臓器移植と生の価値
皆さん、おはようございます。ソプラノです。
2021年10月20日、水曜日。
どんな朝をお迎えでいらっしゃいますでしょうか?
彗星逆光が明けた満月、どんな一日になるでしょうか?
今日は、朝からちょっと重たいタイトルを付けさせていただきました。
昨日、いつも通りフィンネイさんの朝ライブの後、
あの限界突破の玉城さんのライブアーカイブを聞いていて、
どうしてもちょっと気になったので、お話をしたいと思いました。
そこでは、息子さんのご病気のお話、助かる道として、
臓器移植という選択肢について話をされておりまして、
そこで、移植を待つ行為は、人の死を待つ行為ではないかという話が出たんですね。
私は、それは違うかなと思うんです。
その移植、臓器提供される子っていうのは、
自分の持っている臓器が、誰かの命をつなぐ、一つの命を救うことになるので、
それはそれで、その子の生まれてきた意味というのがますます大きくなるというか、
一人の命を救うということのすごさっていうパワーもあるし、
お養子さんにとっても、どこかでその子の臓器が生き続ける、
誰かの命を支えているということで、救われるのではないかなと思いました。
あと、臓器移植というのは無理に生かす行為になるのではないかという話も出ていました。
本来なら亡くなる命を、発達しすぎた文明の力によって無理に生かすことへの疑問、
その疑問は私も同意。
とても第三者的で冷たく感じるかもしれないですけれども、
私の考え方としては、その疑問というのは共感できるものですね。
生まれ持ってしまった病気については、やはり遺伝子のエラーというのが一定の確率で起こっているものだと思っていて、
それは生物の進化には欠かせないエラーであって、
今この環境下でその遺伝子が活かされるのか、エラーが活かされるのか、
そのままタイミングが合わずエラーとして過ぎていくのかというのは巡り合わせではないかなと思います。
ただ、動物の進化はそのエラーがなければ起こり得ない重要な営みだというふうに思っています。
次にお話ししたいのは、前にフィンソンの朝ライブでお話ししたんですけれども、
やっぱり息子さんは、今その彼女玉城さんを選んで生まれてきた。
玉城さんが今思考を重ねていることで、そのこと自体に彼が生まれてきた価値があり、
どんどんその意味が深まっているのではないかなというふうに考えました。
私が息子さんの立場なら、自分のためにパパやママが悩む姿を見たくないなというふうに思うのではないかな
ときっとそんな姿は見せていらっしゃらないと思うけれども、どんなに隠してもきっとなんとなく伝わってしまうということで、
ご自身でもおっしゃっていらっしゃった通りに、自分が決めるしかないということですね。
何だか本当に偉そうに自分がその状況になったらどうかなんて思いもよりませんけれども、
私はちょっと時間がかかるというか、レスポンスよくコメントを打ったりするのがちょっと、
答えを出すのに時間がかかるかなと思うので、朝聞いてからずっと気になって気になって気になって、
コメントを玉木さんのライブのところに入れようか、レターを送ろうか、
やっぱり1日考えるほどのインパクトをいただいたので、何らかの方法で発信をすべきかなと思い収録をいたしました。
命の探求
これがご本人の耳に届くか届かないかというのはご縁なので、
必要であれば届くし、必要でなければ届かないということかなと思い、私らしい発信方法で発信をさせていただきました。
肝心のその時のテーマ、生きることの意味、自分が生きていることの意味って何ですか。
玉木さんはずっと自分で問いかけていて、自分自身で問いかけていて、自分での定義も持っていらっしゃる。
私はどうかというと、もう全然そんなことわからないんですけれども、私の考え方としては、やっぱり
命、植物であり動物であり人間でありって考えた時に思考することに特化しているっていうのがやっぱり人間ならではと思うんですよね。
そんな悩みを持つのも人間しかいないと思うんですよね。
だから、そうやって悩むことこそが人間なんだなということで、そこに答えを求める意味があるのかななんてこともずっと考えておりました。
私が玉木さんの役のお話を聞いた時に、客観的に外から見て、息子さんの生きている意味、価値がそこに存在するというふうに見えるので、
逆に言うと、そんな価値、生きている価値なんて自分では結局わからない。
他人からこそ見える。でも、それを探しながら生きていくっていうことなのかなというふうに思いました。
ここまで話をして、本当にこれを配信するかどうかは、また何度か聞き直して決めたいと思います。
それでは最後までお聞きくださりありがとうございました。
今日も素敵な一日にしていきましょう。