1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #285 世界の根本を理解したい..
2025-01-19 43:30

#285 世界の根本を理解したい!そう考えた西田幾多郎の「純粋経験」とは?

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。







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サマリー

西田幾多郎の哲学の探求を通して、彼の生涯や「純粋経験」などの重要な概念が考察されます。彼の哲学的成長は、彼自身の苦難から生まれた批判的な思考に根ざしており、明治期の変革における彼の位置が示されます。「純粋経験」は、実在を理解するための重要な概念であり、事実をそのまま知ることを目指しています。また、彼は日本文化や東洋文化の哲学的な基盤を理解し、比較することの重要性を強調します。「純粋経験」に関する彼の考え方は、主体と対象の境界を超えた新たな存在の理解を追求します。彼の哲学は、経験と実在の関係を探り、物事を単なる観察の対象ではなく、一体的な存在として捉える重要性に焦点を当てています。「純粋経験」を通じて、現象学や東洋的な哲学について考察し、実在と経験の関係を探ります。

00:11
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
西田幾多郎の生涯
はい、前回から日本に西洋哲学が入ってきたということで、第2世代にあたる西田幾多郎さんを今回は見ていこうというような話でした。
前回、江戸の末期から明治というところで西洋哲学が入ってきたよとか、海外に学びに行った人がいたよという話をしたと思うんですけれども、
今回からメインで扱う西田幾多郎さんの話をしていこうと思っております。
西田さんが生まれたのが1870年で、明治3年なので、本当に明治入ってすぐみたいな感じなんですよね。
今から150年前くらいかなっていう人なんですけれども、生まれたのが現在の石川県ですね。
石川には西田幾多郎記念館とかもあるぐらいな感じで、僕も一回行きたいなとか思ってるんですけど、そういうゆかりがある方ですよと。
公明な哲学者なので、さぞ優秀であったんじゃないかとか、すごい人なんじゃないかって。
実際すごい人だし、才能マッドなんですけれども、人生を見てみると順風満帆というか、結構波乱万丈よりみたいな。
そんな感じの人なんですよというところから話していこうと思うんですけど。
もともとは別に哲学に小さい頃から明るかったというよりは、普通に地元で先生になりたいと思って勉強したらしいんですよね。
まあそうだよね。だってそんな哲学普及してるわけじゃないだろうからさ。
哲学ってものがあるらしいみたいな志があるかどうかみたいな話をすると、それは基本なさそうだもんね、なんとなく。
そうですそうです。
なので普通に先生になろうと思ってたんだけれども、いろいろあって高校を退学しちゃったりとか、
大学にも行くんですけど、正規ルートというよりは、いわゆる欠員補充みたいな。
ちょっとそれ限られたことしか学べませんみたいな感じで入っちゃったらしくて。
入った後も制限があるんだ。
図書館に入っちゃダメとかそういうのがあったらしくて、当時。
前回お伝えした通り、日本新発の哲学教授、井上哲次郎さんという人の話をしたと思うんですけど、
その人に直接学んではいるんだけれども、あんまりそういう話なんで、ちゃんと学べなかったというか、
そんなに親しい間ではなかったらしくて。
実際、自分で振り返った文章の中に、大学で井上先生だけじゃないとは思うんだけれども、
ちょっと悲願みめ、悲願でるかもしれないけど、
先生のとこに行って勉強を教えてくださいとかって言っても、ちょっと敷居が高いように思われたみたいな。
ある種、ちょっといい感じに扱ってくれなかったよみたいな言葉も残していて。
いわゆるソクラテス、プラトン、アリステレスみたいな、ちょっといわゆる指定関係とかよりは、
学んだけど、別に恩師とかでもないみたいな。
そうなんだ。
そういう感じだったみたいなんですよね。
一応大学卒業して地元に戻るんですけど、
すぐには就職できなくて、
1年経ってやっと学校の先生になれたりとか、
かと思えば、いろんな学内の対立、政治的なやつかわからないけれども、
それの煽りがあって、解雇されたりとか、
そういうこともそうそう経験していたり、
その裏では、私生活で親の授業が失敗して、
風邪も大変みたいな。
