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2024-09-24 20:56

77 十年前の自分との比較について(前編)

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サマリー

このエピソードでは、自己の過去を振り返り、10年以上前の自分と現在の自分を比較しています。具体的には、映像や記録が限られている中で、過去の経験や記憶が自己認識にどのように影響を与えるかを探求しています。また、自己発信の困難さや知識を得るために読書をする理由についても掘り下げています。さらに、過去の自分との比較や変化の少なさについての思考が展開されています。

過去との比較
こんにちは、上水優輝です。 長崎優輝です。
さて、今日は10年以上前の自分との比較について話していきたいと思います。
はい。 なんですか、これは。
これはですね、映像編集を最近よくやっていて、昔のサッカーのプレイのシーンとか、いろんなシーンをちょっと
振り返っていることが多いんですけれども、10年以上前となると、残っている映像っていうのは結構限られてくるんですよね。
そうですね。スマホが多分10年前、ちょうど10年前ぐらいからだいぶ復旧しだしたから、10年ぐらいはあるけど、10年以上前になるとかなり減りますよね。
結構振り返ってみることが多くて、今の昔のサッカーとどう違うのかっていうのを比較したくて、結構情報が漁っているんですけれども、
その映像が残ってない場合に、
その10年以上前のことと、じゃあ今のことっていうのをどういうふうに比較していけるのかっていうところですね。
それをちょっと話してみたいなと思いまして。
それは10年以上前の自分でいいんですか?それとも。
自分でもいいですし、そのある事柄だったり、ある現象だったり。
なんかね、ある現象についてってなると、多分いろんな研究者の人とかもね、それこそ歴史とかいろんなところではやってると思うんで、なんか手法があるんだと思うんですけど、
自分とってなるとね。
自分のプレイ。
ねえねえねえねえ。ってなると、歴史的な、本当に資料がないっていう状態ですよね。映像だけでなく、いろんな資料がない中でってことですよね。
はい。保存方法があまりなかったじゃないですか、デジタルで。過去に。
で、そのデジタルの保存がない状態で、もしかしたらアナログで残ってるね、写真とかあったりすると思うんですけど、ビデオレコーダー、ビデオレコーダー、VHS、なんでしたっけ?
VHSとか残ってるってこともあると思うんですけれども、そういう動きとかをチェックするときに、そういうのがないと非常になんか、分析しづらいなって思うこともあるし、
あとその、自分の思想とかもそうですよね。
ああ、なるほど。
残ってないものとかも結構あるじゃないですか。私の場合は結構書いてたので。
それでかい。それでかいよ。残ってる。
書いてたので、ノートに残ってるってのがあるんですけど、それがない場合に、結局なんかその自分の記憶の範囲内で思い出すしかないじゃないですか。
でもそれって正確じゃないじゃないですか。
結構捏造されますよね、自分の中でね。
ですよね。捏造疑惑が出るじゃないですか。
そうなってくると、正確な分析ができないなって思って。
正確な分析はできないんじゃないですか。もう資料がないと。
そのやり方として、今から考えますけど、いろいろ。
けど、正確な分析はまずもうできないんじゃないかな。もうない。
でもできるだけ正確に分析するために。
ない中でやるためには、そうですよね。
そうだね。
人に話を聞くってのも一つあると思うんですけど。
でもその人の記憶も曖昧じゃないですか。
そうなんですよ。
その人に聞くを、いろんな人に聞けたら、その平均にありそうな気がしますけどね。
アベレージには多分当たりますよね。
だいたい同じようなことを言っている人が、まあ何人かいるみたいなのは出てくると思うんですけど。
そうそう。多分人の話を聞くぐらいしか、要は記憶装置が脳の中にしかないみたいな状態だと思う、資料がないというのは。
だからその記憶がありそうな複数人に話を聞いて、おそらく平均的なところに、まあぼやーっとするけど、ある程度平均的なところにありそうだな、みたいなのが、
もっとも、正確でちょっとむずいけど、妥当な感じはするよね。
卒業文集とかって書きましたか。
書いた。
けど捨てたと思う。
あー、捨てちゃったんですか。卒業なんかアルバムになんか、書くじゃないですか、一人一人なんか。
これって地域ごとによるんですかね。
いやいや書くんじゃない、卒業文集みたいな。まあか、何書いたかな。あれも短歌とか書かされた気がする。あの作文じゃなくて。
はいはい。
それは私も覚えてますね。短歌、俳句、俳句でしたっけ。
俳句、語種語?
