1. 世界から見る日本
  2. ⑦自分らしくいられる場所を求..
2025-09-18 29:02

⑦自分らしくいられる場所を求めて

「なんとなく、ここではない」と感じるあなたへ。就職氷河期の日本を飛び出し、メキシコへ渡った一人の女性の物語。


『世界から見る日本』初インタビュー回。

グローバル社会で「自分らしくいられる場所はどこ?」と感じるあなたに、インターカルチュラルファシリテーターのリビーさんへのインタビュー回。


大学卒業わずか半年後。就職氷河期の真っ只中、周囲の優秀な同級生たちに囲まれながら、「主流」の就職活動や、満員電車に揺られて通勤する未来をどうしても想像できなかったという「なんとなく、ここではない」という感覚が、彼女の人生の大きな転換点でした。そして運命的な出会いを経てスペイン語もままらないまま、メキシコへ。アメリカで学んだ「自分の強み(スパイク)を育てる」価値観を胸に、メキシコの社会の複雑な現実と向き合いながら、戦略的思考を培っていきます。「自分らしくいられる場所」を探している全ての方に聞いてほしい

多くのリスナーに共感と、自分自身のキャリアや生き方を見つめ直すきっかけを与えるエピソードです。


【ゲスト紹介】今日ご紹介するのは、インターカルチャル・ファシリテーターのリビーさんです。

東京生まれで慶應義塾大学総合政策学部を卒業された後、

なんと15年以上メキシコで暮らし、2016年からはスペインを拠点に活動されています。日本、メキシコ、アメリカ、スペインといった異なる文化に深く関わってきた経験をいかし、異文化ビジネスコミュニケーション研修を行ったり、ビジネス開発のサポート及びトヨタ生産方式を専門とする工業通訳としても幅広く活躍中です。


特に、メキシコ・チアパス州のコーヒー生産者を支援するプロジェクトに携わり、現地の人たちと一緒に改善活動や事業づくりを支援したのは大きな実績の一つです。今もコーヒー生産者の協同組合で技術アドバイザーを務めるなど、世界中の人々とチームを組んで成果を出すことに情熱を注いでいます。さらに、日本語はもちろん、スペイン語と英語も流暢に操り、ハリスコ州最高裁に認定された公認の翻訳者・通訳者としても活躍。国境を越えて活躍する、グローバルな方です。

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・『世界から見る日本』は、世界から見た日本はどう映るのか、他国はどうなのかといったことを比較しながら、より良い日本へのヒントを探り、世界から見る日本といった視点をリスナーの方々と共有する番組です。


・ナビゲーター: ゆき 海外在住歴30年以上、現在オランダ在住の日本人コンサルタント


『世界から見る日本』という視点が気になる方、是非こちらを聞いて戴けたら嬉しいです。

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番組が気に入って戴けた方は、是非


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サマリー

リビィさんの異文化体験やキャリアについて語り、日本を離れてメキシコへ行くきっかけが描かれています。また、彼女の多文化主義や国際的なビジネスコミュニケーションの活動に焦点が当てられ、リスナーに新たな視点を提供しています。このエピソードでは、メキシコへ移住することになった背景や、個人のキャリア選択についての考え方が語られています。アメリカでの教育経験と日本の就職文化の違いが強調され、自由な生き方の重要性が訴えられています。リビィさんがメキシコへの移住を決意した背景には、自身のアイデンティティや仕事に対する価値観の模索があります。彼女はアメリカで学んだ経験をもとに、日本ではなくメキシコで自分を発揮することを選びました。