そういうふうな人生を歩んできた人なんですよね。
その中で、もちろんゆくゆくは大学教授になっていくんですけれども、
その手前で言うと、結構人生つらすぎるし、
生活も仕事もつらすぎるんで、
いわゆる座禅とかの禅ですね。
そこに打ち込んで、そのつらさを乗り越えようとかっていう動きもあったらしいんですよね。
おー、そうなんだ。そっちに行ったんだね。
そっちに行って、自分をある種沈めようというか、
穏やかにしようみたいな。
でも、なかなか禅を結構深く学んだんだけれども、なかなか肯定しなくて、
いかんともしがたいっていう時に、
哲学の方が自分を救ってくれるかもみたいなところがあって、
哲学をある種自分でやっていくんだよね。
かなり人生つらい生きるのどうしよう的な感じが、哲学に似てる系の方なんだね。
そうなんですよ。
結構、透明な哲学者で兄弟の教授もあって、華やかな人かと思いきや、
意外と晩年のところでいくと、誰も自分の思想を理解してくれなかった。
あと結構、幼いお子さんを亡くしたりもしてて、
そういうつらさがやばいみたいな話とかを書いてて、
やっぱりそういう難しいことをもちろん考える人ではあるんだけれども、
どっちかっていうと、世界はどうあるかとか世の中が云々とかっていうよりは、
いかに自分の人生とか生きてるっていう実感をより良くしていくかみたいな、
哲学の成り立ち
そういうところに向き合った人ではあるらしいんだよね。
解くかかりというかね、最初はね。
そうそうそう。
別に哲学だって言っても、いきなり哲学者になったわけじゃなくて、
まずはそのつてをたとって、学習院大学が当時あったらしいんですけど、
そこのまずドイツ語の主任になりますと。
なるほど。
そこから他の教授の人を海外赴任するっていう後釜じゃないけれども、
それを埋める形で東大に行くんだけど、
それも最初は倫理学なんだよね。
倫理学やって、そこからは宗教学とかやって、
やっと44歳で哲学家になりましたみたいな。
哲学家の教授になりましたみたいな。
だいぶ直接があるね。
そうだね。
現代でこそ44歳で教授で多分早いというかね、
出世後さと思うんだけど、
当時で言うと遅いというか、
そこまで右を逆説あって、やっと哲学家の教授になりましょうって感じなんだよね。
で、以来14年間、哲学の教授として活躍しますという感じですかね。
これは予測なんだけど、
44から14年だと58歳じゃないですか。
これも60歳まであと2年あるんだけど、
当時の早く学ばせたいとか、早く働いてほしいとかであったかわからないんだけど、
親が戸籍をちょっとつろまかして、2年年上で申請したんだって。
そうなんだ。
戸籍上の年齢だと60歳なので定年を迎えちゃうんだけど、
年齢は58歳でしたみたいな。
そこで亡くなったとかじゃなくて定年になったんだ。
亡くなくて、普通に退任しましたっていう感じらしいんだよね。
結構家族とかもそうだけど、周囲に翻弄されながらも、哲学をある種深めていった人ですっていう感じでございます。
紹介はそのぐらいにして、いよいよこの西田哲学とはっていう話をしていくんですけど、
便宜的にではあるんだけれども、
彼の西田哲郎さんの哲学には4つの段階があるよねっていうふうに言われることがありますよと。
もちろん3つじゃないかとか、4つじゃないとかっていろんな話はあるんだけれども、
それがわかりやすいと思うので今回それをちょっと採用してるんですけど、
どんなものかっていうと、これは言葉だけまずは聞いていただければっていう感じなんですけど、
2つ目が純粋経験ってやつで、
純粋経験、これは西田さんのことをちょっと学んだとかかじったとかっていう人ならば聞いたことがあるかもなっていう感じですね。
ちょっと有名な言葉です。
2つ目が自覚、もっと自覚しろとかの自覚ね。
3つ目が場所。
場所?
場所。
プレイス?
プレイス、そうそうプレイス。
4つ目が、これ難しいんですけど、
絶対矛盾的事故同意っていうのがあって、
もう無理ちゃんみたいな。
一気に世界観変わったね。
そうそう。
4番目以外は日常的にね、
もちろん純粋経験ってことはないかもですけど、
経験っていうのは日常的に使うし、
自覚とか場所っていうのも使う言葉ではあるんですけど、
逆に言うと、だからこそ理解が難しいとかっていうのもあるんですよね。
だからあれだよね、
1つ目から3つ目が簡単だけじゃなくて、
言葉の内容としては同じぐらい全部むずいんだよっていうか。
その通りです。
理解しようと思うとっていうね。
だって場所なんてさ、まさにプレイスだけど、
何が哲学なのとか、
何を言おうとしたのって全然わからないじゃない?
