異文化ビジネスコミュニケーション研修を行ったり、
ビジネス開発のサポート、およびトヨタ生産方式を専門とする工業通訳としても幅広く活躍中です。
特に、メキシコ・チアパス州のコーヒー生産者を支援するプロジェクトに携わり、
現地の人たちと一緒に改善活動や事業づくりを支援したのは大きな実績の一つです。
今もコーヒー生産者の共同組合で技術アドバイザーを務めるなど、
世界中の人々とチームを組んで成果を出すことに情熱を注いでいます。
さらに日本語はもちろん、スペイン語と英語も流暢に操り、
ハリスコ州最高裁に認定された公認の翻訳者、通訳者としても活躍、国境を越えて活躍するとてもグローバルな方です。
はい、それではリビーさん、まず最初の質問として、リビーさんが日本を離れたきっかけについてお話ししてください。
はい、私が日本を離れたのは、大学を卒業した半年後なんですね。
それはなぜかというと、やっぱりあの当時、私どもって基本的に世代的に氷河期の時代じゃないですか。
で、あの時って就職活動ってものすごくハードに3年生終わりぐらいからやってたでしょ。
なんかそれを見て、私はあれについていけなかった。
周りにいた同級生っていうのがものすごく優秀だったので、
あの勢いについていけない自分がいたっていうのがまず一つと、だから全然就職活動をきちんとできなかったんですよね。
で、それでどうしようって思っていた4年生の夏前に、大学の私の所属していた研究室の先生が、
2年生の学生を30人か30何人か、大学初のメキシコ語学研修に連れて行くので、
もしお金を出してあげるから一緒に来ないかみたいなことを言われて、
多分それは学生の世話を私に丸投げしようという本談なんだけど、
実際その通りになって先生は研究室にそのまま行ってしまったんですけど、30人の学生を残して。
で、その時に行ったメキシコのハリスコ州ゴアダラハラっていう、あの当時はメキシコの第二の都市だったんですけど、
そこに行ったのがまず一つ大きな転機で、その当時だんだんと卒論書いたりとかする状態になってきて、
私はラッタンアメリカ地域研究というところに所属していたので、
そこで何かやろうとすると一時資料にスペイン語ができないと当たれないわけですよね。
でその一時資料に当たらないまま卒論書いていいのかなっていうのがすごいあって、
でじゃあ大学は卒業したら、
働きながらメキシコの大学に行って勉強するとかそういうことできないのかなと思って、
それをメキシコに夏休みの語学研修で行った時に、
いろいろとね、調査しようと思って、
で先生にお金をもらって30人の面倒を見ながら、
でみんなほら物をなくしたりとか、どっかで迷ったりとか病気になったりとか、
そういうのを世話をしながら、だからあの当時にすでに、
東南の子を連れて、東南にあった子を連れて検察局に行って、
スペイン語もできないのにそこで手続きやったりとかしていてすごく、
その後私そこの、その夏に出会った、
現地の日系の法事事務所さんにお仕事拾ってもらって、
そこに就職して10年いたんですけど、
で、あのなんていうか、そのもうすでに学生の夏の頃からそういうことをやっていて、
運命がこうだんだん決まってきてたっていうか、
だからそこの社長が、私がカバン持ちで先生とご飯に呼ばれて行った時に、
あなた法律事務所に興味ありませんか?今日本人の人探してるんです。
弁護士がメキシコ人で、日本人のお客さんとの間持つ人いないから、
でもスペイン語できませんけどって言ったら、
スペイン語はできなくてもできるようになるから、
気にしなくてもいい。
だからお家に帰って、日本に帰ってご両親と相談して連絡くださいみたいなこと言われて、
私は3日後にノートをビリビリって破ったような紙に履歴書を書いて、
事務所にそれを持ってって、
そしたら1回とにかくお家に帰って、
ご両親に説明してOKだったら来てくださいみたいなこと言われて、
社長がファックスとかですっごい大きい字で、
お嬢さん心配かもしれないけれども、私のものはちゃんとした会社なのでみたいなのを一筆書いてくれて、
それが我が家に届いて、
うちの母と父が、こういう字を書く人は悪い人じゃないと思うって言って、
いかしてくれたの。
それで3年で帰りますって、