日本からの出発
世界から見る日本へようこそ。
グローバル社会と言われている今、世界各国との距離が近くなったように感じる一方で、
皆さんは日本が世界にどう見られていると思いますか?
この番組では、世界から見た日本はどう映るのか、各国はどうなのか、
そういったことを比較しながら、より良い日本へのヒントを探り、
世界から見る日本といった視点をリスナーの方々と共有していきます。
番組のお相手は、海外在住歴30年以上、現在オランダに住み、
日本とオランダを結ぶコンサルタント業を営んでいる私、ゆきです。
本日は、世界から見る日本、初対談会としてゲストをお招きしております。
ゲストは、リビィさんです。
リビィさん、こんにちは。
こんにちは。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
まず、私の方からリビィさんのプロフィールを紹介したいと思います。
今日ご紹介するのは、インターカルチャルファシリテーターのリビィさんです。
東京生まれで、慶応義塾大学総合政策学部を卒業された後、
なんと15年以上メキシコで暮らし、2016年からはスペインを拠点に活動されています。
日本、メキシコ、アメリカ、スペインといった異なる文化に深く関わってきた経験を生かし、
メキシコへの旅
異文化ビジネスコミュニケーション研修を行ったり、
ビジネス開発のサポート、およびトヨタ生産方式を専門とする工業通訳としても幅広く活躍中です。
特に、メキシコ・チアパス州のコーヒー生産者を支援するプロジェクトに携わり、
現地の人たちと一緒に改善活動や事業づくりを支援したのは大きな実績の一つです。
今もコーヒー生産者の共同組合で技術アドバイザーを務めるなど、
世界中の人々とチームを組んで成果を出すことに情熱を注いでいます。
さらに日本語はもちろん、スペイン語と英語も流暢に操り、
ハリスコ州最高裁に認定された公認の翻訳者、通訳者としても活躍、国境を越えて活躍するとてもグローバルな方です。
はい、それではリビーさん、まず最初の質問として、リビーさんが日本を離れたきっかけについてお話ししてください。
はい、私が日本を離れたのは、大学を卒業した半年後なんですね。
それはなぜかというと、やっぱりあの当時、私どもって基本的に世代的に氷河期の時代じゃないですか。
で、あの時って就職活動ってものすごくハードに3年生終わりぐらいからやってたでしょ。
なんかそれを見て、私はあれについていけなかった。
周りにいた同級生っていうのがものすごく優秀だったので、
あの勢いについていけない自分がいたっていうのがまず一つと、だから全然就職活動をきちんとできなかったんですよね。
で、それでどうしようって思っていた4年生の夏前に、大学の私の所属していた研究室の先生が、
2年生の学生を30人か30何人か、大学初のメキシコ語学研修に連れて行くので、
もしお金を出してあげるから一緒に来ないかみたいなことを言われて、
多分それは学生の世話を私に丸投げしようという本談なんだけど、
実際その通りになって先生は研究室にそのまま行ってしまったんですけど、30人の学生を残して。
で、その時に行ったメキシコのハリスコ州ゴアダラハラっていう、あの当時はメキシコの第二の都市だったんですけど、
そこに行ったのがまず一つ大きな転機で、その当時だんだんと卒論書いたりとかする状態になってきて、
私はラッタンアメリカ地域研究というところに所属していたので、
そこで何かやろうとすると一時資料にスペイン語ができないと当たれないわけですよね。
でその一時資料に当たらないまま卒論書いていいのかなっていうのがすごいあって、
でじゃあ大学は卒業したら、
働きながらメキシコの大学に行って勉強するとかそういうことできないのかなと思って、
それをメキシコに夏休みの語学研修で行った時に、
いろいろとね、調査しようと思って、
で先生にお金をもらって30人の面倒を見ながら、
でみんなほら物をなくしたりとか、どっかで迷ったりとか病気になったりとか、