ここだけだと。
そうだね、だしそんなわけないもんね。
そう、そんなわけない。
プレイスなわけないもんね。
そうそうそうそう。
ある種、そういった言葉とかキーワードを手掛かりにしつつ、
結局西田さん何を言おうとしたんだとか、
それぞれが初期、中期、後期みたいな感じで、
自分自身が哲学を深める上でより発展させるとか、
前にあった課題とか、
そういうものを乗り越えるっていう考え方もあるんですよね。
なので、それぞれの概念っていうのはどういうものなのとか、
どういうふうに関連して西田さんが自分の哲学を発展させたのっていうところを、
純粋経験、自覚、場所、絶対矛盾的事故統一みたいな、
こういうやつをキーワードにやっていこうと思ってますっていうのが今回のテーマですね。
哲学的課題の考察
なるほどなるほど。
ここまではいかがでしょうか。
何も内容には入ってないからね、とりあえず。
そうだね。
前段としては大丈夫かな。
当時やっぱり明治入り立てって結構大変な人が多かったのかな、どうなんだろうね。
一般的に言ってもわかんないんだけれども、
退学したとか言ってたじゃないですか、高校も。
それもやっぱり元々は地元の結構自由な工夫だったのが、
国指定の育成機関として強くなった時に、
結構ガチガチの拘束とか、全然違う工夫になっちゃって、
結構会わない人は辞めちゃったんだよね、みたいなことがあったらしいんだよね。
そのうちの一部に西田さんも含まれてたってことなんだ。
そうそうそうそう。
なるほど、やっぱり変革の時代ではあったんだね。
やっぱりどうしようもない変化とか、いきなり右から左に変わるみたいな。
ここで世の中的にあった時代なんだと思うんだよね。
そんな中で自分の哲学を深掘りしていった西田さんっていう感じなんだけれども、
さっきまでちょっとお伝えした通り、
そういう自分の辛さとか、思うようにいかないみたいなところが、
哲学だけじゃないことに向き合うきっかけになったっていうのはあるんだけれども、
その哲学に取り組む理由とか、哲学を通して何をしたいかっていうのも、
時期ごとに変化があったっていうふうに考えられてるんですよね。
ほうほうほう。
もちろん一生を過ごしたテーマってのもあるんだけれども、
その時々で哲学に求めるものが変わっていると。
例えばさっき言った一番目の純粋経験ってやつなんですけど、
これはね、これも有名って言って誰にとってってあると思うんですけど、
一番西田さんが最初に出した本なのかな。
有名って言われる禅の研究。
禅って良い、禅の意である禅ね。
良いね。
良いの研究っていう、座禅とかの禅じゃなくて、
良いの研究っていう本があって。
この中でその純粋経験っていうのは語られていくんだけれども、
何をしようかっていうと、
結局我々ある種、人間が生きるとかっていう時に、
例えばじゃあ何を出すべきかっていうのは、
真の実在の探求
これはいわゆる倫理とか道徳の問題なんだけど、
前に真の実在とは何かとか、
そういうことを明らかにしなきゃいけないよっていう風に言ってるんだよね。
つまり結構共感するんだけど、
それこそ自分がどうしたら幸せになれるかっていう前に、
そもそも幸せとは何かを知りたいみたいな。
なるほど。
だから僕らが何をしたらいいかとか、
どういう風に生きるべきかとかっていう前に、
そもそもこの世界ってどうあるのとか、
そういうことを明らかにする必要があるよねっていうことを言ってるんだよね。
なるほど。
なのでこの段階では、
なぜ哲学を学ぶべきかとかっていうよりは、
自分の哲学の目的として、
そういった真の実在を明らかにするとか理解する、
そういうことを目指すよっていう風に言ってるんだよね。
ある種、万物の根源もじゃないけれども、
そういうものをある種目指すようなものになっています。
日本文化の哲学的基盤
これが結構中期の場所みたいなところになってくると、
哲学に取り組む理由として、
単純に実在を理解するっていうことだけじゃなくて、
いわゆる東洋文化、日本の文化だよね。
これに哲学の基礎を与えたいんだみたいなことを書いてるんだよね。
へー。ほうほうほう。
もっと言うと、やっぱり西洋から入ってきた文化とか、
