1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #154 哲学から離れて10年。ウ..

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

ウィトゲンシュタインは、『論考』の弱点を乗り越えた経験や言語ゲームの概念との比較を通じて、自身の哲学を深めています。リトルゲーム社員は、ウィトゲンシュタインの『論考』の弱点について話し、論理の外にあるものの重要性を強調しています。また、言葉の意味は文脈や状況によって変化することを指摘し、意味不明な言葉でも意味を持つ可能性があることを述べています。ウィトゲンシュタインは、10年かけて思考と言葉の関係を再考し、論理空間と世界の関係を見直すことで自身の哲学的な探求を乗り越えました。水戸玄師さんの話では、言葉の魅力や言語に対する考え方について語られています。

目次

ウィトゲンシュタインの哲学の弱点
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。 よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回でウィトゲンシュタイン第6回ということで、前回まで見てきた論理哲学論考の次ですね、まあ10年ぐらい経ったっていう話だったんですけれども、
そこで終わったと思ってたウィトゲンシュタインの哲学の続きという話でした。
そうですね、4回もかけて結構、論理哲学論考は難しいね、難しいというか、なかなか理解しにくいね、みたいなところで話してきたと思うんですけれども、
今回とはちょっと次回ぐらいで、さらにウィトゲンシュタインがそれを乗り越えたというか、自分がやったその論理哲学論考の話っていうのが実はこんな穴があったんじゃないかとか、
ちょっともしかしたらこの部分で間違ったというか、正しくなかったかもみたいなことを思い始めるんですよね。
うーん、あんなに凄かったのにね。
そうそう、あんなに凄かったのに。だからそれをできたっていうか、さらにウィトゲンシュタイン、すげえっていう話なんですけど、
そこに対して10年間ぐらいは哲学っていう世界が広がったんだけども、また大学に戻って教授とかもいながら自分の考えを突き詰めていきましたよ、みたいなのが、
ある種、中期とか後期、ウィトゲンシュタインと言われている時代の話で、何度かこれまで申し上げてきた通り、ウィトゲンシュタインっていうのは論理哲学論考、論考ってちょっと略するんですけど、
その論考を書いた後に、自分にできること、哲学って彼からすると、これまで哲学は疑似問題とか、本当は問題じゃないのに囚われていて、
そういうちょっと病気みたいなものだから治療する、そういう新しい哲学を作るんだ、みたいなことを言ってたと思うんですけど、
それをやり切ったっていうふうに彼は思ってたんですよね。
はいはい、その特効薬作ったからもう自分の役割は終わったという話はね。
そうそうそうそう、それ一個やり切ったんだけれども、その特効薬ももしかしたら効かなかったかも、効かなかったというよりは、
特効薬と思ってたけど、実はそこまででもなかったかもとか、
もちろん言うと自分の立てた理論とか理論でちょっと間違ってたんじゃないかっていう感覚があったみたいなんだよね。
うーん、なるほど、ちょっとずつ思ってきたってことだね、そこそこ10年経ったりとか、
そういう先生とかやりながら現実世界で、現実世界って元々先生とかいろいろやってる人だからね。
そうね。
めっちゃね、頑張って生きてる人なんだけれども、哲学から離れる中で見えてきたものもあったのかなっていうね。
そうですそうです。
なので、もう一回さっき演劇で言ったように10年くらい経って、哲学の世界に戻るんだけど、
その中での大きな成果っていうのが、今回お伝えしていく哲学探求って本なんですよね。
はいはい、探求ね、はいはい。
探求、そう。
これが、高級意図研修生が代表するって言われてる本で、
これはこれね、論理・哲学論庫もめちゃめちゃ大変だったじゃないですか、
その1本の本を触れきれなかった、40文でも。
いやー、あと0.5ページとか2ページで話すのにね、2話とか作ったからね、2回分ってね。
そうそうそうそう、っていうくらいの本だったんですけど、
やっぱり哲学探求っていうこの本もね、やっぱり中身は細かく見ていこうと思うと、
同じ、もしかしたらそれより多いぐらいの話数が掛かるぐらいなんで、
当然ね、ちょっと語り尽くさないなっていう、時間と努力的にあるんで、
2つの話をして、ウィトゲンシャイ編、一旦はおしまいにしたいかなっていうふうに思ってます。
うん、なるほどなるほど、まだまだ色々あるんだけどね、とトピックが。
色々あるけど、そうそうそう。
で、2個何かっていうと、