そういうのを世話をしながら、だからあの当時にすでに、
東南の子を連れて、東南にあった子を連れて検察局に行って、
スペイン語もできないのにそこで手続きやったりとかしていてすごく、
その後私そこの、その夏に出会った、
現地の日系の法事事務所さんにお仕事拾ってもらって、
そこに就職して10年いたんですけど、
で、あのなんていうか、そのもうすでに学生の夏の頃からそういうことをやっていて、
運命がこうだんだん決まってきてたっていうか、
だからそこの社長が、私がカバン持ちで先生とご飯に呼ばれて行った時に、
あなた法律事務所に興味ありませんか?今日本人の人探してるんです。
弁護士がメキシコ人で、日本人のお客さんとの間持つ人いないから、
でもスペイン語できませんけどって言ったら、
スペイン語はできなくてもできるようになるから、
気にしなくてもいい。
だからお家に帰って、日本に帰ってご両親と相談して連絡くださいみたいなこと言われて、
私は3日後にノートをビリビリって破ったような紙に履歴書を書いて、
事務所にそれを持ってって、
そしたら1回とにかくお家に帰って、
ご両親に説明してOKだったら来てくださいみたいなこと言われて、
社長がファックスとかですっごい大きい字で、
お嬢さん心配かもしれないけれども、私のものはちゃんとした会社なのでみたいなのを一筆書いてくれて、
それが我が家に届いて、
うちの母と父が、こういう字を書く人は悪い人じゃないと思うって言って、
いかしてくれたの。
それで3年で帰りますって、
大学院とかも一緒に行こうと思っていたから、働きながら。
だけどメキシコペソの支払いだったから、当然学校に行けるような学じゃなくて、
しかも仕事むちゃくちゃ大変で、
全然大学院に行く夢は行ってから2ヶ月後ぐらいに消えちゃったんだけど、
文化とキャリアの融合
でも仕事がすごい楽しかったのと、
そこの法理事務所もとにかく社長と副社長が自分の子供みたいにして世話してくださったから、
10年間そこにいたんですよ。
それがそもそも就職活動に乗り切れずに、
流れ流れてメキシコに行って就職したっていう、そういう流れなんですけど。
すごい天気の夏だったんですね。
その時の出会いが就職にまでつながって、
FAXの字が素晴らしかったから。
素晴らしかったから。
A4一枚に50字入んないんじゃないかぐらい大きい字で書いてくるんだけど、
こういう字を書く人は悪い人じゃないと思うって両親が言ったの。
そのご両親の判断も素晴らしいというか、
笑っちゃうっていうか。
そもそも私はアメリカの高校に留学していて、
帰ってきて、結局受験にも1年遅れてるんですよ。
だから浪人しなきゃいけなくて、
休校ぐらい受けたのに、
最初どこも浮からなくって、
そしたらうちの父親が銀行口座にちょっとお金が入った通帳をポンって投げて起こして、
浮かんなかったらこれでメキシコでも行けばって言ってたのね。
だから運命的に、
だって別にうちの父親は多分メキシコっていうのを知ってたわけじゃなくて、
メキシコでもブラジルでもちょっと遠いところってイメージで行ってたと思うんですよ。
だけどメキシコでも行けばって言って、
そしたらその日に私が最終的に行った慶応からの合格数字が来たの。
それはそのまま入学金に回ってきたんだけど。
だからメキシコっていうのがすごい運命的にキーワードになっていて、
すごい偶然。
もちろんメキシコに就職することにしましたって帰って言ったら、
うちの両親は何が悲しくてあんなとこに行かなきゃいけないのか、
スペインじゃダメなのかとか言って、
なんでみんなテキーラ飲んでサボテンの人で寝て、
何かあったら川を渡ってアメリカに行くようなとこに行くのかみたいな、
すごいむちゃくちゃステレオタイプなことを言って反対されたんだけど、
っていうのは多分、
私の周りはみんな一流企業みたいなところにちゃんと就職活動して決まっていて、
ものすごい立派な大人になる道が開けていたから、