当然西洋哲学もそうだけれども、
そういうものを学ぶべきことも多いんだけど、
やっぱりこれまでの日本を支えてきた、
日本文化、東洋文化っていうものがあるじゃないかと。
ふんふんふん。
かつそこに対しては、
これは西田さんが言ってるんだけど、
立ち無きものの形を見て、
声無きものの声を聞くっていうふうなことを言ってるんだよね。
ふんふんふん。
だからそういうような、やっぱりこの、なんだろうな、
目の前に現れるものだけじゃなく、
奥底にある、なんていうのかな、
優厳さとか奥ゆかしさみたいな。
ふんふんふん。
やっぱり日本のわびさび的なものも含めて、
やっぱり大事だよね。
日本人って大事にしてきたじゃないかっていうときに、
それを哲学的な根拠を与えることで、
ちゃんと論章するとか。
はぁはぁはぁはぁ。
そうそう。
ちゃんとそれを学問的に位置づけるっていうふうな、
そういう欲求が出てきたんだよっていうことを言うんだよね。
なるほど。それはわかる気もするよね。
うん。
ふんふんふんふん。
そう。
やっぱりそういった、なんだろうな、
自分が寄って立つもの。
禅とかもそうだと思うんだけど、
そういうものをちゃんと育てたいんだと。
それはある種、教授としてやっていくし、
その教材学を58歳で退任されてからも、
一生の仕事としてそこについて向き合ってきたっていうのが、
この西谷さんという人ですっていう感じなんだよね。
純粋経験の解明
へぇー、そうなんだ。
ふんふんふんふん。
それからあれだよね、
その西洋哲学が入ってくることで、
ある意味日本の文化とか思想みたいなものが相対化されて、
ふんふんふんふん。
それが、いわゆる優劣で言うと、どっちかというと劣っぽい感じで、
自分たちも捉えている。
自分たち日本人も、やっぱり捉えているんだけれども、
ふんふんふんふん。
まあそうは言え、それやってきたじゃんっていう、
ふん。
ものをちゃんと周りに体系立てて、
何だったんだろう、何なんだろうっていうのを、
ふんふんふんふん。
きちんと形にしたいみたいな、そういう話だよね。
そうだね、そうだね。
そうそうそう。
そこに共通の基盤がないとさ、やっぱりそれこそね、
西洋は優れてて日本はダメだとか、
逆に東洋の方が良くて、西洋は野蛮だとかさ、
わかんないけど、そういうふうに対立しちゃうじゃない。
そういうのを、哲学っていう共通の基盤を与えることで、
両方をちゃんと同じテーブルに乗せれるようにとか、
ある種正しく比較できるようにってことなんだと思うんだよね。
なるほど、そっかそっか。
そうだよね、その物差しを作りたいみたいな話なんか。
そうそうそう、そうですよね。
そう作った上で、東洋文化について話したいみたいな、語りたいみたいな。
そうそうそうそう。
物差しとしての基盤を哲学っていうものでできるんじゃないかみたいな。
なるほど、そうね。
そういうことを考えた時代の人なんだよね。
そりゃあね、学校辞めるよね。
まあね、ただ学んでとか教えられたものを教室だけじゃとかじゃないよね。
いろいろあったものをただただ受け入れるっていう感じじゃなかったんだね。
そうそうそうそう。
やっぱりそういった、ある種の人がメンタルがあったからこそっていう感じだと思うんだけど、
今回はですね、導入で、早速今回大きなテーマの一つ目である
純粋経験っていうものに入っていきたいと思ってますよと。
先ほどお伝えした通り、禅の研究っていう本の中で、
基本的にはこの禅の研究っていう本は純粋経験とは何かとか、
それってどういうものっていうのも語り尽くすぜみたいな本なんだけど、
この本ってね、禅の研究、良いの研究とかって言われると、
それこそ道徳っぽい感じがあるじゃない。
哲学目線で言うと、ソクラテスとかサラトンとか、
そのあたりの研究をしたのかなみたいな。
って感じなんだけど、もともとは純粋経験と実在っていうタイトルだったらしいんだよね。
純粋経験と実在。まさにその純粋経験っていうものが実在だって言おうとした話なんだけど、
多分サラトン売れないというか、あまりにも若者すぎるから買えたんじゃないかみたいな話もあるんですけど、