大学院とかも一緒に行こうと思っていたから、働きながら。
だけどメキシコペソの支払いだったから、当然学校に行けるような学じゃなくて、
しかも仕事むちゃくちゃ大変で、
全然大学院に行く夢は行ってから2ヶ月後ぐらいに消えちゃったんだけど、
でも仕事がすごい楽しかったのと、
そこの法理事務所もとにかく社長と副社長が自分の子供みたいにして世話してくださったから、
10年間そこにいたんですよ。
それがそもそも就職活動に乗り切れずに、
流れ流れてメキシコに行って就職したっていう、そういう流れなんですけど。
すごい天気の夏だったんですね。
その時の出会いが就職にまでつながって、
FAXの字が素晴らしかったから。
素晴らしかったから。
A4一枚に50字入んないんじゃないかぐらい大きい字で書いてくるんだけど、
こういう字を書く人は悪い人じゃないと思うって両親が言ったの。
そのご両親の判断も素晴らしいというか、
笑っちゃうっていうか。
そもそも私はアメリカの高校に留学していて、
帰ってきて、結局受験にも1年遅れてるんですよ。
だから浪人しなきゃいけなくて、
休校ぐらい受けたのに、
最初どこも浮からなくって、
そしたらうちの父親が銀行口座にちょっとお金が入った通帳をポンって投げて起こして、
浮かんなかったらこれでメキシコでも行けばって言ってたのね。
だから運命的に、
だって別にうちの父親は多分メキシコっていうのを知ってたわけじゃなくて、
メキシコでもブラジルでもちょっと遠いところってイメージで行ってたと思うんですよ。
だけどメキシコでも行けばって言って、
そしたらその日に私が最終的に行った慶応からの合格数字が来たの。
それはそのまま入学金に回ってきたんだけど。
だからメキシコっていうのがすごい運命的にキーワードになっていて、
すごい偶然。
もちろんメキシコに就職することにしましたって帰って言ったら、
うちの両親は何が悲しくてあんなとこに行かなきゃいけないのか、
スペインじゃダメなのかとか言って、
なんでみんなテキーラ飲んでサボテンの人で寝て、
何かあったら川を渡ってアメリカに行くようなとこに行くのかみたいな、
すごいむちゃくちゃステレオタイプなことを言って反対されたんだけど、
っていうのは多分、
私の周りはみんな一流企業みたいなところにちゃんと就職活動して決まっていて、
ものすごい立派な大人になる道が開けていたから、
それがない子供に対してすごい不安だったんだとは思うんですけど、
なんかそういうのもあって、
でも結局その12月かなんかに、
その4年生の12月かなんかに、
まあとにかく私は行くんですみたいな、
ただちょっと心配だから、
半年間準備してから行きますって言って、
私、その1998年の3月に卒業なんだけど、
4月からは行かずに9月から行ったんですよ。
じゃあその期間はスペイン語をさらに磨きをかけていたとか、
というよりもなんか本当金銭的にもちょっと心配だったから、
バイトをしたりしてちょっとお金を貯めたり、
あとそのいわゆる準備、
社会人になる準備っていうのが自分の中で全くわからなかったから、
いろんな準備をして、
で、たまたま12月か1月かなんかに、
スペイン語弁論大会っていうのがあって、
あんまりもう4年生忙しいからそんなのスピーチなんかやりに行かないんだけど、
その時にまだフリーダ・カーロがそんなにメジャーじゃない時代で、
でも私はその壁画関係で、
メキシコの三大壁画家の一人の奥さんがフリーダ・カーロだったっていうのがあって、
フリーダ・カーロ、ものすごいハマって、
すごい卒論にしようかなぐらいの研究を自分でしてた時期があったの。
で、どうしてもこのフリーダ・カーロの話をしたいなと思って、
で、当時NHKのラジオ講座みたいなのとか、
ニュースとかでスペイン語ニュースみたいなのやってた素晴らしい先生が大学に来ていて、
その先生に全部検索してもらって完璧なスペイン語になったやつで、
しかもみんな暗記して弁論大会望んだのに私は丸読みして、
それで優勝したのね。
それで景品がメキシコ往復航空券だったの。
だから翌年の5月に1回会社にご挨拶行って、
で、アパート探したりとかそういうの5月に1回やって、それから9月に行ったんですよ。
でももともとそのゼミがラテンアメリカ研究?