それがない子供に対してすごい不安だったんだとは思うんですけど、
なんかそういうのもあって、
でも結局その12月かなんかに、
その4年生の12月かなんかに、
まあとにかく私は行くんですみたいな、
ただちょっと心配だから、
半年間準備してから行きますって言って、
私、その1998年の3月に卒業なんだけど、
4月からは行かずに9月から行ったんですよ。
じゃあその期間はスペイン語をさらに磨きをかけていたとか、
というよりもなんか本当金銭的にもちょっと心配だったから、
バイトをしたりしてちょっとお金を貯めたり、
あとそのいわゆる準備、
社会人になる準備っていうのが自分の中で全くわからなかったから、
いろんな準備をして、
で、たまたま12月か1月かなんかに、
スペイン語弁論大会っていうのがあって、
あんまりもう4年生忙しいからそんなのスピーチなんかやりに行かないんだけど、
その時にまだフリーダ・カーロがそんなにメジャーじゃない時代で、
でも私はその壁画関係で、
メキシコの三大壁画家の一人の奥さんがフリーダ・カーロだったっていうのがあって、
フリーダ・カーロ、ものすごいハマって、
すごい卒論にしようかなぐらいの研究を自分でしてた時期があったの。
で、どうしてもこのフリーダ・カーロの話をしたいなと思って、
で、当時NHKのラジオ講座みたいなのとか、
ニュースとかでスペイン語ニュースみたいなのやってた素晴らしい先生が大学に来ていて、
その先生に全部検索してもらって完璧なスペイン語になったやつで、
しかもみんな暗記して弁論大会望んだのに私は丸読みして、
それで優勝したのね。
それで景品がメキシコ往復航空券だったの。
だから翌年の5月に1回会社にご挨拶行って、
で、アパート探したりとかそういうの5月に1回やって、それから9月に行ったんですよ。
メキシコへの移住のきっかけ
だから日本を離れた理由っていうのは、
私メインの、私ドリブンの話ではなくて、
状況が状況を呼んで、コンセクエンスっていうか結果的にそうなったっていう感じ。
でもなんかすごいお話を聞いてると、
メキシコから引き寄せられているっていう感じがするよね。
もうなんか自分ですごい、どうしてもメキシコに行きたいんですとかじゃなくて、
そこに合致したのがメキシコで、だから行った。
あとやっぱり東京でお仕事したりとかすると、
満員電車に1日合計3時間とか乗らなきゃいけないでしょ。
ああいうのは嫌だなっていうのはどっかにはあって、
でも満員電車に乗って仕事するのが嫌だったんですっていう理由でメキシコに来ましたって言うと、
ちょっとすっごいふざけた人みたいだからあんまり言わないようにしてるんだけど。
結構そういうファクターがいろいろあって、
日本で就職するっていうのはどうしてもうまく乗り切れなかった。
だからメキシコってちょっとああいう自由風の明らかんとしたイメージがあるから、
結構みんな来て、人生探しじゃないけど、
どうしてもメキシコに惹かれてきましたみたいな感じだったけど、
私は全ての人生が結果論で動いてる感じなので、
その時の。
だからメキシコはそういう形で行ったっていう感じ。
ゼミと就職活動の思い出
でももともとそのゼミがラテンアメリカ研究?
そこのゼミに入ろうと思ったきっかけはどういったところにあるんですか?
たぶんやっぱりあの時ね、私たちの世代ってすごい花形先生がゼミを持ってたでしょ、竹中先生とか、
徳田先生とか、もう本当に世界最先端を行く先生たちが持ってて、
そこに軍団のようにして優秀な人たちがボンボンって入ってて、優秀な先輩がいて、
やっぱりあれについていけなかったっていう。
ラテンアメリカ研究会って、ほら冊子があったの覚えてる?
研究会の紹介をするすごく分厚い冊子があったの。
で、それの一番最後がラテンアメリカ研究会だったの。
で、メンバー4人しかいなかったの。
なるほど。
なんか選抜とかゼロで、もうウェルカムって感じでそのまま入って、先生も来たばっかりだったし、
先生自体がもう就職したときに、お昼時間に芝公園に行って、