いわゆる主張だけで言うとまさに明確で、今は言っちゃったんだけど、
その純粋経験っていうもの自体が実在、イコール真にあるものだよね。
いわゆる真の実在である純粋経験っていうのを元にして、
全てを説明してみたいんだっていう、そういうことを言ってるんですよ。
なので、万物の根源というか、大元は純粋経験だというふうな話なんだけど、
ある種この本を理解するためには、純粋経験って何?っていう話と、
それが真の実在であるとか、それで全てを説明できるってどういうこと?っていう、
この2つを理解できれば、もちろんいろんな他の話もあるんだけれども、
大きな話とか、その純粋経験とは?っていうことが理解できるように思ってます。
はいはいはい。なるほど。
なので、この2つを今回ちょっとお伝えしていくんですけど、
ちょっと今回と次回ぐらいかな。
はいはいはい。
じゃあ、あれか。いわゆる前、古代の儀社、哲学の時とかにやった、
タレフだというか、万物は丸々ゲームを作ったのって。
あ、そうだね。たまたま水であるってことを作って。
そういう感じの、万物は丸々ゲームに西田さんも最初参加したよ、みたいなイメージでいいのかな。
そうだね。そういうふうに言ってはいないけれども、土台としては同じと思っていいと思う。
ほうほうほう。なるほど。
それとなら、万物は丸々だって言った時の純粋経験っていうものが、
水とか火とかさ、変化とかでもいいんだけど、ちょっと分かりにくいじゃん、この純粋経験っていうものが。
そうだね。原始とかと同じくらい分かりづらいから。
そうそうそうそう。なので、ゲームにはあるんだけど、結局この純粋経験って何よっていう、
こっちの方に力点が置かれてるっていう感じかな。
昔の人は万物とは火である、水であるってそっちに力点が置いてたじゃない。
そうか、アトムであるで、別にアトムとは何か自体には切り込んでないもんね。
そうそうそうそう。一定切り込んではいるけど、やっぱりその純粋経験とはっていうところが重要になってくるっていう感じかな。
なるほどなるほど。
うん。
分かりました。
ただね、純粋経験と何かっていうのを理解するのって、実はそんなに、
これまで最絶ラジオを聞いていただいている方からすると、そんなに難しくないかもなと思っています。
頭で理解するのはね。
どういうことかっていうと、
ミシャさんが言うには、純粋経験というのは純粋と経験というのはもちろんくっついている言葉なんだけれども、
経験とは何かっていうと、彼曰く、事実をそのままに知ることだっていうふうに言うんだよね。
事実をそのままに知ること。
で、何だろう、事実ってまあに見ながらじゃなくてこうなってくると。
そうね。
で、ちょっと分解していくんですけど、
普段ね、僕らが経験するっていうことを考えると、
それこそさ、何だろうな、リンゴを見るとかでもいいんだけど、
ということを言ったときに、いろんな前提とか判断が入り込んでいるねっていうふうに考えるんだよね。
例えばさっきのリンゴ、私がリンゴを見るって言ったときに、
これで事実そのままな気がするじゃない。
そうね。
私がリンゴを見てるんです、これ事実です、見たんですみたいな話なんだけど、
でもミシャさんに言わせると、
そもそも私がいるとか、リンゴがあるとか、
私とリンゴというものが分かれている存在であるっていうことも、
実はいろんな前提だよね。
要は無意識にそれを前提しちゃってるなっていうふうに考えるんだよね。
はいはいはいはい。
ちょっと二言論的なまさに世界観だよね。
うんうんうん。
これがいわゆる事実をそのままに知ってるわけじゃないじゃんっていうふうに言うのがミシャさんの主張ですと。
なるほどね、はいはいはい。
なんとなくわかる?
イメージはどんどんアンラーニングさせられてる感じがするよね。
そうね。
まさにタマネギの皮剥いていくと、
私がリンゴを見たっていうものも実は事実そのものじゃなくて、
私がいる、リンゴがある、
それも事実じゃなくて事故を剥いていく感じね。
そうね、私この辺で言うとそれこそ近代の西洋哲学というかさ、
そういうのとまだリンクされてる感じがするよね。
あーそのデカルト的な話かな、二言論的な話?