1個は、結局何が論考の議論の中で乗り越えられたりとか、穴だったのかみたいな話。
結局何で改めて哲学探求っていう本を書かなきゃいけなかったのかっていう話と、
で、もう1つはね、これ第1回のウィトゲンシャイの説明というか、生涯の時にもお伝えしたんですけど、
この言語ゲームっていうね、ウィトゲンシャイに特有の概念があるんですよ。
で、哲学、何だろうな、こう、もし知ってるよとか、いろんな本とか読んだことあるよっていう方だと言語ゲームっていう言葉を聞いたことあるっていう人もいるんじゃないかなと思うんですけど、
これがね、すごい言葉の本質を捉えるっていう意味ですごく面白くて、
その論考では、いわゆる言語論、言語感か、人間感とか世界観っていう以上に言語感が違うんですよみたいな話をしたと思うんですけど、
この論考の言語感とはまた全然違うような概念っていうのを、その後期ウィトゲンシャイっていうのはやってるんだよね。
なるほど、葉っぱがあるんだ。
言葉っていうのはこんなに豊かに考えられるんだみたいなことも含めてすごく面白い概念だなと思うので、
そういう言語ゲームっていう自体の面白さとしても、そういう論考との比較っていう意味でもすごくいいテーマじゃないかなと思うんで、
言語ゲームの概念の比較
このことについてお話ししたいなというふうには思っています。
なるほど、いいね。キャッチーで言うように言語ゲームってちょっと面白そうだもんね、パッと聞いた感じは。
そうね、言葉として何それ何それってなりやすいよね。
でもね、イメージするのは難しいと思うんだけど、
そういうことなの?みたいな感じで感じるんじゃないかと思うんで、これちょっと次回またお話ししたいと思うんですけど、
それに本田でちょっと今回お伝えしたいなというふうに思います。
もちろん繰り返しになるんですけど、哲学探究自体はいろんな本当にテーマを含むので、
もしウィトゲンシュタイン会聞いてそういう興味あるなとか、自分ももうちょっと触れてみたいみたいなことがあったとしたら、
久しぶりに僕がノートで更新した参考文献というのが実はあるんですけど、
創設ラジオ参考文献というノートがあって、
ここに含んでいる初めてのウィトゲンシュタインという古田さんという方の本があるんですよ。
僕もそれを参考にして、それが前期から後期までみたいな感じで、
ウィトゲンシュタインの生涯を追いながら考え方に触れられる本ですごくいいなと思ったので、
よければそれもご覧いただければ嬉しいですね。
ちょっとサボってたの?
半年サボってた気づいた。
ハイデッカーからでびっくりしたんですけど、
でもね、この110回目で87冊とか読んでたの。
それはなかなかね、哲学書87冊はなかなかヘビーだね。
解説書なんだけどね。
でもね、そういう意味ではちょっとずつ参考文献集としても役立つようになってきたかなと思うので。
なるほど、たしかにね。
ラジオを聴いてだったりとか、聴かなくてもいいからちょっとどれ読むかみたいなね。
本当わかんないもんね、入り口だったり、どんなに読めばいいかってね。
そういう意味ではね、音はちょっと入ればいいけど文字の方が入るんですけど、
実はその辺は正直なと思っておりますと。
さっそくね、ビット原子炉学を築いてしまったというか、
ある種目を背けられなかった論考の間違いというか、穴とは何かという話なんですけど、
ちょっとおさらいなんですけど、
まず論考ってさっき言った通り、これまでの哲学っていうのはある種乗り越えるために、
聞かれることとか聞かれないことっていうのをある種境界線を引いて、
哲学的な問題なら美とは何かとか、私とは何かとかっていろんなことって結局語れないことの方に入っちゃうよと。
要は私とか美とかっていうのはそもそも現実の世界の方には存在しないから、
ある種と対照のない意味不明な言葉なので、
それについて言葉で話すというか考えるっていうのが無意味なことなんだ、意味がないことなんだよみたいな、
そういうことを主張しようとして実際それをやり切ったっていう話をしたと思う。
うんうん、そうだね。
『論考』と他の哲学的概念の結びつきについて
そのためにこの世界というのと論理空間というのは二つの場を設定して、
すごい分かりやすく言うと、世界にあるものと論理空間にある言葉みたいなものが対応するよみたいな、
そんなことをお話ししたかなと思います。
うん、そうだね。それを4回かけてやってきたわけだからね。
4回分があるから今こんだけさらっとお伝えして、兄貴もうんうんって聞いてくれると思うんですけど。
ここで振り返りしちゃうとね、30分以上使っちゃうからね、あえてね。
ちょっと忘れちゃった人はぜひ聞き直していただいて。
そんな感じなんですけど、実はこの時点で二つの問題が潜んでいるよねみたいなのを
イトギン社員自身がうすうす気づいているというか、
へー、二つも?