そこのゼミに入ろうと思ったきっかけはどういったところにあるんですか?
たぶんやっぱりあの時ね、私たちの世代ってすごい花形先生がゼミを持ってたでしょ、竹中先生とか、
徳田先生とか、もう本当に世界最先端を行く先生たちが持ってて、
そこに軍団のようにして優秀な人たちがボンボンって入ってて、優秀な先輩がいて、
やっぱりあれについていけなかったっていう。
ラテンアメリカ研究会って、ほら冊子があったの覚えてる?
研究会の紹介をするすごく分厚い冊子があったの。
で、それの一番最後がラテンアメリカ研究会だったの。
で、メンバー4人しかいなかったの。
なるほど。
なんか選抜とかゼロで、もうウェルカムって感じでそのまま入って、先生も来たばっかりだったし、
先生自体がもう就職したときに、お昼時間に芝公園に行って、
こんな人生嫌だって思って3ヶ月で辞めちゃったっていう人が先生だったから、
でもケオの先生になったから、それは先生はご立派な方なんだけれども、
すごいね。
そういう雰囲気のすごい、自分のやりたいこととか、自分の意思にすごい忠実に生きる人たちの小さなグループみたいな、
だからすごい心地よくて、素晴らしかったのね。
なるほど。
ただまあ、私は優秀じゃなかったからね、まともな補足論は作らずにそのまま出てしまったんだけど。
でも今の話を聞くと、就職氷河期のこう、みんなでカーッて言っている就職活動だとか、
有名な竹中平蔵先生の心にバーって、掲載ゼミに入っている人たちとか、
そういった日本の空気になんとなく、ちょっと荷の足を踏んでしまう、リビーさんっていうのが、
それはなんか自分でも、
ちょっとついていけないっていうか、それもなんか嫌だからついていけないというよりも、
自尊心のレベルが低いっていうか、私には多分これは無理だと思うっていうすごい諦めっていうか、
メインストリームに乗っていくのは、私の能力としては、私は多分無理だと思うっていう、
自分の自己評価のゆえっていうか、
それとバランスをとった時に、それやりたいかっていう時に、多分やりたくないってすごいわかってるから、
それをあえてやるっていうのがどうかっていうのがあって、
なぜそういうふうになっていったかっていうと、私は高校がアメリカだったでしょ、
その時にカウンセラーの人に数学取るかって言われて、
私数学取らなきゃいけませんよねって言って、
そしたら向こうからなんでって言われて、
多分数学ってみんな取るし、取らなきゃいけないやつですよねって言われて、
数学好きなのって言われて、すっごい嫌いだし、すっごく日本でも成績悪かったって言ったら、
じゃあなんで取るのって言われて、取らなくてよかったの。
それで、人生にはそういうチョイスがあるっていうのをそこで学んでしまったから、
それで後でなんか聞いたんだけど、
マッキンゼーの
あの当時偉い人で、
その人がスパイク、
すごい不得意な分野っていうのは自分のスパイクにはならないって言っていて、
ある程度人並みにできるような努力をしたら人並みにはいくかもしれないけど、
それが売りですっていう人生にはならないみたいなことを言ってたっていうのがあって、
そういうところにエネルギーを割いてしまうのは、
すごいエネルギーの使い方として正しくないっていうのがあったから、
だからメキシコに行ったっていうのはその辺のことも考えて、
スパイクになるとこはどこかっていうのを考えたら、
まだスパイクになってないんだけど、いく段階では。
だけどそれは日本で働くことではないっていうのがすごい分かっていたっていうか、
多分人並みにはね、なんかなったかもしれないけど。
でもそれはすごくキーポイントだなと思うのは、
スパイクとなる部分を大事にする文化と、
すべてオールラウンドでできる人たちの文化っていうこの違い。
アメリカではやっぱりスパイクと自分の長所っていうか、
自分の基盤というか、それを育てていくカルチャーで、
日本はもう国語も数学もすべてオールラウンドでできないといけないっていうか、