こんな人生嫌だって思って3ヶ月で辞めちゃったっていう人が先生だったから、
でもケオの先生になったから、それは先生はご立派な方なんだけれども、
すごいね。
そういう雰囲気のすごい、自分のやりたいこととか、自分の意思にすごい忠実に生きる人たちの小さなグループみたいな、
だからすごい心地よくて、素晴らしかったのね。
なるほど。
ただまあ、私は優秀じゃなかったからね、まともな補足論は作らずにそのまま出てしまったんだけど。
でも今の話を聞くと、就職氷河期のこう、みんなでカーッて言っている就職活動だとか、
有名な竹中平蔵先生の心にバーって、掲載ゼミに入っている人たちとか、
そういった日本の空気になんとなく、ちょっと荷の足を踏んでしまう、リビーさんっていうのが、
それはなんか自分でも、
ちょっとついていけないっていうか、それもなんか嫌だからついていけないというよりも、
自尊心のレベルが低いっていうか、私には多分これは無理だと思うっていうすごい諦めっていうか、
メインストリームに乗っていくのは、私の能力としては、私は多分無理だと思うっていう、
自分の自己評価のゆえっていうか、
それとバランスをとった時に、それやりたいかっていう時に、多分やりたくないってすごいわかってるから、
それをあえてやるっていうのがどうかっていうのがあって、
なぜそういうふうになっていったかっていうと、私は高校がアメリカだったでしょ、
その時にカウンセラーの人に数学取るかって言われて、
私数学取らなきゃいけませんよねって言って、
そしたら向こうからなんでって言われて、
多分数学ってみんな取るし、取らなきゃいけないやつですよねって言われて、
数学好きなのって言われて、すっごい嫌いだし、すっごく日本でも成績悪かったって言ったら、
じゃあなんで取るのって言われて、取らなくてよかったの。
それで、人生にはそういうチョイスがあるっていうのをそこで学んでしまったから、
それで後でなんか聞いたんだけど、
マッキンゼーの
あの当時偉い人で、
その人がスパイク、
すごい不得意な分野っていうのは自分のスパイクにはならないって言っていて、
ある程度人並みにできるような努力をしたら人並みにはいくかもしれないけど、
それが売りですっていう人生にはならないみたいなことを言ってたっていうのがあって、
そういうところにエネルギーを割いてしまうのは、
すごいエネルギーの使い方として正しくないっていうのがあったから、
だからメキシコに行ったっていうのはその辺のことも考えて、
スパイクになるとこはどこかっていうのを考えたら、
まだスパイクになってないんだけど、いく段階では。
だけどそれは日本で働くことではないっていうのがすごい分かっていたっていうか、
多分人並みにはね、なんかなったかもしれないけど。
でもそれはすごくキーポイントだなと思うのは、
アメリカでの教育とキャリア形成
スパイクとなる部分を大事にする文化と、
すべてオールラウンドでできる人たちの文化っていうこの違い。
アメリカではやっぱりスパイクと自分の長所っていうか、
自分の基盤というか、それを育てていくカルチャーで、
日本はもう国語も数学もすべてオールラウンドでできないといけないっていうか、
アメリカの高校がすごいキーになってるっていうのは、
すっごいちっちゃい学校で、
ものすごい優秀な先生たちがいるどいなかの学校だったのね。
公立なのに先生みんなマスター持ってるとかちょっとありえないレベルの高い学校で、
今でもみんな同級生仲良しでっていうのは30人しかいないわけ、同級生が。
その時にアートの先生、大体クラスで一番多かったら12人しかいないっていうレベルだったから、
ものすごいきめの細かい教育をしてくれて、
その時によくできたこととか好きでうまくできることっていうのに対して、
もうなんかすごい晴れるやーみたいな感じで、
すごいなんかセレブレートするみたいな感じのところだったから、
そのままなんか私どうせ残れないのに、