例えば関東のもの自体じゃないけどさ、
はいはいはい。
そういうのとちょっと関東としてはね、
物事の意味を勝手に捉えてしまって、
物自体があるみたいな、
それも二言論的ではあるんだけどみたいなところが不具合になる。
そうねそうね。
やっぱりそういったまとわりついているものというか、
出来事、リンゴを見るということにもいろんなものがまとわりついているから、
それを探していきましょうというところはちょっと似てるんだけれども、
西田さんも何て言ってるかっていうと、
私がこれを感じているか、
そういう考えがないだけじゃなくて、
例えば色とか音とかってあると思うんだけど、
純粋経験の概念
それも何であるっていうか判断、
それすらもう加わらない、
その前っていうものがいわゆる事実のままなんだっていう風に言うんだよね。
だからリンゴは赤いとかっていうのも、
それも西田さんからすると事実ではなくて、
赤なら赤しかないというか、
赤って言った瞬間にもう事実から離れちゃうんだみたいな、
結構そういうふうなところまでいってます。
赤という色ですらってことだよね。
そう、色ですら。
っていう風に、これはやっぱり経験というかちょっとわかりにくいんで、
純粋っていう、よりフィアなというか、
まさに色んな皮を剥いたものとしても、
純粋なものっていう意味で純粋経験という風に言ってるんですよね。
なるほど。
さっき早いとおいた玉ねぎを皮を剥いていくというと、
どこまで剥けばいいんだっていうのが今わからない状態だね。
全部剥いてなくなるまで剥くんですけどね。
でもね、結局これやり始めると何もなくなっちゃうんじゃん。
そうそうそう。まさにそこが面白くて。
これは次回また話すんだけど、
実在って言ってるのに、実体はないとかってことを言い出すんだよね、西田さんは。
仏教のほうの禅にハマっただけあるよねっていう。
実在との関係性
そうね。
結局言って、仏教界とかも聞いてくださる方からすると、
確かに空みたいな話でないけどあるとか、
実体がないということ自体が存在を生み出すみたいな、
それが頭ではわかんなくても、
言葉としてそういう言い回しもあるよねとか、
なんとなくそういう世界観があるよねっていうところは、
イメージ、ギリギリ受け入れていただけるんじゃないかと思うんですよね。
もうちょっと言うと、西田さんから言わせると、
私がいてリンゴという対象があるみたいな、
そういう二言論的な考え方になっちゃうんだけど、
これはいわゆる知識とか、
何かをまさに知るみたいな図式においては重要だと。
それ自体は否定したわけじゃないんだよね。
否定したわけじゃないんだけれども、
それもやっぱり事実というよりは、
一個の人工的な理説であって、
地の実在というものは、
そういうもっと視覚、身分というか、
それが二言論じゃない、一言論の世界から出てくるものだなという風に考えていきますと。
はいはいはいはい。
なのでもっと言うと、地の世界、
僕らが何かを見たり聞いたりする世界っていうのは地の世界で、
二次的な世界なんだよね。
で、一次的な世界は何っていうと、
まさに純粋経験の世界で、
その主客身分とか、
物が相応とかって言葉もあるんだけど、
物が我、物と我っていうのがお互いに忘れていることなので、
要はお前が俺で、俺がお前でみたいな世界観?
うん。
っていう風に、要は自分と相手とかも、
ないとこでは繋がっているよねとか、
大きな意味では分けることができないよねっていう風な経験を、
純粋経験って言っているんですっていう感じなんだよね。
うわー、すごいむず。
むずいか。
やっぱりむずいね。
意味がすごい広いのか、
大きいのか、
広いのか、
たまえぎの皮を剥いて何もなくなった状態を説明しているから、
いろんな説明をすると、
ある意味収集がつかなくなるというか、
逆に言うと道徒でも説明できるというか、
そういう難しさがあるなって感じ。
そうだね、本当に。
それはその通りで、
純粋経験とはみたいなことをいろいろ言うんだけれども、
明らかに矛盾してるじゃんみたいなことも言ってたりするらしいんだよね。
西田さん自身が。
西田さん自身が。
全の研究って本の中にあるんだけど、
純粋経験って今言ったような色とか、
形とかのその前だから、
そこには意味もないとか、
いわゆる本当に、
ただ意識だけがあるんだみたいな感じの言い方もするんだけれども、
そうなんだ。
でも別のところでは、
判断っていうものも純粋経験ダメってことを言ったりするんだよね。
そうなの?
