あったね、そういえば。
そうそうそうそう、あったと思うんですけど、
そういうふうにこの世界の見方とか人間観っていうのをちゃんと定めましょうっていうのは、
結構哲学あるあるみたいな感じなのよ。
なるほどなるほど、土台というかね、ちゃんと前提条件をしっかりと共有していきましょうねというところだよね。
そうそうそうそう、その前提条件になったときに、
ウィート原子炉にしたいっていうのはまさにその世界観もそうなんだけど、
人間観っていうのは結構言語観、
言葉とは何かっていうのをすごく丁寧に定めていくんだよね。
丁寧にっていうか、これまでとは違う言葉観みたいなものを作っていくわけなんだよね。
はいはい、言葉観か。
言葉は多分ないと思うんですし、聞いたことないと思うんですけど、
言葉に対する捉え方っていうのが結構独特ですと。
これを定めることでやっぱり物事を正しく考えていくとか、
そういう風に辿っていくようにするわけなんだよね。
そういう風に考えるとさ、
前回兄貴が実際にこのリテーザーク論考を図書館から借りてきたよって言って、
最初の部分ちょっと読んでくれたと思うんですけど、
一番最初はね、1って書いてあって、
世界は成立している事柄の相対である、という風に書いてますと、
この文章が何を意味するのかとか、
多分全くわからないと思うんですけど、
少なくともなんかウィトゲンシュタインが、
まずその世界っていうものをはっきりとさせて、
そこから話を始めようとしてるんだっていう、
世界は成立している事柄の相対であるっていうことを言うことで、
私は世界っていうのはこういう風に捉えてますよ、とか、
世界とはこういうものとしてこれから話を進めていきますよ、
言葉と世界の関係
っていう風な言葉が何となく伝わるんじゃないかなって思うんですよね。
なるほどね、世界の話をいきなり始めたぞっていうだけじゃなくて、
まずこの人土台作ってるんだねっていう風に理解していくと、
そうですよね。
すっとウィトゲンシュタインの世界にちょっと入り込んでいけるっていう話なんだよね。
そうだね、第一歩からもうつまずくっていうよりは、
一応もう一歩踏み出せるかなみたいな感じになりますと。
この話どこに通じてんのっていうのが何となくわかると。
そうそう、何しようとしてんのっていうね。
じゃあ実際にウィトゲンシュタインが定めようとしてる世界って何ですかって話なんだけど、
さっきの1に続いて1の1でこう書いてるのね。
それは世界は事実の相対であり、物の相対ではないと。
ここで事実とか物っていうのがまた出てきてすごいややこしいんだけど。
そうだね、既にもう意味わかんないし、言葉どう使ってんのかも。
だよね、もう一歩一歩踏み出すの怖いじゃない。
でもこの言葉はちょっと手がかりに、今回この第1回分で世界についての理解っていうのを深めていこうと。
これはあくまでもウィトゲンシュタインが定める世界ね。
世界っていろんな多分捉え方があるんだけど、ウィトゲンシュタインはこう捉えてますよ。
そういう話です。
世界を理解するためには事実の相対であり物の相対ではないとかって言ってるから、
事実と物っていうのをちゃんとまず理解していきましょうとなってくるんだけど、
ざっくりすごいざっくり言うと、あまり難しい話ではなくて、
事実っていうのは本当に現実に起きていることぐらいの感じだよね。
例えば今皆さんがストレートスラジオを聴いてくださってると思うんだけど、
例えばスマホにイヤホンをつないでストレートスラジオを聴いているっていうのは、
多くの人にとって現実に起きている事実かなと思います。
もちろんパソコンだったりとか、イヤホンじゃなくてスピーカーだよっていうのもあるかもしれないんですけど、
それっていうのはある種些細な違いで、いずれにしても現実に起きていることだと思うんですよね。
この音声を聞いているということは。こういうことを事実と呼びますと。
物は何かっていうと、スマホとかイヤホンっていうのは物なんだよね。
まあこれで当たり前の話かなって思うんですけど、
でもこの区別っていうのが結構この論考における世界と何かっていう理解にはめちゃめちゃ重要なのね。
今事実と物っていうのをお伝えしたんですけど、
もう一回さっきのね、世界は事実の相対であり、物の相対ではないっていう言葉に振り返ると、
何かっていうとスマホとかイヤホン、これは物だったと思うんですけど、
これが集まったら世界を説明しつくせますかっていうことを考えてほしいのね。
例えばスマホ、イヤホン、パソコン、スピーカーっていうものを全部あげた時に、
これで世界って成り立つんだっけっていうことなんだよ。
あんま考えたことないと思うんだけど、どう思う?