アメリカの高校がすごいキーになってるっていうのは、
すっごいちっちゃい学校で、
ものすごい優秀な先生たちがいるどいなかの学校だったのね。
公立なのに先生みんなマスター持ってるとかちょっとありえないレベルの高い学校で、
今でもみんな同級生仲良しでっていうのは30人しかいないわけ、同級生が。
その時にアートの先生、大体クラスで一番多かったら12人しかいないっていうレベルだったから、
ものすごいきめの細かい教育をしてくれて、
その時によくできたこととか好きでうまくできることっていうのに対して、
もうなんかすごい晴れるやーみたいな感じで、
すごいなんかセレブレートするみたいな感じのところだったから、
そのままなんか私どうせ残れないのに、
州立大学のなんか美術芸術部門かなんかのスカラシップもらったりとかしてて、
なんかそういう好きなことやって、
それはできて偉いっていう、なんか偉いねあんたっていう感じのことって言われたことなかったから、
なんかそういう生き方もあるっていうオプションをなんか見てみちゃったっていうのはすごいある。
だからSFC行ったのはすごい良かったっていうのは、
未来から留学生とか行ってチェアホヤされて褒めて育てるみたいな。
英語のクラス、私雪と一緒だった英語のクラスだって、
本来私トイックの点数足りなかったのね。
だけどインタビュー行って、
私は絶対に下のクラスの上の方にいるよりは、
上のクラスの下から入り上がった方が伸びるタイプだから、
私は上に入れるべきだと思うって言いに行って、
上に入れてもらったの。
そんなことあったの?知らなかった。
だから私よりもレベルの高い人しかいないあのクラスに入ってたの。
確かに優秀だったよね。
優秀だった、優秀だった、本当に。みなさんご立派。
だってあのグループの中で帰国師匠じゃなかったのは、
4人ぐらいしかいないの、あのクラスの中に。
確かに確かに、エビもそうだよね。
私とか、あと男の子2人仲良かった子とか、
あともう1人かな、下手すると女の子は私しかいなかったかもしれない。
みんな3年とか5年とか、みんな住んでて、
みんな英語がネイティブみたいな、
なんで英語取ってんですかっていう感じの子たちばっかりね。
だったから。
だからあそこでやっぱりディベートのクラスとか、
ディスカッションっていうのを覚えたのは、
すごい良かったのよ、あそこで。
後々役に立ってるのはすごいある。
だけどメキシコのディスカッションっていうのは、
アメリカ人のやるディスカッションとはまたレベルが違うから、
仕事をやり始めてからは、
日本人で良かったなって思うことはすごい多かった。
アメリカ人だともうぶつかっちゃってアウトみたいな。
なるほど、なるほど。
根回しの技とか、
メキシコってすごいそういうとこがあるから。
そうなんだ、
メキシコに行ってから、
その法律事務所で働くことになって、
そこからはなんか、
自分が思い描いていたメキシコのイメージと、
実際働いてみたときのギャップとか、
やっぱりここに、私ここに来て良かったみたいな、
そういう感じはあった?
なんかもう怒涛のように過ぎていったから、
思い返してリフレクションするっていうか、
思い返してこうだったなみたいなことをする暇がまずなかったっていうか、
実際10年働いて辞めた理由っていうのを社長に言いに行ったのが、
私このままだと、
深く考える、人生について深く考えることを一切できないまま、
歯車のように働き詰めで、
お嫁に行けないと思いますって言ったら、
そうだねって言って辞めさせてくれたの。
すごい。
本当に忙しくって、
最初に働き出したときは本当に本当に、
日本でいうところの仕事を完結させるとか、
そういうことを平気でやらない人たちがいっぱいいるっていうのとか、
あとやっぱ法律事務所だと、
すごく多いのが小さい労働訴訟とか、
なんか朝廷裁判所って言って、
大きい最高裁とかあんな立派なとこじゃなくって、
朝廷裁判所より裁判官なんてほんとTシャツで来るみたいな感じで、
事務机のところで、