習慣の歴史的考察
おはようございます、モロトメ ジョーです。
今日もチャレンジしてますか?
今朝も散歩をしながら収録しています。
時間は5時25分です。
横浜はよく晴れていますね。
しかも気温が朝からだいぶ高めでして、
今日の日中は27度まで上がるということなので、
本当にもう夏なのかなというような感じですけれども、
良い週末をお迎えくださいということで、
今日は土曜日なので、少しゆるっとしたお話をしてみようかなと思います。
テーマとしては、習慣は何千年前に始まったのかということで、
このチャンネルでは普段習慣をテーマに話をしているわけですけれども、
その習慣について、一体いつから人は習慣、
そういったものに関わってきたのかみたいなお話ですね。
少し昔話みたいなところもありますけれども、
ゆるっと聞いていただければと思います。
なのでいつもとは違った角度から習慣についてお話ししてみようということです。
さてと、僕たちが普段、
例えば早起きが習慣ですとか、読書を習慣にしています。
そんなことを言うと、どうしても現代的な部分、
現代的な自己啓発っぽさみたいなものありませんかね。
でも実は、習慣が人をつくるみたいな考え方、
習慣、自己啓発みたいな考え方は、数千年も前からすでにあったということなんですよね。
今日はそんな習慣の歴史をたどってみようということでして、
ちょっとだけ、最終的にはちょっとだけ、今の自分に誇りを持てるような話になるかもしれません。
まず紹介したいのはということですけれども、
およそ2400年前、古代ギリシャの哲学者アリスト・テレスさんの言葉です。
私たちは繰り返し行うことの習籍である。
だから卓越性とは行動ではなく習慣なのだと。
少し長いのでもう一回読みますね。
私たちは繰り返し行うことの習籍である。
だから卓越性とは行動ではなく習慣なのだと。
これはものすごく深いよなと僕は思っているんですけれども、
つまり何をするかではなくて、何を続けているか。
それが人、その人そのものなんだということをアリスト・テレスさんは言ったわけです。
今僕たちが、例えば朝散歩を習慣にしていますといったとき、
それはただ健康のためということではなくて、
自分がどういう人間でありたいかの表れであるかもしれない。
そんなことを言っているわけですよね。
そういう意味では深いと。
何をするかではなくて、何を続けているかがその人そのものなんだと。
そんなお話でした。
東洋の習慣観
続いてということですが、ローマの哲学者セネカさんの言葉ですね。
だいたい2000年前くらいということになりますけれども、
運命は私たちの行いに従って形を変える。
習慣を支配できるものこそ真に自由な人間であると。
もう一回言ってみます。
運命は私たちの行いに従って形を変える。
習慣を支配できるものこそ真に自由な人間であるとセネカさんは言ったわけですね。
今お話ししたことというのは、
端的に言うと、習慣イコール人格イコール運命みたいな考え方なんですよね。
しかもセネカさんは、
感情に流されるのではなく、習慣によって心を整えるべきだとも言っていたと言います。
もうこれって今のメンタルハック的な考え方と同じじゃないですかということなので、
驚くべきことに2000年前、セネカさんでいえば2000年前、
先ほどのアリストテレスさんでいえば2400年も前に、
習慣に対する自己啓発みたいなものは始まっていたということなんですよね。
今と変わらんじゃないかということになります。
では今までは西洋の話だったんですけれども、東洋。
こちらの方に目を向けるとどうなるか。
中国の孔子さんいますよね。有名ですよね。
孔子さんの思想も似たようなものがありました。
時代でいうと2500年くらい前になるかと思います。
儒教でいう礼という考え方なんですけれども、
これは人として美しくあるための日々の振る舞い、これは習慣の連続だと、
そんな教えなんですよね。
儒教の例なんですけれども、
人として美しくあるための日々の振る舞いというのは、
習慣の連続だよねと、
ですから良き習慣、良い習慣を持つことが良き人格、
その現れなんじゃないのと、
そういう価値観は東西問わずずっと受け継がれてきたということになります。
西も東もということですね。
さらに仏教、ここにも興味深い考え方がありますよということでして、
仏教もだいたい2500年前くらいかと思いますけれども、
カルマという概念、聞いたことあるよということかもしれませんが、
カルマというと運命とか、あるいは報いみたいなイメージがあるかと思いますけれども、
実は本来と行為、行動の積み重ね、それを意味する言葉らしいんですよね。
つまりどういう思いを持ってどんな言葉を使ってどんな行動をとるか、
それを繰り返すことで未来が形作られていくんじゃないのと、
つまり今やっていることの繰り返しが未来の自分を決めるんだと、
これもまたまさに習慣の本質じゃないですかということで、
儒教並びに仏教、この2つもまた習慣を促しているという部分で共通しているわけですよね。
こうして振り返ってみるとと、昔、大昔を振り返ってみるとということなんですが、
今僕たちが何気なく繰り返している習慣と呼んでいるもの、習慣として日々繰り返している行動、
これは人類の何千年もの歴史の中で大切にされてきた人間らしさそのもの、
そういうことなんじゃないかなと僕は感じているわけです。
例えば朝に散歩をする、朝にメモ書きをする、あとは僕の場合はこうして音声配信をするとか、
そういう小さなことにも実は深い意味があるし価値があるんだと、
習慣は未来の自分を作るだけではなくて、過去の誰かともつながっているのかもしれない、
若干ロマンチストかもしれませんが、そんなふうに思ったりもすると、なんだかちょっと誇らしく思いませんかというお話ですね。
少しロマンありませんかと、何千年も数千年も前、
同じように習慣を、自分の糧として生きていた人たちと同じように今僕たちは習慣を重ねているんだと、
その大昔の誰かとどこかでつながっているんだと思うと、
同じ人類、同じ世界を生きてきた者としては少し誇らしく思ったりもできるんじゃないでしょうかと、そんなお話でした。
というわけで今日は、習慣とはそもそも何千年前からあるのかというようなテーマで、
習慣の根っこを探ってみたということになります。
自分の行動の中、日々の行動の中に数千年前の誰かとつながっている線があるかもしれない、
そんな風に思えたら、今日という日もちょっと特別になるかもしれないですよね。
というわけで、これから週末が始まっていきますけれども、
良い週末を迎えるとともに、この後も良いチャレンジを。また明日。