あの、記号が入ってなくて、語種語ですね。それで、まあ小学校6年生の時に書いた記憶があって、それは今日、今でも精密に覚えてるんですけれども、その書いた内容が、
なんだっけな。
あ、ちょっと、最初の語が出てこない。
なんとかの、
見すぎ姿でだっちゅうのってのが書いてあった。
最初の語が出てこないんですけど。
なんで卒業の文集で、あれパイレーツでしたっけ。
パイレーツだ、パイレーツ、水着姿でだっちゅうの。
テレビでめっちゃ流れてた時代じゃないですか、たぶん、僕たちの世代だから。
なのかな、それが廊下に貼り出されてたんですよ。
ただなんでそれを書いたのか、全然わかんないです、そういうの。
でもそういうのが残ってるし、それは妹の証言もあるんで。
妹も同じ、やっぱり小学校だったんで、
何お姉ちゃんこんなの書いてるの、みたいなこと言われた覚えがあって。
そういうのとかを振り返ると、この時から私のキャラクターは変わってないんだなっていうのは、今と。
小学校6年生の今と。
表には出してなかったけど、あまり。
とかっていう、そういう記憶が残ってるじゃないですか。
そうか。
なんで書いたんでしょうね。
真面目なんとか絶対書いてやるかって思ったんですかね。
たぶんそれもあったと思う。
だから、真面目に見られるのは結構嫌だったっていうのがありますね。
小さい頃から。
真面目じゃなきゃいけないみたいな。
それはもう変わんないなーっていうのもありますね。
ふざけたい。
ふざけたかったんだなって、小学校の時から。
ふざけられなかったんだな、かわいそうだったんだなって。
50年以上前の自分をね、見てね。
人の性質って変わんないんだなって、生まれた時からあんまり。
それはそうかもしれないですね。
僕もこの歳になって、改めて思いますもんね。
落ち着きがないもんな、ずっと。
過去のことを知る必要ないじゃんって思ってる人とかいますよね。
確かに僕も昔はそう思ってたかもしれない。
10年ぐらい前はそう思ってたかもしれない。
だから、たぶんそっつあるとか焦ってたんだもん。
私も20代の時は、過去なんか振り返ってないで、
先ばっかり見てるほうがいいだろうみたいな思ってた時代があったんで、
過去は過去だし、みたいな。
なので結構過去を捨て去るタイプだったんですけど、
30代に入ってから、より過去を振り返るようになったんですよね。
今のことをより深く知るために。
できるだけやっぱり深く知りたいから、
こと自分のことに関しては。
で、最近その振り返りの作業をね、より深めてるんですけれども。
資料がないと。
変化と持続性
資料がない。
ダッチューのしかなかった。
ダッチューのしかなかった。
いやでも、小学校とかほんとないですよね。
言われるともう、何年前だったかじゃもんな。
ないな、資料は。
作文とか、書いてたなーっていうのが思えてますけど、
だいたい卒業文集って、みんな将来の夢とか書くじゃないですか。
はいはい。
私それを書いた記憶がなくて、
戦争反対について書いてたんです。
ソツアルデ?
ソツアルデ。
小学校6年生で。
すごいピュアだなって思いながら、
その頃から世界平和について考えてたのかって思うけど、
そんな心が今もあるかって言ったらどうなんだろう。
でもギャップがすごいよね。
世界平和について書いてるけど、
あの戦竜ではダッチューに乗って書いてるでしょ。
ギャップって感じ。
今から10年後って考えた時に、
今のことって残るものが結構多いじゃないですか。
多いですね。
で、10年後じゃどのような保存システムができてるかって、
ちょっと想像できないですけど、
けど、
なんかその記憶掃除システムが増えたことによって、
あまり変化が見られなくなっていくんじゃないかなって思ってるんですよ。
それは何か思い出せる範囲、記録に残ってるものが増えることによって、
そこからはみ出ない人が増えてくるんじゃないか。
わかりますか。
過去の自分のイメージにとらわれるってこと?
うーん、何て言うんだろう。
はみ出なくなる。
ちょっと違うな、なんか。
ちょっと言葉にできないです。やめます。
いやいや、ちょっと気になります。
残っていくと、そこからはみ出られなくなるのは、
自分自身がそうしてるんですか?
それとも周りがそうしてるんですか?