州立大学のなんか美術芸術部門かなんかのスカラシップもらったりとかしてて、
なんかそういう好きなことやって、
それはできて偉いっていう、なんか偉いねあんたっていう感じのことって言われたことなかったから、
なんかそういう生き方もあるっていうオプションをなんか見てみちゃったっていうのはすごいある。
だからSFC行ったのはすごい良かったっていうのは、
未来から留学生とか行ってチェアホヤされて褒めて育てるみたいな。
英語のクラス、私雪と一緒だった英語のクラスだって、
本来私トイックの点数足りなかったのね。
だけどインタビュー行って、
私は絶対に下のクラスの上の方にいるよりは、
上のクラスの下から入り上がった方が伸びるタイプだから、
私は上に入れるべきだと思うって言いに行って、
上に入れてもらったの。
そんなことあったの?知らなかった。
だから私よりもレベルの高い人しかいないあのクラスに入ってたの。
確かに優秀だったよね。
優秀だった、優秀だった、本当に。みなさんご立派。
だってあのグループの中で帰国師匠じゃなかったのは、
4人ぐらいしかいないの、あのクラスの中に。
確かに確かに、エビもそうだよね。
私とか、あと男の子2人仲良かった子とか、
あともう1人かな、下手すると女の子は私しかいなかったかもしれない。
みんな3年とか5年とか、みんな住んでて、
みんな英語がネイティブみたいな、
なんで英語取ってんですかっていう感じの子たちばっかりね。
だったから。
だからあそこでやっぱりディベートのクラスとか、
ディスカッションっていうのを覚えたのは、
すごい良かったのよ、あそこで。
後々役に立ってるのはすごいある。
だけどメキシコのディスカッションっていうのは、
アメリカ人のやるディスカッションとはまたレベルが違うから、
仕事をやり始めてからは、
日本人で良かったなって思うことはすごい多かった。
アメリカ人だともうぶつかっちゃってアウトみたいな。
なるほど、なるほど。
根回しの技とか、
メキシコってすごいそういうとこがあるから。
そうなんだ、
メキシコに行ってから、
その法律事務所で働くことになって、
そこからはなんか、
自分が思い描いていたメキシコのイメージと、
実際働いてみたときのギャップとか、
やっぱりここに、私ここに来て良かったみたいな、
そういう感じはあった?
なんかもう怒涛のように過ぎていったから、
思い返してリフレクションするっていうか、
思い返してこうだったなみたいなことをする暇がまずなかったっていうか、
実際10年働いて辞めた理由っていうのを社長に言いに行ったのが、
私このままだと、
深く考える、人生について深く考えることを一切できないまま、
歯車のように働き詰めで、
お嫁に行けないと思いますって言ったら、
そうだねって言って辞めさせてくれたの。
すごい。
本当に忙しくって、
最初に働き出したときは本当に本当に、
日本でいうところの仕事を完結させるとか、
そういうことを平気でやらない人たちがいっぱいいるっていうのとか、
あとやっぱ法律事務所だと、
すごく多いのが小さい労働訴訟とか、
なんか朝廷裁判所って言って、
大きい最高裁とかあんな立派なとこじゃなくって、
朝廷裁判所より裁判官なんてほんとTシャツで来るみたいな感じで、
事務机のところで、
メキシコへの移住の背景
はいそこ座ってみたいな感じのところ、
ああいうところでお手伝いさん、
辞めさせられたお手伝いさんの、
不法解雇で訴えられた側の弁護をするみたいなのに行ったりとか、
それの通訳に行ったりとか、
サブコンのサブコンのサブコンみたいなところから、
日本の大企業さんが、
不法解雇されたって訴えられて、
それで調整しなきゃいけないとか、
ああいう、
本当に正義とは、
正義はどこにあるんですかっていう感じの、
ことをいっぱい見てきて、
すごい、
メキシコの、
いろんな仕組み、
いろんな社会的構築みたいなのの、
歪んでるけど前に進むっていう、
ああいうすごい複雑なところっていうのを見て、