どうなの?成り立つ気はするけどね。
それこそ実存主義っぽいかもしれないけどさ。
そもそも人間がいるこの世界の話をした時に、
やっぱ物がすでに色々あって、
こっちは名前が付けられてなかったりするかもしれないけど、色んな物が溢れてて、
それに対してパッと見た時に、これって自分に意味があるねとかって、
例えば名前を付けるみたいな、それが話するのだ的なね。
それそれ色んな物があって、これは花だとか、これはリンゴだみたいな話になってくる。
先に物あってっていう意味では、物が世界を構成してるって言われても、
何か違和感ないというか、感じはするよな。
なるほどね。面白い。
面白いし、でも今兄貴が言ってくれた、物が自分にとってあって、
かつそれが花として意味があるみたいなことを今言ってくれたと思うんだけど、
自分に対して物が見えているっていうのは、物なんですかって話なんだよね。
つまり、花が自分に見えているっていうのは、もうそれは事実だと思うんだよね。
はー、はいはいはい。ちょっと何か分かってきた気がする。
そう、花は物なんだよ。
はいはいはいはい。
でも、例えば菅野ハヤトが花を見ているはもう事実になっちゃってるんだよね。
なるほど、なるほど。そっかそっかそっか。
もう、うちらの認識からすると、物っていうのはうちらの目を通して見てるから、
物の集まりでしょっていうふうに見えるんだけれども、
ウィトゲンシュタインの提案
この、あれか、ビトーリアンシュタインの今回の事実と物っていう話をした時に、
うちらが認識している、例えばさっきのスマホでもいいし、花でもいいし、リンゴっていうのは、
うちらがそうやって認識している、うちらが花を認識しているみたいな、
その時点でもう事実になった方に振り分けられちゃってて、物ではないと。
だから、そうすると、おーすごいねこれ、けっ、おー、ちょっと待ってこれ。
どうしたどうした。
はいはい、いや、かなりあれだね、発想の転換というか認識の転換な感じがするねこれ。
今アハ体験起きた、おー。
ごめん、上手くいけば他で聞けないけど。
いや、そう、この瞬間が実は結構大事で、あの、まだ聞いてる方ね、ちょっとついてこれじゃないっていう方もいるかもしれないんですけど、
ちょっと説明すると、要は、僕らはスマホとかイヤホンっていう言葉で、目の前にあるスマホを指し示しているとか、
イヤホン、今身に着けているイヤホンっていう物を意味しているっていう風に思うんだけど、
それはウィッドゲーム社員からすると事実であって、実際起きているのはスマホが手元にあるっていう事実とか、
イヤホンがスマホと接続すると音が聞こえるっていう事実なんだよね。
僕はあれだね、さらに今ちょっとさっきの感覚に近い話で言うと、
多分物があるって自分から見ると認識しちゃってるんだけど、
それを第三者から見た時は、例えばハヤトがリンゴを物だと思ってるみたいな、
リンゴを認識してるみたいになっちゃうと、そういう時点でリンゴってやっぱり事実というか、
だからリンゴだけって感じではないよね、物、そこそこの自体みたいな物っていうのはあるんだけみたいな話。
ウィッドゲーム社員はないって言うんだよね、それは。
ないというか、それが物で、うちらが認識しているリンゴとかはもうその時点で既に事実だよみたいなイメージで。
そうそうそう。
これは面白いね。
だからカンのハヤトがリンゴを認識しているという事実があるんだよね、そこには。
リンゴがあるっていうのも事実だから、リンゴっていう物だけではやっぱり世界は作れない。
物と物の関係性っていうのを含めないと世界というのは成り立たないよねっていう話をするんだよね。
これはすごい盲点だね。
物としてのうちらがリンゴってこれって物じゃんっていう話をした時に、
事実と状況の境界線
リンゴっていう単語のその見えないところに、これは私、ないし私たちはリンゴと認識しているっていう、
私たちを認識しているっていうのが全部抜けちゃってて、うちらから。
そうそうそうそう、言葉からね。
物でしょって認識してると、実はウィッドゲーム社員から言うと、
それは我々がリンゴと認識している物であるという事実であるみたいな風に、
あらゆるうちらが物って言ってたさっきのスマホイヤホンは事実側に寄せられちゃうんだね。
そういうことそういうこと。
ちょっとわかってきたと思う。
そうなんです。
すごいな。
ここまでも結構驚きの話だと思うんだけど、ちょっとここからさらに発想を飛躍させていくんだけど、
例えば、スマホが空を飛ぶっていうのは事実かって話をしますと、