判断って言っちゃうと、
私が何かがあると判断するみたいな、
そういうものを想定しちゃうじゃない?
そうだね。
意識だけがあるとかって言われると、
ちょっと有意識的な感じで、私とか物とかって言うよりも、
先に意識があるのかなっていう風にイメージ湧くんだけど、
判断とかって言われちゃうと、
誰が判断するの?その主体は?とかってやっぱりなっちゃう時に、
でもどっちも純粋経験ですって言ってるんだよね、西田さんは。
純粋経験と、
何かその、
地というか、
人間的な、人工的な世界を
繋ぐものが判断とかじゃなくて、
その判断ってものが純粋経験側にあるって言っちゃってるんだ。
どうだろうね。
そこの西田さんの
考え方というかね。
正しく言うと、
これは次回またちゃんとお伝えするんですけど、
純粋経験が実在であるっていうことの話と、
その純粋経験と実在を使って
世の中を説明するっていう、
いわゆる2ステップで描いてるんだよね。
なので、
今日の話はどちらかというと、
純粋経験が実在であるとは何かって話をしてるんだけど、
主客関係の再考
土台の話です。
西田さんの世界観の話ね。
世界観の基礎の話か。
そこからどんな世界が立ち現れますかっていうのが、
まさに世界を説明するっていう話なんだけど、
判断も
純粋経験の中にあるって兄貴の言い回しは間違ってないんだけど、
どっちかっていうと、
純粋経験ってものを突き詰めて考えていくと、
判断ってものもその働きから説明できるとか、
導き出せるみたいな、
そんな風な考え方なんだよね。
なので、
純粋経験ってものが何かみたいな話をしていくと、
今日お伝えしたような、いわゆる
色でも音でもない、その手前にある経験だみたいな。
わー、でも
そっか、面白いね。
もう覚えてないんだけど、ちゃんとは。
関東のもの自体だよね。
自分の外だよね。
外というか、
何か外に真っ白な、
まだ何の意味も何もないものが、
あるっていう感じとは、
違うんだね。
ものがあるというか、経験っていう言葉を使ってるから、
そこの捉え方みたいなものは、
ちょっと違うのかなと思う。
それはね、まさにいい話で、
関東のもの自体とかは、
明確に否定されるんですよ。
西田さんの手伝う中では。
実在とか存在って言葉を使ってるんだけど、
いわゆる
本体というか、
そういった
普遍的なもの?変わらない永遠的なものがある?
っていう風には言わないんだよね。
どっちかっていうと、
まさにリンゴと見た瞬間に、
リンゴという存在が
立ち現れてくるとか、
自分という存在も立ち現れてくるとか、
そういう風な考え方に近いですと。
純粋経験から世の中を見るっていうのは、
まさに固定的なもの?
もの自体みたいな、
何者とも関係しないものがあるっていうことじゃなくて、
世界は関係している?
つながっている中で、
経験したものが立ち現れてくるとか、
経験という作用の下に、
いろんな世界が生み出されていくみたいな、
そういう風な発想なんだよね。
その感覚は多分今回の話で伝わってきた気がする。
その違いというか、
自分と関係ないものが世の中にいろいろあって、
それを解明していくとはちょっと違くて、
どうしても日本人的な、
善とか仏教的な、
ある意味ないもないんだけど、
自分もないんだけど、
センサーみたいなものがあって、
そこから立ち上がってきたものは、
ないんだけど、
自分の中で意味付けされていくという意味で存在し得るというか、
理解はされるみたいな、
その中でも実生活みたいなものはもちろんあるよねっていう、
感覚が、
西洋哲学っていう感覚の中で、
こういった説明をなされていくっていう感覚は、
確かに新しい気がして、
面白いなと思ってきた。
なるほどね。
そこまで関心をもらえるのもありがたいなって思っているのと、
本当に今言ってくれた通りで、
なんていうのかな、
いわゆる優位心論とか、
いわゆる意識しかありませんって言えば近いんだよね、
考え方としては。
意識だけがあるとかって言った時に、
意識って何とかって、
そっちには行かないんだよね。
そっちに行くと結局は、
哲学的なものっていうよりは、
一個の説明をまた新たに作るという風になっちゃうから、
そういう仏教的なことっていうよりは、
意識があるかどうかとは一旦置いといて、
むしろないっていう風にするんだけど、
まさに働きがあるところに、
意識と呼べるものが立ち上がってくるよね。
意識があるところには、そういった物事を判断するとか、