イメージ。
うーん、周りかな。
ああ、という人ですよね、みたいなイメージで接してくるから。
イメージがついちゃうから、そう。
自分自身がそのイメージ、それを押し付けられている中で、
変えづらい、より変えづらい状況に。
そう、より変えづらくなるんじゃないか。
あなたってこういう人ですよね、っていうのを決めつけられている社会の中でも、
ポジションがあるから、
なんか、ですよね。ああ、それはあるかもしれない。
ガラッとは変えづらいかもね。
そう。
こんな感じになっているんじゃないかっていう、
なんか今とは変わらない世界がそのまま10年後もあるような気がしていて。
そこまで大きな変化なく。
うーん、そうね。
もう既に僕ちょっと手遅れですけど、やっぱり、
過去何を言ったかが残っているっていうことは、
だから、小学校の時とかひどいこと言ってる可能性があるけど、残ってないじゃないですか。
高校生とかもそうですよ。残ってないんですよ。
でも、少なくとも、ポッドキャストを始めた4年前ぐらいから全部残ってるから、
そこでこういうこと言ってるとか、10年後とかに言われても、
10年前の自分はそう言ったんだねって、僕からしたらそんな感じなんだけど、
人からしたら違いますからね。
人からしたら僕が、同一の僕が言っているとなるから、
まあ、そういう意味でも、変えづらいは変えづらいですよね。
むしろ、なんか変えない方がいいのかもしれないなって思うんですよ。
ほうほう。
その10年前の残っている自分の価値観が、
10年後に違う見方をされることがあるじゃないですか。
その人々の価値観が変化することによって、
その10年前の自分の価値が変化するみたいな状況になるので、
だから、同じままのスタンスで生き続けることのほうが逆に大事なのかな。
確かにね。
それを残し続けるみたいなことのほうが重要。
そうですね。コンセプトがしっかりあって安心するようなことであれば絶対そうですよね。
それを貫き続けるほうが、むしろ年齢として説得力が増してくるみたいなところもあるだろうし、
10年間言い続けてるなとかがまた説得力になるとかのはありそうですよね。
だから、急激に何かが変わる人っていうのはあまり出てこないとは思うけれども、
自己発信の難しさ
世の中的な価値っていうのがどんどん変わっていくじゃないですか、やっぱり。
今のままでも変わってきてるし、いろんなことにおいて。
だから、そういう現象が繰り返されるみたいな。
急激に何かを変えちゃうタイプの人いるじゃないですか。
ああいう人って多分、実名でSNSやれないと思うんですよ。
やれないっていうのは、それこそ周りの目から見たときに、もう認識不可能な振り幅みたいになってるから、
なんだこの人ちょっと人格崩壊してるんじゃないかみたいに見られちゃうんですから。
見られちゃう。
多分、ものすごい旗から見てプレプレというか、みたいな人は結構相性悪い気がするね、今の時代。
どっちかって言ったら、ちょっとこだわり屋さんで、融通効かないぐらいの感じで、
同じことずっとやってるみたいな人の方が、発信さえ続ければ、説得力は日々高まっていく気がするから。
それができる人って意外と多くはないですよね。
多くないね。
発信、大変ですもんね。
大変、もう結構大変。
発信しながら自分もプレイするっていうのが一番大変だなっていうのは感じてて。
発信するのにインプットしなきゃ発信できないじゃないですか。
インプット量が枯渇してくると、アウトプットの質が一個に上がらないんですよ、解像度が。
だからそれを同時作業でずっとやるんだったら、発信することだけに全然不利したいなって思うし。
読書の目的
結構本を読まれるじゃないですか。
その本の内容って、どういう本を読むこと多いですか?
本当その時々のパッと気になったトピックだったり、もしくは意外と多いのが、
友達がススメてる本とかを、ススメてるってのはSNSにつぶれてる本とかを面白そうとか思って興味持つこととかはあるかも。
それ目的って何ですか?
目的?
本を読む目的。
本を読む目的は、僕は実は知識を蓄えたいとかよりも、違う見方をしたいみたいなのがすごい欲として強くて。
会話でも意外と達成されることが多くて。
ただ本の方が、ある程度長い尺で主張をしてるから、より認識が変わりやすいっていうのがあって、
途中で認識を変える装置みたいな感じになってるかもしれない。
小説とかは読まない派ですか?
小説、僕苦手なんですよ。
私も苦手です。
読めないんですよ、小説。
最近はね、あれですよ、老子とかね、ハマってますね。
老子にハマってるし。
結構あれですね。
スタンダード。
そうそう。
で、友達が読書会やってて、その友達がやってる読書会の課題本とかを、別に読書会に参加してないのに読んでるとか。
読んでる?