うん、二つもある。
一つはですね、さっきものと言葉が対応するって言ったんですよね。
世界にあるものと論理空間にある言葉が対応するって言ったんですけど、
その対応してるって何が保証してるの?みたいな話。
いやー、だいぶ聞き込んできたな。
そうだよね、さっきさらっと対応してるんですって言ったけど、
それでなんで?っていう話と、
もう一個は、本当に最初から、哲学的に言うとアプリ折りみたいな言葉を
以前どこだったかな、中世とかどこかで使ったことあると思うんですけど、
カントとか?
カントは経験によらずにとか、本当に無条件に、無前提にみたいな感じなんですけど、
アプリ折りに意味不明な言葉ってあるのか?みたいな話なんですよね。
これをまず一個一個見ていきたいんですけど、
一つ目はさっき言った、ものと言葉ってどうやって結びつくの?みたいな話なんだけれども、
そうやって哲学者はそこまで触れなかったんですけど、
やっぱりリトゲにしたら論理、論理空間って言ってるぐらいなんで、
この論理、言葉の論理ってすごく大事にしてて、
最後に論理形式っていうような、
ものと言葉をつなぐ概念というか、そういう仕組みがあるんだよってことを実は説明してたんですよね。
そういう話もしてたんだ、はいはい。
そうそうそう。
例えば、これまでやってきた例とか、
スマホと空を飛ぶとギリギリ結びつくけど、
スマホとパンを食べるっていうのは結びつかないよね、みたいな。
どうして結びつくかっていうのはアプリ分かんないんだよね。
あー、なるほど。
感覚でしか言えないというか、そこを証明してなかったね、みたいな話なのか。
そうそうそうそう。
ただ、論考のうちでのリトゲにしたいんだと、それって語り得ないものなわけですよ。
要はどうして結びつくかとかっていうのは、そうあるものだからとか、
ウィトゲンシュタインの『論考』の弱点
でもそれはそういう風にしか言えないものだから、
それは語り得ないものなんだっていうふうなことまで言うんだよね。
あー、じゃあそこは一応考えた上で、
語り得ないものだからだし、
スマホと空を飛ぶみたいなものは一応世界には存在し得るっていう意味で、
事実らしきものではあろうというところで、
一応例に出して、
自分たち、読者が認識できるとか、
いわゆるリトゲにしたいの主張を説明していくにあたって使える命題、
そしては使っていたという話なんだね、おそらく。
当時は。論考の当時はね。
そうそう、その前期リトゲにしたいのはそうでしたと。
ほいほい。
その時はある種問題しなくていいというか、語らなくていいものだという風にしてたんだけれども、
ただね、そうなるとこの論理っていう、
すごく論考の中心にあるものとか、
リトゲにしか大事にしているものが、
論理以外のもの?