しまったっていうか、見てきたっていうか、
だからすごいメキシコ大好きみたいなロマンチックな、
気持ちっていうのは結構早い段階で到達されていて、
だからすごい仕事っていうこと、
だからすごい生産性とか、
成果とかそういうものに関して、
いかにどういうふうにして回していけば、
できるのかみたいな、
そういうすごい戦略的な、
頭の作りになっていったっていうのはすごいあって、
だから結構、
メキシコの、
ウヒーみたいな感じの、
フィエスタみたいな感じの、
明るいところっていうのも見てるんだけど、
それの反面、
それってすごい表面的なところだから、
それの裏みたいな、
いかに、
勤勉な人たちによって、
国が支えられていて、
そして上の方で、
それをチューチューやってる人たちがいっぱいいて、
みたいな、
そういう仕組みみたいなのも見たし、
あとそれでない、
そういうシステムの中で、
うまく生きていかないと、
いつまで経っても、
ぐるぐる同じところを回るような、
人生しか送れないみたいな、
そういうところもすごい見えてきて、
それで、
15年ぐらい経った時にはもう、
ちょっと私はここに一生住みたいんですか?
っていう疑問がすごい湧いてきたっていうか、
だけど、
メキシコに行った時はすごい、
楽しみで楽しみで、
みたいなそういう感じよりも、
仕事をしなければいけないから、
メキシコ人として立派な仕事人になるんだ、
みたいな感じで、
結構そんなに、
それほど浮ついてなかったっていうか、
行った時に。
なるほど。
やっぱりメキシコに行ったら行ったで、
特に弁護士事務所で働く経験が、
メキシコをさまざまな角度から見る、
ということにつながったわけですね。
はい。
では、お時間が来てしまったので、
この対談1段目、
日本を離れたきっかけは、
これで終了したいと思います。
自分を発揮する挑戦
はい。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
さて、今回のエピソードはいかがだったでしょうか。
リビーさんは、大学時代の大切な友人の一人です。
改めて彼女の話を聞いた今回は、
私にとっても多くの気づきがありました。
彼女は自身の経験を、
自分メインで、
つまりは、
自らメキシコを目指して、
日本を離れたわけではなかった、
というお話をされました。
しかし、彼女の中で、
就職氷河期での就職活動やら、
満員電車に揺られて、
最近する自分の姿が想像できなかった、
つまりは、
なんとなくここではない、
という自分の感覚に忠実である、
ということがキーポイントの一つだったと思います。
加えて、自分のスパイクを祝う価値観、
つまりは、
自分の得意分野を育てる文化を、
アメリカで学んだ経験から、
日本ではなく、
メキシコで自分のスパイクを発揮するべく、
一歩を踏み出せたのは、
リビーさんが自分をよく理解していたと同時に、
違う世界へ飛び込むことに躊躇せず、
挑戦する前向きな姿勢があったからだと思いました。
リビーさんは自分では、
周りにいた優秀な同級生のように、
日本の大企業に就職して、
日本にやっていく自信はなかった、
というようなことを話す一方、
その国の言語も話せない、
メキシコに行くという、
一般人から見れば、
かなりハードルが高いことをやっていくことに関しては、
自分の力を信じることができた、
という対比がすごく面白く印象に残りました。
次回は、リビーさんのメキシコ時代から、
スペインへの変遷をテーマに、
対談を続けたいと思います。
番組が気に入っていただけた方は、
ぜひ番組のフォロー、
および概要欄にあるフォームより、
感想や質問をお待ちしております。
お相手はオランダに住み、
日本とオランダを結ぶコンサルタント業を営んでいる、
ユキでした。
それでは、次回木曜日にまたお待ちしております。
29:02

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