この本面白そう、みたいな感じで。
それプラトンの本なんですけど、プラトンの本だったりとか。
あとね、何読んでるかな。
結構私もアウトプットの解像度を上げたいがゆえに読むことっていうのが多いです。
その目的がしっかりしてるというか。
過去との比較
新しいことを視点を取り入れたいから読むっていう感覚がなくて。
上水さん結構アウトプットめちゃくちゃしてるじゃないですか。
アウトプットめちゃくちゃ多いね。
その解像度が上がんないなって思うこととかってないんですか。
ありますあります。
全然上がんないからインプットする時間が取れてないなみたいな課題意識がめちゃくちゃありますよ。
インプットの量とか質とかを上げ続けても、自分の考えとなる思想の部分に変化ってのはありますか。ありませんか。
最近はもうね、ちょっとこれ課題だとも思ってるけど、あんまないですね。
ないんだ。
割と今、暫定的にって思ってるけど、世界が無意味であるという前提に立ち、
この前提、無意味だからこそ、出発点ね、これは出発点。
無意味だからこそ自分で意味付けをして、この世界をどう解釈するかを一人一人が選べるよねっていうスタンスで生きてるんですよ。
っていうか、世界って本来そうだよねみたいな。
それが積み重なって、なんか分からんけど、共同の幻想としてこの社会みたいなものが構造としてカチッとしてるから、
あたかもそれが世界であり、あるかのようになってるけど、そんなものは本当はないよねっていう前提にいるっていう。
なんかこれはもう、どの本を読んでも覆らないというか、
一意見になっちゃうというか、その無意味な世界の中に、世界をこのように切り取ったんだな、みたいな解釈の仕方になっちゃうから、
かなりそれを変えてくれるような何かがあったら面白いなと思ってるけど。
確かに。そうですね。本を印刷しようになって、この人はこういうことを言ってるんだな、この人の意見なんだなって終わっちゃいますね。
こういうことを前提にしてるから、こういうような考え方になり、このような人になるんだなとかっていう、
一つ一つの世界観として受け取るというか。
なんかその世界観が自分の世界観に影響を与えるみたいな感覚とかってありますか?
それは全然あります。やっぱり取り入れたいって思ってるんで、いろんなものを。
だから無意味だから何とでもなれると思ってるので、これ美しいなとか、
これってなんか自分が今まですごい窮屈に自分で自分のことをしてたな、
もうちょっとこういうふうに考えたら大らかなれるなとかって思うものはどんどん取り入れていくっていうスタンスね。
ツギハギになって結果オリジナルになってるみたいなやつだと思うんですよね。
だから下手に老子はこう言っててみたいな、あんまりその知的な引用をして言うことは僕は、
そもそも間違ってると思うし、ちゃんと研究されてる方からすると、
だからあんまりそういうことをドヤ顔で言うのは恥ずかしいと思ってるので言わないけど、
でも影響は受けてて、老子のこの一説からこのような影響を受けてこういうふうにしてみた、みたいなこととかはあったりする。
そういうことってわざわざ説明したりしますか?
しないしないしない。
しない。
本当にそうかもわかんないし、しかも。
そうかもわかんないってのは、老子がそう言ってるかわかんないってのも一つそうだし、
その影響だけなのかもわかんないから、他のことからも当然影響を受けてミックスしてそうなってるみたいな、
かなりその、なんていうのかな、本から影響を受けたと思ってるけど、
その本を読んでた時にそこが浜辺だったからそれがそのような影響になった、みたいなこともあるわけじゃないですか。
とかその時の精神状態としてこうだったからそれが刺さったとかもあって、
めちゃくちゃ変数が多いから、あんまりこれの影響でこうなりましたっていうのは思ってないかも、ピンポイントでは。
総合で。
その時のいろんな状態が噛み合って、一応その本っていうのがトリガーになりました、みたいなのがあるかもしれないけど。
わかります?ベントラップ。
わかります、はい。
ちょっと話変わるんですけど、結構その私、過去のインタビューとかを読んだりすることもまああるんですよ。
自分が何言ってたかって。
雑誌とかも残ってるし、そういうのをたまに見る機会があるんですけど、
そこで自分が言ってる言葉に対して、何言ってんだこいつ、みたいになる感覚があるんですよ。
こいつ誰だよ、みたいな。
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