要は、論理の外に何かその論理の正しさを保障する別のものが必要だよね、
みたいな話になっちゃうんだよね。
だから論理形式というものがある、
それは何かわかんないけど、語れないけどっていうのはそれはそれでいいんだけど、
その論理形式がなぜ正しいかっていうことは、
論理の中には含まれないっていう風になっちゃうから。
いやー、恐ろしい。
そうだね、政治とか美と同じ話になっちゃう。
結局ね、何が正義か何が美かみたいな話って、
やっぱりどうしても示されるとかそれはあるとはいえ、
でもそれが正しくないとしたら、
その論考の議論そのものが破綻したよねってところになっちゃうからね。
あー、恐ろしい。
いわゆる絶対的な論議みたいなものの上に、
リトゲ社員の主張が立着していて、
ただその論議、
こっちの方が論理的に正しそうだとか、
前回やった価値の話で相対的に、
こっちの方が論理的に正しそうだ、
こっちの方が論理的に弱そうだみたいなのを言えるけれども、
論理の外にあるものの重要性
絶対的な論議ってものが存在しないとして考えると、
結構それに基づいて説明していた
リトゲ社員の前提が崩れちゃうみたいな話だった。
そうそう。
まさに今言ってくれた通りで、
そしたらさっき、
なぜスマホとパンは対応するつかないかと思って、
例えば人間の認識とか、
社会的な合意とか常識とか、
そういうふうにされられているとした時に、
結局常識って何ができるかというと、
ぐるぐる逆回っちゃうんだよね。
という感じなので、
論理は論理としてちゃんと成り立たなきゃいけないのに、
その論理の内側には正しさを補助するものがない。
というふうになっちゃうと、
まさに論理政策論考の議論というのが、
本当に左上の牢獄というか、
問題がなかったかもみたいになっちゃいます。
自分が作った武器でしか自分を倒せないみたいな話で、
逆に自分の作った武器だから倒せたみたいなさ、
恐ろしいものを作っている。
そうなんだよね。
リトルゲーム社員のさ、論考の頭がないとさ、
この論考の前提を突きずすことができないという意味では、
やっぱりそれはすごいよね。
本当そうなんだよ。
だから自分がそれをちゃんと理解しているからこそ、
そのほころべに気づけるというか、
気づいたとしてもなかなか指摘するのって、
勇気がいるじゃない、普通は。
怖いよね。
うん、怖い。
怖いんだけど、リトルゲーム社員はやっぱりそこに疑問を持って、
それを解消するためにどうするかというと、
やっぱり何が正しいんだ、
その結びつきというのはどうやって保証するんだ、
というふうに論理を外にいくんじゃなくて、
そもそも論理を重視するという考え方自体を捨てるんだよね。
すごいね。
だからあれだけ論理って言っていただく論法で、
論理って大事だ、自分は論理学者なんだって言うぐらい、
論理って大事にしていたのに、
言葉の意味の変化
そんなに言っていたの?
そう、論理じゃないかもみたいになっていくんだよね。
それがさっきも親しい次回、ちゃんと話していく言語ゲームという考え方につながってくるんですよね。
なのでまずここではですね、
空間という世界ともう1つになる目玉役を写真撮ってコピーしたみたいな話だと思うんですけど、
ただ1個のある種場所を作っちゃうぐらい、
論理というものを重視したビットゲーム社員というのが、
その重要性を捨てることができたみたいな、
そういうことをぜひ知っていただきたいというふうに思っています。
1個目の言葉と物とどう結びつくのという話で、
もう1個は最初からアプリより意味不明な言葉ってあるんですかという話なんだけど、
例えばこれまで散々スマホがパンを食べるっていうのは意味がないとか、
ペチャパニーポレロってよくわかんないXみたいな言葉だみたいな、
そういうのを言ってきたじゃないですか。
それはもちろん意味不明なものとして言ってるんだけど、
これ兄貴とか皆さんもお気づきかもしれないんですけど、
僕らの中でペチャパニーポレロって言葉がちょっとずつ存在感を増してる感じがしない?
ペチャパニーポレロとは何かよくわからないものを示すときに、
名詞として持ち合える言葉だって言ってもさ、
今の僕らなら通じてしまうじゃない?