おそらく多くの人は事実ではないと思うんだよね。
でも例えばさ、誰かがものすごい勢いで放り投げましたとか、
鳥が足で掴んで飛んじゃいましたとかってことは、想像しようと思えばできるよね。
まあそう、厳密に言うとスマホが飛んではいないけど、まあまあ。
でもそれを見て、スマホが空を飛んでるっていうことは多分できるじゃない。
鳥が捕まえてスマホを運んでいるが多分事実なんだけど。
まあそうだね、そう表現するっていうのはあり得るよね。
そうそうそう。
そういうときに、だから想像しようと言えばそれはできますよねと。
そうすると、だから起こる可能性はゼロじゃないけど事実じゃないっていうことが世の中にはあるんだよね。
こんなふうに起こる可能性が少しでもあるかもしれないっていうことを、
ビトゲンスタイルは今度は事態とか状況っていう言葉で表現するよね。
つまりスマホは空を飛ぶっていうのは、事実ではないけど状況として起こるかもしれないっていうふうに言えますと。
そっかそっか、そこは違うんだね。事実はもうこの世界で起きていること、
この事態とか状況っていうのは起こり得ることみたいなもんね。
そうそうそう。
で、なったときに、世界っていうのは何かって話を今日してるんだけど、
世界には状況と事実の両方が含まれてるっていうふうに言うんだよね。
で、あれ、世界って事実の相対じゃない、要は事実が集まったのは世界じゃないのって思った人は、
すごいしっかり聞いてくださってる方だなって思うんですけど。
思わなかった。
思わなかった。難しいよね。本だったら読み返せるけどさ、音声ではそんな入ってこないと思うんで、
それはもう改めて言ってるんですけど。
実はこの次にビトゲンシュタインがさらに言ってるのは何かっていうと、
事実の相対っていうのは何が起きているかと同時に何が起きてないかも定めますっていう話をしてるのね。
これどういうことかっていうと、例えばコインが10枚、何でもいいよ、10円玉とかでもいいんだけど、
コインが10枚あって、4枚が表だったら、6枚は裏だっていうのがわかるじゃない。
で、あと同じで、起きていることっていうのは全部わかれば、起きてないことも全部わかるよねっていうふうに
ここではビトゲンシュタインは言ってるのね。
なので、事実、起きていることっていうのは全部もしわかるとしたら、
それは起きるかもしれないんだけど起きてないことも全部わかるよねと。
っていうふうなものが世界なんだよっていうふうにビトゲンシュタインは言いますと。
はいはい、そこはちょっとイメージは。
これなんとなく。
大丈夫だね。
その事実っていうものが集まっている、現実に起きていることが集まっているものだと考えると、
そのいっぱい集まったものを裏返せば、それはまだ起こっていないことということで満たされる。
さっきのコインの表裏みたいな話。
そうそうそうそう。
っていうのは想像はできるかな。
世界のイメージ
OKOK、ありがとう。
ここでさらにもう一歩進めるんだけど。
どんどん進むね大体。
そう、一歩一歩進めていくんだけど。
じゃあね、こんな言葉をちょっとお兄貴に聞いて欲しいんだけど。
スマホがパンを食べるって言葉がありますと。
これはどうだろう。事実かな状況かな何かな。
なんだろうね、かなりエセフティックになってくるというか。
まあ食べないよね。
そうだよね。
たぶん誰にとっても起こり得ないと思うんだよね、その可能性として。
例えばスマホが何か感情を持つとか、もしかしたらAIの進化とかであるかもしれないけど、
パンを食べさせようということはあんま考えないと思うのよ。
まあね、ドラえもんならまだしもね。
まあね、ドラえもんはパンを食べればあるだろうね。
その時はもうスマホではないと思うんだよね、そうなったらもう。
そうだね。
このスマホがパンを食べるっていうのは基本的には誰にとっても起こり得ないし、
まあ頑張って想像しようとしてもさっきみたいにスマホをちょっと擬人化させるとか、
別の機械に置き換えるみたいな感じになっちゃって、かなり無理矢理になるだろうと。
そうするとこれは基本的には起こる可能性ゼロの言葉なんだよね。
まあ意味不明だもんね。
意味不明、そう。
なのでこれは状況とも言えないし、事実にもなり得ません。
ほうほうほう。
世界っていう、ウィトゲンシュタインが説明しようとする世界の中に、
このスマホがパンを食べるっていうことは絶対に含まれないのね。
うーん、あーこれ、なるほどなるほど、そうなのね。
要は状況でもないし事実でもないから。