見るとか聞くとかっていう風な、
知覚っていうものが立ち現れてくるよねっていう風に、
事実つなぎみたいな感じなんだけれども、
どんどんどんどん現れてくるっていう風な考え方なんだよね。
その根底にあるのが、
純粋経験。
つまり、何かを知るとか聞くとかっていう手前にある、
まさにその瞬間何かに触れたとか、
何かにキッチしたみたいな、
そういうものを考えましょうよっていう感じなんだよね。
確かに。
すごく確かに、
優意識とか、前やった柔に演技的な、
あれちょっと違うかもしれないけども、
それとしては近いものを感じるね。
だからさっきも言ったけれども、
今回もちろんまだこれからどんどん積み上げていくというか、
話だとは思うし、
純粋経験は何かっていうのは、全然朧げなイメージしか、
もちろんあれなんだけれども、
日本人が、
西洋哲学を、
自分なりの課題とか、
そういうのを持ってやっていくっていうのも、
一つの例というかね。
もちろん一番有名人というのはあると思うんだけど、
そういう部分が今回感じられ始めて、
面白くなり始めたなって思う。
なるほどね。
確かに今に聞いて感じたんだけれども、
どうしてもやっぱり西洋哲学って、
特に最近古代技術とかをやってたからさ、
そもそも世の中がどうかとか、
自分よりは世の中が、
火とか水とかいろんなものがあって、
それによって説明し得るみたいな話だと思うんだけど、
やっぱり西田さんってどこまで行っても、
まずは自分の生活とか、
純粋経験の概念
自分の捉えたものっていうものから考えてるんだよね。
これはどっちかっていうと、
西洋でいうと現象学に近くって、
フッサールとかにやったと思うんですけど、
自分が見えてる世界っていうところから、
世界全体を考えていこうとか。
なるほど。
関東とかじゃなくて、現象学を思い出さなきゃいけないからね。
もう忘れちゃったみたいな。
一本やったし、だいぶ前だからね。
フッサールの現象学ね。
フッサールとかの現象学。
例えば影響を受けた人とかで言うと、
マッハとかっていう。
音則をマッハとかって言うじゃん。
マッハさんが哲学者でもあるんだけど、
それを大になった人が。
大になった人が。
その人もほとんど現象学的な考え方をしてた人で、
結構その人の影響とかも受けてるよとか、
その流れも学びつつ、
自分も独自のことを言ってるよとかっていう記述があるんだけど、
西田さんもそういったものを受け取る中で、
逆に言うと、
それで多分自分の向き合ってきた、
東洋的なものとか、仏教的なものとか、
自分の人生をどういうふうに、
ある種、説明していくかっていうことの、
土台がつくるって思ったんだろうね。
うん。
なのでそういうところで知見も変わりつつも、
独自の純粋経験っていうものを作って、
考えていきましたっていうのが、
今日お伝えしたかった純粋経験とは何かっていうところを、
本当に触りの話っていう感じなんですけど、
今日もお伝えした通り、
セットで純粋経験を元に、
世界をどう説明するんですかっていう、
こっちはより大事になってくるんだよね。
なので、次回そこをもう少しちゃんと、
説明していく中で、
そもそも純粋経験って何だったんだっけってことも、
より見えてくるかなと思うし、
まずそれによって、
純粋経験こそが実在で、
世界を説明するっていう時に、
実在って物っぽい感じだけど、
実在と経験が一緒って何よとか、
そういうところをもうちょっと、
よりちゃんと理解していきましょうという風に思っていますって感じですね。
よかった。そうだよね。
今回純粋経験おぼろげだなと思ってたけれども、
これで純粋経験終わりってわけじゃないのか。
ではないです。
あくまでもちょっと導入の一部って感じ。
そうだよね。
純粋経験イコール実在だからさ、
なんでってなるじゃない?
というところは、
次回またもう一回分お話する中で、
一つ目の重要なテーマである、
この純粋経験ってのは何かというところを、
一緒に学んでいきたいなという風に思っていますという感じですね。
分かりました。
では次回、久々にこの哲学な感じを楽しみながら、
西田さんの話を楽しんでいきたいと思います。
話を楽しんでいきたいというところで、
次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
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