これはウィトリングスタイルの散々この世界と論理空間の話をしてきたからこその感覚なのかなと思うんだけどね。
論理空間で生まれたこのペチャパニーポレロっていう言葉が世界に存在し始めてるんだよね。
そうそうそう、そうなんだよね。
僕と兄貴っていう、あるいは聞いてくださった皆さんってすごく知らないかもしれないけど、
潜在してきてるし。
でも実際そうなんだよね。
スマホがパンを食べられてもありえないって僕も前言ったんですけど、
物としてのスマートフォンがパンを食べてるのはないと思うんだけど、
なんかスマホに口がついてイラストがあって、
それがパンを食べてるみたいなラインスタンプがあったとしたら、
これスマホがパンを食べるラインスタンプだよって言えちゃうと思うんだよね。
ってなると、スマホがパンを食べるっていう言葉も絶対にない。
その言葉がいつまでも無意味だというふうにはやっぱりならない。
うん、なるほど。
言い切れないっていう感じなんだよね。
はいはい、完全に無である言葉が生まれるのかと。
そう、論理空間の世界のポイント。
そうなんだよね。
これがスマホがパンを食べるとかもそうだし、
あと、言葉自体がぐちゃぐちゃなもの?
文法も変だし、絶対に使われない言葉を使ってるみたいな話も結構同じなことになっちゃう。
前回のところでも100個が机のリンゴの上みたいな、バラバラーみたいなやつだよね。
うん、こっちのバラバラーみたいなやつも。
でも、例えば赤ちゃんとか小さい子供が上とかって言われたら、
あ、ブーブーあるよねとかっていうふうに理解しちゃったりするじゃない?大人として。
あー、なるほどね。はいはいはい。
みたいな感じだから、いわゆる文法とかに沿ってないとしても、
別に意味を用いるっていうのは全然あるよねと。
それっていうのは、今言ったみたいに言葉っけとか命題だけで意味って定まらなくて、
そういう環境とか、どういう場において使われるかっていうことって切り離せないよねって感じなんだよね。
なので、改めて言うと文章としては意味不明なものも、文脈とか状況次第で意味を持つ可能性が否定できない。
意味不明であるってことと、無意味であるってことは実は違うんだと。
要は、論考では意味不明って歌も意味を持てない。
世界に場所を持てないから無意味な言葉なんだっていうふうに言っちゃってたんだけど、
実は意味不明であるってことと、無意味だってことは違うんだってことに気づいちゃうんだよね。
うんうん、なるほど。
言うと、語り得ることと語り得ないことに明確な境界線を引くっていうのは、
やっぱり説得力が落ちちゃう。できないとは言わないまでも、
やりきったとなかなか言えないよねって感じになっちゃいますと。
そうだね。それはでも哲学意味あったねって言えちゃいそうだよね。
そうそうそうそう。
語れないことを面白く語れるように世界に生み出す。
よくあるじゃん、言葉を生み出すことで概念を生み出すみたいなものってあると思ってて、
やっぱりそういう意味合わないものでもそういう言葉で表現していくっていうのを考えた時に、
果たしてその世界に存在してないからといって、
言葉に全く意味がないとか無意味だって言えるんだって話になっちゃいますと。
今ね、アプリよりに意味がない意味不明な言葉ってありますかって話をしたんだけど、
そっちを疑っちゃうと、実は逆も疑えちゃうのね。
つまりアプリよりに無前提に意味がある言葉ってあるんでしたっけみたいな話が今度は疑えちゃいますと。
そうだね、例えば例としてやってみた時に、
これもさ、この場でいろいろ話してた、スマホが手元にあるって言葉あるじゃない。
これも例としてね、これは意味がある言葉だねってずっと言ってきたと思うんだけど、
例えばこれさ、仮に20年前にこの言葉を話したとしたら、意味わかりましたって話したんだよね。
そもそもスマホっていうものが世の中に存在しない時代、