これっていうのがウィトゲンシュタインが言うところの世界の境界線なんだよね。
要は世界にスマホでストライデスラジオを聞くのは事実として今含まれていますと。
スマホが空を飛ぶ、もうないかもしれないけどゼロではないっていう意味では状況として含まれますと。
スマホがパンを食べればさすがに世界には含まれませんっていう、こういうような繊維を引くことができますと。
この世界に存在し得るかし得ないかっていうところの境界線ね。
そう、起こり得るか起こり得ないかとかね。
で、っていう風に区別を付けたとすると、ちょっとこれは逆にイメージしてほしいんだけど、
実際に起きていることっていう事実を丸というか一つの空間に閉じ込めますと。
そうするとその外側に状況っていう兄貴が言ってくれてるのは起きてないことっていうのが、
事実っていう丸の外側にさらに大きな丸があるんだよね。
イメージとしてね。
さらにその外側には絶対に起きえないこと、まさにこういう無意味なこととか意味がないことっていうのが広がってますと。
そこには多分境界、その外には境界がないから別に枠とかないんだけど、
そんな風なイメージとして世界っていうのを想像してみてほしいんだよね。
どうだろう、ちょっとそれはイメージできてるかな。
目玉焼きの黄身部分が世界に存在しているので、
白身の部分がさっきのスマホは飛ぶみたいな感じで、
起こるかもねーみたいな部分が白身で、
それ以外の部分が無限に広がる宇宙みたいなものが絶対起こられないことみたいな。
無意味なことみたいな感じですかね。
これってのがウィトゲンシティが考える大まかな世界っていうもののイメージなんだよね。
なるほど、目玉焼きなんだね。
そうそう、目玉焼き確かにね。分かりやすい。
ウィトゲンシュタインの世界のイメージ
だから目玉焼きの外にあるものっていうのは基本的には無意味だし、
世界に起こり得ない。
つまりは言葉では表現できるかもしれないけど、
世界にとって意味を持たないものっていうふうな区別をします。
これがウィトゲンシティが考える大きな世界のイメージっていうのが目玉焼きみたいな感じで、
今兄貴が言ってくれた通り表せます。
ここからちょっと論考の話に深く入り込んでいくというのはチャレンジしたいんですけど、
この目玉焼きとして今例えた世界があるじゃないですか。
これをそのまま考えようと思うとすごく難しいっていうのがあって、
この目玉焼きの写真を撮って横に並べるんですよ。
ちょっとそれをイメージしてほしくて。
はいはい、なるほど。オリジナルというか現物があって横に今その写真を撮ったものを並べるみたいな2つになるね。
頭の中に目玉焼きと全く同じ形の目玉焼きを撮った写真が並んでいると思うんですけど、
そうするとこれを比較しながら本当の目玉焼きはこうだけど写真の目玉焼きはこうだみたいなことをちょっと考えることができるじゃないですか。
このふうにもともとの世界というものを写し取るみたいに言ったりするんだけれども、
世界の中にはさっき言った通りスマホが手元にあるとか、スマホが空を飛ぶみたいなことが含まれているわけだよね。
なのでそういうスマホが手元にあるというのは事実というのも写し取るし、スマホが空を飛ぶというのもこの写真というのは写し取りますと。
事実じゃない状況だというか。
状況だね、そうそう。状況も写し取りますと。
それは何で写し取るかというと、これラジオだから多分めちゃめちゃ聞いている方もちょっと混乱しやすいと思うんですけど、
写し取るというのを言葉でやりますというふうにウィトゲン主体は考えるのね。
今の例でいうと目玉焼きを写真で撮って横に並べますよという話をしているんだけれども、
ウィトゲン主体は今日話してきた世界というものを言葉で写し取って横に全く同じものを並べますよという話をイメージをしているということね。
イメージをしている、そう。
写真はインクとかでできていると思うんだけど、この写真でイメージしているものっていうのは本当は言葉っていう素材、言葉だけでできている目玉焼きなんだよね。
すごく難しいと思うんだけどイメージするのが。
難しいけど言いたいことは分かる。
言葉だけの世界の創造
今の世界を言葉だけで全部写し取るという作業を写真みたいなことでやるという話。
やりますと。
もう一個できた目玉焼きの方にもスマホが手元にあるっていう言葉はあるのね。
でもスマホっていうものはないし、手元みたいな場所みたいなものももう一個の目玉焼きの世界にはないですと。
言葉しかないからね。
言葉しかないからそうそう。すごく難しいよね。さっき兄貴がああって言ってた。