多分20年前ってしてない、疑いしてるかもしれないと思うんだけど、
疑いしてないかも。
まだ柄系とか、柄系って言葉じゃなかったかな、携帯みたいな。
iPhoneの3Gがちょうど出たかなぐらいの頃かな、ちょうど。
なので、やっぱり時代によって言葉はもちろん伝わらないって意味もあるし、
あと例えばね、さっきその文脈とか状況によって違うって言ったと思うんですけど、
例えばさ、僕が手に本だけを持った状態で、
あ、スマホが手元にあるわって言ったらどうかって話なんだよね。
明らかに怪しい人じゃない。
いや、持ってるの本だよみたいな。
別にスマホじゃないけどって思うと思うんだよね。
そうだね、なんかちょっと二度見しちゃうかもね、手の辺り。
そうそう、みたいな。
ウィトゲンシュタインの哲学的な探求の乗り越え
なので、スマホが手元にあるっていう言葉も、
実は明らかにそれが意味がある言葉だっていうふうには言えないんだと。
要はいろんな文脈や環境の影響を受けて、
意味があるとかないとか正しいとかっていうのは初めて言えるんだよっていうふうなことに気づいちゃうんだよね。
この辺は確かにっていう感じはするかな。
この辺はそうだね、納得感はあるし、
これまでの話もね、むしろ哲学って結構こっちの方をやってきてるイメージがあるかな。
一般的なスマホってあったときに、
本当にスマホってその意味なんだっけみたいなさ、
正義ってそもそもそういう意味なんだっけみたいなさ、
結構そっちの方が馴染みやすいかもしれない。
はいはいはい。
だからこれがやっぱり哲学っぽさを感じるのかな。
だと思う。
なるほどね。
そういう意味は確かに日常にあるものをちょっと疑うじゃないけれども、
そういう意味合いがちょっと少なくなってくるね。
どうかというとやっぱり、もともと世界って論理空間っていうものを分けたことは、
すごく発明というか画期的だったんだけれども、
分けたときのいろんな不都合って出てくるわけだよね。
さっき言った通り、それがどうやって一致するのか、
ものとことはってどう一致するのかっていう、
分けたからには一つにする仕組みが必要なわけなんだけど、
それが何かわからないみたいなものだとか、
今言った通り、世界が変わると言えば論理空間も変わるんだけど、
そこでどう対応するのとか、そういうものがいろいろ出てきます。
なるほどね。
そういったものを保証するものがないかっていったところまで考えちゃうと、
一気にリトリウムシュタインが作った世界観が怪しくなってくるってことだね。
そうだね。説得力が落ちちゃうって感じだったよね。
なので、やっぱりリトリウムシュタインが偉いというかすごいなと思うのは、
さっき言った通り、そこで論理空間の方を補強しようじゃなくて、
世界をもうちょっとちゃんと見ようっていうふうにいくんだよね。
ゼロベースからもう一回やり直したんだね。
そうそう。
っていう感じなので、語られるとか語られないに境界線を引くっていうのは、
やっぱりちょっと難しいというか、
もちろん簡単にやったわけじゃないけれども、
思ったよりも難易度が高いことだったかもしれないっていうふうに思ってたんで、
リトリウムシュタインってさっきと同様に境界線を引くこと自体やめちゃうんだよね。
そうなの。
本当にね、壊と創造みたいな感じなんだけど。
なので、こんなふうに論理哲学論考っていう本で強行に作り上げた論理っていうのが、
ウィトゲンシュタイン自身によって突き崩されていく。
これってもちろん学者として過去の自分の業績を乗り越えていくっていうのはあるのかもしれないけど、
これ白紙論文なわけなんだよね、論考っていうのが彼の。
白紙論文で自分がその学位をもらったようなきっかけだったものだし、
10年経って名声もどんどん高まってるわけよ。
論考すげーみたいな、リトリウムシュタイン天才みたいな。
そうなんだ、これはもう当時からやっぱりすごいっていうふうに言われてたんだね。
そうそうそうそう。
これやべえ奴が出たぜみたいな感じになってるんだよね。
やっぱりその成功体験を捨てるっていうのは並大抵のことじゃないと思うんだよね。
ただのそれができたからこそ、やっぱりウィトゲンシュタイン自身が
もう一歩の人生の仕事として、この哲学探求っていうのを駆け上げたんだろうなと思うし、
やっぱりある種一発屋じゃなくても、本当に生涯に渡って哲学をし続けた人。
やっぱりある種天才というか、20世紀最大で言われるハイデッカーに並ぶような、
あるいはそことも引き寄せを取らない哲学者と言われるような有名人。
はいはい、本当にもう名声を得るために哲学について考えてたわけでも、
本を書いたわけでもなくて、本当にもっと純粋な思いというか、
違和感というか、なんか衝動があったんだろうねっていう感じだよね。
本当そうだと思う。
もちろん彼自身は最初、むしろその後も戻るんだけどさ、10年経って。
でもやっぱりなかなかアカデミックなじまないなとか、
大学休屈だなとかっていう思いもあったみたいなんだよね。
その中でやっぱり自分が哲学をし続けなきゃいけないというか、
まずそういう自分の性質というか、
そういうものにある種現れなかったみたいな、
そういうちょっと苦労した面もあったみたいなんだけど。
確かにこんだけすごいとさ、
もちろん周りがね、ちゃんと評価してくれてるっていうのはあるんだろうけれども、
なかなかそうだよね、
基本的には周りにいる哲学者ってさ、
自分が批判してる方の人たちだろうからさ、
言い心地もそんな良くないだろうしね。
そうなんだよね。
やっぱり仲良かった人と喧嘩別れしちゃうとか、
仲悪くなっちゃって、
孤独だとかっていうのはやっぱりあったみたいで。
やっぱりそういった時代もありつつ、
僕らがやっぱり後から彼の本とか読むと、
言語ゲームの概念と言葉の捉え方
本というか思想に触れるとやっぱりすごいなとか、
こんな風に物事を考える人がいたんだみたいな感じになるっていうのはそうなんですけど、
今回ちょっと2つの話をして、
そういう論理哲学論庫で話すっていうのも実は万着じゃなかったということをお伝えしたんですけど、
それどう乗り越えたかっていう、
全体像をお伝えするのはなかなか難しいので、
今回も出てきた言語ゲームっていう概念について、
今日の2つのテーマとも関連させながら、
どんな風に改めて言葉と付き合っていくのかとか、
ウィートゲーシャインは言葉っていうのを捉えようとしたのか、
そういう観点をぜひお伝えしていきたいなという風に思っております。
内容としてはかなり楽にお伝えする予定ではあるので、
もう一回グッと深く、
よし登るぞとかっていうよりは、
ある種下山でもうそろそろふもとだなみたいな、
そういうラフな感じを聞いていただけるといいのかなと思っております。
了解です。
ここからまた4回勝ててとかって感じではないですね。
そう。
言語ゲームのまず言語というものを定義しましょう。
そんな感じにはならない。
なるほど。
いやー、すごいよね。
だって今さ、今回で、
前まで言ってたロニー・テツナ・クロンコをさ、
もう一回ゾロベースから考えましょうっていうさ、
どこに立ってるわけで、
どうしていいかわかんないよね。
じゃあみなさん、ゼロからもう一回考えましょうって言われてさ、
とっかかりがなさすぎるよね。
確かにね。
宿題とかでロニー・テツナ・クロンコを渡されて、
これ読んで、
これを全部吹き壊してもう一回ゼロから考えてくださいとかって言われたら、
ここにくれるよね。
一生かかってもなんもできないみたいな。
そうだね。
ロニー・テツナ・クロンコを理解したあなたたちならできるでしょってさ、
やっぱりいたとしてさ、できるでしょってさ、
やっぱりなっちゃうよね。
絶対になると思う。
やっぱりね、この、
次回の先でやっちゃうんだけど、
このロニー・ゲームみたいな話って、
言語ゲーム?