スマホっていうのはスマホっていうものを僕らは普通表すように想像するんだけど、ここではそれがちょっと分かれてるんだよね。
ここで最初の話に戻るんだね。事実と事実であってものではないっていう話のところに戻るんだね。
そうそう。スマホだとちょっと分かりにくいかもんだけど、まさにリンゴっていうのがあったときに言葉で言ったらそれをリンゴって映すこともできるけど、アップルって映すこともできるじゃない。
だからもう一個作った目玉焼きの世界の方では言葉っていうのはいろいろそういう風に移り変わることができるんだよね。
そうすると何がいいかっていうと言葉でできた世界の方でいろいろ考えたことを実際の世界にはこれってあるんだっけないんだっけっていう風にいろいろ試すことができるのよ。
例えばさっき言ったようなスマホでスマホが手元にあるっていう風なのをちょっと名前がないと呼びづらいんで、これを見解したらロンリー空間とかって言ったりするんですけど、
写真を撮った目玉焼きの世界それは言葉だけでできてますって言ったものなんだけど、これをロンリー空間って言葉で表現するのね。
このロンリー空間の中で例えばスマホが手元にあるっていう言葉を作った時にそれを世界の方に持ってきて、
確かに事実としてスマホが手元にあるっていう風なことを確認するとか、
あれ?今のスマホは手元じゃなくて机の上にあるぞっていう風に、それは違うっていう風に確かめるとか、
そういうことができるよねっていう風に言うのね。ここって何か伝わるかな?
あれか。そういう実験装置を作りましたっていう話ね。
だから世界のことを考えるとかよりよく理解するために、もう一個写真を撮って、
世界っぽいんだけど世界じゃないっていう実験装置をまさに作るのよ。
あれは言語空間だけか、ロンリー空間だね。
ロンリー空間。全部その世界を言葉だけで記述するっていう世界を作ると、
世界を言語で表現することはできるとかじゃなくて、逆のアプローチみたいなのが可能になるってことはね、
言葉でいろいろ想像したものが世界にあるんだろう、あるかないかわかんないものをバババッといろいろ言葉だけで考えたりとか作ったりして、
それが世界にあるのかねっていうのを確かめるっていう、そっちの順番っていう、
そっちから双方向のアクセスが実は可能なんですよみたいなところで、そういう場所を作った、実験装置だね。
まさに実験装置だね。
まさに今エンキーが言ってくれた通り、スマホが手元にあるっていうのは、
実際に世界にあることをロンリー空間に移しとった話だよね。
逆にロンリー空間で例えば、タロウがリンゴを食べるみたいなことを言葉として作ったときに、
タロウっていう人が誰かっていうのは現実世界ではわかんないわけだよね。
ロンリー空間ではそういうことを考えて、
言葉と物の分離
タロウがとかジロウがとかサブロウがとかっていろいろなことを考えることができると。
そういうふうにいろんなものごとを考えるっていう世界をもう一個作りましたっていうのが、
まさにウィジョゲンシャインの発明なんだよね。
これをすると何がいいのとかっていうのをまた次回ちゃんとお伝えしたいと思うんですけど、
だから今日の段階では、
まず世界っていうものが事実と状況と無意味なものっていう三つの目玉焼きみたいなものがあって、
それと同じ形、写真を撮ったようにある種写しとった目玉焼きをもう一個作りましたと。
こっちは実は言葉だけでできてて、それがまさに実験装置として、
ここでいろんなことを考えたり思考することによって、
世界の在り方っていうのを解き明かしましょうみたいな。
そういうちょっとまどろっこしいんだけど、
土台を作ることでウィジョゲンシャインは語れることと語れないことの区別をつけるっていう、
難しいことに取り組んだよっていう話なんだよね。
うーん、なるほどね。
なんとなくそうだね。
ただ今日あれだもんね。
ウィジョゲンシャインが多分この世界を考えるとか、
世界を考えることすらも土台の話で語れることと語れないことを分けるためだよね。
しかもそれはこれまでの哲学が擬似問題であることを証明するためみたいな、
そこに全部つながっていて、
それをするためのやっとその実験装置だったり道具を今作ってますよって話なんだもんね。
そうだね。
それを今皆さんにイメージしてもらいましたっていう話。
いやーこれ気抜くとそうだね。
自分がどこにいるか分かんなくなるね。
いやーそうだよね。
危ない危ない。
だし、なんでそんなまどろっこしいことをするのとか、