そう、言語ゲームね、ごめんなさい。
言語ゲームみたいな話も、やっぱりその、なんだろうな、
すごく言葉に対する純粋な捉え方とか、
あとやっぱり通訳現場にいたってもよかったなと思うんだけど、
子どもたちが言葉をどんな風に学んでいくかとか、
身につけていくか、
みたいなところから着想も得てるんじゃないかみたいな話もあるんですよね。
ああ、そうか、小学校だったもんね、確かね。
そうそうそう。
そうだそうだ。
新しい概念をやっぱりどう覚えるかとか、
知らなかったものにどう向き合うかみたいな現場、
結構見てたんじゃないかなと思うんだけど、これはちょっと推測なんだけど。
なるほど、もっと素朴な人間のおかしがちな過ちというかね、
そういうものを覚えていく過程だったりとかっていうのを、
10年間見てきたって話なんだね。
そうそうそうそう。
ちょっと雑談っぽくなっちゃうけど、
最近うちの娘も今5歳で、
ちょっとずつひらがなとかも読めるようになってきてるんですよ。
あれ何これ何とかって言ってるんだけど、
その言葉はめちゃめちゃりゅうちゅんしゃべるから、
りんごならりんごっていうのは普通に、
りんごを使ってあらゆる文を作れるわけよね。
ひらがなで絵とともに、
これりんごっていう文字を出して読んでみてって言うと、
りんご?みたいに言って、
りんごとは何ぞやみたいな感じになっちゃうのよ。
ああ、確かに確かに。
うちも今ひらがな読んでるけど、
あるよね。
たとえばふ・り・か・けって一個ずつ読んで、
その後であ、ふりかけかみたいなさ、
読みながら理解しないんだよね。
そうなんだよね。
なるほど、確かになって思うのは、
文字とやっぱり物って分かれてるし、
言葉と物もやっぱりちょっと分かれてるなっていうのを、
すごい感じるんだよね。
なるほど、なるほど。
頭の中にね、面白いよね、
今回の話で世界と論理空間だった時に、
たぶんまだまだ論理空間がほとんど存在、
言語としての論理空間がね、
存在が薄い子供っていう話だよね。
どういうふうにそこをつなげていくかって話なんだね。
イコールと結んでいくのか。
そのイコールっていうのは今回のイトリアンシュタインで言うと、
世界と論理空間の関係に疑問
必ずしも一対一対応して、
絶対的なイコールってものが存在するのかねっていうところに、
イトリアンシュタインは疑問を持ったみたいな話なんだもんね。
そうだね、イコールって結局なんだろう、
何がそれを正しさを保証してくれるのっていう。
要は、たとえばだけど、
一生懸けてリンゴをみかんだと覚え込まされた人みたいなことを
するときに、その人はリンゴをみるたびに
みかんみかんって言うわけだよね。
それを間違ってるよって誰が言えるのみたいな話も
なってくるわけよ。
なるほど。
そっかそっか、そういう言葉の。
面白さだし、
やっぱりこう、
よく言葉って詩的なもので、
好き勝手つけたものだみたいな話と、
物からちゃんと出てるなっていろんな話もあるんだけど、
一旦そういう細かい話を置いといたとしても、
やっぱり僕らがあるものをある言葉で呼ぶって、
当たり前なので全然当たり前じゃないんだなっていう、
そこに目を向けさせてくれるなって思うんだよね、
水戸玄師さんに話を読んでると。
はいはい、確かにな。
水戸玄師さんの哲学の影響力
面白いね。操ってるつもりではあるけれど、
果たしてそれについてどこまで知ってんのかっていうのは、
これは哲学全般やってても思うし、
水戸玄師さんがさらにそれを具体的に色々やってくれてるって話なんだね。
そうそうそうそう。
やっぱり読むものを読むと20世紀、
今20世紀だけど、
100年前ぐらいの時代って言葉の時代だったみたいな哲学は、
言葉っていうものとどう関わるかとか、
どうそれを捉えるかみたいな話が出てくるんだけど、
その中で水戸玄師さんはすごく中心的な人物っていう扱いなんだよね。
水戸玄師さんがいなかったとしたら、
こんな風な話っていうのはここまで広がってなかっただろうし、
水戸玄師さんがいなくても哲学自体は続いてると思うんだけど、
やっぱりこんなに色んな豊かなものはなかったんじゃないかとか、
やっぱりそのぐらい重要な人物みたいですね。
言葉の魅力と言語ゲーム
そうだね、この上積みを聞いてるだけでも相当すごそうだっていうのはね、
ここまででも伝わってくるね、確かに。
そんな素朴な、さっき言ったような振りかけっていう文字と、
振りかけっていうものが目をしないみたいな話、
実際に次の言語ゲームっていうものとすごい関連してくるので、
そんなこともイメージしながら、
また次回も楽しんで聞いていただけたら嬉しいなと思っております。
次回、水戸玄師隊の言語ゲームというところを見ていきたいと思います。
引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
36:29

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