それって本当に必要なのみたいな話はまた次回ちゃんとお伝えしていくんですけど、
分けることの良さとか、やっぱり言葉っていうものをどう捉えるか。
もっと言うとミトゲンシュタインは言葉を正しく使えないから、
みんなそういう擬似問題に囚われちゃうんだって考えてるんだよね、もともと。
もともとの思いがあるから言葉っていうものだけの世界を考えるとか、
言葉とものを分けるとか、そういうことをやりだすんだよね。
純粋な言葉とは何かっていう話ね。
そうそうそう。
すごく難しいんだけど、僕らって言葉でしかこういうふうに伝えられないし、
言葉で物事を考えるときにスマホって言ったらスマホってあの四角いというかね、
ああいう機械とかをぱっと思い浮かんじゃうから、
言葉とものがすごく密接に結びついちゃってるのよ。
それを一回ちょっと剥がして、
まさにウィトリエンシュタインが言う通り、別の世界を作って、
言葉だけの世界みたいなものにしたときに何が起きますかっていう話なんだよね。
なるほど。
するとこの普通の世界というものと論空間というのを分けたっていうのは、
ウィトリエンシュタインのすごく身勝手なというか、勝手な発明というか、
でも何でもなくて、これはウィトリエンシュタイン的にね、
我々はもろとそういうふうに世界と言語というものをかなり不可分なものとして認識しちゃったり使っちゃってるよね。
そこをきちんと因数分解しましたよみたいな、
ウィトリエンシュタインにとってはもしかするとすごく当たり前の話かもしれないってことだね。
そうだね、そうだね。
うちらからすると突飛に聞こえるかもしれないね、この話は。
聞こえるかもしれないけど、要は言葉と物とか世界というのが結びついているのが病気の原因だから、
一回話そうよぐらいの感じかもしれないね、ウィトリエンシュタインから。
ウイルスでお前らは風邪になっているんだから、ウイルスを一回取り除いたらいいじゃんみたいな、
そういう発想かもしれない、もしかしたら。
だからこそ分かりづらいんだよね、本当に物と言う話で、物と言葉が分離された途端、うちらが何も分かんなくなるみたいなね。
そうそう、だから純粋なリンゴっていう言葉だけを考えるというのは僕らできないんだよ、
言葉と物の分離
言葉をこんだけ使って何十年も生きている僕らからしたら、それはやっぱりイメージできないんだよね。
はいはい、リンゴというものを物と言葉に分けなさいって言われると、何それってなっちゃうっていう。
ウィトリエンシュタインからするとこういうことだよっていうのを今日の話で説明してくれた。
そうですね、なので普段僕らが分けることができないと思っている言葉と物みたいなものを分けたときに何が起きるのかとか、
どういうことが言えるのかということを次回以降、そもそもこの論理空間って突然今日出てきたものは何かっていうことも踏まえながら、
もう一歩ちゃんとお伝えしていきたいと思っております。
はいはい、なるほどなるほど。今日教えてもらったこの道具を、もうちょっとどういう道具なのかというところと、
これをどういうふうに使いこなすことでウィトリエンシュタインがそれまでの哲学の二次問題だということを証明する、
どこに近づいていくのかっていうところね。そこの話をもうちょっと深くさらに教えてくれるというところも。
そうですね。
難しいな。
難しいですね。これからは言葉とは何かみたいな話になるんで、結構抽象的になっちゃうんですけど、
逆に言うと僕らが普段使っている、当たり前に使っている言葉ってこんな考え方もできるんだとか、
そんな見方もできるみたいな感じで、結構不思議な感じがして面白いと思うんですよ。
あの時兄貴がまさにアハ体験みたいに、確かに言葉と物って本当は違うかもねみたいな感じでくれたと思うんですけど、
そういうのはすごく面白いし、逆にここまで今日のお話が一体イメージできた方、
要は二つの目玉焼きがあって、一個はある種本物というか、物としての目玉焼きで、
もう一個写真としての目玉焼きがあるみたいなことがイメージできた方であれば、絶対次もわかるかなと思うので、
ちょっとそんな感じでぜひ次回も聞いてみていただけると嬉しいなと思っております。
はい、もう一回です。ちょっと言葉の不思議をどんどん体感していこうというところで、
次回も引き続き楽しんでいきたいと思います。では引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
36:05

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